2014年7月の日誌
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7 月 27 日 (日)  



猛暑

相馬家領内 野馬追が始まった。
梅雨明けのムンムンし、太陽が照りつける炎天下の行事。

政宗公の葬儀が行われた日 寛永13年6月23日・・1636年7月25日
その日の天候は、「暁雨少降、夜明ヨリ晴、段々快晴、炎蒸甚」と治家記録に記されています。

正に、梅雨明けの天候です。
気象庁は梅雨明けを宣言しませんが 炎蒸甚 あかとんぼ 梅雨明けを宣言します。


河北新報宅配部の広報 {KAHOKUほまわりクラブ}のコラム 片平の散歩道F で瑞鳳殿を紹介しています。
記事 中程に

「土・日を中心に活躍している(瑞鳳殿ガイドの会)の皆さんのユーモアあふれる説明も、訪れる人を引き付ける。」と、あります。

確かに ガイド仲間は、「年代・史実は正確に語り、ガイドを聞いてよかった」との声を頂けるガイドを目指し 実践しています。

ユーモアあふれる説明も、訪れる人を引き付ける の記事は 正しく評価して頂き 嬉しい限りです。
更なる 励みになる様に また、掲載紙を入手出来ない会員の為  記事を 事務所会員連絡板に貼りました。


9時前に 団体を 有料ガイド団体が ガイドしていました。
昨日 石巻の蒲鉾店・製紙工場を見学、今朝 仙臺城址を見学 瑞鳳殿参拝に訪れ 松島瑞巖寺に向かうとの事。

某 村会議員達は 先進地視察と称して 名刺交換後 即 大相撲見学に走ったと報じれていました。

某村会議員達と この会社と どちらがエライか 比較しては 駄目でしょうね。


宇和島市役所に勤務されている家族が見えました。

7月22.23日の牛鬼まつりが話題になり、09年に1ケ月櫻観測でお世話になりました話になりました。

「Wさん ですか?」 と 問われ、「ハイ Wさんに、Sさん 市役所では SSさんに、ZIさんに お世話になりました」
「はい その方々 お付き合い あります」

これでは 御親戚の来場です。更に丁寧に 感仙殿地区まで ガイドしました。

宇和島で 「Wさんはじめ 皆様に あかとんぼ 元気に 秀宗公と政宗公等をガイドして居た と お伝え頂ければ 嬉しいです」とお願いしました。



7 月 25 日 (金)  



歴史講座

演題 平安末・鎌倉時代の伊達郡
講師 仙台市博物館市史編さん室嘱託 三好俊文 先生
主催 郷土を愛する歴史の会

上記講座が6月12日開催されましたが、他会合と競合し欠席しました。
主催する会の会員ではありませんから欠席しても資料はいただけません。

親切なNK嬢が コピーを 昨日持参してくださいました。
た講義内容は、伊達郡が1189年に伊達家の領地になるまでの動き、伊達郡の成立、立地環境 そして平泉王朝が敗退した遠因迄です。

ガイドで 1189年の出来事を語っていますが、学者の話しを聞くのは初めて? 新鮮でした。

資料で ここまで感ずるは、生講義は もっと迫力があったでしょう。

なお、伊達郡の地名の由来は 記されていません。
地名辞典にある 関西からの移住者の開発、 印達・・・イタチの変遷は 歴史学会では 公認されていないのでしょうか?



伊達家のふるさと たかはた伊達の会
2010年9月に設立されました。

記念講演が、福島県文化財保護指導委員の菊池利雄先生でした。
2010年10月 14時30分から、
伊達家18代当主による 「現代に生きる伊達也の心」と題する講演がありました。

2011年7月の総会は15時30分からで、
記念講演は、高畠町文化財保護委員 島津憲一先生でした。

2012年7月の総会は15時20分からで、
記念講演は、高畠町文化財保護委員 島津憲一先生でした。

2013年7月の総会は15時00分からで、
記念講演は、高畠町社会教育課文化係主任 小林貴宏先生でした。

この時点で ワケあり 退会しました。
名簿上 仙台市が17名いました。

この度 ある方から 「仙台支部を結成するから 入会しませんか」 とお誘いを頂きました。
現在 仙台在住者が 何人 参加しているかわかりません。しかし、、

退会した経緯と 仙台支部の活動目的が不明であることから 返事を 保留しています。


菅野正道先生 オッカケ隊

生涯学習者に かなり います。
知的仕事に従事していたNK嬢も その一人です。

7月5日 川崎町での 菅野先生の講演、交通手段確保出来ず 不参加となった。悔しい。
ところで あかとんぼ さん 参加したでしょう。資料 コピー チョウダイ。

快諾しました。が、出会いはいつか?



7 月 24 日 (木)  



歴史講座

演題 動く大藩・動かぬ大藩ー幕末仙台藩の自意識と奥羽
講師 宮城県公文書館 専門員 栗原伸一郎 先生
主催 郷土を愛する歴史の会


奥羽とは?東北とは? イコールでは無い。
伊達家は、全国3位。前田・薩摩の次、配置からも 鼎の足。

大藩意識や奥羽地方を重視する意識・・・・・幕末 戊辰の役の行動に影響を 与えたか?

