2013年11月の日誌
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11 月 30 日 (土)  



寒気厳しいながら晴天

地元紙に「紅葉キラリ頭上華やか」と題して、瑞鳳殿の紅葉を写真で伝えています。

赤く色着いたのが、オオモミジ
黄色に染まったのが、イロハモミジ
と解説し、参道登り口から 竹の青色
3色で 画面を構成しています。見事です。

参拝者の影がありません。
何時頃撮影されたか、日が輝いていて、賑わっている時刻に撮影されれば 良いのに。
画龍点晴欠。 

瑞鳳殿ガイド 所用で休みましたが この記事を見て 駆けつけた方 何人いたか?


政宗公の灰塚の隣(昔火葬場)での会合。

久々、Uさんに会う。
諸勉強会の資料を交換。
11月17日の24時間前に開催の連絡があった、「仙臺城址酉(トリ)門復旧工事と片倉家仙臺屋敷跡発掘調査」現場説明会資料。
「行きたかったが (鼎の軽重) 断念」の 頂いた資料。

資料は、耳からの情報は無いですが 眼からの情報 でも素晴らしい 内容です。
充分 参考になります。仙台市文化財課の努力に 敬意を。
Uさんの配慮に 感謝。

伊達家関係講座には 遠近を問わず 必ず参加する K嬢の姿が 見えない。寂しい。
鬼の攪乱か?


某ガイド団体のTO氏 
病にて 代表と活動から引退したと 複数の信頼できる筋から聞いていました。
具合如何と案じていました。
出席して居ました。

「具合い如何ですか、引退されたそうで」と声をかけたら
「誰が そんな事言った」と 偉い剣幕で 返されました。

その気力であれば 心配無用でしょう。
唯、人前に出る際、髭は剃りましょう。
ハイネズミ風は 瑞鳳殿では 御断りします。
御客様を不愉快な気分にさせては駄目です。



11 月 28 日 (木)  



全山 紅葉 本日が最大?

27日 某TV局の「お天気おねいさん」が 中継されたそうで、市内の高齢者が ドッと押し寄せました。

瑞鳳殿に到る道順(交通機関)が わからなくて 難渋した。
仙台に この様に 美しい所が あったとは この年まで知らなかった。

呟き(大声で)ながら、境内を ウロチョロしています。

「ガイド無料」の看板を 遠眼で見て、入口の「ここから有料です」の看板を見ていながら 「あそこに無料とある」と 券売口をも無視 越境を試みたオジイサン・オバアサンがいました。

これでは、「今時のトシヨリは?」と 言われるでしょう。

泉区館小学校の学童が グループ学習で 三々五々 参拝に見えていました。

仲間Aさん Oさん 質問に答えていました。
○ 政宗公の奥さんのお墓はどこにありますか?
○ 瑞鳳殿 という 名前の由来は なんですか?
○ なんで ここに 瑞鳳殿が建てられたのですか

予習しております。
行程の都合で お昼になった組は、紅葉の下 ベンチで 毎日の給食と異なり、母親の愛を体感する手つくり弁当を使っていました。


11月30日(土)と12月1日(日)所用で ガイドできません。本日代替で。

太白区のアルケ会の皆様 10余名。
ご自宅から 仙台駅経由で 瑞鳳殿まで 歩いてきたそうです。健脚です。

「瑞鳳殿の参拝は初めて、今度 友人を案内する時の為 詳しくガイドして」のご要望。


熊谷市の 史跡めぐりを楽しむ会さま 10余名。
瑞鳳殿を主体にガイドしました。

伊達家の史跡めぐり と申しませんでしたが、瑞鳳殿の次は 大崎八幡宮 に向い 昇殿参拝されるとの事。
仙臺城址を訪れないで 大崎八幡宮で、且つ、昇殿参拝とは 中々 本格的 会です。

日光・ねむり猫に対する にらみ猫 拝観する様に お勧めしましたが?はたして。


昼 お日様が輝きました。表参道口から見た 券売口の紅葉 2色プラス1色 3色 輝いて います。
この世の 極楽 の景です。

朝  ウロチョロしてい方々の姿 見えません。
見て 欲しかった のに 残念。



11 月 27 日 (水)  



戦国最後の英雄 伊達政宗が愛した仙台・松島・石巻

入りそめて国ゆたかなるみぎりとや 千代とかぎらじ せんだいのまつ」と詠い、「伊達者」の語源となったともいわれる伊達政宗。
作家・山岡宗八が描いたこの戦国最後の英雄の姿は、今も東北の人々に多くの影響を与えている。

政宗が築いた町割が、いまも残される仙台は"杜の都"と呼ばれ、
瑞巌寺など心血を注いだ神社仏閣が残される松島は"日本三景"のひとつとされ、秋には美しい紅葉が広がる。

また未来を見据えた場所、石巻の海は"世界三大漁場"のひとつである三陸沖。
なぜ、政宗はここから世界を目指したのか?

そして豊かな風景が残る台地を襲った、2011年3月11日の震災。
政宗の時代から残される小さな神社が、壊滅的な被害から多くの市民を守った奇跡の物語とは?

織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、3人の武将に遅れて誕生した伊達政宗が愛した宮城の風景を、作家・山本一力が旅します。

BS朝日 は、昨26日21時00分から21時50分迄、上記 要旨で放映しました。

瑞鳳殿は、21時10分から20分まで 10分間。


杉並木の62石段を登って来ました 山本一力 直木賞作家を 再建資金寄附芳名板前で 出迎えました。

涅槃門前での説明に、仙台藩志会の裃での参拝の動画が 挿入されました。流石 放送会社です。

この説明の場面 あかとんぼ 緊張から 舌を噛にながら説明になりましたが カットされず放映されました。

本殿で 向い揚羽蝶の彫刻を 山本一力氏が 感嘆するナレーション付きで流れました。

政宗公が どの方向を向いているか?

