2014年10月の日誌
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10 月 27 日 (月)  



昨日曜日は、仙台藩志会・伊達学塾の設営・進行の為 ガイドを休みました。
本日 代回で ガイドに。

同級会風 老春萬喫年代の小団体。
30分程度で申されながら 経験。知識から滲み出る質問が相次ぎ 40分なりました。
「次は仙台城に」
「資料館も どうぞ」
「忙しいだよ」
お忙しい年代では 無いようですが? 抜けないのか?

「おげんきで」と去って行きましたが 「我は トシヨリに見えるのか?」自問。


11時 一陣の風。木の葉が吹雪きの様に舞い降りてきました。天は見る見る暗黒に。
正に 龍が昇天するが如き 景色に変りました。

アブナイ。
大名小路 で バラバラ 大粒の雨。
不思議 トンネルを抜けたら 路面乾燥です。
城下と在の 違い。


仲間のSさん 「ブログ検索すると 仲間のAさん Bさんの勇姿が掲載されている」と 教えてくれていました。
早帰りしましたので 実験しましたが ヒッカリませんでした。

瑞鳳殿 の単語で検索したのですが?



10 月 25 日 (土)  



仙台藩金具職人の技 三藩主霊屋の錺金具

瑞鳳殿秋の企画展
本日10月25日から11月25日迄 瑞鳳殿資料館で開催。

口上

 伊達政宗公の霊屋(墓所)であると同時に、仙台藩の守護の象徴として建立された瑞鳳殿は、当時の仙台藩の建築技術と工藝技法の結晶とも言うべきものでした。

 その装飾は藩主を祀るに相応しく、技巧を尽くした彫刻や彩画が施され、外壁の黒漆と相まって豪華絢爛で威厳のある姿を現わしていました。

 装飾への細部にまで徹底されたこだわりは、金具といった部品にみ及び、錺金具という建築物を飾る金具が随所に取り付けられました。
こうした錺金具からは建立・改修に携わった工人(職人)の高い技術と芸術性の一端をうかがうことができます。

 瑞鳳殿の建立以後、この経ケ峯の地には二代忠宗公の感仙殿が、瑞鳳殿の建築様式を受け継ぐ形で立てられ、また三代綱宗公の霊屋善應殿が、装飾は控えめながらも同規模で建立されまして。

 三霊屋とも戦災で惜しくも焼失しましたが、一部の錺金具は焼土中から拾い集められ、保管されてきました。
今回の企画展では、この三霊屋の錺金具の中から、技法や意匠が明確なものを展示しています。

本企画展 解説シート より

「青銅製龍頭瓦」(本殿一段下広場に展示)の製作者は 高田久兵衛 です。
何れ 上方の人です。

「青銅製龍頭瓦」は、上方で高田久兵衛が制作し 完成品は移入されたと推論しておりました。
棟札に金工として高田久兵衛が記されているそうです。

となると 仙臺に 来て製作したと 理解してよろしいのか?
忠宗公は、領内の金工技術の向上を期して 瑞鳳殿建築を機会に、金工技術移転・移入を図ったのでしょうか?


今朝 主任から 錦織りなす瑞鳳殿の紅葉を下絵にした 本企画展開催お知らせのチラシを頂きました。
惚れ惚れ(ホレボレ)するチラシです。
ガイド仲間に 見て欲しく 連絡卓に掲示しました。

資料館会館と同時に入館し、第1号の来館者として拝見。
規模の大小ではありません。丁寧な説明と工夫された 素晴らしい展示です。

学芸員お2人を、23日の我々の「宮床・岩出山の伊達家霊屋、要害跡の参拝・見学」にお誘いしました。
企画展準備等 業務多忙です と 参加して頂けなかったこと 氷解しました。

錺金具は これまで 全体に目が奪われ ほとんど説明しておりません。これを機会に ガイド説明項目に追加しなくては。 



三重県伊勢市、静岡市、新潟県、欧米からと 大小の団体を 連続ガイドしました。

瑞鳳殿は未だですが、紅葉は 城下まで迫っています。
みちのく のもみじ狩り 前後に 立ち寄られた お客様も 居ました。

明日は、城下で マラソン大会が開催され 交通規制が広範囲で長時間 行われます。
るーぷバスもスップ 運休します。お客様の移動手段が奪われます。
瑞鳳殿を参拝したくても 出来ない方が 沢山いるのでは?
悩ましい 問題です。



10 月 23 日 (木)  



伊達家御一門を知る(岩出山・宮床の伊達家御霊屋と要害・館跡を訪ねる)

瑞鳳殿ガイドの会 2014年度第2回研修として、標記標題で本日開催致しました。

訪れた所を行程順に、

1.国道457号線を 「郷六」・「小角」・「根白石」経由 宮床に。
 その昔 主要な道であって、仙台城落城の際 宮床に避難する道説を確認。

2.覺照寺 宮床伊達家菩提寺・墓所(御霊屋跡・廟所)を参拝。
 初代宗房夫妻御霊屋「光雲殿」跡で、配布御修復帳32図にて開示して往時を偲びました。

 母慶雲院御霊屋跡・先妻法林院霊屋跡=現御廟、歴代御夫妻廟、御子様廟を参拝。
 本堂にて 北岡和弘住職の解説で、吉村公書 扁額、宗房公木像等 拝見。
 客殿にて 抹茶をご馳走に。
 (ある方 お寺とは お布施を包む所と思っていた。説明をして「ご接待」してくれた。感激 と洩らしていました)

