2012年6月の日誌
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6 月 30 日 (土)  



仙台・宮城(伊達な旅)春キャンペーン 最終日。
瑞鳳殿ガイドの代表として 最終日の当番をしました。
元締めの仙台観光コンベンション協会の担当役席、4月1日に幟等を持参し 3ケ月の活動を激励して頂きました。

最終日の今日 必ず見えると確信していました。見えました。
ガイド振りを観察され、切れ間に 毎月の報告書に記載しない感想・希望を述べ、今後についての情報を交換しました。

午後 仙台城本丸ガイドのBさんと とある所でバッタリ 「ウチにもみえた」と洩らしました。伊達三大名所 を巡られたようです。


本日のガイドは 3組5人。最少記録です。
1組目。鎌倉からのお嬢さん2人。妙雲廟界までご案内しました。
弔魂碑で、「140年前 日本の近代製鉄始まる直前の組成を 日本一の金属研究所 東北大金研 で分析。調査しました」とガイドしたら、「知っています」 鎌倉のお嬢さんが 仙台でも 知らない人が多い 事実をどうして 知っているのなか 驚きました。

仙台駅前ホテルから瑞鳳殿までの間 歩いた。その途中に「東北大金研」があったが真相でした。
「土地の歴史は足裏から知れ」の格言を 知って実行されたのか。

仙台城三の丸所在 仙台市博物館は 伊達家関連物 充実しています。ぜひ とお薦めしました。
さて 歩かれたか?バスを利用されたか? バスは20分間隔。歩いた 時が早く着く場合も。

2組目は、盛岡のお嬢さん2人と 飛び入りの大阪のオジサン1人。

「盛岡は 南部様。 ここは1600年に仙臺城を築き 仙臺の町を開いた 伊達政宗公の桃山様式御霊屋(お墓)です。さて盛岡は南部様、お殿様お墓は やはり このようですか?」

「サー」

南部けの菩提寺は聖壽寺と東禅寺で、聖壽寺は南北朝時代の城址で高台にあり、何れも 墓石です。
(この項 加藤貞仁著 とうほく藩主の墓標)によりました。 あかとんぼ 未だ参拝していません。

ここで 本日時間切。


あかとんぼ邑の邑たより 7月号が配布になりました。

「伊達家の歴史を訪ねてみませんか? 当邑のあかとんぼ さんは「瑞鳳殿ボランテイアの会」の会長で、藩祖伊達政宗公の霊廟「瑞鳳殿」の観光ボランテイアガイドです。伊達家の歴史について説明もしてくれます。土・日・祝だけだなく お願いすれば平日も案内して頂けます。お友達やグループの方たちと地元の名所を訪ねてみるのもいいですね 連絡は・・・・・・・・・・・」と記載されていました。

日々 御世話になっています邑人からの 御依頼であれば ささやかな恩返しです。ご案内いたします。



6 月 24 日 (日)  



ガイド定例日

日曜日の朝は 人出は早いです。
1番は島根県からの老夫婦、2番は富山県からの4老婦人。

この様な方々は、政宗公は 戦国武将であり 御霊屋は政宗公の墓所と知っており、参拝が目的でお出でになっています。
10分間でガイドしてとは 決して申しません。
丁寧に語り 質問も途切れるまで応じます。今回は記録すべき質問は ありませんでした。


岐阜県から母親と小6・4・2年生の女児の4人。
小学校低学年から高学年まで 理解頂ける様に説明は 苦心の為所。わかった と頷いてくれました。


22日晩 仙台市内全域のガイドする会の元締から 「24日午後 仙臺城から瑞鳳殿まで 高齢者の団体を90分でガイドして」と指令が。
極めて厳しい条件です。

仙臺城跡に着いたら 岐阜県から母子4人が目の前に。予見を兼ね ガイドを。喜ばれました。


御依頼団体 仙臺城から瑞鳳殿まで マイク使用し 添乗員希望時刻でガイド。



6 月 23 日 (土)  



デスネ仙台ガイド当番日

晴天 故か 参拝者 仲間4人で対応。

関東圏からのご婦人。
自己紹介がユニークです。
「屋根屋の女房です。夫が三陸にボランテイアに来ています。帰り疲れから居眠り運転事故を起こせば大変です。迎えに来ました。そのついでです」

拝殿途中で振返り 「マアー 素晴らしい曲線と施工 カーブ見事ですネ 包の作業 上手ですネ 下手すると線が見苦しく雨漏りします」
涅槃門の屋根を見ての お声。

屋根の仕様は 銅板段葺。棟、銅板包。鬼板、銅板打出。紋章、金箔押。 あかとんぼ 自慢の個所です。

以前、屋根職人さんの研修で見えて 感歎されて以来です。

御供所(現資料館)の銅板葺、本殿の銅板本瓦棒葺の屋根 下からの観察です。涅槃門は見下げる角度からの観察で全貌が把握できます。この差か、見慣れた屋根か 評価は涅槃門程ではありませんでした。 

