2013年2月の日誌
| 前々月 | 前月 | 翌月 | 翌々月 |




2 月 28 日 (木)  



順路

昨日の案内は、妙雲廟界、感仙殿、善應殿の順になっています。
通常は、感仙殿、善應殿、妙雲廟界と案内している筈、誤記ではのお問合せ。
誤記ではありません。

この時刻に バス4台の外国からの参拝客があり、競合・混乱回避で変更したものです。


2月18日から25日まで 王城寺原演習場で 実弾射撃訓練した 在日米軍の将兵です。
例年 訓練後 瑞鳳殿を参拝に見えている恒例行事です。
事情を知らない受講生は、突然の外国の若い男性集団に目を丸くしていました。


東北防衛局の発表によれば
沖縄県道104号線越え実弾射撃訓練・分散実施 として、

規模 中隊レベル
人員 約250人
車両 約60台
砲   6門
としています。

参拝は、私服でしたので、 将校が居たか定かではありません。一般兵士のみ? 全員丸刈。
ある程度 日本語が通じました。沖縄在住であれば 当然かも。

バスガイド 感仙殿前で「政宗の・・・・」と英語で説明しました。
思わず 「アレー 政宗公では 無いが」に
嬢曰く「政宗の息子・・・・と説明しました。よかったら あと 続けて」
クワバラ クワバラ



2 月 27 日 (水)  



瑞鳳殿ガイド養成講座 4日目

実技 瑞鳳殿ガイド
講師 瑞鳳殿ガイドの会氏家宥副会長 

戊辰の役弔魂碑から出発。妙雲廟界、感仙殿、善應殿、御子様御廟と 途中の石造文化財等(新修先廟記・コウヤマキ・西討戦没碑・高橋是清筆碑・奉納石燈籠(65基)迄 自ら作製テキストを基本に丁寧に説明しました。

途中、伊達家御当主伊達泰宗様から、
「此処は政宗公始めとする歴代の先祖の墓所・霊場です。観光客の皆様は、この点を弁えての参拝になる様にガイドして下さい。
そして 喜ばれるガイドされますように。
当主の私も 御世話になる面(法要)もあるでしょう。よろしく」
と 鄭重な激励のご挨拶を頂きました。

全く 計画していない 予定になく 突然 講座会場にお出で頂いての ご挨拶です。
講座受講生は ハプニングに驚き 感激した居られました。
ガイドの会会員も 御当主から 直々 ガイドに対する期待 を拝聴し 感激でした。

講座最後、拝殿に移動、事務所のご配慮のお茶を頂き 体を温めて頂きました所で、ガイドの心得・今後の予定を説明・質疑応答を致しました。
講座を受講された全員19人から 瑞鳳殿ガイドの会 に入会申込み頂きました。有難い事です。


あかとんぼ が語った 瑞鳳殿ガイドの心得は
@自分の為です。
公益財団法人瑞鳳殿の為でも。参拝者・観光客の為でも 有りません。自分のため のガイドです。

A押し付け は駄目です。
求められて ガイドをする。不快に思われない様に、押し付け は駄目です。
求められた事のみをガイドをする。知識・勉学の発表の場ではありません。独演会は駄目です。

B推測ではガイドしない。
「知らない事は知らない。調べます」と。知った振りすると墓穴を掘ります。
教えられたら 素直に感謝する。自我の主張 論争は絶対駄目です。
知っていて質問される方がいます。

C自己責任・自己管理です。
ボランテイアでのガイドです。御客様に無料でのガイドです。
ガイドに伴う 経費(交通費・食事代・資料代・治療費)は 全て 自己負担です。
ガイド時間も自己管理です。

Dガイドは公益財団法人瑞鳳殿の管理下にあります。
事故発生時 速やかに職員に連絡し、指示に従うことです。

E品格のある服装・態度で。
御客様に 不潔・不衛生・みだらと思われない服装で。
鼻毛伸ばし・華美な化粧に、サングラス・マスク着用は 好ましいでしょうか?



2 月 26 日 (火)  



高橋是清翁

1936年2月26日未明 54年来の大雪の東京で軍事クウーデターがありました。77年前です。
大蔵大臣高橋是清83歳も暗殺されました。

ご承知のとおり
高橋是清は、安政元(1854)年7月幕府御同朋頭支配絵師川村庄右衛門47歳と北原きん16歳の間に生まれました。
和喜次 と名付けられ、3-4日後、伊達家江戸在住足軽 高橋覺冶是忠(許・苗字帯刀)に養子に。是忠は実子として届け出ました。

芝愛宕下の伊達家屋敷(中屋敷)の60余軒の足軽・小者の住宅の一画で、可愛がられ成長しました。

3-4歳の頃、中屋敷北東の門傍の稲荷の祠に、伊達家正室(慶邦室徳川氏孝子?)の参詣があり、その際 拝殿の奥方の前に進み、着物を「いいおべべだ」と言い 膝に這い上がった。明日 芝の屋敷に来いの仰せ。手元の品を質に入れ整え、参殿した。お叱りが無く 大変喜ばれ、色々な品を頂戴しって帰った。殿様の奥方にに足軽の子が呼ばれる事は例のない事。しわあせ者です。
(この項 三代宰相伝 今村武雄著 1958年発行による)


瑞鳳殿参道口に、高橋是清筆碑があり
{「國寶 伊達政宗・忠宗 霊處」從二位勲一等 高橋是清之書 昭和10(1935)年5月24日旧藩士大槻良平 建立 四竈行彌 書之} 
と刻まれています。


現在、河北新報は、「天祐なり」と題して幸田真音著の高橋是清翁の伝記を掲載しています。
本日332回 日露戦争の戦費(外債)調達から山本権兵衛内閣の大蔵大臣となり 国の経済政策を語る場面になっています。

河北新報の占有率は宮城県内では高いものがあり 新聞小説として広く読まれている様です。
又、その経済政策を現役のビジネスマンは知っています。

瑞鳳寺 山門から ガイドした際 この高橋是清筆碑を説明致します。

上記故か 大方の方は、翁の名前なりを 御存じで 立ち止まり 撮影される方もおります。
ガイドのポイントの一つです。

残念な事は、植栽が繁茂する時期 碑面が隠れる事です。

昨秋 公益財団法人瑞鳳殿とガイドとの打合会で 碑面が参拝客に 良く見える様に 植栽の移動を提案致しました。
瑞鳳殿の役職員の皆様は、観光客が気持ち良く参拝する様に 日々努力されています。
4月からの観光キャンペーンの前、雪解けを待って 改善されると確信しております。

本日 高橋是清翁ご命日にあたり。



2 月 25 日 (月)  



