2012年10月の日誌
| 前々月 | 前月 | 翌月 | 翌々月 |




10 月 29 日 (月)  



昨日の代替

紅葉が始まりました。
1昨年の紅葉(紅・黄・緑)の写真を披露しながら 11月 最盛期の再来を お誘いしました。

アカトンボの感覚と異なる位置で、大小カメラ、IT機器で撮影している男女 2組。

最初の組 拝殿横から 涅槃門・御供所方向を アドバイスしたら 「Thank you」と返ってきて 初めて外語人と認識。

2組目 手水舎での撮影から 外語人と認識。「English Panmphet?」 「Yes」 
涅槃門・拝殿扁額・本殿の各前 撮影ポイントを紹介。最後にアカトンボと一緒に撮影と言われ おさまりました。
「ありがとう」と言い 手を合せます。
「タイ?」 「ThaiLand」


JTBのバッチを付けた方々 三々五々 3人から4人の団体で タクシー氏付き 付かない で お詣りに見えます。
30-45人の団体では無く、飽く迄 三々五々です。

長野から 新幹線臨時列車を仕立てて 来仙 本日は自由行動で、まずは 政宗公瑞鳳殿をお詣りに見えた(伊達家三大名所のトップで、政宗公の御霊屋とは知らずに 結果的に お詣りになった)方々でした。

菊紋に詳しいご婦人がおりました。「皇室は16弁の重花弁 これを他は使用出来ません。ただ 長野で1ケ所(善光寺?)16弁の複葉があります」と 申されました。

アカトンボ 手持資料の「三井寺・延暦寺」の朱印 菊16弁複葉 を披露し 補足しました。「ご覧のとおり 16弁複葉ですが 芯は円形ではありません。これで 皇室と異なります と申されているのでは?」

特例があるのでしょうか? 1969(昭和44)年10月19日靖國神社創立100年大祭に昭和天皇陛下が行幸されています。この時の幔幕の菊紋は16弁複葉です。 (1977年靖國神社社務所発行冊子) WEB 靖國神社で幔幕の菊紋も いくら数えても 16弁複葉です。


本殿前で 熟練した観光タクシー氏に 御客様にガイドを依頼されました。
アカトンボのガイド内容と 異なる事の無い方です。異なるのは 手持資料の有無です。

御木像始め貴重な写真等持参しています。狙いは これを 御客様に見せて欲しい と理解。気持ちよく 引き受けました。

「プロからの依頼 無料とは もってのほか」と申す団体があります。
アカトンボは 瑞鳳殿を参拝されたお客様が 政宗公をより理解され お詣りにしてヨカッタ の気持ちで 御帰りできれば プロとボラガイドの垣根を作るべきではない。助け合うべきと 思っています。




10 月 28 日 (日)  



「晩秋の趣」とNHKは報じています。

9時30分 「見えていないが どうしました おげんきですか?」と ガイド仲間のNKさんから 安否確認電話を頂きました。
1昨日 支倉常長の末裔様から「世界NO1の新聞社の幹部が来仙するが ガイド出来ないか?」と電話を頂きました。

アカトンボ邑と あかとんぼ郷の 防火訓練が早朝からあり 邑で先日ボヤがあり 消防車等10数台駆けつける事があって、防火意識が高まっていましたので、昨日の準備から 防犯部員として参加しました。

邑長(町内会長)始め 邑人から「アカトンボさん ガイドを 休まれ参加されたのですか?」と言われました。
日々の安寧 (銃後の守り)あって初めて 安心してガイドが出来ると理解しており、皆様(御客様と仲間)に ご迷惑 と ご心配 をおかけしましたが ガイドは休みました。



20日の日誌に 市史講座の項に
{「母(最上氏義姫・保春院)は、1ケ月後 仙臺城に移られた」と説明されましたが、なぜ 最上から 直接 仙臺城に移られず根白石の御仮屋に移されたのか?その事情は} と記載しました。

アカトンボ以外にも 同じ疑問を持たれた方おりました。菅野先生から 次のとおり 御教示がありました。

{事実関係を時系列で追うと、以下のようになります。

(元和8年)
8月18日  最上氏の改易が江戸で決定
   21日  最上領接収の軍勢を出すようにとの命が、幕府から仙台藩に対して出される
9月 3日  御東を滞在させるために、根白石の御仮屋の掃除を開始する
    5日  伊達家の接収部隊が最上領に入る
   10日頃 御東、伊達領に入る
10月中旬  御東、仙台に移る

最上領の改易が決まってから御東を根白石に移すことの準備までがわずかに半月程度しかないのです。

今のように電話がある時代ではありませんから、

最上領の改易が決まって、その知らせを江戸で聞いた政宗が、幕府関係者に御東引き取りの許可を得て、その知らせが国許に届くのに、
どう早くても5日以上はかかると思われます。

さらに、仙台藩の国許の家臣と御東や最上氏の家臣との間での折衝も必要でしょうから、上記のスケジュールは驚くほど早く措置が採られた、と言っても過言ではありません。

したがって、御東をどこへ住まわせるか、十分な吟味や準備を行う余裕はとてもなかったと考えるのが自然です。

政宗は、やはり自分の母親を住まわせるのですから、それなりの所をと考えて、その準備が出来るまで、自分のお気に入りの土地で、自分が川狩の時に滞在する、いわば別荘のような御仮屋がある根白石に母親を一時的に滞在させた。

そして、約1ヶ月で屋敷の準備が出来たので、仙台へ御東を移したというように考えるのが、最もスジが通る解釈と思います。
いかがでしょうか?}


「事実関係を時系列で追う」 なるほどです。 結果を見て 短略に判断 質問するのは 誤ります。
仙臺城は 武将 政宗公の住まいです。高齢の女性が住まいする仕様にはなっていなかったでしょう。
高齢の母が 快適に過ごすには それなり 相当の改修が必要であったでしょう。

