2011年8月の日誌
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8 月 28 日 (日)  



8日にガイドして以来、20日振りです。14日はお盆休み、21日は大雨で休みました。

昨日 仲間4人集いました際 「暑くて休み 雨で休み 今月未だ3回しかガイドしていない」「月に4回ガイドすれば1ポイント 3回では失格ですヨ」の会話を仲間からありました。
七夕全期間中の稼働があり、長休みの割に5回目です。ポイント制は初聞です、どこに申請・登録するのでしょうか。

参拝者 開門と同時に。 以後 多いと表現出来ませんが ガイド4人 フル稼働でした。

朝一番の御夫妻 「どちらから」に 「茨城から」 か細い声で。「常陸の国真壁郡 今の筑西市はご存じですネ 伊達家発祥の地です。1189年源頼朝から 福島県伊達・信夫郡を頂き 伊達姓を名乗っています」  又声一段と低くなり
「私たち 東海村から来ました」

東海村と言えば 原発です 福島原発爆発で 福島県伊達・信夫郡も影響を受けています。この御夫妻 責任を痛感している様子。なんで 大臣でも無い 1庶民が片身を狭くする必要があるでしょうか。「がんばれ 東海村」
本殿の天女様をご覧なったら 生気を取り戻したようです。

境内入り口で 資料館と樹木を見上げているお客様。
数年前 傑作と自称している「紅葉」を撮影した位置です。早速 写真をご披露しました。
「この付近に見事な櫻の大木があった筈 しだれ櫻でなかったか。父親を案内した時 感動し 忘れられない」と 申されます。

「確かに櫻の大木がありました。石垣を根が崩す恐れがあると5年程前 惜しまれながら伐採されました。私は 瑞鳳殿の三春(櫻・梅・椿)と称し 案内していました」 
写真は 資料館 「四季」に2003年撮影を掲載しております。http://zuihoden.web.fc2.com/html/siki.htm

仙台七夕の写真から 「仙台七夕の原型を購入し(自分たちで作らないで)飾っています。今説明された 七夕の由来等 併せて飾る様にしようかな」 

子供時代の七夕を語りました。角田市 金津の七夕です 語られた内容 そのままのWEBを発見。全文転載します。

角田市の尾山地区、藩政時代は宿場町として栄えた金津集落にて、古くは旧暦7月6日、現在は8月第1土曜日に行われている子供組を主体とした特殊な七夕行事であります。

行事は、7才から15才までの児童(以前は男子のみ)が町ごとに子供組を組織し、それぞれの組の中心となる宿の前に「カラオクリ」と呼ばれる色紙・短冊・吹流し・提灯などを つけた竹飾りを立て、夕方6時頃から子供組ごとに隊列を組み、提灯をかざして大将の拍子木に合わせて全員で新古今集に収められている短歌の一首「七夕のと渡る舟の梶の葉にいく秋かきつ露の玉づさ」を唱和しながら、金津の町を何度も練り歩きます。

七夕の竹飾りを「カラオクリ」とよんでいるのは「空送り」であり、「本送り」である提灯行列に対しての呼称であることから、この七夕は「星祭り」的行事で はなく、むしろ邪霊を鎮送する送り行事であり、県下では他に類例のない貴重な民俗行事であり、宮城県指定 民俗文化財 風俗慣習となっています

水土里ネットわいとうのホームページ http://www.waito-midori.net/article/13702728.html


宮床を訪れた際 寶蔵で 真っ赤な陣羽織が展示されていました。紋が「梅鉢」でした。一般に前田家の家紋と言われています。それが 何故 此処にあるのか疑問です。御当主にお会いした際 お尋ねする積もりです。

お客様から 突然 我が家の墓地の一画 本家・別家と一緒だか 別家の墓石に「梅鉢」の紋があるが 何故かわかるかと 問われました。宮床伊達家で疑問を生じて 数日での質問。さてさて???

「アッ 時間がナイ」 と申されながら 天女さんの足裏を楽しまれていました。
「申し訳ありません お時間を取らせまして」と謝りました。
「サッと参拝するつもりが お話しを聞き 幼少時代・故郷 まで 思い起こし 楽しかった。ご壮健で」と ご夫妻から お声頂き 安堵しました。


売店で 政宗公関連図書 「伊達政宗、最後の日々」等 展示販売している全種類を購入されたお嬢さん。

重い紙袋をさげ 券売所前で 再度バツタリ。
「政宗公のお墓と遺品」あの大きく厚い本は 買われないのですか」と思わず 声をかけてしまいました。
25,000.と高価で重量があります。実は あかとんぼ 欲しいと思いつつ お小遣いの2,5月分に相当するので買えないでいるのです。
お嬢さんの 買い上げ本代 かなりの金額では。

お嬢さんは、熱烈な政宗公ファンで 地震被害が心配で4月早々駆けつけたそうです。先月は 宇和島 に行ってきましたと。
それではと 売店に置いて頂きました「藩物語 宇和島藩」のチラシを差し上げました。他藩は購入すみ。早速購入 の返事。著者にメールします。飛び上がり 喜ぶのでは。

政宗公について 調べる事あれば お手伝いしますと メールアドレスを交換し 再会を約しました。

今日の出会いは 濃厚でした。+度数の高い順に記録しました。

蜘蛛・蜂・蝉との 出会いもありました。



8 月 27 日 (土)  