ハタと足と目が止まりました先。龍頭の隣の瓦、現龍頭瓦に更新前の九曜紋瓦です。粗末な造りです。
顛末を問われ 語り 何故関心を持たれたか尋ねました。

顧客から 銅板ノキ瓦の注文を頂き これより立派な品を納めた 故にとの事でした。
50分ガイド 御客様もあかとんぼも 充足感満々のガイド。


龍ケ崎市から小学生と両親の3人。
例により「どちらから」「茨城県から」「筑西市から?」「龍ケ崎市から」

「それは それは。伊達家・仙台市とご縁の深い所から、伊達家62万石の内 1万石は龍ケ崎領で 陣屋が置いていました。龍ケ崎城跡高校の麓 道路の広い所に陣屋がありました。

般若苑(金剛山観佛寺)と龍峰山大統寺は 伊達家とご縁の深いお寺です。

歴史民俗資料館には、伊達家との関係を示す資料が沢山展示されています。例えば 「仙臺領」と刻された石柱(一時 小学校校門に使用)が展示されています。」

両親「ヒー 知らなかった」
小学生の女児 「私 知っているよ。大きい石の柱見たよ。こんど一緒に行こう」

「鹿島は関係ないのか?」と問われました。
「政宗公も忠宗公も 龍ケ崎を訪れています。が、鹿島・鹿島大神宮をお詣りしたの 記録に私は接していません」

鹿島で生まれ育ち 現住所が龍ケ崎市なのでしょうか。ご縁の深さを感じたらしく 丁寧に参拝されている様子でした。


日本・アメリカ・台湾・日系ブラジルの4学生に問われました。
「なぜ 殿様と奥方を 一緒に葬られいないのか」

現在は 夫婦は 極楽に行っても 一緒が国際的な認識かと。

実りある日でした。



6 月 22 日 (金)  



夜来の雨 俗界塵芥洗い流し 御霊屋飛天様の色彩は湯上り美人の如く綺麗です。

11時20分約束のご依頼ガイド。17日故あってガイドを休んでいます。補足する気持ちで定刻9時に。

感仙殿前広場で千葉からのご婦人。
「此処は廃城跡か?」の質問。
これまた 想定外のご質問です。「どうして ですか?」

「立派な石垣がありますので」 感仙殿前広場周囲の石垣を指すます。「ここ なんか違うネ?」

「此処は 昔から 万人崇敬の霊地と 言われて来た所です」
「昔とは 何年前ですか? 何宗ですか?」

「何宗派では無く 万人崇敬の霊地です。やおよろずの神々と理解しています。平安時代に満海上人が此処で修業され 大般若経を経筒に入れ 最高峰の中峯頂上に埋め 世界平和を祈願され 以後 経ケ峯 と呼ばれています」

「フーウン なるほど それで なにか 清々しい のですネ」


修学旅行 福島・須賀川と青森・種市の中学校 相次いで参拝し 早々 降りて行きます。

福島・須賀川は 予習していないのか? 1589年10月の二階堂氏と政宗公の戦いの怨念か?(怨念があれば 参拝に来ない筈)
全く 興味を示しませんでした。

青森・種市は 学童も先生も 自動車道の工事渋滞で30分以上遅れた。以後に響く 残念と申しながら 降りて行きました。


11時20分約束の御客様 50分早い 10時30分に62石段を登って来ました。事前の電話ありません。
ご依頼ガイドは 常に30分前に 約束の場所で待機し 出迎える事にしています。事前の電話が無く 結果として 出迎える事出来ず 御客様に一抹の「ガイドいるか?」の不安を持たれたのでは が残念でした。

昨夜来の風雨で 地面が濡れ 落枝があり 後期高齢者の団体です。移動に配慮し マイクを使用し、当初約束の2倍の時間を要してご案内しました。「熱の入ったガイドありがとう」と申され 牛タンの会場にバスは去って行きました。

夕方 幹事様から「皆 よかった と喜んでいました。また お願いします」と電話を頂きました。と申すことは 幹事の苦労が高評価された証です。よかった。


全山 杜鵑(カッコウ)が 鳴いています。
寛永13年4月18日午後 杜鵑(カッコウ) の鳴き声を聞きたいと ここ経ケ峯 を訪れ 終の棲家をこの地と定められました。
その日を 旧暦から換算すると  1636年5月22日  376年前です。 今年は遅いのでしょうか。

杜鵑(カッコウ)を聞きにお出になりませんか。



6 月 20 日 (水)  



