2014年9月の日誌
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9 月 30 日 (火)  



伊達家廟所

次の内容のメールを頂きました。

伊達家の墓碑に関する論考を書いておりますが、以下の内容に関する出典などわかりましたら、ご教示いただければ幸いでございます。

周宗公と斉義公は、なせ゜、瑞鳳寺に埋葬されることになったのか。

5月に瑞鳳殿へ参拝時にガイドの方にお聞きしましたところ、
周宗公は、実際は12歳ぐらいで死去したとも言われ、お子様墓地が近くにあるためで、
斉義公は寺下の広瀬川による侵食を治水工事で修復したため

というような回答でしたが、色々調べたのですが、関係する情報が見当たりません。


これについて、次の内容で回報しました。

私が現在 理解している範囲内で 答えさせて頂きます。

> 周宗公は、実際は12歳ぐらいで死去したとも言われ、お子様墓地が近くにあるため

御承知の通り
周宗公は、
寛政8(1796)年3月 2日 江戸で生まれました。父は、斎村、母は鷹司輔平娘。
寛政8(1796)年9月29日 生後6ケ月 で封を継ぐ。
文化6(1809)年1月    疱瘡を患い 危篤状態に。 数え14歳
文化6(1809)年       年後半以降 10代斉宗になる宗純 儀式・接客の場に臨む。
文化9(1812)年1月    疱瘡後遺症病状悪化で 隠居打診。
文化9(1812)年2月7日  致仕。
文化9(1812)年4月24日 逝去。 数え17歳
以上の経歴です。

「数え14歳(文化6(1809)年)に亡くなったが、数え17歳未満では相続が幕府から認められない故
若年寄・掘田正敦、奉行・中村日向等 協議し、生存を装い、相続が認められ数え17歳を待って、公式に
致仕をした」と 故土生慶子先始め 郷土史家間で語られています。

ガイドが「実際は12歳ぐらいで死去した」との話は、郷土史家間で語られている事と、
満年齢換算によると推定します。

何故 経ケ峯に埋葬されたか? その理由を示す 史料 には 私は未だ接していません。

なお、政宗公が経ケ峯に「終の棲家」墓所を設ける様指示したの記録がありますが、
政宗公の決断の根拠 心情を記した史料 にも 私は未だ接していません。


> 斉義公は寺下の広瀬川による侵食を治水工事で修復したため

斉義公は、
文政7(1824)年8月 瑞鳳殿東斜面 (経ケ峯東斜面 鹿落坂市道部分)に切込接石壘築堤大工事を施工。
鎮所として「太山府君碑」を設置。(現存しています。花・香を供し お詣りされています)

この護岸工事の功績によると 故三原良吉先生始め郷土史家間で語られています。

これについても 伊達家文書等史料には 私は未だ接していません。以上


メールを下さいました方 
伊達家墓碑の論考 完成しましたら、「仙台藩志会」・「瑞鳳殿ガイドの会」等でご披露頂きたいものです。


何故 経ケ峯に祀られたかは、疑問を抱いておりました。年忌法要は?

伊達家文書、当時の奉行の文書を探れば、解明出来るかもしれません。
あかとんぼ は、古文書読解講座に通いましたが、モノならず。古文書を探す、読むは断念しております。

周宗・斉義公の動向は、「仙台市史・近世3 第1章藩政の推移 第1節揺れる藩政 4幼年藩主と掘田正敦」を 参考にしています。


なお、2014年6月20日の日誌に、次の通り記載しました。

話題
9・11代様の法要は?

読経の際
4代 (綱村公)大年寺殿肯山全堤大居士
5代 (吉村公)続燈院殿獅山元活大居士
6代 (宗村公)政コ院殿忠山淨信大居士
7代 (重村公)叡明院殿徹山玄機大居士
8代 (斎村公)永慶院殿桂山蘭栄大居士
10代 (斎宗公)広徳院殿英山元高大居士
12代 (斎邦公)慈雲院殿龍山真珠大居士
と 法名を 読み上げられました。

政宗公・忠宗公・綱宗公は それぞれの御命日に縁忌法要が営まれます。

9代 (周宗公)青龍院殿紹山隆公大居士
11代 (斎義公)曹源院殿正山栄因大居士
は 経ケ峯に 墓所が ある為 法名を 読み上げられません。

経ケ峯でも 大年寺山でも 法要されないのか と心配になっています。





9 月 28 日 (日)  



爽やか 行楽の秋です。

昨日は、1000人に近い参拝者があり、ガイドは、てんてこ舞いだったそうです。
今朝も 早くから 参拝者が続々と。

九州一円から 青年会議所会員風10人 「20分で要領よく頼む」と9時10分。
九州一円の割に、細川家 島津家 領内からは居ないの返事。

理解は早い 一度の説明のみ。それども 5分超過 25分要しました。


宝井 琴嶺

男1・女3の構成。しかし姉妹会には見えません。
一人 気難しい女性。色々質問を飛ばします。質問の回答を優先し 話を前後しながら 瑞鳳殿と政宗公を語りました。

「政宗公について よく御存知ですね」
「私 講談 をやっています。売れないけど。で、政宗公について知識と興味あるの」

「上野 鈴本に 出ておられますか?。 お名前 教えて頂けませんか?」
「名刺は どこかいな?」

あかとんぼ の手帳にサインされました。

宝井琴嶺 と そして住所も。

今一人 「私 弟子の ユウレイ です」 ユウの文字が分からない。レイは嶺でしょう。

WEB調べました。 「売れないけど」とは ご謙遜 
日本文化 講談 の世界で 「花の12女人」の一人でした。

講談協会HPによれば

宝井 琴嶺

本名   塚田 善子
階級   真打
出身地 青森県黒石市

芸歴   東京芸術座、山本安英の会、琴鶴修羅場塾

    平成2年 真打披露
主読物 「源平盛衰記」、芸道苦心談

趣味  観劇、山歩き、エッセイ

備考  平成5年 文化庁演芸部門芸術祭賞受賞
     著書「女流講釈師駈歩記」(平成19年出版)
    「朗誦語り塾」「渥美講談塾」講師

自身のホームページ 無
と ありました。

と 早く その素性を知れば (政宗公を講釈しているのか? どの様に 語っているか) 尋ねたかった。
明29日 三陸町で 復興支援 講談会 を開催するそうです。


ジェトロ - 日本貿易振興機構 - JETRO

「ジェトロ関連の要人が午後 参拝される。本来 瑞鳳殿ガイドの会の出番ですが 諸般の事情で「伊達家武将隊」が先導します」
と 仙台市観光・交流課の担当者から直接と公益財団法人瑞鳳殿を経由し 鄭重なご連絡を頂きました。

