2012年7月の日誌
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7 月 31 日 (火)  



米澤(館山)城跡 本丸路 確定

昨30日 米沢市教育委員会は、伊達家3代(1548-91)支配時代の本拠地と目される館山城跡の発掘調査現地説明会を開催しました。

主な事項は、

通用門跡付近から 伊達家時代と推定される土鍋・酒器の一部。城中での生活を窺わせる遺物が発見された。

本丸に至る路も特定できた。
道幅3.6m 全長80m。大手門付近から中腹 通用門跡迄 結んでおり、麓から3分の2程 崩落が著しい。
岩出山に移封の際 恣意的に破壊したか?

昨2011年6月11日 現地で発掘調査現地説明会と講演会が開催され、Uさんと参加しました。
その後 1年の成果が上記のようです。



7 月 29 日 (日)  



身辺諸事多忙に付、日曜日ながら ガイドを休みました。


地元新聞は、「今朝5時55分 瑞鳳殿の麓 廣瀬川に熊2頭表れた。1頭は 御霊屋橋袂の林中で9時40分射殺された。今1頭は逃亡中」と伝えています。

廣瀬川の右岸か 左岸か を伝えていません。右岸であれば 経ケ森 瑞鳳殿になり 左岸であれば 故三原良吉屋敷等になりますが。

この熊は 仙臺城御裏林から 本丸・三の丸から花壇を経由 廣瀬川伝えに 瑞鳳殿に お詣りする途中 日の出となり  人目に着き 騒ぎになったのでしょうか。

それとも 暑さで 川狩りの最中で あっただけか。 




7 月 28 日 (土)  



猛暑

25日開催の ガイド仲間「藩祖伊達政宗公瑞鳳殿ボランテイアの会」の総会、「伊達な旅」ガオド反省会の結果を公益財団法人瑞鳳殿に報告に。

身辺諸事多忙に付、報告と8月分諸表セットのみで、帰宅の予定なれど 2-3組と語る。
1.城下中心部の中学1年生と父親。夏休自由研究らしい。Uさん ガイド用資料を提供する。
 仙臺城址を訪れるとのこと。例による 廣瀬川を渡り 仙臺城であり、本丸・三の丸間 徒歩で実感するを 薦める。

2.高齢ご夫妻 幼少のみぎり 石段の登り降り 山を駆け巡った 地であったと 語り、拝殿礎石を指し「何ぞや?」等の 御質問。
 一時 60年前の 昔話。

午後 伊達学塾(主催 仙臺藩志會)に。
講師は 佐藤憲一氏(前仙台市博物館長)。
演題は 伊達政宗と母 義姫 政宗毒殺未遂事件と弟小次郎をめぐる謎

1.母 義姫による政宗毒殺未遂事件は 本当にあったのか。
2.弟小次郎は、生き延びたのでは?
3.大悲願寺(東京都あきるの市)15代住職 法印秀雄は弟小次郎 
4.母 義姫の山形に出奔は 何時で 真相は
5.政宗公との再会の経緯は

興味深い内容で アッと言う 2時間でした。

この内容は、2010年11月発行 雑誌「仙台闊歩」83-85pに 掲載されています。
さる方から ご紹介頂き 購入しました。

先生は 2012年 洋泉社 刊 「素顔の伊達政宗」に詳しく記載されていますと 紹介されました。
こちらは 未だです。
 



7 月 27 日 (金)  



「江戸の町は骨だらけ」 鈴木理生著 桜桃書房 刊

御客様から 政宗公は 火葬か? 土葬か? 尋ねられ 「生葬」と答え 、以下・・・・・と真相を語ります。

現在 火葬する事が死者に対する「礼」として 最低基準と捉えられています。
3.11災に於いて、火葬が能力を超え 止む得ず 土葬にした際 遺族から「申し訳ない」「いっとき我慢してくれ」が発せられ、社会が回復次第 掘り起し 火葬にしたと聞いています。

瑞鳳殿での ご質問も 当然と理解しています。

1873(明治6)年7月18日太政官布告で 火葬が禁止になりました。
同年10月23日 私有地墓地の新設が禁止になりました。
1875(明治8)年5月23日 火葬禁止解除になりました。
これは 墓地用地の確保困難が背景にあったもので 137年後の我々の心情とは 異なるようです。



家康公は 山を削り 海を埋め 町を開き 寺を創て 移転させ ました。以来  徳川270年 東京になり 明治・大正・昭和・平成と なりました。
東京の町は 日々新に なって行きます。そこには なにがあるか。

興味深い 内容が 満々です。



7 月 24 日 (火)  



( ^^)/□☆□\(^^ )猫に小判??

瑞鳳殿の入場券「杜の都・仙台 伊達政宗公霊屋瑞鳳殿 共通観覧券」 日に何枚と 拾います。
拾いもの 1番で、2番はパンフ  3番はループルバスパンフです。
財布は拾った事は ありませんが ループルバス券に ハンカチ等は 落とす・忘れるで 放置されていることがあり 即 券売窓口に届けます。


日に何枚と 拾います「杜の都・仙台 伊達政宗公霊屋瑞鳳殿 共通観覧券」は 紛失しても 観覧に支障はありません。

表に仙臺城下絵図(部分)が描かれています。

右に 瑞鳳殿と仙臺城、中央に 廣瀬川を、左に大橋・片平丁・大町と城下を描いています。
文久2(1861)年作図 齋藤報恩館蔵で、 151年前の仙臺を 西側からの「空中写真」的に見た 貴重な絵図です。