伊達綱村公・歴代公 法要

6月20日11時から 黄檗宗両足山大年寺に於いて「大年寺会」主催で慰霊祭として假本堂で催されました。

法要(慰霊祭)は、
0.僧侶 入場

1.読経
  6僧侶 大年寺2僧侶.東昌寺・孝勝寺・萬壽寺・桃源院

2.焼香
  大年寺・東昌寺・孝勝寺・伊達家御当主・殉死者後裔会・仙台藩志会・公益財団法人瑞鳳殿・茂ケ崎町内会

3.読経 法名読上
  大年寺殿肯山全堤大居士  (4代綱村公)
  續燈院殿獅山元活大居士  (5代吉村公)
  征コ院殿忠山淨信大居士  (6代宗村公)
  叡明院殿徹山玄機大居士  (7代重村公)
  永慶院殿桂山蘭榮大居士  (8代斎村公)
  廣コ院殿英山元鷹大居士  (10代斎宗公)
  慈雲院殿龍山眞球大居士  (12代斎邦公)
  9代周宗公・11代斎義公の墓所は妙雲界廟に所在、13代慶邦公は神式にて法名が無いため、3公は読上られず。

4.僧侶 退場

5.挨拶 伊達家御当主
 法要出来た旨 謝辞。
 仙台市管理 伊達家墓所(無尽燈廟)は 今年度には 修復される筈。
 伊達家管理 伊達家墓所(寶華林廟)は 修復出来ました。
 仙台市内に散在ずる伊達家墓所の統合・整備は 順次行います。
 皆様からの御芳志は 有難く使わせて頂きます。

 御当主の 墓所について 態態のご発言は、地元紙に相次いた投書を意識されたものか。
  04/12. 伊達家の墓所整備し後世に 峰岸義雅74歳 宮城野区
  05/26. 仙台藩主墓所早く修復して 松若由乃59歳 太白区

6.講話 大年寺様
 法要出来た旨 謝辞。
 当山開基の綱村公は「享保4(1719)年」に、当山開山の鐡牛禅師は「元禄13(1700)年」と 共に 今日6月20日が御命日です。

 儀式作法は中国明時代制定された作法で、経は唐時代の唐音で発音しています。供物は季節の物で縦に飾ります。

 供物 「胡瓜・油揚・人参・寒天・昆布」が 各垂直に飾られていました。

7.奉吟 大年寺会婦人部岳風会 7名
 綱村公作 松島
 三千の松島天工に属す 世界の名區奥東に有り 正に好今朝春至る處 海頭に輾出し一輪紅なり

8.各自 礼拝 寺寶拝見
拝見した寺寶
ア. 釈迦三尊 釈迦牟尼佛 阿難尊像 迦葉尊像
イ. 華光菩薩
ウ. 達磨太師像
拝見しなかった寺寶
ア. 扁額「両足山」筆 伊達コ子
イ. 扁額「方丈」 筆 伊達吉村
ロ. 扁額「萬善堂」筆 鐡牛和尚


補足
1.無尽燈廟・寶華林廟での参詣は行われませんでした。
2.塩竈市から献花がありました。
3.黄檗宗・大年寺研究第一人者 福島美術館学芸員尾暮まゆみさんは参加されませんでした。
この機会に ご高説と館の復興状況を 生でお聞きしたかった。
4.大年寺山一帯をシステム環境から研究されている 東北工業大学元教授松山正將氏の知遇を頂きました。機会あらためてご高説拝聴を約しました。
5.大年寺に関するまとまった資料「両足山志」(寺域見取図添付)が仙台市博物館に所蔵されており、又、立体模型は松山正將氏監修で作製された旨 大年寺報で尾暮まゆみさんが伝えています。貴重な情報です。

まとめ
 無尽燈廟・寶華林廟を参詣出来なかったは 残念でした。
 付近 「東街道遺跡」「木流堀」「福聚院」を合わせ見学・参拝しました。
 貴重な情報も得ました。



6 月 19 日 (火)  



故あっての蟄居も今日まで

黄金

1611年10月 イスパニア使節セバスチャン・ピスカイノが仙臺城で政宗公に拝謁し、報告書「金銀島探検記」に 極めて堅固と称賛している。

この時の目的は 金銀島の発見にあった。
徳川家康から三陸海岸の測量の許可を得、政宗公を仙臺城に表敬訪問をした。
政宗公は測量費用全額を負担した。

ピスカイノは、「ジパングに黄金の採れる島がある」と聞いて居た為、島影を求め 海しか見なかった故 金山に気づかなかった。結果 樺太まで黄金を探し求めたが発見出来なかった。