仙臺城の向きと反対の 東を向いています。

その解釈は 3通りあります。
1.眼下に広がる仙臺城下の町に住む家臣・町人。更に その外に広がる広大な田圃と百姓の 日々の安寧を見守っている。
2.東へ 東へ と進めば 西に到る 西方浄土。極楽を目指した。
3.成功に至らなかった西班牙等との交易。慶長遣欧使節が船出した太平洋を見つめている。

とデレクターの指図もあり 語りましたが 採用されませんでした。


天候(曇り)で 廟全体が 光り輝きが不足したのが 残念の極み。

約90分の撮影を 10分間に ツボ(要点)を外さず 纏めるものと 感心しました。


放送終了後、瑞鳳殿ガイドの会、四ツ谷用水を街並に市民の会 OB会の仲間に、幼少からの友と 姪・子から 電話・メールを頂きました。
有難いことです。感謝致します。

再放送の日が 明らかになれば お知らせいたします。



11 月 26 日 (火)  



お墓は石

瑞鳳殿にお詣りに見えた方々は、政宗公の御霊屋(お墓)とは知らずに見えた方 それなりに居ます。
「ここに、今 現在 地下3mの底板の石積の墓室に祀られています」に、怪訝な表情を浮かべます。

お墓は、石である の固定観念から建物のお墓は理解の外です。

この石の如く 石頭に固まらせた お墓の歴史 は、

 近世の墓

中世から近世の葬法は、基本的に火葬から土葬に転換していく。

徳川歴代将軍は、2代秀宗(1632年)以降土葬である。
正室等は、2代秀宗正室崇源院(1626年)以降火葬で、5代綱吉生母桂昌院(1705年)以降土葬に変化する。

葬法の変化として、坐棺の普及。
近世寺院が成立したのは、16世紀後半から17世紀前半である。

火葬から土葬に転換、坐棺の普及と言う 近世墓の成立時期と重なっている。

天皇の葬法は、17世紀中まで、火葬であった。

以上の通り 「事典 墓の考古学」(2013.06.10. 吉川弘文館 刊)に記載されています。


また、佐藤弘夫東北大学大学院教授は、

16世紀後半から17世紀前半に大量の寺院が開創された。

檀家制度は1637年の島原の乱以後に確立した。
境内墓地が誕生し、また墓標が発生した。

中世は、寺と墓地は分離していた。又、墓所(遺跡)は、極めて少ない。
中世の墓の現存は皆無に等しい。関西で 一山 中世の墓が発見されたが 歴史的価値を認めず 宅地化してしまった。

と、2013年8月21日 明治青年大学で「幽霊の誕生」と題する講演で語られた。


「檀家制度は1637年以後に確立した」は、将軍家光が、「5人組制」の強化を指示したのは1637年。
キリシタン禁止 宗門帳に登録の強制の結果でしょう。

また、「大量の寺院が開創された」の基因も、ここにあるのでは?


仙臺の場合 お墓の歴史はどうか?

江戸中期から。
1600年代は、まれ
1700年代に、増え始め
1700年代後半に、一般化した。
江戸初期は、まれ で支配階級か、数代後の子孫の建立が多い。

と、菅野正道先生は、著書「せんだい歴史の窓」の(墓地の変貌 墓石の普及は江戸中期)項で述べられています。


あかとんぼ が 目にした 墓石のに刻まれた元号の多くは、享保以後です。納得いきました。


あかとんぼ家の場合は?

家祖は、1724年に卒で、1710年に創建された寺の境内に墓石があります。
「数代後の子孫の建立が多い」については、過去帳の記述から直後に建てられたと確信しております。
1934年に墓所の整備が行なわれており、この際、位置変更を伴ったと見られます。故に、土・火葬であったかは不明です。

幕府の法令は、幕領内で施行されたもので、大名領は別。現在の政府の政令が 地方自治体でも 全国一斉に施行されるが、其れと異なる。
大名領では 各大名の判断であり 遅れて施行された。
と。菅野先生から教示頂いております。

あかとんぼ家を 振り返り よく理解出来ました。



「中世の墓の現存は皆無に等しい」と佐藤弘夫東北大学大学院教授が 述べられました。
墓標の材質 お墓に石を使用する様になったのは 何時の時代か があると思います。

テレビの時代劇は、早桶に 木標です。
徳川将軍家では、どうか?

将軍の墓塔
最初の徳川家康の寶塔は2代秀宗と同様な木製であったが、後に石製に作り替えられ、再度5代綱吉によって銅製に改められた。
死去直後に埋葬された久能山東照宮には石製の巨大な寶塔が現在も祀られている。

8代吉宗は葬制改革を行い、将軍ごとの霊廟新調を止めて既存の霊廟に合祀し、銅製であった将軍の寶塔を自ら葬送を行った。
7代家継から石製に改めるなど埋葬様式の簡素化を図った。

と 「徳川家の墓制」(2013年北隆館 刊)に 記載されています。

木から 銅に そして石 と墓標の材質は 変化しています。

理解しました。



11 月 24 日 (日)  



楽天パレード

9時から 城下中心部が全面的交通規制が実施されます。
それ以前に、城下中心部を通過したい車で 日曜日なのに 平日並の交通量です。

城下中心部に向かうバス 8時台から 在で 平日並の乗車です。

9時30分頃から ヘリコプター 軽飛行機 ブンブン バリバリと 3.11並に飛行しています。
パレード観覧者 215000人と公式発表。

参拝者は予想の通り 激減。
ガイドも あかとんぼ のみ。

パレード通に豪邸を構える. S嬢が 9時に現れました。
「足下にパレード見えるのでは?」
「友人にパレード前のガイド頼まれ。すぐ帰ります」
9時30分 ソソクサと 足早に 去って行きました。
お互いに 気もそぞろで あったでしょう。


千葉のご夫妻、東京の両親娘、仙台・国見のご夫妻と ガイド。
仙台・国見のご夫妻は、国見の三滝安山岩が 瑞鳳殿の石段 仙臺城の石垣に 使用されているに 満足の様子。

東京の両親娘には、券売口前の 赤・黄・緑に御供所の屋根 一幅の画になる位置に案内し、撮影して頂きましてから ガイド。

瑞鳳殿地区 四方何れも 紅葉です。
太陽光線の動きは 早いです。
刻一刻と 輝く 絶景が 変わります。

瑞鳳殿のホームページ ブログ 何れにも 絶景が掲載されています。
KとW 両学芸員の 競作です。
本表紙のタイトルは リンクしています。ご覧ください。



11 月 23 日 (土)  