納得しました。丁寧な御教示に 感謝いたします。



10 月 25 日 (木)  



戊辰の役

戊辰の役に至る幕末期 政局に 政宗公以来の62万石の大藩 伊達家は如何に動いたか。終戦処理は如何であったか?
明青大史学部講座で 仙台市博物館市史編纂室栗原伸一郎先生 が論じられました。講話は迫力と自信が感じられました。

その表れが、「敗戦処理に 上杉家は 生存者を死に至しめる事は無かった。責任を全て戦死者に押し付け 生首が飛ぶ事は無かった。しかし 伊達家は 内部抗争し 但木土佐、坂英力ほか 多数の犠牲者を出した」 と論じた事です。

戊辰の役での 敗戦処理 責任追及の在り方 伊達家と他家の違い 思いも浮かばないでおりました。
また 宿題が 出来ました。


講座後 1968年6月14日 今から45年前 三原良吉先生が 但木土佐100回忌法要(主催 土佐会)での 講演を録音で聴く機会に恵まれました。

三原良吉氏は 郷土史家として 多数の著書があり あかとんぼ も 何冊が 所持し参考にしております。録音ではありますが その謦咳に初めて接しました。謹聴しました。

講話の内容は 但木土佐を中心に 戊辰の役を語っており 敗戦処理として 責を一身に負い 明治2(1869)年5月19日 伊達家麻布下屋敷で斬殺された際の惨たらしさ迄 実見したがの如きです。

戊辰の役について 思いを新にしました。




10 月 24 日 (水)  



堤焼と常滑焼

堤焼の起源は、綱村公の招請で江戸・今戸の陶工上村萬右衛門が杉山台で焼物を作ったのが始まりとされています。

綱宗公は甕棺に納められ 善應殿で 今は安らかにお休みです。
当初の甕棺は、高さ80cm、口径63.4cm 胴径80cm の大甕で、産は常滑焼(愛知県)です。

近世常滑焼では高温で焼き締めた真焼(まやけ)物と素焼き状の赤物(あかもの)と呼ばれる製品群がある。真焼物は甕・壺を中心とするが、江戸後期になると茶器や酒器などの小細工物と呼ばれる陶芸品も登場する。一方、赤物は素焼きの甕や壺のほか蛸壺や火消壺、竈、火鉢などが中心となるが、江戸末期には土樋(どひ)とよばれる土管が赤物として登場してくる。(この項Wikpediaによりました)

瑞鳳殿資料館では、綱宗公が実際に使用された甕棺 真物が展示されています。
底部に 小判10枚が円形に敷かれていた故に、現在も 同様に敷かれています。

参観の御客様は 甕棺とは理解せず また 真物とも理解せずに、底部の小判に歓喜されます。
宝永小判 重量4.76匁 純度86.8% 極美品で1枚129万円する 真物 1290万円が 無造作に 展示されていると 思われますか?


さて 本日 「堤町まちかど博物館」に 六連登窯(1918建造)と 堤焼展示館 を見学しました。

堤焼展示館には 堤焼の全て 人形・土管・火鉢・電柱傘・瓦に甕が 展示されています。人形はあくまで泥臭いものです。他の焼き物も 生活に直結した実用品ばかりです。洗練されたものではありませんが、それなりの風合いがあります。

綱宗公の甕棺と 目測 同じ 大甕がありました。実用本位で肉厚の堤焼でした。

何故 堤焼が使用されず 常滑焼が綱宗公の甕棺に採用されたか?

☆ 亡くなられた享保4(1719)年 堤焼が焼かれていたか
☆ 江戸に移出されていたか

★ 常滑焼の大甕が 江戸で容易に入手出来た が結論では?


蛇足
店頭で 常滑焼の 梅漬甕 味噌甕 何れも 蓋付で、また 火消壺も販売されていました。
買い求める人 いるのでしょう。 実用品として、将又 骨董品として?

綱宗公との 御縁。 タイムスリップ した世界を感じました。



10 月 23 日 (火)  



日程欄 空白です。
瑞鳳殿ガイドと思いましたが 天気予報 暴風警報 波浪注意報 雷注意報 が発せられました。 取りやめました。


拾い物

1位 入場券 政宗公自筆の「入りのそめて くにゆたかなる 千代とかぎらじ せんだいのまつ」

日に3-5枚 拾います。
御客様は 無関心です。ガイドを依頼されれば 説明します。途端に 丁寧に扱い バックに入ります。

2位 パンフ 読めば ガイドは不用です 99%の御客様は 読まないで 登壇します。しかも ガイドを依頼もしないで。
日に1-2枚 拾います。


昔日は 事務所に届けていました。でも 再使用は出来ません。最近は 廃棄物と理解しています。と申しても 屑籠に投入も出来なく 持ち帰ります。溜まります。


夏は ハンカチ。 冬は 手袋を拾います。半年に1回位で るーぷるバス乗車券を拾います。
これらは 瞬時 事務所に届けます。

落とした と気がつくのは いつ どこで でしょう。
1日乗車券のるーぷるバス乗車券は 仙台城で下車する際に 紛失と 慌てて いるのでは 他人事ながら 心配しています。


財布の出番は 券売窓口と本殿お賽銭箱の2回あります。
手水舎と香炉 でも 開けば 計4回となります。
が 落とす方は 皆無です。12年間 ただの 1度も拾いません。




10 月 22 日 (月)  



関東圏某県某市の生涯学習○○大学OB会 の有料ガイドです。
約束の時刻より 10分早着です。

常に30分前から待機しています。連絡をしないで20分も早着する団体があるからです。
この団体は30分前に 「早着するが 対応可能か?」確認があり、「既に待機に入っています。どうぞ」と。