気仙の今出山金山、氷上山金山で 1千余人が 3ケ月で140萬両の金を採掘していた。
江戸初期 流行の先端であったダテモノと云われた風俗は この経済力があった故。

以上は 中津悠子著「みちのく燦燦 消されていた東北の歴史」2005年刊に記載されている事項です。


今出山金山とは?
大船渡市所在756mの山で 平安時代炭焼藤太発見と伝えら 1943年閉山。


文禄の役 閲兵行進の派手派手絢爛が ダテモノの言葉は 伊達家を指す言葉になった迄は 語られていますが、これらの装備を 如何に調達したかは 語られたモノに 未だ接していません。

農業生産額からは 無理だったと思います。当然 鉱山 金山 が思い浮かびます。しかし、仙臺市史、仙台市史、宮城県史を 紐解いても 解説に到りません。

伊達領内に金山等は 何処に 何鉱山が あったのか?
仙台藩歴史事典(仙台郷土研究会編)に、陸前高田市 松坂定コ 所蔵 「御領内御金山大凡覚之事」に鉱山名が記載されている。
刈田郡 金山1、銀山4  銅山2
柴田郡         銅山5 鉛山2
亘理郡         銅山1
名取郡         銅山2 鉛山1
宮城郡  銅山1
加美郡  銀山15 銅山2 鉛山1
玉造郡 金山1  銅山9 鉛山1
栗原郡 金山3  銅山2 ほか
元吉郡 金山1
江刺郡 金山4  銅山1
胆沢郡 鉛山1
牡鹿郡 金山3
小計  金山14 銀山19 銅山24鉛山5 ほか

なぜか 今出山金山、氷上山金山の名前が無い。
鉱山別の産出量の記載も無い。

調査の仕方に誤り かも。

瑞鳳殿で 想定外の質問に接し ドギマギします。学者で無い人の 歴史物には 面白い 着眼点があります。



6 月 17 日 (日)  



故 あって 本日のガイドを 休みました。

ガイドの際 「伊達家の家紋は 8家紋です」と語ると 驚く方が 多数います。
家の概念が無くなり 家とは ○○家と標記した 墓碑 でのみ 認識する人が多い時代。その墓碑も無い お詣りしない 人には 全く 縁のない概念かも。当然 家を 表する 家紋も 御存じない時代になりました。

家紋を知っている人でも 伊達家を代表する 「三引両」「竹に雀」 の家紋を 我が家の家紋と 名乗る方 一般客には 流石 いません。 
九曜紋は別です。我家紋と申す方がおり 身近な話題として 語られる機会があります。


その 九曜紋

九曜紋に 関わる 大事件 とは。

 延享4(1747)年8月15日辰の刻(午前8時)頃、江戸城大広間厠で、肥後国熊本54万石細川越中守宗孝(30歳)が旗本板倉修理勝該(カツカヌ)6000石に背後から脇差で殺傷された。

 この日、月次拝賀日で諸大名、旗本が出仕していた。

 細川宗孝公の様子は
「厠から6.7人の坊主衆に支えられて出て来た細川越中守は、真っ青な顔色で、脇差を杖がわりにしていた、肩衣は前も後も血で朱に染まり,息絶え絶えのありさま」
と「甲子夜話」巻2に記されています。

 仙臺伊達家6代宗村公(30歳)が「宗孝殿には未だ息がある。早く屋敷に運び 手当せよ」と細川家家臣に命じた。

 翌16日 宗孝公の弟 重賢(シゲタカ)を末期養子に指名 幕府に届け受理された後、宗孝公は傷が悪化し逝去した。
板倉修理は、三河国岡崎水野家に預けられ、23日切腹を命じられ 板倉家は断絶した。

 江戸城内・殿中の刃傷は 両成敗である。また 相続人未定であれば 御家断絶である。

細川家は宗村公の咄嗟の一声で 宗孝公は絶命していないとして、屋敷に運び、末期養子に指名の後 死亡した事になり、弟 重賢が10月 封を継いだ。お家安泰 目出度い。

 細川家の危機は 仙臺伊達家6代宗村公の機転の一声で救われた。


伊達宗村公 機転の一声の基はなにか?

1.宗村公と宗孝公は30歳と 同一世代である。
2.両夫人は紀伊大納言宗直の娘で、姉妹(相婿)である。

宗村公正室利根姫は 姉で 将軍吉宗の養女として享保20(1735)年に婚姻した。
「利根姫は、長持296棹持参され、長持中央部に大きく 葵紋 が記されている。松島町立博物館に1棹展示されている」

宗孝公正室友姫は 直妹で 紀伊大納言宗直の娘として婚姻した。

3.政宗公と忠興公とは、「文禄・慶長の役」以来 友好関係にある。伊達家に九曜紋の使用を許諾している。


刃傷事件についての従来の説

 板倉修理は、「狂癇の疾」(精神疾患?)にあり、本家板倉佐渡守勝清(遠江国相良15千石・若年寄)が板倉修理の隠居を画策していると恨み、一太刀を浴びせ様としたが、家紋が酷似して居た為 誤った。


細川家は 九曜紋、板倉家は九曜巴紋。果たして 誤認するか? 家紋の認識は 侍としての基本知識では?

