2012年1月の日誌
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1 月 31 日 (火)  



元禄15年12月15日朝 江戸の町には 雪が積もっていた。

14日夕に集結、翌15日 朝4時頃到着 、激闘2時間、 死者16人、負傷者20余人。
この襲撃集団が 伊達家上屋敷前を通過しようとしていた。4代綱村公は 総登城日であったが 未だ出発前であった。
綱村公は、この集団に、兵糧として備蓄していた糒で 急ぎ粥を調え供しました。

ご承知 浅野家家臣であった大石内蔵助等 47人が 吉良家を襲撃し、泉岳寺に向かう途中 伊達家で 朝餉を馳走した事です。

現代的表現では、異様な武装集団です。 各家中は 関わりを恐れ 見て見ぬ振りをした中で 伊達家は朝餉を馳走したと その男気が 高く評価されたらしいです。

このことについて、「製塩技術を浅野家から伝授されて、伊達家領内で 良質の塩の生産される様になり 綱村公は感謝していた。粥の馳走は 恩義に報いる武士の情け」と (伊達家の秘話)で 18代ご当主は 述べたいます。


細かい話
大石内蔵助等の一行は、伊達家上屋敷の表門から 屋敷内に 入ったのか? 屋敷内の 何処で 馳走になったのか?
資料も 小説も この辺を 記載した物に 至らない。


年末 12月14・15日になると テレビは 忠臣蔵で賑わう。「15日朝 江戸の町は 珍しく 大雪であった」と さも 異常気象であった如く 語る局もあります。異常気象ではなく 雪が降って 当然と 思っています。

元禄15年12月15日は、現在の暦では 1702年1月31日です。 そう 1月31日です。今日です。大寒の最中です。
過日 東京は 大雪に見舞われ 大騒ぎしています。310年前 雪が降って 当たり前です。
 



1 月 29 日 (日)  



昨日は 真冬日。今朝は 今季最低の気温。マイナス7度。

アサイチ。若くない御婦人二人、アカトンボに向かって 何やら叫んでいます。「石段 30数年前に比べて 厳しくなった。どうして こんな事するのかしら?」  「ハーアー」 携帯で話中でした。 アカトンボ に向いて 大声で 通話を 見間違えたのでした。

「世田谷で生まれ、川崎(神奈川)で育ち、今は郡山(福島)。折角 自然の中で余生をと思ったたら 原発が降ってきた。参った。ここ瑞鳳殿が落成した時 訪れた。あれから??年 今80余歳」 充に元気な方々です。

「石段は 歩き易く 改修はされています」と 申し上げようと思いましたが ストップ。言っては御終い。老人に あなたは 齢老いたと宣告するも同然。「お元気ですネ お若いですネ」 と 励まし その気になって貰うのが アカトンボの主義です。

「連れは 補聴器 左右にセットしてるけど 聞こえないの。解る様にガイドして」

まことに 難しい注文です。手話が出来ない、理解しない 関係では 手話は成りただず。困ったナ。 結局 大声で ゆっくり 語り ガイドしました。最後に 「理解しました、楽しかった」 と申され ホッ。

資料館 見学後 「我家は ○○の出で、 家紋は 竹に雀」と ガイド仲間のNMさんに 語ったそうです。


62石段を 賑やかに登って来ます 夫婦に小学5年生位の親娘。言葉は外国語です。 券売所では 日本語です。手水所の龍吐水を飲んでいます。「冷たいでしょう」に 「プー ヤオー」???

春節での中国大陸からの海外旅行の方ではなく 在日の様。親娘で 異国の文化を楽しんでいる雰囲気にガイドはストップ。


お嬢さん 寒さに震えています。
「島根から東京に 1ケ月の予定で勉学に来た。島根から東京は遠い、簡単に来られない、まして 仙臺は 直 遠い。この機会は逃がされない。
島根は 日本海側です。雪は降ります。この位の寒さに負けられません」

なんか 悲壮です。発熱し倒れたら 大変です。丁寧・簡潔に ガイドし、資料館にて採暖して頂きました。


お嬢さん 震えていません。北海道からです。
「札幌は白石区ですか?」  「イエ ○○です」
涅槃門の桐の家紋を指して 「我が家の家紋です」

本殿までガイドしましたが 途中から 上の空の様子。
北海道開拓と伊達家の関係、桐紋を含む 家紋の下賜等を語りました。

「実は 曾爺様 (曽祖父)が 仙臺伊達家の家臣で 衣装係であったと洩らしており、家紋は桐紋です。オバが戸籍を調べたが解ら無かった。何か 手がかりが無いかと 参りました。○○と申します」と 名刺を。

