2011年7月の日誌
| 前々月 | 前月 | 翌月 | 翌々月 |




7 月 31 日 (日)  



 経ケ峯地区の伊達家全霊廟(瑞鳳殿・感仙殿・善應殿。妙雲廟界・公子公女廟)が公開されました。
3月11日以来4ケ月20日振りの全面公開です。瑞鳳殿以外の廟等が参拝出来る状態に修復が進んだことは嬉しい限りです。

ガイド前 全山一周しました。

崩れた石垣、転倒した奉納石灯籠、墓石(公子公女廟)のほぼ全部 修復されました。
修復工事を担当された鰹ャ林石材工業の現場監督殿が「石塔の形、火袋が立った位置から 一視線に直列になる様に設置するのが本来の姿」と説明してくれました。その様に 見事 一視線に直列になっていました。さすがです。
感仙殿をお参りした お客様の内 何%の方が 気付いて頂けるでしょうか。

なお、感仙殿前 伊達安房宗実、善應殿横 白河上野藤原村親 ほか数人の石灯籠が完全な状態に修復されていませんでした。事情は不詳です。

妙雲廟界 立木の枝打され 明るくなりました。只 十一代御夫妻の花立 1基づつです。九代様は左右2基です。この違い なぜでしょう。事情は不詳です。

お客様の出足は 想像にお任せ致します。
 9時-10時 全山一周 参道入り口まで下がるも タクシーの待機はゼロ。

欧米系を含む10数人 神戸からとの事 「地元の人がいますガイド不要」 と断れた。地元の人なれど 初めて瑞鳳殿を参拝で、遠来の客人に 満足できる説明ができるのか。でも 地元の人のメンツを重んじ、後は沈黙。

東京の3嬢。バスで今朝仙台に到着、瑞鳳殿に直行とか。今朝の震度5は 高速道 福島で遭遇・体験したそうです。50分要して丁寧に参拝されました。

白髪孤高の紳士。ガイドの反応から 相当の知識をお持ちになつて 依頼された感じ 慎重にガイドしました。
山口から お出でとの事。新装なつた弔魂碑に 立ち止まるかな。一別することなく通過しました。
長州の方ならと期待しましたが 戊辰の役は 話題以前でした。

入り口で 政宗公画像を見ていた家族。
何故 肖像画に両眼があるかの の質問に答えたら ご夫人 笑い出しました。親子の不和を知っていました。
母義姫 の晩年 和解し 最上から仙臺に移って頂き 亡くなった後 供養の為 創建したお寺が 保春院 です。
に、オドロキの声 保春院の近所にお住まいとか 母義姫の菩提寺とは 知らなかったと。

戊辰の役弔魂碑改修に拘わる貴重な資料が 仙臺藩志会弔魂碑部長から 本日送付頂きました。これを基に 資料館に 新頁を開設したいものです。



7 月 29 日 (金)  



戊辰の役殉難者弔魂碑改修落成式における仙臺藩志会伊達洋司会長の祝辞全文を送信頂きました、再掲します。

弔魂碑については、「表紙」 「資料館」から「弔魂碑」を併せてご覧頂ければ幸いです。


 本日茲に「戊辰の役殉難者弔魂碑改修落成式」にお招きいただき、ご挨拶を申し述べる機会をいただきましたことは、誠に有り難く哀心より感謝申し上げるものでございます。

 藩祖伊達政宗公を祀る由緒ある経ヶ峯のこの地に、建立されておりました戊辰の役殉難者弔魂碑が、仙台市のお力添えで改修工事を終え、目を見張るばかりの見事な出来栄えで竣工いたしましたことは、伊達家の祭祀に奉仕する私共にとりまして、深く喜びとするところであり、厚く御礼申し上げる次第でございます。

 戊辰の役は、近代日本の幕開けとなった戦いであり、奥羽越列藩同盟に伍した仙台藩の苦悩と決断の戦いでありました。その尊い犠牲となられた1260人の御霊(ミタマ)を祀るこの弔魂碑は、明治10年第14代伊達家ご当主伊達宗基様と、旧家臣の方々の手によって建立され、爾来140有余年もの永きに亘、風雨にさらされ老朽化し、鉄骨が腐食して参りましたので、心を痛めてきたところでございます。

 この中で、私たち仙臺藩志会は、平成20年10月10日戊辰の役140年を記念して慰霊祭を開催。事後毎年弔魂碑前に集まり、全員で黙祷を捧げご冥福をお祈りして参りました。

 幸い、仙台市議会において元仙台市議会議長、本会参与の鈴木繁雄先生のご尽力を賜り、仙台市が施主となつて改修を実施するところとなり、東北大学金属材料研究所並びに再委託を受けられた佐元工務店様の技術力によって、今回竣工の運びとなったものでございます。

 本来でございますれば、昨年11月24日から取り外しが行われ、金属材料研究所の手によって、材質の検討が行われ、工事を担当された工務店様のお力添えで、今年3月竣工の運びとなっておりましたが、その3日前に東日本大震災が発生し、伊達家の墓標を始め寶筐印塔などすべてが損壊するなか、無事に保護され経の竣工を迎えることが出来ました。

 このように多くの困難の中、それを見事に克服し、このような立派な弔魂碑を完成いたされましたことは、仙台藩の志を継ぐ私たち仙臺藩志会にとりましての喜びだけでなく、尊い犠牲となられた地下に眠る仙台藩士並びにそのご遺族にとっても、感激の極みであると存じ、心から感謝もうしあげるものでございます。
 
 私たちは、黎明の日本の将来のために、そして仙台藩のために殉死された方々の御霊を偲び、今後も毎年慰霊し続けることをお約束するものでございます。

 最後になりましたが、仙台市ご当局並びに工務店様に 重ねて感謝も申し上げるものでございます。



7 月 27 日 (水)  



戊辰の役 弔魂碑 修復なる

1868年、その信ずる所に従い 幾多の人々は郷土防衛のため 戦い 命を落としました。戊辰の役です。

護国神社にも祀られなかった 伊達家家臣、徳川家直臣、上杉家家臣等の殉難者1260余人を、伊達家30世14代伊達宗基(ムネモト)公は、旧家臣共に、その殉難者の霊を祀る為 建立したのが、瑞鳳殿境内にある弔魂碑です。