江戸城 厠の構造は 家紋を誤認する程 薄暗かったか?昔の小学校の便所の感じ? 現在のトイレでは 予測出来ない暗さであったのか?


真相は、

両家間の近隣トラブルが原因。

板倉修理屋敷は白金台町(港区高輪1丁目)で、細川越中守の下屋敷に隣接し、崖下にあった。
現在も崖 高低差が確認出来る。
降雨で 雨水・汚物が 崖上から崖下に流れ込んだ。板倉家では 対応を求めたが、たかが旗本と大家細川家家臣が軽んじ対応しなかった。憤懣やるかたない板倉修理勝該の怒りが爆発した。


あなたは 「従来の説」派 それとも「真相は」派

この 真相は、.氏家幹人 著 旗本御家人 驚きの幕臣社会の真実 歴史の常識を破壊する(2011/10/21 洋泉社)に 両家の家紋・絵図と詳しく記述されています。

あかとんぼ は上京の機会に 細川越中守下屋敷跡 港区高輪1丁目の板倉修理屋敷跡を 訪れ 我が目で 確認したいと思っています。

伊達家と細川家の交流は、伊達泰宗 白石宗靖 著 伊達家の秘話 2010/02/09 によりました。



6 月 16 日 (土)  



仙臺城 落城 ?

2011.03.11.大震災で 仙臺城本丸は大被害を受けました。

本丸東崖の崩落。
政宗公の愛馬ゴトーが老齢故に 大阪の陣に出陣叶わず 嘆き悲しみ 投身自殺した個所から南側が崩落。数十メートルが危険立入禁止に。

ゴトーが落下した地点?に 慰霊の神社が創建され 明治期に片平丁に移転したとされています。が、現在 蛎崎稲荷大明神 と 稲荷大明神に変神 安置 崇敬されています。

下から見上げた時 崩落の長さと高さから 景観を保ち修復は 如何にするか 素人のあかとんぼ には 予測できないものがあります。

本丸西石垣の崩落。
詰門から酉門に至る切石積石垣200mの内 60mが崩落。道路を塞ぎ、道路にも亀裂を生じ、市道仙台城址線が通行止に。
本丸観光の方々は 御裏林の西 東北大学青葉山構内を経由しています。大変な不便を強いています。


早い 修復が為されない事には 「仙臺城 落城 ?」 の 風評被害が発生すると 心配していた所です。

本日 地元紙は
「本丸西側 山林(含 詰門から酉門に至る切石積石垣200m、酉門跡、番所跡、曲輪)2.4ヘクタールが国史跡に追加指定の見通しに なった。
仙台城址103ヘクタールの内 68.3ヘクタールが国史跡に指定されている」と報じました。

後は 復旧工事の完成を待つのみ です。



6 月 11 日 (月)  



抜ける様な青空

Uさんから 「昨日 瑞鳳殿に興味多大の人々4人を2時間要してガイドした。内 1名はガイドに参加を希望された。」の連絡がありました。
仲間が 増える事は 嬉しい限りです。Uさんに感謝です。


最近 統一した研修を実施していません。寺子屋方式です。
藩祖伊達政宗公瑞鳳殿ボランテイアの会の役員と図り 公益財団法人瑞鳳殿に 会場借用と学芸員の講師派遣を お願いし 学校方式 統一した研修を実施したい と思っています。
開催の暁 仲間の増に繋がると思います。


過日 仙台藩志会理事会で 「会の目的である 政宗公等の御遺徳を広める活動としての瑞鳳殿でガイドをしています」と発言しました。
仲間で会員は 3人です。公益財団法人瑞鳳殿に次ぐ 後援団体になって貰うには 会員の増と広報が必要かなと思います。



6 月 10 日 (日)  



降ったり・降ったり (降ったり・晴れたり では無い)の梅雨 です。

腕は2本です。左腕に説明資料集を持ち、右腕に 常のとうり 指棒を持つと 傘を持つ 腕がありません。傘と指棒の何れを選択するかです。

本日5組 23人、 1組40分平均。
雨やまずです。 御客様が濡れないように配慮し 本殿前の混雑を避ける 事から 拝殿のベンチに腰を掛けて頂き 本殿内部、地下の模様を説明の後 本殿前のご案内と 若干 流れを変え ガイドしました。


1組目。9時、福岡からの5人の盛年男子。無口で立派な体格。タクシー氏 ガイドし難いと判断したか 振って来ました。
「小雨でも 当たらない所で 説明して」の一言。納得、先を急がない人には 流れを変えました。