この絵図に 墨痕鮮やか 達筆に 和歌が記されています。達筆故に あかとんぼ には 読めません。

裏に 「伊達政宗 和歌懐紙」(伊達政宗自筆、仙台市博物館蔵、仙台市指定文化財)

入りそめて くにゆたかなる みぎりとや 千代とかぎらじ せんだいのまつ

1600年 政宗公が仙臺に居城を移した時に詠まれたもの。もともとこの地は千代(センダイ)と言いましたが、この和歌では「千代(チヨ)と限らじ」と読み、「千代」の後の「せんだい」=千代にかけて、「1000年の世と言わず永年に榮あれ」との願いを込めています。現在の「仙台」の地名の起源となりました。
と 解説が記載されています。

政宗公の仙臺開府の意気込・希望が素直に理解できる和歌です。

100萬都市・国際都市 仙台。
我が皇国の歴史を見れば 都は 北上したおり 1868年 江戸は東京(東の京)になりました。次 東京からの 遷都となれば 候補地は 当然 仙臺 です。

「千代とかぎらじ せんだいのまつ」 政宗公は あかとんぼ が 考える以上の 思いを 持って 詠ったと思います。


入場料以上 (万金の値)の 価値ある観覧券を 読まない・紛失される 方 それなりに居ますは残念です。
猫に小判??

政宗公御尊顔像から 出発で 時間と気持に 余裕ある 御客様には 表裏 見て頂き説明をしています。


尚、団体入場された 御客様には 特典として この観覧券は ありません(^^;;;;;;)(^^;;;;;;)。



7 月 22 日 (日)  



朝 1番のお客様 神奈川県からの高齢のご婦人2人。
「10分で案内して」のご依頼。

石段で「マッテー」の声。

涅槃門の彫刻、拝殿扁額の色材、仙臺七夕、本殿の外観に御木像、寶筐印塔 他と 語るべき題材豊富ながら 10分間で しかも 階段で 「マッテー」の声が あり 語るべき個所で 語る時間・内容が制約されます。

お客様には 諸般の事情があっての10分です。限られた個所の骨格ガイドです。時計見ながら まとめました。 


「ガイドさん 英語出来る?」タクシーさんです。
「できません」  「では インドネシア語は?」  

英語が出来ない あかとんぼ が インドネシア語 出来る筈がないでしょう。
でも タクシーさん自身 英語出来ない。 瑞鳳殿まで 連れて来たが 説明出来ない。時間は経過する。三重苦に 陥って 頭 真っ白の様子。

この儘 放置したのでは 日本国・仙臺の名声に 傷がつきます。
「ガイドしましょう。時間は?」 「助かった 20分で}

券売窓口から 英文パンフ 6部貰い 各自に配布、1人 微かに日本語理解出来る女性を介して説明しました。

涅槃門前で
「此処は 伊達政宗と申します 殿様の御墓です。日光と同じ 桃山様式です」
「上の 綺麗な色とりの彫刻が ポイントです」

本殿前で 全員 拝礼の後
「此処に飾られている動物は 動物園に居ない動物ばかりです」
「この地下に現在も祀られています。中には この様な木像があります(写真を見せる)」

「お国にも この様な 御墓ありますか?」
「ありません。沖縄の様な 皆一緒の御墓です」

寶筐印塔を指して 「?」
「殉死」 を 何と説明しようか?

「殿様が亡くなる時 あの世に 御伴した家来のものです」
女性の翻訳解説終わった時点。あかとんぼ 右手握り拳を 腹一文字に移動し 「サムライ セップク」。この一言。一発氷解。
全員 頷きました。

不足は英文パンフを読んで頂ければ。


「いた!」  「イター」 「ガイドさんが居た」

若林区と太白区からのお母さんが姉妹の小学生4人従兄妹から 熱烈歓迎。。
夏休み自由研究が「伊達政宗公」。 ノートに 質問事項を ずらっと列記しています。

政宗公の戒名は?  「瑞巖寺殿貞山大禅居士」  この位は スラスラ。

政宗公の生涯は? 再度の質問です。 ノートに5行位しか余裕がありません。
手持資料 「伊達政宗公略年譜」を 事務所にお願いし コピーし上げました。

妙雲廟界まで 案内・説明しました。ここでは お母さんが 夢中でした。
再度 資料館を見学すると 妙雲廟界から引き返しました。熱心です。

不足な所は あかとんぼのWEBを 見るか メール貰えば 調べますと 名刺を渡しました。孫の宿題を 手伝っている 感じです。
早々に 自由研究をまとめれば その後は 体力増強に励めます。ガンバッテ。


25日 「藩祖伊達政宗公瑞鳳殿ボランテイアの会」の総会と{伊達な旅」反省会を開催します。
会議資料を公益財団法人瑞鳳殿に持参、概要を報告しました。




7 月 18 日 (水)  



田村清顕(愛姫父君)の御墓は何処が本墓?


白石市蔵本勝坂に所在する田村家墓所の御墓は 本墓です。

仙台真田代々記 著者 小西幸雄様から 丁重な御教示を頂きました。

事の経過は次の通りです。

◎ 2010年9月30日に 片倉家史跡を見学する会(主催・政宗公の手紙を読む会)に参加した折、

1. 田村清顕の本墓は 三春町に所在するのか?
2. 真田幸村とその一族の墓が、ここ(白石市蔵本勝坂)に所在するのはなぜか?