「ガイド終了時刻は?」に、「早着した。仙台市の資料には40分とある。当初の時間70分を10分短縮したいが」
「お客様のご要望のとおり致しますが、瑞巖寺・大崎八幡宮・仙台城址と 伊達家・伊達政宗公の遺跡 桃山様式の建物等を2日要して 堪能されています。政宗公の終の棲家 瑞鳳殿を 中途半端では無く キッチリご覧なられたら如何ですか」と申し上げました。

「うんそうだな。当初の時刻15時迄 バスに戻る様に 案内してくれ」
トイレ経由14時55分迄 バスに案内し 約束を守りました。発車は15時10分でした。遅延はトイレにあります。


生涯学習のOB会です。伊達家について学習されている方 何人かいます。理解していながら質問してきます。
1.政宗公は いつ? どこで 生まれたか?
2.伊達家の家紋は? いつ、どのよう 使われたか?
3.飾りの金の純度は?


バス乗車前
ご婦人から「今回の見学でここが 一番 理解出来た。よかった」
引率者から「やはり 2時間 必要ですね」のお声を頂きました。

若い人々の会社の慰安旅行で 「行って来ました」であれば 40分でも 宜しいでしょうが、 素養があり、生涯学習に参加する年齢の方々の場合 40分では無理・消化不良となります。90-120分は欲しいです。
引率者から「やはり 2時間 必要ですね」のお声 其のとおりであります。



有料ガイドに入る前 通常の無料のガイド。

静寂な雰囲気です。拝殿で無我の境地で 水彩画に没頭されているご婦人がおられました。

若い高齢者婦人 豪華駅弁風 2折入った袋を下げ 画人の後に。
「ここで弁当にしましょう」 「まず お詣りしてから」 「ここ なんなの?」
弁当に釣られて 付いて来たようです。自然も 景観も 歴史も 全く関心無い様子。

本殿にお詣りしている隙に 画人 荷をまとめ そそくさと立ち去りました。
喧騒と弁当の香り に見舞われたのでは 描けないでしょう。

若い高齢者婦人 香炉の前に。 「なぜ 種火も線香も無いの? 私が来たのに」の大きい独り言。

まいった。

「土日は 種火も線香もあります。今日は風があるから 用意しないのだと思います。土日にお出かけください」
「そうはいかない。来られない」「 あっちで 弁当にしよう」と 資料館に行きました。果たして 弁当にしたか 追跡しませんでした。

涅槃門前 四阿で 食事される方はいます。

再び 拝殿は 無人 静寂 の世界に。



10 月 21 日 (日)  



9時前から 参拝者 続々。

1人からご夫妻、名古屋に 北海道八雲町からの 御客様 ガイド。

政宗公について 勉強しており 確認に見えた方、頷きながら ご夫人に解説している方々。


30人程のご婦人 僧衣を纏った僧侶に引率されて 参拝に見えました。
本殿前で 経典を開き 読経し 合掌をおりました。
政宗公は喜んでおいででしょう と思われる雰囲気でした。


「芸術家のお殿様 伊達綱宗とその師 狩野探幽」と題する企画展が資料館で 開催されています。

展示されています作品

伊達綱宗 筆
{花鳥図} 海棠の花と3種の鳥(青鳩1羽・雀2羽・渓山類白「ミヤマホオオジロ」2羽)です。 絹本 江戸時代前期
{白衣観音・夏冬山水図} 中央に 白衣の観音菩薩が 清流のなかの岩に坐し、左右に夏冬の山水画。 三幅対 絹本淡彩 江戸時代前期


狩野探幽 筆
{白衣観音図} 瀟洒で品のある構成と余白を生かした詩情豊かな画。 一幅 絹本淡彩 江戸時代前期

何れも 社会福祉法人共生福祉会 福島美術館 蔵


政宗公(瑞鳳殿)・忠宗公(感仙殿)・綱宗公(善應殿)の3廟の発掘品を中心に普段は展示されています。画が展示され 雰囲気が1変しています。

「綱宗公は21歳(数え齢)で、隠居 品川下屋敷で 芸術的才能を発揮し余生を過ごしました」と ガイドしており この画を 拝見して頂けますと 御理解が容易になります。

大変 良い企画です。 今回の企画者 加藤学芸員に拍手。
福島美術館の再会も間近だそうです。



10 月 20 日 (土)  



仙台市史講座

「根白石 政宗の愛した風景」の題で 倉橋真紀先生(仙台市史編纂室嘱託)が 120分 根白石市民センターで講演しました。

講演は

政宗公は仙台に築城・開府以前から根白石と関わりを持ち、築城・開府以後も特別な感情があったと思われる行動がある。

1.家族を住まわせたい風景
▲ 祖母(杉目御前・栽松院)が 1591年に住んだ場所 
   なぜ ここ根白石館址か?
   理由はこれまで4項目語れれているが、それ以外に 交通便利な地であったこと。

▲ 母(最上氏義姫・保春院)が 1622年に住んだ場所
   1594年以降 最上に居住していたが 最上家改易で伊達家で引き取った。
   政宗公との親子関係は NHKTVと異なり 良好であった。
   なぜ ここ根白石か?
   御仮屋があった。栽松院が居住した実績があり 宿駅として整備され 環境的に対応が可能であった。

2.遊びに行きたい場所
■ 鷹狩・川狩に訪れた場所
   政宗は鷹狩が好き。
   川狩とは、
     @毒を流す 
     A簗を作る 
     B投網で。
    棹での釣りでは無い。
   60歳過ぎ 根白石を好んだ。

3.正月に思い出す風景
● 仙台城 門松を用意する場所
   仙台城本丸・二の丸 19門分
   1門当り 
    @松(5又は7階 2本 
    A栗の真柱(3.3−4m) 2本 
    B楢の鬼打木(長さ15cm 幅90cm) 6本
   形態は 昭和中期迄 根白石の門松では?

