2012年8月の日誌
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8 月 31 日 (金)  



依然として猛暑

現在の市街は 仙山線を越え 更に 在郷七北田邑を越え 連綿と連なっています。
然し 半世紀以前は 北六番丁以北は 武家・足軽・職人も住まない 田畑でありました。

昨日 東北文化学園大学八十川研究室主催 「梅田川せせらぎ緑道を考える会・旧北九番丁川痕を歩こう」にゲスト参加しました。

アカトンボの目的は 北山・秀林寺付近の(北山流れ)の痕跡と 四ツ谷用水が支倉町から北に分流した先 (北九番丁堀)の痕跡を 確認するにありました。

参加者に 1940年代から近年迄  この地区に居住された方 2人居り、水の流れ 田畑から宅地に変貌した様子を具に語って下しました。
参考になりました。
各 痕跡は 埋設排水路となっていました。

参加者は 現在から未来に視点を置いた方々です。歴史講座参加者とは 考え・見方は異質です。ユニークな発言が数ありました。
参考になりました。

瑞鳳殿ガイドには 直接参考にはなりませんが 知識の肥やしでしょう。暑かった。



8 月 29 日 (水)  



伊達の馬打

ある寄合で「アカトンボさん 伊達の馬打 知っている?」と 問われました。
「知りません。どんな事でしょうか?」
「勉強不足だね」


確かに 浅学菲才 学不足です。
仙台藩歴史用語辞典と仙台藩歴史辞典 (何れも仙台郷土研究会編)を 紐解きました。馬産と馬市の記述はありましたが 「馬打」の記述は 見あたりません。

その後 寄合の都度 諸先輩、有識者にお訊ね致しました。親切に教えて頂きました。
アカトンボなりに 整理すると

葛西氏(葛西7郡)と大崎氏(大崎5郡)の領土が伊達家の領土になる(1590年秀吉奥羽仕置令)以前、伊達家が自領並に 軍事行動を行っていた事を指す。
ある人は、「竹島・北方4島の様な状態」と補足しました。

納得  仙台市史(古代中世)の読み直しが必要かも。



8 月 28 日 (火)  



朝晩 些か凌ぎ易くなりました。
忙中閑あり。瑞鳳殿ガイドに。平日故 距離は変わりませんが 所要時間は5割増し。

「アツ 居た よかった」の大歓声。
「ガイドが付くと、付かないでは 天地の差」
誠に 人使いが お上手です。

姉妹3人に連れ合い2人の5人。山形市からの御客様。
「山家町」からお出でですかと 聞く勇気が無く聞きませんでした。400年前からの遺跡等あるかは 自分で探索に行かなくては 駄目でしょう。

政宗公生母 義姫(保春院)に、最上義光に、竹に雀・上杉家等が話題になり、1時間ほど おしゃべりしていました。
チップ?? 塩飴玉頂きました。 熱中症防止でしょうか。ありがとうございます。


岡山からのお嬢さん2人。
前座で 「岡山と仙台の 意外なご縁 御存じですか?」に 「ハテナ?」 
「2代忠宗公の奥方は 岡山・池田輝政の娘 振姫 更に その縁で 犬島の石が仙台東照宮の鳥居になっています」に。

本殿・寶筐印塔の説明終わった時、直感 「お客様 被災地ボランテイアですか?」
「そうです。宮古から田老と回ってきました。家屋敷の土台が見えない 草ぼうぼうでした」

「アツ 時間 バス 20分間隔 不自由ネ 急がなくては」
「今 11時10分です。5分あります。今登って来た石段降りれば お嬢さんの足では 間に合います」


11時20分。ループルばすの御客様です。(岡山からのお嬢さん2人 乗れたかナ)
県北 三本木町からの御夫妻。日帰金婚旅行?瑞鳳殿ブラブラ。

政宗公に直々の御対面を望まれる様でしたら 1月2日年賀拝礼式、5月24日御命日法要にお出でください。今日は私の資料で。

寶筐印塔から 3.11災に話題が飛び、「御客様 被害は?」に。
「我が家は、鳴瀬川の右岸にあり 庭の灯篭が 倒れただけ。左岸は酷かった」

さて、鳴瀬川の右岸にあり 庭の灯篭が 倒れただけ であれば 三本木宿にあり 灯篭のある 屋敷 もしかして 本陣であった家かな。
確かめる 勇気無く ガイド終了。12時。


本日で 今年通算60日回です。今年は20日回 早いです。春のデスネの影響でしょう。




8 月 27 日 (月)  



昨日の続き

ガイドさん 政宗公の代表的漢詩 知っている?
馬上・・・・ とか

ハイ
馬上少年過
世平白髪多
残躯天所赦
不楽是如何

少年の(若い年)頃は 馬上(戦場)で過ごしていました。
(老齢)白髪になりました今 世の中は平和になりました。
老体で生きているのは 天の赦す所です。

この後は
1.この後 人生を楽しまずに いられるか?
2.戦乱の世にあって 先立たれた人々を思うと 楽しんでよいだろうか?
解釈が分かれていると聞いています。

御客様 私の読み・解釈 如何なものでしょうか?
御客様の見解を 教えて下さい。

いろいろ あるようで。

昨日の3人組の方との会話です。なんで これを 話題にしたのでしょう。

資料を広げ 「狩野永真安信筆 伊達政宗像 仙台市博物館蔵」を示し、畳2枚代の真物を 楽しむように 薦めました。


残躯天所赦 不楽是如何 
健康な残躯 正さに天の赦す所です。可能な限り 瑞鳳殿ガイド等 人に喜ばれ 我も楽しむ 人生を過ごしたいもの。

 
10月16日10時から、宮城県民会館で 伊達家18代当主伊達泰宗氏の基調講演の後、「楽しまんばこれいかん」人生楽しむ生き方をテーマに、ねんりんピック宮城・仙台2012 関連行事として討論会が開催されます。

知る人ぞ知る この漢詩の 不楽是如何 が如何に ご当主は語り 有名人は如何に論ずるか楽しみです。傍聴希望の葉書 投函しました。



8 月 26 日 (日)  



何故か8時45分到着。担当全員配置完了していました。当然 参拝者の姿も。

タクシー氏「お客様 ガイド居ます。頼みましょう。只ですから」 「タダなら頼みましょう」
「お客様は どちらから。お時間は。メーターは?」
「名古屋の方です。貸切です。時間と料金は心配ありません」

