2013年10月の日誌
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10 月 31 日 (木)  



仙台市観光ボレンテイアガイドネットワーク研修会

主催 仙台市
会場 仙台市博物館
日時 10月31日10時

次第

司会 仙台観光lコンベション協会 阿部瞳 主事
挨拶 仙台市観光交流課      小山裕行主幹
講演

1.「お客様を楽しませるコミニケーションについて」
   るーぷる仙台 菊池光男
2.「支倉常長と慶長遣欧使節400周年について」
   博物館学芸員 佐々木徹

 るーぷる仙台菊池光男氏の話は 参考 共感する所があった。

1.テープでの 他国語案内が基本である。自分は例外である。
2.自称 ボラガイドで テープと同時に 大声がガイドする人がいる。大迷惑である。
3.お客の反応如何でガイド内容が変わる(反応が良ければ 内容豊富に)。
4.内容は、自分で取材したもの。


瑞鳳殿ガイドの会 仲間10人 出席しました。



10 月 30 日 (水)  



BS朝日「にほん風景物語」
毎週火曜日 21:00〜21:54迄 放映しています。

昨晩は、「鎌倉こころの旅〜夏目漱石が愛した風景」でした。

KHB(仙台取材・系列局)から、「30日 瑞鳳殿をガイドして欲しい」との電話。
予定が入っていません。頼まれるウチが華です。応諾しました。


21日 担当デレクターから 詳細説明を。

BS朝日「にほん風景物語」です。
直木賞作家 山本一力先生を 瑞鳳殿で政宗公の魅力を語って欲しい。

番組の趣旨は、WEBで 次の様に伝えています。

BS朝日とテレビ朝日系列局+クロスネット局(全25局)の共同制作で大きな実績をあげた「にほん風景遺産」と同じスキームによる新しい旅番組。

1編の小説、1本の映画、1曲の歌をきっかけに、全国各地の名作の舞台で、案内人となる3人の作家・山本一力、高橋源一郎、島田雅彦がさまざまな思いに身をはせる。

何度も何度も擦り切れるまで読んだ小説を片手に、主人公の目で風景を眺め、何かを再発見する―。若き日に夢中になった映画の舞台として登場する風景を巡れば、主人公のセリフが口をつく。誰と見たのか、あの頃の思い出と重なる…。

今も口ずさむ名歌の舞台を訪ね、歌の心に触れるなど、名作から得られる感情をヒントに全国各地の美しい風景を紹介しながら、地元を知り尽くしたテレビ朝日系列各局の取材力・情報網を存分に生かした深みのある紀行番組をお届けする。

しかし、この番組はただ名作の舞台を訪ねて紹介するだけではない。あくまでも旅の楽しみは絶景、歴史、温泉、旬の味覚、土地の酒、そして人々との出会い。

さらに、これらを作りあげてきたその土地の風土を感じ、有名観光地を訪れる旅行とは一味違う、心に残る大人の旅をお贈りする。


で、山岡荘八著 伊達政宗 を読まれた直木賞作家 山本一力先生に、政宗公の魅力を瑞鳳殿で語って欲しい。 

内心ビビリました。

山本一力先生の小説は 読んではいますが、
WEBで、人物・受賞歴・著書を確認
あかとんぼ書庫に駆けつけ、直木賞作品「あかね雲」と山岡荘八著 「伊達政宗」 を受出し、早読み。
手持資料を編成替。


本30日。 
仙台城を 下から上まで 丹念に歩き・・・疲れた と40分遅れで到着。 


戦災で焼失、旧伊達領と関係者のご寄附 8億円で再建したもの。
涅槃門は、青森ヒバ等で 伝統工法で 再建した。
10枚の彫刻は、見る位置で異なる透かし彫です。
なぜ この石段の段差は高いか。
左右の石燈籠は 片倉小十郎重長が寄進したもの。他も同様 重臣の寄進。

1637製 龍頭 

本殿正面彫刻
本殿内部 政宗公坐像を手持資料で。
寶筐印塔 最若年 22歳(満年齢20歳9ケ月)

3.11災被災写真 (石段・寶筐印塔)
写真 (紅葉 伝統七夕)
と。

満海上人供養碑・臥龍梅は デレクターから カットのサイン。 

山本一力先生は、
1637製 龍頭 真物であるに 何かを感じた様子。
再建された建物には 霊感を感じないが、
しかし、8億円の寄付が集まった。1637年は 伊達家(官)の直営である。今回は旧伊達領民の浄財である。
それだけ 政宗公が魅力ある人物である証。

と申しておりました。

11月26日 BS朝日「にほん風景物語」を ご覧ください。
仙臺城址・瑞鳳殿 に 政宗公の魅力 が どのように 表現されていましか。



10 月 28 日 (月)  



昨日の続き

1.河北新報に昨日の館山城址発掘現地説明会の記事が写真入りで掲載されています。
 昨日の今日で 時日を置かずに 掲載するとは 驚き。

 ある方から電話。「また行きましたネ 大きく写っていますネ」
 拡大鏡で わかる人が分かる程度 ゴマ粒です。

 記事内容は、昨日のアカトンボが詳細です。

2.昨日 午前 U車長(誤字ではありません)に案内頂き 次の二社を参拝しました。

 @熊野大社 東北の伊勢・日本三熊野 
   南陽市宮内に鎮座。
   山形県最古の茅葺屋根建築。
   伊勢神宮直伝太太神楽

   自分の不勉強を棚に上げ 「かくも田舎に かくも由緒ある神社あるのか」 と驚嘆し 参拝しました。

 A成島八幡宮
   伊達家の氏神様であった成島八幡宮は、政宗公と共に 岩出山に遷宮 大ア八幡宮と合祀 仙臺に遷宮し現在に至る。
   10月21日 団体参拝した際 宮司は、斯様に説明されました。

   米沢市成島に鎮座。
   立派な社が 小高い丘の 森の中に。
   祭神は、譽田別尊(ホンダワケニミコ)15応神天皇 と掲記されていました。

   「天正19(1591)年 政宗公と共に 岩出山に遷宮されたのであれば、以来 祭神は不在ではないか」と 
   偶々 一緒に参拝された方から問われました。
   正解は なんと答えるのでしょうか?


3.戊辰の役 先人

 10月13日東北史学会2013年度大会・日本近世近代部会報告
 「嘉永期における仙台藩大身給人・中嶋恒康の軍事的素養」 
 発表 明治大学 竹ケ原 康祐 氏
 発表資料 と 
 「戊辰戦争 維新と仙台藩の先人」 木村紀夫著 
 を クロネコ便で 木村紀夫様から ご恵送頂きました。

 一読 大変貴重な資料です。熟読させて頂きます。
 木村様 ご多用の中 ご配慮 ありがとうございます。


4.狼煙

 伊具3城を巡った際、地元の方々 @小斎・物見櫓 A矢野目館址 B金山城址 C丸山城址で 狼煙を上げる と申しておりました。
 26日 実行されたそうです。地元精通者から 速報頂きました。

 結果は、 http://www.marumori.jp/  まるもり 水とみどりの百貨店 からご覧ください。
 当日は 台風余波 の日でした。残念でした。



10 月 27 日 (日)  



館山城

「伊達政宗生誕の地」 直径30cnの太い標柱が、館山城址入口に立っています。
米沢市大字日田沢字長峯 です。

米沢市内に 2ケ所目。
今 1ケ所は 米澤城址入口です。

どちらが 正しいか?
永禄10(1567)年8月3日 米澤城で生れた と記録されています。

米沢市は、2010年から館山城址の発掘調査を継続しており、政宗公との関連を懸命に求めています。
今年の発掘調査結果の現地説明会が開かれました。

2段の打込ハギ工法め石垣が発掘・発見された。

天正15-18(1587-90)年間の治家記録に 政宗公が館山城の地割(再普請)を行った の記録がある。

併せて、出土遺物として、伊達家特有の内耳土鍋等50点近くが発掘された。何れも16世紀のものと考える。

と 公開・説明されました。

米澤城と館山城との関連、
どちらを本拠としていたのか?
館山城の性格・目的は なんであったのか?
岩出山に 転封時 時間と経費を投じて 廃城にして理由はなにか?