● 政宗の見ていた門松
   政宗公が1622年に描いた門松画 博物館で所蔵。
   1592年1月7日 文禄の役出陣の際 根白石の正月風景を見ている。

まとめ

根白石の風景は 400年前に作られた原型を 今に伝える貴重な場所・風景。



倉橋真紀先生の講演は、
2012年2月4日開催の市史講座で「宿場の風景 七北田と根白石」の題で、
根白石 について
@根白石は宿場であったか? 
A高札場のある意味 
Bなぜ高札場があったのか? 
を120分の熱弁を拝聴しました。

2012年8月9日開催の寺岡市民センター講座で「仙台市北西部の地域的特色」の題で、
泉区全体の一部で根白石を90分の語りを拝聴しました。


倉橋真紀先生の根白石についての講演を、この1年で 3回 拝聴しましたが 内容の重複はありません。

古文書読解が得意と自己紹介されました。歯切れの良い語り口からも 聞き取り上手でしょう。邑人からの口伝も集めたでしょう。 
来春 発行の仙台市史・地域史に 如何に掲載されるか楽しみです。

歴史と地域文化は 異なるのでしょうか。「根白石」(1997年の新しい杜の都づくり泉区協議会発行)との 重複はありません。



根白石探検隊のSSさんは、
@祖母(杉目御前・栽松院)の住まいは、根白石館址(現宇佐八幡神社付近) 台地と語られたが、正確には 台地の下部と理解している。

A母(最上氏義姫・保春院)の住まいは、満興寺境内の御仮屋と説明しているが、大野田の御仮屋遺跡は100m四方と言われたが、満興寺境内に それだけの余裕が無い。また、政宗公の御仮屋が存在したは 初聞である。

B高札場は 現在 宿場と言われている 根白石では無く、上の宿 と聞いている。

C宿場根白石の街路の真ん中を 水路が貫流していた。(四ツ谷用水の町中堀?)

ガイド仲間のUさんは、
@本家の門松は 資料の写真1.図2を指し これと同じであった。


質問
@ 「母(最上氏義姫・保春院)は、1ケ月後 仙臺城に移られた」と説明されましたが、なぜ 最上から 直接 仙臺城に移られず根白石の御仮屋に移されたのか?その事情を 質問したかったが 時間切 と 質問の機会はありませんでした。

A SSさん も Uさん も 構えていましたが ハシゴ外され 落胆の様子。 


仙台駅から直通バスの無い、伊達家の時代の雰囲気が残る 辺境の地に 200人近い仙台市史講座フアンが集まりました。驚嘆!!



10 月 18 日 (木)  



なぜ

本日地元紙に 「戊辰戦争の犠牲者慰霊 仙台藩志会」と4段抜きで掲載されています。
10月10日の出来事が 8日も経過している 今日 掲載されたか 不思議です。



10 月 14 日 (日)  



爽やか。

9時 青年4人、手水舎で清めながら 伊達家三家紋を発見。「アッ 我が家の家紋だ!」
九曜紋を指しています。

「名家ですネ。1600年前後 肥後熊本細川家から許された 由緒ある家紋です」
「我が家は、福島・郡山のしがない○○屋です」


地元の歴史を知らない若者が多い世にあって、珍しく郷土の歴史 天正17(1589)年5月の摺上原の戦い、10月には伯母の守る須賀川城攻撃を知っていました。その 攻撃側の伊達家と同じに 連帯感をもった様子。
以後20分ガイドしました。


栃木からのオバサン風4人、重そうなトランクを引いて 券売所前で 呼吸を整いています。「売店で荷物 あずかります」
「ガイドさん 麓のホテルから 御墓の脇の急な階段を登り また 石段でした。疲れて 帰ろうかと 思いました。助かった。ガイド出来る」

「ハイ 喜んで」
4人 ガイドを聞いていますが、写真撮影にフラフラするひと ユビ指す以外の方向を見ている人 雲集霧散です。

資料館に 感仙殿地区に 最期 売店で 喫茶を楽しまれ、荷物引き取らたのは 昼近く とか。半日 瑞鳳殿を楽しまれました。感謝。


昨日から「ねんりんピック宮城・仙台2012」が開幕。常陸宮殿下御夫妻御臨席のもと 47都道府県20政令指定都市から15000人が参加 開会式を催したと 報じられています。

朝早く タクシー数台の ねんりんピック参加選手が見えました。アカトンボ の予測では バスで続々 参拝に見える筈でした。予測は外れました。有料ガイドの方にも 予約その他 照会が無いそうです。

競技が終われば 観光しないで 帰るのでしょうか。
年輪の世代です。助け合い 支援とはを 良く 御存じでしょう。



10 月 13 日 (土)  



瑞鳳殿秋の能楽

秋晴れの爽やかな天候です。経ケ峯西広場で 催されました。
頂いたプログラムには

火入れ
素謡
(喜多流) 橋弁慶  子方 佐々木秀喜  シテ連 成田憲治 シテ 和田浩行

連調(小鼓)
(観世流) 羽衣    佐藤修 和田邦子 山岸明子

独吟
(観世流) 井筒    萩原邦明

仕舞
(金春流) 百万  堀内瑞
(金春流) 猩々  佐々木徹雄
(金春流) 通小町 黒澤和美

連吟
(喜多流) 天鼓   鈴木敏彦 加藤正勝

居囃子
(観世流) 吉野天人 太鼓 澁谷和江 笛 上田龍一  小鼓 和田邦子 太鼓 山岸明子

附祝言
 

15時から16時30分迄の短時間演奏です。瑞鳳殿では珍しい国のご婦人が多数鑑賞していました。
アカトンボは (金春流)を 読み違いを先日致し 赤恥をかいています。汚名挽回 からも 最期迄 鑑賞(拝聴)のつもりでした。