奥羽列藩同盟 結成迄の動きを 人の動きではなく 意識面に重点を置き 解説をしてくれました。

帰路 地下鉄 偶々 同座席となりました。

未来の人が、過去の出来事に論評されるのは 当事者には 迷惑至極と思います。
日々 処理・対応している人々の 知識・先見性は均質では 無い筈。
目先の出来事・利益に惑わされ 声の大きい人が多数でなかったか。
先見性の優れた 強烈な指導者が 例えば 政宗公 に様な人が 居れば 伊達家は 維新の改革のバスに乗り遅れなかったのでは?

と あかとんぼの 持論を申し上げました。(講座終了後の発言を反省しています)

栗原先生は 幕末 伊達家家中は 大藩で 1人の個性で動く状態では なかった。
若生文十郎、但木土佐等は 調整型で 独裁型では なかった。

と教えて下さいました。ありがとうございます。


この講座 潜在的に人気があり 顔見知りがザックザック 全50人の参加では?
戊辰史の木村先生のお顔が 見えなかったは不思議。


主催者 郷土を愛する歴史の会のAさんから

「伊達家二の森墓所の 大年寺山に改葬した経緯・結果 おわかりなら 教えて欲しい。
仙台市博物館のB先生 文化財課のC先生に お尋ねしたが それは あかとんぼ に聞いたら と言われました」 

かくも 煽てられれば 猿も木に 登ります。
伊達家御当主が 経緯等を記載された 仙台藩志会藩報「きずな」を お届けする事を約しました。

郷土を愛する歴史の会のBさんから

「大年寺山伊達家墓所に 側室・老女等も祀られているそうだが その理由は?」

に、「側室でも 生母と 単なる側室では 扱いに 大きい違いがあります。経ケ峯にも事例があります。
寶華林廟に 確かに 側室・老女等が祀られています。それは 何故か は 興味なく調べておりません。わかりません」と答えました。



7 月 22 日 (火)  



大義山覺照寺

御一門 宮床伊達家の菩提寺です。

瑞鳳殿ガイドの会では、伊達家御一門を知る 第2回として 宮床と岩出山のご廟の参拝と要害跡の見学を計画しております。
本日 仙台藩志会の用務に併せ 参上し 宮床伊達家ご当主と住職のご快諾を頂きました。

本堂内外部と伊達家墓所の撮影も ご快諾を頂き 宮床伊達家ご当主のご案内で 隈なく撮影させて頂きました。
写真の公開は、仙台藩志会藩報「きずな」52号の発行後に 致します。



7 月 21 日 (月)  



晴天 快適。
参拝のお客様 続々と。

午前 あかとんぼ 1人。昼 Y嬢が来ました。助かりました。一応 2人体制です。
午後 SM翁がガイドに。安心し 交替しました。

識者の解説では 高校野球 決勝戦の応援に 皆さん 行ったのでは?


本殿でガイドして居たら、全身(頭髪から足指まで)を政宗公の黒漆五枚胴具足の金色を銀色に取換えた 準伊達カラーの感じのご婦人が 漸う 捕まえたの表情で迫って来ました。

「この御婦人のガイド終わりましたら 私に初めからガイドをしてください」
「はい 涅槃門まで戻るのは大変でしょうから ここ本殿から順次 ご説明いたします」

ガイドが佳境に入ったところで、「休憩にしましょう。行きたい所があります」

行きたい所をご案内し 待機に入りましたら、券売のS嬢 小穴から「あかとんぼさん 冷たい麦茶 どうぞ」
四字熟語「干天の慈雨」 灼熱の太陽下 語り続けて90分 喉がミイラ寸前で 生き返りました。

「私 仙台4日目なの 平泉・松島と観光しましたが毎日 雨。 
最期の日 政宗公の御霊屋 お詣りにしたの その功徳でしょうか。晴れた。 晴れてよかったわ。

ウェステインホテルの32階の部屋は雲の中 

客室は全室が28階から36階に位置しており、大きな窓からは緑豊かな仙台市街地から遠くは太平洋、蔵王連峰まで素晴らしい眺望を見渡すことができます  との事でしたが、視界ゼロ でした。」

ウェステインホテルは 最上階は青葉山より高い言われる 高層ホテルです。
ホテル室料も 高い はず

恐る恐る 「室料 如何程でしょうか?」に
「1泊 4万円以上よ」。

仙台市観光・交流課の視点計算では 仙台市に50万円以上の経済効果を 持たした事になるでしょう。
感謝の意を込めて ガイドしました。

この外 記憶に残ったお客様
● 東京の○○大学工学部3年生 2人
● 札幌の白石区にお住まいではなく 伊達市、白石区に詳しいご夫妻
● 岩ケ崎が故郷で、茂庭氏と要害と地盤に詳しい叔母と姪

楽しいガイドでした。


資料館前室の展示 仙臺七夕の歴史 に展示替 しました。
拝殿の飾りと 共に ご覧頂ければ。

午前 灼熱の中 K学芸員 他数名で 七夕ナイト ライトアップの準備作業をしていました。
8月6・7・8日 是非 お出でください。



7 月 20 日 (日)  