碑は創建以来133年経過し、鋳鉄製の碑の角が欠ける等の痛みが激しく 倒壊寸前の状態となりました。瑞鳳殿参拝者多数が目にする位置にあり、仙台の歴史遺産に対する意識・文化の程度が推し量られ 事にもなります。
仙臺藩志会では毎年10月10日碑前で慰霊祭を催しており、碑の老朽化には、末裔として内心忸怩たる思いをしていましたところ、所有者であります仙台市は、市民の願いを酌み取り 決断しました。

2010年11月 東北大学金属研究所の指導の基に改修工事に着手し、解体・分析調査を行いました。3月11日の大震災のため 完成が遅れ、本日2011年7月27日(水)10時完成式が挙行されました。

完成式次第

1.除幕式(主催 仙台市)
  除幕者 
  碑 右側 
  @伊達家御当主 伊達泰宗様 A仙臺藩志会会長 伊達洋司様 B仙臺藩志会参与鈴木繁雄様 C(財)瑞鳳殿常務理事 大崎啓一様 
  碑 左側
  @仙台副市長以東敬幹(ユキモト)様 A仙台市議会経済環境委員会委員長 齋藤範夫様 B仙台市経済局長 高橋裕様 C東北大学金属ガラス総合研究所長 後藤孝様

  仙台市観光交流課課長峰岸裕様の音頭 1-2-3 スルスル 幕が落ち 瞬間で 新装なった碑が目前に燦然と。


2.竣工祭・神事(主催 施工業者)
  神官 仙臺東照宮 2宮司 
  @修祓の儀
  A降神の儀
  B献饌の儀
  C祝詞奏上
    碑創建の由来から 改修工事に至った経緯 (録音するか 文章全文を欲しかったが叶なかった)
  D切麻散米
  E玉串奉天
    除幕者8人+@轄イ元工務店代表取締役佐藤元一様 A甘゙ィーイカスタマサポート代表取締役幕田浩様 B(有)東北マシンテイク代表取締役 河    村正志 C轄イ吉産業様 D(有)中倉サイン工芸代表取締役高橋義信様
  F撤 饌
  G昇神の儀

3.落成式(主催 仙台市)
  施主挨拶  仙台副市長以東敬幹
  要旨
  日々の観光行政に皆様のご協力に感謝する。
  明治10年建立以来 仙台市民に親しまれて来ました。この弔魂碑にまつわる郷土の歴史の重みを後世に伝えなければならない。碑 本体を可能な限り生かし 碑の歴史的価値の保存を図る為、我が日本国の金属研究の先進的かつ中心的役割を担っている東北大学金属研究所に 補修と耐震性強化をお願いし 高度な調査と分析が進めて頂き 本日完成しました。仙臺藩志会と(財)瑞鳳殿のご協力に感謝します。
  今後 観光資源として活用したい。

  来賓祝辞
  @仙台市議会経済環境委員会委員長 齋藤範夫様

  A伊達家御当主 伊達泰宗様
    14代宗基公が創建されました。1945年 本地区の全てを仙台市に移管しました。史跡・遺跡の歴史公園として整備され、特に御廟等は(財)瑞鳳殿が主体となり 丁寧に管理して頂いています。本碑もお陰様で修復なりました。重ねて 御礼申し上げます。

  B仙臺藩志会会長 伊達洋司様 
    本日茲に「戊辰の役殉難者弔魂碑改修落成式」にお招きいただき、ご挨拶を申し述べる機会をいただきましたことは、誠に有り難く哀心より感謝申し上げるものでございます。

 藩祖伊達政宗公を祀る由緒ある経ヶ峯のこの地に、建立されておりました戊辰の役殉難者弔魂碑が、仙台市のお力添えで改修工事を終え、目を見張るばかりの見事な出来栄えで竣工いたしましたことは、伊達家の祭祀に奉仕する私共にとりまして、深く喜びとするところであり、厚く御礼申し上げる次第でございます。

 戊辰の役は、近代日本の幕開けとなった戦いであり、奥羽越列藩同盟に伍した仙台藩の苦悩と決断の戦いでありました。その尊い犠牲となられた1260人の御霊(ミタマ)を祀るこの弔魂碑は、明治10年第14代伊達家ご当主伊達宗基様と、旧家臣の方々の手によって建立され、爾来140有余年もの永きに亘、風雨にさらされ老朽化し、鉄骨が腐食して参りましたので、心を痛めてきたところでございます。

 この中で、私たち仙臺藩志会は、平成20年10月10日戊辰の役140年を記念して慰霊祭を開催。事後毎年弔魂碑前に集まり、全員で黙祷を捧げご冥福をお祈りして参りました。

 幸い、仙台市議会において元仙台市議会議長、本会参与の鈴木繁雄先生のご尽力を賜り、仙台市が施主となつて改修を実施するところとなり、東北大学金属材料研究所並びに再委託を受けられた佐元工務店様の技術力によって、今回竣工の運びとなったものでございます。

 本来でございますれば、昨年11月24日から取り外しが行われ、金属材料研究所の手によって、材質の検討が行われ、工事を担当された工務店様のお力添えで、今年3月竣工の運びとなっておりましたが、その3日前に東日本大震災が発生し、伊達家の墓標を始め寶筐印塔などすべてが損壊するなか、無事に保護され経の竣工を迎えることが出来ました。

 このように多くの困難の中、それを見事に克服し、このような立派な弔魂碑を完成いたされましたことは、仙台藩の志を継ぐ私たち仙臺藩志会にとりましての喜びだけでなく、尊い犠牲となられた地下に眠る仙台藩士並びにそのご遺族にとっても、感激の極みであると存じ、心から感謝もうしあげるものでございます。
 
 私たちは、黎明の日本の将来のために、そして仙台藩のために殉死された方々の御霊を偲び、今後も毎年慰霊し続けることをお約束するものでございます。

 最後になりましたが、仙台市ご当局並びに工務店様に 重ねて感謝も申しあげるものでございます。

  C仙臺藩志会参与鈴木繁雄様
   ある仙台市長が靖国神社に参拝したと豪語した。郷土防衛の為 散り宮城県護国神社にも祀られない 郷土の先人を先に詣るのが 仙台市長の務めでは無いかと 市議会で質問した。弔魂碑の存在すら知らなかった。悔い改めて 改修工事の予算化を決意した。本日に至った。慶賀であります。

4.参列者紹介
  殉難者 坂英力 ほか 遺族15人。 一括紹介
  殉難者遺族は既に三・4世代目になっています。起立を求め 紹介して頂きたかった。

5.改修工事概要報告  東北大学金属ガラス総合研究所長 後藤孝様
  調査を依頼され、横山・加藤の両准教授と訪れた。台座付近の四隅が欠損しており、創建当時の姿に復元できるか迷いました。