午前通常ガイド。
午後有料ガイド(13時20分-15時)で、御客様を 第1駐車場で待機して居た際、瑞鳳殿参拝を終わら御客様の車 エンジンが始動しないのです。駐車場整理要員は 車に精通していますが お手上げです。 結果的に 修理会社を呼び、同乗者はタクシーに切り替えました。


アカトンボが能楽を鑑賞していたら、「アカトンボさんの車 エンジンがかからない」と 瑞鳳殿の職員から言われました。
職員駐車場が 混雑した際 有料ガイド中で 車に戻れないので 鍵を預けていました。移動が必要となりましたが エンジンがかからなく 断念したとの事。先程の第1駐車場を連想、些か 慌て 車に。一発で始動しました。試走し そのまま 帰宅に。

こんなトラブルで 最期迄 鑑賞(拝聴)は出来ませんでした。残念でした。写真も撮り損ねました。


今日の特異な質問 食の・・・・・
1.ずんだ餅 馳走すると 御婦人たちを案内して来たが 途中の店は 閉まっていた。他にないか?
 事務所に聞きに戻りました。坂の途中の店 11時30分開店でした。
 資料館見学中のお客様に「現在11時35分です。開店した筈です」
 弔魂碑前で 手を振っています。「一番 ずんだ餅 を食べたいと言っている者が迷子になった。探してくれ」
 間もなく 発見 見つかりました。一行 ニコニコ  ずんだ餅店に。

2.「眺めが良くて 高くなく 美味しい お店 ありませんか」 瑞鳳寺前で 聞かれました。
 「美味しいか 御客様の口に合うかは わかりませんが、 この先の店の 奥座敷から眺望は 仙臺城本丸の政宗公騎馬像 が見えます。ガイドから 奥座敷から眺望と勧められた と言えば 案内してくれるでしょう」

 2012年02月26日前後 表紙に掲載した 写真の景です。

3.第1駐車場で待機して居た際、「この上に 食事出来る所あります?」 
 上記2の店を 推薦しようと、途端 駐車場係員 「上にありません。バス通り迄下がると ラーメンにスパゲテイの店があります。ウマイですヨ」

 遠方から時間と経費を費やして 瑞鳳殿を参拝に見えた御客様 ラーメンで 満足されたか?些か心配です。
 



10 月 12 日 (金)  



笑顔咲く旅 伊達 な旅

2013年4月から6月に開催される仙台・宮城デステイネーションキャペーンのタイトルが 標題です。
「DCから観光戦略を考える 仙台観光フオーラム」 が本日 観光業者対象に開催されました。

パネルデイスカションは
1.仙台商工会議所文化観光部副部会長・ホテルメトロポリタン仙台総支配人 紺野純一 氏
2.秋保温泉篝火の湯緑水亭女将 高橋知子 氏
3.(株)河北新報社論説委員 鈴木 素雄 氏
4.(株)東北地域環境研究室代表 志賀秀一 氏

観光とは、ホテルと温泉旅館のみで成り立つものではないでしょう。施設・バス会社・旅行会社の代表もパネリストに入れないと 完全ではと思いますが。

過去のデステイネーションキャペーンで得たものは何か。来春に期待するものはなにか。なにを為すべきか 等をパネリトは熱心に論じられました。

過去 「此処に本当の伊達がある」の コピーが 流されたが その 真意は 何であったのか。
今回は「笑顔咲く旅 伊達 な旅」である。

この 伊達 はなにか。

「伊達政宗公を極めるべきでは 無いか」 の意見があった。賛成であります。
気軽に 伊達 と言いますが 政宗公を どれだけ理解して 口にしているのか 些か 疑問であります。

2時間のフオーラム中 「瑞鳳殿」の単語は 紺野純一氏から ただ 1回  有ったきり。
アカトンボは寂しい。

ボランテイアガイドは フオーラムの参加対象ではありませんが、瑞鳳殿ボランテイアの会 では NY,NMの両氏 「ふるさとの歴史を学ぶ会」代表等数団体の代表が参加していました。






10 月 10 日 (水)  



戊辰の役 殉難者144年慰霊祭

経ケ峯 戊辰の役弔魂碑前で 殉難者末裔・仙台市・公益財団法人瑞鳳殿・仙台藩志会・仙台市民が参列 10時から斎行されました。

次第
開式   仙台藩志会常任理事         煤孫晴夫
式辞   仙台藩志会副会長           伊達宗行
鎮魂   篠笛                   「篠の音」社中
挨拶   仙台市副市長
      公益財団法人瑞鳳殿理事長    伊藤 敬幹 様
      仙台藩志会参与
      仙台市市議会議員          鈴木 繁雄 様
焼香   伊達家御当主             伊達 泰宗 様
      仙台市副市長     
      公益財団法人瑞鳳殿理事長    伊藤 敬幹 様
      仙台市経済局次長
      国際経済・観光部長         壱岐 雅章 様
      仙台市観光交流課長         高島 秀一 様
      殉難者後裔代表
      奉行坂英力時秀末裔         坂  和夫 様
      公益財団法人瑞鳳殿常務理事
      瑞鳳殿事務局長            大崎 啓一 様
      仙台藩志会参与
      仙台市市議会議員           鈴木 繁雄 様
      仙台藩志会名誉会長         古内 重義 
      仙台藩志会副会長           伊達宗行
閉式   仙台藩志会副会長           大場 光昭


式辞
 本日茲に戊辰の役 殉難者144年慰霊祭を挙行するに当たり、主催者として一言御挨拶を申し述べます。

 10月も半ばとなり、藩祖伊達政宗公がこよなく愛されたここ経ケ峯も、秋の気配を一層濃くしております。今日10月10日は先の戊辰の役において、祖国のため 藩のため 尊い犠牲となられた藩士の方々の、御霊(みたま)を弔魂する日と定め、私ども仙台藩志会では毎年欠かさずお参りを続けて参りました。