「それでは 私が 解る限りで 調べて お知らせしましょう」
「アツ 飛行機の時間 よろしく」 飛び去りました。

数少ないガイドながら 伊達家の家紋と家臣の末裔・・・ 2組 もお出でになりました。

参拝者んの足が途絶えました。感仙殿地区に。境内一面に 西参道に 凍結防止に融雪剤が豊富に散布されています。
整備担当 「バス停から感仙殿に至る ラインは 風の通り道 瑞鳳殿前に比べ 3度は低温かも?」 確かに 身を切る寒さです。ホッカロンは効きません。鼻水が垂れて来ました。12時 おしまい。



1 月 28 日 (土)  



仙台藩志会主催「伊達学塾」が開催されました。
記載する順番を迷う3事項です。

1.この講座でなければ 語られない内容。
 川村孫兵衛重吉・・・政宗公の命を受け、北上川を分流・石巻開港し、仙臺城下の給水施設(四ツ谷堰)を開削、荒地を開墾・開田した土木技術者。伊達領内の開発の功労者です。石巻港を見下ろす日和山公園の銅像があります。石巻・大鉤龍観院晋誓寺は彼孫兵衛の遺志で創建されました。

 孫兵衛の3娘が婿を取り、それぞれ川村家を継ました。二女系が本日の講師の家系であり、初代孫兵衛から五代目は、江戸屋敷でも重用されていましたが、故あって 正徳3(1713)年 改易され、屋敷・領地が没収に、家臣も罪に問われました。5代吉村公の時代です。

享保2(1717)東照宮百年法会と 有章院(7代 将軍、徳川家継(いえつぐ)(1709〜1716)薨御の赦として、六代目が五代目の半禄で召出された。

以上を、治家記録(写)の他、寛文元(1661)年の知行目録、貞享2(1684)兵法印可状、元禄2(1689)紋幕改願(彩色) 他 原本を持参 提示されながら 今を去る事299年前の出来事を 淡々と 語られました。

罪を得た場合、責任は部下である家臣にまで至る 厳しい処罰があること。講師の先祖は 良くぞ 貴重な書類を今日まで 保存、伝えたこと。驚愕しました。 

仙台藩志会の講座でなければ 聞かれない話、見られない資料でした。


2.400年目の御対面。
 仙臺城下の給水施設(四ツ谷堰)の総奉行は川村孫兵衛重吉です。現場の奉行がいます。普請奉行です。寛永4(1627)に宇津志惣兵衛が命じられています。末裔の方が 在仙し アカトンボの今一つの活動「四ツ谷の水を街並に!市民の会」の仲間です。

 川村孫兵衛重吉の、宇津志惣兵衛の、末裔が 居るとは 思っていたが どこに居るか知らない故に 会ったこともないと御両人の弁。。
それでは と 講座終了後 御両人をご紹介しました。藩志会幹部(伊達家重臣末裔)見守る中 400年目の上司と部下との末裔の 御対面でした。歴史的 出来事です。

講座終了直後で、講師が質問者に囲まれる騒然とした雰囲気でした。ゆっくり語る事が出来ませんでした。何れ 落ち着いた環境での対談の場をセット出来れば 思いました。


3.瑞鳳殿でガイドしませんか!
 チラシ200枚を印刷、(財)瑞鳳殿と仙台藩志会のお許しを頂き、本日 参加者に配布。講座終了後 勧誘の弁 を述べさせて頂きました。

 講座参加者は 伊達家の歴史・文化に関心を持っている方方です。知識の一端を洩らして 頂ければ と 話しました。さて 今晩からメール・電話続々????
 



1 月 27 日 (金)  



紫地羅背板五色乱星陣羽織

「アカトンボは(五色乱星)と表現し 政宗公所用ではないと 申しているが 所蔵している 仙台市博物館は その様に 発表していない」と24日と ガイド仲間から口撃??されました。

2010年8月20日 元仙台市博物館館長 濱田直嗣氏は、我々の仲間に対する講演会で

1.明治後期 伊達観欄閣宝物目録には「紫地羅背板五色乱星陣羽織」と記載あった。昭和39年仙台市博物館収蔵品目録には「紫地羅背板五色水玉陣羽織」と変化した。それは なぜか?

慶長6年の記録では、「乱星」です。

家紋「九曜紋」も 星です。全て 星 が用いられています。

故に 陰陽五行説の五色と考えるべきでは。
青(緑)  木星  東   春
赤(紅)  火星  南   夏
黄     土星  中間 土用
白     金星  西   秋
玄(黒)  水星  北   冬


2.「政宗公所用ではない」については、家紋と生地の変遷から。

以上の如く 話されました。(2010/08/20日誌参照)


昨日 菅野正道氏(仙台市博物館市史編纂室長)に、お尋ねしましたら、

1.博物館としての結論は 濱田氏発言「乱星」と変わっていない。
2.ただちに 公式発表する予定は無い。

わざわざ 公式発表する事案かの 判断は その影響を考えると 容易では ないかも。
「河北新聞夕刊 (河北抄)」担当論説委員に 洩らしたらと 独り言。採用されるか?????


