2011年5月の日誌
| 前々月 | 前月 | 翌月 | 翌々月 |




5 月 30 日 (月)  



綱宗公遠年忌法要

6月4(土)午前10時から 善應殿で 301遠年忌追悼法要を執り行います。ご臨席頂きたい。伊達家当主 伊達泰宗。
以上内容のご案内を頂きました。

今回の震災で、善應殿前の土留・石垣は崩落し、供養石灯籠は転倒・散乱し、足の踏み場も無いような状態となり、果たして法要が執り行われるか 心配していました。

(財)瑞鳳殿職員談
復旧工事中ですが、法要参列者は限られた人達であり、安全は確保出来ます。
倒れた石灯籠には 各部位毎に付番表示しており、被災前の写真を石匠に渡しており 正確に復旧に努めている様子を 見て頂く絶好の機会と考えています。

妙雲廟界は 立入はできません。墓石の修正は 伝統工法になるか 更に検討中です。
以上



5 月 29 日 (日)  



朝 大雨。羽田・成田は大雨で 政府専用機も離着陸出来ないと報じているのに、それでもガイドに行くのかと呆れられる。

朝イチは 今週も災害復旧応援隊風 作業服の人が連続しました。

大雨故、拝殿に待機しガイドをする。通常の涅槃門からのガイドが「定食」とすれば、今日は「一品料理」型かも。
本殿でガイドをして、資料館を出た方に 涅槃門の透かし彫りの彫刻を説明する順が本日のコースであった。

24日の供花 健在。強い香りです。百合・菊 ・・・・和洋の色々な高価な花の香りが混ざり合い 香っています。

竹林 通年 新鮮な緑の葉色で楽しませていました。先週あたりから黄色くなり 今週は茶色になりました。記憶にありません。12年に1回の現象か 今暫く 観察を続けます。

政宗公376遠年忌法要の参拝者に配られた栞「慶長三陸地震と仙台藩」を、「24日はお互いに忙しかったので 今日まで保存しておきました」とW学芸員から頂きました。

A4版表裏1枚ですが、興味深い内容ばかりです。サワリを紹介します。

1.千貫松
 1611(慶長16)年の慶長三陸地震の際、家康に政宗公が献上する初鱈を獲りにいった家臣・漁師の船が、海岸から1里(約4k)内陸 標高180mk千貫松迄流された。 航路標識として値千貫にあたる松と言われていた所です。

2.伊達治家記録
 この慶長三陸地震の際から 翌年10月迄 ほぼ1ケ年が伊達治家記録に記録されず 空白の1ケ年となっている。空白は、受けた衝撃と被害の大きさを物語るようです。

3.起死回生の策
 未曾有の危機に対しての策 荒地の起返(アレチノオキガエシ)と開墾の奨励。これが伊達家100万石に繋がるのです。

・・・・・・

大災害からの復興は、政宗公の「民安國泰」の理念のもと。優れた家臣と歴史に名の残らない人々の血のにじむような努力と献身によって達成された
とまとめています。
詳しいくは 瑞鳳殿を参拝され 券売所窓口でお尋ねください。

「民安國泰」は、 慶長6(1601)年12月、伊達政宗公は、広瀬川に大橋を架橋の際 擬宝珠(斎藤報恩会 蔵)に刻みました。
「仙人橋下 河水千年 民安国泰 孰与尭天」
(広瀬川の流れが未来永劫に続くように、仙台の民も国も安泰であれ。中国の永遠の時代に比較できるほどに)。
政宗公は理想の国づくりを目指し、民とともに関わっていく抱負と夢を詠んだのです。

本日の河北新報付録「ひまわりクラブ」歴史講座の1頁に 「慶長津波は500m東の水田まで、今回もその近くまで押し寄せた」と 仙台平野と大津波襲来の歴史を 非常に読みやすく 石澤友隆氏が書かれています。

歴史を学んだ人が警告を発していました。しかし 聞いたら 理解し 行動しなければ 跡の祭り。親父の意見と冷酒は後で効く  です。

未確認非公式情報では 地震パネル展に引き続き 大講演会が計画されている との事。主催はどちらか 是非実現を期待しています。




5 月 28 日 (土)  



感仙殿の涅槃門

感仙殿涅槃門の遺稿と言われる門を27日 慈雲寺(多賀城市南宮)にて見学しました。

そもそも、寛文年間 感仙殿の涅槃門であった。善應殿完成〔享保元(1715)年3月20日後、享保9(1724)年5月3日〔感仙殿唐門失火焼失〕以前に 移転・転用されたものです。理由は定かでありません。明治10(1877)年から12年にかけて、慈雲寺に移転したものです。

慈雲寺本堂が位置変更・新築され それに伴い 遺稿と言われる門も位置変更し、且つ 化粧直しされていました。以前に見学した際と様相は一変しています。

感仙殿の廟門は 当初四脚門で、後、冠木門に変化し、当初の四脚門が善應殿も門となり、四脚門は涅槃門と称されました。

この様にいてん・変化した門の屋根、柱、扉、桟、金物、彫刻、家紋、頭貫木鼻、蕪懸魚の構造等が どれ程 引き継がれ 保存・残存しているか 興味のあるところです。
鯱瓦は別物で、落下破損したので 小さくなったが 示すいみから現在の鯱瓦を乗せたと 和尚は語っていました。

場の構造等は、〔「経ケ峯」仙台市文化財調査報告書第22集 昭和55年3月仙台市教育委員会〕に 詳細に記録されています。 
次回 報告書を持参し検証したいものです。

国・県・市から文化財と指定されていなく、所有者のお寺さまの一存で全てを出来ます。残して・化粧して は大変 結構な事です。出来る限り昔日の姿に復元したいものです。多賀城市教育委員会の熱意は 低いと感じます。4代綱村公正室仙姫の御霊屋「静寂殿」の唐門は、学術調査・国費投入修復・保存されています。比較するに拙速・低温と感じました。


