2013年6月の日誌
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6 月 30 日 (日)  



仙台・宮城デスティネーションキャンペーン
4月1日から始まり 今日6月30日は最終日

梅雨ですが、御客様 全国から続々 見えました。キャンペーンの効果それなりに在ったのでしょう。
ガイド実績報告を 行政から求められています。
明日から 集計作業です。
ガイド人数が30余人 90日間です。Excelなら 容易に出来るか。何事も挑戦です。


話に聴いたが 見てびっくり。

話に聴いたは、以前に書きましたが「伊達家直臣と陪臣が地続きながら、明治の行政区設定の際 邑別れし 境界が凹凸になっている」でした。

この話を聞かせてくれました郷土史家  邑境記載の地図を持参されました。

話の通り 赤線の邑境が凹凸になっています。直臣側は 大内字田林  陪臣側は 金山字田林 字名は田林 で同じ。
元々 同じ字(同じ邑)であったもの 直臣と陪臣の意地の張り合いの結果でしょうか。

ご覧なりたい方 お声ください。ガイド時 携行しております。



6 月 29 日 (土)  



訂正・補足

瑞鳳殿発掘調査
読者の方から、
墓室から政宗公の頭骨を持ち上げた方?は、当時19歳です。

発掘当時の資料映像を見るかぎり、素手であったことは間違いない。
と 御教示頂きました。感謝致します。

某歴史研究会会長にお会いする機会が楽しみです。


7代重村公 御生母 性善院と坂家
27日記述 ? と 読者の方から、

仙臺人名大辞書によれば、次の通りです。

「サカ・ノブユキ」坂信之
藩士。通称庄三郎仙臺藩執政坂英力時秀五世の祖なり。先世の系譜詳しからず、信之に到りて初めて一族に列し、采地400石を賜る。
其の女 宗村公の側室となり、重村公及び堀田正敦を生み性善院と称す。

信之の子五郎太夫信中の女坂野幼より性善院の育するところとなり、遂に老女となり殿中に終わる。
其の功を以て俸金十両6人口を弟喜太夫信要に下賜せらる。
其の子能登時保子なし。
伊達安芸村常の4男常直を養いて嗣となす。故ありて去る。
時保また平賀雅幹の第2子能登時定を孫女に配して嗣となす。
英力は其の子なり

これが正解です。
講議を正確に聞き、正確に理解しなかった結果の記述が27日の記述となりました。



6 月 28 日 (金)  



雑感

TV番組「城下町へ行こう」に、仙台が2週にわたり放映されると 読者「肥前様」から教示頂いておりました。
26日 瑞鳳殿が放映されました。

現地案内人は 仙台市の現職員で、某歴史研究会会長です。

東参道は62段 伊達家の家禄は62万石 1段1万石です。
政宗公は、正面、仙臺城方向と反対、東を向いていました。
此処までは そのとうり です。

突然 リポター 「○○さん あなた 政宗の頭骨を 拾い上げたそうですね。左手ですか 右手ですか 素手ですか 軍手をしていましたか」
の質問。

○○氏「どっちの手か?素手か? ムニヤ・・・・・・」と答えていました。

これでは ○○氏が 墓室に入り 政宗公の頭骨を拾いあげた 歴史に残る人物となります。

墓室発掘調査は、1974(昭和49)年9月25日から10月14日迄 行われました。
39年前の出来事です。

○○氏は、仙台市の現職ですから 60歳未満です。容姿から50歳前半に見えます。
39年前は 11歳から21歳です。
伊達家の直系でない 少年に この歴史的作業を行わせる筈がありません。
○○氏 リポターの口車に 乗せられた と見ました。


亘理伊達家

亘理町吉田中の生徒が、初代伊達成実に始まる江戸時代の歴史、戊辰の役で敗れ 蝦夷地に移住する経緯を纏め 模造紙5枚以上に記載。
移住した子孫に見てと北海道伊達市に送付。
迎賓館に展示されている。
亘理伊達家20代当主 伊達元成氏34歳は「移住前の歴史を幅広く調べてくれた」と感謝している。

と、本日の河北新報は写真入りで 報じています。

北海道から 瑞鳳殿に多数の方 参拝に見えます。でも、伊達市からの御客様には なかなか遭遇しません。
これを機会に 亘理町訪問の前か後にでも 瑞鳳殿にお出でください。お待ち致しております。



6 月 27 日 (木)  



大年寺址 を尋ねる

東北工業大学松山正将名誉教授の案内で、大年寺山に 黄檗宗三叢林の威厳を保った両足山大年寺址を探りました。


現・両足山大年寺(昔 21塔頭のトウゲツイン所在地)「太白区門前町3-22」に集合
同寺・仮本堂(本堂3.11地震で倒壊の危機)にて、住職から「黄檗宗について」を聞く。

栄華残る惣門と286石段を眺め 北上。現大年寺墓苑から 鹿除土手・空堀・道路を右・左に確認しながら 道なきジャングル(密林)に。

お留山、鹿除土手等 伊達家の歴史用語を 実感。理解。
資料には、土手幅9-10m(5-10間)とあり 更に 内側に側道があります。

後に続く人々の安全確保と言いつつ 竹林で10本近く?筍を採る人がいました。
30分近く 山中徘徊、多数の養蜂箱を左に見 下界は286号線に到達。

「引率責任者は?」
(30人余の集団が個人所有地を断りなく通過するな)
地主の怒りは 当然。
この付近(山)で有名人の東工大松山教授、これ又 地元有名人の地主と シカジカカククの大人の対話で 円満妥結。

元禄5(1692)年伊達家越路山鉄砲弾薬蔵址 今は住宅地なれど、3方山(鹿除土手)で 最適地であったらしい?

交差点で、同行の古老が語る。
道路拡幅で、愛宕山横穴古墳群が取り壊された。
八木山からの澤水・小川が蓋されながら流れている。
(水音が聞こえた。仙台都市総合研究機構刊行 廣瀬川ハンドブックに記載無、)

向山公園脇散策路を登る。
この道が 古図にある北側から大年寺に至る道であれば、この左右に塔頭が散在したことになるが?
現在 1寺があるが 名前が21塔頭と一致しない、宗派が異なる。

寶華林廟 裏手から 無尽灯廟に到り、綱村公、吉村公夫妻、斎宗公夫妻、斎邦公夫妻墓碑参拝。

ある方から 戊辰の役 受難者 坂英力の関係者のお墓あった筈の声。

整理すると
坂家の創立者は、6代宗村公の側室 性善院 で 寶華林廟に墓碑があります。

性善院は、重村公の生母であり 多産多死で 最高の一人は 幼名 藤八郎 後の 堀田正敦 です。
堀田正敦は徳川幕府 若年寄を長く務めました。出自が外様の伊達家である為 老中に昇進出来なかった 説もある 幕府実力者です。

「側室が 別に家を興す」と 6月15日の博物館講演会で菊地慶子先生が語られた。
現在の感覚では理解出来ていない。性善院は、坂家の出なのか?