本殿前 「極楽」の話に 「ガイドさん 極楽に行ってきたの?」 ニヤリ
「マダです。これから 行くつもりです。ご一緒しましょう」 互いに ニヤリ

雨が強まって来ました。タクシー氏 仙台城に案内しても 時間持つか 心配な表情で降りて行きました。


2組目 静岡からの盛年男女4人。
雨が激しく 樹下での待機は無理、四阿で待機。お客様一行 涅槃門の北側に直行 妻の唐獅子彫刻を数枚撮影、正面、南面と撮影を続けています。菊紋を撮影される方は多々います。しかし、北妻側から順次 撮影された方は初めてです。

涅槃門を一端潜られ 「ガイドさん」と声がかかりました。
妻の彫刻を丁寧に撮影されていた謎は融けました。静岡市からで、昨年修復が終わった 久能山東照宮をお詣りされ、政宗公について予習の上 本日のお詣りでした。

宮大工・美術の先生を否定されましたが、冒頭から 厳しい質問の連続でした。
例えば
奉納石燈籠 左側 1燈籠足りないだはないか?なぜか?
家格が高い順に 本殿に近く立てられていたのでは ないか?

確かに 右列は5基 1934年調査の順であります。左列は、2番にあった 1族中島監物意成 寄進の灯篭は 有りません。4基です。
一族 白石 片倉小十郎重長 寄進の灯篭は3番から 最下位にあり、4番であった着座 村田 奥山大学常長 飛3番に 5番にあった 着座 丸森 佐々若狭亮元綱  飛4番に と 御客様 御指摘のとうりです。

なぜ、1族中島監物意成 寄進の灯篭が再建されず、また、片倉、奥山、佐々家の順番を変えたのか この事情は 再建時の記録図書を調べましたが、不明のまま 今日に至っています。

その様に 申し上げました。再度 発言がありました。
「再建されない中島家 順位を下げらた片倉家の末裔の方々は 先祖の名誉回復の為 立ち上がらのか」

厳しい質問は 最後まで 続く。


3組目 大阪からの老・青年男女11人。
拝殿で 腰をかけて頂き説明の上、本殿にご案内しました。幸い 雨が止みました。
「この位置、今 お立頂いて所が 政宗公遠年忌法要の際 伊達家ご当主が立たれる所です。ご当主は 焼香が始まるまで 微動だにしません」と申し上げたたら、あかとんぼ の説明が終わる迄 直立不動です。老体に負担をかけたな シマッタと 思いました。

寶筐印塔の説明後 「龍寶山大コ寺の千利休のお墓と 同じだ。非公開だが 特別にお詣りが許された。大コ寺で社員・家族300人参列、僧侶7.・8人の大法要を営んだ」 「社長の会社は?」 「○○○○で、今は 福祉支援に携わっている」

「今日はありがとう」と 2度 握手を 求められました。

帰宅 検索しました。○○○○とは 日本全国を制覇しながら 時・国策の流れで廃業した会社でしょうか?福祉支援に携わっているも 同行者から理解できます。

波乱万丈ながら 人生の成功者です。松下幸之助に次ぐ成功者です。お名前を聞き洩らした残念を 2度の握手の手を握り 慰めています。


4組目 郡山からのお嬢さん
「一人ですけど」  若い女性は 爺様ガイドを避ける傾向があります。御奇特です。

御奇特の続きは 日光の様に 猿や猫の彫刻は無いのか と適当に質問を入れ、要所で撮影をする 聞き上手な事です。それ故か 撮影したい位の美人と感じました。


5組目 亜米利加の老人と高校英語教師
「宝石が展示していると聞いて来た」と。
拝殿の扁額と三国語表示の資料と 創建時来の写真を提示し説明。額の大きさ、八方睨文字、利根姫の長持等もご理解頂きました。

「なぜ 創建時の物はないのか?」 に 「1945年7月10日米軍の空襲で焼失しました」 と事実を語りましたら 「日本の史跡を訪れると 必ず言われる。アメリカ人として 謝罪する」と 通訳を介して 言われました。

驚きました。 歴代米国大統領も駐日大使も発言しない 空襲の謝罪を 隠居したアメリカ人から言われたことです。
大東亜戦争時 実戦に参加していない年齢です。世界の空を制覇した 欧米系航空会社の上席幹部であったとの事、これが 発言の基になっているのでしょうか。

意外な質問
1.家康公の墓が 上野にあるが 一体 幾つあるのか?
2.エライ人は神様にもなれるのか?