伊達家の家紋については 次の論文を お勧めします。

仙台市博物館 高橋あけみ 学芸員 論文
「伊達家の家紋に関する一考察 家紋の覚書と美術資料にみる 伊達家の家紋およびその変遷」
仙台市博物館調査研究報告 第19号

本日 真冬日 巣篭り です。



1 月 26 日 (木)  



講演会

「中世名取郡の宗教と政治 名取熊野を中心に」と題して 菅野正道氏(仙台市博物館市史編纂室長)の講演会が、郷土を愛する歴史の会 主催で開催されました。

時代は中世で、政宗公以前の時代。名取郡は 仙台市の南部 アカトンボ邑から 現在の交通機関で1時間の距離の地で、地理間隔の疎い所です。

講演内容は 新鮮で重厚なものでした。私自身に 宿題が 数頂きました。

時・場所を違えても 手抜きせず 真剣に語る講師に 惹かれるフアンが 遠隔地であるに関わらず多数 聴講し 広い会場は満席でした。


主催の「郷土を愛する歴史の会」は、政宗公の殉死者 入生田元康の後裔で 幕末 出入司を務めた 入生田三右衛門の知行地であった地区で 地下鉄開通で 急速に変貌をしており、この地区の文化・歴史を学び 後世に伝えるを 目的の 地域を限定し 深く探究している方々の会で、歴史地図を刊行している会です。

地域を限定して 歴史を探究していれば 必ず 政宗公に結び付きます。
有志が、2011/11/22に伊予 伊達家の遺跡探究に宇和島を訪れています。宇和島伊達家当主が 瑞鳳殿を参拝した日で 拝謁出来なかった、残念だった と 洩らしています。
会員には、何人か政宗公フアンが 居る筈です。

「瑞鳳殿 ガイド しませんか」のガイド募集のチラシを 持参し、 IW会長に 会員に配布・勧誘を依頼しました。
「講演会後の例会で 会員に伝えます」と快諾を 頂きました。 電話・メールでの反応を期待しています。 



1 月 22 日 (日)  



大雪
目測15cm.,含水 高率です。重いです。排雪するには 腰にピタリと負担がかかります故 屋敷前と車の 除雪を10分して20分休憩。
出発は、定刻60分遅れ。

参道・歩行路は除雪されましたが、それ以外は深い雪原ですから 寶筐印塔にも 龍頭の傍にも近ずく事はできません。

10時。 屋根の雪は 滑り落ちました。樹上の雪は 枝と共に 予告無く落下してきます。依然として雨が降っています。
お客様は、ガイドの指す方向を見ながら・聞きながら 滑らない様に足元を、突然落下する樹上の雪にも 注意しなっければならなく大変です。
注意を喚起しながら ガイドしました。幸い 事故はありませんでした。ホッ。

群馬県壮年男女15人に添乗員付き。
伊達家発祥の地 常陸国真壁郡・・・現在の筑西市・結城市です。墓室は秋保石  大谷石と 説明しても 反応は イマイチです。
埼玉県・千葉県の方々は 東京から来ましたと 最後迄 埼玉・千葉の県名を語らない方います。関八州(上野国・下野国 ・常陸国・安房国・上総国・下総国・相模国・武蔵国)は一つかなと思い、即 反応されると思いましたが 外れました。
群馬県の方々は 独立した生活圏意識が高く故でしょうか。

白石からの3世代。
「孫が4年生で 今 政宗公に興味を示しているので」
彼は 政宗公の生涯の内 如何なる時代に興味を持っているのか。例えば、戦国武将としての活躍 1585年11月17日人鳥橋の合戦とか。
生涯の終末 お墓に興味は 無いだろうと思案 片倉家を引き合い 説明しました。
孫が あかとんぼ の質問に 答える内容が 祖母の知らない事が 1・2ありました。祖母は 孫に負けたと悔しがっていました。
近現代史なら 生きて来た年数の差で 祖母は圧勝するでしょう。でも 近世史は 同じ土俵では、興味を持った孫に負けます。

若高齢者。
「どちらから?」 「川崎です」
「川崎町ですか? それとも 神奈川県の川崎ですか?」
「神奈川県の川崎です。 川崎町って あるの?」 「仙台市北西部に隣接しています」
埼玉県・千葉県の方々と異なり ズバリ 都市名で答えられました。エライ。
他の参拝者 参拝終わるのを 待って 本殿を背景に 撮影されました。よく撮れました。


本日 大収穫がありました。
経緯はこうです。

「アカトンボ さん ホームページ拝見しています。12日日誌 (4大聖獣 龍・鳳凰・麒麟・霊亀です。涅槃門に 麒麟の透かし彫が、本殿屋根先に阿吽の龍、本殿正面左右に 阿吽の鳳凰の彫刻があります。残るは霊亀です。あの彫刻が霊亀で・・・・す)と記載し 悩んで おられますネ」HATさん