御客様の顔色(理解度・興味度)を窺いながら、ガイドしました。
タクシー氏も 初めての場所の感じで聞いています。アカトンボに振った理由 理解しました。

結果的に 経ケ峯 一周 西参道口迄 ガイドしました。
「今日は あなたにガイドして頂き あなたに出会えたこと最高でした」 と 握手を求められました。

名古屋美人に これほどの賛辞を頂くとは。割増があるにせよ 嬉しい事です。


参道追分 東口で 男性3人が アカトンボがガイドの態勢に入るのを待っておられました。
次の様な 鄭重な自己紹介を頂きました。有史以来の出来事です。

1.明治学院大学○○のOBです。
2.昨日迄 仙台の○○他で 震災慰問演奏会を催しました。
3.大学生は ボランテイア活動で被災地に入っています。
4.高校生は、被災地で手伝いする気持ちを持っていても、時間的制約から出来ないでいた。
5.夏休み最後に、生徒00人、教職員00人 が今日 女川町に入った。
6.上野公園一帯でボランテイア活動(観光・清掃・防犯等具体的活動な語らず)しています。

結果的に 経ケ峯 一周 西参道口迄 ガイドしました。

記憶に残る会話
1.仙臺藩志會の名称 「士」では無く「志」とは、中々の知恵者がおりますね。
2.廟での参拝は 神式ですか? 仏式ですか? 教えて頂いた式で 参拝させて頂きます。
3.キリスト教徒です。でも、日本古来の社寺建造物 非常に関心があります。撮影可ですか?
4.戊辰役弔魂碑 かくも立派に保存・整備されているとは素晴らしい。
5.彰義隊戦死者墓 「士」も「志」も 刻字されて居ない。残念だ。
6.彰義隊戦死者墓付近に最近 住民税納めないで居住している者がいて、一般市民が参拝を躊躇する状態になっている。嘆かわしい。
7.折損した避雷針の有効性。管理者が大丈夫と言っているのであれば 大丈夫が?(私電気屋です)

最期に
1.皆様と アカトンボの表裏の記念撮影、事務所に送ります。
2.10月に 再訪します。その節よろしく。 


O. S. T. N.. H. Y さんの 7人の仲間が 小憩することなく フルタイムでガイド。
アカトンボ 本格ガイドは 2組5人。

S主任に、「9月から1名 本格的にガイド始めます」と申告。
S主任から 「提出あった「研修実施願」は常務理事迄あげました」と回答。未来が開けるでしょう。

来春のデスネには 16人体制から 更なる増員体制で臨みたいものです。



8 月 25 日 (土)  



仙臺藩志會伊達学塾。
講師は、岩出山町史編纂専門委員 菊池優子氏
演題は、江戸時代の宗教 @實相寺における本寺決定の顛末 A良覺院修験支配。

2011年9月24日の「宮床伊達家・岩出山伊達家御廟所参拝」の際、岩出山伊達家菩提寺諸法山實相寺で解説してくれたのが 菊池先生でした。

そもそも、實相寺は 応永15(1408)年創建で、開祖は氏家弾正、中興開祖は伊達宗泰(政宗公4男)。宗派は曹洞宗。

お寺には 珍しく火災に遭っておらず、天正19(1591)年 徳川家康が秀吉の命で、政宗公の為 岩出山城縄張りの際、本寺に40日滞在した。その時用いた茶碗が寺宝として伝わっている。との説明を頂きました。

2011年に 寺の大檀那である16代当主伊達宗尚が同行・案内された。 先生他の方は 古文書に関心があるらしく 寺宝の茶碗が 話題になりません。拝観させて頂けだけなかった。アカトンボは依然として残念な思いでいます。

古文書で、能登・総持寺の直末寺と認められるまで 岩出山伊達家も関与 動きがあったが 講演要旨です。


さて、實相寺は曹洞宗との事。岩出山伊達家2代宗敏のみ 臨済宗祥光寺。

政宗公は 松島瑞巖寺の大檀那です。経ケ峯 3廟の法要は 瑞巖寺・瑞鳳寺等 臨済宗妙心寺派のお寺様が供養されます。
宇和島伊達家の龍華山等覺寺、金剛山大隆寺、
一関田村家の大慈山祥雲寺、
涌谷伊達家の海雲山見龍寺 
宮床伊達家の大義山覺照寺は 臨済宗妙心寺派でした。

登米伊達家の太白山養雲寺は単立法人です。

伊達家御分家3家 御一門11家 宗家(仙臺伊達家)に習い 臨済宗妙心寺派と思い込みでいました。 

16代当主伊達宗尚様 「資料のとおりです。御一門11家には 臨済宗妙心寺派以外が多々あります」と語られました。
順次 確認いたします。


連日の高温の中 参加された方の平均年齢は ご想像のとおりです。
妙齢の若いご婦人が参加されていました。枯野原に咲いた一輪の花 の如し。




8 月 24 日 (金)  



政宗公辞世の歌

19日読売新聞は名言巡礼として「曇りなき心の月を先立てて 浮世の闇を照らしてぞ行く」を 松島の満月の写真と共に掲載しました。

仙台版は内容の濃い内容(2頁)を掲載しないで販売しています。残念な思いと19日日誌に記載しました。

都内居住の幼少からの友人が、要旨とコメント(政宗公へのノメリコミが直感出来ました)を送ってくれました。有難いです。

読めない残念な思いを執筆記者に伝えましたら 掲載された都内版を送付してくれました。

アカトンボ関係部のみ

「政宗は生前、仙台城下町の南西にある経ケ峯に葬るよう遺言していた。政宗死去翌年の1637年、2代藩主忠宗は、遺言に従い、政宗の霊廟「瑞鳳殿」を建設した。建物の正面は西側なのに、棺おけの中に座るような形で葬られた政宗公の遺体の正面は東に向けられた。参拝者に背を向け、海の方角を見ている形だ。
瑞鳳殿で長年ボランテイアガイドを務めているアカトンボさん(76)は言う。
「亡くなった後も、海を見つめ続けているなんて・・・・・・。政宗公の海外雄飛の夢はどんなものだったのか、ガイドをするたびに考え込むんです」


仙台版は2頁には、みちのく伊達政宗歴史館館長、支倉常長13代末裔、二松学舎大学元学長、仙台市市史編纂室長の皆様も、其々語られています。



8 月 23 日 (木)  



瑞鳳殿本殿開扉

俗な表現 瑞鳳殿の開帳 は年間 何回でしょうか。

A. 2回
B. 5回
C. 6回


正解は Cの.6回です。

@. 1月 2日 年賀拝礼式
A. 5月24日 遠年忌法要
B. 8月 5日 仙台七夕協賛
C. 8月 6日 仙台七夕協賛
D. 8月 7日 仙台七夕協賛
E. 8月15日  終戦記念日? お盆?