伊達家大阪屋敷

肥前名護屋様から「伊達政宗公の大阪屋敷は、現在のどこに所在したのでしょうか?」のお尋ねがありました。
あかとんぼ は不明でしたので 2月12日日誌で 皆様に「お分かりの方、教えてください」とお願い致しました。

結論
わかりません でした。

Kさま から 1958年代 宮城県人会機関紙に大阪在住の佐藤佐様が連載された「関西での仙台伊達候の遺跡」全文をお届け頂きました。
記載ありませんでした。

博物館の菅野さんは、「わかりません。大阪から伏見に移動した時期も掴めていません」でした。
市史近世2 特論「仙台藩江戸屋敷とその変遷」の著者渡邊洋一さんも「わかりません」でした。

現在の所 万策尽きました。

肥前名護屋様 以上の通りです。
今後 なにか 掴めましたら 情報交換致しましょう。



2 月 24 日 (日)  



数年に一度の寒さ 真冬日 最高気温マイナス1度 最低気温マイナス6度 猛吹雪
JR在来線運転中止、自動車道事故閉鎖。
それでも 全国から お客様が参拝にお出で頂き、拙いガイドを聞いて頂きました。有難い事です。


雪の中から駕籠を掘出して御城下に。
意外や 意外。路面は圧雪・凍結しています。
在郷 邑は融雪剤散布したのか濡れているだけだったのに。

団体様 嬢様の案内で登って来ました。
「おはようございます」に 「フウン ボラガイドか」の眼差しで 嬢様から無視・素通りされました。

愛知の大学生10数人に涅槃門彫刻を説明していら 嬢様 一緒に覗き聞いています。
アレー 「フウン」の眼差されていたのでは。でも、
瑞鳳殿での説明は、御当主様、瑞鳳殿学芸員に次いで 信頼して頂けるガイドができます。しています。


本日 3組は15人ほどしかガイド出来ませんでした。

3組目の御客様が 本殿に至った時点で 雪が激しく降ってきました。
腕が積雪で真っ白です。御客様も全身真っ白になりかけています。あかとんぼも見えないだけで同様です。
拝殿に戻り、資料を開き説明致しました。

御客様 語り始めました。
「千葉から弟の病気見舞いに通っていました。東北大の先生に診察して貰い、○南病院で東北大の先生に手術して頂き、食事が出来るまで回復しました。安堵して 初めて仙台市内観光になりました。丁寧にガイドして頂き。撮らせて」

裏表のモデルに。

「病平癒は よかったです。政宗公は70歳で亡くなりました。当時としては高齢です。・・・・・・」
御客様 猛吹雪の中 本殿に戻られ 今一度 手を合せていました。弟様の本復を祈られたのでしょう。御加護があるとおもいます。

ガイドが語部 から 聴部に なったオハナシ。


容姿に自信のある若い男

御客様が 本殿全景を 例の位置で撮ろうとしたら、突然 若い男が段の真ん中に立ちました。モデルになる気らしいです。
吹雪きの中に建つ 桃山様式の絢爛と輝く御霊屋の全景を撮影しようとする時、この行為 撮影者の心境は?
御客様は戸惑っています。

「こちらの御客様 建物中心です。御客様が御霊屋背景をお求めなら 次にシャッター押すます」
容姿に自信のあっても 時と場所に 気を向けなくては 若者の未来は開けないと思いますが。



天気予報は 晴れ でした。逆に 猛吹雪きです。
邑に近づくにつれ、路面は黒舗装から白舗装に、そして圧雪・積雪に、進む刻 悪化して行きます。「前轍を踏む」でノロノロ走行。
軽い駕籠なので 坂を登れるか心配でしたが 幸い あかとんぼ屋敷に帰り着きました。
暴風雪警報解除なりましたが 視界不良で 依然として 雪は強く降って居ます。 



2 月 23 日 (土)  



伊達学塾

演題  仙台藩江戸屋敷とその周辺
講師  宮城歴史研究会会長・仙台郷土研究会常任理事・仙台市史編さん執筆委員 渡邊洋一 氏

講師は、仙台市史 近世2 特論「仙台藩江戸屋敷とその変遷」の執筆者です。
江戸藩邸の始まりから終焉までを語られました。
講話の内容は、仙台市史 近世2  をお読みください。

質問
1.江戸時代 公式には 藩 の呼称は無かった筈。なぜ仙台藩なのか?
2.領をなんと 呼んだのか?
3.家臣は 如何に名乗ったのか?
4.先祖は、参勤にお供し江戸で亡くなり、江戸屋敷の寺に埋葬された。当時のルールを教えて。
5.外桜田屋敷と言うが、なぜ 外なのか。内はあるのか?




2 月 22 日 (金)  



福島美術館

福島美術館尾暮まゆみ学芸員から2012年12月19日の記事について鄭重な書簡を頂きました。
驚きと感謝から また 御無沙汰しておりましたので美術館に御礼にまいりました。(御礼参りではありません)

あかとんぼ日誌に「綱宗公 画においては、師匠狩野探幽をこえたとも言われたそうです」と書きました。
これについて、
「超えたの見解を持っていない。その様な見解を持っている先生を知らない」
「専門画家とも思える技量を身に」
とあります。素人はいくら上手くても プロには勝てない です。
それで、あかとんぼ 「こえたとも言われたそう」 の表現になっています。身びいき?


瑞鳳殿にて展示したのは
綱宗公  花鳥図 一幅 と 白衣観音・夏冬山水図 三幅対
狩野探幽 白衣観音 一幅 
の五幅であったそうです。

日誌記載内容に 記憶・認識 の違いがあった様です。


綱宗公の作品の通年展示の要望について
無理です。伊達家関連は常設展示室に3点程度展示しています。 
その通りでしょう。理解していながら 要望しました。



「震災復興 めでた掛け 再会 展」後期展示を拝見。

綱宗公 弁財天・牡丹図 三幅対

目の保養  作品は 師匠を超えていない と言われても プロ並みです。

常設展にて 伊達家関連
政宗公 書状 2幅
吉村公 賛 狩野古信画 双幅
重村公 和歌手鑑短冊帖
歓心院 和歌 
を拝見。

尾暮学芸員不在で 小林学芸員に 「よろしくお伝えください」 とあいさつ。
全館(企画展 常設展 特別展) 独占貸切状態 王侯貴族になった気分で 鑑賞して来ました。

70歳以上 無料 です。暖房を入れ 照明をして います。
民営美術館です。 維持費 どうしているか心配です。
「福がゾロゾロ昆虫大名行列スケール型しおり」を買ってきましたが、貢献は雀の涙にも ならないでしょう。

ある人に 「老人 頭が悪いネ。老人無料 と言われても 入場料払えばよいの」  ホント。

場所 若林区土樋288-2  022-266-1535 
駐車場 あります。無料です。 お出かけください。



2 月 20 日 (水)  