るーぷるバス

循環観光バスは、震災以後 仙台城本丸跡に登っていませんでした。本日から 博物館→東北大学工学部→本丸バス駐車場→県美術館のコースで運行を再開した旨 Uさんから知らせがありまし。

運行距離の延長でCO2の発生量が増大するでしょう。しかし、本丸が仙臺城址と 理解している人が多数です。仙台城跡観光できないとガッカリしていたお客様。観光客が来なくて売り上げ減少と嘆いていた売店等経営者。目玉商品不足で乗客減少を嘆いていた交通事業管理者。三者の思惑一致・解決したようです。ヨカッタ



5 月 27 日 (金)  



1000年に1回

今回の東日本震災は、2000年前弥生時代、そして869年7月9日(貞観11年5月26日)以来、1000年に1回ある大地震であったと報じられました。

仙台市博物館では、古文書等により仙臺城・田畑の地震・津波被害についてパネル展示を開催しており、4月30日に見学しました。
今朝ほど 「更にパネル6枚増え 全11枚 充実しまた 是非と」 関係者の方からご案内を頂きました。早速午後 見学しました。

その主な内容は
1.遺跡・史料に残る主な地震災害記録(年表)
2.仙臺城の破損履歴、幕府に対する修復許可願往復
3.地形図上に津波到達点の表示
4.蒲生地区の絵図・地図・航空写真による土地利用の変遷・被災状況
でした。

内容が 生々しい被災記録です。ジックリ読み・指さす等 熱心な見学者が多数でした。

今回も 年表等 著作権に触れないと思われる事項も、資料の配布が無く、かつ、撮影禁止でした。
見る・読むは出来 理解できますが、現場でメモ出来ず 帰宅し整理するには 脳力から蓄積・再生は困難です。マイッタの思いです。

読んでいたオジサン 突然 怒り出しました。
「これだけ 参考になる展示を一過性の見学で済ませろとは、何事だ。なぜ 撮影禁止なのか。撮影させろ」

係員風のオンナカカシが管理職風のオジサンを呼びました。
再度 同じ発言をし「仙台市の職員か 仙台市民か」と問うていました。
中途省略 
年表のコピーを怒ったオジサンに管理職風のオジサンに持参しました。余部を あかとんぼ にも 呉れました。 これを 漁夫の利 と言うのでしょうか。助かった。活用できる。

怒ったオジサンは 被災者でしょうか 「此処まで 知っていて なぜ 3月11日以前に 教えなかった」とブツブツ言っています。

それは 無理です。聞かない・理解しない・行動しない は本人の責任で 博物館の先生の責任ではありません。権限もありません。
でも、先生方は 語っています。 あかとんぼ は浪分神社の由来、若林市民センター付近まで津波が来た等を 若林市民センター等の講座で聞いています。が 行動はしませんでした。


入場無料です。企画展終了後も 展示を続けるそうです。ぜひ 一度 見学されることを お勧めします。



5 月 26 日 (木)  



勉強会

JTBは「伊達政宗ゆかりの地めぐりバス」商品を発売しました。
ウリは、「全行程地元ガイドが案内する」です。地元ガイド代表で元請のEさんと下請の3人で、行程の「白石城・昼食場・仙台城・瑞鳳殿・大崎八幡宮・瑞厳寺」の内、仙台城・瑞鳳殿・大崎八幡宮を除き 確認に訪れました。

確認箇所の所見です。
1.白石城
  行程では見学時間40分となっています。参加者の年齢によりますが 駐車場から登城・展望し駐車場まで戻り40分で見学は出来ます。地元ガイドのタイトルで案内するからに お客様に満足を頂け様には 相当の工夫が必要と感じました。
  この行程には「片倉家墓所、片倉家中級家臣の武家屋敷等の見学時間はありません。時間と経費を要して 白石城址40分のみ見学では、残念と思います。

2.昼食会場
  行程では 白石IC傍のドライブインでの自由昼食です。白石では名物の「白石温麺」を 城下で賞味して欲しいものです。
  昼食会場のメニューにあるかです。問題は震災被害で閉店していまして、ツァー開始時まで 復旧開店するかです。

3.瑞厳寺
  行程では見学時間60分となっています。寺で示した拝観所用時間は40分です。本堂は大修理中で入れません。庫裡・客殿・寶華殿・青龍殿のみの見学です。この点 参加者が事前に納得しているかです。駐車場から瑞厳寺迄往復途中の土産品店で営業しているのは5指前後です。これらから  駆け足にはなりますが時間的には大丈夫です。

被災以前 歴女 対象ツアーでは 白石・仙台の一泊2日 と仙台・松島の一泊2日 と2コースに分けて実施 好評を得ていました、3日要するコ−スを1日で巡ります。また、被災復旧が完全に終わっていない現状(@仙台城・瑞鳳殿で90分。仙臺城址本丸には 石垣の崩落があり 御裏林(東北大学青葉山構内)迂回となります。A瑞鳳殿は、瑞鳳殿のみで 感仙殿地区は参拝出来ません。)です。
多大の時間と経費を要して参加されたお客様が十分に満足されるか心配です。ガイドの面ではでは期待に応えるようにつとめます。

ツァーの詳細は JTBコード GC311-L を検索してください。条件は 代金2000円 (昼食・拝観料「白石城300円、瑞鳳殿450円、瑞厳寺700円」を含まず)。前後何れかに 宿泊手配依頼が必要。


本日の勉強会は、車1台借上 8時間の行程で、上記の外、松島海岸、歌枕「末の松山・浮き石」、被災地「塩竃漁港・油槽所・貞山掘・仙台港港背地・多賀城住宅地」も見学・確認しました。

Eさん・Uさん・NKさん ご教示ありがとうございました。



5 月 25 日 (水)  



青葉祭・仙臺祭・町中堀

青葉神社の祭神は伊達政宗公で、春季例大祭は、24・25日です。
昔は、御神輿が旧城下町に渡御しました。あかとんぼ の若い頃 祭日には金融機関・官公庁もその業務を休み祝いました。