 T.はじめに
  本碑は鋳鉄(鉄に炭素を4%を加えたもの)製です。鋳鉄は伸びがなく硬くて脆いのが特徴です。その例が南部鉄瓶です。

  弔魂碑は、炭素3.3%、ケイ素1.5%、リン1.3%、マンガン0,96%、パナジュウム0.14%、竜素0,12%を含んだ鋳鉄です。
  鉄中の炭素が黒色の鱗片上の黒鉛として析出し、「ねずみ色」に見えます。ねずみ鋳鉄と呼びます。

  台座付近の四隅が欠損していました。これは長年の腐食と自重による大きな力が底部にかかり、相乗効果によって割れる「応力腐食割れ」が   進展したものでしょう。

  表面は、それほど腐食が進行していませんでした。ケイ素、リンを多く含み、これらの化合物が腐食を防いだでしょう。
  印度デリーの鉄塔が世界的に有名で1500年間 殆ど腐食が進行していません。

  台座付近と弔魂碑を繋ぐネジの腐食が進み、碑は単に台座に載っているだけ、いつ倒壊してもおかしくない状態でした。

 U.修復の経過
  主な目的は、耐震補強と倒壊防止に、外観の整備です。
  前述のとおり自重を支えるのが困難なほど鉄が劣化していた事から、内部中央にステンレス鋼製の柱(20cm:径のパイプ、肉厚20mm)と、梁を設置。石垣土台内部に鉄製の柱を埋め込み、中央にステンレス鋼製とネジで連結しました。

  四隅の我の修復は、最も難しい判断を求められました。幾多の方法を検討しました。(詳細省略)結論としてニッケルを用いた溶接をしました。

  表面には、厚さ1mm程度の赤錆が発生していましたので、砂を吹き付けるサンドプラス法により 取り除き、最終的に同様の色の塗料を塗布しました。

 V.まとめ
  日本は古来 独自のタタラ法などの製鉄が行われてきた。製鉄の大型構造物が多数製造される様になったのは、江戸時代末期に西洋式の炉 が導入されたからです。
  1877(明治10)年に、この弔魂碑は 現在の埼玉県川口市で作られたと記録されています。
  幕末 勝海舟の指示で 川口で大砲が作られたの記録があり、鋳物製造地として 当時から有名であったことから、弔魂碑も川口で作られたと思われます。

  1928(大正3)年、東北帝国大学に鉄鋼研究所(現 金属材料研究所)が設立されました。
  今回 鉄の権威 横山嘉彦、加藤の両准教授のほか、腐食学のハラ、溶接学のヨコカワ、ハンダ、建築学のイノウエの 各准教授の東北大の各部門の最高権威の力が結集されています。

  この弔魂碑は、印度の鉄塔の様に 1000年以上大丈夫です。また、日本の近代化・草創期に建設されたもので、当時の鉄を現代に残す貴重な学術遺産です。その意味で 戊辰の役の歴史遺産と同時に 学術遺産として 後世に末永く伝えたいものです。


式終了後
  碑の銘板の一枚を外して 中央にステンレス鋼製の柱 芯柱を公開しました。

  後藤教授に「碑の材料に、敗軍の将兵の思い、伊達家家臣の名誉の思いから 伝来の刀等を提供していないか」 質問しましたが 「そこまでは分析出来なかった。 輸入鉄の特徴パナジュウムが0.14%含有していたところから 輸入鉄が用いたのでは? 」 との回答でした。


  横山嘉彦准教授から、次の教授がありました。
  @ 1930(昭和5)年に補修工事した痕跡が発見された。ボルトにニッケルが使用され、穴の位置が別であった。
  A 教授説明の塗料の塗布は 間もなく流れます。その後 保存に有効な錆びが発生し、色合いも修復前の美しい色になります。


本日の式典には、一般市民を含め 100余人の参列がありました。

弔魂碑については、「表紙」 「資料館」から「弔魂碑」を併せてご覧頂ければ幸いです。



7 月 25 日 (月)  



一関 田村家 正門

今月12日 忠宗公354回遠年忌法要の際、一関 田村家御当主 田村 護顕 様が、一関藩志会会員面々と参拝されました。
その際、3月と.4日の2回の大地震で、感仙殿前の多数の奉納石塔で唯一 転倒しなかった一関田村家2代田村誠顕下総守奉納石塔をご案内致しました。

以来 何故か 田村家とのご縁を感じています。

孫から 学校で日本史を習っている。ついては、鎌倉時代に遡り、且つ 世界遺産に指定された「中尊寺」「毛越寺」を案内して欲しい との要望。
孫に対する解説は その親が終始 語っており 前後をウロウロしながら見学してきました。

今日の発見
1.「毛越寺」は、一関田村家の正門であったもので、1922(大正10)年に移築したものである。
  是まで 何度か この門を通っていますが 今回 初めて知りました。確かに 門の左右に門番等の部屋があります。窓と格子の形 正に武家の門です。

  1927(大正15)年に、仙台の伊澤平左衛門の尽力で「釋迦牟尼佛・文殊・普賢」の三佛が 「毛越寺」から「瑞鳳寺」にお出でになりました。この門の移築も何らかの関係があったのでしょうか。

2.「中尊寺・讃衡蔵」に 初代藤原清衡の寝棺が展示していました。
  金色堂に藤原4代が祀られていたとは知っていました。しかし 棺の構造・形態まで意識していませんでした。本日の発見です。
  江戸時代は 座棺 桶が主体で、火葬の一般化で 棺箱が主体となった。棺箱は 最近のものと理解していましたが 鎌倉時代以前から 使用されていたとは、新発見です。

3.清衡等はミイラ化していたとのこと。清衡は真夏に亡くなっています。この絶 不利な状態でミイラ化出来た技術は驚異的なものです。それが 何故伝わらなかったのか。伝わらぬ故 政宗公は座棺で ご遺体から ご遺骨に最終的に変身しています。技術が伝わっていれば ミイラ化したと思いますが。


最後に 我が身を振りかえれ
1.服装は 不快感を持たれる事はないか 着崩れはないか。
2.動線 人々の移動を阻止する位置で ガイドをしていないか。
3.ガイドを依頼しない人々も ガイドを注目をしている。

平泉ガイドの会 で活躍している方々にケチを付けているのではありません。
猛暑の中 高齢者が 懸命にガイドしていました。
職業ガイドの方も それなりにガイドしていました。ご苦労様です。