「北と南の伊達藩 仙台藩・宇和島藩・吉田藩・一関藩」の標題で、登米伊達家16代当主 伊達宗弘 様講師で、仙臺藩志会主催で講座が開催されました。

話された時間配分 仙台60分、宇和島10分、吉田5分、一関5分程。この配分は 禄高 62・10・3・3萬石によったのでしょうか。
大学の講義を連想させる 一気呵成の講義でした。

質問。昨日同様 「想定外」の質問が3発ありました。
1.但馬伊達家と仙台伊達家の関係を説明せよ。
  講師は ご存じ無く 反問されました。
  伊達宗行伊達学塾長は、関西には伊達姓が多いのは知っている。三文判に「伊達」がある。あれは3萬家あれば商売が成立する原則に基づいています。それだけ 伊達姓が多い証拠です。伊達 の漢字を「イタチ」と読まずに「ダテ」と 読む人が多いのは 仙台伊達家の功績?では。

 日本系譜総覧・講談社学術文庫には 「但馬伊達家」は記載ありませんでした。

 WEBで検索したところ「鎌倉時代、伊達氏は常陸・陸奥国以外にも下野・出雲・但馬・駿河・備中・出羽・越後などにも地頭職を得ていて、それらの地に分流が発生した。なかでも但馬伊達氏は南北朝の争乱に活躍、」の項がありました。質問者の質問起因は ここにあるのでしょうか。

 瑞鳳殿ガイド中 「テニスの伊達公子は政宗公の末裔か」と問われた事あります。伊達公子の系図を調べていませんから 「わかりません」と答えています。但馬伊達家の系統でしょうか。

2.政宗公の長女「五郎八姫」は 家康公の世話で宇和島に嫁したのか。
  兄・妹で結婚できる訳はないでしょう。「五郎八姫」と名前を知っているからには 政宗公の系図をみている筈。何でこんな 想定外の質問になるのか。オドロキ・ビックリ・山椒の木です。

3.明治初年 北海道に開拓に入った人々は、どんな事をしたのか。四年間勤務したが 仙台出身と言えば 再訪できなかった。拒否された。

  講師は「開拓に入った時 原住民のアイヌと紛争を起こさないように 注意し 指示している。故に 開拓が成功し町から 区になり 市になっているのでは」と 答えていました。
  質問者のトラブルは 全く別 人間関係であるのでは。明治の開拓とは別問題では。

昨日の「想定外」の質問は、
1.「覚照寺は 宮床伊達家が創設したお寺で 菩提寺です」と 説明しましたのに、「初代宗房が坊様になったのか」です。

2.「宗房公が 田出家娘と婚姻後 伊達姓を名乗るのを許された」と説明しましたのに、「田手家 現在 どうなった」です。

この2点は 説明をしたつもりでも 十分にご理解頂けずに質問になった様です。1発・短時間でで理解して頂けるよう 説明するのは 如何にするか 研究課題です。



8 月 26 日 (金)  



ガイド仲間の勉強会「宮床覚照寺と信楽寺跡の散策」とタイトルで 宮床を訪れました。

伊達家始祖伊達朝宗六男「六郎実綱」の末裔 田手肥前高実を継いだのが 忠宗公八男 宗房で、宮床伊達家の始まりです。伊達家 から 田手家 となり 伊達家と  先祖帰りをしています。

宮床を訪れるならば 仙臺5代吉村公の生家 宮床伊達家は 何故 表街道から外れた本地に 8000石の「所」預かり で設けられたのか これをポイントに 次の箇所を案内しました。

0.根白石街道・国道457号経由
1.宮床伊達家の菩提寺 大義山覚照寺
2.宮床伊達家の廟所 歴代墓所
3.宮床伊達家住宅  1861年建築で 1869年頃から宮床伊達家が住まいされた 邑唯一の武家住宅。
4.宮床寶蔵  宮床の伊達家・自然・歴史を網羅 展示した ミニ博物館。
5.宮床伊達家の居城「田手岡館跡」  
6.原阿佐緒記念館  明治期の洋風建築
7.信楽寺跡  中世の寺院遺跡

覚照寺の本堂参拝は住職様から 快諾を頂いておりましたが 佛事と競合 ご不在でしたので 御霊屋に祀られていた 始祖宗房公 御木像等を 不肖 あかとんぼ が説明しました。

宮床伊達家の廟所参拝について、現御当主様から ご快諾を頂き、説明をして下さると 資料を預かっていました。
急用で 案内出来なくなりました との御連絡があり、 バス移動車中で 伊達宗家と宮床伊達家の関係 経歴等を預かりました資料と あかとんぼ 資料で 説明の上。本堂・廟所 歴代墓所を参拝しました。 

過去10年間の記録では 8月第4金曜日は降雨の無い日でした。あかとんぼ 精進が不足したのか 天変なのか 降雨となり 寺裏山の3ヶ所の墓所参拝に 足下が心配でした。清掃・整備されていました。

檀家総代S様ほかが駆けつけてくださり お寺様では お茶とお菓子を人数分用意し 接待して下さいました。

宮床伊達家御当主のご意向あっての お寺様の 万全のご配慮と思います。
御当主様 ご住職様 大黒様 総代様 ありがとうございました。

宮床の資料館「寶蔵」の館長からは、伊達家住宅・原阿佐緒記念館においても 案内・説明をして頂きました。ありがとうございました。

「宮床歴史の村保存会」では、9月会員研修で 瑞鳳殿を参拝する計画で 案内を仙臺藩志会に依頼を検討しているとの事。あかとんぼ は条件を満たしていると思います 今日の御礼の意味合いからも その節はガイドさせて下さい とお願いしてきました。