アカトンボは、定例は@Aで BCDは特別と説明しておりました。
仲間のNMさんが E8月15日も 公開していますと 先日教えてくれました。

8月15日は 思うところがあり ガイド開始以来12年中 1日もガイドをしておらず 初聴でした。

感仙殿は 忠宗公御命日 7月12日
善應殿は、綱宗公御命日 6月 4日
の法要の際 開扉されます。

開扉につて 定めがあるのか?
瑞鳳殿年報・公式ホームページにも 記載 見あたりません。


「御木像・厨子等の維持管理に 空調管理が重要である故、安易に開扉は出来ない」と 仙台藩志会幹部役員研修で あかとんぼ が案内した際 当時の常務理事は申しておりました。至極当然です。




8 月 21 日 (火)  



名護屋城

本HP表紙に「伊達政宗陣屋跡」の交通標識等の写真を「肥前様」のご厚意で掲載しております。

ガイド仲間のUさん「数年前探索に訪れた。交通標識は見た。傍のガソリンスタンドでは分からず 伊達政宗陣屋跡そのものに 辿り着けずに残念な思いをした」と語り 「2005年度 特別企画展 秀吉の城 展示図録  編集 佐賀県立名護屋城博物館」を貸して呉れました。

豪華・充実した展示であったを物語る図録です。
佐賀県立名護屋城博物館のWEBによれば 頒布終了との事。
汚さないように読ませて頂きます。


政宗公具足

瑞鳳殿で 政宗公の遺品を資料で説明の際、極楽に持参されなかった 黒漆五枚胴具足(仙台市博物館所蔵)の写真を披露すると 皆様一様に 「オー」と申されます。

アカトンボ 具足については
1.仙台藩主の具足 当館所蔵の藩主具足について 2010.12.18.しろ・まち講座 仙台市博物館学芸員 高橋あけみ 著
2.仙台藩の具足 嘉藤美代子 著 仙台・江戸学叢書
を学習の資にしています。

容易に入手出来 信頼出来る図書として2の仙台藩の具足 嘉藤美代子 著が上げられます。
「肥前様」も 参考にされている由。アカトンボ 納得。

政宗公具足(2)

数年前 週刊誌スタイルで 政宗公具足を組み立てる製品が発売されました。
創刊号を購入しましたが、長期に至る事から 根気・金力続かないと 早々に断念し、完成させる人 果たして 居るかと思いました。

居ました。「肥前様」が 完成写真を送って来ました。驚きです。根気の人です。





8 月 20 日 (月)  



19日 日誌 追記しました。



8 月 19 日 (日)  



晴天 快晴 
昨日迄の 突然の雷鳴・豪雨は 終わりました。
お盆・夏休みの実質 最終日。参拝者が9時前から続々と。

タクシー氏「頼みます」 御客様は女三世代。秋田から との事。
「ここは、1600年に仙臺城築城し、仙臺の町を開いた 戦国武将伊達政宗公の御霊屋です。秋田は佐竹様ですね。御霊屋が天徳寺に、これより小さいですがありますね」 反応はありません。

殿様のお墓に 興味あるのは限られます。瑞鳳殿もタクシー氏に 仙台市内の観光名所を案内して言って 連れて来られたでしょう。

仙台七夕が まだ展示しています。「投網」を説明したら 「私の所には 川はありません」
山紫水明 の日本で 川の無い土地があるとは? 愕然。

「キサカタです」
象潟であれば 鳥海山からの「奈曾川」が。 「奈曾の白滝」と「蚶満寺」が有名です。政宗公の菩提寺である瑞巖寺がある 松島町と象潟は 姉妹都市以上 夫婦(メオト)町ですよね。象潟は にかほ市になっても離縁していませんよね。銘菓「こうれん」の御縁もあり。

「松島に行かなくては ならないかしら」 ポツリ

銘菓「こうれん」に至る 悲恋物語 紅蓮については http://www.nihonkai.com/jh7bia/akita/sub843.htm


続いての御客様は愛知県から。
「松島に行こうとしたが、渋滞で 全く進まない。ここ瑞鳳殿で ゆっくりする」
「私 服飾 特に 政宗公の服飾に興味があるの」 この様に興味の対象を教えて頂ければ それを中心に語ります。

涅槃門妻の彫刻、拝殿の仙臺七夕、本殿の飛天を 丹念に撮影されました。

本殿の飛天様の服飾を あかとんぼが尋ねました。その答え。
「上部 飛天様の割に 露出度は高いと思いました。下部 キュロットスカートには見えません。袴ではありませんか? インドネシア等 南国の男性のスカートにも似ていますネ」」

アカトンボ着用の(五色乱星文様陣羽織)をみて、「欲しい わけて?」
「之 制服です。 襟にボラガイドと入っている安価な品(約15千円)です。本物に近いように作れば10-15万円と聞いています」

「そう。売店の五色乱星文様の風呂敷にするは」

「お時間ありますなら 仙台城三の丸址 仙台市博物館に どうぞ。
(五色乱星文様陣羽織) (野袴) (山形文様陣羽織(國重要文化財)) (白綾地竜胆立涌文様狩衣) (黒漆五枚胴具足) 何れも政宗公着用とも伝えらている品です」と 資料を開示 説明しました。


時が立ち、「ガイドさん 風呂敷買ったヨ、博物館に行くヨ 元気でネ」 60代前半でしょうか。若いご夫妻でした。


20数人の大学生ラシイ 集団。券売所前で 「団体割引ならないかな?」とブツブチが聞こえます。
団体割引になれば一人100円割引になります。

リーダー不在、仕切役 不在らしく 各自バラバラで入場券を買っていました。
この集団であれば「ガイドします」に 受ける・受けない 纏まらないと判断。声をかけません。

涅槃門前 案内を見て 「これ なんと 読むのだ」 聞きあっています。
涅槃門の「涅槃」の文字 難解文字でしょうか?