1について
 上野東照宮が念頭にあっての質問の様です。
 久能山東照宮に、遺命により遺骸を埋葬した「神廟」があります。元和2(1616)年4月17日逝去1年後 遺命によって遺骸を日光に奉鎮された。神社であるから 「御寶塔」である。
2墓所ある事になっています。

 上野東照宮は 御霊を祭ったもので 仙台には仙臺東照宮があります。

2について
 .家康公は、没後 久能城を廃城し 埋葬された。葬儀は仏式で催されたと推定していますが 定かな資料に接していません。
1617年 「東照大権現」の神号と 社に 正一位を朝廷から賜っています。この時点で 佛から神になられたと理解すべきか 私には定かではありません。

 政宗公は 佛 「瑞巖寺殿貞山大禅居士」で、松島瑞巖寺が菩提寺です。お墓は ここ瑞鳳殿です。
1874年青葉神社に祭られ 武振彦命(タケフルヒコノミコト)の神号を 1918年に從二位が贈られています。

 豊臣秀吉公は、「豊国大明神」という神号で祀られ、正一位が贈られています。

 案内された高校英語教師は 仙台居住との割に 青葉神社と青葉祭の関係は 定かでありませんでした。


本日は ご案内した人数は 少なかったですが 内容は濃かったと思います。



6 月 9 日 (土)  



奥州仙臺は梅雨にはいりました。終日 雨です。

目下特訓中のSさんから電話。数々の内容のひとつ。

「瑞鳳殿の色は 変わっていないか?」と御客様に 問われ 「変化しています」 と答えたました。よろしかった でしょうか?


 「変わっていないか?」の質問の趣旨は
@ 経年で変色していないか?
A 桃山様式の代表建造物 日光東照宮等と 異なるか?
その何れなのか 双方なのか。


 「基本的に変化していません。経年による減色はあります」と 答えていますと伝えました。

それは

1日光東照宮造営の際 大崎八幡宮等の造営に関わった技術集団が 参加したと伝えられています。
 日光東照宮1616年11月着手、翌年3月完成。1634年11月大造替に着手、1636年4月落成。

 政宗公が瑞鳳殿に埋葬されたのは1636年6月6日です。以後に造営が開始されますが、工事の手順として 土木工事が1番で 建築工事はその次です。
 日光東照宮大造替にも 伊達家の技術集団が参加していても 日程上から 仙臺に帰国し 瑞鳳殿造営工事に従事できます。

 戦災で焼失する前の「色」の記録には 接していませんが 基本的に 日光東照宮 と同じであったと理解しています。

2.現在の瑞鳳殿を再建の際、漆工事は 株式会社小西美術工芸社が担当しました。同社は 経年 日光東照宮、久能算山東照宮の漆工事を担当しています。

 瑞鳳殿 2000年の大改装工事も小西美術工芸社が担当しました。


 「色」は日光東照宮、久能算山東照宮と 基本的に 同じ と理解しています。  経年による減色はしています。 



6 月 5 日 (火)  



どちらから 伊達町から

3日の日誌に
ガイド前に「どちらから?」と聞きます。「なぜ 聞くのか?」の反問がありました。
「御客様と 伊達家や政宗公との 接点 御縁を求めて です。それ以上の意図はありません」に 納得して頂けます。

以上の通り記載しました。

「東京」と答えれたら 内心 お手上げです。
中央区の方に限らず 都下町田市の方もいます。千葉・神奈川の方も 東京と答えます。

「日比谷公園・仙臺味噌」も語りません。なりいきです。


3日の成年婦人学級の東京10人様 「私達  伊達町から来ました。伊達家との 御縁 知っています?」と 問われました。

品川区東大井4丁目の品川屋敷跡に、東五反田清泉女子大を 列記したら 「それは 品川区でしょう。港区です。今でも 使われています」
あかとんぼ 不知です。「ありがとうございます」とおれい申し上げました。


判明しました。港区のとなり。
現在の渋谷区恵比寿三丁目が伊達(だて)町でした。1928年以前は 伊達前、伊達跡の地名でした。

由来は、宇和島伊達家の下屋敷があったことで、
旧地名は町会名として残っており(伊達町会)、また、恵比寿二丁目交差点を頂上とする坂を「伊達坂」と呼び、恵比寿二丁目交差点の別称は「伊達坂上」である。また、現在でも、児童遊園名、マンション名やビル名などに伊達町名名を散見することができる。確かに ありました。

宇和島伊達家は仙臺伊達家と同根です。
教えて下さいました 御客様 ありがとうございます。



6 月 4 日 (月)  



昨夜来の暗雲は去り 抜ける青空、緑濃き林間に 爽風はしる 経ケ峯。

伊達家3代綱宗公302遠忌法要が催されました。

次第

開式 10時 善應殿
読経 瑞鳳寺・善應寺 和尚様 3人
    善應殿 殿内、
    擬殉者 渓叟(ケイソウ)墓前

焼香 仙台伊達家十八代当主       伊達 泰宗 様
    殉死者後裔会副会長         芝原 栄一 様
    仙臺藩志會副会長          大場 光昭 様
    大年寺会総務部長          坂   和夫 様
    公益財団法人瑞鳳殿常務理事   大崎 啓一 様