第3駐車場の土手が 山上に大年寺の伽藍があった当時の土手と想定される。
位牌堂の位置は現大年寺墓地である。
山門が 野草園駐車場入口付近に あった。

これら説明頂き 大年寺の広大な一画と その昔の茂ケ崎城址を理解できました。

今回、小倉三五郎遺徳碑、後藤閑人句碑、一力次郎頌コ碑の所在と原阿佐緒歌碑、阿部みどり女句碑が所在する旨 説明頂きました。
現在消化不良です。

以上 本日 現地学習の記録です。

なお、
6月21日日誌に、
伊達家御廟 無尽灯廟 墓石は全て巨石
「仙台市外神拝記」には、石は宇多郡の産で、縦7尺5寸、幅3尺8寸、厚サ2尺8寸、此貫数2500目トいふ とあります。
U氏は、
宇多郡の山野に産地を尋ねましたが、すべて 砂山で 石材を産する地は無かった。
現在も 巨石が乱立する 伊具郡丸森では ないか。
運送からも、川下りが合理的 説明が着く
と記載しました。

U氏は、新資料「丸森町地質図」を持参されました。
放課後、松山先生に 資料を開示し 説明されたそうです。




6 月 26 日 (水)  



寛永13年5月24日 政宗公の御命日です。
新暦では、1636年6月27日 です。

1930年(昭和10年)5月24日河北新報(13797号)に、次のとおり掲載されています。

政宗卿の臨終 足から先に死ぬものらしい
死を意識 政宗卿の臨終

わしが國さの藩祖贈従二位権中納言兼陸奥守藤原朝臣政宗○○して瑞巖寺殿前黄門貞山利公大居士は三百年前寛永十三年五月二十四日午前六時江戸櫻田の上屋敷で薨去した。行年七十歳といふ。
その終焉の地は今の日比谷公園の北隅に當つている。

公はこの年二月頃から健康勝れず食後咽んだり支へたりする事が多く食欲が斬次減退して行った。
公も死期を自覺し四月二十日に病を押して参観の途に上り滞府中であったのである。
体は日に日に衰弱して行ったが意識は最期まで平常と何ら變わりなく嗣君忠宗公以下に死後の處置を遺言した。
さすが少年時代から鍛へた体だけあって死の數日前まで室内を歩行もすれば手紙も書いたりした。

二十二日には三代将軍家光親しく病床を見舞った。病中に対する将軍家の處置は元勲として至り盡せりの優遇であった。

二十三日の夜公は最後の行水を心地よげに浴び
「みなみな長の病気で苦労かけたが夜が明けたら全快するだろう。明日からみなみな苦労をしなくともよくなる」
と云って寝たが直ぐ眼をさまして
「時刻は何時であるか、生まれてからこんなに長いと思った夜はない。
若い頃は具足に身を固め野に臥し山を○として敵陣間近く攻寄せ敵を欺いて夜討をかけやうなど心を砕いて一晩まんじりともせず晝は晝で死線を彷徨したが今かうして病のために畳の上で死のうとは思ってもいなかった。
今は世間無事であるが禍はいつ起こるとも限らない。
今にも天下の大事が起こったら忠宗にも良き戦いの作法を見せてその後に死ぬやうだったらどんなに嬉しかろう。思へばどうにも出来んのは命だ」
と佩刀に手をかけて落涙し又トロトロとまどろみ、暫くして眼を開いて、
「今何時であるか」と尋ね
「もはや明け方で御座います」と応えると
「夏の夜は短いがやうやく待ち明かした、では起せ」といって二人の者に手を取られ十間ばかり歩いて小便所に行き、その帰りにお次ぎに控へる侍に
「どうじゃ眠くないか、此間から苦労であったのう」
といって二三歩進んだが下が動かず立てない様子で、
「両方の足が弱ったのは、人間は足から先に死ぬものと見える。どうのもして早く床の上へ連れて行け」
といひ側の女房衆に
「ただ引けや引けや」
といって無理に足を運びもう少しで寝床へ着くといふ所で
「もういかん。ここに置け。豫ねての西はこの方か」
と云って両手を咽喉の下に合せてそのままガックリとなつて了つた。
お側の者たちは驚き狼狽てて医師の高屋快庵を呼んだ。そこへ忠宗公と快庵が駈着けた。
快庵は公の頭を抱いて膝の上にのせ
「如何に御心やたがせられましたか、こは何とした御有様、お気をたしかに、いかにいかに」
と耳に口をあてて叫んだ。
この時公は心持ち顔を動かし未だ呼吸も微かながらあったが、やがて眼を開いて「ヤツ」と一聲云ったまま絶命した。
これが政宗が臨終の模様である。

旧仮名使い・旧漢字そのままに努めました。



6 月 23 日 (日)  



梅雨時 なのに晴天

会津から来ました。瑞鳳殿参道口のホテルに宿泊しました。10人です、ガイド御願いします。

好青年の一団です。

涅槃門を説明する前に、柵越しにみえる{弔魂碑}を説明しました。
瑞鳳殿から感仙殿に移動される際、お詣りされたら如何ですか。
145年前、郷土防衛の為 会津と共に戦い散った人々です。会津の人は花や香を持参される方もいます。

以後 シュンとされたか 真剣に聞き 参拝されました。


世界・記憶遺産

御客様には、記憶遺産 全く 記憶されていません。

札幌からの御客様に。
次の下車は 博物館ですか?
いや、青葉城です。

博物館で 世界遺産見られます。
富士山ですか?

仙台には 世界遺産の富士山はありません。世界・記憶遺産です。
それ 何ですか?

400年前 政宗公の命で支倉常長が慶長遣欧使節が派遣されました。その関係資料3点が20日登録が決定しました。
皇太子殿下が 過日 西班牙を訪問されたのも 400年記念式典参列の為でした。

ハアー

仙台以外の人々には 無記憶遺産の様です。

ガイド仲間のAさんは、記憶遺産登録の報と同時、理髪の上、博物館に祝福に駆け付けました。、
その様子が、翌日の地元新聞社会面トップに、12.5x8cmの大きい写真で掲載されています。Aさんには 家族遺産でしょう。


職員駐車場利用しての 車椅子の御客様 何組か 参拝に見えました。
涅槃門までは 容易ですが 拝殿から涅槃門迄の 下りの安全確保? 心配です。


仙台市は 観光ボランテイアガイド活動促進に助成金を交付するの お話があり、役員会を開催しました。



6 月 22 日 (土)  



留守政景

講師 佐藤憲一氏の講演がありました。

政宗公にとっての留守政景とは?
1.18歳年長の最も頼りなる叔父で家臣。
2.政宗公18歳で家督相続、翌年父を失い、良き相談相手。
3.伊達領北方守備の要を務める。
4.合戦に明け暮れた政宗公の先輩として、前半生を支えた最大の功労者。
 (戦国武将から近世大名の転換期の功労者)



講義を整理すると 留守政景は転勤族 
@米澤で生れ、A1567年留守家を相続 高森(岩切)城に、B1570年利府(村岡)城に、C1591年磐井郡黄海に2万石に、D1592年朝鮮に、E1594年磐井郡志津に、F磐井郡一関に、G没
逝去するまで、8回転居は 戦国武将として 多いのでは?