3.宮床寶蔵(タカラクラ)見学
 宮床邑の博物館で、時間的制約から 伊達家治世時の展示を中心に見学。

4.旧宮床伊達家住宅見学
 版籍奉還で 宮床館 接収に伴い 家臣 村井榮之進屋敷に14代宗廣が居住。

 1861(文久元)年建築、建坪31.5坪。
 35坪以上に居住している 仲間は 3室に板の間の空間に 驚く。

 家臣村井榮之進とは、役職が何である、何石取であったか 質問されるも そこまで調査しておらず答えられず。

5.館跡見学
 宮床歴史の村保存会 阿部定太郎会長の案内で 宮床小学校から一望。
 「胞衣塚」迄 案内して下さるとの申し出頂きました。

 阿部様は 昨日の降雨で足場不良からゴム長です。
 我々には厳しい事等から、次回に持ち越しました。阿部様 申し訳ありませんでした。

6.昼食
 割烹日富見家(ヒフミヤ)にて。
 仙台では 割烹 と名乗る店は? 岩出山は地方中核都市故 割烹文化が生き残って居るのか?
 七器の 見栄え・味・量 共 好評でした。・

7.岩出山要害跡(城山公園)見学
 岩出山ボランテイアガイドの会副会長中森成信氏のガイドで以後の個所を見学しました。

 中森氏は、本年5月31日 有備館再建工事現場説明会で説明して頂いており、名刺交換し 「秋にはガイドを」とお願いしておりました。
 岩出山古文書を読む会の菊池優子先生の御指導の詳細な手造り資料等を持参・配布頂きました。

 岩出山要害の概要、本丸・二の丸址の他、徳川家康が1591年修復・整備工事の際に使用した工具等を埋葬?した塚「八幡平」を見学。
 観光で訪れた際 尋ねられない場所で 参加者一同 感激。

 金丸に所在する 政宗公セメント像前で 参加者一同 写真撮影。

8.岩出山伊達家廟所 参拝
 初代宗泰公と2代宗敏公の御霊屋は1876(明治9)年大火で焼失との事。
 岩出山伊達家御修復帳は、伝わらなかったか 御霊屋の規模等は 聞かれませんでした。

 初代宗泰公始め 歴代公と正室の18基の墓碑と宗泰公殉死者10名の墓碑を参拝。
 10代邦直(北海道当別開拓の統率者)記念碑見学。

 参加のAさんから 瑞鳳殿は 寶筐印塔と言い、此処は お墓と云う。その相違はなにか?

 寶筐印塔は 供養碑で お墓では 無い お骨は 各家の菩提寺のお墓に眠っている。
 ここは、お墓。なぜ 各家の菩提寺に埋葬しなかったかは わかりません。
 当時の発想からは、瑞鳳殿方式が 異例では?

9.松窓寺・山岡志摩
 初代宗泰公の付け家老であり、仙台城築城の際 徳川幕府と交渉役を担った山岡志摩が創建した松窓寺を 山門前で説明を聞き、
 山上のお墓を遥拝。

10.實相寺 参拝
  岩出山伊達家の菩提寺。本堂にて、初代宗泰公・2代宗敏公の木像等 拝見。

  寺寶の家康公が1590年約40日当寺に宿営した際 使用した茶碗の拝見を 事前に文書でお願いしておきました。
  が、住職 友引ながら 急用外出とかで 拝見できませんでした。

  仙台藩志会の研修で、岩出山伊達家御当主案内で 参拝の際も 拝見出来ませんでした。
  参加者 一同 落胆 しきり。
 
  1408(応永15)年 玉造郡南沢邑に 当.實相寺を 氏家弾正が創建しておりますす。
  天正年間 氏家三河が現在地に移転しました。

  創建した氏家弾正の墓があると記録されていましたが 所在確認出来ないでいました。
  中森成信氏の案内で確認しました。予想外の位置に 塚があり 樹木葬を思わせる大木と寶筐印塔らしき碑がありました。

以上が 本日の参拝・見学箇所でした。

帰り車中で、本日の感想と来年の希望箇所を 聞きました。
運営の向上と希望の実現に努めましょう。

現地で丁寧に説明をして下さった方々のご厚意、役員各位の尽力と参加者の協力で 有意義な研修となり、恙なく 予定時刻に終了致しました。
関係各位に 御礼もうしあげます。 ありがとうございました。



10 月 21 日 (火)  



国分(伊達)盛重

国分(伊達)盛重の生涯と その後は非常に興味深いものです。

国分盛重は、政宗の叔父でありながら、重用されず、対立し、
1596年(文禄5年3月) 83騎の家臣と共に 佐竹家に逃避、
1602年(慶長7年9月17日) 佐竹家領 横手城代に、
1624年(慶長19年11月16日) 大阪冬の陣 佐竹軍先鋒大将を務め。
1625年(慶長20年7月15日)63歳 横手城で没しています。

横手城下 正平寺に葬られたと 仙台人名大辞書と記載されており 識者も その様に語っております。
正平寺を訪れたが 墓碑の墓所も 発見出来なかった とある識者は、松森城、郷六城等についての講議の際に 語っております。

では 何処に葬られたか?