本日の反省です
1.出発時 何回バスから下車するのか 聞かれました。
  参加者の平均年齢は70余歳です。9時から16日迄 終日バスでの移動学習 12回の乗降は厳しいのでしょうか
  宮床の歴史的な全てを 訪れたのではありません 最小限に限定していますが。

2.郊外の現地を訪れる季節は いつが最適かです。
  覚照寺境内は 整備・清掃されていましたが 信楽寺跡は草茫々でした。
  降雨があると 足下が滑る 枝等の雫で濡れる等があります。藪蚊 蜂等も活発です。
  春 草木が繁茂しない 虫が出る前が 最適では。

3.説明を十分 理解して頂けたか。
  資料は 丁寧・詳細に作られ 作ったつもりです。説明も丁寧にしたつもりです。
  しかし 予想外の質問がありました。
  




8 月 21 日 (日)  



大雨です。
「雨でも観光客は計画があり、参拝に訪れるからガイドを休むな」と ガイド仲間の頭領は申します。
確かに お出でになる人は居ます。でも 雨の中では 見えにくい 聞くににくい 濡れるから ガイド依頼は僅少です。ガイド効果 後味は 極めて低いです。
今夏の連日の真夏日・極暑日を節電で過ごした疲労もあります。
頭領の予定日です。お客様の期待には 応えるでしょう。 よって ガイドを休みました。


26日ガイド仲間の勉強会で 宮床を訪れます。
当初「原阿佐緒と覚照寺・信楽寺跡」のタイトルで、南川ダムも訪れる文学的要素の多い案でしたが 案内役急用であかとんぼ に案内役が回ってきました。

宮床を訪れるならば 仙臺5代吉村公の生家 宮床伊達家は 表街道から外れた本地に 8000石の「所」預かり で設けられたのか これをポイントに案内したい。「宮床覚照寺と信楽寺跡の散策」とタイトルを変更して頂きました。

伊達家始祖伊達朝宗6男「六郎実綱」の末裔 田手肥前高実を継いだのが 忠宗公八男宗房です。
@高実の菩提寺・墓所、A宮床伊達家の菩提寺・歴代墓所、B「所」である 居城「田手岡館跡」も 案内する計画を示しました。 

当初計画の文学的要素から 歴史的要素が強烈であると評価されたか 主催者から@とBは削除されました。
「田手岡館跡」を 説明しない 一瞥もしないでは 画竜点睛を欠く の思いが強いです。
地元「寶蔵」学芸員も 是非と推薦しています。
参加者から 希望が在れば、主催者の面目の立つ形で 「田手岡館跡」を 説明したいと思っています。


覚照寺の本堂参拝は 住職様から 佛事と競合しない限り どうぞ の快諾を頂きました。
宮床伊達家の廟所参拝について、現御当主様から 資料 案内したいの ご快諾を頂きました。
宮床の資料館「寶蔵」の館長からも 案内しますの お声を頂きました。

案内役の資料として 次の図書を紐解いています。
1.仙台市史 近世1.
2.宮城県の地名 平凡社
3.伊達家の秘話 伊達泰宗著
4.伊達家の風景 伊達真美著

伊達真美氏は17代貞宗様長女で 伊達家関係古老に面接・記述しており 通常の歴史書では 決して読めない事項が多々あり、宮床のお地蔵様のお話も そうです。今回の勉強会で披露しようと思います。

本日は大雨で瑞鳳殿のガイドは休み26日の勉強会の予習をしています。
現地勉強会は 雨のジンクスがあります。8月26日 あかとんぼ の統計では 過去10年間 降雨の記録はありません。予報は くもり 28度です。 暑からず 最適と思います。
主催者が参加者を集計中です。沢山の参加があれば 嬉しいです。

参加お問い合わせは 022-278-2848



8 月 20 日 (土)  



藩物語「宇和島藩」NO4

元禄赤穂事件と題して2頁(100-101)記述しています。

元禄14(1701)年3月14日、勅使馳走役赤穂浅野内匠頭(36歳)は刃傷に及び、夕刻には 伊達家御一門 一関田村家上屋敷で切腹した。

なぜ 刃傷に及んだか。「統合失調症による発作的犯行」説さえある。
同役は、吉田伊達家 3代目伊達左京亮宗春(18歳)は、上皇の使者 院使馳走役である。しかも初役である。

伊達家の賄賂説は根拠が無い。新説として文禄5(1596)年8月14日 政宗公が浅野長政に絶交状を送り、以来 「不通」にあった。本家のみならず親戚筋の播州浅野家と伊豫吉田伊達家も同様であった。これが起因しているのでは説。
01年2月6日 著者を瑞鳳殿に案内しました際、熱く語っていました。

赤穂浪士太高源吾の愛刀は宇和島の刀工國正の作。作品の大太刀は伊吹八幡神社、和霊神社に、寶剣が宇和津彦神社に奉納され、刀剣は伊達家に伝来していると記述しています。

尚、奉納の太刀・寶剣は宇和島市指定有形文化財となっています。(宇和島市教育委員会発行「新宇和島の自然と文化」50頁記載)

和解
伊達家と浅野家との和解は、伊達家18代泰宗様と浅野家18代長孝様との間で、1994年10月3日実現しています。詳細は 泰宗氏著「伊達家の秘話」207頁を御一読ください。