表示板前で 母娘 政宗公画像を見て 母が解説しています。資料を広げ 仙台市博物館に 本物が展示していますと伝え 「何れから」に 「仙台市内の中一 夏休みの自由研究 時間が無くなり 伊達政宗をテーマにと ここ瑞鳳殿に来た」と。

母親「政宗は 家康が 領地は32万石と言った時 聞こえないふりをした。もう一度32万石と言った途端、ありがとうございます 62万石ですネ と言って 62万石に確定した」等を滔滔と語ります。

小説等 読み込んでいる様子。これで 自由研究 の下書きを母親が書くのでしょう。
先生は 二重丸をつけるかも。

これは ボラガイドの出番ではないと 静かに引き下がりました。



8月3日 政宗公の誕生日に因み、瑞鳳殿では毎年 児童を対象に行事を催しています。今年は対象年齢を上げ、「伊達政宗 最期の日々を追う」と題して 学芸員の講義が催されました。

講義に ボランテイアの会会員の参加は一般市民が対象ですからと断られました。本日 講義のレジメ(4P)が配布されました。

対象時期が 5ケ月(寛永13(1636)年1月-5月)まで
参考文献
1.伊達治家記録-貞山公治家記録
2.伊達政宗言行録・木村宇衛門覚書  小井川百合子 著
3.伊達政宗 最期の日々 小林千草 著

時系列に 出来事を記載しており 参考になります。


寛永13(1636)年1月19-20日 十五濱に鹿狩りに出かけた際、辞世の歌を披露した。の項が興味深いものです。

「各々聞き候へ、末期忘却の刻(ミギリ)、ゆいごんまたは辞世の歌がましき事なるといへる。此比我にはおもえつけたる歌あり。辞世にも成るべし」

くもりなき心の月をさきだてて 浮世のやみをはれてこそゆけ
自筆にて 南三郎吉に下された。(この項 伊達政宗 最期の日々 小林千草 著による)

曇りなき心の月を先立てて 浮世の闇を照らしてぞ行く  に改めて辞世の歌とされた。


この辞世の歌 読売新聞日曜日版 名言巡礼 に掲載するとの取材があり、アカトンボ の思いを 8月1日の日誌に記載しました。
特に、瑞鳳殿の向き、御遺体の向きについて、15日頃迄 取材が続き、19日掲載と知らされました。

早朝 新聞を購入。名言巡礼 満月 光り輝く海の道 「曇りなき心の月を先立てて 浮世の闇を照らしてぞ行く」
静寂が訪れた夜の松島 満月が海面に金色の道を描いた と見事な写真と文章で 掲載されていました。満足です。


只、残念なのは 墓室に入っても 断ち切れなかった 遣欧使節 世界に羽ばたく思いが 記述されなかったことです。
 
「墓室では、東面して安座し、頭蓋骨は顔面を東南に向けていたが、体は東を向いて」(瑞鳳殿伊達政宗の墓とその遺品 U伊達政宗の生涯 伊東信雄 著14p記載)」



8 月 16 日 (木)  



十二飛天の着衣

瑞鳳殿本殿正面は西面 仙臺城を向いています。
経ケ峯の中峯は 距離があり樹高が低くなり 西日が真面に 正面を照らします。故に、再塗装12年で 色の退化が始まっています。

南面はドングリの木が繁茂し 日差しを遮っています。故に 飛天は 塗立ての色を保っています。

現地で 南西角に 移動し 左右(西・南)両面の色違いを紹介しています。


飛天の着衣については 「セクハラ」と 飛天様から抗議されるのが 怖く 語りません。

日本の飛天の元祖は、三保の松原の天女様と理解しています。
イメージする三保の松原の天女様と比較するに 些か豊満であり、体上部を覆う羽衣が捩れ 肌の露出が些か多いと感じています。

御客様から 指摘された際 「夏 電力制限で クーラーが使えなく」と申すと 一様に 納得してくださいます。


先般 仙台市内の服飾に精通される方が、「下部は、これ キュロットスカート だね。再建工事の最中1975(昭和50)年頃 流行していた。もしかしたら 彫刻家(富山県井波町の宮窪繁氏)の遊び心かも?」と 語られました。

真相は定かではありません。
キュロットスカート とは、調べた結果、約40年振りに再流行の兆しがあるそうです。

瑞鳳殿を参拝された折、飛天の着衣についても ご注目ください。




8 月 14 日 (火)  



天明の飢餓

仙台市史 近世3に 第2章 打ち続く飢餓 第1節 天明の打ちこわし 1 安倍清騒動とその背景 として18頁にわたり記述されている。

1780(天明3)年の大凶作で 56万2000石の損耗であった。しかし 前年度産米がある程度 領内に確保されていれば15-20万人の死者を出すこと 安倍清騒動が 無かったろうが 要旨です。

伊達家の買米制度 財政上からの投機的運用と 民の命 食糧の確保 この2点 政策の誤り 鼎の軽重を問われたのが 安倍清騒動に至ったものです。
施政者の判断の誤りは 民の命を奪う  その実例と読みました。


アカトンボが 関与している「四ツ谷の水を街並に!市民の会」(四ツ谷用水復元運動)の幹部 宇津志勇三氏が この安倍清騒動と四ツ谷用水を題材に 「安倍清騒動 松窓乙二見聞録」と題して 30頁の小説にまとめ 「仙台文学」80号に発表しました。

歴史事実を 市史で読むのと 小説で読むのは 「理}と「情」と表現の違いをハッキリ知ります。



8 月 13 日 (月)  



お盆です。
アカトンボもお盆休み、夏休みに。7月からの諸事多忙どの諸々の整理に入りました。

7月29日(日)已む得ぬ事態でガイドを休みました。常に 「日曜日午前は瑞鳳殿に」と申しております。
了知されている「肥前様」が夏休みを機会に瑞鳳殿を参拝に訪れ アカトンボの突然の休みを知り 名刺を事務所に託されました。

お詫びのメールの返信に、「数日の仙台滞在中 仙台市博物館を略 全日訪れ 政宗公の書を堪能し 余暇に七夕を見学した。土産替りに写真を添付します」とありました。

肥前名護屋に所在する「伊達政宗陣屋跡」の標識の写真 3葉です。

0 交通警察が管轄する交通信号機。「伊達政宗陣屋跡」
0 バス路線 「昭和バスのりば伊達政宗陣屋跡」 
0 名護屋城語る会設置 標識 {特別史跡 伊達政宗陣屋跡 矢印」