田村家とのご縁を感じながら 孫は興味が無く 猛暑故に 一関市台町 所在 祥雲寺の初代田村建顕から歴代の墓所を詣るに至りませんでした。機会を改めます。 
  







7 月 24 日 (日)  



7月4週目

台風一過天候が回復し 又 暑くなるの予報でしたが、風が爽やか 秋を感じます。
国内のからの参拝の方々の数は 昨年同月比プラスと見ています。一部に異論があります。

一番のお客様。四国愛媛県生まれ、四国点々勤務、ご主人が現在仙台に単身赴任中の御夫妻。秀宗公の宇和島伊達家 、宇和島と四国の産物(珊瑚・真珠)よく ご存じです。拝殿の扁額をご覧になり、遠国仙臺と四国との ご縁に感慨ひとしきり。またまた 時間超過60分経過。


一服していたら、仙台市内南部の老人倶楽部30人様から ガイドのご依頼。通常 市内の老人倶楽部のガイドは苦手です。自分の年輪以上に 歴史に詳しく 自分煮は知らない事と自認している方がおり、ガイドを先回りするからです。

今日のこの倶楽部には その様な方はおらず 30分程度でのご依頼でしたが 50分経過していました。

本日は、NKさん HTさん YYさんが見えていましたが 仲間同士の会話する余裕なく 皆様はフルにガイドしていました。

SBさんが ご令室と孫さま連れで見えました。制服(五色乱星陣羽織)を着用したら「オジイサン それナーニ 変なの」と云われながら ニコニコ ガイドに連れ出していました。

いよいよ 夏休みです。
あかとんぼ の孫から「間もなく仙台駅到着」のメールが届き、本日のガイドを終了しました。
政宗公は、永禄10年8月3日羽州國置賜郡米澤に生まれました。是にちなみ (財)瑞鳳殿では イベントを 小学高学年対象に開催します。参加すると申しています。初めて 訪れる瑞鳳殿で何を感じ 何を見いだすでしょうか。



7 月 22 日 (金)  



ご挨拶に

我々 ガイドの会には
@ 「NPOシニアの為の市民ネットワーク仙台・ぐるーぷ・よっこり」は、瑞鳳殿を主体とし、市内一円 伊達家関連施設をガイド出来る者で構成する会。
A 「藩祖伊達政宗公瑞鳳殿ボランテイァの会」は、瑞鳳殿のみをガイドする者で構成するする会。
以上の二団体があります。 その構成員は 極少数を除いて重複しております。

この様なことから Eさんが 双方の頭目(代表と会長)を務めてきました。が

☆ 仙台の代表的観光地を内外に認識して頂くために 別個2団体で登録すべきである。
☆ 瑞鳳殿ボランテイァの会は、2006年7月19日結成以来 5年を経過し 専属の会員も出てきた。
ことから、@の代表にEさん Aの会長を あかとんぼ  と 頭目だけ分離しましょうと Aの6月総会で決議しました。


(財)瑞鳳殿の常務理事・事務局長と事務局次長のお二人は、本年5月1日付け仙台市の人事異動で交代されました。

震災復旧工事 伊達家行事と繁忙を極めており 本日 漸う 時間を頂きまして Eさんと二人で 会員を代表して ご挨拶に参上しました。

話題として
◎ ボランティアガイド活動の場として 瑞鳳殿を提供頂き感謝しております。
◎ 著名な観光地には ボラガイドがいるのが当然となっています。仙台を代表する瑞鳳殿において 他にひけを取らないガイドに努めています。
◎ ガイド要員の増員、後継者育成の面から 研修・勉強の会を開催して頂きたいです。講師・資料作成等 裏方の仕事致します。
  (財)瑞鳳殿主催で 市広報に 開催を広報すれば 参加希望者が集まります。

★ 被災の復旧工事が暫く続く この復旧工事費が多額であること、被災による参拝者減少に伴う入館料の減少と 経費を要する事業は 難しい。
★ 資料館のビデオ 7月30日から全面更新します。ボラガイドも皆様 ご覧ください。
★ 瑞鳳殿発掘調査の模様、四季等の DVDを ボラガイドの研修用 配布します。
★ 感仙殿等の地区を含め 全施設を 7月30日から公開します。
★ 七夕ナイトは 前年と同規模で開催し、瑞鳳殿本殿開扉(政宗公に直々御挨拶) 七夕期間中 行います。



7 月 21 日 (木)  



幻の百満石のお墨付き

1600(慶長5)年 東北の関ヶ原の戦いと称される上杉景勝攻撃の際、攻撃の総大将徳川家康から政宗公に、判物が出された。

「覚 1.刈田 1.伊達 1.信夫 1.二本松 1.塩松 1.田村 1.長井 右七ケ所 御本領之事候之間、御家老衆中ヘ為可被宛行、進之候、仍如件  慶長五年八月二十二日 家康(花押) 大崎少将殿」

結果的に、この約束は反故され 「幻の百満石のお墨付」となりました。知る人ぞ知る事実で原本が 仙台市博物館に展示されています。

さて この様な「百満石のお墨付」が 外の戦国武将に 発せられていた?

仙道口からの攻撃を命じられた 佐竹義宣に 徳川家康からの 次の書状を吉田織部正が持参した。
「覚 1.常陸 1.磐城 1.下野 1.下総 1.上総  右五ヶ國之内百萬石御本領之事候之間、佐竹右京大夫殿へ為可被宛行、進之候、仍如件  慶長五年六月十六日 徳川家康 (黒印) 佐竹右京大夫義宣殿」

花押か黒印か 宛名の書き方等 微妙な違いはありますが 政宗公宛の判物と 同様であります。

この戦局に於いて 佐竹義宣の立場は 微妙かつ重要であった事は 伝えられています。が この「百満石のお墨付」は 初めて見聞きする話しです。史実として 本当であるが 勉強不足で 知らなかったのか。

佐竹家譜 〔始祖新羅三郎義光生誕の天喜3(1055)から、30世佐竹義厚し没年弘化3(1846)年まで 790余年の事績を年代、月日順にまとめた、佐竹家伝来の公式記録〕 の義宣の この年代 この戦局の項を開いたが 記載されていません。
当然、「茨城県の歴史 山川出版社」「梅津政景(家老)日記 渡部景一著」にも 一行も記載されていません。