質問しましたが 確たる回答は頂けませんでした。

現在の仙臺城址に惑わされているのか、政宗軍団としては 規模が小さいと感じます。

Uさんは、今後の課題 成果の発表、歴史・観光資産としての活用計画を 質問されました。


今年で3年連続 現地説明会に通いました。
毎年 雨です。
ゴム長・合羽・杖・軍手を持参しました。正解でした。ドロドロです。

瑞鳳殿ガイドの会から Uさん Kさんと3人が。
仙台・福島から 多数参加と 挨拶するのに 受付記録とりません。おおらかです。

明日に続く。






10 月 26 日 (土)  



講演会

仙台市博物館市史編さん室学芸員 栗原伸一郎先生の
「幕末期の仙台藩と戊辰戦争 京都の判断・仙臺の判断」」
と題する講演が、仙台藩志会主催で 開催されました。

京都の判断・仙臺の判断 の副題がつきました。
是までの講演会では、語られない見方・切り方です。

1.幕末という時代
 ○ 幕末仙台藩の描かれ方
 ○ 幕末動乱の要因
 ○ 京都政局

2.仙台藩の立場
 ○ 大藩の仙台藩
 ○ 仙台藩の財政・軍事・人事
 ○ 政局の混乱と仙台藩
 ○ 政局から距離をとる仙台藩

3.激動する京都政局
 ○ 大政奉還
 ○ 王政復古政変
 ○ 戊辰戦争の始まり
 ○ 新政府と朝敵

4.仙台藩の会津救済
 ○ 仙台藩の対応
 ○ 会津藩の対応
 ○ 仙台藩と会津藩の同盟

5.京都での政治工作
 ○ 仙台藩斡旋方の構想
 ○ 対会津戦争をめぐる政府内の考え

6.奥羽戊辰戦争
 ○ 仙台藩論の転換
 ○ 奥羽列藩同盟の形成
 ○ 仙台藩の作戦計画
 ○ 両軍激突
 ○ 幻の東西呼応計画
 ○ 仙台藩の降伏

まとめ
 1.仙台藩は、敗戦によって多数の藩士が処分され、当時の行動・主張が不明確。
 2.明治維新を多角的に捉える為に、仙台藩など敗者の歴史を掘り起こすが重要。


懇親会

なぜか 参加者が少ない。講師に申し訳ない。
殉難者の末裔が 講座に参加していました。懇親会で 遺族の思いを発言されたら良いのに。


あかとんぼ の発言
1.今回 京都と仙台と 区分し説明頂き 当時の政局 流動性ある時期において 時差が 敗因ではありませんか。
2.京都と仙台間の移動時間はどの位でしたでしょうか。参勤交代は8泊9日ですから その2倍 最低20日と見てよろしいでしょうか?
3.「慶邦公は平時の殿様ならば」の評を聞いた事あります。政宗公の決断力・統率力を慶邦公が発揮すれば、局面は変わったと思うが?
4.「乱」 「役」 「事変」 「戦争」 の表現の定義は ありますか? 「戊辰の役」が「戊辰戦争」に変化した理由は 何でしょうか?
5.大崎八幡宮から 発刊される「幕末仙台藩の群像」は いつ頃になりますか?



10 月 24 日 (木)  



誤り

本HP 紙にメモをしないで 構想・筋立をし 書き込みしながら 全体をまとめています。
書き出しと 結末と 矛盾するハメになります。修正をします。

途中 誤字・転換誤りを起して 気がつかない事があります。不覚です。

Uさんは 即刻 電話・メールで 御指摘下さいます。
誠に 有難いです。

て・に・を・は 迄は、当然 ご指摘頂けません。
一睡後に 読み直し 修正しています。

でも 文章として 粗雑 の域に留まっている事は自覚しております。



「新聞社 作家は、誤字は無い筈だが」と ある郷土史家の言。

河北新報掲載 マンガ「独眼龍政宗」千葉真子作。
政宗公初陣の地として 伊具三城(丸山・金山・小斎)を題材に描いてくれ 訪れる方々が激増した。有難い。

伊達家の大事件 天の乱(家臣を巻き込んだ 14世稙宗公と15世晴宗との親子争い)を 天の乱 と記載している。
元号を基に 名づけられているのに 勝手に変更されては 戸惑う。新聞社は間違わない筈なので。


正しい地名は

天正4(1576)年15世晴宗と16世輝宗が陣を置いて 小斎城を攻撃 泥濘に嵌まり 大敗北した戦い この本陣が 矢ノ目館
天正9(1581)年 政宗公15歳 初陣の地。

現在 矢野目 矢の目  矢ノ目 と表記が 資料・史料・看板・パンフ に3通りある。何れが正しいのか?


以上の話しが 19日 伊具三城探索の際 案内してくれた郷土史家が語られました。
本HP記載に際し 参考になる 言でした。






10 月 23 日 (水)  



戊辰の役

26日14時から仙台藩志会主催で 仙台市博物館市史編さん室学芸員栗原伸一郎先生の「幕末期の仙台藩と戊辰戦争」と題する講演が、仙台復興記念館で開催されます。

最近では、
2012年10月 仙台明治青年大学・郷土史を学ぶ会で、「幕末期の仙台藩と戊辰戦争」
2013年8月  大和町教育委員会 まほろぼ大学で、「幕末の動乱と仙台藩の人々」
2014年7月  郷土を愛する歴史の会で、「奥羽戊辰戦争への道」
と題し 講演されています。

仙台市史 近代1 第1章仙台藩の明治維新の執筆者に名前はありませんが、是までの講演を聞いた限りでは関与されていると推定しています。
若手研究家のNO1であると思います。

10月10日の戊辰の役145年慰霊祭の以前に、栗原先生の講演会を開催すべきと 仙台藩志会に進言したところ、講演・講師は採用なりましたが、季節要因で慰霊祭以後の 26日14時からとなりました。
50%の満足でしょうか。


先生は、大崎八幡宮刊行(仙台・江戸学叢書)で 「幕末仙台藩の群像」 を発刊されたと聞き及び、講演の前に読みたいと 大崎八幡宮に雨の中 駆付けました。
未刊でした。
神様は 嘘をつきません。発刊された は年寄りの聞き違いでした。




「真田幸村子孫の仙台戊辰史 真田嘉平太の生涯」

10月11日日誌に 標題の本が刊行されます と記載しました。


また、
「真田嘉平太」なる名前 初めて聞きました。当然 生涯も存じません。
仙臺藩戊辰の役殉難者50年弔魂祭誌 殉難者名簿には 見当たりません。
と記載しました。


先程、K様から 
「正式には、「真田喜平太(幸歓)」です。」 と ご教示頂きました。

仙臺人名大辞書 を開きました。

仙台真田家始祖守信の十世。
幼にして斎邦公に侍す。
慶邦公の小姓、洋砲指南役、脇番頭、近習目付、若年寄、軍目付、
白川口利あらず兵を収む。
維新後、石巻に転居。和歌を嗜み風月を詠じて優游老を娯しむ。
明治20年10月16日歿す。64歳。石巻西光寺に葬る。

幕末 活躍された方である事が、詳しく記載されています。

40歳そこそこで 隠居されたのか?
幕末の変動(戦いに敗れた虚脱感)で 現世に嫌気を持たれたのか?
回顧録 の様なもの 残されなかったものでしょうか?