を、白石市教育委員会生涯学習課 日下和壽学芸員にお訊ねしました。

「仙台真田代々記 小西幸雄著」を 読め と即答頂きました。
(以上 あかとんぼ 瑞鳳殿ガイド日誌2010.09.30.に記載)

◎ 「仙台真田代々記」を読みました。

「白石市蔵本勝坂の田村家墓所に奥州三春城主田村大膳大夫清顕の供養墓が建てられている。これは、政宗公の正室陽徳夫人(愛姫)が政宗の死後、片倉重綱に命じて建立させたものといわれる。

なお、清顕の本墓は、福島県三春町字御免町の副聚寺にある」 と仙台真田代々記119頁に記載されています
(以上 あかとんぼ 瑞鳳殿ガイド日誌2010.11.01に記載.)

◎ 今般 標記について 下記内容の書簡を頂きました。

1.三春町にて調査結果、三春町指定文化財{田村氏三代墓}は、江戸後期に 田村家が建立した 清顕 等の年忌石塔ではないか。
(詳細は、三春町民俗資料館[WEB資料館] http://www.town.miharu.fukushima.jp/soshiki/12/tamurashi.html を参照)

2.「先祖之歴史」 片倉正顕 著 (元登米郡石森町長)に

○ 田村清顕 天正14(1586)年10月9日卒

○ 田村宗顕(清顕甥)継承。天正18(1590)年8月 秀吉により全領地没収され、10月三春を離れる。牛縊(ウシクビリ)丹波定顕と改名、伊具郡金津村に住す。

 寛永年間 片倉重長 愛姫の命を受け、牛縊定顕と嗣子権十郎定廣を白石に招き、蔵本村勝坂に居住させた。
これらにより 戦争で持ち歩いた清顕の遺骨を勝坂に納めることができた。

○ 寛永13(1636)片倉重長は伯母喜多の由跡を定廣に継がせることにし、俸禄8貫140文蔵本村に与え、爾来 末家とした片倉金兵衛定廣を名乗る。

3. 以上記載があり 白石市蔵本勝坂の田村家墓所こそ田村清顕の本墓である にいたりました。

小西様 ありがとうございます。


愛姫を中心に 終の棲家 を一覧に

愛姫        宮城郡松島町 瑞巖寺・寶華殿
夫 政宗公    仙台市青葉区 瑞鳳殿・瑞鳳殿
父 田村清顕  白石市蔵本勝坂 石墓
母 相馬氏娘  仙台市青葉区 輪王寺 石墓 


片倉金兵衛定廣と片倉正顕との関係

片倉金兵衛定廣の系図は 確認出来ていません。寄って 定廣から正顕に至る確証は把握出来ていません。

仙臺人名大辞書 には、
「片倉定廣 兵学者で、重村公の近習に、斎義公長沼流兵学を開口時 右に出る者なし。文政12年9月3日卒70歳、大萬寺に葬」とあり、
片倉正顕については記載されていません。


坂上田村麻呂の末裔

小西氏書簡に
「福島県須賀川町の坂上田村麻呂の末裔たちによって、田村宗顕公の300年祭を記念して、1948年に田村家墓所の整備が行われた」とあります。
坂上田村麻呂の末裔が なぜ 須賀川市に 居るのか 興味ある課題です。


小西幸雄様 数々の御教示 ありがとうございます。



7 月 16 日 (月)  



「海の記念日」祝日。

その由来は、1876(明治9)年6月2日 明治天皇陛下は総数147名を引き連れ、東北に行幸されました。
6月24日仙臺に到着。仙臺城址、市内施設、塩竈、松島を視察され、7月1日古川に向かわれました。

青森から函館経由で、軍艦では無く 汽船(明治丸)で帰途に着き、7月20日横浜に帰られました。
この7月20日を記念して 1941年に祝日「海の記念日」が定められました。

以来 この日を中心に「海上安全週間」が定められ、昨日は第2管区海上保安本部が 仙台沖で 巡視船「ざおう」(3100頓)やヘリでの 公開訓練があり1000人が参加しました。

瑞鳳殿ボランテイアの会の仲間NM氏は、その主宰する生涯学習団体で「明治天皇陛下と東北御巡幸。平成7年「海の日」制定史実」と題して講演され、その講演録を頂きました。

仙台での行幸先・地図・写真等 貴重な資料が添付されています。

NM氏は そのお人柄から 直裁的表現を避けていますが、由来に関係なく祝日が変わり 意義が理解されているか?と警鐘を鳴らしていると感じました。

祝日の意味を 考えているか 単に 3連休の最終日 2泊3日の仙台旅行の方々が 9時前から続々と参拝に見えられました。


当然かも?
ダテマサムネ 知らない方 それなりの数で見えました。年齢的に若い方 テレビ離れ方。

こんな会話です。「ここはなんですか?」 「伊達政宗公の御霊屋です」 「伊達政宗て なんですか?」何人か居ました。
最悪の事例 「僕は歴史に名前の残る人物の生まれ替りです」 「政宗公ですか?」 {知らないな」では 誰でしょう?