留守家は 1190年 葛西清重と共に 陸奥國留守職、奥州総奉行に就任した家柄。

午前に開催された宮城歴史研究会例会の資料「葛西史 室町以降の葛西氏」を 休憩時間に読みました。
葛西家・留守家 脳内グルグル。

佐藤先生は 失礼ながら話慣れています。理解出来ました。
先生のフアンクラブがあるのか?当伊達学では 新顔の若い女性が沢山出席され、総計100人を越えた様です。


最期
支倉常長家13代当主支倉常隆氏画、西班牙國で 日本國皇太子殿下から 握手を賜ったことと、その前後様子の話しがありました。



6 月 21 日 (金)  



伊達家御廟 無尽灯廟

墓石は全て巨石
「仙台市外神拝記」には、石は宇多郡の産で、縦7尺5寸、幅3尺8寸、厚サ2尺8寸、此貫数2500目トいふ とあります。

U氏は、
宇多郡の山野に産地を尋ねましたが、すべて 砂山で 石材を産する地は無かった。
現在も 巨石が乱立する 伊具郡丸森では ないか。
運送からも、川下りが合理的 説明が着く

と今 一つ 資料を持参されました。

伊達家では、肯山公以後代々藩主の碑石は、伊具郡丸森産の花崗岩を用ひることに定めたので、同地産の花崗岩は「御止山」と称へ、妄りに掘出することは勿論、掘出したものを踏石はいふまでもなく、燈籠にすろことまでも禁止した

と記載した「仙臺昔話 電狸翁夜話  小西利兵衛 編 1925年4月刊行」です。

納得です。


本書に、
1.「幕府は、父祖を敬慕崇敬すろの余りに、其墓所を荘厳ならしめるることは、・・・・・・それが為に多大の金額を費やして、藩用の欠乏をみるようでは、以て外と・・・・・・急に各藩に内意を下して、自今其父祖の為に廟所を造営することを停止した」

綱村公正室 稲葉氏仙姫は、宝永2(1705)年7月41歳で逝去されました。綱村公は、萬壽寺に 葬り 廟所「静寂殿」を創建されていますことから、幕府の実質禁令令は、この以後と見られます。

2.「仙臺城大手門前で三大名(白石の片倉家、水澤の留守家、登米の白石家)と称へられたうち、留守氏が其門を焼失した為、他の両家が堂々たる門構なのにも拘わらず、留守家のみ貫木門であった

さて、水澤伊達家の火災は、いつの頃で 出火原因はなんであったか?


まだまだ 興味津々の事柄が記載されています。再読します。
県図書館の請求記号・番号は、K2.00.4 イ1 イ です。



6 月 20 日 (木)  



伊達綱村公並びに歴代公 慰霊祭

綱村公は、享保4年6月20日 江戸麻布屋敷にて逝去 61歳。
本日 大年寺山 無尽灯廟と寶華林廟の参拝と大年寺法要が行われました。

本日の祭主は、「大年寺会」で、且つ 会費制(5000円)です。

御廟お詣り
10時大年寺から大年寺山の墓所迄 マイクロバスで移動。
無尽灯廟で 塩竈東園寺僧の読経の元 お詣り
続いて 徒歩移動 寶華林廟

我々 到着前 塩竈神社敬神会 80余名の方々が参拝されました。

法要
大年寺仮本堂にて 
読経は、 大年寺、東園寺・・・・ 6僧侶
焼香は、伊達家御当主、仙台藩志会会長、後裔会会長、公益財団法人瑞鳳殿常務理事、茂ケ崎町内会会長、大年寺会会長

大年寺住職説教(報告)
伊達家御当主挨拶

詩吟奉納 大年寺会婦人部7名
綱村公 作 松島
山花錦の如く 禅窓を照し 松島 春深して 霞江に満つ
此地元来 多少の景  扶桑 國裏 更に双ぶ無し

懇親会
献杯 仙台藩志会会長



塩竈神社敬神会 80余名の方々が参拝されたこと
塩竈神社・志波彦神社敬神会、宮司から 本堂・墓前に献花されていること

参列者の中から 疑問詞がありました。
塩竈の発展に 綱村公の功績多大であり 今もって恩義を感じ 参拝されているのです。その事績は・・・・・と アカトンボとU氏で 左右に語りました。
仙台藩志会会員でも 理解して居ない方もいるのでは?伊達学塾での講義に採用を献策しなければ。



「仙台と黄檗を繋ぐもの」の著者 尾暮まゆみ 福島美術館学芸員
大年寺山 ジオラマ作成 大年寺山一人者 松山正将東北工業大学名誉教授
の両氏も見えました。 

尾暮まゆみ氏から 秋展示替のご案内を頂きました。
松山正将氏から 27日大年寺山(大年寺関係)踏査のコースを伺いました。惣門から石段を登らないコースです。楽しみです。
10時大年寺本堂前 集合です。ご一緒に如何ですか。



6 月 19 日 (水)  



甕棺

殿様の甕棺の事例は 伊達家 綱宗公のみではない、南部家にも事例がある と 瑞鳳殿渡部学芸員から教示を頂き 資料を貸して頂きました。

資料は、南部重直墓所発掘調査報告書(1993年3月盛岡市教育委員会 刊)

盛岡南部家初代(異論はあるでしょう)重直が甕棺の主です。

報告書には、

重直の履歴を
「南部家譜」によればとし、要旨 次の様に記載している。
慶長11(1606)年3月9日 江戸桜田屋敷(現日比谷公園)で、父 利直 母 蒲生飛騨守氏郷の義妹於武で、3男であるが正室の子で世子となった。
寛永9(1632)年家督を継ぎ
寛永12(1635)年 完成した師岡城に入城
豪放磊落な気質で逸話が多く伝えられている   (ある本は暗愚とある)
寛文4(1664)年9月14日 江戸桜田屋敷で逝去 享年59歳
盛岡到着後(月日 資料バラバラ) 火葬に。
墓石は 一周忌の寛文5(1665)年9月14日
殉死は3名。

甕棺の規模を、
常滑の大甕
総高71.8〜72.icm
口縁部径36.5〜38cm
胴部径54.5〜55cm
底部径14〜15.1cm
粘土紐を輪積した「ヨリコ造」の丁寧な製品
容量は89リットル

甕棺からでた順と品は
1.腐食崩落した木蓋
2.牡蠣灰層 (厚さ3.5cm) 目張りの役割
3.火葬した遺骨
4.慶長小判12枚、寛永通寶21枚、皇宋通寶1枚


綱宗公の甕は、
高さ    約80cm
胴最大径 約80cm
口径    約63cm

綱宗公は正徳元(1711)年6月4日で、南部重直は47年先に亡くなっています。
南部家は 重直迄 火葬で 以後 土葬に転じました。
火葬された遺骨には 華麗な品は副葬しない習俗。


今 甕棺に限定し 読み メモしました。

瑞鳳殿渡部学芸員のご教示と資料を貸与に 感謝致します。


本報告書 PDF化されています。南部重直墓所発掘調査報告書 で ダンロード出来ます。
http://www.city.morioka.iwate.jp/dbps_data/_material_/_files/000/000/012/833/ar-nanbu-shigenao-bosho1998.pdf






6 月 16 日 (日)  