文禄元(1592)年の政宗公の遺跡が、420年後の今日、日々の生活の場で生きているとは驚きです。

写真 我独占せず 公開したい所ですが 著作権の心配と 掲載する技術能力から 断念いたします。
(撮影者 肥前様から ご快諾頂きました。感謝し 表紙に掲載しました。ご覧ください)


今一人 7月29日の休みに 相馬市の婦人生涯学習団体のリイダーから電話を頂きました。
瑞鳳寺の茶室の見学と瑞鳳殿参拝を企画し 訪れた。姿が見えず 券売所で「今日はお休みです」と告げられ残念でした。

ご期待にそえなかった事 真に申し訳ありませんでした。

事前に電話・メール頂ければ幸いです。尚 年内は9月15・16日以外は休まないつもりです。



8 月 12 日 (日)  



明日からお盆。

瑞鳳殿境内も お祭りが終わってホッと一息の空気。

ガイド仲間も 夏休み気分か、 早々に墓参に行ったか ガイドは アカトンボ 独り。

9時 若い女性 手ぶらで登って来ました。
仙台駅から歩いて来、下のロッカーに荷を入れ、62石段を含め 25分で 涅槃門前。俊足です。
「仙臺城迄 何分?」
「お嬢さんの足なら 15分でしょう。仙台駅からの半分です」

考えました。お嬢さんの申す 仙臺城は どこでしょうか? 
本丸であれば あと10分プラスだったと。


「ガイド御願い、こちら トウキョウからのお客様です」猛烈な VIP を案内してきた口調。

トウキョウからのお客様は 日の70%位で VIPにはなりません。
皇室・皇族に徳川宗家当主が 見えたのら 正に VIP です。 が、同時に アカトンボ の出番ではありません。

涅槃門の透かし彫りの説明終わった時点で ホステス役のご婦人が 時計を2度見ました。
(アツ ガイド内容が 御客様の期待・求めるものと 不一致)と理解。本殿に直行。基本のみガイドしました。

「ガイドを依頼し 瑞鳳殿を案内した」の ホストのメンツは保つ様にはガイドしました。


小5と3の 男児に両親。
小5の男児は 社会科で 政宗公を習い、歴史好きとか 熱心に聞き 質問します。小3は さっぱり聞かずに撮影に懸命です。

母親曰く「小5は 歴史好き 文系。小3は カメラ好き 芸術系かな」
小5と小3の2歳違いの兄弟で、今から 将来の道 わかれるのでしょうか?


兄弟 兄と弟の 性格等のみならず社会的身分の違い。

政宗公の弟 小次郎は、天正18(1590)年 故あって亡くなっています。生年が3説(1568年生22歳没、1574年生 16歳没 1578年生 12歳)があり、又 政宗公と異母兄弟説があり、 正確な年齢は 確認出来ていません。

然しながら 故あって天正18(1590)年 政宗公に切られ落命したのは誤りではないか。東京都あきるの市横沢所在 吉祥院大悲願寺の15代住職法印秀雄が、伊達小次郎 その人である。の説が 今説かれています。

7月28日開催の仙台藩志会主催の「伊達政宗と母義姫 政宗毒殺未遂事件と弟小次郎をめぐる謎」の演題の講演で、前仙台市博物館長佐藤憲一先生が資料を提示 上記様に語られました。

兄弟の社会的身分の違いに至る路は なんなのか、小5と小3の兄弟を見ていて、佐藤先生のお話を思い浮かべました。

11時、「ガイド頼む」と手洗所前ベンチにヒタヒタと座り込んだ高齢男性。お付の男性2人は 涼しい表情。
高齢者 「休ませてくれ、神奈川県厚木から 我が7時間運転して来た」

手洗所前ベンチで休息して頂きながら 家紋・系図を語り、階段中程で小憩を取りながら 戦災焼失前の写真で説明、拝殿ベンチで また 小憩して頂きながら説明を続けました。

厚木市からあきるの市にお出でになるには、仙台迄より 近いでしょう と 弟 小次郎の話をしました。

伊達家について勉強し 実地見聞的参拝でした。故に 説明前に質問が連発されました。

丁度 昼です。
「これから 感仙殿・善應殿を参拝、仙臺城址を見学、出来れば 大年寺山のここ以外の伊達家墓所を参拝、岩出山城址を見学、鳴子温泉に投宿」と。

車の運転免許は 歩行困難でも目が見え、耳が聞こえれば 下付されます。でも 安全運転で 楽しい伊達家史跡めぐり を。




8 月 11 日 (土)  



七夕 終わりました。

町中の仙台七夕の観覧者、200万2000人で 前年比3万1000人の減と発表になっています。
6.7.8日 瑞鳳殿の参拝者数、公式発表聞いていません。感触では プラスですが。

七夕ナイト「森のコンサート」は 19:00-21:00で 3晩連続開催されました。
併せて、全山・境内に竹灯篭が灯されました。暗黒の森に 地上一杯に敷詰められた竹灯篭の揺らぐ蝋燭のヒカリ。幽玄であったと 参加した仲間が語っていました。

整美員が竹灯篭のプラ箱を持って 蟻の行列の如く 長い列を作り 倉庫に運んでいました。
ここで クイズ。全山・境内に竹灯篭は いくつ 有ったでしょうか?

正解は 1200個です。

初日 竹灯篭と蝋燭を1200個配置、「森のコンサート」終了後、消火・蝋燭回収。2日目 灯篭内清掃、蝋燭点火。21時以降 消火・蝋燭回収。
3日間 職員の皆様 遅くまで ご苦労様でした。
その後の後始末が 今日も黙々 続けられています。


本日のガイドは、2組7人のみです。

1組は、北海道・苫小牧からの高2のお嬢さんにご両親。昨日迄 石巻から亘理迄 被災地を見舞われ、本日は瑞鳳殿をじっくり参拝される予定との事。

聞上手な方々、追 政宗公の御遺体の向きは、8月19日読売新聞日曜日版に 答えが掲載されます と迄 お喋り。
感仙殿・善應殿に妙雲廟界迄、デスネ(春特別案内)に準ずる 時間・内容のガイドをしました。 
 
2組目は、新潟からの来客を案内された村田町からのご夫妻。

瑞鳳殿は初めてですと 申されながら 政宗公の7男 宗高公のご生涯、村田町龍島院に祀られているを知っていました。
町の「郷土の歴史 先人を知りましょう」の生涯学修の成果でしょうか。