後期高齢者クラスのご婦人。「NHK大河ドラマ 独眼流政宗 渡辺兼」に 「渡辺兼は知っているけど」



伊達家発祥の地 常陸國真壁郡伊佐庄」から うら若いスッピンのお嬢さん2人。

「どちらから?」 「茨城から」 「龍ヶ崎から?」 「龍ヶ崎まで1時間」 「筑西市ですか?」 「はい」
筑西市中館522 伊佐城址(観音堂)の地図を広げました。「アツ!」 心当たりがあるようです。

撮影ポイントを紹介しながら 本殿前に到達。再び「アツ!」 「連れ 高齢者が下で待っています」
3人で 西参道を下りました。日陰で 母と祖母が待っていました。

62石段と暑さにまいり 参拝を断念された由。
資料の政宗公尊像や仙臺七夕を見て頂き、「建造物の華やかさは お孫さんの写真を ご覧ください」に、「諦めていたの」 と 喜んで頂きました。

2009年11月15日 仙臺藩志會 21人で 常陸國真壁郡伊佐庄と言われる 筑西市中館522 と 真岡市中村 を訪れ 市長始め関係者多数の皆様から 熱烈歓迎を頂きました。その お礼・お返し に なったでしょうか。



新潟からの高齢のご婦人4人。ズバリの年齢はお訊ねしませんが、話の折から 1945年夏 国民学校6年生であったようです。
それ故 暑さだけでなく 涅槃門前でも どこでも 座りたい 座ります。

伊達八家紋の説明 九曜紋に至ったら

「わたしの生家は 九曜紋です。豊臣秀吉に攻め込まれ 村の名前は変えなかったが村に残った者は姓を変えた。本家である我が先祖は 北前船で逃れ、越後の小千谷に居を構え 今日に至ります。星野です。

1945年以後 300 .350回忌法要を小千谷で催しました。星野村からも来ました。私はお嫁に行きましたから姓は変わりました」
一同 謹聴。

「お客様 それ お茶の八女茶の在 星が綺麗な 星野村では ありませんか?」
「ガイドさん そうだけど どうして 知っているの?」


帰宅し 確認しました。1587(天正12)の「島津征伐」と称される戦乱を指しているのでは。(資料 山川 大分県の歴史1971刊)
 400回忌は 1987年になります。


昨日迄の雨が上がりました。猛暑です。水を飲みのみのガイドです。
事務所に戻ったら 「ヒヤッ」とします。 「あかとんぼ さん これ役所指定 28度です」

28度で冷気を感ずるからに 外気は 30数度 でしょう。
ユニホームの陣羽織 背中まで汗で ペタペタしています。救急車呼ぶ事態になる前 ガイドを 終わりました。




7 月 15 日 (日)  



天気予報は「9時から晴天」

奈良からのお客様 長老夫妻にその子供夫妻2組。6人。
9時 ガイド始めた頃は曇り。晴れる筈が 雨になり 拝殿に到達した時点では 大雨です。

拝殿のベンチに坐して頂き 仙臺七夕に、本殿・政宗公を説明致しました。傘のある方 本殿迄 進んで頂きました。

長老は アカトンボ と同年配と 思いましたら 1929年生83歳との事。
昨日 仙台に、市内ホテルに投宿、牛タンを馳走に(柔らかく 美味であった)。
今朝 仙台城に登り、ここ瑞鳳殿に来た。レンタカーで市内散策 今晩は秋保温泉に投宿、明日は飛行機で帰ります。
と 親孝行旅行を 心底から楽しんでいる様子で 語りました。
再会を 約しました。


大雨です。駕籠に傘を取りに行こうとしたら
「は」氏(H氏と記載すると エッチ氏と読まれると 人格高潔な「は」氏に御無礼である故「は」氏と記載)が 「あかとんぼさん 駕籠 ライト」と。
在から城下に抜ける隧道 通過した際 大玉を消しましたが 小玉の消し忘れでした。

北方向から 仙臺城下に入るには 北山トンネルを、西方向からは 青葉山トンネルを利用するのが 通例となりました。
之は 仙臺城下の北と西は 小山 自然の擁壁に守られていたを 意味すると気がつきました。


手水舎前で お嬢さん2人 「手を洗わないと いけないの かしら?」 「イヤネ」と 呟いています。
「清めないといけないかしら」では 無く 「手を洗わないと いけないの かしら?」 「イヤネ」です。

「洗わなくとも 大丈夫 お詣りできます」に ホッとした表情になり 涅槃門を潜って行きました。
手水舎を目の前にすると 日本人は 「清める・洗う・濡らす」の義務感に 襲われる様です。


10時30分 依然として大雨です。
日本國の歴史知識皆無の日本嬢の通訳で カナダ国籍のアメリカ青年を 手水舎の龍から 寶筐印塔まで 90分要してガイドしました。

性別・年齢・国籍で 歴史知識 物の考え方に 相違があると 理解してのガイドでしたが 「やはり」と思うかと暫し。

手水舎はなぜ あるのか?
龍はなぜ 水を吐いているのか?
ドラゴンでは ないのか?
龍とドラゴンの 違いは なにか?
涅槃門 下部は 単純なデザインである。目線から外れた上部の華美な彫刻に 宗教的意味があるのか?
「シャジブッカク」とは?