8月3日政宗公誕生日祝賀行事、「第2回まさむね歴史塾 クイズ動物をさがそう!! ずいほうでん まさむねの森を探検」に参加した 孫 あて 瑞鳳殿本殿を開扉し 政宗公御木像を背に 御当主と参加児童との 記念写真と参加礼状の送付がありました。丁寧なアフターケアに感謝し 早速孫に転送します。



8 月 18 日 (木)  



藩物語「宇和島藩」NO3

山家清兵衛事件
宇和島最大の神社は、和霊神社。
7月23-24日 和霊神社の祭典が 宇和島最大の祭典です。その模様はケーブルテレビで中継されています。パソコンでも見られます。

この和霊神社の祭神は 山家清兵衛公頼。政宗公が自ら選抜し秀宗公家臣団を構成させた 57綺の独り。
元和6年6月29日一家全員が暗殺されました。
この事件の黒幕は誰か 諸説ありますが 著者は 「秀宗の上意討ち」と断じています。

著者は、事件以後 「一族が仙台に戻り」和霊神社を祀ったと 記述し、続いて 清兵衛の長男が仙台に残り、一族の霊を屋敷に祀ったと記述しています。
整理されず齟齬をきたしています。著者が混乱した原因に 仙台市の行政当局にも責任の一端があります。
仙台にも 和霊神社があり、祭典も催されていますが 廣く認知されていません。それが原因です。 

「宇和島地方では、藩祖秀宗を「伊達様」「秀宗様」と呼ぶことはないが、山家清兵衛・和霊神社・和霊大祭を一括して「和霊様」と尊称している」64頁  本書も秀宗と公の尊称が着いていない。

仙臺では 一般的に「政宗公」と 公の尊称が着いています。この差の起因は何処にあるでしょうか。


さて、宇和島の伊達博物館では、7月21-29日と短期間ですが 山家清兵衛」公の甲冑と佩刀を展示しました。
ブログ「伊達博通信 http://datehaku.blogspot.com/」に 甲冑等が掲載されています。黒漆の見事なものです。
ご一覧をお勧めします。



8 月 15 日 (月)  



藩物語「宇和島藩」NO2

「明治24年4月23日、宗城の勲功をもつて伊達宗徳は侯爵に叙せられた。朝敵となった仙台伊達家は伯爵である。村候の本末の争いから141年を閲し、爵位においては、西の伊達が東の伊達の風上に立った」203頁

「伊達家の本家は仙台なのか?宇和島藩は仙台藩の分家なのか?
困ったことに、宇和島市民の多くも仙台藩の分家であると信じている。」204頁

著者の持論。ごもっとです。

2009年3月 全国一早い櫻 開花観測に参加し、挨拶した際 冒頭 「秀宗は長子です」の言。その後 あかとんぼ が、瑞鳳殿ガイドをしており 東西伊達家」に強いに感心を持っている事を知り、吉田伊達家を含む 西の伊達家の史跡等を終日案内し、講義をしてくれました。

2001年2月6日 著者を瑞鳳殿に案内しました。語りました。
何れでも 底流は、 宇和島藩は仙台藩の分家では無い です。


政宗公が存在したから 東西の伊達家があるのです。

秀宗公は 息子宗時を伴い 政宗公の葬儀に参加しています。
さて、その後 西の伊達家は 政宗公の墓所瑞鳳殿を参拝しているかです。


1887(明治20)年6月宇和島8代宗城は 露西亜アレキサードル大公閣下来朝の接待役となり、同年7月26日 瑞鳳殿を参拝。時70歳。「昔はり遠っ親く来よさぬにかしこく今日はおかむ廣前」と詠まれました。
(本項 藩報きずな 平成10年3月NO19号記載によりました)
この年 露西亜王室からの来日は確認出来ません。大津事件は1891(明治24)年です。

2011年2月4日宇和島伊達家現御当主は、愛媛県知事・宇和島市長・農業団体一行と 来仙し、宮城県知事・仙台市長に表敬訪問されましたが、瑞鳳殿をお詣りされませんでした。
お詣りされる際は、仙台伊達家御当主がご案内されるでしょう。両御当主の都合の調整が付かなかったのか、調整する者が不在であったのか。残念でした。




8 月 14 日 (日)  



伊達家墓所

伊達家は由緒あり、先人の経歴 系図は連綿としております。その墓所は 常陸國・岩代國・出羽国 陸前國に所在しています。

近世 政宗公以後の墓所として 経ケ峯(瑞鳳殿・感仙殿・善應殿・ほか)、茂ケ崎(無尽灯廟・寶華林廟)と小田原(祥麟山廟)が代表であります。

経ケ峯と茂ケ崎・大年寺山の廟所は広く知られている所です。
小田原(祥麟山廟)は ガイド仲間でも知る人は限られています。と申す あかとんぼ が辿り着いたのは 08年06月です。

政宗公の灰塚を大願寺に 何回か訪れ確認。その際 豪華絢爛に修復された山門が 4代綱村公正室 仙姫の御霊屋「静寂殿」の遺構である事を知りました。辿りました。

綱村公は、小田原に 黄檗宗の萬壽寺を創建し、宝永2(1705)年7月48才で亡くなられた 仙姫 を葬り 御霊屋「静寂殿」を創建しました。

明治12(1879)年墓域を修復した際、涅槃門等が大願寺(新坂町)と常念寺(東九番丁)に売却され現在に至りました。

廃寺になりました萬壽寺を継承した 末寺 三峰院(現 萬壽寺にと、「静寂殿」の遺構を調査・確認した際、「二の森墓所」と称される (祥麟山廟)に辿りつきました。

お詣りしました。何点かの疑問を持ちました。
1.正式名称が「祥麟山廟」なのか。その命名の由来は。
2.何故 茂ケ崎「寶華林廟」に余裕があるのに 何故 祀られなかったのか。
3.墓碑銘は 何故 戒名では無く実名なのか。
4.至近距離ではあるが 「字」違いの現在地に何故 集団移転したのか。