いつからか、「あおばまつり」が催され、青葉神社の春季例大祭の日と無関係な5月第3土.日となりました。神社の祭日と異なる日のまつりで 神社の祭典ではありませんから、当然 御御輿の渡御は あおばまつり の日には行われず 春季例大祭に行われると理解していました。

今年は震災の影響で あおばまつり が中止になりました。
片倉宮司は、 それで御御輿の渡御も中止になった。御御輿の修復が終わり 市民に披露の機会を失したは残念と語っていました。それはその通りとして 春季例大祭になぜ渡御しないのか。語られなかったは 残念な思いです。


23日ガイド仲間の勉強会が「仙臺東照宮」で行われました。健康管理上から欠席しましたら Uさんが資料を購入し届けて下さいました。(感謝)
資料の内容は、祭神は 徳川家康である。建造物の詳細説明でした。

祭礼については、語られなかったようです。
遷座した翌年の明暦元(1655)年の祭礼が最初です。家康公の命日旧暦4月17日ですが 祭礼は旧暦9月17日と半年後になっています。なぜか 農作業の日程が起因です。祭りは殿様が在仙の年のみ 隔年開催であった。仙台を代表する祭りとして「仙臺祭」と呼ばれたそうです。


八幡杜の館(青葉区八幡3-1-1)で 「仙臺城下の水道の礎」のテーマで 四ッ谷用水に関する展示会を6月26日迄 開催しています。あかとんぼ も些か関与しており、準備作業の際、「仙臺祭の際 町中堀はどのように対応したか」が話題になりました。

町中堀の規格は 巾3尺 深2尺が標準です。道路幅 大町が5間、國分町3間4尺 南町3間3尺 (天保記録)です。有効幅員は幾らになるかです。町中堀は、家庭用排水、雨水排水、防火用水、馬の飲料、打ち水に使用され、辻と要所に蓋橋が架けられたと伝えられています。

仙臺祭の行程を確認しないことには、辻以外に蓋がかけられたか 確認・推測できません。

祭礼は、辰下刻(午前8-9時頃) 東照宮を出発、宮町南端御旅所に到着、法要を、南進、清水小路、田町、通町、 未刻(午後1-2時頃) 芭蕉の辻到着、大町一丁目、元柳町、立町、通町、國分町、二日町、北一番丁、宮町、申上刻(午後3-4時頃) 東照宮に戻るが行程でした。(町名は城下時代の町名)

幹線道路に町中堀を設けました。祭礼は幹線道路を巡航します。祭礼の相当の旅程で 町中堀の存在する道路を通過しています。
2年に1日の祭礼の際 蓋をしたか は判明していません。ご存じの方 御教示下さい。

本項まとめるに 下記図書によりました。
1.仙臺市史3  390頁
2.仙台のまつりを考えるための視点と方法(仙台・江戸学叢書4)
3.仙台城下現代複合図



5 月 24 日 (火)  



薫風 皐月晴 

政宗公376遠年忌法要が修復なった瑞鳳殿で、政宗公が祭神の青葉神社で春の大祭が 草木萌ゆる樹森で齊行されました。

9時35分 正宗山瑞鳳寺山門前に、仙臺藩志会一行が集結しました。
大震災直後の法要でもある事から 裃姿での参加者が多く、おたまや幼稚園園児の見送りを受けました。裃姿を初めて見た幼児達は 「別世界からの使者」を見た驚愕の表情。

62段の石段を仙臺藩志会の幟、瑞厳寺等住職に 続いて 伊達家34世18代御当主、仙臺藩志会会員は裃姿・五色乱星陣羽織、平服の順で、登りカメラ・テレビの放列の前を通過、本殿前に。

今年から、伊達家御当主は 羽織袴から裃に帯刀姿ですが 何人が気づかれたか。

政宗公376遠年忌法要 次第
9時45分 開式

 奉献の義
  献花 本原遠州流華道七世家元 朴澤 一草 様
  献香 仙台藩作法宗家       伊達 泰宗 様
  献茶 石州流清水派宗家十一世 大泉 道鑑 様
  献笛 仙台藩虚空山尺八寺    布袋軒玉堂 様

 読経  伊達家恩顧臨済宗8寺
  導師 正宗山瑞鳳寺 鎌田大和尚
  僧侶 松島青龍山瑞厳円福禅寺、遠山覚範寺、少林山保春院、無為山東昌寺、松蔭山光明寺、當午山満勝寺、大雄山善應寺

 焼香
  仙臺伊達家十八代当主       伊達 泰宗 様
  殉死者後裔会代表          芝原 榮一 様   会員一同
  仙臺藩志会会長            伊達 洋司 様  会員一同
  大年寺会会長             阿部 和子 様  会員一同
  (財)瑞鳳殿常務理事         大崎 啓一 様
  再建建設会社会長          松井 覚平 様
  霊屋下町内会会長          長門 一彦 様
  向山経ケ峯親交会会長       菅原 義男 様

挨拶 
  仙臺伊達家十八代当主       伊達 泰宗 様
  仙臺藩志会会長            伊達 洋司 様
  (財)瑞鳳殿常務理事         大崎 啓一 様

10時30分 閉式


青葉神社春の大祭
11時30分 開
  昇殿、祭事齊行、玉串奉納
  祖霊社 祭事齊行、

13時01分 閉
13年20分 直会


 仙臺藩志会は、裃姿で瑞鳳殿から青葉神社まで 車で移動しました。裃姿の侍の馬ならぬ車の 隊列に 対向車・追越車は驚かれたでしょう。

 今年は、奉納剣舞、奉納雀踊りがなく、些か寂しい限りです。
 行列出発前に任意の集合写真は あかとんぼ が撮影しました。しかし例年の涅槃門前での会員一同の集合写真の撮影がありませんでした。足腰不自由で 裏参道から本殿に直行された方々は 写真に写りませんでした。高齢化現象とは寂しいことです。