瑞鳳殿ガイド養成講座 3日目

実技 瑞鳳殿ガイド
講師 瑞鳳殿ガイドの会中道英雄副会長 

東参道から本殿まで、氏家宥副会長作製テキストを基本に丁寧に説明しました。
天気予報の通りの寒気で身を震振るわせている方 5指程。
予定変更 最期の10分を 事務所のご配慮で、売店をお借りし お茶を出して頂き 体を温めて頂きました所で、質疑応答を致しました。
皆様 やる気満々 質問は 活発でした。



五色乱星紫地羽織

政宗公が着用したと伝えられる(最近の研究成果で時代的疑問がると言われています)五色乱星紫地羽織。
之を模したものが瑞鳳殿ガイドのユニホームとなっております。
お客様から 好評で 暫し モデルとなり 御客様のカメラに裏表の2面で収まっています。
中には欲しい 買えるかのお尋ねを頂く事もあります。

午後の仙台藩志会常任理事会で、本物そっくりの五色乱星紫地羽織が1年余の時間を要して完成したとの報告がありました。 

次の通り質問しました。
1.1着 幾ら位ですか?
2.在庫余裕があるのですか?
3.お客様から欲しいと言われた場合 取り次いでも 宜しいですか?

答は
1.約60000円 (ガイドのは15000円)
2.これらは、仙台藩志会婦人会員専用です。



2 月 19 日 (火)  



慶長16(1611)年

昨日、「慶長16(1611)年 政宗公の行動を年表等で 良くと読み解かれたい。最近 世相に 誤った解釈が流布されています」の講義がありました。

年表、小林清治著 伊達政宗 によると
慶長16(1611)年政宗公45歳 
○ 3月6日から7月10日迄 江戸城西の丸造営課役
○ 5月8日 虎栽 82歳死す
○ 5月9日 上杉と人返す を約す
○ 5月24日 江戸を立 仙臺に
○ 10月 ソロテ・ピスカイロ前後し仙臺に
○ 10月28日 慶長三陸沖地震 津波の被害大 伊達領内1783人死す 家屋流失多 (理科年表による)
○ 11月上旬 仙臺を立 江戸に
○ 12月13日 嫡子虎菊丸元服 忠宗と称す 従五位下美作守に叙任
○ 12月下旬 仙臺に

慶長18(1613)年9月15日 支倉常長 月ノ浦出航


慶長三陸沖地震の津波の被害大は確かに大きかった。
しかし 当時の一般家屋は 掘立で 柱を地中に建てた簡単もので現在の家屋と異なり再建は容易です。
田圃は現在と異なり 湿田であり 塩害は軽微であった。
岩沼宿 波を被ったの事実か。記録はない。

11月上旬 仙臺を立 江戸に出向いたのは、被害報告する為は、 果たして そうか。

本当の目的は、12月13日に嫡子虎菊丸13歳が江戸城で元服、松平姓と秀忠から諱の一字「忠」を拝領  従五位下美作守に叙任、するにあった。 
以後 従五位下松平美作守忠宗 と称しました。
従五位下美作守の叙任は 朝廷の権限であり、幕府と朝廷との 折衝の結果 12月13日の式日が早くから決定しており、参列の為 江戸に出向いたの、最近 巷間で語られる 被害報告は主な目的では無かった。


「年表等を眺めるだけでなく、当時の社会情勢・生活環境は現在と異なる事を理解しなければ 誤った解釈に汚染される」が 講師の意図と理解しました。納得。


慶長18(1613)年9月15日 支倉常長 月ノ浦出航について 討幕・災害復興の面から語る方(大手マスコミ)が 居ますが? と疑問を投げかけました。
あかとんぼ の友人 巷の史家は 造船技術の面で疑問を疑問を投げかけています。
いずれ 記載します。



2 月 18 日 (月)  



有料ガイドの会 勉強会

講師 仙台市博物館市史編纂室長 菅野正道 氏
演題 二代藩主 伊達忠宗の治世

13日開催のガイド養成講座は 「2代藩主伊達忠宗、3代藩主伊達綱宗について」でした。
菅野さんは、聴講生が重複していればと 懸念された様ですが、重複者は僅7名でした。

略歴は、変わる筈はありませんが、講師が変われば、視点の違いで 新鮮で勉強になります。

瑞鳳殿での本殿の扁額を「忠宗公の書です」と説明しています。
大方の御客様は、「綺麗な文字ですね」 「生真面目な性格の方でしたでしょう」と感想を述べられます。

忠宗公の性格等について

○若い時は 乱暴な面もあった。
○武勇に秀でていた。鉄砲が好きであった。
○政宗公は、書や和歌に秀でていた。が、忠宗公は、和歌は{まれによむ}と記録されている。これの意味は?

○「文字は読み難い」。
さて その様に申されると 本殿扁額は 代筆なのか?悩みます。次回 お会いした際に 確かめます。

忠宗公の治世 治績の数々をあれど、「寛永検地」をトップに上げられました。
郡・村の境界を確定ー近世的村落の完成、地方(ジカタ)支配、村落制度が確定した。
納得。

忠宗公の頭領としての統率・判断の力が優れていたことが、武断時代から 法治時代に上手く移行出来て 62万石の大藩の基礎が確立し、存続した。家老(部下)任せの御家は どうなったか。例えば・・・・・・・
納得。



仙台・宇和島 姉妹都市 40周年

宇和島伊達家御当主が、来仙されるの情報があり、宇和島市役所商工観光課幹部と往復しました。
その際、「提携40年目になりますので 姉妹都市同士での交流を探っております。もっと市民同士交流ができるようにならば」のお話がありました。

あかとんぼ も その様に思います。
2009年3月 櫻開花観測隊として 宇和島に1月滞在し、その間 宇和島伊達家の史跡を拝見しました。その時 御世話になりました方々と往復が続いています。正に 市民同士交流です。
もっと 輪が広がる様に あかとんぼ 微力ですが 出来る事 お手伝い致します。



2 月 17 日 (日)  



晴天

昨日は悪天候ながら瑞鳳殿参拝者 300人を越えたらしいです。
ガイド仲間 5人が 博物館セミナーに参加。結果 ガイド1人のみ。
本日午前のガイドは4人。

あかとんぼ ガイドの範囲内では 特記すべきご質問はありませんでした。

御客様 朝2組
久能山東照宮の麓からのペア。
理解は早いです。
塗回数・伝統の色。飛天の足・羽衣に清水の次郎長等が話題になりました。
「久能山東照宮の麓から」に 表参道 1159段登り参拝しているでしょう と確かめる余地はありませんでした。
あかとんぼ は 日本平からケーブル利用で参拝しています。