連休中日 されど大雨。

されど 参拝客の出足は遅いながら 徐々に尻上がり。

3組のみのガイドながら 大阪の若夫婦 「おもしろい」と 相槌をうってくれます。
40分 語りました。


ガイド仲間待機中の話題に

「旅行したら ボラガイドいたら 頼むべきだ」

「タイミング良く 相槌をうてば、予想外の事も語り 勉強・参考になる」に 意見一致しました。


仲間から こんなお客様も居ますと披露された事

1.「わたくし学芸員です。どんどん 話してください」と申したきり、話に無反応。
 興味ない の反応でも 反応があれば 対応できるが これには マイッタ。

2.学芸員と名乗るからには、どこの施設の学芸員か知りませんが、学識に自信が相当お持ちでしょう。
 当瑞鳳殿には 優秀な学芸員が2人も常駐しています。

 学芸員に 対応して貰ったら?
 ・・・・・・・・・

3.入口でガイドを依頼され 涅槃門から拝殿に進んだ際、後から登ってきた御客様(性別・年齢極秘)
 「はじめ聞いていない。涅槃門まで戻れ。入場料払っている」

 待機しているガイドに依頼しないで なぜ ガイド中の私に 無理難題を ふっかけるのかナ

 仲間の反応
 ○○さん あなた マサムネ(美男子)だから・・・・・
 お客様 ご自宅で 天下様 故 どこでも 天下様で通ると思っているのでは?


8月3日13時30分からの「政宗塾」の申し込 本日9時から電話受付 始まりました。
回線○本 9時から 全て 話中となりました。

殺到している ワケ は?
講師にあると 思います。

まだの方 急がれると 宜しいと思います。昼 既に 半分埋まったと 一息着いた 係の方が 洩らしました。



7 月 19 日 (土)  



「杜の都」の風景

{「杜の都」の風景}と題する 東北学院大学菊池慶子教授の講演が、北山市民センターで開催されました。

本来 本講座は ガイ養成を目的としたもので、4回連続講座に参加し ガイドに就労するが 参加条件でした。

北山地区の勉強をし、瑞鳳殿ガイドとしての素質向上を図りたい気持ち 満々なれど 業容拡大は 瑞鳳殿ガイドで 気力・体力限界で 出来ません。

悩んだ所、菊池先生から 「講師枠用意しましょう」 の温かいご配慮を頂き Uさんと参加しましました。


宮城野からの都 に。
その起源は、政宗公の施政にある。

森では無く 杜 であるところに、個性の発揮がある。

樹木も歴史遺産である。キルナ 移植するな・・・・・
絵図・地図・古写真・古絵葉書等を 写し その意義を説かれました。

西公園の大銀杏は、○○家の屋敷にあったもので 絵図に記載されている。


講義内容は、今回も記載しません。

仙台・江戸学叢書「杜の都・仙台」の原風景 樹木を育てた城下町 菊池慶子 著
仙台市史 近世2 第3章 仙台城下の景観と構造

を お読み頂ければ 6.7割 ご理解頂けます。

本日の 目から鱗 3点

1.仙台市史 近世2 214頁に 米川家屋敷図が掲載されています。
 大商家の屋敷図と見ていましたが、間違いありません。

 仙台の杜の形成は武家屋敷のみではなく、商家でも 積極的に植樹されていた。
 図の点々は 樹木の種類を示している。

 初めて知りました。市史の読み方講座 あればな の鱗でした。

2.170頁 湯目家屋敷画。この画を映し 地図に写真とで 現代に至る 変遷を示されました。
 これまた 鱗でした。

 原画は 瑞鳳寺の本堂に ひっそり展示されています。

 瑞鳳寺様 画の説明と現在と 至る経過の 一目化を 菊池慶子教授に依頼し 展示してくだされば あかとんぼ は お客様を瑞鳳殿に案内致します。

 (9日あかとんぼの瑞鳳殿ガイド後 先生 ゼミの学生を瑞鳳寺に引率した譯 只今氷解しました)

3.仙臺城大手門は設計図がある、資金とやる気があれば 復元ができます。
 3っ目の鱗でした。

 1999年3月仙台商工会議所がまとめた「仙台城復元基本計画(概要)14頁に 次の様に記載されていました。

 建築的特徴は桃山様式のもの(柱間の寸法等)である。
 昭和20年戦災にて焼失したが、昭和5年小倉強士の実測調査(各実測図参照)により その詳細を知ることが出来る。

 また、明治23年大手門の修復が行なわれた時の、修理報告「竣工緑」が発見されたので、
 その内容に基づき、より復原的な形状が考察されている。

 なっとく。


参加者からの質問

 防火 目的の植林は 行われていたか?

 その意識が無かった。古文書に記載無い事(見あたら事)は 答えられない。
 銀杏は 火に強い は知っているが。古木に銀杏が多い。


 瑞鳳殿等が戦災で焼失した際 周囲の杉の大木は 焼失していない は 杉は立木の時は 火に強いのか? 