今年 ある講義で 久保田城下 白馬寺に葬られたと聞きました。
納得出来ず WEB検索しました。 白馬寺に葬られたとの記述がありました。

あかとんぼ は 6月19日日誌に 「疑問で、宿題です」 と記載しました。

「政宗が殺(け)せなかった男」秋田の伊達さん と題する 古内泰生氏の著書が刊行されました。
市民の視点で 記述されています。学者の立場から反論があるかもしれませんが、

あかとんぼの 疑問・宿題は あかとんぼ なりに納得しました。

10月26日(日)14時から仙台戦災復興会館で、仙台藩志会主催の伊達学塾で 国分盛重の末裔 古内重義氏の講演があります。
古内重義氏は、本書を既に 読まれたと申しております。
当日 如何に語られるか? 楽しみです。





10 月 19 日 (日)  



小春日和?

9時30分頃 瑞鳳殿追分で 老婆が ポッンとベンチに腰かけて 天を仰いでいます。
人生 孤独を嘆いて いるのでしょうか?

真相は、歩行に障害があり 62段の登りを諦め 若い人々に参拝を待っている です。
老婆と書きましたが あかとんぼ と同年配です。

今暫くで 豪華絢爛桃山様式 瑞鳳殿を参拝しない 出来ないのは 悔しい思いであろうと 思いまして 勇気を奮い 声をかけました。
「瑞鳳殿のボラガイドです。私の写真で お詣りできないでいる 瑞鳳殿を紹介しましょう」
と 本殿・政宗公御木像を お見せし語って居た所に 50歳代の成人男性が。  

「母がお世話になりました。
ところで、善應殿の説明板に「故あった逼塞を命じられ」とありましたが なんですか?
また、伊達騒動とは 何ですか?起因は?

と、礼と質問を 頂きました。


千葉真弓先生と大学生2名と 落ち合いました。
千葉真弓先生は、大学在学中から 政宗の生涯を研究され、世人に 理解して貰おうと 漫画化し 出版され 現在 河北新報に隔週で 「独眼竜政宗」を掲載されています有名人です。

先生は、6月20日開催の「時代考証学会 第4回フォ-ラムIN仙台 伊達政宗と時代劇メディア 地域の歴史・文化を描き、伝えること」の記録に、

@ボランティアガイドが伝える 政宗と瑞鳳殿 の一文を載せたい。

ついては、史学系でない 政宗と伊達家について 白紙状態の学生を連れてきた。
写真撮影と録音を担当してもらう。

A最後に 学生に ガイドの話しが理解できたか等のヒヤリングを行う。
との お話がありスタート。

あかとんぼ は 些か緊張しました。

「虎口」から「棟門」に「御修復帳」など、一般のガイドでは語らない用語も交えて 格調高いガイドを目指しました。
が、結果として お客様役の学生が どの様に理解できたか です。事後ヒヤリングのまとめ が楽しみです。


約3時間の長丁場になりました。溢さない様に瑞鳳殿迄でメモしたら9頁に なりました。
でも 溢しました、伝えたいこと 全て語れませんでした。未熟です。メモを差上げました。

千葉真弓先生から 途中で、貴重な御教示を頂きました。

政宗の鎧(ヨロイ)の腹帯の位置の紐 青色 です。 意味があります。
藍染です。防虫効果があり、耐久性があります。
伊達家の具足は黒色が基本です。紐も黒に染められますが 耐久性は 藍染に比較して 低いです。
ですから、 藍色は 鎧の色彩(イロドリ)の面だけで 見ては?

家紋の使い方は固定されたものでない。竹に雀 も 先祖がえりでの使用例が ある。

石について、産地、再活用、民の祈り。

龍と竜は、本来 同じでは ない。

等 まだ ありますが ここまで。


今日は、菅野正道先生も 同行される話があったが 公務多忙で取りやめになった と聞かされ、ホッと安堵した一面 残念な思いです。

私達のガイドは、先生達の講義を聞き、著書を読み 解釈し 語っています。
歴史研究者の立場からみて ガイド内容等に 逸脱している面が 無いかの御教示を。
鎧(ヨロイ)の青色紐 のような貴重な教示を。

ガイド現場で ご指導頂けないか の思いを強く 持ちました。
関係者と相談し お願い参上致します。



10 月 18 日 (土)  



秋田では降雪、山岳道路は閉鎖と 冬便りが。
それゆえ 朝は寒かった。待機場所は陽当りを求めて 変ります。陽当りは温かい。
仙台 最高気温21度

9時前から 壮年の団体
10時頃から 生涯学習風団体
11時頃から 高齢者夫妻
が、多いと 感ずる流れでした。

「どちらから?」の問いに 東京と千葉県の人は 「東京から」と答えます。千葉の人の多くは 東京と答えます。

今朝も「どちらから?」に、「埼玉から。でもどうして?」
「伊達家と関係ある地から お出で頂いておれば 縁があると お話が 滑らかになります」
「夫 生誕地は 龍ケ崎市の近所 ○○です。伊達家と関係あると聞いています」

「ハイ 龍ケ崎市とその周辺 伊達家の1万石の領地で、龍ケ崎市の陣屋がありました。政宗公・忠宗公も訪れています」
「夫の云うとうり なのね。その殿様をガイド付きでお詣りできるとは?」 ラッキーとは叫びませんでした。
以後 ゆっくりと参拝されました。

埼玉からの単独成人男性。

突き出た ポンポコ腹に長大一眼カメラ。
涅槃門の麒麟の彫刻を説明したら 動かなくなりました。凝固した状態。
大方のお客様は 長くて10秒位で動きます。このお客様 黙祷のタイム位なっても凝固したまま。待っていました。動きません。
3分経過した感じで 我慢できなくなり 「お客様 これからですが?」
本殿までガイドをして 20〜30分後 あのお客様 涅槃門の麒麟を見上げていました。動きません。
麒麟に魅せられた男。麒麟の化身であったか?