 本日は、仙台市副市長伊藤敬幹(ゆきもと)様を始め、伊達家18代御当主伊達泰宗様並びにこの弔魂碑改修にご尽力を頂いた元仙台市市議会議長鈴木繁雄先生、殉難者後裔代表 坂 和夫様、瑞鳳殿常務理事大崎啓一様など関係者多数の方々にご参列を賜りましたことに、哀心から厚く御礼を申し上げる次第でございます。

 また、この戊辰の役で犠牲となられた仙台藩士の後裔の方々、仙台藩志会会員並びに一般の方々にもご参列を頂きましたことに、敬意と感謝を申し上げます。

 さて、慶応4年正月に起こりました戊辰の役は、仙台藩にとっても命運を懸けた戦いでありました。しかしながら、訓練された兵力と西洋仕込みの砲火の前に敗退を余儀なくされ、1260名の犠牲者を出しました。みな日本の将来のためと信じ、藩のために散った尊い犠牲者であります。

 この方々を祀ろうと、第14代伊達家御当主伊達宗基様を始め、ご家臣の方々のお力添えによって、この政宗公が眠る瑞鳳殿奥に、弔魂碑を建立なされたのは、明治10年10月10日のことでございました。爾来130年余、長い年月 風雨にさらされ、痛みがはなはだしくなりましたので、ご出席の鈴木繁雄先生などが仙台市に働きかけられ、仙台市のご配慮でこのような立派な弔魂碑が完成いたしました。

 明治維新の戦いは、熾烈な戦いでありました。同胞同士が地で血を洗う戦いを、なぜ繰り返さなければならなかったのか。しかしそのことによって、日本に夜明けが訪れたことを、そして近代国家日本が建国されたことを、私たちは決して忘れることが出来ません。

 本日茲に、戊辰の役144年慰霊祭を挙行するにに当たって、御霊(みたま)の安らかならんことを、そして尊い犠牲者となられた方々のご遺族に、深甚なる弔意を表し、式辞と致します。


  平成24年10月10日   仙台藩志会 副会長 伊達 宗行



挨拶
 本日は、「戊辰の役 殉難者144年慰霊祭」にお招きいただき誠にありがとうございます。今年も仙台藩志会の伊達会長様を始めとする多くの皆様の熱意とご尽力により、伊達家御当主 伊達泰宗様のご臨席のもと慰霊祭が執り行われますことに、心より敬意を表する次第でございます。

 また、皆様方におかれましては、日頃より本市の市政運営に深いご理解と多大なるご協力を賜り、この場をお借りいたしまして厚く御礼を申し上げます。

 さて、戊辰の役では、東北においても数多くの犠牲者が出ておりますが、仙台藩におきましても、志を持って未来を切り拓くため果敢に行動した多くの藩士が尊い命を落とされました。国を思い、未来に向けて行動した仙台藩士の魂は現在も世代市民の心の奥底に脈々と受け継がれているものと思います。

 こうした戊辰の役の歴史的な意義を、次の世代に着実に引き継いでいくことは私どもの責務であり、こうした意味におきましてもこの慰霊祭は大変意義深いものであると感じている次第でございます。

 本市といたしましては、今年度を復興元年と位置付け、震災からの復興と将来に向けたまちづくりを全力で進めておりますが、仙台の礎を築かれた先人の高い志に倣い、東北の中枢都市として復興を牽引していくという気概を持ち、今後とも邁進して参ります。引き続き皆様方におかれましてはご理解ご協力を賜りますよう、よろしくお願い申しあげます。

 結びになりますが、仙台藩志会様のますますのご発展と、本日ご参集の皆様方のご健勝とご活躍を心よりお祈り申し上げ、私からの挨拶とさせていただきます。

  平成24年10月10日  仙台市長 奥山 恵美子



蛇足

1.準備作業 8時30分集合の連絡に、ほぼ全員8時に終結。晴天故 天幕設営中止、早々に完了。後始末も瞬時に完了。参加した仙台藩志会会員の熱意と行動力に 敬意を表します。

2.マスコミ 数社 取材。昼 放映。

3.一般市民 老若の参列がありました。なんで知ったか? 広報媒体は? 本WEBか 新聞?



10 月 9 日 (火)  



爽やかな です

号砲二発 午前11時 青葉神社例大祭が 青葉神社氏子・氏子総代、青葉神社敬愛会会員、仙台藩志会会員、市民が参加し斎行されました。

神事は粛々と 斎行され12時 終わり 続いて 祖霊社祭事。 13時直会。

伊達家御当主 退室されました。アカトンボも退室。
今春5月24日 奉納され手水舎脇に安置された「青年政宗公甲冑」銅像を拝見。

感慨に耽っていたら オバサン2人 「お爺さん あそこ 上がって 奥迄見学していい?」

驚きの発言です。拝殿に昇殿し、本日 祭事中で 本殿は開扉されています。その本殿の中まで入ろうとするタクラミです。
「昇殿ですか? 私は参拝者です。 社務所で宮司様に 伺ってください」

好奇心・行動力に優れているは 評価します。でも 社会経験を積んだ年齢に相当する 発言・行動か 疑問です。


秋の例祭はなぜ 今日か の質問がありました。
政宗公が中納言に任官した日を 太陽暦に換算した10月9日です。

尚 宮司は 白石・片倉小十郎景綱の末裔 17代目の片倉重信 氏です。



10 月 8 日 (月)  