御客様 朝4組
カメラ趣味のお嬢さん。「ポイント紹介しましょうか」に 素直に「頼む」。素直なお嬢さんです。
あかとんぼ 推薦個所を紹介しながら本殿までガイド。
年賀拝礼式の写真をお見せしたら 「御当主を存知あげている」 の言。
御当主の「香」の教室とかの門弟かな、それにして 瑞鳳殿参拝初めてとは???
「御当主を存知」は、 テレビで 拝見して 一方的に 知っている でした。なかなか ノリのよいお嬢さんです。

子供会の勉強会
売店で渡された 問題に取り組んでいました。
どんな問題か 仲間のAさん が覗いた瞬間 「アッー」と 引き下がりました。
「どうしました?」 
「答え 助ようと 見たら 政宗が正宗に なっている。問題に誤りるようでは」
「それ 問題を作った オジサン 銘酒○○正宗 呑みながら 作ったのでは?」


瑞鳳殿ガイドの会 役員会。
14日開催 コンベション協会会議 結果報告ほか。



2 月 16 日 (土)  



真冬日 降雪・凍結。

博物館・市史セミナーに。

戦国大名伊達氏の内憂外患


講演1
演題 .戦国時代後期の伊達と相馬  伊具・宇多をめぐる輝宗・政宗と相馬の相克
講師 東北福祉大学教授 岡田 清一 氏

講演2
演題 伊達政宗と母義姫  政宗毒殺未遂事件と弟殺害の謎
講師 仙台市博物館元館長 佐藤 憲一 氏


伊達と相馬は、姻戚関係にありながら輝宗・政宗と2代に亘り 相馬と争い続けたかその目的は何であったか。

岡田先生はズバリ 解き明かしてくれました。
鐡 に関わる利権。

伊具・宇多両郡の鉄資源(砂鉄)と製鉄技術
古代から 高品質の砂鉄と製鉄の燃料(薪。炭)の産地であった。
年貢として 鐡が納められていた。
金山要害を拝領した 中嶋伊勢は 4年後 鐡を献上している。

相馬は、ここを失い 南部八戸から 鐡原料を輸入する羽目になった。
 
(歴史 過去は現在に そして未来につながります。現在の日本国が連想され、非常に有意義な講演でした)


悪天候 悪条件ながら 200人定員に500人?。

研修室・ロビー等 に 超過した人々を収容し テレビで。
アカトンボ 12時前 博物館到着の計画が 悪天候でバスに切り替えたら20分前到着。201番目? 研修室に案内された。机と椅子がある。恵まれた。更に 遅い人はロビーに。椅子はあるが机は無い。画面は小さい、暖房は?・・・・気の毒。

テレビ 映りが良くない。麟席のオジサン 悟っているのか「音(講話)が聞こえます。それでヨシ」 納得。
講演後 ホールでは 拍手多数。研修室は 我一人。講師に届かない拍手は 無駄と 悟っているのか、皆様は。

悪天候に関わらず 予定の2倍もの参加者に、「帰れ」 「駄目」とは 申さず 迅速に対応した 博物館職員に敬意を表します。



2 月 14 日 (木)  



首相日程(新聞発表風)風

07:00 朝刊に目
     投稿欄に「瑞鳳殿ガイド養成講座通う」と題して  68歳 泉区 無職 佐々木義幸様が投稿されています。
     講座は全4回  座学と現地実習。1回目 学芸員の説明に耳を傾けた。
     仙台にいながら瑞鳳殿については詳しく知らずにいた、
     忠宗公の感仙殿、綱宗公の善應殿を こらから学ぶ。
     4月からの「仙台・宮城デスネショーンキャンーペン」には案内出来る様に頑張りたい。

     3月一杯練習 4月から 全世界の人に 「ガイドがいてヨカッタ」と言われる ガイドを期待しております。共に頑張りましょう。

09:30 郷土を愛する歴史の会に。IW会長
     「朝刊読みました。講座開設とやる気の方 居て ヨカッタですね」
     「ハイ ありがとうございます。お宅のグループの方で 瑞鳳殿でガイド希望の方 ご紹介ください」
     「ウーン」

10:00 講座開講
     講師 仙台市博物館 菅野正道市史編纂室長
     演題 「伊達政宗の鷹狩り」

     戦国武将にとっての鷹、久喜の鷹場、名取の鷹・・・・・2時間 休まず 懇切に説明。

     アカトンボの特記
     @ 昨日 忠宗公の将軍に献上した話を聞き、今日
       大永5(1525)年 稙宗が 足利将軍に
       天正元(1573)年 輝宗が 織田信長に
       天正16(1588)年 政宗が 豊臣秀吉に
       また、天正16年に家臣が政宗公に40〜50羽 献上
       聞き、鷹の権力の象徴・価値に 一目。

     A 西多賀の大塒の地名は、鷹を捕えた場所に由来する。
       「塒」は鳥屋 鷹を捕えるための山中に設けた小屋 との解説。

       あかとんぼ邑近辺の邑 「杉塒」です。読み難い町内会名と理解していました。
       あかとんぼ邑周辺は、鳶巣山 と呼ばれ、宅地開発され 鳶巣山1番地○○○と 子番号が三桁で不規則配列でした。
       住居表示で 現在の○○丁目○番○号と便利になりましたが、町内会名は 残ったのです。
       伊達家の時代 鷹の捕獲、狩の地に アカトンボが住まいしている訳です。
       政宗公・忠宗公が 今 訪れたら 何と申す でしょう。

13:00 仙台観光コンベション協会観光事業部S係長に。

13:30 仙台市観光ボランテイアガイドネットワーク会議
      16団体参加。(瑞鳳殿ガイドの会は新参者)
     内容
     @ 仙台市観光ボランテイアガイドネットワークHPの作成
       自分の団体から 仙台市の観光案内全般にリンクする様にの 要望する団体があった。
       瑞鳳殿ガイドの会は、現在のHPには記載されていない。協会案で早急に作製 存在を掲載して頂きたいと要望。

     A 仙台市で 身分証・腕章を交付する。
       瑞鳳殿ガイドの会は、新規である。纏めて申請する様に。

15:50 仙台藩志会広報部 部会
     機関紙「藩報きずな」編集打ち合わせ。
     150有年 復元された仙臺城門松の紹介記事 来年の継続祈願を含め 1頁枠 獲得。
     喧々諤々。まとまり 執筆依頼 発信。

20:20 帰宅。12時間の外出 久々。空腹。

     留守中、Kさん 伊達家大阪屋敷関連資料 太冊 持参下さる。感謝。
      



2 月 13 日 (水)  



天気予報は、大雪・強風です。結果は 晴天・無風・温暖。

瑞鳳殿ガイド養成講座 2日目。座学。

演題「2代藩主伊達忠宗、3代藩主伊達綱宗について」
講師 公益財団法人瑞鳳殿渡部治子学芸員

過日日誌記載の通り 完璧の資料で 淀みなく説明。

参加者 配布資料 読んでいます。当然の事かもしれませんせんが、途中休憩で 次の質問がありました。

1.寛永18(1641)年、忠宗公が将軍に鷹を献上。「稀代の逸物」と姿図を忠宗公に進呈した。忠宗公 大いに喜び 瑞巖寺雲居和尚に「讃」を作らせた。との事。「讃」とはなにか?