高齢の男性から
「本殿左右の石塔 数が異なり 大小あるのは 何故か?」のご質問
「本殿内寄りが 直臣 外側が 陪臣で、 政宗と、陪臣の殿様に 殉死された方々の弔魂碑です。お墓でありません」に
「アッ そうか。 泉岳寺47人の墓と混同した」と 呟き スタスタ去って行きました。


NNさん 長老です。
「あかとんぼ さん 参ったよ。 お客様 仙臺弁でガイドしろ と云うの。出来ないよ」

ガイド仲間には 伊達領内で生れた人もいます。生まれ育ちも仙台城下の人は いません。
居ても伊達家時代の言葉を話せないでしょう。話しても 聞く方が 理解出来るかです。 

仙臺弁を強要した お客様の意図はなんでしょう?



10 月 17 日 (金)  



仙台・江戸學講座

演題  真田幸村と伊達家
講師  小西 幸男 氏
会場  大崎八幡宮 祭儀場

講師は、1996年仙台真田代々記を著し、以後 続々 眞田幸村と伊達家との関連を記した著書を出され、蔵王町で度々 講演されていました。

仙台真田家の先代当主は、あかとんぼの上司であった御縁で 講師とお付き合い頂いております。
本日 講演を拝聴、2013年11月15日刊行された「真田幸村子孫の仙台戊辰史 真田喜平太の生涯」に 著者署名を頂きました。


講演の質疑応答で 思いがけない収穫ありました。

愛姫の心情です。

1. 天正7(1579)年 三春城主 田村清顕は 一人娘 愛姫を政宗に嫁がせた。
2. 天正14(1586)年10月9日 田村清顕 没
3. 天正18(1590)年 生家田村家は、秀吉の奥州仕置きで5万石が没収された。
4. 甥 田村宗顕は 伊具郡金津邑に隠棲した。
5. 愛姫 之を哀れみ 片倉景網に 救済を願う。
6. 片倉重長 田村宗顕・定廣(宗顕の子)を白石城に招き、定廣を片倉金兵衛定廣と改め 喜多の嗣とす。
7. 片倉定廣に 真田幸村の娘「阿菖蒲」を嫁がせる。
8. 田村宗顕・定廣が 持ち歩いた 田村清顕の遺骨を 片倉喜多の墓の隣接地に埋葬。
(此の項 2012.10.22.氏家宥氏講座 資料による)

9. 承応2(1653)年 忠宗3男宗良 田村家の名跡を継承 田村家が再興された。
  これには 愛姫から 忠宗に 強い働きかけが あった。
(この項 大島晃一著 一関藩 による)

以上の経緯を直接語られなかったが、愛姫は 田村家の廃絶と父田村清顕の遺骨を埋葬出来ないで転転とした事で 政宗を恨んでいたのでないか?
と 愛姫の心情を深読み する発言が あったことです。

意外な読み方に 感心しました。




10 月 16 日 (木)  



古城朝鮮梅図」

臥龍梅 菅井梅関 筆
臥していた龍が 時機到来 立ち上がった如くの 筆勢で 描かれています。

現在 宮城刑務所構内にあり国指定天然記念物です。
場所柄 拝見は容易ではありませんが ある要人に配慮頂き 見学しております。
1976年の台風で主木が枯死し、残った株が幹を広げた為、江戸時代の姿とは異なったそうです。

古城朝鮮梅図を拝見しました。
龍が眼を爛々と輝かせ 昇天の勢いをです。正に 臥して 時機到来を記して居た龍 今 天に昇る の景です。
それは樹景が異なる故だけでしょうか? 

本 古城朝鮮梅図のほか 「夜梅図」 「舊城朝鮮古梅之図」 「梅月図」が展示されています。

古城朝鮮梅図を 新鮮に感じたのは 何故か?
菅井梅関は、天明4(1784)年10月27日仙台で生れ、弘化元(1844)年1月11日61歳で没した 仙台四大画家の一人です。

「仙台四大画家」仙台市博物館収蔵資料図録に「舊城朝鮮古梅之図」 「梅月図」が掲載されていますが 
本「古城朝鮮梅図」が無く 初見 故でしょう。


仙台市博物館では「樹木礼賛」と題して特別展を開催して居ます。
目玉は、国宝「松林図屏風」 長谷川等伯 筆 桃山時代 東京国立博物館所蔵 です。

水墨画の巨匠長谷川等伯に 些か魅かれ 画集で楽しんでいました。
本物を仙台市博物館で 樋口智之学芸室長の講義を受講後 拝見拝見しました。最高でした。実物に接するは眼福の極み。

最後の展示室に、「梅を愛した菅井梅関」のコーナーがあります。



歴爺 の収穫
 
「樹木礼賛」と併せ 「杜の都の むかしといま」を展示しています。
味のある展示です。

特段 興味を引いたのは、{「仙台城下図屏風」慶応元年に描かれた重臣の屋敷}の展示です。

重臣の屋敷は、門構えから 屋敷の配置まで描かれています。
この屋敷前を 殿様?の行列も 描かれています。

このお屋敷は どなた御屋敷か? 行列は どなたか?
知りたいものです。


在郷屋敷

わかる 様で よく理解していないのが 在郷屋敷。
市史せんだい vol 24に、
「仙台藩の在郷屋敷」と題する 倉橋真紀先生の論文
政宗公殉死者 入生田元康の「入生田家之故実」
が掲載されていました。