7 月 18 日 (金)  



定年制

現在 定年制なる制度があり、60歳で職場を去るのが基本となっています。
社会との接点 社会への恩返し を思い・考え 瑞鳳殿でのガイドを目指す方も おります。
歓迎しております。

さて、ガイド仲間の研修資料に 仲間の識者の一人 Uさんがまとめた 忠宗公感仙殿の殉死者供養碑図を使用させて頂きました。
現場で見て呉れれば理解して頂けると 解説は致しませんでした。

殉死者に、

直臣12人中 60歳以上が 4人います。
陪臣 4人中 60歳以上が 2人います。

政宗公の瑞鳳殿の殉死者供養碑図(U氏作図)では、

直臣15人中 60歳以上が 6人います。
陪臣 4人の没年齢は確認出来ません。

最高年齢は75歳の岡崎貴斎です。
以下
66歳 桑折豊後常長 禄103石 職務不明
63歳 小平太郎左衛門元就 緑33石 元近習
63歳 矢目伊衛常重 180石 新田奉行
61歳 大槻喜右衛門定安 緑300石 鉄砲組士
60歳 入生田三右衛門元康 緑200石 虎間番士

忠宗公の殉死者では、
71歳 笹原鹿之助吉定 禄・職務共不明
70歳 古内主膳重廣 緑16000石 國老
61歳 工藤輿喜衛門清定 鑓卒 緑不明
60歳 遠藤九郎衛高次 緑500石 職務不明

(仙臺大人名事典による)

今 何故 殉死者の中の60歳 以上を抜書きしたか です。


東北学院大学菊池(柳谷)慶子教授の著書「江戸時代の老いと看取り」に、

江戸時代は、定年退職の制度は無かった。幕臣の場合、病気隠居は40歳以上、老衰隠居は70歳以上で 請願し 初めて認められた。

70歳迄 働くべき年齢であった。

70歳古稀過ぎて 大出世した事例が大岡越前守忠相。72歳で10000石の大名になり、奏者番 の役 現役75歳で歿した。

伊達家では、隠居年齢基準は60歳であったが、80歳を超え90歳を超え 現役が居た。
1849(嘉永2)年の調べ 35名の氏名・年齢を記載しています。

意外 長生きこそが「武士道」であった。


この記事を拝読が 政宗公・忠宗公の殉死高齢者を見直すきっかけです。


定年・年金・老々介護等 日々の問題は、ガイド仲間には身近な問題です。
江戸時代には どうであったか?
歴史に学ぶ 視点から 参考になる 著書です。



7 月 17 日 (木)  



妙雲廟界

ガイド仲間の研修で、妙雲廟界に足を踏み入れた途端 SH翁から「あかとんぼさん何故 9代周宗公 11代斎義公夫妻の墓所となったのか。地震の被害はあったのか? その補修作業の方法は?」の先制攻撃?


説明を聞いてから、切れ間に、質問をする のタイプでは無い。
あかとんぼ には、なぜか?  その基因を理解している 故 「アトデ」とは 申うしません。


作製配布して資料は マアマアの出来 と自画自賛するもの。
でも、質問事項は 記載していません。

「何故 9代周宗公 11代斎義公夫妻の墓所となったのか?」は、わかりません と答えました。

11代斎義公は1824年8月に経ケ峯を廣瀬川からの浸食対応の大工事を行っています。その功績で。
同夫人芝姫は、10代斎村公娘で、11代斎義公の正室である。単なる正室ではない。

故 此処に祀られたと認識している。
只 裏付ける史料には 未だ至っていません。

9代周宗公については、将軍に謁する事無く、子をなさずに 17歳で病死し、故に 青龍院殿故陸奥國主紹山隆公大居士です。
しかし、経ケ峯との 縁は 存じません。

以上の様に回答しました。
即 識者から 「将軍に謁する事無く、子をなさず に亡くなった故 大年寺山に葬る訳にいかず、ここに葬った」の声がありました。

感謝するも、裏付ける史料を示して頂かない事には お客様に ガイド出来ません。

どなたか これらについて 裏付ける史料を示して頂けませんか? 


「地震の被害はあったのか? その補修作業の方法は?」は、

約6cm 左右にズレました。復旧工事は 伝統工法で施工されました と答えました。
石匠の技術について 感仙殿参道から南端に立ち並ぶ 石燈籠の火窓の列と基礎部の秘法を 説明し 確認して貰いました。




7 月 16 日 (水)  



瑞鳳殿ガイドの会 研修

ガイド仲間の知識の平準化を目的に、下記内容で開催しました。

第1部
瑞鳳殿について。博学のO様 9時30分〜10時30分

第2部
経ケ峯伊達家墓所の内、瑞鳳殿以外について。あかとんぼ 10時40分〜11時40分

全て 了知している方に語るにしても 60分は厳しい です。

あかとんぼ は、
時間内に 伝えたいこと全て 語れない。言い忘れる、聞き忘れる 等から 後日 活用出来る様に 資料を配布しました。

ガイドの会会員30人中19人参加 陸奥国分寺ガイドの会から2人参加 頂きました。
急用不参加の3人には 後日 瑞鳳殿でお会いした際に資料を。

あかとんぼ資料 ご希望の方 メール添付送信致します。



7 月 15 日 (火)  



宇和島伊達家 江戸屋敷

仙台伊達家の江戸屋敷は、仙台市史近世2 特論「仙台藩江戸屋敷とその変遷」に 全てが記載されている。


さて、宇和島伊達家はどうか?

特論では、秀宗公は
1602年から1614年まで 伊達家江戸屋敷
江戸城に程近い、上屋敷。(千代田区日比谷公園)に隣接した本屋敷8千代田区内幸町三丁目・帝国ホテル付近)で過ごしたとの推論が成り立つとあり、

1614年宇和島伊達家として 独立大名になってからは?