「学芸員さんは 如何に 説明されています?」 
「迎揚羽蝶ですか? 普段は説明はしておりません。それが なにか?」

「さる方が 4大聖獣の霊亀です と説明された と聞き 亀に見えずに 悩んで います」

「それ 蟇股と迎揚羽蝶の間の 模様です。亀甲になっています」 と Mさん。

「さる方はご当主です。(財)瑞鳳殿では 政宗公は永禄10(1567)年8月3日 出羽国置賜郡 米澤城にて生まれました。 祝賀行事として、「第2回まさむね歴史塾 クイズ動物をさがそう!! ずいほうでん まさむねの森を探検」を10時から開催しました。その際 ご当主が 参加した小学生に その様に説明されました」

アカトンボ 参加した孫の付添で ウロウロしていましたが 聞き逃しました。
瑞鳳殿改修工事報告書11頁 で 居合わせた4人 確認。

結論です。
4大聖獣 龍・鳳凰・麒麟・霊亀は 全て います。
霊亀の亀甲模様は 幅 5cm位です。
老眼・近眼の方 見えるか?ガイド技術が問われるかも? 

 





1 月 19 日 (木)  



題材

伊達政宗公の御生涯、その乱世での生き方は、現代の老若男女の指標にもなっています。
その表れの一つが「歴女」では ないかと思います。
「歴女」の方々は 何で 政宗公にハマッタのか興味がある所です。

さて、仙台市図書館で「伊達政宗」で検索すると1544件ヒットします。この数値には驚きます。
伊達政宗公の人間的魅力にあふれ 動画のみならず 小説の題材として最適か 山岡荘八はじめ幾多の人が描いています。

一世代前の文豪と称えられた人々も 政宗公を題材に書かれていました。

大池唯雄    兜首・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1938年 「新青年」
石坂洋次郎   小さな独裁者・・・・・・・・・・・・・・1941年 「改造6月」
坂口安吾    伊達政宗の城に乗り込む・・・・・1951年 「文芸春秋5月」
海音寺潮五郎 仙台城・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1963年 「別冊週刊サンケイ11月」
森 敦      仙台城・・・・・・・・・・…・・・・・・・1977年 「探訪日本の城」
津島祐子    政宗の浄土への思い 瑞巖寺・1981年 「探訪日本の古寺」
土井晩翠    青葉城・・・・・・・・・・・・・・・・・・・1899年 「天地有情」

石坂洋次郎は 津軽の生まれで、1945年時 一世を風靡した「青い山脈」の作者です。非常に意外な思いです。
史実・現実に ハテナの個所 無きにしも、作者の皆様の思いで描かれています。
一人よがりの 拙く 誤字散見する日誌を記する あかとんぼ には 勉強になりました。

本項 1994年刊行 「ふるさと文学館 宮城」 によりました。



1 月 16 日 (月)  



長持

拝殿扁額の文字 佐々文山 書損 長持2棹 は 「伊達邦宗著 伊達家史叢談 巻之14 」に「其の書損が長持二棹に充満せる」と記載あり、いつの時代まで保存されたかは  定かではないが、伊達家当主の記述であるからに その真偽は問えないです。

先般の「瑞鳳殿ボラガイドの会」で話題となったのは、
1.なぜ 長持二棹も書損を保存したのか?
2.紙代と時間から 本当に 長持二棹分も書いたものなのか 疑問である。
3.長持は、衣装長持なのか?

 .一般的な大きさは、長さ8尺5寸(約174センチメートル)前後、幅と高は2尺5寸(約75センチメートル)です。大きいです。
書類専用の小型長持が存在したのでは?の疑問が提示されました。
調べましたが 存在が確認出来ません。

長持の定義は、「ウイキペデイア」 によれば、

主に近世の日本で用いられた民具の一つで、衣類や寝具の収納に使用された長方形の木箱。箱の下に車輪を付けて移動の便をはかったものを、車長持という。

車長持に関わる 仙臺城下での記録発見

宝永4年3月12日(1707/04/14)午刻出火、片平丁石母田淡路也。・・・・・・毎日車長持を引廻し難渋言語事。・・・
源貞氏耳袋7巻85に 記載ありました。





1 月 15 日 (日)  



依然として 寒気厳しい です。
吐水龍 吐いた水 白髭の如く 氷柱に なっています。

始発のループルバスで 参拝に見えました 宇都宮と長野からの お客様。真剣に聞いてくださいます。中途省略しないで説明しました。
感仙殿地区もガイドして 欲しいとの事。お客様が 資料館見学中 ガイド依頼が入れば感仙殿地区のガイド出来なくなります。一緒に 入館し、小声で説明し、久々で DVDを見ました。 震災後に内容が改定され 且つ 画面は鮮明 簡潔で 理解容易になっていました。

感仙殿地区・妙雲廟界までガイド。

この間、主な質問は、
1.政宗公の死因は?
2.病名を どの様に 特定したのか?
3.身長は? どの様にして計測したか?