佐竹義宣公に対する「百満石のお墨付」は 政宗公の「幻の百満石のお墨付」にヒントを得た 創作 と判断しました。

《名将 佐竹義宣》 南原幹雄 著 382頁に記載があり、参考資料として 「茨城県の歴史 山川出版社」「茨城県史」「茨城県資料」等を列記していました。故に 史実かな と思い 調べましたが。

なお 《名将 佐竹義宣》 は426頁の大作で 読みやすい本です。



7 月 18 日 (月)  



3連休の最終日。はて 何の祝日。
あかとんぼ の手帳 18日と赤字で標記されていますが 何の日かの記載がありません。「海の記念日」です。本来は7月20日です。

朝 早くから 極暑にめげず 続々と参拝に お見えになります。対前年比 プラスではないでしょうか。

朝一番は 神戸之女子大学生の一団。表示板の政宗公画像と解説を読みながら 喧々囂々。政宗公はダテオトコと 持て囃された男です。イイ男 政宗公をご紹介しましょうと 20分程度のガイトの約束が 結果的に59分。

ひとり 熱烈な政宗公フアンがおりまして、「両目の画像の由来」等 政宗公にかかる挿話 数々知っていました。この学生 又 参拝に来ます。その節 ガイドして欲しい のお話。あかとんぼ のメールアドレスを知らせました。

学生達からの質問
1.御木像は 何歳の時ですか
2.仙臺藩志会に加入できますか
3.五色乱星模様の陣羽織は幾らでできますか


小学5年生と両親。噛みくだいたガイドに務めた積もりでした。最後に如何でしたかと感想をお願いしたら 「漢字」が多くて と返ってきました。
ウーン 研究課題です。ガイド仲間に 小学校教諭の履歴の方がいます。講師をお願いしてみましょうか。
蜻蛉の幼虫 ヤゴが夏休みに来仙しますので ヤゴと親トンボを対象に自主研修を計画しましょうかな。


最後は 新潟と松戸の御夫妻等 ガイドして 「海の記念日」ガイドを終わりました。
2日間の日差しで 見える所 腕は ダテカラー(黒)になりました。



7 月 17 日 (日)  



暑いです。灼熱です。
顔面から 汗が噴き出します。陣羽織(制服)洗濯・糊付け パリパリで着用しました。結果はどうなったでしょう。

8時45分到着。腹巻きマイクを前に、凍結水筒・タオルを腰に装備完了。9時瑞鳳寺山門前に待機。
9時15分 江戸・日本橋・越後屋様の駕籠が到着。
先達からの要望は@1時間以内で、A高齢者が多いので歩行速度に配慮を B感仙殿・善應殿も参拝したい でした。

厳しいご注文です。
瑞鳳殿(涅槃門・拝殿・本殿・資料館・七夕)・戊辰の役弔魂碑を直前に、感仙殿・善應殿、妙雲廟界、公子公女廟を遙拝で ご案内 10時20分次の目的地に向かわれました。

限られた短時間 要望を全て達成しました。添乗員様から「お客様から満足の感想を頂き、かつ 私の要望も全て達成してくれ 感謝します」の有り難いお言葉を頂きました。何%かの社交辞令が含まれるにしても 有り難いお言葉です。

ご質問として
1.伊達家は健在ですか。
2.仙台の伊達家以外にも 伊達姓を名乗る家はあるのか。

答えとして
1.始祖から数えて34世 政宗公から数えて18代 御当主が健在で 遠年忌法要等 催事を主催されています。
  お住まい、年収等 お尋ねなりたい個人情報は 私は知りませんのでご勘弁を。
2.伊達家には 御一門11家中9家が伊達姓です。何れも御親戚です。

ご婦人から次ぎの様な お話を頂きました。

私は 亘理伊達家の家臣の末裔です。戊辰の役で敗者となり 北海道開拓に殿様に従い渡道しました。漁師(網元?)となり、内浦湾(噴火湾)で魚が捕れた時、先ず一番に 殿様の家に 三宝の乗せ 紫の布をかけ 届ける(献上する)しきたりが有り 私 その役でした。

お駄賃と申すか 御褒美ともすか 頂いたものは「金平糖」でした。
今 金平糖に お目にかかりませんが あかとんぼ にも 金平糖は 高級な菓子で あった事は知っています。

ご婦人は 現在 東京で 三越は外商を通しての買い物をされる優雅な生活になっても 子供の頃の出来事 「殿様と金平糖」 が瑞鳳殿を参拝され 沸々と思い出され 語られたのでしょう。ご婦人は あかとんぼ より年長者でした。

ご婦人が何歳の時代の出来事かは確認しませんでした。しかし、戦前 70年位前まで 殿様と家臣との関係 往復を語る貴重なお話と思い 記録しました。


仙台市役所前広場で 「東北六魂祭」なるお祭りが開催され、その見学のついでに 瑞鳳殿を参拝(観光)される方々が沢山 見えました。
10時30分から 毎日曜日定例ガイドに入りましたが 引き続き 休息する余裕なく ガイド依頼がありました。

記憶に残ったお客様は、出羽国庄内 鶴岡から見えた高齢の御夫妻に娘の3人様です。

「鶴岡は 酒井様13万石ですネ」に、「よく ご存じで」 「本間様は知らなくても 親藩酒井家は有名です」  「ここは伊達家 政宗公の墓所ですか。豪華絢爛ですネ 酒井家は 質素というか ・・・・・」の会話になりました。

酒井家の墓所は 鶴岡城址から 程無い所の大督寺に隣接して 酒井家で管理しています。公開していませんので あかとんぼ は大督寺側からお参りしました。御廟はなく 墓石です。戊辰の役の後遺症でしょうか 鳥居のある墓石もありました。全体に 酒井家で管理に 相当の負担になっていると 感じました。
その点 政宗公等墓所は (財)瑞鳳殿が維持・管理し 参拝者が多数です。恵まれていると思います。


参道脇 奉納石灯籠を説明していたら 「松山 酒井家は2万石 なるほど」と返ってきました。
松山城址は見学しております。 瑞鳳殿至近 米ケ袋に所在します 「阿部次郎記念館」の主 阿部次郎は この松山町の生まれで 生家が保存・公開されています。見学しております。

郷土の歴史を愛している方 そして 訪れた地の方 とのガイドは 楽しくなります。

帰宅 資料確認をしました。松山・酒井家 1732年以降 幕府 若年寄に就任 若年寄の体面を2万石で保つ為 財政圧迫となり 1756年 江戸屋敷の中間に至る270人が 殿の隠退を求め ストライキに至った史実があることを知りました。