全山 金木犀の香りが充満しております。
1昔前 ある芳香剤に採用され、その当時 ○○の香りと誤認され 周囲を見回した方がいました。今年はいません。

仙台市の花 萩 満咲です。でも 目に入って居る筈ですが 御客様の反応は ゼロです。


参拝の御客様 津波の如く。昨日は 4桁の大台を超えたそうです。本日も 超えたでしょう。
仲間は 体力測定会に参加されたか、ガイドは アカトンボの孤軍奮闘。 30分余の本格ガイド3組 8人。スポット10人程。


1組目 茨城・水戸近郊のご夫妻。
茨城県と伊達家の関係で 龍ケ崎陣屋をご存じでしたが、常陸國真壁郡伊佐・中村が伊達家発祥の地と知り 思わぬ縁に驚いていました。

殉死者の寶筐印塔を説明したら 夫君 涙 ボロボロ 流し 嗚咽しています。 
アカトンボのガイドに酔ったのではありません。直臣15人 陪臣5人 が殉死を申し出た その気にさせた政宗公のカリスマ性と家臣の忠義に嗚咽したものです。暫し ガイドを中断しました。ガイド歴12年 初体験です。

「来年春 5月24日 政宗公378遠年忌法要に 参ります」と約束されました。お待ち致しております。


2組目 伊予からのご婦人2人
宇和島からでは無いと 言いつつ 宇和島伊達家について、宇和島伊達博物館特別展「政宗見参」の展示物・360度展示、又 特別展今日が最終日等について 語りました。
通常 ガイド8にお客様2 位の比率での会話ですが、 6:4位でした。これほど 喋る 御客様の珍しいです。


3組目 塩竈のご夫妻と津軽・五所川原のお嬢さん2人
3.11災 経ケ峯の被災状況を写真・現物で説明し、「御客様には被害ありませんでしたか?」 に 一息ついて 「全壊 です。瑞鳳殿の復旧工事早くて 3月末に完成した様ですが、私は4月8日の前に 取り壊ししました。 3.11と4.8の2回の地震に 2回地震保険貰った人います」と 淡々と塩竈のご夫妻は語れました。

五所川原のお嬢さんから 「お爺さんの説明 計算合わないです。 深さ4尺 縦横 畳1枚大の墓室に 身長160Cmの政宗公の棺桶入らないです」
「棺桶に衣冠束帯姿で坐しています」と説明しましたが、棺桶を現在の棺箱と誤認識しています。桶 とは から説明をしました。
以前にも 同様の質問がありました。



10 月 7 日 (日)  



真の歴嬢 のお出では?

昨日 白石城址で、2代目片倉小十郎重長(1584-1659)の武勇 大阪夏の陣(1615)で真田幸村との激闘。これで{鬼小十郎}の異名をとりました。第5回鬼小十郎まつりが開催され、全国から9000人(主催者発表)が詰めかけた。

以上の様に地元紙は報じています。
広大な市域に37425人(2010国勢調査)の城下町に 9000人の観光客に 盆・正月以上の賑いであったと推察。

政宗公の軍団として 陣に参戦しています。白石の人口を1.25倍にした相当数の方々が 総大将の政宗公の御霊屋に お詣りにお出でになろと期待し 朝第1便の到着を待ち構えていました。

一見して 歴嬢 然とした 10人程の集団が 現れました。
「昨日は 白石 鬼小十郎まつり ですか?」
「ハイ 今日は 伊達家の史跡めぐり です。 急がなくては」 

片倉小十郎重長が寄進した灯篭は? と問われるを期待していたのに 聞く耳持たず。ソソクサと涅槃門を潜って行きました。
2便も 同様でした。

アカトンボはがっかりしました。今年の歴嬢は不作でした。


連休中日 御依頼殺到 飲まず・休まず 12時30分ギブアップ  3時間30分が 限界です。



10 月 6 日 (土)  



仙台御城下では 「よさいこい」が乱舞していました。
白石城跡では 「鬼小十郎まつり」が模様され、9月29日仙台藩志会で訪れた際 練習していた人々が 鎧・兜姿で 演舞している様子がテレビで流れました。この見物の方々 あす 瑞鳳殿に お詣りに来るでしょう。灯篭の位置 問われるでしょうか?

瑞鳳寺ご住職が 学長を務める大学の公開講座「仙台今昔物語(太白編)を聴講しました。
講師は 元太白区区長で 現 副学長を務める鳴海渉氏です。

撮りためた3萬枚の写真で 太白区の象徴 太白山に始まり 冨澤遺跡・・・・・と紹介されました。

あかとんぼ の興味を引いたものは

1.慈覚大師・・・落合観音、洞窟堂
2.平家・・・・・・・坪沼根添城
3.秋保氏・・・・・楯山城、豊後館
4.伊達家・・・・・野尻足軽部落、番所、境目番所

等の写真です。城等 仙台市史 城館 で 復習しましょう。


大年寺山の無尽灯廟の被災前と現在と 公開しました。
公園課の管轄で 文化財課と協議し 修復すると 語りましたましたが、
驚愕の声がありました。立入禁止になっていないのでしょうか。


今日 話題の主な個所 11月6日 太白区役所で 有料で案内する、希望者はWEBで確認 をと。如何ですか?