宇都宮の方、仙臺では伊達家がメーンと予修されて来仙。仙臺東照宮に至る 路線バスの時刻表を仙臺駅案内所で 貰っていました。

長野の方、国宝である仙臺東照宮は予修資料には 無かったらしく 悔しい の表情。
「仙臺城と大崎八幡宮に オジサンの様なガイドが居るか」 のお尋ね。「何れも 冬休中です」に 軽く失望の表情。

「本丸で 政宗公の騎馬像は撮影出来ても ご尊顔の撮影は無理でしょう、三の丸に到る道 政宗公も歩かれた道を下れば ご尊顔を撮影できます。ここで ループルバスに乗りなおせば 大崎八幡宮に至ります」 とアドバイスを。キット 挑戦されるでしょう。

「ガイさんも被災されたでしょう。元気に 楽しいガイドをしてくれて 勉強になりました 些少ですが」と 金子を。お断りしましたが、是非 との事。お預かり致し、あかとんぼ の名刺を 受領書代わりに。
「ガイドの会」会計担当に引継ます。有効に使用させて頂きます。ありがとうございます。


ループルバスで お友達になった若い男女3人。神戸・新潟。岩手からです。
岩手の方に 「南部領ですか? 伊達領ですか?」と 問いましたら {ハー」 「一関の近所から」の返事。
県境が定まり 南部領 伊達領 が無くなって 約140年。 この様な質問するのは 瑞鳳殿のボラガイド位かも。

北上市から南が伊達領で、 藩の境を示す 藩境塚が北上市にあります。
一関の殿様であった田村家の末裔 田村家御当主と一関藩志會の方々が 田村家の始祖の父親 忠宗公の遠年忌法要(7月12日)に 参列します。

「ヘー」の連続。 少中高でも 習わなかった 郷土の歴史に ヘー。

ガイド中 アカトンボを 絶えず 見下ろしている身長のお客様に
 「政宗公は160cm 当時の平均は150cm 現在の人々は 小さいと言いますが 当時は標準以上です。お客様は 現在の標準でも 以上では?」
「公式はは170???cmです。雑踏では 視界が効きます。社寺仏閣、武家屋敷など 見学の際 額を打つます。フフフ」
「ゴメン」 詰まらない、失礼な質問でした。


帰巣前に 感仙殿地区に。3度目。ガイド中 撮影できなかった 雪帽子を被った奉納石灯篭の撮影です。

    



1 月 14 日 (土)  



極寒です。強風です。体感温度マイナス?度でしょうか?地表は バリバリに凍結しています。

全世界的組織であって 日本では地域医療を代表する機関にあって裏方として 黙々職務に専念されて居る方々を ガイドしました。

バス下車時から 軽く震えています。
瑞鳳殿では、日向を選び 立つどまりガイド。暖房の効いた資料館でガイド時間を取る様に務め 寒さ対策に配慮しました。
仙臺城本丸では、晴天で視界は 最高に効きます。が、遮蔽物がありません。冷たい強風が真ともに当たります。寒さ対策は 早い切り上げです。

ご質問は、
1.何故 9曜紋があるのか?
2.原発汚染で話題の福島県伊達市と伊達家の関係は?
3.北海道伊達市と福島県伊達市との関係は?
4.北海道内 伊達家の関係が深い都市は ドコソコか?

感想は、
仙台は とにかく 寒気が厳しいです。

本日は、仙臺名物 裸参りのドント祭の日。大学共通試験の日です。年間で 一番 気象条件最悪の特例日です。その割に 穏やかであったかも。でも 寒気が厳しい の感想を 頂きました。

仙臺城本丸から瑞鳳殿に戻りました。参拝される方 少ないと感じました、



1 月 13 日 (金)  



瑞鳳殿で ガイド 一緒に しませんか?

寒冷で 参拝者の少ない 今が 勉強・練習に最高の季節です。
資料を用意します。ガイド心得等 懇切に伝授致します。

メールください。表紙のオネイサマからメールください。

瑞鳳殿での ガイドは ボランテイアです。
時間も経費も 全て 自己負担 自己責任 です。自由です。

瑞鳳殿での ガイドは 学校の先生ではありません。
参拝のお客様に 歴史・文化 全てを 語る必要は ありません。
ポイントのみで 結構です。後は、お客様のご質問を勉強して 覚えれば 宜しいです。

あかとんぼ は 表紙に記載しました。

あかとんぼは立ち枯れの年代となりました。
お世話になっております地域社会に、いくばくかのお役に立ちたいとの有志と共に、奥州仙臺・伊達政宗公の御霊屋 「瑞鳳殿」で 毎日曜日・祝日 ボランティアでガイドをし、健康管理と国際交流に努め、発想の転換を求める等の質問・勉強の種をを頂いております。

健康管理に瑞鳳殿で ガイド 一緒に しませんか?