このあたりが 小西幸雄氏が詳しく記述されているのか? 刊行が待たれます。

K様 御教示 ありがとうございます。


新聞報道

10日の慰霊祭が 本日河北新報に小さく掲載されました。
宮城県知事が 焼香・参拝されている写真が 後ろから撮影し 何らの解説(有史以来 宮城県知事が初めて)がありません。




10 月 21 日 (月)  



政宗公騎馬像

仙臺城本丸址に政宗公騎馬像があり、仙臺城址観光の最大・由一の目玉です。

仙台藩志会会報「藩報きずな」最新号 巻頭文 が 政宗公騎馬像です。
皆様 真っ先に読まれます。

さる方から、事実誤認される表現 と御指摘を頂きました。
筆者に連絡しましたが。・・・・

では時間経過を

初代騎馬像
1930(昭和5)年       宮城県連合青年団顧問 長門来三 計画。
1934(昭和9)年       寄附46053円 集まる。
1935(昭和10)年5月23日 政宗公没後300年祭に 除幕。
1944(昭和19)年1月22日 出陣 (金属回収)
1945(昭和20)年11月   石川兼吾(南小泉小学校元校長) 塩竈市東北ドック集積所で発見。バラバラながら全部存在。
1946(昭和21)年6月    上半身のみ丁寧に保存されていた。
                  1700円で屑鉄として購入。
                  横山吉平青年団長等 青葉神社に。
1961(昭和36)年10月    仙台市博物館に寄贈。三の丸に安置。現在に至る。

2代騎馬像
1952(昭和37)10月     騎馬像復元話題に、
1954(昭和39)年10月9日 仙台市市政75周年記念事業として復元完成。16,025,019円

平服像
1953(昭和28)年10月9日 白色セメント立像(4.5m) 除幕
1954(昭和39)年9日    岩出山城址に転居。


以上の経過で 特に 1945(昭和20)年11月の発見から 1961(昭和36)年10月三の丸に安置に到る経過が、一括 1961(昭和36)年に括られ記載された事が 御指摘の事項です。
筆者の意図は 依然不明です。


有料ガイド勉強会

大崎八幡宮

参加者は少なかった。ガイドの会から7人。
開催案内には、宮司の講義とあったが 単なる挨拶のみで 説明は 瑞鳳殿ガイドの会会員Aさんで、平成大修理工事概要が主体であった。
当然 期待した 石の間天井画、中の間「にらみ猫」、前後内外の飛天等の説明は聞けなかった。
この様な事 4字熟語で 羊頭狗肉。 

念ずれば通ずる
社殿横で終了の雰囲気。
「本殿裏も案内して」と 小さい声でお願いしました。

付添神主と 目線協議 
壁面は黒、飛天は10人、日本古来の衣姿。
メモカメラで記録。この様なチャンスあるならば 望遠レンズのカメラ持参したのに 残念至極

お土産に
図説國寶大崎八幡宮(2002年発行売値2000円本の要約版)
伊達氏仙台への道 齋藤潤著
絵葉書4枚セット
3.11災支援記録
海苔4枚

を頂きました。有難いことです。





10 月 20 日 (日)  



朝から雨です。

「第6回 瑞鳳殿秋の能楽」は 中止になりました。本日15時からですので、時間的にも 楽天の野球終わってから 拝見可能と計算され方もいましたが。野球は延期に。
ガイドの会の勉強会は 台風で中止。今秋は 雨・中止が多い感じ。

9時20分に為るも お客様 登って来ません。ループルバス 乗客 皆無だったのでしょうか?

資料館で「明治維新と経ケ峯伊達家墓所」展を。

暫時

ハワイからのご夫妻
「2人ですけどガイド出来ます」
「ハイ 1人からガイドします。私の日本語で宜しいですか?」
「OK OK]

40分は ガイドしました。
「20日間の予定で日本を旅行している。沖縄で7日間  ここは 沖縄と共通している所ありますネ」
「ハアー」
「唐獅子とシサー ソックリね。色彩も似ているね」

旅慣れた 旅を楽しむ雰囲気。


盛年男子 バス1台 
拝観券を渡して 「11時40分発車します、ご自由に」 添乗員は消え去りました。

団体の後半組から 「ガイド出来るか」
「バスガイドの言から ガイド時間20分程度ですね。ポイント絞りましょう」

天正18(1590)年に徳川四天王の1人 本多忠勝が10万石を与えられ約11年間領知した大多喜町の有識者の団体です。

本多忠勝 仙臺東照宮随身門(國重要文化財)の 右に在するは 43歳の本多忠勝像です。

質問 中々 的を得た内容 交互にでます。途切れず はずみます。

戊辰の役弔魂碑まで ガイドしました。

「あなたはボランテイアでガイドしているのですか」
「ハイ その通りです。アゴ・アシ・ケガ 全て自己負担です」

呵呵大笑

「私の所 観光地ですが ガイドの成りてが おらなくて・・・・・ 大多喜城に お出でください」

名刺交換しました。
千葉県夷隅郡大他喜町役場の要職にある方でした。さすがです。

HP検索しました。
人口1万人、大多喜城(千葉県立中央博物館大多喜城分館)、養老渓谷がありました。


ガイドの会 臨時役員会 「16日中止の残務整理と今後について」



10 月 19 日 (土)  



兜 前立・・・・・


在所 伊具郡小斎村 御一族 佐藤宮内為信 1000石 拝領地であった 丸森町小斎地区を ガイド仲間 U・A・Bさんと訪れました。

鹿島神社を参拝し、初代佐藤宮内為信 が着用した鎧・兜を拝見しました。

天正19(1591)年 7月 政宗公の佐沼城攻略に参戦、戦死した際に着用していた 鎧 兜だそうです。

鎧は、黒漆塗5枚胴具足で、紫織毘沙門脚当があり
兜は、62間筋兜、裏に永正4(1507)年10月野州久吉の銘あり、金御幣の立物あり。
1986年丸森町有形文化財の指定

以上の様に 資料に記載あり 期待満々。

金色の御幣が燦然と輝いています。
この金色の御幣の記載がある資料と無い資料が 同時に配布されました。

宮司に尋ねましたら、 差し込み式との事。
胴の中央部に弾痕があります。貫通はしておりません。戦死の基ではない様です。

鎧 ピカピカして 綺麗です。少なくとも422年経過した様に見えません。

仙台市博物館で拝見する 政宗公始め歴代公の具足以上に美麗です。

どうしたのでしょう。
宮司曰く「黒漆塗5枚胴具足です。漆 塗り直ししました。草摺は新しくしました。普段は神社宝物蔵で保存しています」と胸を張っていました。
町指定有形文化財の保存方法に この様な方法もあるようです。



御霊屋

「御霊屋を案内する」
御霊屋と聞けば 経ケ峰の伊達家3代、登米の高台院、亘理の伊達成實の御霊屋が頭に浮かびます。


要害 伊具郡金山村 中島虎之介 2000石の 3代目宗信公の御霊屋との事。

金龍山瑞雲寺の裏山 山頂です。急坂・滑ります。ようよう着いた所・・・・・巨大墓石でした。
住職のご説明によると、金泥が塗られ燦然たる光輝を放っていたが、1876年に浮浪者の失火により灰燼に帰した。
5〜6m四方の礎石があり 溝と柱穴があります。透塀の痕跡でしょうか。
確かに 御霊屋があったようです。
裏山が石山なので 簡単に ・巨大墓石が立てられるし、明治以後の再建と住職は説明。形は変われど「御霊屋」の言葉が残った例?