早速 購入したら 「友の会員ですか?」と 問われました。
「イヤ 何で?」 「会員なら 1割引です」 うー残念。



10 月 15 日 (水)  



東北外語観光専門学校 学生ガイド実習

6月25日(水)9:30-11:30 @基礎知識習得でガイドしました。

その後の行程は、先ず A自己研鑚し B外国人にガイドする実習をし C国家試験に合格しておめでとう。
始めは、前座かな。日々 場数を踏み 真打 に。


本日は、B外国人にガイドする実習です。前回同様 9:30〜12:00迄の長丁場でした。

瑞鳳殿を訪れるのが初めての方 と 今年2回目で 日本史に詳しい方 を 学生が交互にガイドし、質問を受けていました。

ガイド実習項目は、
1.DateMasamune
2.Nature&StoneSteps
3.History ofAuihoden
4.NehanGate
5.Zuihoden
6.Museum
7.Kansenden
8.Zenoden
9.Myounkaibyo,Okosamagobyo&DateFamily

(1.DateMasamune)で、政宗の出生を いきなり 1567年9月5日と表示 スラスラ 語り出しました。
あかとんぼ は 年月日を西暦で語る様にしておりますが、6月25日の成果に一瞬 驚きました。

永禄10年8月3日と 表示・説明するよりは、外国の方を含め 西暦での表示・説明が 逆算・計算しやすく、理解容易である筈です。
 
各ガイド箇所とも、全て 西暦で 説明していました。(当然ですネ)


ガイド担当箇所を 早くから決まっていたのか? 各自 詳細に調べていました。
例えば、あかとんぼ が理解した範囲で、

1.伊達家の系図を、英文で 鎌足から34世18代現ご当主迄 一覧表化しました。
2.瑞鳳殿の造営は、忠宗の命で奥山大学が担当したの説明まで。
3.菊紋始 伊達八家紋を A4に 2家紋を表示 「雪薄紋」始め由来を詳細に説明。
4.竹に雀の家紋 上杉定実より贈られと 上杉定実の肖像画を提示。
5.焼失前の瑞鳳殿全景写真の拡大版の展示。
6.政宗公と片倉小十郎の関係を マサムネ・カゲツナ と称して詳細に。


お客様役から 質問が 続々と、学生が スラスラ 答えていました。 
何問かの 難問は 担任の高橋先生が 質問趣旨を確かめ 答えていました。


あかとんぼ に 回って来たのは、
1.松・杉 の原産国は 日本国か?日本固有樹か?
2.日本で火葬が 一般化したのは いつか?
3.米国では、現在も土葬が 行われているが、日本はどうか?
4.殿様に就任する年齢制限はあるか?
5.伊達家での 最年少就任は 何歳か?
6.家紋 個々に 「ちから」とか「希望」とか 固有又は願望の意味・裏付があるのか?


世代・国籍 等の 違えば 文化が異なります。
マンネリ化気味の老人には 快い刺激でした。

教育実習の場での傍聴を 快諾された東北外語観光専門学校の高橋先生始め 諸先生に感謝致します。



10 月 13 日 (月)  



瑞鳳殿ガイド4日目

大型の台風19号は13日午前8時半ごろ、鹿児島県枕崎市付近に上陸した。台風は九州南部を東北東に進んでおり、今後、さらに速度を上げて、西日本と東日本、東北地方に進み、列島を縦断するおそれがある。14日午後には三陸沖で温帯低気圧に変わる見込み。

13日午前10時には鹿児島県鹿屋市付近にあって、1時間に約30キロの速さで東北東へ進んでいる。

中心の気圧は975ヘクトパスカル、最大風速は30メートルで、中心の北側280キロ以内と南側220キロ以内では風速25メートル以上の暴風となっている。

仙台地方は、15時から降雨と、気象庁は発表しています。

今朝も道路は閑散として、信号は次々 青に変わります。通常30分が 半分の15分で着きました。おどろいた。
なのに 早い団体のお客様 帰るところでした。

松山からの親族の団体。
「帰られるかしら。昼の新幹線で東京に、それから飛行機が飛ぶか?
運は天に任せて 昼まで政宗公史蹟を見たい」と。

30分の約束話が、10分超過しました。
自動車道が開通し、松山・宇和島間 1時間なので、暫し訪れているらしく、伊予宇和島10萬石・秀宗公、天赦園・臥龍梅と話題が飛びました故です。


アツアツの餡饅の様な 色白でフクフクし おちょぼ口型の口紅のオトメ5人、ピ−チクパーチク スマモで撮影しながら上がってきました。
「よさこい ですか?」
「ハイ どうして わかるのかしら?」
「どちらか? 賞 とりました?」
「札幌から。 今一歩」
「みなさんのキメポーズは?」
「それは、来年 札幌に見にきたください」
ガイド不要で 賑々しく されていました。


大きい香炉の家紋をみていたお嬢さんに 解説しました。
「宮城県の白石は、札幌の白石の人が開いた町ですよね」
聞き違い????? これが 世に云う 歴史認識の違い でしょうか?