K副会長ほか 午後も活動する ベテランの仲間に 突然のガイド依頼があった時、その対応を頼みました。


本日は、各界要人の多数参拝の日でした。





9 月 27 日 (土)  



仙台藩志会・伊達学・探訪会

家格 一家1000石 所預かり 元吉郡気仙沼本郷 鮎貝家の居館(煙雲館)を訪れました。

説明によれば、
祖は、藤原不比等とし、伊達家と同根である。
出羽国下長井庄鮎貝に住し、忠宗公の時代に「松崎村」を与えられ、片浜の地に居館を定めた。
でした。

庭園は、煙雲館と称し、回遊式池泉庭園で、海洋(磐井崎)と島嶼(大島)を借景として、気宇壮大、岩出山の有備館と並び県内双璧と称される。
池泉庭園の裏山頂上が鮎貝家歴代の墓所となっています。墓石の墓所です。

座敷から池泉庭園を眺めれば そのままご先祖様をお詣りできる配置になっています。

座敷からの視点を南に移すと、岩井崎・大洋・大島が眼下に眺められる位置関係にあります。
震災以前は 浜に家屋が密集しており岩井崎・大島が見えなかった。

現在、眼下の家屋が 全てが流失し 岩井崎・大洋・大島が一望です。 
1637年頃の風景かな と洩らしたら、
側に居た老人が「イヤ、鮎貝氏が居館を築いた当時、漁民の家があった。私は ここの生まれ育ちだ」
一見 70代初め 仙台から同じバスなのに、377年前からこの地で生きている様に断言されれば 反論で出来ません。仙人でしょうか?


帰路の車中で
「政宗の弟 小次郎 は実在した人物か?」
「小次郎の生活記録 軍議・戦いに参加した 話・記録に 接していないが?」
「政宗は小田原に参陣した際 生きて帰れる保証が無かった。小次郎を誅しており、誰に家督を譲るを考えていたか?」
が、公開討論会風に論じられました。

発言者は、菅野正道・佐藤憲一 両先生の講演を聞き 著書を読んでいると感じられました。

菅野先生は、本27日 大和町まほろぼ大学で、29日豊齢学園公開講座で 戦国時代の伊達氏 の内容で講演されます。
本27日は競合して 29日は申込時既に満杯で 何れも駄目でした。オッカケ隊員としては 残念の極み。 



9 月 23 日 (火)  



秋分の日 お彼岸の中日。
宮城野萩が満咲。金木犀も満咲。全山 香っています。

ご先祖様をお詣り済ませたお客様 9時チョンで瑞鳳殿を参拝に見えました。
1番は、鳥取県のドリーム観光さま。
「アレ ガイド居たの?あと5分早く 出勤して貰えば 頼めたのに」とバスガイド嬢。

今朝の出発地は、何処でしたでしょうか?作並温泉?秋保温泉?仙台城下?

聴き取りの範囲内では、仙台城下のホテルが圧倒的。偶に秋保温泉。皆無に等しいのが作並温泉。
作並温泉に泊まれたお客様は、そのまま 山寺に向われるのかな?


20代の男女4人。本殿を撮影し おシャベリしています。日本国語ではありません。
「CHINA?」に
「NO  THAI LAND]と 自信に満ちた語調で返ってきました。

本殿の撮影ポイントを紹介し、本殿を開扉した状態 「厨子」の写真を 見せました。
あかとんぼ を撮影していたので クルリと回転 背の竹に雀の家紋を。シャッター音が響きました。

最後 タイの礼法 合掌して 去りました。
瑞鳳殿を楽しまれてヨカッタ。
あかとんぼ も 彼岸の中日に 若いお嬢さんに手を合わせ合掌されては 佛様になった気分。これを功徳と申すのでしょうか?


栗鼠 が 参拝者に挨拶に出ました。

各年代揃 4〜6人程 寛永14年作 龍頭を案内し 「現在の龍頭は」と、視線を移動して貰う途中の胡桃の木に 栗鼠がいました。
お客様が先に見つけ「あれ なにー?」
「栗鼠です」
一斉に カメラを向けましたが? 望遠でなくては 栗鼠と識別できる写真撮れたか?

本殿前 南面から飛天を説明しようとしたならば、又 栗鼠が。
先程より 至近距離です。身長20cm位 胡桃を食べているか 小太りです。

「100万都市の真ん中で 野生の栗鼠に長時間 会えるとは 幸運です。今回の旅行 この後も 幸運が訪れるでしょう」に。
お客様 大喜び。何人か 握手を求めて来ました。


好青年。
「政宗公は、なぜ 此の地を遂に棲家とさだめたのか?」と聞いてきました。
政宗公生誕秘話 長海上人・湯殿山・幣束そして満海上人に至る お話を知っていての質問です。

「14時に仙台を離れます。瑞鳳殿と仙臺城址を確認すろのが今日の目的です」
されば 歴史学者の裏付の無い 私見です。

ここ経ケ峯は、青葉山の丘陵の1先端部で、三方を廣瀬川に囲まれ、要害に地です。
西方に、仙臺城があります。子孫の行く末を 指間に臨める距離にあります。
東方には、城下町が開け、また、穀倉地帯 広大な田圃です。家臣・民・百姓の安寧を祈る位置です。
はたまた、太平洋が望めます。西方浄土を目指したか。欧州を目指したか?