小判 舞う

青空 限りなく青空。
仙臺城下は、小判?が舞っています。

欅・銀杏並木のはっぱ(葉) 黄金色になり 地上に降り立ち 乱舞しています。
明日 楽天 日本一優勝パレードが催され、20万の人出と言われています。

明日は交通規制が行われ 瑞鳳殿参拝者の激減が予想されます。ガイド自身も 瑞鳳殿に辿り着けるかの心配があります。
仲間内の言、「明日は楽天 日本一優勝パレードに」が聞こえました。

1.5kmの30分のパレードの経費が 1億5千万円。
寄附が集まらないと 担当者がぼやいているそうで、この乱舞する黄金色の枯葉 「小判であれば」と 眺めているでしょう。


経ケ峯 全山 紅葉 真っ盛りです。
表参道口で、人々 「オー」の歓声。
登るに従って 景観が変わります。
券売口に辿る前 撮影される方 それなりに。

時間帯で 輝く 紅葉が  場所が 変わります。


朝1番 福岡からの団体。背広にネクタイの正装 それなりの年齢の堂々たる体格。襟元に国会議員に似たバッチが輝いています。
議会議員さんの被災地視察でしょうか?

アルコール臭が微かに。
案内役・世話役・・・随行事務局員?から 「20分で」

呼称は 「先生」です。間違いなく センセイです。
なぜ、 ガイドを 聞いています。(人との話を聞く・・・選挙民の要望を聞く)

本殿で 「まず 参拝してから」に、一斉に小銭入れ ではなく 財布を取り出し 紙幣を、白く光る 大玉の硬貨(500円? 100円?)を パラパラとお賽銭箱に。近来 珍しい光景。

本日 仲間10人程なので  途中 感仙殿地区に廻りました。
感仙殿地区の紅葉は 峠を越えました。


瑞鳳殿・涅槃門前の 敷石(人工平面の石ではなく自然石並べています) 補修中で、該当する石に 目印テープが貼られています。
08mmの段差でも 躓く方(高齢者特有の現象?)います。
遅々と言われながらも 高齢者対応は行なわれています。

西峯の遊歩道 「整備中」の標識がでました。来春には 開放されるでしょうか?


有料ガイドでは、瑞鳳寺山門前待機です。
瑞鳳殿参拝に見えた方が 瑞鳳寺に吸い込まれる例が多々あります。

日本語理解出来る方には「此処は瑞鳳寺です。瑞鳳殿は坂の上です」と さりげなく伝えます。
日本語理解出来い方、瑞鳳寺を参拝して降りていきました。
観光パンフと異なる と思わなかったか?

さて、今朝9時 和服の淑女 62段を登り そのまま 境内に入りかけました。
「もしもし この先 有料です」と 券売嬢の一声に
「あら わたし お茶会に来たのよ」 なぜ の 怪訝な様子。

瑞鳳寺には、裏千家の茶室があり、毎度 茶会が開かれています。
途中の瑞鳳寺を 見落とし 和服で登りにくい石段を登ってきたのです。

お茶の前に 御冷を 所望されたでしょう。



11 月 21 日 (木)  



菅野正道先生の講義

主催 明治青年大学 郷土史を学ぶ会
演題 伊達家の重臣たち@ 政宗を支えた重臣たち
内容
1.家臣団研究の意義
 家臣たちの役割を再確認することにより、政宗政権の性格が明確に
 家臣団編成の様相を確認することにより、仙台藩の特質を認識できる。

 殿様の個性が組織な反映する。組織名称が他家と異なる。
 現在でも同じだが、日々の業務はトップ不在でも組織は動く。重要な判断・決断する時 長の力量が問われる。

2.天正期の重臣たち・・・・・・・・・
 片倉小十郎景綱
 政宗を補佐した老臣たち
 政宗軍団の構成

3.文禄・慶長初期の重臣たち・・・
 屋代勘解由兵衛景頼
 相次ぐ重臣の出奔
 家臣団との距離感が明確に拡大

4.慶長期以降の重臣たち・・・・・・
 茂庭石見綱元
 奉行制の成立
 財政担当の重臣たち
 忠宗公付きの重臣たち

5.まとめ
 記載略 
 元和中期以降 官僚組織が整備され、次第に奉行が藩政の中核的存在に。

90分講義にして 非常に濃いものでした。
先生は、理解容易に講義され、配布資料内容に無駄が無く 復習が容易です。

各生涯学習でも 好評で 招請困難の噂もある故か 本日の参加者 80?人程。

瑞鳳殿ガイドの会会員4名の参加でした。
ある会員は、参拝者の質問に 自信をもてる 講義と感想を漏らしていました。 同感です。

次回 Aが楽しみです。


米澤・館山城址 発掘現場 視察された と 興味深々な事柄を語られました。
詳細は記しません。
唯、米沢市の国指定史跡化の道に前途があるか?と感じました。



11 月 20 日 (水)  



仙臺城下の寺社の消長

仙台藩志会伊達学が16日 仙台郷土研究会 吉岡一男会長を招き、標題で開催されました。

藩政時代は、佛教が全盛期であって、寺は武士の崩壊(明治維新)と共に支持を失い合併され、当時の名刹で廃寺となったものも少なくない。

宗派     仙臺     郡中    田村領    合計

天台宗    18 78   0   96
真言宗 62  237   5   304
曹洞宗 38   592   27   657
臨済宗 26   62   2   90
時 宗 2   4   0   6
浄土宗 31   39   1   71
法華宗 7   8   0   15
浄土真宗 21   48   0   69
合計     205     1069      35        1308

仙台市内の社寺については「仙臺市史7 別編5」を参考にされたいと。(1953年発行1985年復刻発行)
アカトンボは、個々の由来・寺宝について 1985年復刻版を参考にしています。 

1872(明治5)年4月25日太政官布告「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事」の一片の法令で佛教界の定めた古来の戒律は何らの抵抗も無く崩れ去った。
11月 檀家の無い無住の寺はすべて廃止される事になり、廃寺処分の上、宗名寺号を調査報告を求められた。
翌年7月「本末一派寺院明細帳」の提出を求められた。