「白石は、政宗公の軍師とも言われた片倉小十郎の城下町です。150年前 内戦で敗れ 新天地を求め 渡道 開拓したのが白石邑。町になり、市になり、区になりました。
伊達市に、伊達紋別等 伊達家家臣の方々が 開拓した町です」

「アーソーカ?  お爺さんは 夕張の人だけど 伊達家の家臣かな?私に政宗公の血が流れて いるかも?」
「それは 発想が 飛躍すぎでは?」(発言しません。思っただけ)

「みんな 政宗公をお詣りしよう」
元気な お嬢さん 「ありがとう」


本日は、参拝客の割に ガイドが少なく 休む暇なく 依頼されます。

最後のお客様 
合羽を着こみ 膨れたリックを背負った 女性2名。涅槃門から石段を登り 始めたら 「イタイ イタイ 足上がらない」の連呼。

「3.11災 復興支援アルケ歩け大会」で 昨日 仙台空港から 閖上・荒浜・塩竈等 海岸線沿いに北上し、松島まであるいたのよ」
「イヤー おわかいです。ご苦労様です」

経ケ峯の3.11災の写真を お見せしました。
「オジイサンところ 大丈夫でしたか? ついては 背中の竹に雀 撮らせて」快諾。表は求められませんでした。ダテオトコなのに 残念。



10 月 12 日 (日)  



行楽の秋

参拝のお客様 早々 続々と。
城下での{せんだいよさこいまつり」。8000人の人出の余波でしょうか?

東京の熟年と旭川の青年の2組の御夫妻。
写真がご趣味とか。涅槃門前からポイントを紹介しながら 本殿まで。

最後 あかとんぼの裏表姿でのツーショット。

資料館 最期に「あるもの」が展示されています。重要文化財相当の品です。忘れずのご覧ください。
30分後 お客様と再会。

「ご覧なりましたか?」
「ウン 小判が あった」
予想の通りのコタエです。

「3代綱宗公の甕棺です。中の小判(寶永小判)本物であれば 時価 200〜300万円です。10枚ありますから2000〜3000万円となります。
ポイントは、甕です。常滑焼の甕で 名護屋の在 常滑の産です。

常滑焼の生産・物流の歴史、大名等の葬祭の仕方等を調査の貴重な資料です。これらから重要文化財相当の品です。
この次 お出での節 ガラス箱に入っているかも?」

「小判に目が狂いました。そのような品? ヘー もう 一度見直してきます」
東京も、旭川の お客様 資料館に引き返しました。


昼、伊達地方の歴史に精通のUさん と、豊齢学園史学部のKさん が見えました。
豊齢学園史学部は10日 梁川を中心に伊達家史蹟を現地学習してきたそうです。

9日の現地学習成果を話しました。
ら、

天正781579)年冬 三春の田村清顕の娘愛姫12歳が伊達家に輿入れした際、輿の引き継ぎ場所は、 阿武隈川右岸です。
 1.当時  阿武隈川右岸は 誰の支配地で 左岸は誰の支配地か?
 2.三春から 此処に至る 経路は?
 3.なぜ 此処が 受け渡しの場になったかは 参加者各自の宿題でした。

について
3.は、此処が 受け渡しの場かは 定かではない。
 TVの独眼龍政宗 が注目された際 阿武隈川と小坂峠、梁川八幡社等 考慮して 此処では なった。
 山岡荘八著 「独眼龍政宗」の一文を掲示したに過ぎません。
 と 役場の担当者が 解説しています。

2.三春から 此処に至る 経路は?
 国道288と349号線ではないか?三春町から梁川町・国見町に至る経路として 現在でも重宝されています。

と教示頂きました。




10 月 11 日 (土)  



何故か 9時前早くに 瑞鳳殿に到着。

即 ガイドのご依頼 10人程。
1946年以降に生まれ 連坊小学校を卒業された方々。

故郷仙臺を懐かしみ、政宗公について考える同級会を希望し、経ケ峯の温泉旅館にて昨晩は歓談。
朝食済次第 早々と 62段を登って来ましたと。

さすがです。ガイド三言に 一言返ってきます。
瑞鳳殿だけのガイドで、終わったのは10時30分。90分ガイド 記録更新?

お客様も 口がカワカワに乾いたのか ドロップを下さいました。

今お一人 ガイドの会に 幾何か 寄附をしたい と 財布を取り出しました。
故郷を出奔 成功された方々でしょう。気使い 金使い 悟ったのでしょう。

「ご厚意は有難いですが お気使い無用です。お元気で また お出でください」


途中から ガイド希望のKさんが 張り付き 見聞き しました。
「ウーン 中身が濃い」と唸っていました。

「今日のこのガイドは 特別です。ガイドは自分の勉強の発表の場ではありません。瑞鳳殿を理解し 楽しんで頂く場です。
ガイドで、通常は20分から40分程です。お客様との会話が盛り上がる 弾めば 今日の様になります。