昨日 仙臺藩志会会報「藩報きずな」を紐解いて、解決しました。
故 土生元一氏が第17号(平成8年9月)に記載されていました。誤り無いように 関係部を引用致します。

「6.伊達家墓所祥麟山廟所
 仙台市の東北部・小田原の与兵衛堤の南側の丘陵、南側斜面に松林があり、ここに幕末頃、登米伊達家の別荘「天遊館」があった。
 ここは宮城野の北、玉田横野を越して仙臺の城下と、その先に茂ケ崎を一望出来る景勝の地であった。この場所について三原良吉氏は次のように記している。

「十三代藩主楽山公慶邦公の夫人八代姫は、御三家水戸宰相徳川斉昭公の娘で、十五代将軍慶喜の妹であったが、慶応二年秋、向小田原松林山の登米伊達家の別荘天遊館に遊び、大変気に入ったというので、楽山公から登米伊達家に所望して郷六御殿と交換した」

 登米伊達家は十二代藩主斉邦公の生家であり、楽山公は斉邦公の夫人徽子(ノリコ)姫の弟として近い身内である。
八代姫はこの三年後の明治二年に亡くなるが、維新後の混乱した時期でもあり、実家水戸家の葬法である儒礼によって、生前好まれた松林山に葬されたと思われる。

 松林山はその音読みで「祥麟山」とされ、略

 明治元年の「現状仙臺城下之図」には、この辺にそれらしい建物が見られる。墓は儒礼のため。墓碑には全て戒名はなく。実名で記してある。

 この墓地はその後も続いて斉邦公夫人、慶邦公を生んだ山本氏恒子(於美屋の方)、斉義公夫人を生んだ渡辺氏温子(於留世の方)など明治十八年迄使われ、略 廟所はその後近くの二の森に移ったが、仙台伊達氏の霊廟として、唯一の儒礼による廟所である。」

以上で 疑問の1−3迄は解決しました。
4は 伊達家 お家の事情と拝察しています。

なお、祥麟山廟所の墓碑一覧は 2008年6月12日日誌に記載してあります。



8 月 13 日 (土)  



お盆です。夏休みです。

「お盆中 勤労すると 帰宅していた佛様があの世に帰る際 連れて行くぞ。儂は そんなの信じないと林檎畑の草刈りをしていたら 倒れ 救急車で都会の病院に運ばれた。幸か不幸か 先祖との相性が悪く 放られた故 現在がある。お盆には働くな」

その昔 津軽の在郷の政治家(議員)から 聞かされた話しです。
余命 先行き心配になってきましたので、先人の話に従い 瑞鳳殿ガイドも休み 夏休み中です。

読書に専念することにしました。
1.仙台市史・通史・近代2.大正時代と仙台空襲まで です。斜め読みしました。
2.藩物語「宇和島藩」 東西伊達家のカラミ 斜め読みは出来ません。容易に読み上がりません。
  チラシ200枚 出版社から 届きました。仙臺藩志会の8月例会で配布のつもりです。
3.「慶応四年壱月戊辰の戦い 仙台藩の先人たち」戊辰史研究の大人木村紀夫様の著作 調べています。辞書の如くです。丹念に読まなくては。斜め読みは出来ません。容易に読み上がりません。

此処で、些か疲れたので 冷房完備の宮城県立図書館に。

8月5日日誌記載 政宗公を将軍家光が見舞った際 秀宗公が忠宗公より 上座に座した の内容。貞山公自家記録には 記載ありませんでした。
宇和島伊達家文書には 記録在るのでしょう。

仙臺藩志会の会報「藩報きずな」 創刊4号から保存されています。
おだてられ 2回程 書きましたが 先人の記録を読み 脇の下 汗が滝の如く流れました。無知の強心臓は怖いです。

得るところ在りました。紹介したいです。 

宮城県立図書館郷土資料室は 入室者が限られ閑散とし 国策により 薄暗く 扇風機を回転しています故 快適な環境で読書できます。高齢者は専用読書灯持参されれば更に 快適です。



8 月 8 日 (月)  



七夕3日目
八十路翁 「七夕になったら 暑くなつたな」と呟き ながら 参拝していました。
仙台で生まれ育ち 老い 初めて お参りしました と語られ 杖をつき 感仙殿に向かわれました。ご壮健で。

青年 ご両親を案内しており 「昨年 仙台に転勤 御霊屋下に住まいしており 本日は時間に余裕がある」
涅槃門前の仙台七夕について 由来・コダワリを説明したら 「ウー そうか 星祭り 願い 伊達文化のコダワリ 知らなかった」と 感歎の独り言。

涅槃門の彫刻 石段の高さ 奉納灯籠の転倒 政宗公御尊顔・・・・・・と丁寧に説明しました。「知らなかった」 「是まで何回か来客を案内したが綺麗で終わっていた」感心 しきり。