「本末一派寺院明細帳」は 宮城県公文書館で閲覧できると参加旧友が教えてくれました。

1999年3月1日」現在 仙台市に 神社362社 寺院207寺

この計数の比較寺は増えています。 名刹の廃止の後、再興・新興の寺があるのでしょうか?
講師は 語りませんでした。

護国神社、青葉神社、櫻岡大神宮、仙台大神宮は、明治に創建された。
が、屋敷神、氏神様 については 語りません でした。

講師は 米寿と聞いていますが、昔と変わりなく 朗朗と120分 休まず講演されました。


さて、
護国神社は、仙臺城本丸に創建され、大東亜戦争後 敷地は国から譲与された。
青葉神社は、北山・東昌寺境内2230余坪を割愛、1874(明治7)年 政宗公が武振彦命の神号で祀られた。
櫻岡大神宮は、1872(明治5)年に伊達藤五郎屋敷跡1240坪に宮城郡荒巻村から遷した。
仙台大神宮は、茂庭周防屋敷跡に鎮座。

ここまでは、素直に理解しました。

屋敷神、氏神様 についてです。

1985年都市計画道路工事中 新島家墓所から大量の甕棺が発見されました。仙台市文化財調査報告書94集に報告されています。
現場は、道路下端部に當妙見神社が有り、由来が掲げられています。新島家の氏神様と見受けられました。至近の町内会会館があり、町内の鎮守様として崇敬されているとみました。

泉区の賀茂神社は、加茂団地造成の際 社殿等改築したと見受けられます。
今では、加茂団地始め周辺の人々の崇敬を集め、ドント祭の賑いは仙台で2.3番です。
由来は、領主古内氏が招請したとあります。
本来は、古内家の屋敷神、氏神様であった。それが開放・公開されたと理解すべきでしょうか。

仙臺銘菓と言われた「塩瀬饅頭」は、1945年まで大町一丁目に店があり、屋敷神様があり、後 一般に開放されたと、関係者の記述を読みました。
探しましたが 尋ねあたりませんでした。
仙台大神宮に合祀されている、豊河神社では? 定かでありません。

以上 舌足らずですが 講話で触発されたメモです。



11 月 17 日 (日)  



小春日和

参拝者多数。

朝一番は、亜細亜系外国の方。「おはようございます」迄は、OK それ以上の会話が出来ず ガイドに到りませんでした。

お爺さんとお婆さん 券売口で 漫才をしています。
大声ですから聞こえてきます。

「バス券見せるだけで割引になる。儂の話 聞かないから 高い入場料金になった」
「そんなこと ないよ おじいさん」
「イヤなる。オネイサン 割り引き 今からして貰えますか?」
音声 入らず
「そらみろ 儂の話 よいこともあるだろう」

このお爺さん 結婚当初は 常に3歩前えお歩いていたが、最近 3歩後ろを歩く立場になり、久々にヒットを飛ばした心境に見受けられました。

意気揚々 入って来ました。
「イコイコ」
「ハアー」
「ガイドだろ イコイコ」

仙台の小5の孫娘に案内されて? 連れて? 仙台観光の山形からの祖父母と孫の一行でした。


岡山からのご夫妻

岡山ですか。伊達家とご縁が深いです。
政宗公の息子 2代目の殿様 忠宗公の奥方は 備前岡山池田輝政の娘(徳川家康の孫)で、そのご縁で 備前名物 大島の石 江戸を経由 海路 仙台迄 運ばれ、仙臺東照宮の大鳥居・手水舎等になっています。
本殿は国重要文化財になっています。

と申し上げました。
意気を感じたか 丁寧にお詣りされ、最後 「仙臺東照宮には どう行くの?」の聞かれました。


「どちらから?」
「茨城県」
「海岸部ですか? 内陸部ですか?」
「内陸部」
「筑西市、龍ケ崎市 ご近所ですか?」

「伊達家発祥の地と言われているのが 常陸国真壁郡伊佐の庄 今の筑西市・下館市です。遺跡があります」
「ウン 知っている。あのな・・・・・・」 一行5人に 説明始めました。

当初 サラーと参拝のつもりが 興味津々 資料館でDVDを拝見し 長時間参拝となりました。
券売口のモミジの下で記念写真。感仙殿等は次回と、62石段を下りて行きました。


余話
壊れた看板 Uさん 早速 直してくれました。ガイドに見えません。
お礼の電話をしたら 「今 仙臺城址」の返事。

昨日の日誌 開催24時間前ご案内の「仙台城跡酉門石垣と片倉屋敷の遺跡見学会」を読み 駆けつけた。 後日 結果を教えて呉れる との事。楽しみ。


10日の講演会「瑞鳳殿の副葬品ー舶来品からみえる慶長使節の関わりなど」で 質問された(宮城学院女子大学生?)は、東京から 和服でわざわざ駆けつけた 瑞鳳殿も再三参拝されている 正真正銘の「歴女」だそうです。

知る人ぞ知る講演会でした。 素晴らしい 情報収集能力です。
正真正銘の「歴女」に 瑞鳳殿で お会いしたいものです。



11 月 16 日 (土)  



仙台城跡

仙台市教育委員会文化財課から、本日10時01分発信で下記内容のメールを頂きました。
行政機関が 市民にこの様な情報を提供されるとは 有難いお話です。


仙台城跡酉門石垣と片倉屋敷の遺跡見学会を行います

仙台城跡では平成24年度から、東日本大震災で被害を受けた石垣の復旧工事を行っています。現在は、酉門石垣の解体・積み直し工事と本丸北西石垣の積み直し工事を実施しています。

酉門は、仙台城本丸の背後の重要な門として知られていましたが、神社の境内地にあたり、これまで一般の方が近くで見ることができませんでした。しかし、今回の復旧工事の機会に、地震被害と調査の状況を公開し、見学会を開催します。

追廻地区の公園整備に伴い発掘調査を行っている片倉屋敷の遺跡見学会も同日に行います。

1 日時 11月17日(日)10:00〜12:20

2 会場
(1) 10:00〜11:00仙台城跡酉門石垣・本丸北西石垣(青葉区川内地内)
(2) 11:30〜12:20仙台城跡追廻地区第5次発掘調査現場(青葉区追廻地内)

3 定員 200名程度
※事前の申し込みは不要です。直接集合場所にお越しください

4 集合場所 仙台城本丸詰門跡(本丸北側鳥居)10:00までに集合してください。
※公開場所と移動経路については仙台市文化財課ホームページをご覧ください。

5酉門石垣・本丸北西石垣復旧工事、追廻地区調査成果の概要

(1)酉門石垣・本丸北西石垣復旧工事、発掘調査

酉門は、仙台城の搦め手(裏手)にあたる門で、絵図には2層2階の門として描かれています。
初期には門の西側に櫓があり、門の前面にはL字形に曲がって石垣が築かれています。残存している石垣を観察した結果、複数の石積みの様相が見られたことから、過去にも何度か地震の被害を受け、そのたびに復旧されてきたようです。