これらの事が 政宗公の決断に影響したのでは?
フムフムと聞いていました。

政宗公の父 輝宗公の墓所はいずこに?
虎栽和尚はいずこの生まれ?
伊達家の宗派は?
等を尋ね、

最後「僕 京都です。妙心寺の近所です」と。
経ケ峯をウロウロ散策していまて11時過ぎまで 「ありがとう」と去って行きました。


郷土史家 Uさん が見えました。

「18日日誌を読み、仙台市史(特論 奥州伊達氏の系譜)、高橋富雄・小林清治・土生慶子の各先生の著書を読ました。ウーン」 
と 唸った所で ガイド依頼が入り 話が中断し 再開の機会ないまま、2歳の女児に握手求められ 本日は終わりました。 



9 月 21 日 (日)  



爽やかです。

手水舎に行列を作っています。最大時5m長 待機20余人?
皆様 お彼岸のお墓詣りなのに丁寧に 禊をされています。女の子は男の子に 教えています。


入口からのお客様の動線・視線を観察しています。

手水舎から6m先の「ガイド無料」の看板を 捉えていません。視線が看板に行きません。
その割に衝突しません。不思議です。
手水舎に 無我の境地 で向います。
この現象 仲間のAさんも感じていて不思議だ と洩らしています。


昨日 欧米系のお嬢さん。拍手か、合掌か 問われました。此処は佛様です。合掌ですと答えました。合掌されました。
この事を 有料ガイド団体の代表が見えました際、話しました。
「ウン 大学生が通訳で参拝に見えた際、合掌でなく拍手する様伝えていた。今の大学生は 神も佛もワカラン」と悲憤慷慨。
「それは入試の際、あらゆる神仏に合格祈願した後遺症では?」
「ウン そうかも」でチョン。


観光パンフ等は、瑞鳳殿を伊達家3代の御霊屋と記載・放送しています。

「これが瑞鳳殿か?」 ガイドを依頼しない熟年男性の大声。
「ここが3代の殿様の墓か?」
「此処が伊達家の墓か?」 自分の先祖累代の墓石と混同したらしい。

「御霊屋とは」の質問は、今日はありませんでした。
最近 「ここは、建物のお墓です」と事前に 説明している故でしょうか。


本日、亜細亜系外国語を話される お客様 三々五々 20人位見えました。
「温州大学」と大書した手提袋を携行されたお客さまがいました。

「温州」とは、「温州蜜柑」の産地 愛媛県の大学か?はたまた、彼の地?
帰宅 WEB調査しました。

基本データー
英語表記:Wenzhou University
住所:(中華人民共和国)浙江省温州市高教園区
電話番号:+86-577-8659-8000
URL:http://www.wzu.edu.cn/
創立:1933年
所属官庁:浙江省
とありました。

大学の宣伝を瑞鳳殿に来てまで 行っている? 逞しいものです。

東北大学は、「東北大学」と大書した手提袋を作製し 活用しているでしょうか?

昨日、東北大学川内キャンパスで「交通史学会」が開催され、配布資料の封筒には、小さく「TOHOHOKU UNIVERSITY」記載されていました。


昨日・今日と 「クマモン」の 肩掛け鞄・リックを背にしたお客様 三々五々 多数見えました。
お客様同志 無関係の関係で なぜ 同じデザイン 同じ模様入り を使用されているのか 不可解でした。

昨日、仙台でサッカー 鳥栖対仙台の試合があったのです。
クマモンと共に応援に来仙 瑞鳳殿に参拝に見えたのです。一件落着。

仙台の「オニギリ丸」は、バッチになっても 何故か リックサックに為らないのは なぜか?



9 月 20 日 (土)  



萩が咲き始めました。
涅槃門入って 左石垣の上です。

宮城県の花が、みやぎの萩
歌枕の宮城野の萩にちなんで命名された。
歌枕のほうは特定の一種を指すものではなく、宮城野に萩が生えている風景からきたものである。

仙台市の花が、センダイ萩

その相違点は わかりません。

この宮城野原に程近い 榴岡小学校の1年生と3年生に母親と祖母を案内しました。

今 宮城野原は球場と貨物駅になった故か 祖母も みやぎの萩 知らない。そうなの? と言われました。
宮城野原が帝國陸軍の練兵場の時代は、満咲きであったかも。確かに、 馬の餌 でした。

3年生から質問されました。
「政宗の兜の月は、細い月なのか?その謂れは?」

さて困った。前立の半月、政宗始め殿様は 細い半月。それ以外は 身近から家臣に至るに 月が太る と理解していましたが 、なぜかは 調べていませんでした。

「お爺さんは、調べていませんでした。3年生君 君も調べて 分かったら教えてください」と兜を脱ぎました。


朝 蚊が1匹も いませんでした。10時を過ぎた頃から 出て来ました。

10時20分 外国女性が 着衣面積40%で登ってきました。蚊が喜んで 寄ってくるか?

ガイド依頼されました。本殿迄 約40分 蚊1匹も寄って着ませんでした。不思議。
瑞鳳殿の蚊は 和食が好きで 洋食は 駄目なのか?