 遠年忌法要で 前半 虚空山尺八が、大祭では終始  山口流篠笛の演奏がありました。俗世間と異なる音曲。雅です。

 直会の際 片倉宮司は 今回の震災に際しての不思議な出来事ととして
 鳥居が内向きに倒れた。この解釈は 人の世界から神の世界に 門戸が開いた事であり、本殿の内鍵の扉が開いたのは、神様が自ら 人の世界にお出ましになった事と理解できる。神社境内は神(政宗公)と人(神の存在を認める人)と共存の世界になったと話しをしました。楽しい。

 尚 鳥居は高さ8m、柱円周最大2m1928年宮城県内小中学生寄進で 「明神鳥居」です。



5 月 22 日 (日)  



大雨です。静かに木々の緑を鑑賞しました。

朝一番 東京からと称します老若男女4人。老婦人 ガイドする一瞬前に語ります。一応ガイドします故 暫しお待ち頂ければとお願いし、最後に「お待たせ致しました。お尋ねは何でしたでしょうか?」 「アレー 何か質問したっけ」 このご家庭1:3で回転しているのでしょう。

「いつ いくら で再建したのか」のお尋ね。「1979(昭和54)年です。工費8億円 オイルショックの時で 資材調達に苦労されたと聞いています」 若男を指して 「お前の生まれた年だな」 

寶筐印塔の被災写真をお見せしました。「アッ 殿様で これなら 仕方がないな」のご発言。 「この人、中田の墓石転倒の知らせで お詣りに来たの」 名取郡前田邑1041石(仙台市太白区)か栗原郡留場邑486石(登米市築館)の中田かは 聞き漏らしました。


名古屋、大阪からの参拝者をガイド中 大雨となり 一巻の終わり。

感仙殿地区 復旧工事が始まりました。
善応殿前空地に試掘跡があります。140余年前に存在した涅槃門跡?の情報がありましたが、真偽の程は?とのことでした。
工事名 瑞鳳殿等石垣復旧工事
期間   平成23年4月22日から23年7月29日まで
施工   鹿島建設鞄喧k支店
発注   仙台市建設局百の杜推進部公園課



5 月 15 日 (日)  



青葉繁る 日々緑が濃くなります。
表紙更新しました。転倒した奉納供養石灯籠と孕んだ石垣の目隠しシートが写らないように撮影するのがポイント。

本日は 昨日と異なり それなり参拝にお見えになりました。9時から13時迄2組4人をガイド致しました。

1組目
関東圏からの被災者用仮設住宅建設関係の責任者
 仮設住宅の建設が進まないのは システムが昔と異なり 資材の国内在庫が無い為。20日迄宮城県ないで作業します。
帯広市からの建築士事務所代表取締役
 国土交通省の依頼で 被災地、被災住宅の調査、相談に応ずる業務で ホテルが取れずネットカフエに宿泊、一膳飯屋で食事しながら月末迄 作業します。

政宗公の御霊屋 歴史的建造物について観光気分での関心と 併せ 被災直後の様子に 強い関心を示されました。
瑞鳳殿では、創建当時(戦災焼失前)の写真・図面と残存礎石から 拝殿の復元(口頭)。拝殿柱の漆塗り損傷原因の推定等、職業柄の発言が多々ありました。
感仙殿地区等の被災直後の写真をお見せしました。目の前の現物・現況を確認したい。シート内に入りたい には「全て自己責任で」と応えました。

感仙殿地区広場の石垣の楔跡を説明しましたら 職業柄か 深く興味を示され 普段のガイドでは得られない感動?を。

「西討戦没之碑」(表紙資料館・西討戦没之碑を参照) 高4m位 微動だにしていません。妙雲廟界の巨大角柱墓石が移動しているのに  不思議ですね ?
お二人が確認しました。「碑の下部が1-2m位埋設され かつ 基礎部2段位 巨石で挟み 左右を鏨で結んでいる。この確実な構造が微動だにしなかった基でしょう。明治11年に 此処までの工事を施工していたとは」となりました。専門の人の目利き 収穫です。

この二人 9時15分から12時まで2時間45分  (資料館見学中は休憩)

2人目
この4月北海道から転勤して、日々 仙臺の町を勉強中の若夫婦。奥様は 政宗公 仙臺城候補幾つかあった等まで勉強されていました。落ち着きましたら ボラガイドに挑戦しませんか。お待ちしていますと お誘いしました。
 
この二人 12時から13時まで1時間


この間 朝刊投稿欄に「被災に際し 秀宗公の宇和島の人から 見舞いの品々と激励が贈られた」と感謝崖委細されていますと Uさんから電話がありました。
あかとんぼ も櫻観測隊隊員として09年03月1ケ月滞在した際にお世話になった市民の皆様から メール・電話で 安否確認、見舞品の贈呈を頂き、激励の集いを開催し その様子のDVDと 寄せ書き を頂いています。
宇和島の人々の人情の細やかさは 古来の日本人の持つ 魂が 今も 持たれ 発揮されているものと 理解しています。感謝しています。でも 新聞には投稿はしません。



5 月 14 日 (土)  



五月晴 在宅していられない天候です。

政宗公の熱烈なファンで かつ 本HPの熱烈な愛読者である群馬県のA嬢からの 「明日訪仙します。午後 瑞鳳殿を参拝したいので都合如何ですか」のメールを開いたのは 日付が変わって、12時間経過後。慌てて携帯に電話を。「3時頃」と約束しました。

土曜日の午後です。参拝者で溢れているだろう の予想は外れました。13時から15時迄2時間の ガイド実績は1.5人です。1人は本殿まで、0.5人は 涅槃門前からの撮影案内です。「ベロナラシ」舌慣らしの目論見も外れました。

本殿前は日当たりが良く温かいですと申していた半袖姿のOさん 「15時から 生協ポイント3倍なの」と。今一人学者のNYさん 売店で「感仙殿発掘調査報告書」を読みかけ 「落ち着かない やはり書斎でないと」と 二人が帰られ孤独に。