ブログ 瑞鳳殿の四季折々 6月13日
http://bonten-maru.blog.ocn.ne.jp/zuihoden/

を ごらんください。ビックニュースが記載されています。


何故か 団体が連続 数々と

案内した団体は職能集団? 3.11被災地七ケ浜町にて 活動の帰路とか。
始めは アルコール臭で元気、本殿に至る頃は 正気 真剣に聞き 質問を。

北海道中標津町から 娘が老両親を案内
山梨県の老両親を 栃木の娘夫婦に子供 三世代。
何れも 老両親 歩行に補助が必要でした。

涅槃門・拝殿の間の石段 降りる時 手すりがありません 転げない様に と、帰路は表参道を利用されたら とガイドとして 余分かと 思いつつ申し上げました。


東北大学三年生が 「高齢者のボラガイド」を卒論のテーマにしたいと取材に見えました。

あかとんぼは立ち枯れの年代となりました。
お世話になっております地域社会に、いくばくかのお役に立ちたいとの有志と共に、奥州仙臺・伊達政宗公の御霊屋 「瑞鳳殿」で 毎日曜日・祝日 ボランティアでガイドをし、健康管理と国際交流に努め、発想の転換を求める等の質問・勉強の種をを頂いております。

ガイドをして 13年 瑞鳳殿でのガイド、最近は認知されました。
飽く迄 社会の為、瑞鳳殿の為、最後に自分の為 ここ瑞鳳殿で ガイドをさせて 頂いているの立場で ボラガイドをしております。

と、立場 基本理念を語りました。
20歳の学生で理解出来たでしょうか。


5月 金山・丸山・小斎の3城址の見学会に参加。
記録の整理に追われています。
参加者全員の写真 案内のUさんから頂きました。
綺麗です。裏書がkodakとありました。納得 あかとんぼの自己処理と異なり 金と手間をかけたものでした。
ハイと素直に頂きましたが、財布に負担かけたようです。

昨日の補足

ガイドの会 仲間 片指以上 参加されていました。
大年寺山 伊達家墓所除草に参加された方は 時間的に出来なかった。残念と洩らしていました。

昨日 講演の要旨と感想?です


伊達家奥向の女性と藩政  菊池慶子 東北学院大学教授

奥向きの政治領域
1.世継ぎの出産と養育・・・世襲の家を守る
2.世継ぎの教育・・母・祖母としての教育役割
3.公債とネットワークの構築・・・将軍家・親族家との絆の維持
4.藩政危機だの対応・・・正室(後家)の藩主代行役割
まとめ
1.藩主夫妻は表に並び立たず 両輪
2.側室の足跡 ・・・6代宗村側室・性善院 7代重村側室・正操院
3.墓所にみる伊達家の家族関係

あかとんぼメモ
夫妻は表に並び立たず 両輪は 理解できる。
家政=藩政との言があった。家政に妻の関与多大が当然、当たり前 と思います。

ある時代から 妻は奥に下がったが 秀吉・前田・山内家等は創業には夫婦共働が評価されているのでは。
成功してからも 妻は夫を 遠隔操作していたのでは。

奥向外交 「女使」なる役が、正室代理で 江戸城に行列(駕籠・長刀・挟箱・歩女)を組み 登城した。初聞。
奥方日記なる記録がある。表の情勢は即 把握していた。

藩主が国元にあって 江戸上屋敷不在時の江戸上屋敷の責任者は 正室であった。
家老ではなく 正室であったは、家政=藩政の言?


少年藩主と天保の危機 (伊達斎邦の軌跡)   佐藤大介 東北大学災害科学国際研究所准教授

1.斎邦は日本三賢人の一人と称された。
2.治世の間 実高93万石 天保4(1833)年損耗率81% 5年81% 6年98% 食事脇三采を控えた。
3.天保の改革 @自ら主導の政治A10万石の格式B理念の重視C人材登用(増田主計)
4.天保7年の伊達騒動 政治・人材登用
5.天保12年25歳で早世

あかとんぼメモ
1脚気で亡くなった原因は 食事脇三采を控えた偏食にある。食事・健康管理の必要は リーダーの要件と思う。
2.10万石の格式とは、何を削減したかに、人件費が中心では、交際費は 果たして の回答 納得。
3.明治期の政財界の指導者増田繁幸は人材登用(増田主計)の3男とは、やはり優秀な血筋か?
4.11歳で殿に25歳で亡くなった。天保の飢餓の殿様以外 認識が無かった故 勉強になった。
5.ガイドの対象外の伊達家の人々 幕末迄 再度 勉強しなくては。



6 月 15 日 (土)  



仙台市博物館企画展「仙台藩主 勢ぞろい 初代伊達政宗から13代慶邦まで」
記念講演・討論会「仙台藩を守る! 藩主と夫人たち」

記念講演 演題・講師
 伊達家奥向の女性と藩政  菊池慶子 東北学院大学教授
 少年藩主と天保の危機 (伊達斎邦の軌跡)   佐藤大介 東北大学災害科学国際研究所准教授
 
討論会 講師
 菊池慶子 東北学院大学教授
 佐藤大介 東北大学災害科学国際研究所准教授
 菅野正道 仙台市博物館仙台市史編さん室長
 坂田美咲 仙台市博物館学芸員 (2012.仙台藩の御家騒動 寛文事件をおいかけろ 担当)
 (司会)
 水野沙織 仙台市博物館学芸員 2013. 仙台藩主 勢ぞろい 初代伊達政宗から13代慶邦まで 担当)


結論
 面白く 為に なった。目から鱗 數 あり。
 仙台市史には書かれて居ない(あかとんぼ が読み切れていない)ことばかり。
 その概要は記載致しません。


開館とほぼ同時に入館。特集展から企画展と 丹念に。
ボラガイド支援機構理事長に 瑞鳳殿ガイドの際 話題になる品等
伊達政宗画像 狩野安信筆
太刀拵      瑞鳳殿発掘資料
金製ブローチ  瑞鳳殿発掘資料
黒漆五枚胴具足
黒羅背板地胴服
伊達政宗書状 菅野勝三郎重成宛て
伊達政宗和歌詠草 入りそめて・・・
を ボソボソと小声で語る。

伊達政宗和歌詠草は 瑞鳳殿の入場券に記載されており ガイドしている。
文字が 券の右端に記載されている。掛け軸も 紙の右端に書かれている。
何故、中央に来ないのか?  わかりません。


綱宗公コーナーにて 突然 菅野先生が。

菅野勝三郎重成・菅野家資料が目につきます。
「先生のご先祖様でしょうか?」 と思わず 尋ねてしまい (失敗した)はあとのまつり
にっこり 否定されました。

「帯 三澤初子所用は 国指定重要文化財です」と告げ ・・・・
教えて頂くまで 「なんだ 帯か」と見ていました。改めて 見直ししました。
効く 一言アドバイスです。感謝です。

綱村公コーナーにて
伝伊達朝宗所用「金塗軍配団扇」の説明を読んでいた同行者 「アレ」
そうです。あの中村八幡宮です。伊達家発祥の地です。
2009年に参拝 「中村八幡宮神璽」を頂いております。