山の中腹には、中島家の廟所があり、全51基の巨大墓石群でした。

瑞鳳殿の戊辰の役弔魂碑の前にある供養灯に刻まれた5人の中に「中嶋信成」があります。
中島家14代です。この方の墓碑もありました。


本日は、「伊具三城 伊達家の歴史を遡る 小斎編」で、まるもりグリーン・ツーリズム推進協議会 主催でした。
5月と2回目 佐藤家 中嶋家 理解が深りました。

見学した先は、上記のほか
小斎城(柴小屋城)
陣場山・物見櫓
八重垣神社
佐藤家屋敷跡
正兵山淡水寺
矢ノ目館址
丸森城址
鳥屋峯神社
鳥屋館址



10 月 17 日 (木)  



前立は輪實(日輪)

「黒漆塗六十三間筋兜 黒漆塗五枚胴具足伊達政宗所用 駒形神社蔵・仙台市博物館提供」の昨日の記事
本は兜が主体の記事でした。

昨晩 早速 肥前様から  下記の御教示を頂きました。

具足については、
「仙台・江戸学叢書/仙台藩の具足」(大崎八幡宮出版)
「特別展/日・月・星―天文への祈りと武将のよそおい―」(仙台市博物館)
に詳しく解説されています。


平成20年(2008年)9−11月に開催された仙台市博物館企画展「最後の戦国武将・伊達政宗」で重文と菅野家拝領と併せて3領が同時
展示されていた。

駒形神社蔵は、
元は涌谷伊達家に伝わった具足らしく、近年になって岩手県奥州市の水沢駒形神社に奉納されたそうです。

日輪の前立も後補と思われます。

以上の通りです。


早速、嘉藤美代子著 仙台・江戸学叢書「仙台藩の具足」 を開きました。
ら 同時に、
しろ・まち講座「仙台藩主の具足 当館所蔵の藩主具足について」 2010年12月18日開催 講師 高橋あけみ学芸員のレジメが出て来ました。

政宗公の具足は
@ 重要文化財 黒漆塗五枚胴具足(当館蔵・伊達家寄贈文化財)
   兜は62間筋兜。兜銘「宗久」
   延宝7(1679)年に岩出山伊達家より献上みられる。
   伊達宗泰が政宗公から寛永6-7(1629-30)年頃拝領したものという。
   政宗公が大阪の陣で着用と伝える。
   文化11(1816)年修理している。

A 黒漆塗五枚胴具足(瑞鳳殿埋納)
   兜は62間筋兜。弦月前立もあった痕跡がある。
   上記@とよく似る。
   胴の草摺は@より1間多く 10間6段さがり。
   調査後埋戻し。

B 黒漆塗五枚胴具足 菅野重成拝領 (当館蔵・菅野家資料)
   兜は32間筋兜。 兜銘「明弥信家」「天文四年乙未十一月日」
   上記@Aとよく似る。
   やや胴が丸みを帯びてている。(弦月前立は附属せず)

C  黒漆塗五枚胴具足 伝 伊達政宗所用 (駒形神社蔵)
   兜は62間筋兜。兜銘「明弥信家」「天文二十三年二月吉日」他、胴銘「雪下久家」他。
   上記@とよく似る。

D 紫糸威胴丸 伝 伊達政宗所用・湯村福幸拝領(当館蔵・湯村氏寄贈)
   政宗公が若年に着用、天正17(1589)年摺上原の戦いで功績のあった片倉家家臣・湯村福幸が拝領。

政宗公が拝領した具足
E 重要文化財 銀伊予札白糸威胴丸具足 豊臣秀吉所用・伊達政宗公拝領
   天正18(1590)年7月、宇都宮で秀吉から拝領。
   札は革製に銀箔押しのため軽い。

以上の様に 6領あり 各 特徴を 高橋あけみ先生は講義されていました。

Cの黒漆塗五枚胴具足 伝 伊達政宗所用 (駒形神社蔵)について、嘉藤美代子先生は、

この具足は、近年奉納された。
具足櫃にある解説文によれば、政宗所用といい、涌谷伊達(亘理)家に伝わったが、散逸し諸所転々したという。
天正11(1583)年、輝宗、政宗が亘理元宗父子に鎧を各1領下賜した記録がある。
綱村が政宗の具足の有無を尋ねた際 1門の涌谷伊達家は名乗り出ていない。
故に、政宗と断定するには まだ 疑問が残る。

兜について、
黒漆塗六十三間筋で、吹返は他とは違って先を花形に刻み、梅鉢紋を透かす。
八幡座には飾りがある。鉢裏銘は、前正中の1筋毎に「諏訪大明神、八幡大菩薩、伊勢天照大宮、春日大明神、摩利支尊天」、後正中に「天文二三(1554)年2月吉日 明弥信家(花押)が刻される。
前立は雲を下に置いて丸輪の中央に「アビラウンケン(胎蔵界大日如来真言)」を鋲留にする。
祓立と寸法が合わない所から後補かと考える。

と記載されています。


以上から 以上 両先生のお話で 昨日の疑問は解決しました。

最近は 忘れるよりも 覚えない です。
肥前様 御教示ありがとうございます。  



10 月 16 日 (水)  



伊達家御一門を知る 第1回
「涌谷・登米の伊達家の御霊屋と要害跡を訪ねる」

台風26号の進路 どうなるか?
13日から注目をしていた。
14日に到り、危ないな!! 予報は外れる の認識だが。
15日朝 U副会長から「今回の天気予報は的中する」の宣託。
中止を決断。晴天の中 関係者に連絡。全員 すんなり了解。

今朝 予報のとおりの流れで 豪雨・強風。交通機関は運休、学校は休校。
昨朝の決断は 正解であった。

ポッカリと空いた。日程は皆無。読書。


新潮社 とんぼの本  「変り兜 戦国のCOOL DESIGN」 橋本麻里 著を開く。

政宗公の兜は?

「神仏全部のせ」最強の具足
黒漆塗六十三間筋兜 黒漆塗五枚胴具足
伊達政宗所用 駒形神社蔵・仙台市博物館提供

頁 一杯に 兜と具足の写真

説明に
兵士が胸ポケットにお守りをしのばせて、という話は珍しくないが、「霊的防御力」への期待という意味で、伊達政宗が着用したとされるこの具足は、「気休め」を遥かに超えた「本気」を感じさせる。

兜の鉢には諏訪大明神、八幡大明神、天照大神、春日大明神、摩利支尊展を刻み、前立は輪實(日輪)の中に大日如来(胎蔵界)の梵字をあしらい、胴の内側には八幡大菩薩が。

コンフリクトが起こらないかと心配になるほど集めた神仏に守られる思いだったのか。

コンフリクト [conflict] 〔心〕「葛藤(かつとう)・・・三省堂大辞林

この前立が輪實(日輪)で中に大日如来(胎蔵界)の梵字が刻まれている 兜は記憶ありません。
拝見したいものです。

5月開催企画展「仙台藩主 勢ぞろい」で、歴代公の具足が展示され、
政宗公所用は、 重要文化財指定 黒漆塗五枚胴具足と お馴染みの 半月の前立の兜「兜銘・宗久」 でした。

蔵している駒形神社は、どちらの駒形神社?