15時30分「お待たせ」と到着。
本日で3回目の瑞鳳殿参拝です。如何様にガイドするかです。3月11日と4月7日の被災直後の状況等を写真と現物で説明しました。
鎚起銅製伊達家家紋入大香炉の三引両家紋の半分が擦過傷と打撲傷で窪んでいます。記録したいと真正面と真上からの角度で撮影しました。真上からの角度は考えていませんでした。凹凸が鮮明に見えます。さすがです。

「本殿 以前より綺麗になりましたネ」ありがとうございます。実は夕日が燦々と当たっているからです。正面の撮影には絶好の機会ですからどうぞ「」被災状況から蒟蒻畑の防虫まで 話題は森羅万象に至りました。

資料館見学中 職員の陰がちらつきました。16時45分を過ぎています。弔魂碑・善応殿・感仙殿・妙雲廟界の前。公子公女廟の入り口まで案内したところで17時。これから5時間要してお帰りだそうです。お気を付けて。

群馬の代表銘菓磯部煎餅ほかをお土産に頂きました。ありがとうございました。あかとんぼ からのお土産はガイドとせんだい市史通信22号 政宗公御尊顔集でした。



5 月 13 日 (金)  



政宗公・忠宗公 殉死者

政宗公の殉死者直臣15人陪臣5人の内 石田将監興純、茂庭采女兼綱、入生田三右衛門元康。
忠宗公の殉死者直臣12人陪臣4人の内 古内主膳重廣、芝原角左衛門、木名瀬小右衛門直定。
の 後裔の方々にお目にかかっています。

入生田三右衛門元康の後裔との初対面は 2003年夏頃(正確な年月検索中)、高齢のご婦人が老若男女10数人を引連れ、参拝に見えた時です。
瑞鳳殿本殿脇の柵を乗り越え 中程の寶筐印塔を目指します。アレヨアレヨです。

曰く「我は入生田三右衛門の末裔なり。偉大なる祖先を 我が末裔 子孫代々に伝えるべく 蝦夷は苫小牧から参拝に来た。実は 今一つの目的は孫が東北大学医学部学生なので 一族縁者での激励である。孫はこの近辺に居住しているので 暫し参拝させる その節宜しく頼む」。

誠にざっくばらん快活な老婆様でした。書簡・電話を頂きました。いつしか音信不通になりました。ご先祖の元に旅立たれたでしょうか。

裃姿での仙臺藩志会の参拝の際、「入生田三右衛門」と名札された方 おりました。現在は別姓で 仙台市外にお住まいでした。

仙台市史 近世2と3の 協力者一覧に「入生田恵一」と ありました。市史編纂にあたり 相当の古文書を提供された様子です。

入生田三右衛門の末裔の方々は 末広がりに広がり それぞれ繁栄された様子です。


「富沢館と戦国時代」と題して 市史編纂室長菅野正道氏が 2010年8月26日「郷土の歴史を愛する会」で講演されており、その配布資料写を本日入手しました。

富沢館の外郭は四方300mで、大名クラスの居城と同規模の大規模であった。天正20(1592)年から入生田三右衛門元康が政宗公から拝領、在郷屋敷として利用された。幕末の当主入生田三右衛門康欣(ヤシヨシ)は 出入司や公儀使を務めたとまとめられています。

仙台市史 城館 の富沢館の項(181頁)には、「仙台市平野部では最も残存状況の良い中世城館跡である」とまとめられています。


瑞鳳殿ガイドを始めた早い時期に、お話しした殉死者の後裔は入生田三右衛門元康の後裔でした。非常に親しみを現在も持っています。
早い機会に 館跡を訪れ 嫡流・本家 入生田恵一様にご挨拶したいものと思っています。

入生田恵一様は仙臺藩志会会員でもあります。5月24日の遠年忌法要に お見えになるかも知れません。



5 月 11 日 (水)  



政宗公遠年忌法要

仙臺藩志会の工程が発表になりました。
5月24日
08時20分 裃・陣羽織に着替開始。
09時20分 整列・行列発進。瑞鳳寺山門前
09時45分 法要 瑞鳳殿本殿

11時30分 青葉神社例大祭


他法要等の工程
05月21日 支倉常長サン・ファン祭り 中止
06月04日 綱宗公遠年忌法要 善応殿前 被災立入不可 当事者のみ参列?
06月05日 川崎町 法要・祭り 中止
06月20日 綱村公遠年忌法要 齊行 但し 御廟被災 当事者のみ参列
07月01日 支倉常長遠年忌法要・光明寺 齊行 関係者・代表のみ参列
07月12日 忠宗公遠年忌法要 善応殿前 被災立入不可 当事者のみ参列?

伊達学塾
06月25日 「伊達家二の森墓所」土生慶子先生は2012年02月25日に延期



5 月 10 日 (火)  



小西美術工藝社


日経新聞・人事欄に、デービット・アトキンソン氏が小西美術工藝社の会長から兼社長に就任と報じています。

瑞鳳殿の涅槃門の改修工事を施工した小西美術工藝社なか 驚き読み続けました。そうでした。
外資による経営乗っ取りではなく、経営と資本の分離で 小西家から会社経営を委任されたようです。

小西美術工藝社は、寛永年間の創業で、日光東照宮の造営に関わり 〔1637年完成瑞鳳殿造営にも関わったか?〕、漆塗り、極彩色、錺(カザリ)金具等の技術を得意とした会社です。

ホームページによれば 
沿革は、
寛永13年(1636年)、三代将軍家光公の命により、日光東照宮造営に携わり、以後、日本の伝統文化財保存に関わる漆工・極彩色・金工・美術工芸で、多くの職人を育成し、国から特命を受ける存在として継承・発展を続ける。

現代においても東京国立博物館内で国宝修理室運営を拝命し、ニューヨーク・メトロポリタン美術館の所蔵品修理も行う。

とあります。

施工実績は、
文久2年 日光山養願院 漆から 日光の社寺、大崎八幡宮等 列記しています。

瑞鳳殿関係は、
平成12年瑞鳳殿本殿・拝殿の漆・彩・金・蒔。
平成18年 感仙殿・善応殿の丹・彩・金。
平成21年瑞鳳殿涅槃門の漆・彩・金
のみ記載されています。