平成24年度に解体を行った本丸北西石垣は、現在南半部の積み直しを行っていますが、その状況も見ていただけます。

(2)追廻地区発掘調査

片倉屋敷は、白石城主である片倉家の仙台屋敷です。現在屋敷の中央から南部と推定される部分を調査しており、建物跡や長屋内に敷かれていた石敷きを広い範囲で確認しました。
片倉屋敷は1846年に火災にあった記録がありますが、石敷きの下からは火災後、屋敷再建のために焼けた瓦や建築材をすてた廃棄土坑が多数発見されました。
また、火災前の片倉屋敷やそれ以前の屋敷のものとみられる礎石建物跡、掘立柱建物跡、井戸跡、塀跡、水利施設なども多数確認されました。

<問い合わせ>
仙台市教育委員会文化財課
TEL 022-214-8544
FAX 022-214-8399    
以上

係官は、休庁日に、出勤し 市民に メールにて 広報された 努力には 感謝します。

好々爺に なる様にと注意されています。ここで、終わり。



11 月 12 日 (火)  



昨夕 仙臺では 平年より13日 昨年より16日も早い 初雪があった。
寒気に弱くなり、在宅 瑞鳳殿ガイド手持資料の整備に努めました。


瑞鳳殿で、即 表示板を見られた方々は一様に「ハー」と呟く。

なぜなら、貼り出された 政宗公のお顔が お持ちのイメージと異なるからです。
大方の方は NHK「独眼龍政宗」を 基本としています。

銅板画は 仙台市博物館蔵 狩野安信筆 の部分画であり かつ 白黒画です。
此処で、有色の全体画を手持資料で 紹介し、本殿前で 御木像の写真を お見せ致します。
「オー ダテオトコ」と 皆様 納得されます。


せんだい市史通信22号(2010年8月発行) に、政宗の肖像あらかると と題して

01.仙台空襲で焼失した瑞鳳殿の木像
02.陽コ院寄進    瑞巖寺蔵
03.雲居希鷹賛    瑞巖寺蔵
04.佐久間玄コ筆   個人蔵
05.伝伊達忠宗寄進 東昌寺蔵
06.狩野安信筆    仙台市博物館蔵
07.長谷川養辰筆   仙台市博物館蔵
08.土佐光貞筆    霊厳院像
09.伝洞水東初所用 瑞巖寺蔵

の江戸時代の作のいくつかの中 9画が掲載されています。
貴重な資料です。菅野市史編さん室長のご配慮で 相当数分けて頂き 希望する参拝者に差し上げ 喜ばれました。(在庫皆無)
07.仙台市博物館蔵 長谷川養辰筆 は 公開されているでしょうか?見た記憶定かでありません。

あかとんぼ所蔵資料は、01.02.05.06.の他 岩出山町蔵と現御木像の写真です。

08.土佐光貞筆の A5版大 発見しました。
新人物往来社 刊 「戦国武将の肖像画」 伊達政宗128-130頁に ありました。


なお、土佐 光貞(とさ みつさだ)とは、

元文3年(1738)〜文化3年(1806)
土佐光芳の次男。幼名茂松丸。字は士享。初め内匠と名乗る。宝暦4年(1754)従六位上、内匠大屬となり、本家とは別に一家を立て、禁裏絵所預となる。同11年正六位下、同13年内匠大允、明和元年(1764)左近衛将監.同5年従五位下、安永4年(1775)従五位上、土佐守、天明2年(1782)正五位下、寛政4年(1792)従四位下、享和2年(1802)従四位上に叙せられた。明和元年(1764)、同8年(1771)、天明7年(1787)等の大嘗会悠紀主基屏風を描く。寛政度内裏造営では清凉殿の障壁画を描いた。墓は知恩寺(京都市東山区)にある。
(C)京都市立芸術大学芸術資料館

何年に描かれたかには、到りませんでした。



11 月 11 日 (月)  



11月10日の記録です。

夜来の強風で、職員駐車場は、杉の折損枝が 所狭しと散乱しています。
毎度 杉の折損枝が落下しますが よくぞ続く 枯木 幹だけにならないと 感心します。

10時頃 突風が、「ガイド無料」の看板を倒しました。
足が折れました。自立不可能となりました。
素人で 修理可能かの懸念。彫刻・篆刻の達人 Uさんに修理をお願いしなくては。

替りを コンクリート板で足元を押さえ設置しました。


宮城県ハイキング協会主催 秋の大会 15Km と 30Kmの2コース。
何れも 経ケ峯を通過する設定です。
9日 役員が 62石段の登り口、瑞鳳殿脇道口等に 赤矢印表示の案内を貼付けました。

8時50分頃 職員駐車場に到る狭い市道を 目玉を三角に 無我の境地で 猪突猛進してきます。
思わず 停車しました。車が壊される勢いです。
タイムレースでしょうが、この勢い あと 10Km 20Km持続できるでしょうか?

10時頃 通過すろ方々は、左右の景観 紅葉の始まりを楽しみながら通過して行きました。
瑞鳳殿を参拝されたのは、10人程度です。

お客様は、横浜・千葉・神戸・宇都宮・寒河江・弘前・ワシントンから

弘前の御客様に、「津軽為信公の御霊屋は岩木川の対岸、革秀寺に19世紀の補修した極彩色でありますネ。此処は規模は大きいですが戦災で焼失し再建したものです。涅槃門の柱は 津軽ヒバです」と説明。

老々の親子と 相性ピタリのガイド。


寒河江の御客様。
老々3女、政宗公の母が最上家の娘で、政宗公は米澤で生れた等 良く御存じ。
又、相性ピタリのガイドとなりました。

「はい おやつ」と 小粒の袋豆菓子詰め合わせの袋を呉れました。自分達のおやつでしょうに。
でも、瑞鳳殿参拝の喜びを 口中で 共に分かち合いたいの気持ちと理解し 有難く頂きました。