「瑞鳳殿でガイドをしたい」と Aさんが来ました。
Bさんと中学校が同期です。同級生ではありません。Cさんとは、豊齢学園の同級性です。Dさん主宰の講座の聴講性です。との自己紹介。

Bさんと中学校が同期で、同級生ではありませんと、断ったのは、当時 1学年900人で、学校全体で3000人。
午前の組と午後の組があって、後の組が廊下で待機していた。
60人学級でとあった。 今 30人学級で担任が2人は 想像もつかない。

この様な環境で 艱難辛苦 勉学された故か、ガイドの先輩にピタリ張り付いて 勉強しています。
10月には 一本立します。ご期待ください。



9 月 18 日 (木)  



歴史講座に出席

演題  鎌倉時代の伊達氏
講師  仙台市史編さん室 三好俊文 氏
主催  仙台明治青年大学郷土史を学ぶ会

三好先生の講義を聴くのは初めて。
新進気鋭の研究者の三好俊文先生は、鎌倉時代中心に伊達家の系図を語りました。

あかとんぼ が意識した事項は、
1.伊達家の現存する系図が90種ある。
 なぜ 90種も存在するのか?

2.伊達郡以前の所領は、
  近世・・常陸国新治郡伊佐中村・・・中世・・下野国芳賀郡・・・・・現栃木県真岡市
  近世・・常州真壁郡伊佐荘中村邑・・・中世・・常陸国伊佐郡・・・現茨城県筑西市

  伊佐は、念西長男為宗の名字とし、伊達郡獲得以前の本領と理解できるが、中村について鎌倉時代の史料では確認できない。

  下野国中村荘と常陸国伊佐郡との間に、下野国長沼荘が存在する。(土生慶子著・伊達氏の源流の地)・地図提示。

  伊達を名字とした後念西一族が奥州に土着した時期も不明。
  「吾妻鏡」での活動状況・・・勘案すれば、基本的に鎌倉に拠点を置き続けたと考えられる。

  仙台市史記載の
  「12世紀に常陸国西北部の伊佐荘から下野国東南部の中村にかけて領主化したと考えられ。
  奥州合戦を契機に伊達郡へ土着、奥州伊達しになっていく」

  の記述は、些か 疑問である と講義されました。


悩ましい問題です。

◎ 伊佐・中村。栃木県真岡市の中村城址も、 現茨城県筑西市の観音寺も 土生慶子のご案内で現地を訪れました。
◎ 確かに、伊達郡へ土着した時期は 不明確ですが 平泉侵攻が契機です。

あかとんぼ これまでの知識とガイド内容を如何に整理するか?

図書  
 土生慶子著・伊達氏の源流の地
 仙台市史 古代中世編 特論奥州伊達氏の系譜
を とに角 再読します。

参考文献 6書の内 3書は保有しています。小林清治著「戦国大名伊達氏の研究」が 我が書庫にあるかです。



9 月 17 日 (水)  



図書 「寒き夏  仙台城下 天明飢餓緑」

著者 宇津志勇三 「仙台同人」同人、「四ツ谷の水を街並に市民の会」会員

2014年09月01日河北新報 「東北の本棚」で紹介されました。

「四ツ谷の水を街並に市民の会」の仲間であると 著者から頂きました。


天明飢饉では、領内で20万人 4人に1人が餓死したと言われる。その中で 変わらない四ツ谷用水の清流を背景に、
安倍清騒動〜松窓乙二見聞録
天明の銀札始末〜小人目付新兵衛見廻禄
天明に飢饉の後で〜大番士宇津志俊之介の場合

の 3篇が描かれています。

参考図書として、仙台市史近世3、もう一つの廣瀬川(佐藤昭典著)等 22冊を上げています。
著者とは、四ツ谷用水の本流(始点から終点まで)、街中堀の痕跡を 何度か一緒に探索しています。

仙台市史近世3等記載の事柄を 足と目で確かめ 天明の飢饉や銀札始末(直接の危機対策と財政経済政策からの対応)を 読み手が理解容易に立体的に 描いています。

小説は、作者の発想が主体となり 史実から飛躍する事がママありますが、著者が職業作家でない故 史実に忠実と言えます。
仙臺城下の歴史・事件が身近に理解出来ます。

「木の森」(022−293−1303)から 本体1500円で販売されています。 



9 月 15 日 (月)  



爽やか天候。

お昼の便で帰る。その前に瑞鳳殿を参拝したかったのお客様。
和歌山・鹿児島・福岡・長野と山形県金山町からと 早くから お見えになりました。

将軍吉宗・西南の役・善光寺・黒田官兵衛・戊辰の役等が 話題になりました。

鹿児島の方は、鹿児島7県人の墓 瑞鳳寺境内に祀れらているに 驚いていました。
福岡の方は、黒田官兵衛は耶蘇大名なのに なぜか お寺に祀られた。でも、お寺もお墓も福岡には無いヨと語りました。


ガイド仲間のYさんから 尋ねれました。

1.蟹牡丹紋。
 1680(延宝8)年に、綱村が近衛家から贈られ、崩していると教えれてきた。
 何故 近衛家から贈られたのか?

 仙台市博物館学芸主幹高橋あけみ先生は

 「仙台市博物館調査研究報告第19号」に

 蟹牡丹紋は近衛家から貰った牡丹紋を変形させたものものである。茎がなく、蟹が鋏を振り上げた様に見えるので蟹牡丹という。
 また、仙台伊達家の家紋なので仙台牡丹とも呼ばれている。 

 1999年11月5日講演「伊達家の家紋について  家紋に関する記録と美術資料に見る家紋」で、

 1680(延宝8)年に、伊達家側藤原氏宗家である近衛家に申し出て使用が許された。
 そのため17世紀後半頃には特に重要視された家紋である。
 18世紀後半には、近衛家の家紋紋をめぐって宇和島伊達家との確執もみられる。

 あかとんぼ注
 伊達家は、藤原鎌足を祖とする藤原氏です。


2.雪薄紋
 政宗の時代から使用したとの事ですが、いつから。どの様に使われましたか?