2.政宗公略年譜で、「松平忠輝改易」とはなにか?政宗公との関連は?

3.近江國に1601年5千石加増なにか?現在の何処か?


11時21分 突然 室全体が アレー 揺れて いるかな と思っている 数秒後 本格的に揺れました。
立ち上がりましたが、避難する程もなく 治まりました。
地震速報「宮城県沖、宮城県北部 震度4、仙台2」  直ちに参加者全員に お知らせ。
地震慣れ しているか、この位ならか、 皆様 平然と 講義に耳を傾けていました。

20日は実技。瑞鳳殿を瑞鳳殿ガイドの会副会長が懇切に説明致します。


昨日、政宗公 大阪屋敷の所在 現在の何処か?
2.・3 情報入ってきました。肥前名護屋様の期待に応える 情報は?
 



2 月 12 日 (火)  



伊達家大阪屋敷

愛読者肥前名護屋様から「第1回伊達政宗戦国歴史検定2級」に合格しましたと、「合格認定証」を添付の知らせを頂きました。
おめでとうございます。

「合格認定証」は、家紋「三つ引き両」「九曜」に「竹に雀」、そして「半月」を 背景等にした優雅なデザインです。

80問中何問か間違われてそうですが、合格される その知識の蓄積が素晴らしい と思います。

この肥前名護屋様からのお尋ねです。

「伊達政宗公の大阪屋敷は、現在のどこに所在したのでしょうか?」です。

お分かりの方、教えてください。


肥前名護屋様の調査は、下記の通りです。

貞山公治家記録(19−20巻)に

『文禄二年(1592)から慶長三年(1598)の正月は伏見屋敷で迎えられていること』

『慶長四年(1599)(中略)正月 此時伏見御屋形二御座ス乎 大坂に御座ス乎 不知』

『慶長四年(中略)十二月八日 嗣君攝津國大坂御屋形二於テ誕生シ玉フ 是ヲ以テ考レハ 十二月以後ハ公大坂二御座ス事顕然ナリ
 
然レトモ大坂二御屋敷御拝領御屋形御造営等ノ事一圓不知』云々とあり、

治家記録を編纂した4代・綱村公の時点で既に詳細が分からなくなっているようです。
『嗣君』とはご存じの通り2代・忠宗公のことですから、この記録だけでは忠宗公生誕地・大坂屋敷の所在が不明です。

一方、大阪市浪速区の願泉寺に貞山公が寄進した書院と茶室が戦前まで残っていたことまでは調べたんですが
大坂屋敷との関連性が釈然としません。

慶長5年(1600)正月に公は大坂屋敷にて新年を迎え、同年7月12日には名取郡北目城に入っています。


あかとんぼ の確認でも

1.慶長4年(己夷)12月8日播州大阪第ニ生ル。徳川家康刀ヲ賜ヒテ之ヲ祝ス。(仙臺人名事典)とあり、各参考書も 大阪屋敷で生誕したと記載されています。

2.さて、その大阪屋敷が 現在の何処かは 何れにも記載されていません。

3.願泉寺の政宗公寄進については、住職・定龍は利休門下でもあり、秀吉から厚遇され、伊達政宗が弟子となった故と理解。
 伊達家屋敷と願泉寺の所在の関連は確認出来ません。

4.伊達家大阪屋敷と真田家大阪屋敷と隣り合わせで、両家間に親交があったらしいの記事がありました。
 真田家大阪屋敷の所在 確認できませんでした。

 なお、大阪城落城の際、真田家の娘「阿梅」を、片倉重綱に委嘱したは、伊達家と真田家の屋敷が隣接していた縁にあったのでしょうか?

以上のとおり、「伊達政宗公の大阪屋敷は、現在のどこに所在」は 確認出来ません。


肥前名護屋様に、伊達家についての疑問は 仙台市博物館に 問われたら と申しましてら 「敷居が高い」 との事。

仙台市博物館は、敷居が高いことは無いと思っています。親切に教えて頂けると確信しておりますが。



「伊達政宗公の大阪屋敷は、現在のどこに所在したのでしょうか?」です。

お分かりの方、教えてください。



2 月 11 日 (月)  



本日は2月11日。
あかとんぼ 使用の(365日行事こよみ辞典)には、「国民の祝日(建国記念の日)・・・かって(紀元節)として奉祝された」とあります。

三連休最終日。昨日より若干 少な目と感じます。中に 昨日は松島 今日は仙台のコースのお客様が 数おりました。

山梨からのご夫妻にガイド始めたら 類は友を呼ぶ 涅槃門・拝殿・龍・本段と進むにつれ、御客様が増え、最終的に20人を越える輪になりました。

御客様「さむい」と呟かれました。
あかとんぼ も寒気を感じました。風花が舞っています。気温が下がって来たようです。

御客様に 「資料館 どうぞ ここでしか見られないモノがあります。暖房が入っています。体を温めて下さい」とご案内。
時計を見ると11時40分。

売店を通り過ぎようとした時、ショウチャン帽子に マスクの お爺さんが坐して 「遣欧使節400年記念誌 航」を広げていました。
一瞬 メチカラ(目力)の対決。

「アツ Mさんでは? 奥州街道文化研究会でご一緒した」
「そうです」 帽子とマスクを取り 現れた お顔は 大きく精悍ではありませんでした。
4〜5年前 三途の川岸から 引き返して来たと 聞いており 小ぶりの柔和なお顔になったようです。

「PCをみていたら (あかとんぼ瑞鳳殿ガイド日誌)に行き当たった。○○さん あなたでありませんか。懐かしくなり 参りました」
「して、あの当時の仲間 元気でしょうか?」

「Yさんは、このチラシの伊達学塾を 運営しています」
「月の第4週の土曜日開催です。古文書読解教室とかちあい 出席したいのですが」

話しの中に

○ 古文書は文字を読めるだけでは駄目で 該当事案の技術的専門知識が必要です。
   書き手の誤りが 後世の学者を誤らせている。例えば・・・・・(記載自主規制)

○ 勉強会「宮城歴史○○会}を主宰していて、会員20余人。春になれば (経ケ峯)1日要して 勉強したい。

   ハイ 私どもで よければ いつでも お手伝い致します。

○ 宮床伊達家 宮床を訪れ じっくり勉強するつもり。

   宮床はある会で 講師をしたが 微妙なズレがあって不完全燃焼で終わっています。
   宮床伊達家御当主、菩提寺覺照寺ご住職さま ご紹介します。勉強会の節 参加させて欲しい。