Kさんが 今お持ちの知識で 大丈夫です。ガイドしながら 覚えれば 宜しいです。
一緒にガイドしましょう。但し すべて自己責任です」

「ガイドする方向で検討します。答えは ローマ法王に面会?出来ると誘っている団体の旅から帰ったです」


10月から 真打になった SSさん 連日です。
新しく 若い仲間が 続々と 参加は 嬉しいことです。


10月4日に 参拝されたお客様から 公益財団法人瑞鳳殿に 次の内容のメールがありましたと伝えられました。

「ガイドさん達が とても親切に 詳しく境内の事や伊達政宗の事について教えて、勉強になりました。
知識の豊富に 驚かされます。

ガイドが居なければ、さらっと見るだけで帰ってしまったかも。
お陰様で 装飾の一つ一つ迄 目を凝らして、色々な発見があり より楽しめました。

ありがとうございました。これからも頑張ってください」

4日は、午前・午後を通して 博識の仲間 10人程 ガイドしていました。
喜んで 頂けるを 念頭にガイドをしております仲間です。金鵄勲章 (?)頂いた気分です。

メールをくださいましたお客様 ありがとうございます。再来をお待ち致しております。



10 月 10 日 (金)  



戊辰の役 146年 慰霊祭

10月10日10時から 経ケ峯の戊辰の役殉難者慰霊の弔魂碑前で開催されました。

催事は
1読経 瑞鳳寺鎌田住職
2.焼香
 1. 伊達家ご当主 伊達 泰宗 様
 2. 仙台藩志会会長 伊達 洋司
 3. 殉難者子孫代表 飯澤 道久 様
 4. 公益財団法人瑞鳳殿常務理事 富田 律男 様
4.挨拶
 仙台藩志会会長 伊達 洋司 
5.奉朗
 殉難者子孫代表 飯澤 道久 様
6.写真撮影


伊達洋司仙台藩志会会長挨拶 全文 

 鬱蒼とした森の中に、仙台藩主三代公までおよび その他の藩主の御霊が眠り、仙台萩が彩りを添えるここ経ケ峯に、「戊辰の役」で無念の思いで散って逝かれた1260名の御霊を祀る弔魂碑の前で、「戊辰の役殉難者146年慰霊祭」を執り行うにあたり、一言ご挨拶を申し上げます。

 本日ご参列頂いた伊達家18代当主伊達泰宗様並びに この弔魂碑の改修・再建にご尽力頂いた仙台藩志会参与・仙台市議会議員鈴木繁雄先生、また多大なるご協力を賜った同じく当会参与・宮城県議会議員中沢幸男先生並びに殉難者の方々のご子孫および当会会員のほか多数の方々に哀心より篤く御礼を申し上げます。

 「戊辰の役」は146年前の慶応4年1月の鳥羽・伏見の戦いから翌年5月の函館・」五稜郭までの1年半余り、薩長側の西軍と幕府側の東軍が全国を二分しての戦いでした。如何せん装備・戦力の違いから、東軍は敗れ1260名の貴い生命を失ったのであります。我々仙台藩志会員の中にもご先祖をこの戦いで亡くされた会員が大勢いらっしゃいます。

 この弔魂碑前での慰霊の式典は建立後140年即ち6年前に、私共仙台藩志会員だけで、ささやかに行って参りましたが、その後、行政の方々のご参列が増えたので、昨年までは宮城県・仙台市は無論、仙台商工会議所・河北新報等の方々にも声をかけて仙台藩志会主催で実施致しました。しかし、他の都市では行政および それに準ずる団体の主催が多くを占めて居りましたので、仙台でも同じように、行政の方々にお願い致したい旨、宮城県・仙台市および他の団体に申し入れ致しましたが、暫く考えさせてくれ、との事なので、それを期待して、今年は私共・仙台藩志会員だけに、声をかけることに致しました、が、「来る者は拒まず」で、門戸は開いているつもりで居ます。

 終りに、本日の慰霊祭を執り行うに当たり、無念の思いで亡くなられた、多くの御霊の安らかならんこと、さらに、殉難者のご遺族・ご子孫の方々に深甚なる弔意を表し、私のご挨拶と致します。

  平成26年10月10日 仙台藩志会会長 伊達 洋司
 



10 月 9 日 (木)  



「伊達氏の故郷を訪ねる 桑折・国見・梁川界隈」

のタイトルで(郷土を愛する歴史の会)主催 現地探訪会に参加しました。

探訪個所と短評。

1.阿津賀志山防塁
 1189年奥州侵攻に対する防御施設(3.2kmの二重堀)の阿武隈川に近い「下二重堀」地区を見学。
 国見町教育委員会が除草し 幟を立て 理解容易にしてくれていました。

 こんな土塁で防御なるのか?の発言がありました。
 825年前に築られた施設です。自然に土塁は崩れ 堀は埋まります。 よくぞ「開発」に名義で破壊されず 此処まで残ったと 感心します。

 掘れば 何か出てくるか?の発言がありました。
 掘れば 何か出て来るでしょうが 期待したもの(遺骨・武具)は出ないでしょう。

2.梁川亀岡八幡神社 
 政宗公初陣の際の戦勝祈願と報告の社と案内された。天正9(1581)年5月相馬氏との戦いです。
 現地ガイドは、「伊達政宗」山岡荘八著 「風雲機熟-3−」の項 立花外記 さとしの櫻 を滔滔と語ります。

 梁川で なぜ 亀岡八幡神社なのか その由来は 参加者各自の宿題でした。
 答えは、平安中期、田原中納言が山城国石清水八幡宮を勧請した。藤原秀衡の家臣 佐藤庄司基治が再建。
 1189年朝宗 鎌倉鶴ケ岡八幡宮を勧請し、亀岡八幡宮と号し、1571年 現在地に戻る。
 本殿は、1745年改築、江戸中期の優れた神社建築。とのこと。