1 月 12 日 (木)  



瑞鳳殿ボランテイアの会新年会 続

本殿 飛天の上部の彫刻は 何に見えるか?
一見 蝶蝶 向揚羽蝶 に見えるます。99%の方が そのように 答えます。

「正解は 亀 です。一番信用ある人が 語っているのを聞きました。4大瑞獣は、龍・鳳凰・麒麟・霊亀です。涅槃門に 麒麟の透かし彫が、本殿屋根先に阿吽の龍、本殿正面左右に 阿吽の鳳凰の彫刻があります。残るは霊亀です。あの彫刻が霊亀です。」

参加者には 納得した表情はありませんでした。



霊亀は、治水の才能を持つ王様の時代に姿を表す亀で、甲羅に水脈が刻まれ治水を助ける と伝えれています。
政宗公は 北上川の改修を行い 洪水を防ぎ 耕地を増やしました。 治水です。四ツ谷用水を開削し 給排水を確保 民の利便向上を図りました。故に 霊亀が現れ 瑞鳳殿本殿に 留まった のでしょうか?
以上は 現在の 本殿彫刻で 論じています。

焼失前 国宝時代の彫刻は どうであったか 疑問が提示されました。
焼失前の写真を 拡大し観察しました。阿吽の鳳凰の下段、飛天の上段、この段の模様 現在の模様と似ています。写真が不鮮明で 同一と断言できません。

1931年7月21日から10日間 仙臺高等工業学校小倉強教授が建築科学生と瑞鳳殿の実査した際に、採色・記録した色付模写図「拝殿背面中央間」と「拝殿内部」と「拝殿頭貫・長押文様」は、j発見しました。
当然 本殿も採色・記録した筈。色付模写図が存在した筈。現在 どこに 保存されているか です。

小倉強教授の報告書 宮城県図書館、宮城県公文書館、東北大学図書館、同工学部図書館に保存されていませんでした。
宮城県図書館とネットで結ばれている 宮城県内の図書館 国立国会図書館を 検索しましたが 保存されていませんでした。
あと 一筋の望みは 仙台市博物館所蔵 伊達家寄贈文化財 古文書1369件 に もしかして所蔵されていないかです。




1 月 11 日 (水)  



瑞鳳殿ボランテイアの会新年会

現在 活動中の会員の内7人で 新年会を開催しました。

主な話題
1.2011年総括。12月31日日誌記載内容。プラス 参拝者 5・6月20% 12月40% (仙臺藩志會新年会で瑞鳳殿常務理事挨拶)

2.拝殿の扁額 下地の色 焼失前に色変わりしたか? 2011.12.27日誌記載事項補足。

3.扁額文字の書損 長持2竿と伝えられている。衣装長持(長さ1.8m、幅0.9m程)と理解しているが 小型の書類長持が 存在したのでは?

4.1931年頃 阿刀田教授は拝殿の長押の模様が「十字」に見える。キリスト教に関連しないか、問題を提起しています。1931年7月21日から10日間 仙臺高等工業学校小倉強教授が建築科学生と瑞鳳殿の実査した際、採色・記録した色付模写図を公開。
 政宗公孫光宗御霊屋 三慧殿 でも 「十字」模様がキリスト教に関連が話題になるが 焼失前の拝殿の模様の関係は?
 双方とも 忠宗公の建立である。忠宗公の意図は?

5.今年は 辰年。 瑞鳳殿の吐水龍を 賀状・名刺に用いている会員いますネ。
 龍を 外国の人々に 如何に説明していますか。ドラゴン(dragon)は 火を吐きます。龍は 水を吐きます。火伏として屋根に載せられています。
 「私は Water God (水神)と 説明しています」の 御発言がありました。

6.会員の活動記録(出勤簿) 会として独自にすべきとの提案がありました。
 「ぐるーぷ・よっこより」での報告書作成にも必要である。共用出来る様式に改めるべき。

7「.手持ち資料内容を統一すべき」の提案がありました。
 反対意見が続出しました。ごもっともです。詳細は省略します。
 学芸員の公式ガイド資料内容と 会員有志との 照合会を 企画する事にしました。

8.「会員の増加を図るべきである」の提案がありました。
 (財)瑞鳳殿で 講習会を開催 我々が下働き するのが建前である。しかし (財)瑞鳳殿が震災復旧と組織移行で 困難であれば 各自が主宰する団体等の仲間を 勧誘しましょう。意見一致。

9.次回は 3月11日頃 開催しましょう。意見一致。


本会の 正式名称は、「藩祖伊達政宗公瑞鳳殿ボランテイアの会」
何故か 「ガイド」の文字はありません。ガイド以外の事柄にも ボランテイア活動出来る 余裕を持たせたのでしょうか?