 仙台市博物館主幹高橋あけみ先生は

 1999年11月5日講演「伊達家の家紋について  家紋に関する記録と美術資料に見る家紋」で、

 政宗代からの使用例がある。ただし この時代の遺品では薄の向きが逆で、細部にも違いがみられる。
 三引両紋などと異なり、普段使いに用いた家紋と考えられる。

  「仙台市博物館調査研究報告第19号」に

 雪薄紋は政宗公から使っているようである。特に忠宗が好んで使っておえい、衣服に普段に使っていたという。
 綱宗も衣服に用いていたし、綱宗は、紋を下賜する時に使っていたこと。

 資料に見る雪薄紋 を記した最後に

 .雪薄紋は伊達家から拝領した以外 他家での使用例を聞かない。伊達家特有の家紋と言ってよいかもしれない。


以上の様に 発表されて居ます。
伊達家家紋について 、伊達家史叢談ほか史家の書 あります。
一番 信頼おけるのは仙台市博物館学芸主幹高橋あけみ先生の論文です。

「伊達家の家紋と政宗の陣羽織」と題する講演を  11月6日 13時30分から講師 仙台市博物館学芸主幹高橋あけみ先生 で 
博物館ホールで、瑞鳳殿ガイドの会 主催で開催します。

興味・関心ある方 どうぞおいでください。
資料作成の都合から 事前に ご一報ください。





9 月 14 日 (日)  



連休中日

昼迄 2回 通り雨 デッカイ。

1回目 涅槃門から拝殿に至る間で バラバラと。
本殿前に到達出来ず 拝殿でフアイルを広げ 説明。

2回目、涅槃門前広場に居ました。枝葉で雨宿りし お客様を待ちましたが、雨は止みません。お客様の足も止まりました。
売店に避難しました。

経ケ峯の局地的 降雨でした。
片平丁・西公園付近の路面に降雨の痕跡ありませんでした。


中華民国からの中年ご夫妻。
「私 日本国語しか話せんが」に「構わない 頼む」でガイドしました。

書道本場の方です。扁額「佐々文山」と「忠宗公」 違い 味わい お判りでした。

最後に、「全部理解しました。タノシカッタ」と、嬉しいやら 恐縮です。


相前後して、日本国語圏外からの外国人の集団20-25人位。
62石段からピ−チクパーチク 賑やかです。

拝殿で、本殿を背にして 10人程 (喧々諤々熾烈)な論議。
ある評論家から 「あれは中国です。珍しい。団体でみえる とは」の評がありました。


昨夕 NHK・BS「独眼龍政宗」 山場。
小田原城を眼下に望む陣にて、前田利家・徳川家康等諸侯居並ぶ席にて 政宗 白衣の死装束で 臣下の礼 を取る場面。
ひれ伏す政宗の背首を 杖代わりに指揮棒で叩き 「遅かったな この首飛ぶところであったな」

「この場面はNHKの創作である」とある生涯学習で 喝破された講師が居られるそうです。

ある方は、治家記録に無くとも別記録にある。
当主伊達泰宗氏が監修されています。
全く架空の場面をNHKが作る筈が無い。

高齢者歴史を語る会場で 水面下の漣となっています。
真相は?????


1590年(天正18年) 奥羽仕置きに赴いた秀吉を 宇都宮に出向いた政宗が、「銀伊予札白糸素涓懸威胴丸具足」を拝領する場面が放映されました。

兜に熊毛を貼り、ヤクの毛を引き回す。
小札には銀箔が押され、胴左脇の猩々緋の羅紗布。
金の軍配形の前立。
などが鮮やかな色彩対比を見せている。
重要文化財。仙台市博物館所蔵。(仙台市博物館・伊達家の武具によりました)

手持資料にコピーがありました。
福岡・中華民国のお客様にお見せ致しました。
お客様は 放映時間の関係でテレビはみていませんでした。

お客様は どう感じたか?

政宗と秀吉との関係。
秀吉の美意識が 政宗の美意識に影響?
それが、 瑞鳳殿に反映したのでは?


本日 蚊 皆無でした。
昨日の蚊撲滅隊の戦果でしょうか?


第51回政宗まつり が大崎市岩出山町で開催されました。
13日 伊達家霊廟に墓参で始まり。
14日 仙台藩志会有志 裃・陣羽織で 参加の伊達武者行列が山場でした。
あかとんぼ は不参加でした。



9 月 13 日 (土)  



敬老の日 3連休 初日

8時50分から お客様 ドンドン参拝に見えました。
自分達 マイペースで参拝をする、ガイド不要 (二人の雰囲気を壊すな 野暮だぞ)との事

9時 「バングラデシュ人民共和国の要人が10時30分に来訪する。ボラガイドが対応と その筋からの連絡です。よろしく」
と公益財団法人瑞鳳殿の職員からありました。

「わかりました。どなたでも結構ですが、私日本国語のみです。英語・ベンガル語(バングラデシュ人民共和国公用語)出来ませんが」
「大丈夫です。案内と通訳が付きます」

10時30分 お見えになりました。
文化と宗教が 異なります。
言葉を慎重に選びましたが、通訳の方 同時通訳出来ない場面もありました。

妙運廟界から参道口迄で 12時。
仙臺城跡に これから 向うで 終わりました。

政宗と伊達家に関わる文化 どの程度伝わったでしょうか?