10 月 5 日 (金)  



仙台領の美術と文化

標題を 政宗公を中心に、宮城県慶長使節船ミユージアム館館長濱田直嗣氏が90分 あつく語りました。
濱田先生の講義は 数聴講しておりますが 配布資料・スライド共 充実したもと感じました。

有料ガイド「ぐるーぷ・ゆっこより」の勉強会は 入門編、仙台藩志会講演は 中級編 今回は 上級編 の感じです。

先生の講義等の中で
 
1.政宗公の社寺造営の理念は「國泰民安武運長久」にあると。
 正に至言です。施政者として当然です。 当然でない施政者が居るから 政宗公が注目されるのでは。先生はそこまでは語りませんでした。

2.開府時代主要作事の奉行・工匠の動向  一覧です。
 出自に囚われず採用し 所謂 エラクなっています。
 日光東照宮は瑞鳳殿より20年前に普請されています。仙臺城・大崎八幡宮・瑞巖寺の作事に関わった工匠達は 技術の優秀性が認められ日光東照宮の作事に関わり、後年 瑞鳳殿の作事に関わりました。故に 日光東照宮と瑞鳳殿は同じ流れです。模倣ではありません とガイドしています。

 さて、その工匠達の代表名 今回の講義で思い出しました。刑部左衛門國次 でした。

3.昨日 図書「政宗の夢 常長の現(うつつ)」を発売しました。書店で立ち読みを どうぞ。
 帰路老舗書店で 購入しました。

 文禄の役 閲兵行進の際の派手派手に 群衆が大声で「褒美讃嘆」した。

 黒という色彩を基調にして金や朱色を効果的に用いた ある種異様で強烈な主張は 生 と 死 を常に意識しなければならない戦国期の一つの精神を表明するもの と記されています。

 読み始めです。得る所 多大 と確信しました。


この 講座は 仙台豊齢学園2学年生の授業を開放したもので 瑞鳳殿ボランテイアの会のUさん K1さん K2さんは学生として出席していました。NMさんは卒業生とか。皆様の博学の泉は ここにあったのか?



10 月 4 日 (木)  



仙臺城 修復

昨日「本丸東側の崖崩れの修復について」記載致しました。
早速 現場確認したU様から

@ 「櫓方面の崖崩れ工事はすっかり終わり清掃中です。
A 巽櫓の部分は何とか残っており従来の鉄柵はそのままです。
B その南(竜の口渓谷に近い方)は大きく崩れ、近づいて見ると垂直の崖になっております。
C 展望箇所に入れ 瑞鳳殿の眺めも従来通りです。

上記要旨 のメール頂きました。
市議会で話題にならなかった訳 理解しました。U様の一報に感謝致します。



10 月 3 日 (水)  



仙臺城 修復

3.11地震で被災した仙臺城の修復 について
2012年度中に @大手門北側石垣・土塀 A中門(ナカノモン)石垣
2013年度中に B本丸西側酉門石垣
2014年度中に C博物館南側清水門石垣
完成。

D本丸西側石垣(60m崩落)は、12年度中に解体、2013年度中に積み上げはじめ、2014年度末完成。完成次第「市道仙台城跡線」開通。
中断中の「本丸大広間遺構整備」の工事再開時期未定。

以上の様に 市議会決算審査特別委員会で 2日 仙台市当局が発表したと 本日の河北新報は伝えています。


本丸東側の崖崩れの修復については 質問も答弁も 応答の有無が伝えられていません。
工法検討中でしょうか? 
放置すれば 仙臺城本丸は 崩落・落城します。 





10 月 1 日 (月)  



日光・東照宮 国宝・陽明門

来春から6年間の工期で修復工事が始まります。
1636年建立以来、大規模修復工事が20回実施され 今回は40年振り。

龍の彫刻など 500体以上の装飾品で彩られ、見ていると時間が経つのを 忘れてしまうので 「日暮の門」とも呼ばれた。

今回の工事では、江戸時代に用いられた工法・道具を使い、風雪で傷んだ外壁の漆を塗り直し、金箔の押す直し、天然鉱石の絵の具で色彩部の上塗をし、江戸時代の状態に戻すを目標。

参拝に支障ない様に施工する。様々な技法が受け継がれており 修理している状態も見られる。

以上要旨で 9月29日の河北新報は伝えています。


1636年4月25日政宗公は日光・東照宮 奥の院まで参拝され 江戸に向かわれました。

「伊達政宗、最後の日々」小林千草著 3日光社参(47-54P)には、将軍家光の配慮、歓待された様子、奥之院331石段を330段で転倒する様子を 講談の如く 現場生中継の如く 生き生き記載されています。

2020年春 落慶では、政宗公が拝見したと 同じ 色合い が見られる のでしょうか。楽しみです。


午後 ガイドしました。台風一過 青・晴天です。
折損枝 散乱していません。風の吹かない 台風だったのか? に 「アカトンボさん 朝1番 全員で清掃したのよ」 なろほど納得。
快適に参拝を目指す 瑞鳳殿で 昼迄 折損枝が散乱している筈が ありません。

1.来春の4-6月のDC対応について (公財)瑞鳳殿に 報告と相談。
2.会津・湯川村 某団体の有料ガイド
この 用事2件の前後 無料ガイドをしました。

大阪の老女さま。「駐車場のコインロッカーに預けてきた。無料なのに100玉必要とした。返してくれるヨネ」と申しております。
仙台の医院等 無料ロッカー等は このスシテムです。大阪・関西では このスシテムは無く 全て 有料なのでしょうか。
お忙しい方です。坂下で水を買って来た。グビグビ のみ 時間が無い 乗り遅れると 瑞鳳殿を参拝されないで 自動扉を 潜られ様です。

 「アツ あのお客様 姿 見えない どうしたかな?」に 同行の白河のお嬢さん 「あら ほんとう」あっけらかん としています。
「私 時間あります」のお言葉に 予約到着予想時刻 ギリギリまで ガイドしました。


瑞鳳寺門前で タクシ―3氏  だべって いました。
「暫く 元気ですネ 忙しいですよね」に 「はかいくのは タバコばかり です」 
「仙台市のエライ人は 地震前に 客足は回復した と申していましたヨ」に 「ループルバスは回復したかも でも タクシーを利用される人 少ないよ。土曜日は 実車 仙台駅迄 1回きり。ワカルー」 タイヘンです。

90分後 御客様を見送りし 山門前に戻りましたら 全車 ゼロ。 遠方までの実車かな。





inserted by FC2 system