ワシントンの御客様。
ベンチで パンフをジックリ読んでいます。

パンフを読まない、落とす、表示板も、ガイドにも 眼もくれないお客様 多いのに チョット 異質です。暫時経過

「ガイドさん おしえて?」 英文のパンフです。  仲間のAさん スーと離れました。

日系3世で ワシントン州の有名野球球団のあろ町から来た。
チャンバラ映画をみている 役者は○○、△△、(列記する名前は坂東妻三郎・嵐勘十郎・大河内伝次郎、長谷川一夫、堺俊児・十朱・の親等 昭和初期の人々)です。チャンバラ わかります。
ですから 私の日本語 昔の日本語です。と 

質問は、

「綱宗公は 何故 21歳で 殿様をおろされたのか? その背景は なにか」でした。

現在の日本の若い人より すんなり 理解して頂きました。
90-100年前の トーキー 映画で 日本文化・歴史を 理解し ストップしているようです。
(アカトンボ 生誕前の人と会話している タイムスリップの世界)


HOさん MOさん から
「アカトンボさん 嬉しいことがありました。御客様から 感謝状頂きました。ガイドのお礼と写真が事務所気付で届きました。うれしいです」と 話してくれました。

合言葉 「お客様の目線で、聞いてよかった。楽しかった。また来たい と言って頂けるガイドをしましょう
を 実践して頂いた が お客様が認めてくれたのです。
アカトンボ も嬉しい限りです。



11 月 10 日 (日)  



講演会

演題 瑞鳳殿の副葬品ー舶来品からみえる慶長使節の関わりなど
講師 公益財団法人瑞鳳殿 加藤寛学芸員
会場 社会福祉法人・共生福祉会 福島美術館 大会議室
主催 社会福祉法人・共生福祉会 福島美術館

瑞鳳殿・感仙殿・善應殿の発掘調で発見された副葬品について 一覧表を配布、スライドで丁寧に説明されました。

朝関東圏で激震があり、黒く厚い雲が下がり暴風警報が発せられ悪天候。
仙台市博物館では、しろ・まち講座が開催されていました。

この 悪条件の中、幼稚園児から、宮城学院女子大学生と思しき華やかな集団に、瑞鳳殿ガイドの会会員4名を含む 多数の聴衆が 参加したのは、瑞鳳殿・福島美術館と 加藤・尾暮両学芸員の 隠れフアンの層が厚いを 示しているのでしょうか。

質問の時間
瑞鳳殿ガイドの会会員4名 とも質問

1.善應殿で発見された眼鏡レンズは、水晶が研磨されたものか?
2.瑞鳳殿で発見された金のブローチを 舶来品と断言されない理由は?
3.政宗公の眼帯が発見されなった理由は?
4.政宗公の兜の前立 黄金の半月が発見されなった理由は?

宮城学院女子大学生?
1.金のブローチの中央の金具 下端で固定されているのか?
2.固定されていないのであれば、用途は栞と考えられないか?

関連質問
1.金のブローチ 1品の直径と厚さ 御存じなら教えて頂きたい。

直径は、8mm 厚さは、1.8mm です。

ブローチ全直径と内径を知れば 1.8mmの厚みで 栞になるか 検討出来ます
当時、西班牙・羅馬で この様な 栞を使用する風習が あったかです。

今後の研究課題です。


本日の主催者は 社会福祉法人・共生福祉会の福島美術館です。同傘下の組織に、 福祉施設「仙台自立の家」があります。
ここで スペイン焼き菓子「ボルボローネ」を販売していました。

参加費は高齢者故無料でした。
心苦しいので 入館料代わりに 紅白と2袋購入し、支倉常長が西班牙で食べたかを偲び お茶にしました。


午前は、瑞鳳殿でガイドしました。
明日の日記に 記載します。




11 月 9 日 (土)  



日本晴

大病されたNMさん 全快 颯爽と登場。元気です。
病気の経過 語る余地なく 早々と20指余る お客様にガイド開始。
声の張 衰えていません。安心しました。

8・9・10月と3ケ月 自己研鑚されていた HJさん 現役復帰。
早速 高齢のご婦人に 丁寧にガイドされていました。

午前 5人 午後 5人で ガイドに努めました。

あかとんぼ の記録

9時 看板をセットして居たら「ガイド? 無料でしょ」のお声。
ガイド始めたら あかとんぼ の説明を聞いていません。喋ります。喋ります。
辛うじて 本殿まで 到達しましたが 止まりません。

選挙の街頭演説ではありません。二人で 同時に 話していては 成り立ちません。
ガイドボラ から 傾聴ボラに ただ ひたすらに聞きました。

本殿前で 「政宗公のお墓です。ここにねむられています」と申す余地ありませんでした。


表示板前でのNMさんのガイド 1567年8月から 始まりました。
若い男女 聞きたそうにしながら時計を見ています。
「10分ガイドします」に 「おねがい」

銚子の方々、国分町のホテルから歩いて来ました。この後、仙台城迄 歩きますに、
本殿迄 ガイドして  一端終わり。

綱宗公の甕棺 資料館展示は真物と 語りながら 感仙殿に。
ここで、驚愕の事態 発見。
ガイドを中止 再会を約して、一目散に 事務所に事態を報告。
係員 現場に急行。  アカトンボ 後ろを トボトボと追いかけました。

突然 携帯の着信音
「仙台ICに到着しました。予定より早くなりました。よろしく」
有料ガイドの御客様 30分早い到着の知らせ。

大急ぎ 無料ガイドの「紫地 陣羽織」 から 有料ガイドの「お握り丸印 合羽」に着替え 瑞鳳寺前に 直行。
間に合いました。

「12時バス発車出来る様に、なお 歩行障害者2人います。よろしく」と 添乗員さま。

ガイド内容は 絞りましたが 手抜きは致しません。 画して 11時55分バス迄 トイレを済ませて頂き 案内し 12時発車を厳守しました。


仙台藩志会O常任理事を頭に 高価な和服を召した女性 20人程が この有料ガイドの御客様を前後され 拙い説明を聞いて頂きました。
忠宗公は、伊達家の茶の湯を石州流に統一されたそうです。

石州流の茶会があり、一同相揃い 参拝に見えたのでしょうか。


昨日の記事に 「いささか腑に落ちない点がありました」と 愛読者 肥前様から メールを頂きました。

分家 ですが、次の様に語りました。

仙台藩伊達家の分家大名(江戸時代を通じ存在したもの)
1.宇和島藩伊達家10万国 国持大名格(准国主) 別朱印領外新知分家大名
2.吉田藩伊達家3万石(宇和島藩伊達家から分家) 別朱印領内分知分家大名
3一関藩.田村家3万石(仙台藩伊達家から分家) 分知分家大名

倉持講師の見解であります。ご理解ください。

分家か? は、1749年「本家・末家論争」に 遡ると思います。

伊達家の 親族 宗族 一門 等は 「伊達家史叢談」伊達邦宗 著を あかとんぼ は基本としております。

肥前様 メール ありがとうございます。



11 月 8 日 (金)  



講演

演題  仙台藩と宇和島藩
講師  慶応義塾大学 倉持 隆
所    大崎八幡宮

東北大学や仙台市博物館の先生以外が 語る東西伊達家の話。

江戸時代 仙臺伊達家には、分家大名が3家存在した。
1.宇和島伊達家
2.吉田伊達家
3.田村家

仙臺と宇和島 東西伊達家の関係は?