12時 疲労困憊 口が回らず 足が上がらなくなりました。群馬のお嬢さん達 涅槃門の裏表 そして 涅槃門から拝殿扁額の説明させて貰い、本日の打ち止めとしました。

冒頭 記載の 陣羽織 汗で 絞られる状態でした。
事務所から 2回 冷たい麦茶を馳走になりました。お陰様で 巣に無事辿り着きました。



7 月 13 日 (水)  



昨12日16時地元某TV局発信番組を見て オドロキモモノキ

塩竃神社・瑞鳳殿・大崎八幡宮の順番で参拝をすれば運気が強力に着くと 運気の達人が申して 若い女性と 巡る内容です。
宝くじの抽選会での前座です。この3ケ所をこの順番で参拝すれば 宝くじ3億円が当たるかも を連想させるもの。

案内している運気の達人は ガイド仲間の頭領のEさんです。普段 神に 佛に 霊気を語らない Eさんから 「想定外」の出来事です。
秘めた運気で ガイド仲間を統率しているのかナ オドロキモモノキでした。


昨12日地元紙夕刊一面をご覧下さい。
「瑞鳳殿/石垣損傷、30日全面再開」の記事が掲載されています。
忠宗公遠年忌法要で 感仙殿にお参りしましたが 同地区は9割方 修復が終わっています。8月1日からの全面公開が楽しみです。

URL
http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1076/20110712_01.htm



7 月 12 日 (火)  



昨日「梅雨明」 但し宣言は無い。灼熱です。

伊達忠宗公354回遠忌法要が感仙殿で 午前10時から催されました。

次第
読経 瑞鳳寺 2僧侶
焼香 
 1.伊達家18代御当主   伊達 泰宗 様
 2.一関 田村家御当主   田村 護顕 様
 3.殉死者後裔会代表    古内 重義 様
 4.仙臺藩志会会長      伊達 洋司 様
 5.一関藩志会会長      赤塚 愛人(チカト)様
 6.大年寺会長         阿部 和子 様
 7.(財)瑞鳳殿常務理事   大崎 啓一 様
挨拶
 1.伊達家18代御当主   伊達 泰宗 様
 2.仙臺藩志会会長      伊達 洋司 様
 3.(財)瑞鳳殿常務理事   大崎 啓一 様

梅雨明け特有のムンムンする灼熱の気温での法要です。
テントを2張 張って頂きましたので 直射日光を遮りました。
参加者ほぼ全員 男は黒服 女は和服を着用 色付半袖シャツ姿は目に入りませんでした。
以上の厳しい自然環境の中 約40分 参列者は直立不動です。倒れた人いません。自身に対する鍛え方の相違でしょうか。


大年寺伊達家歴代墓所復興支援金の贈呈が、引き続き (財)瑞鳳殿常務理事室で行われました。
伊達洋司仙臺藩志会会長の挨拶、
柳沼事業部長から 100有余人 1,×××,×××円と詳細報告、
伊達家18代御当主伊達泰宗様 から「各自の墓所等に被災下のに拘わらず多額の御芳志を頂き 誠にかたじけない ご芳名は後世に伝えます」とご挨拶。

誠に些少の金額なのに 後世に その名が伝わるようであれば あかとんぼの末裔から「我が先祖 あかとんぼ は 気力・胆力・視野・財布ともに極小だったな」の評されるのでは。これを「アトの祭り」と人はいう。


本日の記念品 「伊達忠宗公354回遠忌法要栞」は 政宗の息子はアウトドア派 と名付け 39歳から60歳までの間 77回の狩猟の記録。 年齢・月日・種別・場所と一覧表になっています。軍事訓練に留まらず民情視察も目的ではなかったか とコメントしています。


法要終了直後 一関 田村家御当主 田村護顕 様、一関藩志会会長 赤塚愛人様にご挨拶を申し上げました。
お二人のほか 一関藩志会の皆様を 不撓不屈・泰然自若の象徴 3,4月の地震で この地区で唯一 転倒・落下しなかった 「田村下総守誠顕」が綱宗公に寄進した奉納石灯に ご案内しました。

田村誠顕とは 養子・2代目です の解説が 即ありました。
寛文10(1670)年2月1日生。旗本田村顕当の5男。田村建顕の養子,宝永5年田村家2代。享保12(1027)年6月16日58歳で死去。

一関藩志会の皆様 ご当主と奉納石灯一緒のを撮影してました。あかとんぼ 撮影しました。公開は致しません。


福島県伊達郡川俣町の中学生が 修学旅行で 団体で見えました。
伊達家発祥の地 福島県伊達郡の 各町村の中学生は 歴史的関係を確認に見えます。果たして 仙台の中学生は 福島県伊達郡を訪れているのでしょうか。ヒョットすると 皆無では。

中学生にガイドをしたいと思いましたが 資料を持参していない事と暑さによって体力・気力の限外寸前でしたので 日曜日に保護者と再訪された時 ガイドします 今日はゴメンと断りました。残念でした。 



7 月 10 日 (日)  



1945年7月10日は 米國空軍の爆撃で 国宝瑞鳳殿が焼失した日です。
なぜ 諄い表現か 説明致します。
お客様のなかに 「昭和20年火事で焼いたそうですネ」と申す方がいます。確かに火事で焼失しています。しかし原因は 失火または放火ではありません。仙台市民は先祖崇拝と国宝を守る意識が低くて 失火で焼失した如くの表現が たまらなく不満です。

故に、ガイドの際「66年前の1945年7月10日 米國空軍の爆撃で 国宝瑞鳳殿が焼失しました」と説明しています。

「66年前の今日 今の時刻は 鎮火に至らず灼熱の地獄の様相でしたでしょう。・・・・・・・」と瑞鳳殿の南側の彫刻から寶筐印塔に説明が移った その時 「ヘタヘタ」と揺れが伝わってきました。「地震!」かなり強い揺れです。震度4か5です。

寶筐印塔は揺れませんが 本殿が なにか 触れ合う音がします。逃げ遅れては大変です。私のガイドを聞いていた人、無視していた人 20余人を拝殿前広場に誘導しました。

離れた所から「石塔に捕まりましょう」の声が聞こえました。思わず「危ないです。一番危険です 離れてください」と叫びました。
3月に 全倒しています。震度5以上になれば 倒れる確率高くなります。