ご両親をご案内しての 面目 立ったようです。良かったです。


瑞鳳殿七夕ナイト 今年も 大好評とか
数多くの竹筒の中の蝋燭から醸し出される明かりに浮き上がる 涅槃門に 本殿と 幻想の世界を演出しております。また  西広場の巨木の森の中での 和洋楽器による「森のコンサート」

何れも お客様から「ヨカッタ」の一声で 準備に要した作業 外仕事の疲れ 飛びます。
今年で11年目 試行錯誤の繰り返し 漸う ある形が纏まった様です。
あかとんぼ さん ぜひ おいで下さい。と S主任から ご案内頂きました。


9時職員一同で飾り付けしていました。昨日午後の夕立 大丈夫であったようですが 「大丈夫でしたか?」に 「危機一髪 間に合いました」 仙台和紙ですか 濡れると アウトです。

「お客様に この七夕 職員の手作りです。七夕の由来、七つの願い 材料に 飾り付け まで 説明しています」の あかとんぼ の言に 「あかとんぼ さん 私たちの こだわり 知っていますヨネ」と Mm七夕主任

「ウンー ・・・・」モジモジ
「竹が交差した所 中央の吹き流しをみて あそこがコダワリです 毎年 伊達家の家紋等 伊達家関連を意識しています。
今年 黒に 下部が赤の模様となっています。これは桃山時代の品 伊達政宗公が着用した 重要文化財 山形文様陣羽織をイメージしたものです。」

納得 早速 ガイド開始。図録を用意していなかったので お客様には 馴染みがなく 口先だけでは 充分納得して頂けませんでした。



あかとんぼ 七夕3日間 瑞鳳殿でガイドしました。城下を通過したのみ 城下の飾り 今年も見ないで 終わりました。
来週は お盆です。ご先祖 佛様は 祭祀継承者宅の御仏壇に お帰りになるそうです。政宗公も 御当主宅に お出でになり 瑞鳳殿は留守になると思いますので ガイドを休みます。

今日は「立秋」です。ガイド再開時は グット凌ぎ易いでしょう。



8 月 7 日 (日)  



仙台七夕 2日目
快晴ですが、時折爽やかな風が走り 耐えられる暑さ。
今日は、城下の七夕を見学後、政宗公をお参りするの 行程の方が大部分でした。

土佐・高知から男2女3の5人組。2夫婦プラス1かは論外。
高知の方との事から 「高知とご縁があるものをご紹介します」とガイドを始めました。

「拝殿の扁額 赤い下地 赤珊瑚の粉末です。御地の特産品ではありませんか。尚 白地は真珠玉の粉末で 宇和島産かも?」

此処で お一人「宇和島は 政宗公の長男が藩祖で・・・・・」と語り始めました。本殿 忠宗公書の扁額で「仙台の2代目は正室との長男で・・・・・・」と 同行の方々に説明していました。

宇和島市の高官と親密な関係と洩らしました。高知市長一行 お忍びの参拝であったのでしょうか。
帰路 ご夫人から 清涼飲料水1本 「お元気でネ」と 頂きました。ありがとうございました。

成年御夫妻からのご依頼。「盛岡の高校総体応援の帰りです。名古屋は 秀吉生誕の地 中村区から来ました」とのこと。
政宗公御木像に拝謁し 感激していました。
「選手は、ご子息?ご息女? オリンピック選抜されたら教えて下さい。応援します」に、「娘です 陸上競技 200mです。○○○です」
高校総体 結果を検索したら ○○選手 3位まで入っていませんでした。未だ若い 今後に期待しましょう。


戊辰の役研究家の木村様。弔魂碑 撮影に。ガイド数人屯しているのをご覧に成り、有料入場されました。
年期の入ったYKさんにお願いしました。政宗公と瑞鳳殿について知識を持っている人にガイドは 難しかった様子。

数ある質問の中で 即答出来なかった質問
1.現 瑞鳳殿の設計者は誰か。設計図書は?
2.焼失前の配置図はあるか?
3.弔魂碑の場所に何が在ったのか?

あかとんぼ がYKさんに答えた内容
1.設計は 元東北大学教授小倉強氏。設計図書は(財)瑞鳳殿で保存されている思います。

2.國寶指定の際 詳細な実測図を作製したと 推定しています。その存在を追求したことが無く、詳細は不知です。存在すれば 焼失前の最新の図面でしょう。
  私は 御修復帳(宮城県図書館蔵)をコピーし 資料として 使用しています。

3.御修復帳 貞山様御霊屋 の頁には 現 弔魂碑の位置に 「鐘楼 屋根瓦葺 一丈、一丈一尺」と記載されています。 この場所と理解しています。

 瑞鳳殿発掘報告書 巻頭図 「寛文4年 仙台御城下絵図(宮城県図書館蔵)に描かれた瑞鳳殿」には その位置に 鐘楼らしき建物が描かれています。


本殿 が開扉されています。
御木像 御尊顔にのみ 注目していたら 手前に赤い箱 堆朱細工の文箱の様な物は何ですか と問われました。

事務所に確認しましたら 「御霊屋下 町内子供会が奉納した 七夕短冊 です」と 教えてくれました。


YKさんから 城下に飾られた七夕に 政宗公の姿があり 刀が U字形になっている。イメージが異なるが どうか と質問されました。 政宗公の姿 どんな服装か わかりません。陣羽織を着用し 出陣の服装で在れば 果たしてと思います。