寶筐印塔で 殉死 を 切腹 と 通訳していましたので 「死に至る 結果は同じでも 死に至る 経過に 大きい違いがあります」と説明し 理解して貰いました。

12時30分 雨は小雨に 参拝者は続きます。が 空腹を感じました。今日は これまで。



7 月 14 日 (土)  



御依頼ガイド

約束の時刻30分前に 待機に入るを例としています。本日も30分前 約束の瑞鳳寺山門前にて待機に入りました。
添乗嬢から 「仙台市内渋滞で到着が30分遅れる」の携電。

客待ちのタクシー氏、残土待ちのダンプ氏と 会話。隠居には普段聞かれない話。

タクシ―氏
0. 渋滞の原因は、観光客の回復と地下鉄工事です。
 観光バスの台数が増え 仙台駅駐車場に入れず 青葉通に停車し、車線を占拠する。地下鉄工事で車線が減少しているのに バスが停車し更にに狭くし 流れを阻害している。青葉通の渋滞が 他の太路・小路に波及。 市内全般が渋滞している。

0. 市内から瑞鳳殿迄乗車のお客様が、参拝終わるのを待機し、仙台城等に乗せた方が 仙台駅で待機しているより確実に・・・・・

0. 最短走行距離は、瑞鳳寺山門前から瑞鳳殿駐車場迄です。石段の登り降りで 足が痛かったのでしょうか。
 距離が短くとも 歩けないでは タクシー利用となります。 流石 メイター料金を請求出来ずに、基本料金の半額頂きました。


ダンプ氏
0. 塩竈でタクシーに乗務していたが 3.11災で営業車が流失。即刻 馘首なった。
0 タクシー利用者 居なくなった。会社再建されるのか?

0. 3.11災以前、塩竈・松島観光の貸切は よかった。田里津庵で昼食馳走になった。
0. 塩竈市内の笹蒲鉾店に 案内すると 「?000円」貰えた。

0. ダンプ 冬場 北海道旭川周辺からも 出稼ぎに居ていたが 帰らない。4-5年 このまま稼ぐのでは?
0. 採石場 往復稼いでいる。採石を掘った後の穴に 工事残土を1回 幾らで投入させている。

等々 聞いた所で バスが到着。
添乗嬢から「お待たせ。遅れました。後の行程あります。1時間後 発車出来る様に ガイドして」

瑞鳳寺山門前から瑞鳳殿駐車場迄。タクシー基本料金の半額の距離では無く、瑞鳳殿・感仙殿・善應殿に妙雲廟界を参拝しての時間・距離です。政宗公も瑞鳳殿も 知らない・関心の無い方々に 参拝してよかった と満足して頂く様にガイドをする。真価が問われます。

5分前に バスに案内しました。5分後 発車したでしょうか?

「期待しないでいたが、手抜きせず 真摯なガイドに引き込まれた。良くわかった」との評を御客様から頂きました。安堵。



7 月 12 日 (木)  



忠宗公355遠忌法要

萬緑爽やか樹間のもと、激しい雨の中 田村家御当主も御臨席 感仙殿で忠宗公355遠忌法要が催されました。

次第
開会 10時00分
読経 瑞鳳寺 2 御住職様
焼香 
 1.伊達家18代当主        伊達 泰宗 様
 2.一関田村家当主        田村 護顕 様
 3.殉死者後裔会代表       古内 重義 様
 4.仙台藩志会会長        伊達 洋司 様
 5.大年寺会会長          阿部 和子 様
 6.公益財団法人瑞鳳殿     大崎 啓一 様

挨拶
 1.伊達家18代当主 伊達 泰宗 様
  忠宗公は 文武に優れた方で、100萬都市仙台の基礎を盤石にされました。地震災復興をどのようにご覧になっておられるでしょうか。
  悪天候の中 御参列頂きました皆様に お礼申し上げます。

 2.仙台藩志会会長 伊達 洋司 様
   ここ感仙殿に眠られる、仙台藩二代藩主伊達忠宗公の355回遠忌法要に際し、一言ご挨拶を申し上げます。
  忠宗公は、慶長4年1599年、伊達政宗公の次男として、大阪にお生まれになられました。元服に際し、徳川二代将軍 秀忠公から一字を賜り、忠宗と名乗られました。
 寛永13年1636年、御父 政宗公の死去によって38歳で二代藩主となられ、60歳で生涯を閉じられるまで、22年間仙台藩主の座にあられました。
 忠宗公のご功績は、筆舌に尽くせないほど、数多くのご功績を挙げられました。心の広い方で武芸に通じ、産業の振興に努められ、郷土の発展に力を尽くされました。ご自身で「戦国の世に生まれなかったのは残念」と述べられておりますとおり、大きな器量の持ち主でありました。
 お寺や神社の造営にも力を尽くされ、今日の仙台市、否県土の発展を図られました。今ここに二代公様のご遺徳を偲び、ご冥福をお祈りして、ご挨拶と致します。

 3.公益財団法人瑞鳳殿常務理事  大崎 啓一 様
   悪天候の中 御参列頂きました皆様に お礼申し上げます。
  樹間を爽やかに 3殿を参拝出来るように なお環境整備に努めて参ります。

閉会 10時25分

参列者に 「忠宗公と家紋(三引両)」と題する栞が引き出物として供されました。
内容は、
1.忠宗公副葬品「糸巻太刀」には、(三引両)と(九曜)が。
2.伊達家家紋(三引両) 最初は(二引両)だった。
3.(三引両)から(竹に雀)に。
4.(三引両)に対する政宗公と忠宗公の意識の違い。
5.忠宗公のお気に入り(しない三引両)。
6.(三引両)から(仙臺市章) 市民の思い。

在庫僅少です。



7 月 10 日 (火)  



67年前。1945年7月10日0時、アメリカの空襲で 伊達家3代霊廟(瑞鳳殿・感仙殿・善應殿)が焼失しました。
大東亜戦争・空襲を知らない世代となり、失火で焼失し再建したのか 問われる事もあります。