昭和54年の瑞鳳殿、昭和60年の感仙殿・善応殿 再建工事の施工が会社の実績に記載されていないのは、 協力(下請)会社として 参加したので でしょうか。

技術者のプロフイルを紹介しています。
平成12年瑞鳳殿本殿・拝殿の漆を担当したのは 漆工41年 白川良一氏です。
この会社 職人には 定年はありません。平成21年の涅槃門の修復も担当され、12月16日ボラガイト対象 特別現場研修で解説をされた方でしょうか。 








5 月 8 日 (日)  



黄金週間 人によっては10日目の最終日。その割に参拝者の出足は?  
ある人曰く「疲れが出たかな」 なるほど 10日目には 黄金の壺も底を尽き 気力・体力も尽き加減なのか。

震災復興応援関係者 東京・千葉から 何組か見えました。建築等 各業種の知識に基づく感想を洩らしていました。

記憶に残ったお客様
1.杖をついて 券売所にたどり着き 呼吸を整え 有料と知ったら 参拝しないで帰ったお客様2組
2.拝殿から本殿の石段前まで進みながら 拝礼もせず ユーターンしたお客様 2人
あかとんぼ としては 理解の外です。

3.本殿で手を合わせ 長時間懸命に祈る青年女性。いろいろな 思いをお持ちでしょう。お声かけしませんでした。


香炉点火係のSさんに「家紋三引両に擦過傷ついたネ」と話したら 「ウン 何屯あるか この重い香炉が動き 天蓋脚に当たって止まった。ガイドのUさんが 気付いてネ Uさんと3人で漸うに 原位置にもどしたノ。助かった」の返事でした。
本日 Uさんが見えたので 話したら 照れくさそうに 「ウン」と頷いていました。感謝状か感謝のお言葉 (財)瑞鳳殿からUさんに ないのかナ。
現場写真です。

10時30分過ぎ 突然日差しが陰ました。風が出て来ました。間もなく 暗くなり 大雷鳴です。 ピカゴロ 近いです。 大音響です。思わず 腹に手を当てました。雨が降ってきました。傘を持っているお客様はいません。全員 立ち往生 。
「コワイー」の合唱。「あそこ右上に避雷針がありますから 大丈夫です。お客様を直撃しません。暫く 雨が上がらないようです 資料館に どうぞ。発掘調査のビデオ等 ご覧なっていれば いずれ晴れるでしょう」と誘導しました。

地震・雷・火事・親父 一番の津波は先日 大災害をもたらしました。怖いものの二番目です。クワバラ クワバラ

11時20分 雲は黒く 雨が上がりそうもなく 依然として 雷が鳴っています。お客様も 登って来ません。途絶えました。ガイド終了です。
帰巣すると ボラガイド支援機構理事長 曰く 「雷鳴中 脱帽しなかった?」  「お尋ねの趣旨が わかり兼ねますが?」 曰く 「帽子を取ると 光って そこ目印に 雷が落ちたでしょう」 「ソンナ!!!」



5 月 7 日 (土)  



伊達家のふるさと

「伊達家のふるさと」とは、何処かと問われたら 陸奥國、出羽國置賜、岩代國信夫、常陸國真壁の何れとお答えになりますか。

昨年から、山形県東置賜郡高畠町の観光協会が町役場の支援の基に 「伊達家のふるさと」を積極的に広報しています。

2010年9月1日 「たかはた伊達の会」を設立、10月6日には、34世18代御当主を招いて講演会を開催しています。
あかとんぼ は設立総会に出席 入会、講演会で初めて 御当主の肉声講演を拝聴しました。以来 事務局からの接触は冬休みでした。

2011年4月23日付けで分厚い封筒で「伊達時代の高畠町 高畠町史上巻」200頁が届きました。
黄金週間中  拾い読みしています。なかなか 味のある資料です。

目次を紹介します。
伊達氏領期
T.伊達氏の系譜
 @.系譜
 A.各代略歴
U.置賜の拠点・屋代城
 @.伊達氏の置賜攻略
 A.屋代城と赤館城
 B.新宿峠と伊達氏
 C.川沼余話
V.治と乱
 @.竹森および糠野目松川の合戦
 A.伊達氏のほまれ
 B.蔵方之掟之事
 C.棟役日記の成立と郷土
 D.伊達氏の法律「塵芥集」
 E.戦国期における伊達氏の段銭帳にみる郷土
 F.伊達氏の交通政策
 G.伊達氏の宗教政策とその信仰
 H.伊達氏領期の郷土社寺とその信仰
 I.天文の乱と郷土
 J.伊達氏の製紙製材奨励法
 K.新宿の対陣
 L.伊達氏金鉱採掘を許可の事
 M.伊達しによる土倉役免除の事
W.在家村落と地頭
 @.在家村落
 A.地頭
 B.村落構成
X.浜田伊豆物語
 @.系譜
 A.浜田伊豆宗景のこと
 B.浜田大和景隆のこと
 C.浜田氏余話

ご覧のとおり 伊達氏が高畠を統治していた時代(鎌倉〜安土桃山)の事柄です。
在庫の有無は 0238-57-3844 社団法人高畠町観光協会事務局に直接照会して下さい。



5 月 6 日 (金)  



テストされるボラガイド

あかとんぼ は 気弱な性格で、議論は苦手です。故に 旧伊達領内に居住する男性高齢者にガイドするのは 弱いです。

暇暇に郷土の歴史を調べ 伊達家の歴史に移行し 又は 「政宗公」のキーワードでの 小説等を読みあさり 天気晴朗 虫干しを兼ねて 瑞鳳殿に お詣り方々は ボラガイドの知識テストされる 議論を試みる からです。