今回 殿様と奥方 ペアで展示されています。
殿様の具足も勢ぞろいしました。前期・後期と 双方展示拝見しました。

何か 足りない。

確か 綱宗公夫人 稲葉氏仙姫の具足が 館蔵であった筈。(展示目録1986年版には 記載が無い)
火事等 大事の際 着用し 奥向きを指揮すると聞きましたが。

前段 ペアであれば、具足も 共に展示されても 良かったのに。
藩主等の具足 と 等 の1文字加えるだけでは?。

19日 復習に行きます。



6 月 14 日 (金)  



カエル

昨日 山形から小学生が参拝に見える約束?であった。
ガイド仲間は 孫にあたる年齢 小学5年生 6年生に ガイド出来ると 歓び勇んでいた。

他校の小学生が沢山みえ ガイド出来たので 満足でした。

1人 100%の達成感 味わえなかったのは Uさん。

仙台市博物館企画展「仙台藩主 勢ぞろい 初代伊達政宗から13代慶邦まで」の観覧者専用パンフ (来館者にのみ配布)を懇願し ある程度の部数を 頂き 小学生が来たら 配布・説明しようと 手持資料と共に携行していました。

不発に終わりました。 パンフは 数になれば 重いです。更に 重く 持ち帰ったのでは?



本殿 彫刻 蟇股の説明。

蛙 知っていますね。
あの 蛙 です。

反応が 無い時あります。

オタマジャクシ 知っていますね。 大きくなったのが 蛙です。 あの蛙です。

此処で 大方の方 頷きます。

あかとんぼ 足を広げ (股を広げ) これです。 これが蟇股です に 皆様 納得されます。
一気に 説明は 加速します。


所が オタマジャクシも 蛙も 知らない 見たことも 無い と申す方います。
子供に 多いです。

なんと説明するか 思案。


梅雨時 蛙が 跳ねる 日常の風景でした。

今朝 学童登校時 安全見回隊していたら緑色に混濁した 500mlのペットボトル を持った子 何人かいました。
オタマジャクシから 蛙になる 観察 飼育だそうです。
蛙も 瓶詰 の時代。
 
ゴルフの岡本綾子の自伝に 幼少のみぎりは 動物性蛋白質の入手が困難な時代で 代替として 食用蛙を食した とありました。
時代の変革を感じます。困った時代です。



6 月 13 日 (木)  



小学生

4月中旬 山形県村山地方は直接、庄内地方は瑞鳳殿経由で それぞれ 下見の小学校の先生から 6月13日(木)グループ学習で 参ります。ガイド御願いしますと 口頭依頼がありました。

グループ学習であれば、三々五々にまいります。数の勝負となります。
ガイド可能な仲間に 呼びかけました。仲間4人と学芸員2人と 待機しました。

岩手県矢巾町 福島県会津若松市 仙台市西中田 ほか 続々小学生が見えます。
12時になっても 約束したつもりの小学校が見えません。事務所にも連絡が無いそうです。
ガイド団 解散しました。

あかとんぼ 何校かガイドで記憶に残った学校 

仙台市西中田小学校
キッチリ 予習しています。
仙台大空襲 1945年7月10日 この年月日 メモしていました。
その外 要点 メモしていました。
校名 訂正されました。 ニシナカタと読みました。 ニシナカダと訂正されました。

偉いです。即 訂正を求めるとは。

秋田市広面小学校
佐竹公の時代 美田であった所 今は市街地。そこに30年位前に開校した小学校です。
「お爺さんは 築山小学校の卒業生です」に 全員 「オー」のどよめき。

「佐竹家の菩提寺は 天徳寺 これ程 大きくありませんが 佐竹家の廟所があります。
知っていますか?」
全員 「ハイー」

佐竹家と伊達家は、始め 戦争をしていました。その後 仲良しになりました と 両家の関係をからませ 説明しました。 

「今日は 6年生何人 仙台にきましたか?」に応えず。
「瑞鳳殿 選んで よかったな」 かなりの満足した様子。

あかとんぼ も古里に恩返しした気分。満足。


NM氏 職員に 報告していました。

「お客様から 強い口調で言われました。
それは、妙雲廟界の説明板 読めない ガイドも困るが ガイド不在時の客が一番 困る なんとかせい」でした。

御客様の苦情とは申しません、提言には感謝し 期待に応えなくては。



6 月 12 日 (水)  




あかとんぼ 手持資料

政宗公関連 旧暦・新暦 対比

事項    旧暦     新暦 
政宗公生誕   永禄10年8月3日・・・・・1567年9月5日

関ヶ原戦い   慶長5年9月15日・・・・・・1600年10月21日
白石城攻め   慶長5年7月25日・・・・・・1600年9月2日

仙臺城縄張   慶長5年12月24日・・・・・・1601年1月28日

冬の陣      慶長19年10月1日・・・・・・1614年11月2日
夏の陣      慶長20年4月6日・・・・・・・1615年5月3日

家康死去    元和元年4月17日・・・・・・・1616年6月1日

参勤出発    寛永13年4月20日・・・・・・・1636年5月24日

死去       寛永13年5月24日・・・・・・・1636年6月27日

葬儀       寛永13年6月23日・・・・・・・1636年7月25日


付録
田村家江戸屋敷にて浅野殿切腹
          元禄14年3月14日・・・・・・・1701年4月21日
浅野家旧臣 吉良屋敷 攻撃
          元禄15年12月14日・・・・・・1702年1月30日


新暦を押さえれば 季節感を理解出来る。

例えば 葬儀(寛永13年6月23日)は  7月25日であり、
冶家記録「暁雨少降 夜明けより晴 段々快晴 炎蒸甚
は、梅雨あけの天候 そのもの。   



6 月 10 日 (月)  



月曜日

期待した小学生の遠足 皆無でした。

13日は、山形県は 村山に 庄内からの小学生がグループ学習で 三々 バラバラ 訪れる故 宜しく と連絡が入っています。
当日 他に用事の無ければ ガイド出来ないか 仲間に 呼びかけています。

本日の特異なお客様

○ 東京からの50代夫婦?。
   女性は聞いていますが、男性は フンフン。波長が合いません。
   男性 最期のセリフ 「これ 鉄筋コクリートだね」
   「わかりますか 建築業?」
   「そうだ」
   
   波長合わない原因
   伊達家・政宗公に 知識も興味もない。
   国宝ではない、模造品だの意識が 走った。


○ 関西からの60代女性
  ガイド依頼の御客様 「兵庫県○○からです」
  アカトンボ ガイドを始めており 、聞く態勢にあり 迷惑をアリアリとしているのに  ○○のどこか?・・・・・・・と話しかける60代女性。

  瑞鳳殿でガイドを聞く これが霧散したらしいです。なにか病気でしょうか?