何故 アメリカは 國寶であった桃山様式の建造物を爆撃したのか?と問われます。

(仙台「市民の手でつくる戦災の記録」の会)の記録の焼失区域図で 特徴が浮き出されています。
1.仙台市街地(市電環状内)が焼き尽くされています。
2.仙台城二の丸・三の丸を中心として 米が袋・御霊屋・花壇・八幡を結ぶ線が浮き出されています。

二の丸・三の丸の軍事施設を空襲する際、現在程 精度が高く無く 釦の速押す・遅押すが 2 となり 釦の速押すの結果 伊達家3代霊廟が爆撃され焼失したが 真相ではないでしょうか。


仙台戦災復興記念館資料のよれば、
死者    1064人
身元不明  336人
怪我    1683人
被災者  57321人
焼失面積 500ヘクタール



7 月 8 日 (日)  



全国区では、昨日から七夕が始まりました。仙台七夕は8月6・7・8日です。

公益財団法人瑞鳳殿では、今年も 職員自ら作った 仙臺七夕(仙臺和紙で、七種類の飾り)を 彦星(寒色)系と織姫(暖色)系 と拝殿に飾りました。

事務室と拝殿が なにか 慌ただしい雰囲気です。
「どうしましたか? なにか あったのですか?」
「ネコ にやられたの・・・・・」
「ハー 猫に」

事情はこうです。
6日から 拝殿に例年のスタイルで 飾り付けしました。昨日 終日大雨で 移動・格納が出来ず、嫌猫香のセットも出来なかった。
七夕飾り付けの金銀が夜光に反射し 光ったらしい。
これに 春から 境内を我がの顔で 跳梁跋扈している 野良猫軍団が 反応し 攻撃し 吹き流し等を 切り 破いた。

鋭意 復旧に努めていました。幸い 御客様が ドット参拝に見える前に完了しました。安堵。
あかとんぼ は 何事も無かった様に 七種類 七っの願 由来等 ガイドメニューに加えました。


親子5人。仙台の人と申しながら「テマエ生國は 不明」の集団です。
仙台藩志会の年賀拝礼式の行列写真を見せましたら「アツ お爺さん 藩志会だった。これ持っていた」と裃を指しての若い息子の言。
「お名前は?」 「○た」
両親はシラーとしています。瑞鳳殿の参拝 初めてとの事。
本当に仙台の人なのか? 果たして 祖父は藩志会員だったのか? 不可解な集団でした。


午後から 仙台市史講座に参加。会場は 秋保温泉街の市民センター。
ホテルは駐車場完備していますが 市の施設では心配です。
12時ガイドを切り上げ トンネルを抜け、山を越え 会場に。
臨時駐車場に誘導され、車中で携行昼食。左右の車も同様 弁当を使っています。

1時間にバス1本の秘境であれば 車で。まず 駐車場確保 そして昼食と考えるのが人の常なのか。


講義は「中世秋保の世界」、東北学院大学 七海雅人教授。詳細・綿密な資料を配布し 丁寧に語られ 、市史2 古代中世、板碑と城館 を紹介されました。

中世とは、 清盛から政宗公まで を指すそうです。政宗公は 近世 の人と理解していましたが。中世の人になるのか?
仙台市史 近世1は 伊達氏(政宗公) 仙臺入部からです。

まとめの言葉が「アジール」「コスモロジー」でした。初聞の言葉で意味を理解出来ないのです。老齢化 時の流れに乗り遅れたのか?
紹介された市史で復習し、先生が 何を語りたかったか 探ります。








7 月 7 日 (土)  



大雨です。瑞鳳殿ガイド 急遽 中止しました。


手水舎

国宝時代の写真、図面にはありません。再建経過報告書にも記載ありません。

仙台では、一般的に 神社にはあります。仙臺東照宮の手水舎は1654年建、水盤は備前國犬島産で 宮城県指定有形文化財です。
お寺、墓苑には 見あたりません。

ここ瑞鳳殿は、御墓です。手水舎の存在は特異な例と理解しています。


境内に入られたお客様 手水舎の前の「ボラガイドいます」の看板は目に入らず、手水舎に直行され、「禊とは・・・・・・・」と仲間に講釈を垂れ、手に水をかけます。更に 口に含む方もいます。

吐水龍が 絶えず給水しています。多くの方は 直接 柄杓に水を受けています。
レストラン・食堂の食器は煮沸・洗浄されますが、柄杓は そのまま 絶え間なく 不特定多数の方々が唇を つけています。

中には、水盤の水を汲む方もおります。

水盤の中には、1円・5円・10円の硬貨が入っています。50円・100円・500円の高額硬貨は入っていません。
なぜ 硬貨を投入するのでしょうか? 水・柄杓の使用料でしょうか。

硬貨が 入っている事は 即 飲料水には 不適 が あかとんぼ の理解です。

過日 暑い日 小学低学年の学童が「お父さん お金入っているけど 飲んでいい?」と 確認していました。
「飲料水 と表示されているから 飲んでよい」 と 親は即答しました。


吐水龍が 吐いている水は 飲料水 です。備付の柄杓で飲む事には あかとんぼ は懸念を感じますが 飲める水です。
学童の 懸念は 正しい判断 です。 
「飲料水 と表示されているから 飲んでよい」の親の判断には 無知と 子供を守る 責任と義務の欠如を感じます。