青空にそびえ立つ避雷針の先端が 左右に50-100cm巾で揺れています。3月の震度7で先端が折損・落下したのが理解しました。

程なく 事務所の主任・学芸員等が駈けてきました。
「お客様を誘導し 安全です 建造物にも損傷無いようです」と 報告。

報告が終わった途端 携帯が鳴りました。
「大丈夫ですか。震度4です。津波警報も発せられました。被害・怪我ありませんか。当家未だ揺れています」 毎日曜日午前は瑞鳳殿でボラガイドをしている事を知っている武蔵の國で高層マンショションに住む知人からの 見舞いでした。

迅速なお見舞いに感謝すると共に 奥州仙臺で揺れが収まっても 武蔵國の空中は揺れているとは。 地震時差  面白いです。

3月は震度7, 4月は5, 7月は4と収まっていますが 真夏の日曜日で参拝者が多い時刻の地震。参ります。避難誘導訓練は今までありませんでしたが、連続する地震、過去10年間の経験が 自ずからのマニアルが出来て誘導できたと思います。安全第一です。


一家の大黒柱風のご婦人5人程。時間的に バスを下りて参道入り口付近で 地震に遭遇した筈。「どの辺で地震感じました」と聞きましたら 「ゼンゼン 感じなかった すれ違った人に教えられたの」 誠に泰然自若。
此処のお宅は 天変地変 子供が叫んでも 微動だにしないでしょう。本殿まで ご案内しました。

帰り間際 「資料館出口右側にあったもの なんだか分かりましたか」 「アレー何アッケ」 「小判がありました」
入館する前に 注意を喚起しますが 多くは この様な結果です。正解を伝えました。


仙臺七夕(原型)が展示されました。事務所の女子職員の労作です。今年も 出来は最高です。

名古屋から4世代10人程。各世代とも 七夕を見て 喜んでいました。長老は76歳だそうです。元気です。佐々木文山書の扁額を紹介した際 「ぼくと同じ歳」と。

佐々木文山の76歳は数え年 長老は満年齢 1歳から1歳半の差があります。佐々木文山は78歳で亡くなり 東京青山墓地で眠っています とは申しませんでした。


33度 真夏日 流石 強烈な暑さです。清掃担当のMさん 若手で欧米人の様な頑丈な体格です。「連日の暑さで スポーツドリンクしか受け付けなくなった」 と 青菜に塩の体で ヘタヘタと 仕事をしています。大丈夫かな。


500mlのペットボトルを凍結させ 濡れタオルで包み 持参しました。 頭 顔 腕を冷たいタオルを当て、溶ける冷水を飲みながらガイドしました。
このまま 継続すると 脱水 天日干しのミミズの様子になる心配があります。それでは 関係皆様にご迷惑わおかけします。半生ミミズで終わりにしました。


NHK仙台放送局は 次の様に伝えています。

仙台市で戦没者の合同慰霊祭
7月10日は66年前、1000人を超える市民が犠牲になった「仙台空襲」があった日です。
仙台市では、戦争で亡くなった人たちを悼む合同慰霊祭が行われました。
仙台市青葉区で行われた慰霊祭には、遺族など114人が参列し、全員で黙とうをささげました。
仙台市の奥山市長は、「今日の平和と繁栄は、戦争で犠牲になった方々の上に成り立っていることを忘れてはなりません。東日本大震災でも多くの人が犠牲になりましたが奇跡といわれた戦後の復興とおなじように震災からの復興に力を尽くしていきたい」と決意を述べました。
仙台市は、終戦間近の昭和20年7月10日の未明、アメリカ軍の爆撃を受けて焼け野原と化し、1000人以上の市民が犠牲になりました。
海外の戦地で命を落とした人も含めると、戦争で亡くなった仙台市民はおよそ7700人に上ると言われています。
参列した80代の男性は、「慰霊祭の参加者は年々、少なくなっています。戦争は絶対にだめだと生きているかぎり伝えていきたいです」と話していました。
07月10日 13時37分



7 月 8 日 (金)  



伊達家発祥の地

伊達略系(明治27年6月刊) 朝宗公の項に、「文治5年。源頼朝撃藤原泰衡・・・・有功。賜伊達郡及幕紋 依称伊達氏・・・・」とあります。

現在 原発の爆発被害に曝されています。これを吹き飛ばす目的か (社)福島市観光物産協会主催、梁川町郷土史研究会・信夫地区歴史保存会協力で 7月23.24日日帰りバスツァー開催の案内がありました。

行程は
福島駅西口10時発 高子岡城址・・・梁川八幡神社・・・伊達朝宗墓所・・・大森城址(片倉小十郎・伊達成実居城)・・陽林寺・・17時福島駅西口着。

会費 4,500.円 昼食は和食膳

このコースは ガイド仲間 Uさんのご案内で 以前に実査しています。記憶の揺り返しで訪れたいと思いましたが 日程が詰まっています。断念します。けっして 原発汚染が怖いのではありません。



7 月 7 日 (木)  



瑞鳳殿に義援金

政宗公愛用の茶碗銘「千鳥」などで茶会を6月11.12日に催した、東京美術商業組合「東京美術青年会」は、出席者700人から集めた義援金の内 150万円を (財)瑞鳳殿に7月6日に贈りました。(別途 仙台市に500万円)

代表受領した 仙台市副市長は「皆さんの活動で、あらためて仙台にとって伊達家の存在の大きさを感じた」と感謝しました。

以上の様に地元紙夕刊が伝えています。

伊達家ゆかりの茶器 秘蔵されることなく 古来より流通しているらしく 仙台市博物館 宇和島伊達博物館 の図録には 茶器を見いだしませんでした。


泉州堺から義援金

仙臺城石垣等でご縁があり姉妹都市の堺市。NPO堺観光ボランティア協会から 会員70余人からの義援金000,000.円を NPO観光ボランティアガイド「ぐるーぷ・よっこより」に  被災者の為に活用して欲しい と預託されました。

本日 世話人が集まり 協議しました。
被災し 仮設住宅で過ごしている仙台市の小学生と保護者 120人程を、瑞鳳殿と動物園に 夏休み期間中に招待しましょう の結論に至りました。
基本的分担を決定、詳細分担は26日の学習会「市民会館・10時30分から」終了後 説明・決定する事にしました。

この催事に 是非 協力したい方 メールください。


青葉城は落城していません

 仙臺城址 本丸西側の石垣がバス路線に崩落し 通行止め 迂回路経由になっています。東面の崖に亀裂が入り 立入規制が一部に行われています。しかし、仙臺城は落城した訳ではありません。

この被害状況が 西日本地方に伝わった際 「青葉城 崩れ」となり「ガイド出来ないでしょう」と お見舞いの電話になりました。
二之丸 三之丸は 被害僅少です。本丸は確かに規制箇所がありますが 仙臺城址全体としては 落城していません。
瑞鳳殿とセツトでガイド致します。是非 確かめに お出かけください。


仙臺藩志会関連行事
事業部長から 9月迄の 主催・関連 の行事案内がありました。7月分を表紙に掲載しました。ご覧になり ご参加下さい。



7 月 6 日 (水)  



政宗公は何処で生誕されたか?