支援者付かない 高齢者の集団が登ってきました。
足腰の利く人は 拝殿に達しています。
何人かは 涅槃門で 見上げて 腰を伸ばして 準備体操?しています。
「あいつには 負けられないぞ」の闘争心でしょうか。

「通常の段より10cmは高い 25cmは あります。登りより下りが 足腰に負担がかかります ご注意ください」と一言 かけました。
あかとんぼ 若い時ならば 介錯出来たでしょうが。 


6日4日の甕棺の記事 他の大名家の事例として 南部家の事例がある、史料は後日に。と  渡部学芸員から教示がありました。
楽しみです。



6 月 9 日 (日)  



正法寺

伊達領水澤 曹洞宗 大梅拈華山 圓通 正法寺 を参拝して参りました。

そもそもは 貞和4(1348)年 開創され 曹洞宗本山の格式を有し、禅宗七堂伽藍を有していたが 寛政11(1799)焼失。

本堂は、国指定重要文化財。日本一の茅葺屋根 間口21間半(29.6m) 奥行12間半(21m) 高 92尺(26m)

文化8(18119年 伊達家により再建された。
更に 75石の寺領と家紋(三引両・竹雀・九曜)の使用が許された。

住職の説法は、上記を述べ、

仙臺伊達家の庇護のお蔭で 今日があります。
伊達家18代御当主様 既に 2回お詣りに見えています。
本堂・開山堂をお詣りされ、庫裡を含め 公開されている像・画等 一切撮影自由です。

有難い説法です。

堂内は暗く 個人のカメラでは フラッシュ届きません。撮影はかなり至難です。全て悟られての説法です。

涅槃図(3×2間代) 鳳凰襖画(通常襖8枚相当) 扁額・瑞鳳閣 (1×0.5間相当)を 修行僧立会いで撮影しました。
本日 最高のお土産です。

此処まで 格段の配慮を頂きましたが、10月16日のみ御開帳される 如意輪観観音菩薩坐像は 直々お詣り出来ませんでした。


氏名不詳 顔なじみ X氏から

伊達家の宗派は 何ですか?
政宗公・忠宗公・綱宗公の時代は 臨済宗妙心寺派ですよネ
なぜ 曹洞宗の本 正法寺の再興 かく多大の支援をされたのですかね?


二代夫人(振姫) 3代側室(三澤初子)は 日蓮宗身延山派、綱村公から黄檗宗です。
信仰の自由と申しましょうか、あまり 宗派に拘りが無いようです。
曹洞宗も、臨済宗も 同じ禅宗と捉えて 支援されているのでは 
と答えました。
正解は?



6 月 8 日 (土)  



史料ないもの 受け入れるか?

「四ツ谷の水を街並に!市民の会」の総会に出席。

活動計画に
博物館の「仙台城下年表」に「四ツ谷の用水」着工年の追記を申し入れる。とあった。

政宗公が川村孫兵衛重吉に工事を命じ、養子元吉と施工したが、工事の起工・完成の年 不詳が一般論である。
(参照 仙台市史近世2.166頁)

寛永4(1627)年から6(1629)年の間 工事が施工されたは、
「延宝五年御知行被下置御牒」宇津志惣兵衛の条
・・・・・寛永四年四ッ屋御堰堀御取立ニ付、惣兵衛御普請奉行被仰付、同六年ニ出来之上・・・・・(1937年刊仙臺叢書 仙台藩家臣禄)と記載されている。

四ツ谷用水 調査・研究の第一人者佐藤昭典氏の 数々の著作にも これ以上の事は記載されていない。



博物館に着工年に追記を申入れ とは、 確かな史料を発見したから故と理解した。
しかし なぜ 公開されないのか?
宇津志惣兵衛の末裔で先祖の業績を研究している宇津志○○氏も 首を傾げている。


質問しました。

確かな史料を発見されたのですか?
なぜ その旨が 公開されないのですか?
四ツ谷用水 と言う 物証はあります。しかし、文書等で証明できる史料が 無い限り 受付けないと思いますが、如何でしょうか?


執行部 モジモジ。


ここで、仰天発言。現役年代 男性

博物館に なんでも知っている カンノさんと申し方います。カンソさんに相談すれば 大丈夫です。

一同 ハッ ハッ


来年の活動報告を期待します。



6 月 7 日 (金)  



溜まる

溜まらないのは お金
溜めるつもりがないが 溜まるのは ゴミ

整理に追われるのが 資料
山になるのが 本に雑誌

とりあえず 今 山になっている本

1.旧暦はくらしの羅針盤  小林弦彦 著 2002刊
2.白虎隊士飯沼貞吉の回生  飯沼一元 著 2013.3.刊
3.慶喜のカリスマ   野口武彦 著 2013.4.刊
4.東京スリバチ地形散歩  皆川典久 著 2012.2.刊
5.仙台と黄檗を繋ぐもの 尾暮まゆみ 著 2013.4.刊

山にした目的(ワケ)
1について、
 再現された仙台城門松に関連し 丸森・大内邑で 自然との生活 農作業は旧暦が一致していると教えた頂きました。
 吉良邸討ち入り時の降雪、政宗公最後の参勤時の杜鵑の初鳴き 現季節とのズレを マスコミは異常気象と申すが?
 この辺を .旧暦を衣類販売促進に活用したと 語る著者の見方は?

2について
 先般 長州からの御客様 我が一族が飯沼貞吉を 長州で保護したと語りました。
 また、北山輪王寺に 御墓があります。
 直系の孫である 著者が 数奇な人生を歩まれた飯沼貞吉を如何に 整理されたか?
 約500頁 読み切れていません。

3.について
 徳川幕府が崩壊した原因は数あれど、慶喜は国の最高責任者として 統率力等があったのか?
 以前から疑問であり 標題を カリスマ とするからに 著者は解明してくれろだろう?
 前と後 から 中抜きですが 約500頁 読み切れていません。

4.について
 著者はスリバチ学会会長 東京の地形凹凸から分析、某出版社で講座を開設。
 現在 ゼネコン仙台支店勤務 兼 東北大学特任教授とか。
 四ツ谷用水が巡る仙台の地形を 「四ツ谷の水を街並に市民の会」総会後 講演するとのこと。
 予習として。 

5.について
 6月20日大年寺と大念寺山所在 伊達家廟所(無尽灯廟・寶華林廟)で 伊達家歴代公の法要があります。
 著者の福島美術館学芸員 尾暮まゆみ氏 現地踏査の東北工大名誉教授松山正将氏と 会います。
 24日は某団体の 現地踏査会があります。
 大年寺と大念寺山に関わります事 簡潔にまとめています。
 その日迄 完読します。質問するつもりです。


あかとんぼ家の書庫 狭いので 仙台市の書庫を活用しています。
何冊かは仙台市の書庫所蔵の書籍です。
格納期限があります。追われます。 



6 月 6 日 (木)  



政宗公ご遺骨の向き

瑞鳳殿が発掘調査の際、ご遺体は東向き 太平洋を向いていたと 報告されています。
再埋葬に際 同様に 東向きなのか?