流感 の季節です。
医師から 他人に伝染させる故 会合参加禁止勧告で 突然 参加取りやめた方 数人いました。
参加会員のほぼ全員が 予防注射 接種済でした。




1 月 8 日 (日)  



新春 初日。
門松は撤去、幔幕は外され お正月は終わりました。

小寒なる故か、寒気厳しいです。
3連休 中日効果で ループルバス 初便9時17分着から続々と切れ間無く参拝者の足は途絶えません。

金澤・大阪・熊本・横浜・仙台泉区からのお客様を 連続でガイドしました。

なるほど 語録

1.本殿 忠宗公直筆の扁額を指さして 「あのーカンバン?」。
 用途分類では 看板です。でも 殿様直筆の扁額をコンビニの看板と一緒にされると 内心 ガックリです。

2.熊本のお殿様は?
 佐々成政、小西行長、加藤清正、ウーン 細川忠利、細川家です。

 御叮嚀に ありがとうございます。では 家紋は? この九曜紋は、政宗公が 細川忠興公と昵懇の間柄で 使用が許されたと聞いています。

 オジサン 地元熊本の人より 知っているネ。

3.涅槃門の扉、黒地に金金具、本殿花頭窓桟に黒地紋 素晴らしい塗りです。飾りです。日本一では。
 この漆は国産物ですか? 最近は亜細亜産を使用していますが、品質で劣ります。

 ここは、国産の最高品質の品を使用したと聞いています。「浄法寺漆」か 迄は確認出来ていません。
 お客様は、社寺仏閣に精通されておられますが・・・・?

 祖父・父が宮大工で棟梁でした。それに金澤と北陸の土地柄です。

4.寶筐印塔・石灯篭が倒れたそうだが、耐震工事は未了だったの? 
 我が家のお墓は 耐震工事済で大丈夫であった。仏壇は倒れ 修繕が年末まで要した。
 寶筐印塔に欠けがありますネ 耐震工事を施工されたら? 最後に 殿様は大丈夫だったの?

 ハイ 政宗公・忠宗公・綱宗公 皆様 微動だにしませんでした。


横浜からの若い二人。
男性は真剣 夢中です。女性は 美長脚を震わせています。発熱されては気の毒です。最後は駆け足ガイド。暖房の効いた資料館を勧めました。

小寒でも寒です。寒いです。来週からホッカロンを携行しなくては。
途切れた11時50分 御終い。熱い紅茶 御馳走になり 人心地。



1 月 6 日 (金)  



日誌

日誌の最低要件は、日付と天候とか?

伊達治家記録は 日付順に記述されています。でも 日誌とは 言われない様で、「家譜」と分類されるようです。


中世を下ると日記を記す階層が広がる。大名の家臣クラスの例は儘あるが、大名自身の珍しい例として、政宗公の父 輝宗公(1544-85)の「天正二年御日日記」です。
一年分1冊のみで 仙台市博物館に収蔵されています。

輝宗公は、日誌の最低要件は、日付と天候と心得ていたのか、まとめ書きの部分があるが、日付と天候、特に天候の変化を細かく記載している。

金子拓著 「記憶の歴史学 史料に見る戦国」の記録と記憶 の項 記述要旨です。

輝宗公は、天正12(1584)年10月 18歳の政宗公に家督を譲った。この間の事情については、諸先生が記しています。あかとんぼ は 日誌を記した事実は 輝宗公の性格分析の資料を提供した と読みました。

あかとんぼ 瑞鳳殿ガイド日誌「」は、日誌と言えるかです。
日付と天候とは 記載しています。でも 毎日の記載ではありません。ガイドした日と 最近は、学習の記録をも 記載しています。日誌の定義から 大きく外れていないと思います。今暫く この表題で続けます。



1 月 4 日 (水)  



発掘・遺物に見る個性

経ケ峯 3殿「瑞鳳殿・感仙殿・善應殿」は、再建の際 墓室の発掘調査が実施されました。

埋葬方法の違い、政宗公と忠宗公は、棺桶で駕籠に乗り、綱宗公は甕棺で駕籠に乗っていません。
副葬品には、3様の個性が窺える様です。主な物として
政宗公は、具足、鎧櫃、太刀、脇差、鞭、蒔絵箱、鏡、櫛、毛抜、硯、墨、筆入、文鎮、水滴、鉛筆、日時計、金ブローチ、石帯、印籠、キセル、慶長1分金3枚。

忠宗公は、具足、鎧櫃、太刀、脇差、打刀、烏帽子。

綱宗公は、脇差、打刀、キセル、眼鏡、柄鏡、鏡架、鋏、毛抜、折込ナイフ、刀子、鼈甲製定規、竹製コンパス、香木、風呂敷、扇子、蒔絵合子、長手箱、蒔絵櫛、備前染付紅皿、宝永小判10枚。

瑞鳳殿資料館で説明する場合、
政宗公の発掘品の主要なものは、仙台市博物館に収蔵・展示されています。
瑞鳳殿で発掘された副葬品に、具足、鎧櫃、太刀、脇差、鞭類の武具は、戦国武将として当然の品です。硯、墨、筆入、文鎮、水滴、鉛筆の文房具は、文武両道の人を示しているのでしょうか。
鉛筆は、当時珍しもの、容易に入手出来ない品でした。日時計を含め 新しい品に強い好奇心を示す性格と 理解しています。