江戸時代前期
政宗公と秀宗公は親子。
宇和島4代村年迄政治・財政の面で仙臺に依存傾向

以後 対立と逆転

1749年
本家・末家 論争

1791年
中将・少将座着事件

幕末
宇和島優位

戊辰の役
敗者と勝者

爵位
伯爵 侯爵

まとめ
同家として 強いつながりが続く。

話は新鮮でした。


先生は東京の人
地方は? の意識ありあり

「宇和島 馴染みがないでしょう」と切り出した。

参加者の顔ぶれは、 伊達家の好者共。時間の長短は別として 宇和島を訪れています。



11 月 6 日 (水)  



瑞鳳殿でボラガイドを始めて13年になります。
今秋 なぜか 女子大生にモテモテしています。


@東北大学文学部文化人類学専攻3年のAさん、
A東北学院大学のSさん(学部・学年等一切不詳)、
B東北福祉大学の(氏名・学部・学年等一切不詳)
から、

何故 瑞鳳殿でボラガイドを始めたか と問われました。

本頁のトップに記載して居ます 口上の要旨を語りました。

あかとんぼは立ち枯れの年代となりました。
お世話になっております地域社会に、いくばくかのお役に立ちたい
定期的行動による健康管理に努めたい
発想の転換を求める等の質問により 呆け防止に努めたたい

社会奉仕と健康管理です。

と答えました。

老人の心境を理解出来なかったか、反論・質問はありませんでした。



@は、あかとんぼ自身について 、また、ガイドの会の活動の詳細(会則を求めました)を 更に細かく質問して、
  且つ、他の会員にも聴取し、ガイドの状況を 実見しました。

  教官が しっかりと指導しているを感じました。

Aは、瑞鳳殿事務所で 50分程 主に ガイドの会の研修計画を聴取しました。

Bは、なぜガイドを始めたか。推薦する土産は 何か。のみでした。



@は、名刺を交換し、学部・氏名を 明示しています。情報公開も積極的になります。
A・Bは、名刺を渡しても 学生証の提示も、その後の連絡もありません。
特に、Bは、老人介護・福祉の立場からの 接触だったのでしょうか。

女子大生にモテモテと 申しても この程度です。



11 月 4 日 (月)  



文化の日 振替休日

昨晩からの雨まだ上がりません。
傘を持たない お客様が続々と。

昨晩 東北楽天が日本一の座を9年目にして獲得しました。
傘を持たないお客様は、全国から楽天の応援に駆け付けた方はではない様です。

ガイドは一人、御客様は3組。着いて離れる浮遊層は計測外。

1.東京からの仙台初めてのご夫妻
2.山梨・南部町からのご夫妻。
 冒頭から「南部家発祥の地」と 猛烈にアピールします。が、南部重直公 については知識皆無でした。
 家紋と花押を 一蓮托生に理解している様子。竹に雀と鶺鴒を 同一線上で質問されます。
3.関西からの老若男女8人。タクシー氏 「20分でポイントのみ 頼む」

何れも 「聞いてよかった」の感想は頂きましたが 記録すべきご質門はありませんでした。



雨が上がって来ました。午後 宮床に移動しました。

宮床寶蔵開館20周年記念講演会

主催  宮床歴史の村保存会
演題  幕末の動乱と宮床 伊達六郎と和田織部を中心に
講師  栗原伸一郎 仙台市博物館 仙台市史編さん室

結論  @ 伊達六郎と和田織部は、幕末維新期の仙台藩における重要な人物
     A 地域の歴史に注目すれば、仙台藩の歴史、日本の歴史の様々な側面が浮かび上がる


アカトンボ 記憶が切れていました。
伊達六郎とは、宮床伊達家歴代当主のお名前で その次に ○○と続きます。
本日の主人公 伊達六郎とは、宮床伊達家13代の宗賢でした。

和田織部とは、伊達六郎宗賢の次男で、和田家に養子に入った人でした。

戊辰の役の前の時代を伊達六郎宗賢が、戊辰の役から終戦処理に活躍し、悲運の生涯を終えたのが和田織部でした。


アカトンボ 本日は 充分に理解したつもりです。


参加者は、宮床伊達家16代ご当主、和田織部の末裔の2方の他 約100余人。
その大部分の方々は、宮床邑人とお見受けしました。

戊辰の役で 伊達家当主慶邦公が出陣の際、宮床から300人が出陣している。(その末裔の方々?)
額兵隊が、宮床伊達家菩提寺覺照寺等に宿陣し 軍事訓練を実施している。(訓練を望見した末裔の方々?)
宮床伊達家16代ご当主も出席する。(宮床伊達家家臣会の会員?)

これらの人縁・地縁から 邑人多数が 参加したのでは。

講座後、宮床寶蔵企画展「幕末の動乱と宮床」で、貴重な史料を拝見しました。

戊辰の役研究のKさま Mさま も参加されて居ました。
特に、Kさまは 研究成果の発刊を準備中とか。600頁の中に 今日の内容も反映されるのでしょうか?



11 月 3 日 (日)  



日本晴

瑞鳳殿で一番早く紅葉する入口のモミジ。チラチラ 紅葉を始めました。
昨年より 約1週間 遅いようです。
参拝に見えた御客様 どなたも気づきません。

豪華絢爛な御霊屋に視線が走るためでしょう。

三連休の中日です。
9時前から 早々続々と。

北海道・苫小牧からのご夫妻。
紅葉は すっかり 終わったそうです。

札幌のシライシがあり、宮城県にもシライシがある。何かと話題になるが?