   連絡します。

○ 経ケ峯西参道にある「西南の役 殉職者名に曽祖父の名前が記載されている。最近 墓碑を武蔵國にあるを知った。

等 約50分語り 「会えてよかった」と スタスタと62段を下りて行きました。


日・祝日 午前 ガイドをしているを 知った方々 訪ねてくれます。先週は埼玉県から K様。今週は M様。
さて、 来週は 何の関係の どなたが お出でなるか?
悪天候でも ガイド休めなく なりました。お待ちしております。


13日の瑞鳳殿ガイド養成講座の講師からレジメを見せて頂きました。
ガイドの分際で 申すのは失礼かも 「完璧」です。講座が楽しみです。


明日 ある読者様からの????記載致します。



2 月 10 日 (日)  



明日は「建国記念の日」と3連休日の中日。

参拝者 全国から続々と。

東京からの団体、数年振りの再来とか。
「前回はガイド不在であった。今日 異議もあったが訪れてよかった」のお声。
日曜日午前は 私 ガイドしています。また どうぞ。

団体の再来は 珍しく 有難いです。


名古屋からの青年団体、耳が良い です。
資料館から出て来た御客様と 例の答え合わせをしたら、本殿での説明終わった時、「僕らにも 先程の秘密の話し教えて」

「はい、3代綱宗公の甕棺の本物。産地は ご近所 常滑 の甕です。約300年前の常滑焼の甕 本物です」
「ヘー」 イコイコ

300年前の地元産が 殿様の甕棺として 展示されているとは 想像を絶した出会いでしたでしょう。


大阪のお嬢さん

政宗公 20文字での一生を総括した歌記載の 画像を見せたら

「あら 家のお爺さん 馬上少年過 世平白髪多 と いつも 言っています。源は ここにあったのネ」

「それでは、 残躯天所赦 不楽是如何 と 後半を耳元で囁いたら」と。 
どんな結果が?


東京からのお嬢さん3人組
ガイド始めたら、1人 「私 宇和島の生まれ育ちなの」と。

秀宗公の母親は・・・。 政宗公は数多くの優れた家臣を派遣した。7月19日(陰暦6月29日)には 蚊帳を釣らない風習。和霊神社祭典と話が飛びました。

「仙台の和霊神社は、繁華街の商業ビルの屋上に鎮座、ガードマンが案内してくれます」
一同 「ヘー」と驚嘆。

宇和島の和霊神社は、都市公園を前庭に抱えた 豪壮な神社です。一方は商業ビルの屋上で ガードマンの警備付の参拝とは 想像外でしたでしょう。


御客様もガイドも切れ間なし。
12時 ガイド養成講座実技のテキストの製本作業。20頁の太冊。


3日来訪頂きました 真田家研究のK様から 宇和島伊達博物館所蔵の政宗公筆と伝えられる「木村重成奮戦記・重成画像」について、宇和島伊達博物館と仙台市博物館との 往復結果、資料をご送付頂きました。

また、3月16日 彦根市夢京橋キャスルロードの依頼で「真田幸村の娘」の題で 講演されるそうです。ご近所の方 お出かけください。


昨日の支倉家 記述に 補筆しました。



2 月 9 日 (土)  



支倉常長・古文書読解講座

あかとんぼ が博物館主催古文書読解講座に参加した事を知った古文書読解の先人U氏は、参考図書 数々紹介してくれました。

其の推薦図書の中に「代官の判決をひっくり返した百姓たち 仙台藩入会地紛争 支倉清・紀代美 著」がありました。

図書館から借用、早速斜読み。数日後 地元新聞 読書欄で推薦していました。(先人U氏が記事を記した?)


読み取りました事は

1.古文書元本が写真掲載され、原文書き下し・現代語訳・語釈・解説・写真・地図の構成です。故に 歴史解説書として、また、古文書読解のテキストとしても 活用できる。

2.320年前、歴史書に記載のない、在郷の行政・司法制度の一端を知る。

3.元禄時代、新田開発が進み、人口増加となり、エネルギー不足が発生した。この社会システム変化の一端を知る。

本図書の著者支倉清は、生家「支倉家」と 慶長遣欧使節・支倉常長との関係を調査中 入会地紛争の古文書に接し 読解した結果との事。

仙臺人名大辞典によれば、常長に2子あり、常長の跡を継いだ常頼は 弟 常道 邪教信仰の罪で 切腹 42歳 光明寺に葬とある。家臣も処刑され光明寺に葬とある。しかし 弟 常道の記述が見当たらない。前谷地の地に逃げ隠れ、脈々と続いたのか?


本日、仙台市博物館で 博物館友の会主催 古文書講読会 「慶長遣欧使節関連資料を読む」 講師 佐々木徹学芸員。

今秋の慶長遣欧使節400年祭記念企画の展示品借用に 羅馬法王庁等を 高橋あけみ学芸員とも 訪れた。「アッ」 と驚く 美術品 借用の目途がついた。「乞 ご期待」の前口上。

資料は、
@「木村右衛門覚書」上巻 184項目(黒船建造)
A「支倉家家譜書出」(支倉家資料 抜粋)

支倉家の出自 当然ながら 仙臺人名大辞典 以上に 詳しく 系統だてられ 記載されています。
佐々木学芸員の 簡潔・適切な 解説 で 学 が蓄積されました。


特記
1.始祖は、姓は平。源ではなかった。
2.元祖 高望王の嫡子 常陸
3.天喜4(1056)年伊勢國司に、伊勢國壱志郡伊藤庄に住、 伊藤 と号す
4.・・・常久 信夫郡山口村・伊達郡梁川村・柴田郡支倉村 計500余丁拝領 幕の紋丸の内三階松 支倉 と称す
5.・・・常成 黒河郡富谷下ノ村に移住。在名から 山口 と称す 
6.・・・常長 伯父の養子に、本苗 支倉 に復す
7.・・・常長から7代目まで
と、姓が「伊藤」から「山口」に「支倉」と替った出自・系図が 明らかに。

仙臺人名大辞典は、この様に詳しく無い。
「支倉氏には本支数家あり、その家一盛一衰、今日に至りては六右衛門常長の正統分明ならず」と記載されています。

あかとんぼ 所持する系図(北山墓地探検隊?作)では、
常久ー久成ー常正ー定常ー定顕ー常正ー時正ー常長ー常頼ー常信ー常角ー盛清ー 清風ー清隆ー清次ー清成ー清延ー隆ー正郎ー常隆
となっており 常長から13代目まで 継承が明確になっています。