この様な場合には、10分前に待機態勢を取ります。
ガイド出来る自由時間限られました。この様な時に限り ガイド依頼があります。

9時45分 「10時15分のバスに乗ります。ガイド頼む」 杖をついた老婦人2人。
此処まで バス停から10分を要しています。
10時15分のバスに乗るなら 瑞鳳殿を10時に出発しないと 乗り遅れます。
ガイド時間 10分間です。厳しいです。
本殿の政宗像に絞りました。

お客様 心残りの表情。
私も心残りです。 充分にガイド出来ない事は、

ガイドブック等に参拝時間 40分と書かれたものがあります。
お客様は、バス停からバス停迄 40分と理解し、計画を組まれる方います。
歩行速度 低速の方は無理です。休憩も見学時間もありません。


10時 ご依頼が入りました。
「予約が入り 時間が限定されました。ポイント厳選 20分で宜しいでしょうか」

涅槃門と本殿に政宗御木像に 絞りガイドしました。
お客様 納得され 喜んで下さいました。安堵しました。


本日 何故か 蚊が多いです。
涅槃門前 雲霞状に乱舞しています。
此処の蚊は 今話題のデング熱の病原菌持って居ない筈。

参拝者に保菌者が居て、蚊に移されると 大変です。此処の蚊に伝染します。
蚊と参拝者が 接触させない様にしなけらばなりません。

遂に 蚊撲滅隊が 出動しました。



9 月 12 日 (金)  



秋晴

昨夕の豪雨は何であったのか?
あかとんぼが乗ったバス、道路冠水通行止・迂回不可で、ある地点でストップ。
運転手は、運行管理者と交信、絶えず情報を公開。

消防車と警察のマイクロバスが サイレン鳴らして慌ただしく到着。

あかとんぼ邑に至る道は、谷筋から山背の組み合わせです。
何本かの谷筋で路面冠水らしく 交通規制のお巡りさんを配置のバスらしく、何人かを配置 慌ただしく移動して行きました。 

「お客様 バスは暫く動きません。本来 バスは電話禁止ですが、留守宅に安否を知らせる電話 どうぞ。 お腹すいた方、トイレに御用の方 前方にコンビニが見えます。どうぞ。
バスは、待っています」の放送。

バスが串団子から数珠 状態で停車。
お客様が乗ってきます。
「前のバスは 後ろのバスより 先に動くだろう」 正解です。唯 いつ動くかです。
60分後 交互通行で開通しました。

巣に着いたら NHKTV全国ニュースで報じています。
伊予宇和島から 早速の見舞いの電話。

今朝も報じれていた、(車が水没し、人は消防署員に助けられました事柄) 朝 見に行きました。車は放置されていました。

瑞鳳殿の通います道です。昼 瑞鳳殿に向い際 レッカー移動の作業をしていました。
修理出来るか? 廃車か? 瞬間豪雨は 高く尽きました。



午後、英語堪能の先生お二人をガイドしました。

CHEERS英会話学校のC先生と東北外語観光専門学校のT先生に、2015年2月18日(水) 国際防災会議・対応勉強会講師をお願いし快諾を頂いてお、瑞鳳殿ガイとは、その内容をどんなものか確認したいと お見えになりました。

始 あかとんぼ の日本語理解して頂けるか心配でしたが、「案ずるがより産むが易す」でした。

C先生は、東北大学に留学もしており、在日10余年で、瑞鳳殿はガイド無で 4回訪れているそうです。
2時間を要して、経ケ峯全部をガイドしました。

「ガイドブックに書いて無い 話があり やはり聞いてよかった。で、話した内容 メモがあれば」のお話になり、未定稿 8枚のメモをお渡しました。



9 月 9 日 (火)  



秋晴れ 爽やか。

仙台コンベション協会のボラガイド担当役席2名と実習生1名が、瑞鳳殿でのガイドとは、どの様に、どの様な内容で 実施しているか?
ご視察がありました。

「ガイド居ます」の看板から、涅槃門・拝殿・本殿・弔魂碑・感仙殿・善應殿・妙運廟界と、10時から12時迄 2時間 K副会長が 説明しました。
詳しく と事前に要望がありましたので忠実に実行しました。

現仙台市の基礎を造られた政宗と歴代の殿様について、知識・興味あれば 最高・至福と感激したでしょう。

VIP案内 態勢で臨んでいます。
空気を読まないオバサン3人が 割り込んで来ました。
黙って聞いて下さるなら結構です。で、ないのがオバサンです。語ります。大声で。

本殿前で、Kさん 「ここは極楽です。・・・・・・・この鳥なんでしょう?」
期待した答えは「瑞鳥」です。

博学の一人 「ハーイ 極楽鳥 です」 自信満々。
「パブアニューギヤに 極楽鳥がいます。此処は現世に居ない動物です。瑞鳥です」と返されました。


ご一行を撮影していたら 「ガイドいませんか? 上で25人待機しています」お嬢さんが走ってきました。
期待に背く譯に行きません。お断りをいれ 急ぎガイドに。

関東学院大学建築・環境学科の勉強会との事。
ガイド内容 一般観光客向けを止め、1637年創建時の写真・平面図を開示、現在の建造物と 対比説明しました。


感仙殿前 百日紅が満開 見事です。
花が 100日間 咲き競う 故 百日紅 と申すと Kさんから 教えて貰いました。



9 月 8 日 (月)  



仙台市史セミナー

昨日 午後 博物館で開催されました。

演題 仙台藩の刑罰
講師 吉田正志氏

歴史モノでは、これまでと変わった感じであり、参加者は少ないだろうと予測しましたら、
定員200人の15倍とか、別室テレビ中継を見る人もいました。

講師のお名前 初めて聞きました。これまでの歴史講座には?
その経歴は、東北大学大学院法学部教授でした。(現在名誉教授)

仙台市史・近世2・第2章藩政の展開第3節警察・消防の整備 を担当執筆されていました。
之より精読します。

江戸時代 全国一律の刑法は無く、幕府と各大名とは異なった。
先生は幕府、南部家・会津松平家等と比較し語られました。
法律学者が語る 歴史モノ。 歴史研究者が語る 歴史モノと 視点が異なる故 面白く拝聴しました。

綱村は、藩主の権力強化の1政策として刑罰権の集中を図った。
一門等は既主張し頑固に抵抗をした。(市史記述要旨)