本には?
三方の敵に睨みを利かす異形の兜
三宝荒神形兜
仙台市博物館蔵

説明に
戦場で目が合ったら微妙な気分になるだろうなあ、という憤怒を浮かべたお顔が鉢の上にのっかった、他に類をみない異形の兜。
写真に写っていりのは正面の顔さけだが、阿修羅像のように左右に1面ずつ、合計3面の顔が載っている。
これらは、佛・法・僧の三宝を守護し、悪人を罰する仏像の護法神、三面六臂の三宝荒神で、火で不浄を払うという俗信から、民間では竈神として台所に祀った。牙を剥き出した口元に突き出す舌が実に可動するのもお茶目。

これは、いつも 確かに 異形だなと拝見しておりました。
三宝荒神 の意味 承知しました。説明文 読んでいるはず。

最近は 忘れるよりも 覚えない 
ナットク (サラ川 第25回2011年10位)



10 月 15 日 (火)  



伊達家御一門を知る 第1回

「涌谷・登米の伊達家の御霊屋と要害跡を訪ねる」会を、瑞鳳殿ガイドの会で主催。
 

目的は、
○.伊達家御一門(涌谷伊達家・登米伊達家の御霊屋を参拝し 規模・構造等から伊達家(本家)と御一門の関連性(類似性・相違性等)を学習する。
特に 登米伊達家の霊屋は、江戸初期の霊屋の秀作と言わ 保存も良好です。
○.要害(城)跡を見学し 知行地の在り方を学習する。
○.移動時間内の意思疎通から 会員間一体意識を醸成する。
これらによって、ガイド知識の向上・蓄積を図り、訪れる観光客の皆様から好感の得られるガイドになる事です。

主な参拝・見学先は。
涌谷町
見龍寺・見龍廟
涌谷要害跡
史料館

登米市登米
登米伊達家廟所「高台院霊屋」
登米要害跡
登米懐古館

何れも 町の文化財保護委員長、市・町教育員会職員等から 説明をして頂く。
分厚い資料も造りました。
準備は 整いました。

近来に無い大型の台風襲来時刻が 移動・見学時刻と競合しています。
○.バス移動と徒歩移動の安全確保が保てるに懸念がある。
○.両御霊屋の開扉・参拝が安全確保から不可の見込みである。(強風雨では開扉不可と言われた)
○.御霊屋に到る山道で、滑る・転倒での怪我の心配が高い。
○.両要害跡に到る道が急坂で、滑る・転倒での怪我の心配が高い。

以上から、参加者21人の安全を確保し 当初の目的達成出来るか に到りました。
困難と判断し中止しました。

午前半日 参加者、関係機関 への連絡に忙殺されました。

瑞鳳殿ガイドの会役員のU・N・Kさんに Sさん のご協力を頂き 7月から準備して来ました。
実施前日に 自然界の力に負け 花開きません。残念です。
残務整理しながら 虚脱を感じます。







10 月 14 日 (月)  



本日 祝日 3連休 最終日

開門と同時、怒涛の如く参拝者。
午前の部 3日連続ガイドしたのは 和服(毎日替)のM嬢 と 二人。

福島・福井・東京からの御客様
昨日までの よさこいまつり に全国から参加と報じられていました。
野球・サッカーは、応援の前後 何れかに 必勝祈願に参拝に見えます。
よさこい は勝負事では 無いのか? 戦い済んで日が暮れて の状態なのか 必勝祈願連 団体での 参拝は見かけませんでした。


昨日 東京青果物関係団体の有料ガイドで、
「本日 時間に限り(全山で40分)があり 充分な案内が出来ません。また ゆゅくり お出で下さい」
と申したら
「それまで 生きていてくれ」
と 強烈な激励に イササカの衝撃。

2020年 東京オリピックで 来日する 各国要人に ガイドするつもり ですのに。 


この3日間 下記情報(史料)を M氏・ K氏から 頂きました。ありがとうございます。

○戊辰の役 弔魂碑建立届写

 「伊達宗基儀明治戊辰之旧臣等戦死者弔魂ノ為メ今般祖宗政宗廟畔ヘ別紙圖面ノ通リ弔魂碑建立致シ候段東京ヨリ申越候間此段御届仕候也
 明治十年十一月六日  従五位伊達宗基家扶 笠原十吉 」

 別紙圖面には
「総高壱丈九尺三寸三分
姿図
戊辰之乱仙臺士民為本藩致命四万者無慮一千人矣今建一碑於祖廟之側以弔其共魂冥冥之中庶乎其有所慰焉」
と記載されています。

○伊達政宗と天下人 講演 高橋富雄

 1986年七十七銀行古川支店での高橋富雄先生の講演を 七十七銀行調査部が全40頁の本にしました。
 宮城県図書館蔵書を発見 写本を 巣まで届けて頂きました。

 27年前の講演ながら 慶長遣欧使節から始まり 政宗公は天下一流の政治家と その内容は誠に新鮮です。

  



10 月 13 日 (日)  



小春日和

なのに 時折 強風。
瑞鳳寺山門前のタクシーを 長3m程の杉の折損枝が直撃しました。
黒塗装に擦過傷が付きました。

傷が着いたのが 運の付き始めか お客が付き ブツブツ言わずに発車。


有料ガイド 13時20分の約束です。それまでの 無料ガイド中。

10時30分 「時間繰り上げ 対応できるか?」
「できます」

「お客様の意向確認 再度電話する。このまま待機してくれ」

「11時10分 仙台城を発車する。瑞鳳寺山門前で待機してくれ」

11時25分到着。
「1時間後 12時25分にバスが発車出来るようにガイドしてくれ」

トイレタイムを確保し 要望に応えました。

添乗員 春以来 2度目です。先様も承知していました。依頼会社は異なります。どーしたのでしょう?
3度目 あるでしょうか?


朝1番の御客様 4人 岐阜市から

「政宗公の師 虎哉和尚は岐阜市下西郷の生まれで、揖斐川町所在 臨済宗妙心寺派医王山東光寺で11歳の時 得度されています。
1999年以来、仙台市民・岐阜市民・揖斐川町民との交流が行なわれていましたが?
もしかしたら 岐阜虎哉和尚顕彰会の方では?」

「知らないな。 所で 政宗公乳母は なんと云ったケ?」

「喜多 片倉小十郎景綱の姉ですか」
「そうだ」 話は続かない。

墓室の石材は 秋保石であるから、この長老
作並温泉と秋保温泉の老舗宿の名前を述べ、仙台市市史にはない 話を滔滔と語ります。
ボラガイドから聴き取りボラに。


赤線道路(法定外公共物)

ガイド仲間のAとB嬢から「券売口から弔魂碑に到る通路は市道ですか?」と問われました。

この通路は、瑞鳳殿の営業時間?外は 抜けられない様に閉鎖されます。
御修復帳(伊達家建造物台帳)では、西側山から 周囲 境内は塀に囲まれています。
赤線は描かれていません。市道では 無い。


古図 には 御子様御廟から 山を迂回する 現在 通行禁止の道が描かれています。また、宮城郡仙臺町地引圖(明治8年)にも同様に描かれています。これが 赤線道路(法定外公共物)かもしれません。

東西参道追分と職員駐車場を結ぶ間 3.11災で 鹿落坂が閉鎖された際  緊急生活道路として開放されました。
それは 認定市道故かは わかりません。

以上の様に答えました。
これは、公益財団法人瑞鳳殿に お尋ねすれば 一瞬で解決する問題でした。
その様に 悟るまで 時間を要しています。回転力低下でしょうか。


特記
欧米系の女性を主体とする団体。
3人に1人の通訳。日本史に詳しくないらしく Uさんが解説 それを翻訳・伝達。
ハイヤー 5-6台 貸切契約で 移動していました。先発と後発では かなりの時差です。
気にいった所は ジックリ拝観するスタイル。結構。



10 月 12 日 (土)  



昨日 仙台豊齢学園1年生の校外学習(瑞鳳殿)で案内は、瑞鳳殿学芸員Wさんでした。

学生には、ガイド仲間のベテランのAさんの顔が 見えます。

学園で Aさんを起用しないで 公益財団法人瑞鳳殿学芸員にガイドを依頼したのは、
@ Aさんの学識・能力を 知らなかった。 (義務教育現場ではありえない事)
A 社会的信用で 瑞鳳殿学芸員がボラガイドより優れているはず。

さて何れが正解か? 