挨拶 仙台伊達家十八代当主       伊達 泰宗 様
    博物館企画展「寛文事件を追いかけろ」見た。
    綱宗公の綱村公に宛てた書簡 父親としての子を思う情感 切々たるもの。
    今 墓前にて 改めて 感ずる。

    仙臺藩志會副会長          大場 光昭 様
    綱宗公の御生涯を返るみるに 現在「伊達文化」と称されるもの創始者です。

    公益財団法人瑞鳳殿常務理事   大崎 啓一 様
    昨年は復旧中での法要でした。ここまで復旧出来ました。
    参拝者数は 完全に回復していません。デスネに参加し回復に努めたい。その為にも 環境の保全に努めます。

閉式 10時40分


法要後 公益財団法人瑞鳳殿から、記念品として 「綱宗公と綱村公、心の交流 伊達騒動の渦中で」と題する栞が配られました。
主な内容は、
○ 綱宗公(29歳) 伽羅を亀千代(10歳)に 寛文8(1668)年5月贈る。
○ 綱宗公(33歳) 綱村公(14歳)に 後西上皇手跡を 寛文12(1672)年贈る。
○ 23年振り 父子の対面 天和3(1683)年4月26日 品川屋敷で実現。
○ 綱宗公(47歳) 綱村公(38歳)に 貞享3(1686)年2月4日浄眼院卒に 慰めの文送る。

資料は 大日本古文書家わけ第3(伊達家文書3.4.5)、伊達治家記録5.7.8.とあります。


仙台藩志会会員で 瑞鳳殿ボランテイアの会会員である U氏とK氏で 早速 樹下で 頂いた栞を読みました。

綱宗公の生活費の増額、屋敷の改築、小姓熊谷斎直清の加増の記事から、「綱宗公 隠居料として10万石を得ていた」の「感仙殿伊達忠宗・善應殿伊達綱宗の墓とその遺品 V忠宗・綱宗の生涯 小野寺通典著」記述に はてな の声が 出ました。

家政を司る家扶は必要で居ても 兵団を抱えない 隠居に 10万石は多すぎる。また、 財政上 10万石の歳出は可能であったか? です。
 



6 月 3 日 (日)  



爽やか です

参拝のお客様 間断なく 続きます。
神戸・奈良からの盛年男性、名古屋からの3世代10人、蔵王町5人に東京10人 の成年婦人学級 2団体。いずれの皆様も 時間を制限せずに 説明して欲しいとのご依頼。30-40分を要しました。 ご満足頂けた様です。

ガイド前に「どちらから?」と聞きます。「なぜ 聞くのか?」の反問がありました。
「御客様と 伊達家や政宗公との 接点 御縁を求めて です。それ以上の意図はありません」に 納得して頂けます。

神戸の方には「飛天・生田神社・有名女優」
名古屋の方には「常滑焼・綱宗公・時代の先端」
これらのお話を致しますと、原住地と伊達家や政宗公との 接点 御縁を知り 驚き 満足されます。

9時から12時30分まで 間断なく ガイドしましたが、特記すべきご質問はありませんでした。
帰りかけたら 亜細亜系の美少女の一団にガイド中の Uさんに呼び止められ 紹介されました、

財団法人 MULIA MEISON INDONESIAのWさん達 7人の20代の皆様で、 英文パンフとUさんの巧みなガイドで ここ瑞鳳殿とはなにか? 日本美の特徴 桃山の美も 納得されたところでした。

リダーのWさんと名刺交換を。彼女の氏名は英文字にカタカナでフリガナされたいました。それではと 英文字のフリガナをした あかとんぼ の名刺を差し上げました。

参拝記念の写真に 例の場所を紹介しましたら 一緒に撮りたい との事。撮りました。HPに掲載のご了解頂きました。表紙を御覧ください。


14時 瑞鳳殿から1時間移動 大和町主催「まほろば大学」に参加。

仙台市博物館 最年少学芸員坂田美咲さんの「仙台藩の御家騒動を読みとく」 90分の熱弁。
大和町の宮床は 5代吉村公の出身地。寛文事件のその後として 吉村公の治世まで 話は及びました。

配布資料の講師紹介?から積算し、 まだ20代です。博物館の今回の企画展を企画・実行し、前回・今回の講義の内容に。驚きです。
、 
名古屋のお客様からガイドさん 44年生まれですかと問われイヤ36年です と答え その反応に 内心 歓喜しました。

しかし インドネシアの乙女や坂田学芸員のやる気旺盛と知識に接し 我 徒に馬齢を重ねたもの となり カックン。






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