忠宗公は、武具類だけは、軍事。行政の実務一辺倒、趣味には興味・余裕が無かったでしょうか。

綱宗公には、武具類は無く、香木、備前染付紅皿があるのは、逼塞・隠居を幕府から命じられた生活、武家とは言えない生活環境からきたもの、芸術麺に優れた個性を示しているのでしょうか。
備前染付紅皿の使途は、学芸員に尋ねても不明です。興味津々ですネ

所持金 政宗公は慶長1分金3枚、忠宗公はゼロ、綱宗公は宝永小判10枚、この違いはなんでしょう。
使途は なにを 考えたのか。三途の渡し賃なら 政宗公始め 殿は 顔パス で通れたと思います。

綱宗公の甕棺 本物に 模造小判が置かれています。模造小判を目にされ、喜んで、甕棺が真物と 気付かないで 帰られ方 それなりにいます。

本項は、「宮城県謎解き散歩 長島栄一記」を参考にしております。

発掘・遺物の詳細は「瑞鳳殿 伊達政宗の墓とその遺品」を ご覧ください。



1 月 2 日 (月)  



拝礼式

瑞鳳殿にて 恒例 新年拝礼式が催されました。

10時45分 正宗山瑞鳳寺山門前に集結。
行列 次の隊形で 粛々と 62石段登り、涅槃門・拝殿を潜り 本殿前に。

仙臺藩志會の幟・露払・瑞鳳寺和尚・少和尚(小学3年生)・大和尚・伊達家18代御当主・仙臺藩志會會長・仙臺藩志會會員(男 裃、女 五色乱星風羽織と平服) 55人

11時 瑞鳳寺大和尚達 読経。
   焼香 伊達家18代御当主・仙臺藩志會會長・殉死者後裔会代表・大年寺会代表・瑞鳳殿常務理事
   挨拶 伊達家18代御当主・仙臺藩志會會長・?瑞鳳殿常務理事
11時30分 閉会

涅槃門前広場にて 仙臺藩志會會員5人による 居合抜 5番 奉納

涅槃門背景に、伊達家18代御当主・仙臺藩志會會員・大年寺会会員一同 記念写真 撮影

伊達洋司仙臺藩志會會長 挨拶 全文
 皆様お元気で新しい年をお迎え頂いた事と存じます。
本来であれば、新年にあたりおめでとうと申し上げるべきですが、昨年のあの大震災で数多くの犠牲者を出してしまいましたので、ためらいがございますから、ご無事をお喜びするばかりでございます。

 寛永13年1636年に、仙臺藩祖伊達政宗公がお亡くなりになりましてから、今年で377年になりますが、毎年こうしてお参りできますことは、私たち政宗公を敬愛いたしております者にとって、喜びも一入でございます。

 仙臺藩の歴史をひもときますと、仙臺藩と大地震は大きな関わり合いがございました。なかでも慶長16年1611年の三陸一帯を襲った「慶長三陸地震」は、マグニチユ―ド8.1と言われ、領内に大津波が押し寄せ、1788人もの犠牲者が出たと、記録に留められております。政宗公46歳の時の事でございました。

 その起死回生の復興策として政宗公は、北上川の改修と荒地の開墾をすすめられました。
 いま、県内各地で作付不能に陥った水田が数多くあり、その除塩対策が大きな課題になっております。政宗公が取った施策を見習い、一日も早い復興を成し遂げたいものでございます。

 伊達宗家におかれましても、このたびの大地震で墓石や灯籠が倒壊して、大打撃を受けました。この瑞鳳殿と感仙殿、善應殿の三殿は、財団のお力で復旧が進みましたが、伊達家所有の大年寺山墓所と二の森墓所は、十八代御当主泰宗様の懸命なご努力で、復旧が進められているところでございます。改めて敬意を表させて頂きます。

 この1年皆様のお力添えに感謝をいたしつつ、震災に遭われた方々にお見舞い申し上げますとともに、1日も早い復興をお祈りし、年頭に当たりご挨拶と致します。


おまけ
1.あかとんぼ は、「瑞鳳殿」の腕章をお借りして 仙臺藩志會会報の写真撮影に専念しました。
2.余禄で、仙台NHK政宗さん とまた 瑞鳳寺少和尚(小学3年生)と ご一諸で 撮影しました。
3.仙臺藩志會會員の一人 裃一式持参しながら 刀を忘れて来ました。侍の魂とも言われた刀を忘れて来るとは。本人 エラク ショゲ 平服で行列最後尾に。
4.仙臺藩志會新年祝賀会は、寶生流謡曲3番 高砂・鶴亀・羽衣の謡え始で開会 60人程参加 盛会理 催されました、



1 月 1 日 (日)  



新年 あけましておめでとう ございます

本年も 御指導・御鞭撻 の程 お願い申し上げます。

ガイドは8日から、日誌は2日から 始めます。





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