事務所でお茶を馳走になり、このことを話しましたら 「水盤の水は飲むな」の表示を検討しないといけないかしら となりました。

「この親は 特異な事例で、また、 表示しても 読まないでしょう」と あかとんぼ は言いました。



7 月 6 日 (金)  



太山府君碑

妙雲堺廟に11代伊達斎義(ナリヨシ)公の巨大(正面88cm、奥行72cm、高230cm、基礎含総高300cm)な墓標があります。

7月12日は、忠宗公の255遠忌法要があります。
例年 一関田村家の御当主と一関藩志會会の面々の参拝があります。感仙殿に続いて斎義公をお詣りされます。

「今 仙臺で 斎義公の業績を示す遺跡 太山府君碑に精通しているのは あかとんぼ さんだけ。写真撮って」と 仙台藩志会理事・仙台市博物館友の会理事で 伊達家系図研究で 在野第一任者の土生慶子先生から 指令(?)を頂き 過日撮影して参りました。


斎義公の治世は1819年から1827年迄の 僅8年間で、仙台市史には詳しく記載されていません。

1824年8月 経ケ峯(瑞鳳殿)東斜面を廣瀬川の浸食から守る為、掘込接石壘築堤工事を施工しました。これが特記すべき事績でしょう。

郷土史家三原良吉先生は「仙臺城城壁以上の大工事。鎮護の為 泰山府君 と自然石に刻み碑を」と 「廣瀬川の歴史と傳説1979年刊」に記載されています。

1946.47年の廣瀬川大洪水の災害復旧工事と道路の拡幅工事の結果、 廣瀬川の浸食の心配は無くなりました。と同時に掘込接石壘も見え無くなりました。

由一の遺跡 碑も 半分以上 土と草に埋もれ忘れ去られた状況でした。が、今春 碑の周囲 20cm幅で 府の文字が見える迄掘り、草が刈られました。

2011.3.11災以後、土地・建物の鎮護を 付近に住まいされる方々が祈願した との風聞です。 

これは 泰山府君 と 太山府君 との混同にあります。

web検索によると

太山府君とは、十二天の一人焔摩天に従う眷属の一人。中国の泰山の信仰と結びつき泰山府君とも書かれる。

泰山府君とは、中国の五岳の一つ東岳泰山の神。東岳大帝ともいう。山東省泰安県の泰山は古来,天神が降り,死者の霊魂が寄り集う冥府がある霊山とされた。この山にあって人間の寿夭生死をつかさどり,死者の生前の行為の善悪を裁く神として信仰されたのが泰山府君である。
胎蔵界曼荼羅に焔摩天の眷属の一人として描かれ、十王信仰に取り入れられ、十王のうちの太山王(泰山王)となった。


11代伊達斎義公の略歴
伊達斎義(ナリヨシ)
伊達家11代
父 田村村資  (吉村孫)
母 徳川治寶 娘 諧姫 (紀伊徳川10代)
1798(寛政10)年3月7日 江戸にて生
1819(文政2)年7月15日 22歳 封を継ぐ
1824(文政7)年8月 瑞鳳殿東斜面 切込萩石壘築堤大工事 鎮所 太山府君碑
1826(文政9)年2月 29歳 芝姫11歳と婚
1827(文政10)年11月27日 30歳 卒
曹源院殿故羽林次将正山榮因大居士



7 月 4 日 (水)  



戊辰の役

動乱の最中、秋田・佐竹家中と仙臺・伊達家中との衝突が 久保田城下であり伊達家中に多数の殉難者を出しました。
145遠忌法要に 仙台藩志会木名瀬副会長・秋田宮城県人会ら25人が参加しました。
 

ご 挨 拶
 秋田宮城県人会「五城会」の皆様,西来院護持会の皆様、今年も七月四日の戊辰の役仙台藩士殉難者の慰霊の日が参りました。
私は、仙台藩志会の会長伊達洋司でございます。思い起こしますと、今から百四十四年前の慶応四年、戊辰の役において仙台藩士十二名が、尊い命を亡くされました。そのことが日本に夜明けをもたらしたこととはいえ、なぜ同胞同士が血を流し合わなければならなかったのか、誠に不幸な出来事でございました。
後に秋田宮城県人会が中心となり、仙台藩殉難の碑をこの地に建立され、その後の管理につきましても、秋田の皆様のご奉仕によりまして、清掃を欠かさずに続けられ,立派に守り通すことが出来ました。
また、秋田の皆様には「川反観音像建立委員会」を起ち上げられ、浄財を集めて川反五丁目に、立派な観音像を建立なさいました。
義に重んずる皆さん方のご好意に、ただただ感謝のほかはござぃません。仙台藩志会の会長として、深く感謝の誠を捧げるものでございます。
本日は,西来院におきまして、供養の会を開催されると伺いました。願わくはこれを機会に、秋田市と仙台市の友好がさらに深まることを祈念し、ご奉仕に対する御礼を兼ねご挨拶と致します。

平成二十四年七月四日        仙 台 藩 志 会 会長 伊達 洋司



7 月 3 日 (火)  



瑞鳳殿 いろいろ 

8月3日は 何の日?