こんな事を洩らしたら 「あーそれ 江戸時代の話 町道場で 剣道の先生が 道場破りに 看板持ち去られる場面 そっくり」と云われました。かも しれません。

この黄金週間 前半での 質問。 道場破りではなく 信頼しての質問でしょうが 脳力低下している高齢者 故に 一発100% 回答出来なかった質問。

伊達家歴代の殿様の墓所を教えてくれ  です。質問は殿様ですから 33世迄ではなく 始祖朝宗公から 29世慶邦公まで でしょう。

初代 朝宗 福島県伊達郡桑折町 満正寺
9代  政宗 山形県東置賜郡高畠町夏刈
15代 晴宗 福島市杉の目 寶積寺
16代 輝宗 山形県東置賜郡高畠町 資福寺跡
17代 政宗 ここ 瑞鳳殿
18代 以降 ここ経ケ峯 感仙殿 善応殿 妙雲廟界 と 大年寺山 無尽灯廟 寶華林廟

以上の様に 辛うじて答えました。

伊達家殿様の系図、履歴、法名、墓所については 次の図書に寄っています。
1.仙臺郷土研究 特集 仙台藩歴史用語辞典
2.仙臺藩歴史事典
3.仙臺人名大辞書 


信達(福島県信夫郡・伊達郡)地方に所在する 初代朝宗公の墓所等伊達家遺跡を 2006年5月29-30日 1泊2日の行程で Uさんの案内で 巡りました。小型乗用車でしたから 小回りが利き 縦横無尽 隈無く巡れ 勉強になり 今でも生きています。

ガイド仲間の勉強会で バスで再訪の計画があると聞いています。バスでは 小回りが利きません。日帰りでは何カ所めぐれるか。又 福島原発の風下です。懸念される人もいるでしょう。参加者 目論見とおり 集まるか 些かの心配があります。



5 月 5 日 (木)  



新緑が輝いて綺麗です。

弔魂碑を場外から眺めている方がいます。
「臺のみで 何があったのか」のご質問。
約140年前の戊辰の役で殉難した伊達家家臣等1260余名の慰霊碑です。鉄製で老朽しましたので  東北大学金属研究所で調査・保管中です。その為 今回の震災で倒壊・破損が免れました。
10月10日10時から 補修完工の落慶と慰霊祭が 行われます。どうぞ。

「仙臺城本丸の政宗公騎馬像は徴発されたそうだが ここは徴発されなかったのか」が質問2弾。
はい、ここと 本丸の昭忠碑は 金属供出の対象になりませんでした。何れもその由来から 対象外になったのでしょう。騎馬像 徴発されたとは 申しません。金属供出といいます。私は 「大東亜戦争という未曾有の国難に当たり 祖国防衛に立ち上がり出陣した」と 申したい所です。


栃木県栃木市から車で来ましたと語る 一見 ご高齢ながら 足腰達者な御夫妻。日光市、真岡市は県内、旧下館市は隣接県の市。伊達家の由来、桃山様式の御霊屋等の説明は スラスラ。
資料館を含め ゆっくり丁寧に 参拝・鑑賞されました。妙雲廟界まで ご案内しました。最後に 名刺を頂きました。栃木政界の大御所でした。
流石 人使い 聞き 上手です。

過日 ガイドする前に 質問をする 自説を語る 回答とガイドは 横向いて聞かない 人がいました。正に 聞き取りボランティアでした。十分に説明できず 我ながら 満足感がありませんでした。観光ボラガイドには 一応ガイドさせて それから 質問するなり 自説を語る方が 観光対象についての情報を確実に得られます。ガイドの利口な使い方と思っています。


母と2娘。登米市佐沼から 初めて来ましたと。佐沼は要害・亘理家5万石か、天正18(1580)年大崎葛西一揆首壇か  何れで伊達家との関連を記憶されているか 一瞬考えました。高齢の母は超越しており、盛年の娘は 一人は5万石派 今一人は・・・でした。

ビデオ撮影しながら聞いていました。背景等 撮影ポイントを紹介。高齢者優先でガイドしました。
奉納供養灯籠の倒壊した現状をお見せしたら 墓石 相当数倒れる等しており お寺から 急いで復旧しないように回覧があった。瑞鳳殿の復旧は早いと感心していました。

資料館のビデオを楽しまれ 満足の様子で降りてきました。母はあめ玉を片手一杯 娘はお茶缶1本 差し出して「声を大切に」 ご厚意です 素直に 頂きました。ありがとうございます。
普段 この様な お心使いされる方 いません。何年に1回です。お気持ちが嬉しいです。


朝 (財)瑞鳳殿の新事務局次長小平様に ご挨拶を頂き 名刺交換しました。本HPをご覧頂き 不都合箇所のご指摘 ご指導をお願いしました。
新・常務理事には 2日ご挨拶致しました。名刺頂くに至りませんでした。


黄金週間 最終日 いい日でした。



5 月 4 日 (水)  



テストするお客

お客様の質問には 知っている範囲内で正確に答えるように務めています。
お客様の中には、研究し 知っていて ガイドの知識は どの程度かと テストの意味で質問する方がいます。

黄金週間前半には この手のお客様が 数人いました。
山岡荘八著「伊達政宗」には 政宗公の母 義姫(保春院)の生涯を如何ように記述しているか です。

お寺 保春院は如何なる寺か 質問されました。口ぶりはテストです。

保春院は、臨済宗妙心寺派。若林区保春院前超50番地に所在。寛永12(1635)年 母 義姫の13回忌に当たり、菩提の為建立。政宗公、翌寛永13年4月18日落慶法要後 北山から経ケ峯を巡り 終の棲家を定めたは有名な話。義姫(保春院)は元和9(1623)年7月16日逝去され、覚範寺(青葉区北山1-12-7)に祀られ、灰塚は永昌寺(青葉区新坂町18-1)に所在していますと答えました。

現場は 是で一件落着です。補足します。
保春院の本尊は 正観音菩薩(木彫り座像臺座共四尺五寸)、創建時吉田某寄進。仙臺七刹の1と称され 、一門格180石の寺領を要した。維新後 伊達家の庇護を失い廃寺状態になり、1933(昭和8)年再建されました。この項 仙臺市史7による



5 月 3 日 (火)  