坂田啓編 私本 仙台藩士辞典には、支倉家は 3家記載あります。
常長の系図は、

紀伊守時正ー六右衛門常長ー勘四郎常頼ー又兵衛ー又兵衛常角(子なく本家惣左衛門次男継ぐ)ー仙石衛門盛清ー六右衛門清風ー内蔵之丞清隆ー 六右衛門清次ー六右衛門清成ー保三郎(隆)ー隆ー昭和代の当主 と記載されています。

本日資料では、初代 常久の親の名が常隆とあり、常長から13代目と同名であるを知りました。

常長から13代目 支倉常隆氏とは、 あかとんぼ 親しくさせて頂いています。

「六右衛門常長の正統分明ならず」には、「そう申されても 父祖・歴代 光明寺の御墓守っています。13代目です」と申されます。

なお 家紋 丸の内三階松 ではありません。何時の時代に 変わられたのか 今度伺います。



博物館売店で、05年以前に刊行した図書を3−9割引で在庫限りで販売していました。

「仙台城館および周辺建築復元考・1985刊行」が1冊ありました。28年前刊行 今購入しなければ 後々悔む と即断購入。
帰宅 書棚に 同本 ありました。 我 老いたり。



2 月 8 日 (金)  



新聞とは、その日か前日の出来事を報ずる?。

今朝の新聞を読んで。

1.in白石城
 2日開催の概要が報じられています。誠に簡潔です。

2.真田氏
 7日 仙台真田氏の勉強会を遠刈田・小原・鎌先・青根の4温泉郷26人で開いた。
 白石市所在 幸村の墓と伝えられる田村家、蔵王町所在幸村子孫の墓を見学した。(お詣りした ではない)

 幸村 大阪冬の陣で着用したと伝えられる 甲冑、夏の陣の「六文銭旗」を展示公開する。
 (昔 観櫻会に {イタチ}{ろくろ首}の見世物小屋が立ち、羊頭狗肉であった。それが思い出される)

3.金鵄
 
 所有者護国神社に被災文化財等救援委員会が支援を申し出、碑前建屋に移動した。
 左翼と頭が断絶(怪我)している。

 (仙臺城本丸跡の昭忠碑の金鵄、1902年7月建立。東京美術学校(現東京芸大)生製作、仏像以外で東北最古の青銅製彫刻、.3.11災で20m高から地上に舞い降りていました。修復の1歩 踏み出したは、結構なこと)


速報性では、WEBが早いが、上記の内容は 決して伝えない。
ガイドの手持情報として 1週間 遅くとも あることは有難い。



2 月 6 日 (水)  



雪 大雪

瑞鳳殿ガイド養成講座 初日。
吹雪・降雪・積雪・シャーベット状態、渋滞。
設営者・受講生 開会10時 全員揃ました。

10時 開会
1.挨拶 公益財団法人瑞鳳殿常務理事 大崎啓一
 伊達政宗公の人気は依然として高く、全国各地に限らず全世界から参拝に見えます。そして 豪華絢爛な御霊屋の建築美に驚かれます。
 学芸員はいますが、常に説明出来る余裕がありません。
 ボランテイアのガイドの方々に お願いしております。
 御客様から 「解り易いガイドでよかった」と感謝されています。
 4月から 全県でデスネーションキャンペーンが始まります。この講座を基に ご活躍を期待しております。

2.講座概要説明 瑞鳳殿事務局次長
 本講座は、終了後 瑞鳳殿でガイドを希望される方を対象に開講しております。
 最終日 瑞鳳殿ガイドの会に 入会して頂き ボランテイアのガイドとして活躍して頂きます。 

3.講座  瑞鳳殿事務局 学芸員 加藤 寛
 「仙台藩祖伊達政宗について」  詳細略

 配布資料 A3版 7枚  簡潔に集約され 自習には役立 筈。
 なお、入手容易な図書として 下記を紹介
 @ 伊達政宗 小林 清治 著  吉川弘文館 刊 1800.
 A 伊達治家記録 平重道 編  絶版 図書館で
 B 伊達政宗言行録 木村宇衛門覚書  小井川百合子 著  新人物往来社 刊 13000.
 C 伊達政宗 最期の日々  小林千草 著  講談社現代新書  700.

12時 終了

参加
受講生 18人
瑞鳳殿事務局 7人
ガイドの会 9人

会場
天龍閣(経ケ峯中腹)

雪は降り続けております。皆様 事故無く ご自宅に帰られたか?



2 月 4 日 (月)  



訃報

土生慶子 先生  1月21日 82歳で旅立る

在野の伊達家研究の第一任者。


著作
「伊達氏の源流の地」
「伊達政宗娘いろは姫」
「佛眼寺の古今」(法龍山佛眼寺開創700年記念誌)
「三居澤発電所建設技術者」(正確な書名失念 申し訳ない)
ほか

先生は 故平重道先生のご指導を頂き、それまで 伊達家の発祥の地は「常陸國真壁郡伊佐庄中村」と同地域と理解されてのを、1981年訪れています。
そして、伊佐は、茨城県筑西市中館で、中村は栃木県真岡市中(旧芳賀郡中村)であるとつきとめられました。

調査結果が、「伊達氏の源流の地」となり 1994年発刊されました。
先生の尽力で 仙臺藩志會を中心として下館市・真岡市との市民レベルの交流が1993年から始まりました。

著作の、「伊達氏の源流の地」 「伊達政宗娘いろは姫」は、生涯学習で 伊達家・いろは姫を 知る 学ぶ者には絶好の入門の書であり、市民センター主催地域学習のテキスト本となっています。
また、「佛眼寺の古今」「三居澤発電所建設技術者」は、生涯学習者の隠し球・秘玉 資料として珍重されています。


先生には、可愛がって頂きました。
2009年11月15日には、伊達家の発祥の地 伊佐と中村にて、伊達家ゆかりの史跡を丁寧のご案内して頂きました。
市中で入手困難な「伊達氏の源流の地」と「佛眼寺の古今」を わけて頂きました。

伊達学塾では、長らく歴代公の冶歴を講義されました。

2009年8月には、11代斎義公の冶蹟の一つとして、経ケ峯の堅固な護岸工事を紹介され、その記念碑「太山府君碑」の位置と写真は アカトンボの提供と 紹介して下さいました。

瑞鳳殿だより 経ケ峯の四季 に原稿依頼があり、「11代斎義公の冶蹟」を紹介する、ついては「太山府君碑」の最新の写真が欲しいとのお話が2012年夏にありました。
その後、「掲載誌の発行は2013年春になったの。アカトンボさん 待っててね」と申されました。
最期の著作 遺稿になったのでしょうか。 

2日「イン白石城」で、 仙台藩志会事務局長は 土生慶子 先生の訃報を何ら語りませんでした。
今朝の新聞広告では、1月21日82歳で旅立たれ 家族葬を行った。供物等は辞退とあります。

仙台藩志会・仙台郷土史会の役員をされていました。また、高等学校の先生をされていました。
お別れのご挨拶したかった方々 多数と思います。
どなたか お別れ会を 催してくださるのか。

先ずは 先生のご冥福をお祈り申し上げます。合掌。




2 月 3 日 (日)  



強風・寒冷。

JR線(東北本線・仙山線)は 早々に 運休を発表しました。
御客様は 元気です。ミニ団体も。続々と。ただ 温かい昨日 仙台に到着されています。今更 寒いと観光を中止出来ずに 痩せ我慢しているのでしょうか?