なぜ かかる疑問を生じたのか?
医師団が ご遺骨になったご遺体を レントゲン写真等 調査・検査した後、牡蠣灰等を用いて 従前と同じく 立体的に納棺したの記述に接していないからです。

御霊屋自体 焼失前と同様であっても 同じではありません。
再建当時 時代の風潮として 細かく 拘らない 90%で 容認された とも聞いております故です。
で あれば ご遺骨も 同様では の疑念です。

ご遺体は東向きは、目的が成就しなかった慶長遣欧使節に結ばれて 語られています。


慶長遣欧使節派遣から400年目 秋には記念式典が計画されています。
日本・スペイン交流400周年 です。


○○新聞が 「政宗の夢から始まった」の表題で半ページの記事を本日 掲載しました。

支倉常長家13代当主から
● 新聞を読んでくれ
● 半月ばかり 3世代で スペインを訪れる。留守を頼む
● 支倉常長ツアーを計画しているボラガイドA氏を存知か

の電話がありました。

13代当主を何度か 瑞鳳殿本殿まで 案内していますが、ご遺体は東向き には興味を示しませんでした。


さて、乗る飛行機は サン・フアン・バウテイスタ号の如く 太平洋側から 東に向いて飛ぶのでしょう。

扱い旅行社はいずれか? 西班牙國 空港に置き去りされる事無く 恙なく 帰国されますように。



6 月 5 日 (水)  



本日も 青葉茂れる瑞鳳殿 です。

天から滴る青葉に、黄金・極彩色が煌めいています。
足を 踏み入れた 御客様 目の利く人、素養豊かな人は 一様に 素晴らしい と感激するでしょう。
口には出した方 未だいませんが 内心 「ここは極楽では」と思われた思います。

今 最高に美しいです。 緑が旬です。

今度の土・日 所要でガイドできません。本日 土の代替です。
昨日 御客様 ワンサカとお出でになり S嬢 大忙しの状態でした。
本日 爺様ガイドです。御客様は現金です。・・・・・・

ガイド2組半

1組目
 9時。相模國からの親娘。
 時間はたっぷり丁寧にガイドをしての注文。
 B6版ノートを開きました。刻々 記録されます。記録容易なように ゆっくり 2度語りしました。 
 
 政宗公についての知識十分な方です。
 瑞鳳殿の焼失以前のスケッチと平面図 普段は披露していませんが 披露し説明しました。
 10時30分
 資料館見学後 ガイドして居なければ 感仙殿地区をガイドするを約しました。

 2組目ガイド中 資料館から出てきてサイン。話中 同行を断念。

 昨日の 綱宗公法要の栞「甕棺」 券売口で 貰わなかったとの事。
 2組目終わり 感仙殿地区に 持参しましたが 既に下山されたか 姿は見えませんでした。

 時移り 12時前後 あかとんぼ 博物館に移動しました。
 娘さん 三の丸子の門付近 母親 時の彫刻付近と 20-30mと離れて歩いています。
 我がウマを繋ぎ 急ぎ追いかけ 娘さんに 綱宗公法要の栞「甕棺」を上げました。

 時移り 14時45分頃 博物館内で娘さんとバッタリ。「母は疲れて 先に帰りました」
 3時間近く 企画展・常設展を見られてのです。疲れます。

 朝 ガイドした 政宗公画像、鎧、「入りそめて」和歌の軸、発掘された太刀・ペダント等 ご覧になったでしょう。
 公画像の「馬上少年過」の20文字 一生の総括 を知ったいました故 現物に感激されたのでは。
 感想 聞きたかった です。

 御客様と 時移り 所変え 日に3度 お会いするとは 驚き。


2組目
 泉州堺からの親娘。
 泉州堺からとの事で。
 仙台城 北壁17m高の石垣 作られたのは 泉州堺から石匠衆。
 足元の石段も作られたかも。

 仙台に残られた石匠衆の末裔 現在も石屋さんをされています。
 仙台名物?に雀おどり 真偽の程は別として 泉州堺から石匠衆の柔軟体操に由来するとも言われています。
 毎年 泉州堺の雀おどり連が来仙 演舞の前後 瑞鳳殿参拝に見えます。

 堺の幼稚園では 雀おどり が正課となっています。
 昨日 瑞巖寺をお詣りしました。
 木材 紀州から 筏を組み 運ばれたと知りました。
 私(母親) 和歌山の生まれです。400年前 我家の山の木が 松島に来ていたのです。

 息子が東北大学で 追廻に下宿しました。とっても親切にしてくれました。
 追廻は 原っぱになっていました。
 地震後 お見舞いに 消息を尋ねましたが わかりませんでした。

 妹夫婦 10年前 転勤で 数年仙台で過ごしました。

 話は 400年前 50年前 10年前と 歴史的から私的な 御縁まで 延々と続きます。
 最期 本殿前で3人 カメラに納まり チョン。


半組目
 越後の両親と娘。
 帰りかけていた所 涅槃門前で 撮影ポイント 紹介したら、上杉謙信を語られだしました。
 お話 聞きたい所ですが、私もガイドです。語りたい所ですが 予定がありませますので と勘弁して頂きました。


本日 ガイド半分 傾聴ボランテイア 半分でした。
御客様が それで 瑞鳳殿を楽しまれ 喜んで 頂いたで 満足です。


小学生の遠足 何組か。
会津若松 城北小学校からも。
弔魂碑 説明したかったが 叶いませんでした。



6 月 4 日 (火)  



風かおる 今日

綱宗公303遠年忌法要

10時
綱宗公御霊屋 善應殿 に 関係者 20余人参列 催されました。

読経
 善應寺  (下記に御縁を記載)
 瑞鳳寺  
  2ケ寺 3僧侶

焼香
 仙臺伊達家十八当主       伊達 泰宗 様
 殉死者後裔会会長         加藤 孝  様
 仙台藩志会会長          伊達 洋司 様
 大年寺会会長            阿部 和子 様
 公益財団法人瑞鳳殿常務理事 大崎 啓  様

挨拶
 仙臺伊達家十八当主       伊達 泰宗 様
 仙台藩志会会長          伊達 洋司 様
 公益財団法人瑞鳳殿常務理事 大崎 啓  様


仙台藩志会会長伊達 洋司 挨拶全文

皆様こんにちは
緑深いここ経ケ峯の霊屋、善應殿に眠られる仙台藩三代藩主伊達綱宗公の303回遠忌法要に際し、一言ご挨拶を申し上げます。
綱宗公は寛永17年(1640年)2代藩主忠宗公の6男として仙台城にお生まれになられました。元服に際し、将軍家綱公から一字を授けられ、19歳で第三代藩主なられました。
藩政に意欲的でありましたが、理由(わけ)あって、僅か3年、21歳で隠居させられました。この事は、どんなにか残念であられたことかとお察し申し上げます。
隠居後は、和歌、能楽、書画、彫刻などの他、本郷國包(ホンゴウクニカン)から作刀を学ぶなど、幅広い分野で才能を発揮、多くの素晴らしい作品を残され、正徳元年(1711年)72歳で亡くななられました。
公は特に、文化面において、今日の仙台および宮城県の発展に寄与されました。
私共は ここに三代様のご威徳を偲び、ご冥福をお祈りし、私のご挨拶と致します。
平成25年6月4日 仙台藩志会会長 伊達 洋司 