手持博物館図録等では解決出来ません。仙台市博物館では「館蔵名品百選」を開催しています。一服後 走りました。

ありました。思い出しました。 瑞鳳殿の墓室から発見された「糸巻太刀」です。綺麗に修復され 腰紐?も着いています。

「糸巻太刀 106cm 金梨子地。豊臣の五七の桐紋と徳川の葵紋を配した豪華糸巻太刀。金具も赤銅魚子地に金で それぞれの家紋を高掘色絵にしてある。瑞鳳殿墓室から発見され、将軍家光が政宗公死後 贈呈したものでは?
儀式に用いられる太刀」の要旨の説明文がありました。

〔節電で照明が暗く 説明文が遠方にあり 読めずに 若い見学者に 読み上げて頂きました。国策で館内は暗く 高齢者は寒中電灯の持参をお勧めします〕

学芸員高橋あけみ先生に ご教授お願い致しました。

太刀と刀 の違いは 銘を基準に 刃が下が太刀 上が刀。長さに 大きい違いは無く 室町時代が太刀 江戸時代が刀が主流。

江戸時代 儀式の際 着用するのが太刀。政宗公像〔馬上少年・・・・記載尊像〕に描かれているのは太刀です。
片倉小十郎重長が大阪の陣に着用したもの 中身は太刀であった。

実戦の際 刀をどのように指したでしょうか。
木村宇右衛門覚書に 「荒縄で縛った」の記述が在ったと記憶しています。TV時代劇は 作品にも寄りますが 正確です。刃が上で 右手で抜いて そのまま 切り降ろす 流れになっています。

仙臺藩志会裃着用時の帯刀 正確かです


ガイドの制服の原物が 「水玉模様陣羽織 江戸時代前〜中期」と明記し 展示しています。「乱星」の表現はありませんでした。政宗公着用は 高橋先生も否定されました。

「館蔵名品百選 開館50年コレクションの粋」 のテーマで10月16日迄 (但し9月6日展示替わりします)です。
期間内 観覧をお勧めします。



8 月 6 日 (土)  



青空です。13日振りでしょうか。

今日から仙台七夕が始まりました。
9時から 涅槃門前に 仙臺七夕の原型 寒冷色(男系)と温暖色(女系)が 頭上で交差するように飾られました。

まずは、政宗公にお参りしてから 城下の仙臺七夕を見学する行程のお客様で賑わいました。
9時17分から11時40分まで、途切れる事無く ガイドも途切れませんでした。

若い女性。一人が セッセと あかとんぼ の話し中を撮影しています。目線がレンズに至ると 止め 又 撮影を続けていました。一眼レフで 至近距離で撮影するほど 価値ある表情でガイドしているとは 本人は思いませんが。

本殿前で 「戦災で焼失したそうですが、町から火が燃え上がってきたのか。樹齢50年程度が多いが」の質問。
「イヤ 爆弾が直に 上から降って来ました」  「ヒヘー。歴史建造物は爆撃しないことになっていたのでは?」 「ハー それは知りませんでした。京都はたまたま 爆撃されなかったのでは。皇居も 爆撃されています」 「それは 天皇がいるからでしょう」  「・・・・・・・」 世代間 歴史感の違いでしょう。

「歴史に造形が深いようですが 史学の先生ですか?」 「高校で学習した知識です。理系です」 「東北大学医学部の先生ですか」 「はい」

ガイド やり直しです。墓室の図・写真を開示 政宗公の末期の様子をガイド 「それ 噴門癌ですネ」 「先生は内科ですか?」 「イヤ 精神科です」

東北大学医学部の先生は、専門外でも 五臓六腑全てに精通されているには 驚きました。
寶筐印塔を説明し、殉死者の精神状態をお尋ねしました。 当然ながら 見解を保留されました。

「種々 御教示ありがとうございました」と せんだい仙台通信22号「政宗公御尊顔集」を差し上げましたら 「ガイド料を払わなくてゴメン」

政宗公の死病は、食道噴門癌による癌性腹膜炎 です。


8月1日日誌に記載しました「藩物語 宇和島藩」 著者 宇神幸男 氏の贈呈依頼で (財)瑞鳳殿に お届けしました。
8月3日 政宗公誕生日祝賀催事で 御当主伊達泰宗様が 子供達に語ったいた際 孫が撮影した写真 御当主がにこやかな笑顔で 撮れていました。傑作です。本HPで公開したいです。
あかとんぼ 撮影の際 どうしても公式のお顔 硬い表情になります。
2L版に出力 持参。主任に 御当主へ お取り次ぎをお願いしました。



8 月 5 日 (金)  



藩物語「宇和島藩」を読んで no1

「宇和島では、初代である秀宗公は あまり崇敬を鍾めていない。市内のどこにも顕彰碑や銅像はない。「秀宗公」と尊称する人も、まずいない」46頁記載

それは なぜかは 記載されています。

さて 仙臺では 政宗と呼び捨てするマスコミも居ますが、大方は 公と尊称を付けています。
顕彰碑は 記憶にありませんが 銅像は 仙臺城本丸と三之丸にあり、神社は青葉神社です。

秀宗公の弟である 仙台2代目 忠宗公になると、顕彰碑・銅像・神社 記憶ありません。評価されても 創業者と二代目の差でしょうか。


「重態で気息奄々の政宗は、利勝、忠勝、宗矩に支えられ、御成の間で家光に対面した。このとき秀宗は、ためらうことなく上座に着座する。将軍家光の前で、宇和島十萬石藩主秀宗はね仙台六十二萬石藩主忠宗の風上に立ち、政宗の長子であることを示したのである」68頁