本殿前 凍結しています。ガイド仲間 昼 「ハナミズ」垂らし 身を震わせ引き上げてきました。「敢闘賞}


「どちらから?」 
「岩手県から」
「南部? 伊達?」

1っ瞬 間をおいて 
「伊達」
「伊達領は どの辺?」
「一関の近所」

「田村家3万石の方々 政宗公とご縁のある方々 御親戚をご案内する気分です」
全員 ニコニコ

通常ガイドに「3.11災」を追加。更に 「江戸城刃傷・・・即日切腹・・・田村家屋敷・・・時の殿様 田村右京大夫建顕(タケアキ)奉納の石燈籠は、100本余 倒壊した中 由一 倒れませんでした」と説明 写真を お見せしました。

予想外の話に 驚きと満足の様子。

一関・伝統の門松 (仙臺城門松と同型)を飾った、一関市田村町所在「世嬉の一酒蔵」を 話題にしましたが、反応は イマイチでした。


意外な出会い

待機中 アカトンボと同年配の男性と若い女性の一団が通過します。「おはよーございいます」と 朝の挨拶をしたら、女性はその儘通過 男性が 立ち止まり 「アカトンボさんですか? Kです」

「アツ 真田代々記の K様で」
「ハイ、昨日の白石城シンポに参加 帰りの列車無く 宿泊。 今日 仙台に」

瑞鳳殿は参拝されており ポイントのみご案内し、売店の休憩卓で 不味ではないコーヒーを啜りながら 一時間余 「真田家」に関わる数々のお話を受け賜りました。

真田阿梅・大八、田村家の本墓、仙台真田家、羽後亀田妙慶寺、真田本家、真田家縁者の会、岡山池田家との関係・・・・・等、 k様には 予習しておらず 物足りない年寄りかも知れませんが アカトンボとしては ただただ 夢の中の気分で拝聴しました。 

K様 御来訪 感謝致します。


意外な照会

ある読者様から、「伊達家御当主が政宗公に 文を書かれた 事 知っているか?」

「知っています、2012年6月発行文芸春秋SPECIAL歴史特集に18代当主が政宗公宛て 独眼龍の震災復興の副題でA4 2頁書かれています」

「早速 読みたい」
「合点 Scan mail送信しましょう」
時を置かず
「届きました。感謝」
天地逆様にScan送信し 読み難と思案したら、スマホは天地回転瞬時 との返事。恐ろしい時代になったもの。


再び 意外な出会い

この本に、真田家14代当主 真田幸俊 (慶応義塾大学教授)様が 六文銭の紋所をして 真田昌幸宛て よくぞ、生き抜いてくださった  の副題で やはり 2頁書かれています。

午前の 真田家研究者に会い、夕べに 真田家14代当主の書簡うぃ読み返す とは。意外続きの日。

羽後亀田妙慶寺の資料 ある方から 頂いております。今日の話を含めて ガイド休みの日に 整理しなくては 皆様に申し訳ない。 



2 月 2 日 (土)  



イン白石城

白石城震災復旧工事完成記念 上廣歴史シンポジウム 「片倉小十郎の城 白石城」 が白石市中央公民館で開催されました。

講演は、
1.発掘された白石城・・・白石市教育委員会生涯学習課学芸員 日下和壽 氏
2.蒲生の城 白石城と若松城・・・会津若松市教育委員会文化課主幹 近藤真佐夫 氏
3.仙台藩における近世城郭白石城・・・仙台市博物館市史編纂室長 菅野正道 氏
4.北日本における近世城郭白石城・・・仙台市博物館副館長 金森安孝 氏

13時30分から途中10分休憩を挟み17時10分迄 3時間40分。
暖房の無い体育館に、座り心地の悪いパイプ椅子300脚、補助席50席。 
仙台からも 新幹線・在来線・自車で 相当数(顔見知りがゴロゴロ)が駆けつけていました。

3時間40分の長丁場の講演ながら、トップレベルの講師陣の熱弁に 350人聴講生に中座する方はいませんでした。
実りあるシンポジウムでした。

講演内容は記しません。

1.城絵図・・・各家中で 下絵を描き 幕府の審査後 徳川家お抱えの狩野派絵師が着色・仕上げている。
 各城絵図の仕上げに共通性が見られる。
 思惑・・・軍事機能を低く(三階櫓を二階櫓に)表現し提出するの説はあり得ない。
 納得。(考古学と近世史 専門の違いが 解釈の相違になる例?)

2.築城された年代
 1088年の「後三年の役」で戦功を成した刈田左兵衛尉経元が白石の地に賜り、刈田氏と称してここに築城したのが始まりと伝えられている向きがあります。文書資料が無く 証明できない。
 1590年 蒲生源左衛門郷成に蒲生氏郷が白石城を預けた が最初の記録。
 1591年  会津に封された蒲生氏郷の家臣・蒲生郷成によって本格的に築城。
 1598年  会津に封された上杉景勝の家臣・甘糟景継によって修築。
1600年  関ヶ原の戦、伊達政宗が上杉景勝から白石城を奪り、政宗の叔父、石川昭光が城代として入る。
1602年 片倉小十郎景綱が城主となる。
 1819年  火災で焼失、4年後の片倉宗景 時に再建。復元された現在の白石城の基本。

 復元された現在の白石城の基本は、片倉小十郎景綱が築城したと理解していた。
 それは、1598年落城・焼失した。それは 残ったとしても近世の城として 陳腐化しており 取り壊しの運命にあったのでは?

3.配布資料
 1「.レジメ」 20頁
 2.「白石城跡」 白石市教育委員会2013年発行 16頁(表紙共) 多色印刷美麗
 3.「新島八重」パンフ
 4.「あいづ もの知り図鑑」
 5.「片倉家仙台屋敷発掘パンフ」 仙台市教育委員会2012年発行 2色2頁
 6.「せんだい市史通信」29号

 帰宅後 じっくり読みます。奥の深い資料です。

4.欲しかったもの
 白石城と城下の絵図 10枚セット。 白石城址発掘調査報告書付録 (NO折線・延ばし)。





inserted by FC2 system