永禄10(1567)年8月3日(時刻不詳) 出羽國置賜郡 米澤城で 政宗公 が生誕されました。

この日にちなみ 公益財団法人瑞鳳殿は 2010年から 政宗歴史塾を開催しています。

今年は 誕生の日なのに 「政宗公 最期の日々を追う」と題して 8月3日10時から 瑞鳳閣と瑞鳳殿で 講座が開催されます。
募集は30名です。
詳細を 瑞鳳殿ホームページ「http://www.zuihoden.com/event/gagaku.html」でご確認の上 お申込みされます事 お勧め致します。


臥龍梅

瑞鳳殿の臥龍梅 花は咲きますが 実は中々 なりません。記憶では 4・5年前 数個実りました。
あかとんぼ邑では 各屋敷で 今年は生り年・豊作と 言われています。

さて、瑞鳳殿では今年 2個 実りました。豊作・貴重です。気がつく 御客様 居ない様で 熟すのを ジッと待っています。
出来れは 実生 を狙っていますが。


御朱印
「祈りの街 仙台三十三観音を訪ねる」の著者 横山寛 氏の講演会がありました。
60人程の参加の内 「仙台三十三観音 全てを お詣りされた方いますか」 の著者の問いに 相当数の方が挙手されました。
納得出来ます。
講座参加者の相当数の方は 歴史講座追っかけ隊 です。名前は知りませんが 至る所で 一緒になる方々です。

「仙台三十三観音様の御朱印を揃えたいが、頂ける先の一覧はありませんか?」の質問が会場からありました。
「観音様を高齢のご婦人が単独で お守りしている例が 多く いろいろあり・・・・もぐもぐ」

閉会後 さる方 「私 集めました。唯  朱印に黒々した墨ではなく スタンプの所もあった」と。

瑞鳳殿での きやびやかな色彩の構造物を目にした途端 社寺仏閣と誤認されたか 「御朱印は どこで?」と問われ方 います。

「ここは 御霊屋(御墓)です。御朱印はありません。券売窓口で「ご集印」を有料でおわけしております」とお答えしております。
「ご集印」は御朱印でありません。御気に召さない方が大部分です。


紫陽花
経ケ峯 全山 紫陽花に 覆われています。
瑞鳳寺から 東・西の両参道 両脇 紫陽花が咲き乱れ始めました。

ある方(特に名を秘す) 「仙台で一番です。ある紫陽花寺に勝るとも劣らない」と申されました。
長年 コツコツ 植栽していた 整美担当のNSさんに 聞かせたい お言葉。

さる方(特に名を秘す) 「伊達領の北方を旅行した際、民有の杉山全山紫陽花に覆われていた。実に見事であった」と 中の峯を見上げていました。

ここは、多年草植物群落があり、大都会の真ん中で 珍しい存在でした。或る時「蚊退治」と称され刈り取られて 再生されていません。植生が一変しました。紫陽花を植える事は 再び 植生を変化させる事です。 



7 月 1 日 (日)  



梅雨の戻り 傘を差してのガイド

朝一番 宇都宮からの高齢男性4人。降雨の為 拝殿で 写真等 お見せし 小雨を待って本殿前に。日光東照宮は地元、御理解が早いです。

涅槃門から 登り始めましたら 即 「左側 1塔たりないのでは?」のご質問がありました。

「確かに左側 1塔足りません。1945年7月10日に爆撃されるまではありました。1979年再建の際、御一族中嶋監物意成奉納灯篭が再建されず、上3段目の片倉小十郎重長奉納灯篭が最下位に移動し設置されています。この経緯は不詳です。末裔の方が不服を唱えた話は聞いていません。」とお答えしました。

「3.11災で 避雷針の先端 3-5mが折損し 先端から足下に垂直に付刺さっています」と現況を紹介しました。
「承平4(924)年落雷で焼失した陸奥国分寺の七重塔の先端も先端から刺さり発見されたいます。なぜでしょう」に

「ガイドさん 高い程 軽くて・空気抵抗の少ない方から 先に落下します」


10時10分早稲田大学関係者。先月 Uさんに本日の来訪を予告された方々。すれ違いする事無く涅槃門からガイド、拝殿で資料説明し本殿にの順。
再建する前の状況を 問われました。

写真で 石畳に木柱のみの状況を見て頂きました。
「若い時 仙台に住まいしていましたが 瑞鳳殿は話題にならず お詣りした記憶がありませんでした。その謎 今 解けました」


若く無いご婦人5人 拝殿から石段、大きい段差を そろそろ下りています。
両脇を抱えられた方、「なんで こんな厳しい階段を造ったのかしら」 仲間の物識りが「敵に攻め込まれ無いように です」

聞こえた あかとんぼ 思わず 「此処はお城だはありません。今 参拝されたのは お墓ですが」と。
物識りが この後 如何に 解説されたかは 聞き逃しました。


岡山からのご夫妻。石燈籠の3.11災の被災状況と石段の質にも関心を示されました。

仙台に備前国犬島の石があります。仙臺東照宮の石鳥居で国重要文化財に指定されています。

仙台伊達家二代忠宗公の正室{振姫}は、備前姫路・池田輝政(31万石)の娘(家康公の孫)で、二代将軍秀忠の養女の身分で 伊達家に嫁がれています。その御縁で、天正10(1591)年 仙臺東照宮創建の際、石鳥居に用いられたものです。

一度江戸で下ろし、そこで祝い事をしてから再び海路を仙台まで運びました。犬島は質の良い花崗岩で、鎌倉の鶴岡八幡宮、上野の東照宮、静岡の浅間神社などの鳥居として各地で使われている旨 聞いております。

以上申し上げたら、400年の時差が飛び、瑞鳳殿に親近感を持たれたか、丁寧に参拝され熱心に観光されました。





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