法要記念品の 栞

綱宗公が埋葬されていた大甕

表紙に 大甕の写真 補記として  「あぐら」をかくような姿で埋葬されていた。寸法は、 高さ約80cm,胴最大径 約80cm,口径約63cm 。

2-4頁に
●埋葬方法が政宗公や忠宗公と異なる綱宗公の墓室
●甕の生産地?
●甕の下部には文字が
の記事が写真と共に記載されております。

ガイドの際 興味を示す方にのみ語る 埋葬秘話が記載されています。


この栞を作成した 渡部学芸員との会話。

渡部学芸員
伊達家以外でも 甕棺の事例があった。

あかとんぼ
1.綱宗公はなぜ 甕棺にいれられたか?
2.伊達家領内産物 地産地消の発想は?
3.江戸で甕棺の事例はあるのか?
4.地産「堤焼」は、いつから生産され 主な用途は?
5.領内・家臣に 甕棺の事例があるか?
の疑問を生じ 調べました。
5について幕末近くの事例が 青葉区北根で発見されています。

近日 学芸員に僭越と思いましたが互いの資料の交換を約しました。


大手マスコミの取材はありませんでした。政宗公以外は モノノ数ではないのでしょうか?
1社 (株)JTBコミニケーションのみです。
記事が facebook(仙台観光コンベション協会)に掲載されるか。
4月28日の特別ガイド(経ケ峯一円)は 掲載されました。なお、現在は 削除されています。  


善應寺
燕澤字西山にあり。臨済宗。妙心寺派に属す。大雄山聖徳善應寺と号する。
元禄2年(1689)伊達綱宗、父綱村の為に新寺を開基建立して甘常山聖徳寺と称す。
正徳元年(1711年)綱宗(雄山)死去の後、品川邸の殿舎一宇を施入して佛殿・庫裡を造営し、大雄山善應寺と改めて香華院とした。
仙臺市史7  400頁による。



6 月 3 日 (月)  



新聞から

1.第20回支倉常長まつりが川崎国営みちのく杜の湖畔公園で2日に開催され 200人が参加した と記事。
 使節団の幟に続く一行の服装 時代考証されているのだろうか?
 なんか仮装行列の感。

 背板紫地五色乱星陣羽織の御婦人2人は 仙台藩志会?
 何故か、支倉常長13代当主は 写真に写っていない。主役でないのか?

2伊達家発祥の地 常陸國真壁郡伊佐庄(栃木県真岡市)から 伊達家2代宗村が植えた 樹齢800年のカヤの木の子供の木を見るに団体で.5月27日、訪れたの記事。

 当然、瑞鳳殿を参拝されたと推測します。
 通り一遍でない詳細なガイドが出来る瑞鳳殿ガイドの会会員で仙台藩志会会員が4人もいるのに 仙台藩志会幹部からも お声が無かったは、なぜな?

3.建勳(たけいさお)神社(祭神 織田信長)では、2日 信長の追悼しながら商売繁盛・健康を祈願する信長公祭に50人参列した。
 神社創建は1870年で、祭りは3回目 と記事。

 天童市民は 正直です。追悼しながら商売繁盛・健康を祈願
 青葉神社祭典では 参拝者は なにを 祈願しているでしょうか?

 本能寺の変は、天正10年6月2日(新暦 1582年7月1日)
 



6 月 2 日 (日)  



最高気温10度台

仙台市内の御客様 相い続く。何れも 3.11震災での被災者夫妻。

1組目 中心部に1戸建てであったが倒壊し 現在 仮設住宅。
いつまでもメソメソして居られない。歴史に学び 政宗公を参考に 前進したい。その転機にしたく参拝に来た。
時間はある 全てを 教えてくれ。

それなりに勉強されており、色々ご質問を頂きながらガイド。
結果 90分要しました。仲間は2-3回転しています。
アカトンボさん 随分 丁寧でしたネ。

資料館見学後 感仙殿地区 ご案内する約束しましたが、「寒くて また 出直しします」とソソクサと帰られました。

確かに 寒いです。
昨日 1昨日に比較し 冬 3月末に戻った感じ。仲間 皮ジャンバー 防寒衣 着ています。


2組目 若林区の方 防寒衣 着ています。
1組目の方と同じ事 歴史に学び 前進したい。

自分達は被害軽微であった。
生家は 全て流された。しかし 人的被害は無かった。
チリ地震津波は 直前で停止した。その体験者がおり 地震の強さから 危ないと直感し 邑人一致協力  高齢者・寝たきり者を軽トラ等で 運び 家屋・財産は全て流されたが 邑人全員 命は 助かった。
1時 邑人30人以上が 我が家に避難してきました。

この二人 邑の長(オサ)の系統でしょうか?
快活です。

涅槃門からの灯篭で、
片倉重長寄進のものです。位置は動いています。人事異動でしょうか?

御夫人 ここで人事異動の言葉 おもしろい とケタケタ 笑 止まりません。
御主人 灯篭は10基あったの?

はいそうですが。わかります。
トウロウは トウ(10)でしょう。


拝殿扁額 珊瑚と真珠が用いられています。に、

「男の大厄42歳 女の大厄35歳 サンゴ歳です。夫は 赤珊瑚の大きい○○を護身としてプレゼントしてくれました」と ニコニコ。
結果ガイド 60分要しました。


最期の御客様は東京の御夫妻。
奥様が 代表で質問されます。

涅槃門から 阿吽になっているもの 説明して来ました。
最期に 阿吽 どっちが 雄か?の質問。

「お宅では おしゃべり されるのは どちらですか?」
「はい 私です。主人は聞いているだけ」

「おしゃべりするには 口が開きます。昔 男は黙って・・・・のCMがありました。おわかりになったでしょうか」
奥様は 隣をウットリ見上げていました。


鶺鴒の花押
秀吉に政宗公が謀反の疑いで 詢問された際、「我が文書 真物は 花押の鶺鴒の目に針穴がある」と答弁 疑いを晴らしたと言う 有名な話があります。

仙台市博物館発表では 「所蔵されている政宗公文書 花押の鶺鴒の目に針穴があるものはない。針穴は話である」 とされています。

鶺鴒 が 待機ベンチに 来鳥しました。

瑞鳥 でしょうか?



6 月 1 日 (土)  



緑 みどり

参拝者多数です。

ガイドした御客様に 京都からのお嬢さん 2人。

京都は1000年の古都。社寺仏閣 数あり 桃山様式もあり 珍しく無いでしょう。
ここは、日光以北 最大の桃山様式の建造物です。

ハー。
京都は 古い社寺仏閣はありますが、東本願寺始め 諸寺等 シートで覆われ 新しくなってきています。
この様な煌びやかな建造物は もう 京都にはありません。


お嬢さんたち、臨済宗妙心寺に 高台院 お詣りされていました。

伊達家の菩提寺は 松島・瑞巖寺で、臨済宗妙心寺派です。
涅槃門の透かし彫は、高台院の透かし彫と 日本で1.2と言われた?
と伝えました。

帰京されたら 妙心寺に 高台院を再訪されるのでは?

今 珍しい フイルムのカメラで撮影されていました。
京都の人は 保守的? と思いましたが、 服装・化粧 時の先端でした。
 


茨城は筑波市からのお嬢さん。

ご近所の筑西市(下館)は 伊達家発祥の地。
龍ケ崎市は、伊達家10000石の領地で陣屋がありました。
龍ケ崎市の地名の由来御存じですか。
昨年 大竜巻で 筑波市も被害あった様ですが ・・・

茨城は 仙台 伊達家と 意外なご縁があるのね と筑波のお嬢さんの感想でした。





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