米澤城を訪れると「伊達政宗公生誕の地」と記された木柱が 人通りの多い通りに立っています。目にした人々は「ヒー」と驚愕の表情でご覧になっています。それは 〔本当かな〕の疑心から出て居るのでは無いでしょうか。

米沢市教育委員会は、館山城址が伊達時代の本拠地ではないかと 01年から発掘調査を続けていました。その結果 16世紀に極めて身分の高い武将が居住した遺跡を発見した。ついては、「この発見は伊達氏と館山城をつなぐ糸口、新たな歴史関心は明るい話題」と米沢市長が語り、本7月6日現地を視察をすると 仙台の地元新聞の東北欄で 大きく報じています。

市長の公式現地視察は 「政宗公は何処で生誕されたか?」の論議にお墨付きを 出したと理解しました。


「伊達氏の本城はどこか」の標題で6月11日 館山城址の現地調査と論議が 米澤史学会主催で開催されました。このシンポジウムに参加しました。あの熱気が 市長の現地調査に結びついたのでしょう。 





7 月 4 日 (月)  



情報収集能力

緻密に情報を収集し、分析し、活用しないと 高齢者といえども 世の流れに取り残される。

昨日 ガイド終了後 K学芸員の歓談した際 「近々 博物館で講義をすると聞きましたが 日時が確定したでしょうか」 と尋ねたら 「実は 昨日でした。仙台市博物館のHPには掲載されていました」

残念 見逃しました。情報収集能力がお粗末で 折角の学習の機会を失しました。

講義内容の概略
「墓所としての瑞鳳殿の変化(明治維新・廃仏毀釈や仙台空襲や今回の震災を乗りこえてきた瑞鳳殿の姿」と題して 古地図をもとにその変化の状況。例えば 感仙殿は 國寶指定時の状態は明治維新・戊辰の役以前とは異なります。 感仙殿地区の一体化です」 
を聞かせて頂きました。配布資料は博物館に相談されたら で 5日にでも訪れたいと思います。


この講座は、仙台歴史ミュージアムネットワーク(歴ネット)の主催で 6月25日13時30分からの仙台市博物館坂田 美咲学芸員 が語る「震災復興パネル展(「仙台平野の歴史地震と津波」)の解説(仙台の震災の歴史及びその後の復興について歴史資料および最新データをもとに説明)で始まり、瑞鳳殿は2日目3番目でした。

7月9日は戦争体験者が語るとなっています。7月10日仙臺大空襲の被災者が逃亡体験を語ると予想しますが、標題はそうなっていません。
瑞鳳殿の被災状況 を語る方が居れば 聞きたいものですが。
1945年7月10日20歳以上で 瑞鳳殿の周辺に お住まいであって 現在も記憶が鮮明な方 その方のお話を聞きたいです。


寛文事件(俗に伊達騒動)の一人 原田甲斐の屋敷門は 悪を善に転ずるの願いから 逆さにして 荘厳寺(青葉区新坂町12-1)に移築されました。この門は 寛文事件を偲ぶ歴史遺産として 唯一と言われています。

さて、7月9日(土)12時30分から 原田甲斐と今回の震災犠牲者の供養の法要を この荘厳寺で執り行います のご案内をさる方から頂いております。「法要の後 歴史研究家の講話もあります。会費不要・お土産あります」と 付言され ハタと悩んでいます。行けば お土産欲しくてきた と評価されないか です。



7 月 3 日 (日)  



梅雨の晴れ間 お客様の出足は早いです。
るーぷるバス始発到着前から お客様の歓声が全山に響いています。

9時19分 東京の女子大生。涅槃門から出て来て ガイドに取材です。
1問目 ここはどの程度被害を受けましたか。観光客は減少しましたか。回復の傾向は。
2問目 見所はどこですか。

1問目の答
手持資料を開いて 写真をご覧頂き 寶筐印塔塔の転倒等 被災・修復の状況を説明。交通機関不通の期間は減少しましたが、国内参拝者は回復し、外国人にも回復の兆しが見えてきました。

オジサンは 外国人にも Internationalに対応出来るのか?(デキナイダロウのニュアンス)
国籍・人種の差別無く Internationalに対応します。但し使用言語は 日本語 です。理解できる人は 理解してくれます。

2問目の答
20分頂ければ この涅槃門と本殿の 見逃している要点をご案内します。結果として 時計を見ながら説明。
途中から同行した 東京の小母さん3人は 本殿前で改めて 丁寧に説明しました。
3人の内1人 反応 表情に変化がありません。「親の敵」に会った様な無表情です。どうしたのでしょう。

続いて 横浜の女子大生一人。
若い女性が単独でガイドを依頼するとは珍しいです。この物怖じしない様子の根元はなにか。ガイドしなが考えました。○○政治学科 20歳と漏らしました。大卒と同時に 政界に出馬するのでしょうか。日本の為のご活躍を期待します。

年齢は 寶筐印塔の説明の際 最年少者 当時の数え方で 22歳 現在の数え方では20歳なんか月 と申したら 「あら 同じ」と帰ってきたもので、決して あかとんぼ から女性の年齢を尋ねる 失礼な事は致しておりません。

プロから10人ほど 30分で頼む の依頼。25分強で涅槃門・本殿をガイドしました。
涅槃門前で待機していましたら、バラバラと資料館から戻って、ベンチに腰掛けます。「資料館の出口にありましたもの ご覧になりました」 予想した答えが返って来ました。「小判」。

小判が入っていた容器 綱宗公が入られた甕棺 本物であるを見逃していました。入館前に伝えるか 現物前で解説しないと 大方のお客様は 小判をみて 本物の甕棺であるを見逃します。


事務所で Yさんと一緒に冷たいお茶を馳走になりながら K学芸員から 専門の民俗学の立場での 墓石材 土葬場所等の東日本と西日本の相違点を教えて頂きました。

先般の尼様の墓石の形 解説頂きましたが 十分に理解できませんでした。





inserted by FC2 system