これらが 後の一門衆からの諫言書が提出される対立、そして隠居に至る 基であったか と読みました。



ミニ講座

陸奥国分寺境内で、仙台市文化財課長島栄一主幹の「仙台海の道・川の道」と題してミニ講座(15分講座)がありました。

短時間ながら、塩竈港・船入堀・七北田川(付け替え)・船引堀そして 原町お米蔵と和田織部を語りました。

聞いていたご婦人 叫びました。
「わかった。昔 若い時 原町に 日本通運の原町支店があった。社内の格は、長町支店より上であった。
なぜ 支店があり なぜ格が上であったか 今 わかった。

江戸時代からの 米取引 集散が原町で 時代が変わっても行われ 通運金額が長町より多かったから だ。
アーアー 社史を捨ててしまった。悔しい」と。

原町の物資集散については、仙台市史・地誌誌 383・391頁に簡潔に記載されています。

ご婦人の叫びで 市史を開き直しました。紙面に出ない歴史が見えました。



9 月 7 日 (日)  



見たまま 体験しまま 3景



蚊の媒介による病気が蔓延した明治神宮関連施設は、閉鎖したと報じらています。

瑞鳳殿には蚊が沢山いました。
なぜか、若い女性が刺され、爺様は刺されません。
「ここの蚊はヘイスケで、練馬大根は大好きで、干枯れた牛蒡は好みでは無い」と軽口をたたいています。
手足の露出面が広く、62段の登りで汗をかく若い女性、汗をかかなくなった高齢者 この違いと思います。

瑞鳳殿では、蚊対策を効じています。
@ 中峯の低草木の刈り取り
A 蚊取線香の配置 券売口足元に2個 涅槃門前広場ベンチ10脚の各下に

効果絶大とは申しません、それなりの効果です。
今日は、 蚊 皆無でした。東京に出稼ぎに行ったのか?
季節要因でしょう。
しかし 「瑞鳳殿参拝で 発病した」が ないで 終わるを切望するのみです。




全長30cm程度 短足の犬 2匹と1匹を連れた夫妻。
「犬連れて入れますか?」 「繋いで、小さいです よろしいです」で 入って来ました。

手水舎で「この水飲めますか。犬 石段登って疲れています」
犬に 柄杓から飲ませろのか心配になりました。

「人は飲めますが」 に 「人が飲めれば犬も呑めます」 マアそうでしょう。
カップを袋から出し 飲ませました。 内心 一安心です。

この後 2匹の血統と出産の様子を滔滔と語り ガイドは要らないと 涅槃門を潜って行きました。


夫婦

白髪で矍鑠としていますが 卒寿は過ぎている夫妻。 仲睦しい様子で涅槃門の彫刻を眺めていました。
中に入って宜しいか 訊ね 透かし彫をガイドしましたら 金澤から来たと 加賀・前田様の文化を語り 喜んで下さいました。

間もなく、50代の夫婦に見える方から依頼されました。
「奥様 こちらが良く見えます」と透かし彫の説明を始めましたら、突然 「私 奥さんでありません。夫婦でありません」

ガイド内容は、お客様の男女関係とは無関係です。ご夫妻であっても 不倫関係でも 構いません。しかし 大声で宣言されると なんとなくガイドがし難くなります。初体験です。







9 月 6 日 (土)  



金山城

伊具郡金山邑は、要害 で、預かりは中島家 一族 2000石の大身です。

政宗 初陣の地であり、金山城は石垣があり、家臣の屋敷跡も 明確に残っています。
金山地区歴史伝承会が結成され、伊具三城の環境整備の努め、現地案内・広報に懸命です。

8月26日 まるもりグリーン・ツーリズム推進協議会で意見交換しました E副会長 夫妻が突然 瑞鳳殿参拝に見えました。
昨年、大内邑の皆様が大挙し 参拝に来た。その際 Uさんが 瑞鳳殿・仙臺城跡を 懸命に案内してくれた。感激・満足したと 推進協議会で報告されました。

それを聞いた 小斎邑と金山邑の皆様も、我らも 瑞鳳殿に参拝に行きたい となりE副会長が下見に見えました。
瑞鳳殿だけで 90分の時間を確保した行程を組まれる様 要望しました。

この地区 竹が産地で TV水戸黄門様の竹杖を作っている。現在 瑞鳳殿で提供している竹杖より 立派なものです。奉納したいが受け取って頂けかな との事。

事務所主任に伺いに走りました。
「有難く頂きます」と 「寄附採納願」の様式を示されましたので、そのまま伝えました。

参拝の日時が確定したら あかとんぼ に 「寄附採納願」を添付したメールを貰う事にしました。
バス1台に 積んで来ると 欣喜雀々。その日 Uさん 都合つけて欲しですが?

会員の皆様にと 栄養ドリンク1箱の差し入れ を頂きました。高齢者の頑張りを 評価されたのでしょうか?


午後 仙台藩志会の役員会があり 昼でガイドを終わりにしました。
ら、
13時頃、隣邑 丸森邑の邑主「佐々家」(所預かり 着座9番目 3036石の大身)の末裔 当主が訪ねて来られました。
以前 お会いしております。

瑞鳳寺境内に 大規模歴代墓所があり、墓参の折 あかとんぼ を忘れず 訊ねてくれました。
今回 名刺を託されました。

実は、午前に金山地区歴史伝承会E副会長夫妻 を ここ「佐々家」の墓所を 案内しております。

E副会長は、中島家の家老の末裔だそうです。


一同に会すれば、なんらかのお話 盛り上がったでしょう。僅かな時差での すれ違い 残念でした。


宇和島伊達家400年

宇和島伊達家の初代は、政宗の長男 秀宗で、1615年 元和元年2月28日京都を出発、3月18日 宇和島に入りました。時に25歳。
以来 9代256年 伊達家は宇和島を治めました。

秀宗とその子宗時は、1636年寛永13年6月23日の仙台北山での政宗公の葬儀に参列されています。

2015年3月18日(旧暦から新暦換算を行わず)記念式典が宇和島で催されます。
この行事の一環として、櫻 日本一早い開花地の面目で 、由緒ある地に 櫻の苗木 400本を植える計画が進行しています。