本日 午前のみで 仲間 8人で ガイドしました。
故に 3時間で 2組のみと 御客様に満足頂けるガイドが出来ました。仲間に感謝。


宗高公 略歴
慶長12(1607)年仙臺城にて生。母(柴田但馬宗義娘)於山の方。
寛永3年閏4月 忠宗公に従い江戸に、両御所に謁す。
両御所上洛、政宗公先駆江戸を発す。従い京都二条要法寺に宿す。7月10日「従五位下}に「右衛門大夫」に任ず。8月17日二条要法寺にて卒。20歳。殉死者男女10人。(仙臺大人名辞書)

蔵王・刈田峯 元和9(1623)年4月16日噴火、砂石飛ばす。12月17日以後鳴動甚す。翌年10月に至るも止まず。寛永元(1624)年、政宗公に代わり登拝す。(仙臺大人名辞書)

この際 「我が命 引き換えに 鎮火を」と祈った。それで 鎮火と同時に 20年の生涯を終わられた。
と聞いています。出典 現在 不明。



8 月 8 日 (水)  



立秋を過ぎました。猛暑は終わりました。爽やかです。

城下 人馬の流れは 日曜日並 スムースです。8時50分に到着。
七夕の飾り付け お手伝いできるか期待しましたが。係員皆無。確かに小雨でワイパー使用しました。天候回復待ち。10時 飾られました。

七夕3日目。出足は 昨日比 遅いです。仲間 6人で対応。

お嬢さん3人。どちらから? 岡山から。

岡山 犬島の石 仙台の由緒ある神社の鳥居になっています。
犬島の石 知っています。でも なぜ?

岡山の殿様は池田家31万石ですネ。
その播磨宰相池田輝政の娘 振姫が将軍秀忠の養女となり 伊達家2代忠宗公と元和3(1617)年12月に結婚されました。
その御縁で慶安2(1649)年仙臺東照宮造営の際、岡山 犬島の石を海上輸送し、一端 江戸に陸揚げ お祭りをして 再度 海上輸送 仙臺に。
形は「明神鳥居」 國重要文化財に指定されています。
るーぷるバスの経路から 外れていますが 良かったら どうぞ。

ヒー! !  犬島産の花崗岩で大阪城の. 大石(蛸石)で有名ですが 遠く仙臺まで 360年に運ばれ 文化財になっているとは。

ついでです。今 足下の石に、仙臺城の石垣は 城下産で。政宗公墓室の石は 秋保温泉地の石です と説明。

七夕期間中 本殿が開扉され 両眼が開眼している 尊像に拝謁出来ます。じっくり拝謁していました。

政宗公は独眼龍政宗と言われました。ここの木像は両眼が開眼しているのは なぜでしょう。
一人が アカトンボのガイドセリフを すらすら 語りました。まいりました。政宗歴女です。

写真に一緒と言われ アカトンボ 表裏2画面おさまり。背中の5色乱れ星を説明。



風格のあろ アカトンボ年配のご夫妻が もの静かに聞いており、最後に「殿様の御墓のついて 良くわかりました。金澤から参りました」に。

アカトンボ参加の ある会の長老は 「前田家の御子息と友人で 鎌倉の御屋敷に遊びに訪れた」と語っていまして 人品一致します。で、思わず 「前田さま でしょうか」と お尋ねしました。「いや 家臣です」


「前田家の墓所は、歴史的経緯から 七尾と金澤にあり、我が家も 同様です」
「前田家墓所は 一山が墓所で 利家公から 順次 位・年次に配列されていましたね」
「そうです。我が家の墓所は 利家公墓所に近い位置にあります」
「前田七家? 重臣ですね」
「いや 足軽ですヨ」
(言葉のとうり理解すると 瑞鳳殿寶筐印塔の方々同様 御側で仕えていた方 でしょうか)

「利家公墓所を近々 金沢市が発掘調査をします。どの様に埋葬され、どの様な品が出土するか。本日の説明を聞き その期待感が膨らみました。ありがとう」


金澤前田家墓所をお詣りした際、一連の資料を入手できませんでした。
水戸徳川家墓所は、常陸太田市教育委員会が遺跡調査し、財団法人水府明徳会が200頁近い報告書を刊行しています。
前田家も 何れ 調査完了後の報告書の刊行されるでしょう。期待します。

仙台市教育委員会には、仙台市文化財調査報告書第22集「経ケ峯」の再刊行を お願いします。



8 月 7 日 (火)  



立秋。
でも 今日も猛暑です。

仙台七夕2日目 城下は交通渋滞。常の2倍要して到着時、境内は参拝の御客様で騒然としていました。

7組程 30-40分程のガイド。
宇都宮からのお客様には、日光との関連から説明。
津軽からのお客様には、涅槃門の用材は「津軽ヒバ」 津軽家との御縁、青森営林局に依頼し樹齢数百年もの。この価値を知るのは津軽ののみですと 御客様と瑞鳳殿の御縁から 説明。

あかとんぼ その昔参拝し その華麗な美しさに 仙台以北 1番の御霊廟と思いました 津軽山革秀寺の津軽為信の御霊廟。話題にしましたが 反応はいまいちでした。

遠来の有識者をご案内した事があります。他に参拝・観光の方は居なく 確かに閑静でした。地元の人は知れない名所でしょうか。

ウイキペデイアによれば
「重要文化財(国指定) [編集]
津軽為信霊屋(境内) - 江戸時代初期に建立された当時は質素であったが、文化年間(1804年〜1817年)に大修理し、現在の華麗な姿になった。規模は小さいが豪華で凝った建築が松や杉の古木が茂る中に建っていて、桁行一間、梁間一間、柱は総円柱、入母屋造、正面軒唐破風をつけたこけら葺き屋根。内部は非公開だが、板卒塔婆を巡らし宝篋印塔と元弘前城の館神であった木造太閤秀吉座像が安置されていて、彫刻や天井絵などの漆塗り、極彩色の華麗な塗装の多くが、文化年間の大修理によるものである」。