上屋敷は、現在の港区六本木 国立新美術館と政策研究大学院大学の場所。
大正年間 軍用地になり、1928年陸軍第一師団歩兵第3連隊兵舎。1945年占領軍用地、1962年東京大学生産技術研究所用地に。2001年に現在の姿に。

下屋敷は、現在の渋谷区恵比寿3丁目付近。
明治の町村制施行時、澁谷町下澁谷字伊達跡
1928年 渋谷区伊達町 に。
1966年 現町名に。町内会は「伊達町会」に、人口4000余 世帯2500戸 

以上は、「宇和島がわかる きずな 2014夏 号によりました。
購入希望の方は (株)エフオート 0895-25-5130に 問い合わせください。

あかとんぼ は 宇和島クラブ(宇和島市役所内)から恵送受けました。



7 月 13 日 (日)  



台風8号の後遺症

9・10日と西日本では 台風襲来で大騒ぎしました。
その結果 12.13日の旅行を取りやめされた方 多数ではないでしょうか?

昨日に比較 参拝客は激減しました。
JTB特約客は 皆無でした。

JTB特約客を待機中に通常ガイドの依頼が入りますが、特約の優先で この待機時間 30分程に 10組20〜30人の方を御断りします。
そして JTBのお客様は 来ない。

ガイドをする為に 早起きをして 待機しています。
「逃がした魚は大きい」 のみならず 30分程のロスタイム 限りある人生の無駄使い と悔しい思いです。

11時40分 降雨です。ガイドを断念しました。城下に駕籠を走らせましたら 豪雨となりました。
豪雨では ガイドできません。早い決断 当たりました。



歴史に学ばない者に前途は無い

まなびめ と題する学術の世界と市民をつなぐ情報誌があります。
菅野正道仙台市史編さん室長が A4換算 8頁ほど 語っています。

仙台を発展させた政宗の都市計画 の表題
1.32巻の「仙台市史」が来年完結
2.最新の研究で政宗像を読み直す
3.「通説」を疑うことも歴史を学ぶ楽しさ

詳しい内容は 情報誌を お読みください。


歴史を学ばなくとも 日々の生活は出来ます。
然し 現在あるのは 過去があるからです。 ある方式・流れがあります。未来の予測が 出来る筈 です。

ガイド現場での 楽しみは、.「通説」を疑うことなく 主張されるお客様と 最新の研究で判明した事柄を 生涯学習で教授され その知識での対決です。

本日は 対決は ありませんでした。



7 月 12 日 (土)  



忠宗公357遠忌法要

10時開式

読経  正宗山 瑞鳳寺 大和尚 和尚

焼香  1.伊達家18代当主・・・・・・・・・・・・・・・伊達 泰宗 様
     2.一関田村家当主・・・・・・・・・・・・・・・田村 護顕 様
     3.殉死者後裔会代表・・・・・・・・・・・・・古内 重義 様
     4.仙台藩志会会長・・・・・・・・・・・・・・・伊達 洋司 様
     5.一関藩志会会長・・・・・・・・・・・・・・・小山  信  様
     6.大年寺会長・・・・・・・・・・・・・・・・・・・阿部 和子 様
     7.公益財団法人瑞鳳殿常務理事・・・・富田 律男 様

挨拶  1.伊達家18代当主・・・・・・・・・・・・・・・伊達 泰宗 様
      要旨
      忠宗公は質実剛健な方でした。
      政宗公の意をよく理解され 良き治世をされました。

     2.仙台藩志会会長・・・・・・・・・・・・・・・伊達 洋司 様
       全文
       緑が眼に深く感じるここ経ケ峯の感仙殿に眠られる、仙台藩二代藩主伊達忠宗公357遠忌法要に際し、
       一言ご挨拶を申し上げます。
       
       忠宗公は慶長4年1599年初代伊達政宗公の次男として、大阪にお生まれになられ、
       元服に際しては、徳川二代将軍秀忠公から一字賜り、忠宗と名乗られた。

       寛永13年1636年、政宗公の死去によって38歳で二代藩主となられ、
       60歳で生涯を閉じられたるまで、22年間仙台藩主の座におられました。

       忠宗公は、筆舌に尽くせないほど、数多くのご功績を挙げられました。
       心の広い方で武芸に通じ、産業の振興に努められ、郷土の発展に力を尽くされました。
       ご自身で「戦国の世に生まれなかったのは残念」と述べられておりますとうり、大きな器量の持ち主でありました。

       瑞鳳殿、東照宮、亀岡八幡宮など、仙台の著名な社寺の造営のも尽くされ、今日の仙台市、否 県土の発展を図られました。
       今、ここに二代様のご遺徳を偲び、ご冥福をお祈りして、ご挨拶と致します。

      3.公益財団法人瑞鳳殿常務理事・・・・富田 律男 様
       要旨
       忠宗公はお優しい性格の方と聞いております。
       妹君牟宇姫に宛てられた文に表れております。現在 企画展を開催しております。是非 ご覧ください。

       芸術性については、目貫(メヌキ)の2匹の猪が端的に表しているのでは?
       本日の記念栞を御覧ください。

10時40分閉式


1.一関田村家御当主、藩志会 一行 6名が臨席されました。

2.忠宗公御木像と御一緒に写真を撮りたいが カメラを持参されなかったとの事、僭越ながら あかとんぼ が撮影しました。

3.正コ6(1716)年3月田村下総守誠顕(ノブアキ)公が奉納した石燈籠が善應殿前にあります。
 (綱宗公逝去 .正コ元(1711)年)
 3.11東北大震災で 境内約100基の灯篭が倒れた際、この灯篭1基のみ倒壊しませんでした。