豊齢学園の学生から ボラガイドにスカウト・勧誘したいと 思いましたが、62段を登った所で 座り込んでいます。
肺活量なのか、足腰の老化なのか。この様では、とても無理です。 勧誘したいに到りませんでした。


今朝の御客様は元気です。
仙台駅か道に迷いながら 重い・大きいリックを背負い1時間余 歩き 瑞鳳殿にお詣りに来ました」とTシャツ1枚の茨城県筑西市の近所の青年です。

元気に敬意。伊達家発祥の地は「常陸の国真壁郡伊佐の庄」ですから ガイド始めました。


肥前様 ソロソロ お出でになる頃です。 
ガイド 一度休止しようと思った瞬間 「ガイド頼む」の元気な声。

頼まれたからには 「出来ません」 とは 申しません。
現在 東京在住で 先祖は伊達家の家臣であったと 語る盛年5人。
お客様にも 新しい発見があったようです。

肥前様 見えました。 暫し待って頂き、語りました。


昼、臨時役員会。






10 月 11 日 (金)  



戊辰の役

昨日の祭事の裏方4人衆で、
仙台市・宮城県・仙台商工会議所・河北新報・公益財団法人瑞鳳殿に、
御指導頂きまして 無事・成功裏におわりましたと お礼に参上致しました。

来年からの祭事と 150年祭の在り方。主体性の確立について 皆様方から 貴重・有効な ご意見を頂きました。


単なる慰霊祭であれば、遺族が催せば 先祖の供養は子孫がすべき となります。
知事の挨拶にもありましたが、現在の宮城県・仙台市の礎を命を懸けて築いた先人に 感謝する場であります。

遺族は5〜7世代になり、遺族自身が遺族である事を知らない時代になりました。
145年前の出来事は悠彼方に、記憶は風化されました。

今 戊辰の役を振り返る事は、社会・生涯教育となり、郷土発展の元となる先行投資であり、結果として 参拝者が増える事は 仙台市長の選挙公約 交流人口の拡大につながります。地域経済の活性化の一助にもなるでしょう。

大きい気持ちで 150年祭を 催して頂きたいものです。



「真田幸村子孫の仙台戊辰史 真田嘉平太の生涯」

標題の本、「仙台真田代々記」の著者 小西幸雄氏の手で刊行されます。

目次
01.生い立ちと真田家
02.藩公に近侍
03.西洋砲術伝習
04.国政混乱
05.藩主上洛
06.大乱切迫
07.郡県制建言
08.奥羽鎮撫使 前編
09.奥羽鎮撫使 後編
10.奥羽越列藩同盟
11.維新以後

400頁 2100円


11月2.16.30. 12月7日 13時から15時まで 蔵王町ふるさと文化開館で 小西幸雄氏が講師で、本書を講本で講座が開かれる。


以上内容のご案内を小西幸雄様から頂きました。

「真田嘉平太」なる名前 初めて聞きました。当然 生涯も存じません。
仙臺藩戊辰の役殉難者50年弔魂祭誌 殉難者名簿には 見当たりません。

発売になりましたら 購入 読みます。



10 月 10 日 (木)  



戊辰の役殉難者145年慰霊祭

暑い位の晴天の最中 平成25年10月10日10時から
経ケ峯・戊辰の役殉難者弔魂碑前で 戊辰の役殉難者145年慰霊祭が催されました。

主な参列者

01.仙台伊達家18代当主    伊達 泰宗 様
02.宮城県知事          村井 嘉浩 様
03.仙台市副市長         稲葉 信義 様
04.仙台市議会議長       西澤 啓文 様
05.仙台市経済局長       高橋 裕   様
06.仙台商工会議所       高山 秀樹 様  総務監理部次長
07.河北新報            金成 有造 様 常務取締役営業本部長
08.戊辰の役殉難者後裔    坂   和夫 様
09.殉死者後裔会会長      加藤 孝   様
10.大年寺会会長         阿部 和子 様
11.公益財団法人瑞鳳殿    大ア 啓一 様 常務理事・事務局長 

参列者
宮城県議会議員・仙台市議会議員・宮城県職員・仙台市職員・仙台藩志会会員・一般市民  89人


式辞  仙台藩志会・戊辰の役殉難者 慰霊祭 有志代表 伊達洋司

皆様 こんにちは
 鬱蒼とした森の中に政宗公が眠り、仙台萩が彩りを添え、金木犀が香る、ここ経ケ峯に、戊辰の役で無念の思いで散って逝かれた1260名の御霊を祀る弔魂碑の前で「戊辰の役殉難者145年慰霊祭」を執り行うに当たり一言ご挨拶を申し上げます。

 本日は、宮城県知事 村井嘉浩 様、仙台市副市長 稲葉信義 様を始め、伊達家18代当主 伊達泰宗 様、並びにこの弔魂碑の改修にご尽力を頂いた仙台市議会議員で仙台藩志会参与の鈴木繁雄様、仙台商工会議所会頭 鎌田宏様、河北新報代表取締役社長 一力雅彦様、仙台市経済局長 高橋裕 様ほか多数の方々にご参列を賜りましたことに、哀心より篤く御礼を申し上げます。

 戊辰の役は145年前の慶応4年、京都の郊外で勃発した「鳥羽・伏見の戦い」で始まり、以後、薩長側の西軍と幕府側の東軍が全国を二分して、遠く東北・函館の地まで及んだ戦いであります。その中で仙台藩は会津藩を救済するべく奥羽越列藩同盟を結成して西軍と戦いましたが、如何せん装備・戦力の違いから東軍は敗れ、1260名の貴い生命を失ったのであります。そして、私ども仙台藩志会の中にも、ご先祖をこの戦いで亡くされた会員が大勢いらっしゃいます。

 この弔魂碑前での慰霊の式典は、この碑が建立された明治10年と大正7年の50年祭の2回だけしか執り行われていなかったので、5年前に90年振りに、140年祭を仙台藩志会の主催で挙行致しました。その後私共仙台藩志会会員だけでも毎年慰霊祭を執り行いたいと思い、弔魂碑が建立された10月10日を「戊辰の役殉難者慰霊の日」と決め、今後も、ささやかに式典を執り行う所存でありましたが、こんなにも大々的に、式典を私共仙台藩志会が主催者になって執り行うことになろうとは、考えもおりませんでした。

 明治維新の戦いは熾烈な戦いでありました。同胞同士が血で血を洗う戦いを繰り返したことによって、日本に夜明けが訪れたことを、私たちは決して忘れることは出来ません。そのためにもこの慰霊祭は、今後は「おおやけ」即ち、行政の方々が主催者になられ、取り仕切って頂けまように是非お願い申し上げます。その時は、私共仙台藩志会会員も列席させて頂けますよう重ねてお願い申し上げます。

 終わりに、本日の慰霊祭を執り行うに当たり、御霊の安らかならんこと、また、日本の発展に尽くされ、その礎となられた殉難者のご遺族・ご子孫の方々に深甚なる弔意を表し、私のご挨拶と致します。

 平成25年10月10日
                           仙台藩志会  会長  伊達 洋司


余禄

会場の後始末している際、
仙台市議会議員で仙台藩志会参与の鈴木繁雄様、戊辰の役研究第一人者木村紀夫様から、150年祭は盛大に催したい。
ある方から、薩摩・長州側からも 参列を望むべきだ。
等の発言が ありました。

あかとんぼ の意見は、
政財界(国会議員・地方政界・商工会議所・マスコミ)と若い人を巻き込みしなければ と思います。
福島美術館尾暮学芸員は 多大の関心を示しています。実行委員会に 入って貰ったらと思います。



10 月 7 日 (月)  



高橋富雄 東北大学名誉教授

10月5日 92歳の長寿を全うされました。

約30年前 開放講座で 謦咳に接したのが初めて。
無知文盲にやさしく 東北の立場からの日本史を説かれました。
これが 現在のアカトンボの歴史感の開眼・生い立ちです。