1口10000円です。ふるさと納税の対象です。
あかとんぼ 櫻観測隊参加の御縁で 案内があり、早速 申し込・送金しました。

この話を仙台藩志会常任理事会で 披露しました所 宮床・岩出山 の伊達家当主を始め 多数の方の協賛を頂き 寄付金をお預かりいたしました。

個人で直接 申し込む方式を 現地に確認中です。回報あり次第 記載致します。



9 月 4 日 (木)  



研修 補足

英語通訳ガイドグループGOZAIN様の昨日の研修は、誠に真摯でありました。

質問・討議の時間がグループの都合で設定されませんでした。
それでも質問がありました。

1.なぜ 夫婦一緒に葬られないのか?
2.棺箱に、どのように葬られたか? (現代を基準の思考)
3.甕棺は、伊達家家臣でも使用したか?

4.瑞鳳寺山門は、品川屋敷の門と表示されていたが、真物か?
5.高尾門は、1961年移築とあったが、高尾とは その素性は?
6.綱宗時代の門が250年保存されていたのか?

これについて
4.、品川屋敷の門は、下屋敷・品川屋敷の門かは?で、 伊達伯爵時代の品川屋敷門を模したものと聞いている。
5. 側室まで調べていませんので、その素性はわかりません。
6. 私も疑問に思っています。調べていませんのでわかりません。

と答えました。Uさんが居れば 即答されたでしょう。


観光ポスター

仙台市はスケートの羽生選手をモデルに、仙台の4大名所を背景にA1版の美麗なポスターを作り公開しました。
4大名所とは、仙台七夕・定禅寺通・仙臺城跡・瑞鳳殿と 申しておりますが 
実態は、瑞鳳殿ではなく 感仙殿です。扁額が写っています。

感仙殿では、国宝でした。現在は完全に復元されていません。
国宝時代掲げらていました飛天等の彫刻が復元されておらず、瑞鳳殿を参拝されたお客様は 国宝であったの説明に 首をかしげられます。
でも、それなりに 美麗です。

伊達家3廟あるを 宣伝する目的で 感仙殿を採用したのでしょうか?

例年11月末が 見事です。お出でお待ちしております。



9 月 3 日 (水)  



天気予報は、晴、高温。実際は、曇り、肌寒い。

仙台ボランティア英語通訳ガイドグループGOZAIN 様から 瑞鳳殿での実地研修の講師依頼を頂きました。

公益財団法人瑞鳳殿 W学芸員が 総論。
政宗と瑞鳳殿について。

あかとんぼ と K瑞鳳殿ガイドの会副会長と 2人で各論。
瑞鳳殿・感仙殿・善應殿・妙運廟界を 案内・説明しました。


冒頭 GOZAIN 様代表 「本日は観光ではありません。研修です。実戦に役立つようにお願いします」 と挨拶されました。

27人 男12人、女15人の構成、年齢構成は 瑞鳳殿ガイドの会より若い。
全員 真摯な態度で 熱心に聞き 聞き洩らさない 絶えず メモを取っています。

これまで、「研修」の名目で訪れた団体でピカイチ 真剣です。
瑞鳳殿60分 資料館30分 感仙殿地区30分の120分の時間配分を考えていましたが、皆様の熱意に引き込まれ 瑞鳳殿で100分を要しました。

彫刻の見所、私らが感じている外国人の興味の視点、撮影ポイント等 持てる知識・ノーハーを披露しました。
明日から 瑞鳳殿でもガイドする気持ちになる人が 居るだろうの 淡い期待を秘めて。

久々 私も相方副会長Kさんも ガイドの満足 を満喫しました。




9 月 1 日 (月)  



敬称

本日から 本「あかとんぼ瑞鳳殿ガイド日誌」では、原則「公」の敬称を付すのを辞めます。


これまで、政宗公、歴代公に 「公」の敬称を付しておりました。
反面、家康・秀吉・信長と ときの最高県権力者であっても「公」の敬称を付していませんでした。


これは、伊達領内に居住し、最大の功労者の霊廟で ガイドをさせて頂いていて 敬意を表しなくて良いのかの論によりました。

反面

歴史上の有名な人物に 敬意を表さないのは 理解出来ない。片手落ちではないか?
身内に 敬称を付さないのが 社会常識でないか。

歴史研究者は、研究対象者に敬称を付さない。これが「倫理」だ。

以上の様な論・教示を頂きました。

敬称も 時代で変化しています。「公」は1945年以降では。それ以前の資料は「郷」になっています。更に遡れば「殿」では?
ある自治体の看板に「政宗の命で支倉常長が・・・」の表示があるそうです。殿の敬称がなく、家来に何故敬称が付くのか?
書き手の重要度の基準の違いと 言えばそれまで。社会的に 非常識と判断され、記載内容の信用度が低くなるでしょう。

瑞鳳殿ガイド15年 本日誌も14年になりました。

歴史研究者には、なれませ。
幾何か知識が溜まりました。歴史研究者の卵にも なっていません。
しかし 鶏卵を入れた箱の籾殻にはなったでしょう。

籾殻から鶏卵には なれませんが、自身の成長 背伸びの機会として、歴史研究者の思考・倫理を見習い、
標記結論(原則「公」の敬称を付さない)に至りました。



文体も柔らかく 読み易い様に 努めます。
例えば、御遺体・御遺骨は、とりあえず ご遺体・ご遺骨に、更に 遺体・遺骨にすべきか 考えます。


今 何故?
認知症になっていませんが(本人が認知していないだけ?) 老齢・硬直症になりつつあります。

故に、内容が固定化し、表現能力も低下し 内容の陳腐化が始まっています。

で、
可能な限り老齢・硬直症を 遅らせたい 治癒させたい と思いからです。





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