 田村護顕様以外 初めての方でしたので、灯篭迄 ご案内しました。

4.歓喜に咽んでおられました。
 前会長赤塚愛人夫人から、田村家2代建顕公は「奏者番」(大目付・目付・と共に三役)に任命された。
 (本来は、譜代大名で 言語明瞭英邁な人物でないと務まらない職務)

 話題が進み、浅野内匠頭預かりに 江戸城に受け取りには 目付1人等75人を 派遣した。
 内 騎馬4人の内1人 牟岐氏が居り 会員である旨・・・・・語りました。

5.一関藩志会は、 となっていますが、 で構成されている様子でした。
 会員30余人とか。

6.瑞鳳殿ガイドの会会員は 五色乱星の制服着用し 10名が参列しました。
 感仙殿前で 忠宗公木像と共に撮影を 予定していましたが、一関藩志会同様では 恐れ多く 中止しました。


午後 第20回市史講座「廣瀬川上流域の近世災害史」に参加しました。

政宗公は、当然 話題になりませんでした。
施政者とは、を問いただす話題がありました。

「天保飢餓の際、7月 御上より町方へ2000俵御払 8月 城下2000俵御払、しかし 在郷者には米1盃も売らず、殊の外迷惑」の記録が 紹介されました。

伊達家の政治・行政は、萬民等しく幸あれ とされて居たか 問うものと 理解しました。


会場は青葉区大澤  故か 顔見知りは 少なかった。
廣瀬の歴史生字引 九十翁の佐藤さん 矍鑠として参加、講師に質問していました。



7 月 10 日 (木)  



國寶の瑞鳳殿・感仙殿と善應殿 空爆焼失 69年目

1945年7月10日0時05分から約2時間30分、米B29 123機が仙台市中心部に空爆を敢行、500Haの市街地が焼失、1400人の命が奪われました。

國寶の瑞鳳殿・感仙殿と善應殿も この空爆で焼失しました。
「燃える 紅蓮の火煙は 約100km離れた 築館の町から 2日間 見えたと 古老が語っている」と ガイド仲間のSさんが教えてくれました。

1975年 瑞鳳殿の再建が始まりました。当時の風潮として 再び戦火で焼失したく無いが優先 耐火建築で再建されました。

文化財は 目に見えない個所も 忠実に 復元すべきと 瑞鳳殿の石垣の裏込め コンクリート流し込みを阻止されたと語る 宮城県文化財審議委員を務めている菊池慶子東北学院大学教授の様な方が 39年前 居てくれればと悔やまれます。

もし 焼失しなかった、または 忠実に再現され 何らかの指定された場合 現在の様に開放されず ガイド活動が規制されたでしょう。
(あかとんぼ の生甲斐がなかった)


伝統仙臺七夕

彦星 織姫 の2本の竹飾りが 拝殿に 公開されました。
8月6.7.8日は 涅槃門前に 彦星 織姫の2本は 先端で 交差し 飾られます。


臥龍梅

拝殿前の臥龍梅2世 中々 実が 成りません。
昨日 約束刻限前 参拝したら 1個 落ちていました。

政宗公からの 賞与 (年金でボーナス無いのは可哀想) と理解し 有難く頂いてきました。
昨日 学生に この臥龍梅の 実はこれと 見せました。ヘーと云う 表情でした。

10年程 実生 を試み 失敗しました。
再度 挑戦します。



7 月 9 日 (水)  



東北学院大学文学部歴史学科

本日 標記の学科 菊池優子教授のゼミ3年生15人を、瑞鳳殿を主体とする経ケ峯を70分要して案内しました。

八戸南部家・津軽家・山形水野家以外は、伊達家領内の学生で、瑞鳳殿を主体とする経ケ峯を訪れたのは、初めてが大方でした。

「伊達冶家記録の解読はこれからで、伊達家の歴史に精通している訳ではありません」と 事前に菊池教授に 云われましたが、単なる観光客とは異なり それなりの知識を持っていると 確信し、観光客バージョンでない バージョンでガイドしました。

自分としては 質・内容を 充実して語ったツモリです。
学生には 今後 伊達冶家記録・伊達家の歴史の解読等で 記憶が蘇り 理解頂けると思います。

果たして、歴史教育界の重鎮の菊池教授の期待に 応えられたかは?????