先生が福島・会津若松市所在 県立博物館長の時代、アカトンボは化外の地に勤務しており邑人を誘い 大挙訪れたた事があります。

1983年 30年前「伊達政宗のすべて」を編纂されました。
著者は
高橋富雄 小林清治 渡辺信雄 齋藤鋭雄 坂田泉 柴桃正隆 高倉淳 と怱々たる先生ばかりです。

ふとしたきっかけで、最近知り、WEB「日本の古本屋」で探し 新品同様で購入しました。
「すべて」とあるだけ 政宗公についての辞書的な本で 有難く活用しています。

高橋富雄先生の葬儀には、東北大学総長名で 弔辞 があるそうで、この草稿をまとめ、式場で代読されるのは 入間田信夫東北大学名誉教授です。(豊齢学園公開講座で本人談)

私淑したアカトンボ  高橋富雄先生のご指導に感謝し ご冥福をお祈り致します。



10 月 6 日 (日)  



鬼小十郎まつり 決戦

昨日 白石城址で 盛大に開催されました。
見せ場?見所は、

 慶長20(1615年)年5月5日、伊達勢は大坂道明寺口に集結し、片山に陣した。翌5月6日未明から開始された戦闘において、片倉重長をはじめとする片倉隊は攻め寄った大坂方の後藤又兵衛勢を迎え撃った。後藤に加勢した薄田隼人正の首を掲げ、後藤又兵衛を鉄砲で討ち取り、真田隊と大激戦となった。
 この日、片倉隊は90を超える兜首を揚げ、翌7日も大坂方と対戦し60の首級を揚げる。この武功により重長自身は鬼小十郎の名を馳せ、天下に片倉隊、伊達勢日本一の評価を受けることとなった。
 大坂城はかくて落城。

この「片倉軍VS真田軍決戦・大坂夏の陣〜道明寺の戦い〜」を、一般から募集したエキストラの方たちによる合戦シーンなどで再現です。


毎年、鬼小十郎まつりの翌日、歴女が 瑞鳳殿に大挙 参ります。

9時開聞と同時、鬼小十郎まつりの歴女様が見えました。

「昨日は白石 鬼小十郎まつりに参加れまして?」
「そう どうして お爺さん わかるの?」


「鬼小十郎と言われた 片倉小十郎重長 寄進の灯篭 御存じですか?」
「いえ 知らない 教えて」

「どちらから?」
「川崎」
「アッ 神奈川の川崎ですか?」

なぜ 神奈川の川崎なのか?日本の川崎を知らないのか?の表情アリアリ。

仙台の隣町は、世界記憶遺産登録で一世を風靡している 支倉常長の墓所の一つあるのが 川崎町です。
仙台で 川崎とは この川崎町です。

もっとも 川崎町民で 朝早く 瑞鳳殿にお詣りに 見える方は 正月2日でも いません。

日本の川崎のお嬢様達 早速 灯篭を撮影していました。
涅槃門から本殿まで あらためて ゆっくりガイドしました。

「瑞鳳殿参拝 本日で7回目。2万円持っています」
現金2万円持っている の話しではありません。

瑞鳳殿発掘調査報告書「伊達政宗の墓とその遺品」 A2版大の大きくて 重い 頒布価格 2万円の本です。 
この本を所持されているとは。強烈政宗公暦嬢 です。

個人で 所持されているは、政宗公熱烈信奉者「肥前さま」位と思っていました。

7回目にして 初めて 瑞鳳殿ガイドを聞いた と満足の表情。
「2万円」で 読み切れない所 有った筈。御満足致いたであれば 幸いです。


本日は、鬼小十郎まつり参加 政宗公歴嬢 と目される 方々を重点にガイドしました。
何組か 狙い的中。


明日から秋の企画展 「明治維新と経ケ峯伊達家墓所」が 始まります。
お出かけください。

お客様の戊辰の役、西南の役に対する 評価 反応が楽しみです。



10 月 5 日 (土)  



支倉常長に託した政宗の夢と徳川家康の思惑

と題する 平川新 東北大学教授の講演会が仙台市博物館で開催されました。

慶長遣欧使節出帆400年・ユネスコ世界記憶遺産登録記念「伊達政宗の夢 慶長遣欧使節と南蛮文化」展 関連行事です。

仙台市史「慶長遣欧使節」では、読み切れない内容。
現下の亜細亜と全世界に到る 国際情勢 外交を垣間見る 講演でした。

瑞鳳殿ガイドの会の仲間 A・B・C・D・・・多数参加されていました。


支倉常長は、7年を要しての 通商交渉は失敗しました。
今回の企画展を担当した 高橋学芸員 受付に居りました。
「スペイン・イタリアに 何回 借用交渉に行かれましたか?」と 尋ねました。
「1回」
凄い 交渉能力です。

展示 案内ガイド借用 観覧をお奨めします。情報量が多いです。



10 月 4 日 (金)  



福島美術館

9月19日から「ふむふむ、なっとく 仙台藩の手文庫」展が開催されていました。
ご招待頂きながら 「年寄り暇なし」状態で、漸う 本日 参りました。

「この時間に、川内は如何されましたか? 」
「川内は明日行きます。今日は初日で混雑でしょうから」

博物館・特別展「伊達政宗の夢 慶長遣欧使節と南蛮文化」展が本日から開催です。

尾暮学芸員から 茶道の先生達と解説頂きながら、拝観しました。
「目から鱗」  書の鑑賞方法の一つ 知りました。

天正16(1586)年22歳時の政宗公の書「茶の湯の稽古のこと」始め、吉田織部、小堀遠州、輝宗公、家康等の書状
ワーと思わず、ジーと眺めている内 読める文字が ある。 それを中心に左右の文字を読めば 読める・・・・
そして 全体を眺める。
意味と文字の美しさが 理解出来る。
こんな鑑賞法もありますに 拝観者全員 納得の頷き。
古文書読解講座?


8月29日日誌に
「主な展示品 78点のトップに
1.宸翰 伏見天皇筆 伊達家に伝わった宝物
2.書付 徳川家康筆 贈り物の目録も宝物
とあります。

さて、伏見天皇とは いつの世? 第何代天皇で、 伊達家何世の時代 ・・・・・

伏見天皇とは、
第92代天皇
文永2年4月23日(1265年5月10日) - 文保元年9月3日(1317年10月8日))
在位:弘安10年10月21日(1287年11月27日) - 永仁6年7月22日(1298年8月30日))
諱は熈仁(ひろひと)
書道の伏見院流の祖、京極派の有力歌人
とwikipediaにあります。

伏見天皇のご生涯に一致する伊達家当主は

3世 義広 康元元(1256)年 72歳卒
4世 政依 正安 3(1301)年 75歳卒
5世 宗綱 文保元)1317)年 54歳卒
(仙台藩歴史事典による)

在位期間からして 4世 政依に賜われたものか?
それは、 なぜか?」と記載しました。

これについて、
「鎌倉時代 伏見天皇の宸翰、 安土桃山時代の近衛信伊の片桐且元宛書状等は、美術品として贈答に用いられた、それで伊達家蔵となったと思われる。
伏見天皇から 伊達家に直接 下されたとは 見ていない」と 解説頂きました。。

納得。
本日誌記載を記憶され 態態(わざわざ) 解説をして頂きました。感謝です。


鷹図

9月2日日誌に
「さて、福島美術館 秋の展覧会のご案内を頂き A4チラシを見て、なんか心あたりがあるものが描かれていました。
記憶と思考が ここで停止していました。