15時、仙台コンベション協会主催の会議に。
参加は、瑞鳳殿・仙台城・大崎八幡宮でのボラガイド団体の代表3名。

用件は、
@ 2013年4-6月の土・日・祝、JR8社主催のキャンペーンに 2012年同様に 参加・協力頂けるか?
A 瑞鳳殿のタイトル「伊達な旅 豪華絢爛 瑞鳳殿から」で 良いか? 更に良いものにするか
B 案内時間 9:30-15:00(所要時間:30)、待機場所 涅槃門前でよいか?
C 別案内 4/29・30.、5/3・4・5日 10:00瑞鳳寺前待機でよいか?
D A-Cを 再考し24日迄回答されたい。
E チラシ作製する。団体別にボラガイド集合写真を掲載する。
F Eを HPに、bookに 掲載する
G ボラガイドに対する経費 削減される可能性があり心配だ。

上記について、各団体から下記意見が表明されました。
@ 各団体も 2012年同様に 参加・協力する。
A ボラガイドの人数の増と質の向上が必要である。
B 3団体ガイドの均一化と連携強化が必要である。
C よって 協会主催で 研修を本年度早い機会開催して欲しい。
D 北山ガイド団体の参加を検討 して欲しい。
E ループルバスの定時性の確保、コースの変更 検討して欲しい。(八幡宮)
F ネンリンピックにボラガイド団体の活用策が 何れの機関からも示されない。協会は活用を検討 して欲しい。(仙台城)





8 月 6 日 (月)  



仙台七夕が始まりました。
灼熱 です。

ジンクスが的中しました。「仙台七夕は雨に見舞われる」

11時30分 瑞鳳殿七夕監督が非常呼集。券売担当を除く全職員が涅槃門前七夕に集まりました。
「雨 来ます。七夕 降ろしてください」
ポチポツ 来ました。我々ボラガイド数名 作業に参加。時間との闘いです。間に合いました。

アカトンボの駕籠を大名小路(旧片平丁)北端まで進めた時、一転暗黒 轟音の雷鳴と稲妻が 間断無く続きます。超大玉の雨がバチバチ。
ライト点灯、ワイパー全動。路面湖水に。北山五山を抜ける迄 この状況。

瑞鳳殿は七夕監督の的確な判断・指示で 被害皆無。

御客様 我々の作業を訝しげにみていました。
「今 雨が来ます」 「七夕はビニールでしょう?」 「和紙 仙台和紙です。雨に濡れると 1発 駄目です」 「城下の 七夕も アーケドの無い所は 懸命に 格納しているでしょう。飾りの無い竹柱でけかも?」
依然として 信じられない表情。

信じられなかった方。 アカトンボの懸念は あの激雨で全身ずぶ濡れになったのでは です。
帰巣と同時に 相模と武蔵の國から「轟音の雷鳴と稲妻。激雨です。奥羽仙台は?」のメール。不思議な天然現象。


「我は 伊達家家老 石母田家の末裔なり」 と娘と孫を連れて参拝に。

御先祖は石母田景頼(政宗公重臣)を指すのか。 高清水要害預 5000石の石母田家を指すのか。
伊達家奉行一覧に
@ 石母田宗頼・大膳亮  一家 250貫 元和元(1615)就任
A 石母田宗頼・織部丞  一家 650貫 正保3(1646) 江戸詰
B 石母田義頼・勘解由  一家 500貫 嘉永元(1848)
C 石母田頼主・対馬    一族 100貫 慶応3(1867) 
とありますが。

ご先祖の詳細は語りません。現在 下総國に御住まいとか、来年5月24日378遠年忌法要にはお詣りしたいと申しておりました。


初老の男性
「政宗公は 土葬か? 火葬か?」のご質問。
「土葬とも 火葬とも 申し上げられません。生葬と申すでしょうか」と 牡蠣灰等使用を丁寧に説明しましたら、

「島原は、松平家です。その墓所が山崩れに合い、埋葬物が白日に晒された。大判・小判がザクザク。大判は予想より薄かった。ギヤマン製品も出土され見学に行ってきた」と 大名家墓所副葬品について語り。

「仙台城 何も無くて残念だ。再建出来ないのか?」
「商工界から要望があり ある程度 進んだ段階で 歴史学者から 建設位置について物言いがつき 中止になりました」
「名古屋城 資料が沢山あっての再建ですが イロイロ物言いがついて難儀しています」

ここで 御客様が 名古屋の方と知り、
「1711年に亡くなられた3代綱宗公の棺は甕棺です。常滑焼と言われています。300年前の製品です。常滑は ご近所では?資料館に真物を展示しています」

「あら あなた どこに?」 「ガイドさん 丁寧に語って呉れ ツイツイ長くなった。貴女も一緒に聞けばヨカッタのに。300年前の常滑焼が意外な使われ方してるそう。イコイコ」

本日の代表的 会話です。



8 月 3 日 (金)  



本日の河北新報に下記記事がありました。

「伊達安芸の遺灰か 墓所五重塔内部に香炉 涌谷

 宮城県涌谷町の涌谷伊達家墓所の門前に建つ石造五重塔(宮城県指定文化財)の内部から、伊達騒動(寛文事件)にかかわった4代当主伊達安芸の遺灰を納めたと見られる香炉と杉材の曲げ物外容器が見つかった。同町教委は、霊屋(見龍院霊屋)が完成する前に三回忌の法要を迎えたため、先に建てた五重塔に分骨・埋納し、法要を行ったのではないかとみている。

 外容器は東日本大震災で被災した五重塔の解体・復旧作業中の7月24日に発見された。3層目の石(42センチ四方、厚さ25センチ)の中心部に直径14センチ、深さ約10センチの穴がくり抜かれ、中に納められていた。香炉は青磁で口径4.6センチ、高さ6センチ。

 香炉のふたや外容器には、伊達安芸の法名「見龍院殿」舎利(遺骨)と書かれており、町教委は本人の遺灰でほぼ間違いないとしている。
 伊達安芸は、寛文11(1671)年3月27日、江戸の大老酒井忠清邸で原田甲斐に殺害され、翌日火葬された。遺骨は4月に涌谷へ戻り納骨、葬儀が行われた。五重塔は寛文13(1673)年3月、霊屋は同年9月に完成した。」


2010年9月25日 仙臺藩志會主催で 涌谷伊達家御当主に ご案内を頂き、涌谷伊達家の御霊屋を参拝しました。
この石造五重塔が宮城県指定文化財であることも、御遺骨がある事も 知らずにお詣りした訳です。

3.11災の結果 341年振りに 日の目を見た 御遺骨は 何を語ったでしょうか。仙台七夕を終わったら お詣りに参ります。



8 月 2 日 (木)  