1.高橋是清翁
 参道登口に立つ、高橋是清翁書の石標が紫陽花に埋もれて参拝者から見えません。
 美的景観の確保の発想は結構であるが 文化財を遮るのは 如何かな と申しました。
 高橋是清を 知らない世代と 思いましたら ほぼ全員から 知っているの反応がありました。サスガです。

2.綱宗公甕棺
 資料館で これは綱宗公が 実際に入れらた甕棺 そのものです。
 常滑焼であり、焼き物の時代史・物流史・殿様の葬祭文化史からも 貴重な品です。
 国宝クラスの遺物と思います。なぜ 何らかの指定がされないのか不思議ですと 持論を述べました。

 菊池教授は 「そのとおりです。市史編さん検討会で 何故か話題にならなかった」と 話されました。
 今後 重要文化財の指定に向けて 動いて頂ければ 幸いです。

3.石垣修復
 涅槃門内 左手石垣は、 3.11東北大震災で崩落しました。
 修復された現状は 苔の生え具合が 崩落しなかった右手石垣と異なる位です。

 崩落石垣に 見事に裏込されていた。
 宮城県文化財審議委員を務めている菊池教授が現場を確認した際、「後世に伝える文化財である。現状回復すべきである。
 コンクリートの流込工法は駄目」 と施工機関に伝えた。
 
 結果、崩落前工法で修復された。

4.側室のお墓
 公子公女廟に 11代斎義公側室砂沢氏安子(常照院献球妙栄尼大姉)のお墓があります。公子公女墓に比較して簡素です。
 位置的に日陰です。
 11代斎義公ご夫妻のお墓は、目の前 妙雲廟界の日当たりの良い所に 高さ3mの立派なお墓です。
 生前の寵愛と 没後のお墓は 比例しないようです と持論を述べました。

 菊池教授から「側室でも 生母になれば別です。
 大年寺山の寶華林廟に 6代宗村公側室であった性善院(7代重村公生母)、7代重村公側室であった正操院(8代斎村公生母)
 のお墓が 殿様と同じ規模で あります」と 説明が ありました。

5.虚空蔵堂古道
 三原良吉著(瑞鳳殿創建以前の経ケ峯)に
 「往古の堂の所在地に元虚空蔵堂の地名を今に伝える。堂の跡も寺からの通路の後も明らかに指摘できる」の記述があります。
 図(瑞鳳寺諸廟への藩主参拝図 (推定1800年頃作成)と 対照すろと 現在閉鎖されている散策路と一致しますが? と話致しました。

 菊池教授から 「あかとんぼ の推論は正しいだろう」のお言葉を頂きました。
 嬉しくなり 図コピーを学生諸子に お土産にと 託しました。

上記の様な 教示を頂き あかとんぼ 自身も勉強になりました。


菊池優子教授の著書
1.「江戸時代の老いと看取」 日本史リブレットを 署名入りで 6月28日に頂きました。
2.「杜の都・仙台の原風景  仙台・江戸学叢書 に署名入りで 本日頂きました。

1.の本 目から鱗 です。何れ 何が 鱗 か記します。
2.の本 買いそびれていました。
 7月19日北山市民センターで、杜の都について 10時から講演があります。読んだ上で 聴講します。

菊地先生のご指導・ご配慮に感謝申し上げます。ありがとうございます。



7 月 8 日 (火)  



薬師堂(陸奥国分寺)

陸奥国分寺は、天平13(741)年聖武天皇により 建立された我が国最北に位置する国分寺です。
慶長12(1607)年 政宗公は、この寺址に薬師堂を建立された・

1956年から、仙台市教育委員会は発掘調査を開始した。
仙台市教育委員会は、発掘調査結果を市民に公開する目的で 「陸奥国分寺薬師堂ガイドボランテイア会」を結成させ 育成・指導しています。

毎月8日が 現陸奥国分寺管理の薬師堂の祭日で、堂前に 半間四方程度の出店(200店位)が群立します。
参拝より 買い物目的の人々がウンカの如く参集します。

薬師様も陸奥国分寺跡に 興味を示す人は 極めたマレです。

この環境で ボラガイドを務める方々のガイド技術を習得と 政宗公建立に関わる史蹟の学習目的に、今月も参加しました。

本日は知的生涯学習団体三の丸会(仙台市博物館館内ガイド)会員100余人(会発表)が 3組に分かれ ガイドを受けていました。
後尾に付き 学習しました。

興味深い質問・会話を。(真面な質問・会話を除く)

1.政宗は、なぜ ここ陸奥国分寺跡に 薬師堂の建立を決断したのか?決定経緯を。
 (ガイドからの回答は聞き逃しました。)

2.大きいお寺であったならば、当然 門前町があり 繁栄を極めたでしょう?
 (質問の意図する門前町とは? 浅草・浅草寺の仲町か?)
  ガイドは 「末寺 坊がありました。連坊小路の地名があります」と答えていました。

3.阿吽の造形
 ア. 犬
 イ. 獅子
 ウ. ライオン
 エ. シーサー
 が あるヨネ。
 (この奥州に ライオンやシーサーの阿吽の造形が居たとは?)

4.狛犬の雄雌
 狛犬の阿吽と雄雌の区別は イコールではありませんヨ
 根白石に チンポコを持った狛犬がいます。
 これ以上は語れません。(ガイドは高齢者故の言でしょう)


共感の拍手

ある参加者が「ここの佛は、いつ 見れるか?」か、クドクド質問して居ました。

Aガイド 見れる の言葉を意識しないで 説明していました。

Bガイド 割り込み 
「佛様は信仰の対象であって  するものです。美術・鑑賞の品ではありません。見る ものではありません」
と啖呵を切りました。

共感の拍手を送りました。連れられ 何人か拍手していました。

威勢の良いBガイドに 後刻 周囲無人の時 低声で

 「瑞鳳殿のガイドは 本殿で 拝礼し、お客様にも (ここに 政宗公が眠っておられます。拝礼を。 お賽銭はガイド後にでも)と 語ると 欧米人 昭らかに異教徒の方も 拝礼されます」
と 伝えました。