1000年に1回の地震を経験。今年の黄金週間は4月29日から5月8日迄10日間と超長期間です。
大震災で50日程 拝観中止があり年間目標回数未達となる恐れと 震災見舞い方々参拝に見えた人々の期待に応えたい の2点から 全期間のガイドしようと日程表に明示しました。

10日連続の頑張りは「年寄りの冷や水・余裕の無い日々は気の毒」ですと 孫が遠路 慰問に来仙しました。 孫の慰問を素直に受ける事にし ガイドを休みました。

この黄金週間のガイドで 感じた事と 質問に答えた標題のみ記録した事について 順次 整理掲載します。

本日 Uさん NKさん NHさん Eさん YAさんの重鎮がガイドされました。



5 月 2 日 (月)  



夜半からの強風 朝になっても止みません。瑞鳳殿に向かう際、車が煽られ 飛ばされそうになり、低速運転で辿り着きました。
驚きました。仲間のUさん 指定駐車位置に 直径20cm 長さ5mの杉の大枝が折れ 落下していました。駐車中に落下すれば 完全ペッヤンコです。今日は休まれようで 幸いでした。
なお この強風で 天皇・皇后両陛下の岩手県行幸は延期になったそうです。

テレビ取材が入っていました。テレビ朝日で「山口豊」アナンサーが K学芸員にインタビー。被災地の観光について 参拝者にも感想を試みますが 素直にインタビーに応じて貰えていません。いつの間にか 消えました。

本日は 平日なのか 休日なのか ゴールデンウイークの1日と捕らえ ガイドに行きました。予想より 出足が伸びません。
市内 小学校5年生 7人程 保護者1名と 「振替休日学習」と称して見えました。
涅槃門は聞いてくれましたが 本殿では 保護者のみが真剣に聞いてくれました。
資料館に入りません。奨めたら 「博物館企画展を見るので 此処での時間は一杯」と申して 見学しないで 売店に入ったら 出てきません。時間の使い方 鼎の軽重と思いますが 主観・興味の違いでしょうから。

妙雲廟界からの石段までのフルコースの順路を 広島からの御夫妻をガイドしました。弔魂碑前で歩みを止められましたので 142年前の戊辰の役で犠牲となった伊達家家臣の供養碑です。鉄製で外して修理中が幸いし 被害を免れました。10月10日に供養祭と修理落慶式を行いますと説明しました。142年前の出来事を 今回の震災と同じレベルで語るとは 相当の高齢と判断されたのか、突然 ご婦人が「お幾つですか?」 連れ合いが 驚いて 「おとこの歳を訪ねるとは シツレイだぞ」 それなりに妙齢のご婦人から 年齢を問われた経験が無く 一瞬 戸惑いました。「75歳です」 「イャー お声が若く 透ので」   アレー やっぱり年寄りと評価されたのでしょうか。

参道追分け迄 送り 足が途絶えましたので、釧路からの親娘、市内小学生の団体、東京のお姐さん、広島の御夫妻に 単発少々で 終わりにしました。
事務所元締談 「ゴールデンウイーク前半 予想以上に来場頂いております」 よかった。あかとんぼ が帰ると 参拝に見える様です。悔しい。



5 月 1 日 (日)  



小雨故か 出足不良です。9時から45分待機。
仙臺藩志会Y事業部長来訪。24日の政宗公遠年忌法要、青葉神社祭典の時刻 等 情報交換。
参拝者に 法要と祭典の開始時刻。奉納の内容 特に今年は「あおばまつり」が中止になって 雀踊りも中止になった。瑞鳳殿での雀踊り奉納も中止になるのか、楽しみにしていた方々から聞かれています。

遠年忌法要の開始時刻繰り上げを関係諸機関と調整中、青葉神社の祭典は11時と決定。奉納の内容は調整中 の回答でした。確定報入りましたら お知らせ致します。

10時15分青森県は 南部と津軽 生まれの 御夫妻のガイド。 あかとんぼ は 今でも 南部家と津軽家の対立が 領民に影響し 婚姻率が低いと聞いていました。その様な風評を飛ばす仲睦しい御夫妻。
涅槃門の用材は 青森檜葉で、伊達政宗公の霊廟に使用する故、津軽家に縁を求め 青森営林局があった時代 津軽の山々を探して頂いたものです。
県産品を高く評価されたと 喜ばれた表情で 熱心に聞いてくれました。

仙臺藩志会O副会長、Y事業部長、S広報部長補 瑞鳳殿本殿に参拝に見え、3月11日被災直後の寶筐印塔 全転倒の写真をご披露し 説明しました。続いて、戊辰の役弔魂碑、感仙殿地区、妙雲廟界、公子公女廟の被災状況確認に随行しました。
〔瑞鳳殿寶筐印塔 左側 「茂庭兼綱」の塔のみ孤立〕の写真を会報特集の頁に掲載したい データーを送信して のご依頼がありました。
3月中旬 表紙に掲載した写真です。 

参道追分から、大崎八幡宮付近にお住まいの息子夫婦の被災見舞いに訪れた東京の御夫妻 4人。「時間に余裕あります」で、涅槃門の彫刻 丁寧に説明。奉納供養石灯籠の転倒を話していたら 「地震だ」の叫び。「真ん中に寄ってください」 と申し上げましたが 帰宅後 PCで地震情報を確認しましたが記録されていませんでした。余震が多い故 過敏症になっているのでしょうか。

拝殿の佐々文山書 「扁額」で 赤珊瑚と真珠の粉末が用いられています。焼失前の本物は 青珊瑚の粉末と聞いています。母親 「私 銀座和光に勤めています。青珊瑚は扱っていない 聞いた事もない」

お嫁さん 香炉の裏の書名をみて 「ハテナ?」 「鋭いですネ 仙臺最古の老舗 銅細工から 給湯設備のカタカナ3文字OOOさんの寄贈です」「ハイ わかりました タゼンですネ」
1対4 相性がよかったか ガイド終わったら13時。久々 長時間でフルコースに等しいガイドでした。





inserted by FC2 system