菅野先生から
「お気づきでしたでしょうか?
先日紹介しました、6代藩主宗村が幕府に献上し、献上前と献上後に絵師に描かせた鷹の絵です」と おしらせ頂きました。

目から鱗の資料の (宗村の人物像 博物学や風景への関心) の項に

「将軍に献上した鷹を菊田栄羽に描かせた宗村は、数年後にその鷹が見事に羽変わりした事を聞くと、その鷹の絵をふたたび菊田栄羽に描かせた」(福島美術館所蔵{鷹図})とありました」

現物は、 絹本著色110cm×46cmの双幅です。
チラシ・仙台市史等 印刷とは 真物は違います。迫力があります。

偶々 一緒になった茶道の先生は、軸の真ん前のソフアに坐しで 動きません。

陳列作品紹介シートには、
「延享2(1745)年冬 登米郡根牛村で捕獲され、6代宗村が栄羽に写生さた上、幕府に献上した。喚羽時の羽毛も見事と聞き、寛延4(1751)年 再び 栄羽に写生さた」 「6年越しの作品」と解説しております。

真物は違います。迫力があります。


政宗公の法号の書 雲居和尚の書です。

[寛永十三年五月二十四日
瑞巖寺殿前黄門貞山禅利大居士
前花園寓松島地不佳軒主希鷹 花押]

とあります。

瑞巖寺殿貞山禅利大居士 と伊達家史叢談に記載されています。
日々のガイドで{ 「瑞巖寺殿貞山禅利大居士」で、 寺号 と 大 が付いています。我々と異なる点 理解頂けますか?} と語っています。

今 何故 雲居和尚の書は 伊達家公式と異なるのか?????


街角 小路に入った 一目に付かない 小さい博物館(美術館)ですが、仙台市博物館にも相当する 中身の濃い博物館(美術館)です。

11月10日13時30分からの 瑞鳳殿加藤学芸員の講演会前に 再訪しなくては。



10 月 3 日 (木)  



柏木城

「政宗が落とせなかった城 ガイドさん知っている? 今 村興事業の種なの」
「柏木城 です」

10月1日案内した福島県北塩原村からの御客様に言われました。

初めて聞く話。


北塩原村公式HPに
「会津米澤街道歴史ウオーク (柏木城跡散策コース)全行程約5.0km
伊達政宗に見せつけた巨大な守りの山城"柏木城"周辺を中心に史跡に関する話を聞きながら歩くコース
と ありました。

更に web検索を続行

○ 1584年政宗は家督相続すると葦名家との対立を鮮明に。葦名家は伊達家の侵攻ルートの米沢口・大塩に柏木城を築城。
  1585年政宗は檜原口と関柴口の2方向から侵攻を開始。葦名は菅(現大塩)峠に防塁の鹿垣を築き柏木城を巨大化し 徹底抗戦した。
  政宗公は諦めて米沢に帰陣した。

○ 天正13(1585)年伊達政宗は裏磐梯から攻めてきます。大塩の菅峠迄 政宗は来ました。
  雨と霧で大軍は移動出来なかった。
  先行した部隊の報告で、柏木城の巨大さと石垣を見て
  政宗は引き返した。

○ 枡形虎口。馬出等最新技術さることながら大規模で、天正13年伊達勢が城下まで押し寄せるも威容に恐れ為して戦わずに逃げた。

の記述がありました。


小林清治著「伊達政宗」年表には、天正13(1585)年  19歳の項  「5月 芦名氏を責め耶麻郡檜原を奪う」 とあります。
これです。


貞山公冶家記録 巻の1 

5月2日の項に
原田佐馬助に命じ、密かに猿倉峠を越えて、会津北方松本弾正在所関柴へ出陣し、会津に向えて戦いを始めしむ。以下記載略。

猿倉峠とは、米沢街道の山形・福島県境にある大峠。1150m
米沢から会津領北方に出るには、第峠越えの米沢街道と、檜原峠1094m越えの街道があった。

3日の項に
公・会津耶麻郡檜原へ御出陣、即ち檜原を攻取り給う。密に御出馬故に、長井の人数許り召連らる。因て檜原より方々へ相触れ、人数の到着を待給ひ、先つ有り合ふ所の御人数を大塩城に籠め給ひて、堅固に相抱えをる。

8日の項に
大塩の上の山まで御馬を出さる。山下に敵城あり。身方備を立へき地なし。大山にして細道たた一筋なれば、大勢は進み得ず。後陣の勢いはまた檜原を出離れず。此故に只御一戦い有り、小身の輩は残さず皆大塩城に帰さる。公は檜原に在陣し給う。

と記述がありました。


HPも貞山公冶家記録も 記載事実は 同じですが 表現 足場が異なります。
こらが 歴史 でしょう。

北塩原村の御客様 ありがとうございます。

これからは 紅葉の季節です。紅葉と雄大な自然の造形を楽しみながら 歴史 428年前の足跡を辿りたいものです。



10 月 2 日 (水)  



伊達朝宗公

伊達家始祖 伊達朝宗公は、正治元(1199)年10月2日71歳で亡くなりました。
満勝寺殿浄光念西大居士 伊達郡中に葬り その地を万正寺村(満勝寺とも 桑折町)といった。
(この項 仙台藩歴史事典 伊達家史叢談による)

本日 満勝寺(青葉区柏木3丁目)で 遠忌法要が施されました。
ご案内頂きましたが 諸般の事情から欠礼致しました。




米澤 館山城跡

米沢市教育委員会は、発掘調査を継続しているが 今年は本丸付近から直径約90cmの柱穴とみられる4っの遺構と土鍋20点を発見した。

2っの河川に挟まれ、城下を一望できる丘陵に立地する仙臺城との酷似。居館の配置構造は岩出山との共通性から 仙台城の原形と米沢市教育委員会はみています。

文献史料がすくない 故 晴宗・輝宗・政宗公3代の本拠地とする見解に ハテナ?を 投げかられています。


10月29日 現地説明会が開催されます。
今年も Uさんと 参加します。

詳細は 本日の河北新報に。



10 月 1 日 (火)  



特命ガイド

会津の旅行社から「10月1日午後、瑞鳳殿をガイドして欲しい。御客様から 昨年10月1日午後ガイドしてくれた、あの(爺様)を手配しての依頼。指名ですので なんとか」のFAXが入りました。

アカトンボのFAX番号を如何に調べ 連絡してくれたか定かではありませんが これほどのご指名には 感激です。万難を排しました。

定刻、旅行社車長と幹事(世話役)と再会。
御客様は、会津を代表する観光地裏磐梯でホテル等の経営者。

旅館天龍閣のゲートを見て「アレー」の声。こんな深山で商売なるのか のニュアンスです。
裏磐梯・檜原湖等の広大な自然景観をウリにしている方には もっともな発想かも。

「仙台駅から車で10分の至近距離です。ラドン温泉です。ホテルでなく和風を好まれる方、瑞鳳殿参拝の方等が利用されています。奥座敷から仙台城本丸 政宗公騎馬像が望めます故、盛業中です」

事実 待機中 ご婦人3人登って来て 「ここの ○○釜飯 とってもおいしのよ」と話していました。
アカトンボ まだ 食していません。

旅館天龍閣さんのメイヨ(?)の為 カッテ広報しました。


戊辰の役弔魂碑参拝後

NHK八重の櫻 会津落城の場面は 綺麗事  145年前 だけでなく も悲惨でした。
西軍の攻撃は 支離滅裂 私の生家の柱に 西軍の弾痕 弾の破片が 刺さっていました。

と、語った方いました。


御一人 足に自信の無い方おりました。
「お客様のペースに合わせて ご案内します。折角お出でになり 参拝されないのは残念です」

乗車前 「私に合わせて案内してくれて ありがとう。お元気で続けてください」

金色夜叉の物語ではありませんが「来年の今月 今日 またお会いしましょう」と 再会を約しました。





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