出生地
永禄10年8月3日(1567.9.5)政宗公は出羽・米澤で生れました。

米沢市教育委員会では 館山城址が 岩出山城に移封する迄の伊達家の居城址と発掘調査をしております。そして、政宗公は現在の米澤城址(平城)ではなく、館山城址ではないかと 囁かれています。

「館山城址説は コジツケではないか?疑問がある。現米澤城址(平城)が正解ではないか」と菅野正道先生は 寺岡市民センター歴史講座で語りました。

1567年に現米澤城址(平城)が築城され 使われていたと 証明されれば 解決する問題では。


歴史講座は、「仙台藩の地域的特色」と題するものです。記憶に残った事柄。
1.政宗公は、会津・米澤・岩出山と減封されても馘首せず、有能者の新規採用をした。
2.地方知行制を採用した。
3.武士階層は人口の25%を占め、全国一の比率であった。
4.在郷屋敷を持った。侍と民との身分的垣根は低かった。
5.政宗公は独裁的藩政運営をした。忠宗公は路線転換をした。結果 幕末まで続いた。
6.米の生産高は150万石前後に達した。
7.江戸に20-30萬石移出した。酒造に40-60萬石使用した説がある。
8.検地が緩く 実質税率20-30%。現在より低率。邑の石塔が証拠。
9.武士以外でも「姓」を持っていた。公式に使用出来たかの問題。
10.政宗公は 署名では「政宗」で 「正宗」は一切使用していない。



8 月 1 日 (水)  



明日は満月。

くもりなき心の月をさきだてて 深世のやみをはれてこそゆけ

政宗公辞世の和歌です。

さて
 1.「くもりなき心の月」の月は、政宗公がいつ、どこで 観た月でしょうか?
 2.「深世のやみ」の闇とは、どんな闇なのか?
 3.政宗公の終の棲家「瑞鳳殿」の位置環境は? なぜ 選択・指定されたか?
 4.仙臺城の規模は? 政宗公が 月を見られた位置は?
 5.政宗公について 1番の学者を推薦して欲しい。

以上の様な内容の電話が 7月4日暮六ッ頃 読売新聞文化部○○次長からありました。
巷の一介の後期高齢者には 過大なご質問です。

あかとんぼ の理解として 
1.について。
いつの月かは、「仲秋の名月」ではありませんか?
どこで は、松島ではありませんか?
瑞巖寺参道から、観欄亭から 松島湾上の月が思い浮びます。
政宗公は船上で 観月を楽しまれた故事があると、仙臺藩志會で 遊覧船を貸切 「月見の宴」を催した事があります。

2. について。
 「深世の闇」の闇とは、古今東西 浮世は 表裏があります。満月と新月があります。
戦国武将として すべての表裏を見て、判断し 実行し 62万石の大国を築き 統率されました。
その方政宗公は、世の指導者として 極楽で 何を 導こうとされているのか あかとんぼ も興味ある所です。

3.について。
瑞鳳殿の所在地 経ケ峯は 3方を 廣瀬川に囲まれた、古来よりの霊域です。
政宗公が 終の棲家と選択・指定されたのは、
 @ 西側は、足下の廣瀬川の先に青葉山があり仙臺城が 指先の地であります。忠宗公以下 末裔 伊達家の行く末を見守ろう。
 A 北東には、廣瀬川を渡り城下町があります。家臣一同と民の安寧を見守ろう。
 B 東から東南には、広大な田圃があります。その先には 太平洋があります。豊作と大漁で 領民の日々の安寧を見守ろう。
 C 遣欧使節団は 時の流れ 成功と評価されないものの スペイン ローマに派遣されました。太平洋の波を見ながら 夢の再現を望まれたか。
上記の思いがあって この地を選択・指定されたとあかとんぼ は思っています。

4. について。
政宗公時代の仙臺城は、現在の本丸で、標高115-140m 東西246m 南北267m no 平坦地です。
東側崖に「懸造」があり、1609年鉄砲つるべ打ちを観閲したと伝えられています。ここから仲秋の名月を楽しまれたと推測出来ます。

5. について。
僭越ながら 仙台市博物館・仙台市史編纂室長菅野正道先生を推薦します。
伊達政宗公研究では、福島大学名誉教授小林清治先生が第一任者でしたが、政宗公に直接 インタビーすべく極楽に旅立たれました。
菅野正道先生は 政宗公の時代を専門とされ、多忙の中 懇切に指導・解説してくれます。
あかとんぼ を始とする 歴史老学習者には 信頼度 最高の先生です。

なお、3(瑞鳳殿)と4(仙臺城)については、現地確認するのが最大の理解です。あかとんぼ でよろしければ いつでも。

7月9日昼九ツ頃から夕七ツ前まで、瑞鳳殿・経ケ峯・仙臺城(本丸・三の丸)を案内しました。
案内には、仙台藩志会柳沼事業部長、支倉常長18代末裔支倉常隆氏が同行され 補足説明をして下さいました。

瑞鳳殿本殿で、
正面は 西向きで その先に 仙臺城が
墓室では、「東面して安座し、頭蓋骨は顔面を東南に向けていたが、体は東を向いて」(瑞鳳殿伊達政宗の墓とその遺品 U伊達政宗の生涯 伊東信雄 著14p記載)います。
伊東信雄先生は、この位置を 海の彼方常世の國に赴いた熊野補陀落寺の故事を思い出した と申しています。
あかとんぼ は上記3-Cの思いが強いです。と語りました。

御子様御廟の樹間から 仙臺城を 望んで頂きました。

仙臺城本丸の展望台(昭和天皇行幸時展望)より、仙台市街、太平洋を望んで頂き、「懸造」があったと伝えられる個所にも案内。
あかとんぼ の思いは 十分に理解して頂けたと思います。

伊達家御当主伊達泰宗様、仙台市史編纂室長菅野正道氏、みちのく伊達政宗歴史館長佐藤久一郎氏等に面会・対談し、瑞巖寺等 松島所在伊達家関連施設を参拝・見学されてからの取材でした。

この一連の取材は 読売新聞日曜版 よみほっと・名言巡礼 欄 伊達政宗公辞世のうた として掲載されるもの との事。

記事内容は固まりまりました。問題は写真です。天下の読売新聞です。当然 自社撮影です。
場所は、瑞巖寺・松島海岸・仙臺城本丸か? 
月は当然 満月でしょう。明日が満月です。何処で撮影されるでしょうか?

8月の日曜日 5.12.19.26日 何れの日? 読売新聞を買いに走らなくては? 






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