7 月 7 日 (月)  



瑞鳳殿ガイドの会 

7月定例役員会を瑞鳳殿会議室で開催しました。

4・5・6月の活動実績の報告
ガイドとしての素質向上目的の研修計画の報告
その他
上記について 忌憚の無い意見交換を行いました。


戊辰の役殉難者慰霊祭
2018年に150年祭を盛大に催すべく 仙台藩志会幹部が 宮城県・仙台市の要職先に陳情致しました。
金魚のウンコよろしく 随行し、

趣旨説明の際、瑞鳳殿参拝者にガイドで 戊辰の役弔魂碑の説明しています と 瑞鳳殿ガイドの会の活動をさりげなく広報してきました。



7 月 6 日 (日)  



参拝者 多数です。

9時前に到着しましたが、続々。バス何台か ハイヤーも。

12時些か疲労を感じ 帰ろうとしたら 「ガイド居ないですか?」 券売口に問うている乙女2人。
疲労回復に効果あるかと期待しガイド。

久々にUさんがガイドに。

特記すべき質問は?????

Uさん曰く

お客さんに モノ知りがいて 
「ガイドさん知っている 政宗公の正室 愛姫が 政宗公の墓室 瑞鳳殿に入らないで 瑞巖寺の寶華殿に入ったのは 政宗公に側室が沢山いて それを怒って 政宗公との死後の同居を断った から」

と 教えてくれたそうです。ガイドイラズ です。


あかとんぼ のお客様

東京のお嬢さんに 伊達家の8家紋を問われ 答えていたら 割り込ん出来ました。

九曜紋 問われ答えましたら、佛の世界 序列 御教を 語りだしました。

私には ワカリマセン とお断りしました。続いて

源義経は 頼朝の女3人を連れ 平泉に逃げたから 攻められ 滅ぼされた。知っているか?

私には ワカリマセン とお断りしました。続いて

伊達家の始まりは 政宗で、政宗は 暗愚であった。知っているか?そうだろう

そうだろう と言われて そうです と答えられますか。
鄭重にお引き取り願いました。

建設的 話は 日をあらためて。



7 月 5 日 (土)  



講演会 川崎のほこり

本7月5日13時30分から 柴田郡川崎町山村開発センターで 開催されました。

演題・講師は、

1.笹谷街道沿線の戦国史〜砂金氏の動向を中心に〜
 菅野正道 仙台市博物館市史編さん室長

2.江戸時代の青根温泉〜湯守佐藤仁右衛門家の古文書から〜
 高橋陽一 東北大学東北アジアセンター 助教


講演内容の記載は致しません。


1.会場は あかとんぼ邑から 約60km 蔵王山麓の町役場別館3階大ホール。
 町1番の大会場です。主催者の見込み以上の参加があり 資料が不足しました。

2.参加者の多くは 仙台の歴史関係生涯学習参加常連(含む顔見知)者 多数でした。
 交通手段は、バスか自己の車か 何れです。
 12時41分到着時 駐車場は満車でした。

 ガイド仲間のO様は 瑞鳳殿ガイドをしてから 会場入りして居ました。敬服。

 歴史関係講座に必ず現れる、菅野先生オッカケ女性隊長のKN氏 前列に坐してニコニコしていました。
 車が無い、乗せてくれる人がいないで 仙台8時のバスで川崎入りをした。(13時に川崎に到着するバスは これ以外無い)で9時に着いた。

 講演始まるまで4時間あります。それまで 何をしていたか 洩らしません。
 「講演始まったら 疲れて居眠りしないでネ」
 「ソウ それが問題なの」 結果は???

3.砂金氏 (イサゴ氏) あかとんぼ には馴染みの無い名前です。読めませんでした。

  「砂金氏の居城は 元は本砂金にあり、天正年間 前川本城に移った。山麓に「宿」と称される集落は城下集落ではないか?
 町長さん 宿 の地名 今もありますか?」と菅野先生は講義中に

 隣席の方「ある ある 儂が住んでいる所」頷いていました。

 更に隣席の方 御親戚とか「東京から菅野先生の講演を聴くため 一族に参集を呼びかけ 訪町した」
 名刺を頂きました。NPO江戸長唄の会会長○○とありました。

 砂金氏の 末裔と 名乗られました。
 「今 自分から上を自分で、仙台市博物館の○○学芸員を度々 訪れ 上から下の系図を調べている」 と申されました。
 中々 結びつかないが 何かわかれば と 菅野先生と名刺交換されていました。

4.今年1月12日 東北歴史博物館で講演会が ありました。 
講師 古川一明 学芸員
演題 埋もれていた戦国時代 砂金氏の城とその城下

 を聞きました。此処まで記載して思い出しました。(2014/01/12日誌)



7 月 1 日 (火)  



紫羅背板地五色乱星 陣羽織

6月28日開催 時代考証学会に 大河ドラマ「独眼龍政宗」を担当された吉村芳之氏が ドラマで 政宗公役 渡邊謙さんが 着用した「紫羅背板地五色乱星 陣羽織」 を持参 披露されました。

休憩時間に 何人かが 実際に羽織ました。
写真 撮影 成功とは 申しません。

あかとんぼ と 肥前様 の撮影したものを 加工 表紙に掲載しました。





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