ここで、「145年程前 蝦夷地に渡り 開墾・開発したのは 政宗公の側近NO1と言われた片倉小十郎の家臣の末裔の方々です。
シロイシです。
この 石燈籠を寄進したのは 片倉小十郎の息子です」

お客様 興に乗られ 60分ガイドになりました。


母親と息子 相似そっくり 異なるのは 年齢だけ

息子「母親です。先行き短いですから 丁寧にガイドして下さい」

先行き短いと云われた母親 ピンピンしています。
「私 10年生まれです」と自身で語られました。
「アッ 同年配ですネ」 

息子さん 相模原から 単身赴任6年目。鳴子・松島・仙臺城・瑞鳳殿と名所旧跡を 案内している との事。

冒頭の「先行き短いですから」の言葉には 驚きました。
仙台単身赴任はそろそろ終りだろう、母親が元気なうち 仙台・宮城の名所旧跡を案内したいの 親孝行の発露と理解しましt。

本殿 御木像を資料を示し、御木像が 独眼では無い 両目開いている その由来を語り。
「政宗公は、御客様と同じように 親孝行 でした」

60分ガイドになりました。


ガイド御願い 6人です。
どちらから? に 小松島から。

中1、小4、年長組に 両親。今一人 ???
「私 おばあさん です」 お若いです。 確かに 孫がいれば 祖母 おばあさん です。

中1に、「小学校の歴史で 伊達政宗公 勉強しましたか?」に、「萬壽寺を勉強しました」と返って来ました。

小松島小と萬壽寺は 100m内の至近距離です。


萬壽寺とは
4代綱村公が、1696年に移転の形で創建されたお寺です。
1704年に41歳で亡くなられた正室{仙姫}を寺域の葬り、御霊屋「静寂殿」を創建されました。
伊達家を学習するに 地区内に所在する 最高の史跡です。

明治維新後の悲運まで 学習したようには感じられませんでした。当然でしょう。年寄りの生涯学習ではありませんから。

子供達に 絶えず語りかける ガイドしました。
おばあさん 「わたし 歴史 好きなの」と 質問されました。

結果 60分ガイドになりました。

ここで、3組 連続し 12時です。
るーぷるばす乗務員さんの言 「反応あり 相性合えば・・・・・」です。
1回60分 3連続 でも  「反応あり 相性合えば・・・・・」で、疲れを感じませんでした。




11 月 2 日 (土)  



「仙台藩準一家天童氏」展

多賀城市埋蔵文化財調査センターで開催されています。
関連企画として講演会が、

演題  「天童氏と八幡のまち」
講師  宮城学院女子大 J・F・モリス教授

で開催されました。

天童氏は、清和源氏の流れで、天正12(1584)年 最上氏との戦いに敗れ、国分盛氏を頼り、以後伊達家家臣 準一家 になった。
知行1673貫 八幡邑に在所を拝領。

天童氏の八幡村 在所 拝領の原型形成は慶長(1596−1614)年間。
天和1(1681)年の「宮城郡八幡村天童氏屋敷ならびに家中・足軽屋敷絵図」@から兵農分離政策浸透する以前が見られる。

仙台屋敷は 寛文9)1669)、享保9(1724)、寛政元(1789)の仙臺城下絵図によれば (六軒丁・五橋付近・片平)と3回 屋敷替している。
@から 現在の地図に 対照したが 在所・天童屋敷を 確認出来なかった。

以上は アカトンボが 関心があり メモした部分。
全体は、重厚な講演でした。


展示目録に 天童勲氏が 数々の武具等を出展されており、講師は 多賀城市在住と 洩らしました。
「在所・天童屋敷址」に お住まいか 確かめたいものです。


講演会には、天童市から教育長始め市民有志がバスで大挙 出席 総計200余人。
仙台での 歴史講話に 必ず 顔を出す 某女史 始め 常連の顔はありませんでした。



11 月 1 日 (金)  



10月30日の追記

折損杉枝

10月1日瑞鳳寺山門で待機中 突然の強風。瞬間です。
待機中の黒ピカピカのハイヤーのトランク部を 折損杉枝が直撃しました。

凹傷 10mm位に 流れ擦過傷。
黒ピカピカのハイヤー故 傷が見えます。営業に支障は?????

TV局待機中に、市道路課作業車が、道路の真ん中に停車。杉の森を見上げています。
「過日 折損杉枝がハイヤーを直撃し 傷を付けました」の市民の声に

「市に電話があった。車の塗装等修理費 休業補償等 氏の負担なるがろう。市所有林だが保護林だから切れない」と呟きながら 現状を撮影して居ました。

たむろしていた 「タクシー氏 口々に 儂の車なら 傷見えないのに」 「○○氏が電話したそうだ」と語っていました。


あかとんぼ の見解
仙台市所有林は 知っています。 保護林かもしれないが 観光名所の入り口です。下草を刈り 間伐する の手入れが 疎か だと思います。
仙台市に3ケ所しかない 歴史公園です。
観光を推進する おもてなし を 唱えるからには 組織の横割連携し 清掃・美化にも 配慮すべきと思います。



独逸人

涅槃門を撮影している欧米系の若い男女。
「何処の国人?」に 「独逸」

涅槃門の麒麟を如何に伝えるか?
独逸人は、ジャガイモが主食で、ビールはお茶代わりにガブガブ飲むと聞いていました。
(50年前 学友が教えてくれ 蒸かしたジャガイモをつまみに ビールを飲みました)

で、「日本で1.2に上手いビールは?」

続いて、彫刻10枚全てが異なり、又、見る位置を異にすると画面が変わるを 指刺確認して貰いました。
日本文化の粋を堪能したでしょう。

独逸語で「お墓」は? に 「ガ―プ」。 「殿様は?」 「??」 「王様は?」 「キング」
では、 ここは、「キング オブ ガープ」  顔を見合わせて ???


It is well-known and is the graveyard of Date Masa,une annd his family.
ここは、伊達政宗やその一族の墓所があることで有名です

と英語通訳ガイド GOZAIN では ガイドしております。

この団体に 日本語圏外からも多数の方が参ります。ガイドの機会が多くあります。
仙台・日本の為 一緒にガイドしましょう とお誘いしております。





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