寛永13(1636)年6月23日仙臺での葬儀に 秀宗公が次男 宗時 左京亮と 供に参列されたことは 貞山公治家記録で 知っていましたが、将軍家光 御成の際 櫻田屋敷に伺候しており 且つ 上座に座したは 初聞です。
勉強になりました。

貞山公治家記録を再確認します。



8 月 3 日 (水)  



誕生日

政宗公は永禄10(1567)年8月3日 出羽国置賜郡 米澤城にて生まれました・
(財)瑞鳳殿では 祝賀行事として、「第2回まさむね歴史塾 クイズ動物をさがそう!! ずいほうでん まさむねの森を探検」を10時から開催しました。

日本全国から小学4年生から6年生を中心に多数の児童が参加しました。

加藤・渡部 両学芸員のリードで開始

0.手水舎にいる動物は?
    龍  ドラゴンとの違い

1.建物編
  ★涅槃門にいる動物は? 様子は?
    麒麟・獅子 獅子は阿吽
  ☆本殿ににいる動物は? 動物の名称、頭数、人数は?
    龍 8匹 瑞鳥 12匹 蝶 152匹 雀 4羽 天女 12人 獅子 8匹 鳳凰 4匹。

2.自然・動物編
  ●この剥製の動物は? この森に住んでいます。
    ムササビ
  ●この鳴き声は?
    @トビ Aホトトギス Bウグイス Cフクロウ
  ●写真のどうぶつは?
    @カモシカ Aタヌキ
  ●杉の幹の太ささは? 東参道最大木を現場3本実測。
    537cm
  ●樹齢は? 瑞鳳殿が建てられたのは1637年です。
    374年以上

3.おまけ 伊達家の家紋(おうちのしるし)を
  @竹に雀 A三引両 B九曜 C菊
  紋を印刷配布

伊達家御当主 伊達泰宗さま 挨拶
瑞鳳殿開扉 御木像を紹介 参加者合掌

参加者と御当主と記念写真 撮影

参加者全員に
1.参加章
2.クイズ答
3.瑞鳳殿本殿全景写真(高位置撮影 A4版)
4.瑞鳳殿居住動物図鑑 17種類 写真と解説6頁
5.瑞鳳殿団扇
6.瑞鳳殿ファイルセット
7.瑞鳳殿四季手帳セット
8.七夕ナイト 割引券
9.飲み物

12時近く 終了解散しました。両学芸員と裏方に回った職員の皆様 児童の扱いで お疲れの様子。
相模國から参加した あかとんぼ の孫は 大満足でした。
企画・実行された (財)瑞鳳殿の皆様 ありがとうございました。

この行事の最中 西宮・大阪・埼玉・その他からの参拝者に 「今日は何の日 」から ガイドしました。


主任から 瑞鳳殿DVDを近日 ガイドの会会長に一括差し上げます。
半年以上ガイド見えない4人 今後 ガイドするのか 意向確認の必要がある で一致しました。
DVDの贈呈と陣羽織の返却 の問題があります。



8 月 2 日 (火)  



37年前の瑞鳳殿

1974(昭和49)年復元工事中の写真を入手しました。

拝殿の下板は、現在 黒色ですが 上の桟と同色 朱色です。
現資料館(御供所跡)が再建されず更地であり、参道脇の奉納石灯籠も当然復元されていません。
本殿背後の樹景も異なります。
この様な事が分かる貴重な写真です。

ガイド仲間のYKさんからのアドバスで、探しました。発見し、注文し、本日入手しました。

当時 建築を請け負った「松井建設」の社員として参画し、現在 寺院サービス且ミ長 三浦忠夫様が、雑誌「りらく」の2010年3月号の「思い出の写真館」に掲載した 写真 です。全てを物語っています。
久能山東照宮 の写真もあります。

ガイドに必要無い故か 今まで語られた事がありませんでした。(財)瑞鳳殿では 当然 保存されているでしょう。
焼失前の姿は、 写真絵葉書 で知ることが出来ます。 オークションで購入しました。それに次ぐ貴重な資料です。

YKさん アドバスに感謝します。



8 月 1 日 (月)  



宇和島藩

シリーズ藩物語で、「宇和島藩」が昨7月31日に発行になりました。
著者は 宇神幸男 氏。

あかとんぼ 宇和島に櫻観測隊に参加した際 お世話して下さった方です。
昨晩 出版社経由で ご恵送頂きました。

歴史書特有の 出来事の羅列は無く 起承転結 読みやすいです。物語と称した所以でしょうか。
当然事ながら 初めて知ったこと 数あります。感想を含めて 追々 記載します。

一応 目次をご紹介します。

0.宇和島藩史の概要
1.伊達家の入部まで
2.「西國の伊達」始まる
3.二代伊達宗利の時代
4.三代宗贇から六代村壽まで
5.幕末・維新期の宇和島藩
0.宇和島の終焉

全頁210頁  定価1600+税金

amazoneのアドレス
http://www.amazon.co.jp/dp/4768471277/

楽天のアドレス
http://books.rakuten.co.jp/rb/item/11291761/

株式会社現代書館のアドレス
http://www.gendaishokan.co.jp/goods/ISBN978-4-7684-7127-2.htm

セブンネットショッピングのアドレス
http://www.7netshopping.jp/books/detail/-/accd/1106065740/


ISBN978-4-7684-7127-2





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