3.愛姫輿入れ受け渡しの場
 天正781579)年冬 三春の田村清顕の娘愛姫12歳が伊達家に輿入れした際、輿の引き継ぎ場所。
 阿武隈川右岸です。
 当時  阿武隈川右岸は 誰の支配地で 左岸は誰の支配地か?
 三春から 此処に至る 経路は?
 なぜ 此処が 受け渡しの場になったかは 参加者各自の宿題でした。

4.伊達朝宗墓所 
 正治元(1199)年10月2日71歳で 朝宗は亡くなり、本地に葬られた。満勝寺跡とされる。
 漬物石の様な石がポロリとあろ。これが墓石で 墓所である。
 直前に在する六角形石組内の石塔は、供養の五輪塔である。大方の方は 誤解し こちらを拝し 真墓を拝さない と 現地ガイドの説明。

5.観音寺
 寶治元(1247)年 4世伊達政依が伊達五山の1ケ寺として創建された。
 住職は、延暦元年 弘法大師が湯殿山開山の折 当地に聖観世音像を彫刻安置したとあり、寺そのものは伊達五山の1ケ寺として開山以前からあった筈と。

  福島県指定重要文化財の数々を公開し 更に 撮影を快く許された。
 太い腹の住職さまです。

6.追分・小坂峠・産坂
 愛姫輿入れの際、通過した筈の 奥州街道と羽州街道の追分、羽州街道の小坂峠・産坂を確認。
 小坂峠の現道は、七曲の急坂です。政宗公や愛姫が 通過したのは 旧旧で、慶応年間に旧道が、 昭和になり現道が開通しています。

 政宗公や愛姫や、羽州街道を利用した津軽・佐竹・酒井等の参勤交代 の難儀が偲ばれました。

 



10 月 6 日 (月)  



台風18号 仙臺を中心とする伊達領は カスッタ感じ。

午前 瑞鳳殿ガイドの会の役員会を 公益財団法人瑞鳳殿・会議室をお借りして開催しました。
会議の前後を見る限り 参拝者の姿を見かけませんでした。
交通機関は渋滞する程 走行していましたが、参拝は不急不要の外出と見なされたか?


9月20日日誌 次の様に記載しました。
「宮城県の花が、みやぎの萩。 歌枕の宮城野の萩にちなんで命名された。
歌枕のほうは特定の一種を指すものではなく、宮城野に萩が生えている風景からきたものである。

仙台市の花が、センダイ萩
その相違点は わかりません」と。


歌枕の里 宮城野にお住まいの識者Nさん が 

「要説 宮城の郷土史  仙台市民図書館編」98頁を御覧ください。
せんだいはぎ と みやぎのはぎ の違いを 解説しています。 と 御教示下さいました。

せんだいはぎ は 春に黄色の花を開き、東北以北の海岸に自生する まめ科せんだいはぎ属 の多年生の草木。
みやぎのはぎ は 秋に紅紫色の花をつける栽培種 まめ科はぎ属 やや草木性の低木。

せんだいはぎ に 仙台萩 と漢字記載は不適当。
「牧野日本植物図鑑」では、せんだいはぎ の名は 千代萩(ちよはぎ)で、船台萩(せんだいはぎ)の表記もある。

また、「綱宗公萩の1ケ所にありてもし絶えなん事もやといひ給ひて、北山輪王寺の北・小谷の西・中山古海道の東の山々に、峯五つほどの地へ、此萩を植えさせ給ひしなり」と(仙台叢書第1巻収録 「残月台本荒萩」)に記載されている。

とありました。

宮城県と仙台市の公式WEBで確認しました。

宮城県の花は ミヤギノハギ
仙台市の花は ハギ で 仙台萩では ありませんでした。

綱宗公の萩 植樹は 以前に記載したと思い起こしました。


上記に「みやぎのはぎ は 秋に紅紫色の花をつける」と ありましたが、経ケ峯の戊辰の役弔魂碑 東南角に 真っ白い花 の萩フウの草木があります。素人目に 萩ですが?

紅紫色の花は 終わりましたが 白は 今が盛りです。





10 月 5 日 (日)  



台風接近の報しきり。

昨日の日誌
「本日 白石で 「鬼小十郎まつり」が開催されました。
例年なら 明朝 一番で 白石かえり の暦女様 駆けつけます。
明朝が 楽しみ です。 来るか?」

来ました。るーぷるバス 始発の到着が9時15分です。
Uさんと時計を睨み 待っていました。 20分4人程 速足組が来ました。

内一人がそうでした。「どうしてわかるの?」 の反応。
そのまま Uさん  「鬼小十郎」事 片倉小十郎重長 寄進の灯篭を案内。

其の後 歴女を感じさせる 女性の団体がありましたが ガイド中で確認に至りませんでした。


東京から夜行バスで来ましたとの 青年?
「朝 5時に仙台に到着 るーぷるバス1番で 瑞鳳殿に来ました」と
既に 疲れた表情しています。

仙臺東照宮の所在と由来を質問されましたので 答えていたら ガイド断わりました。 
ガイド 聴く 気力・体力 消耗しているらしいです。
間もなく 視界から消えました。

断れた直後 元気で気配りの利く 茨城のお嬢さんと 横浜からの母娘か? 姉妹か? しきりに質問される方を ガイド。

最後は、佐賀からの女性と宮城野区からの御夫妻。
宮城野区のお客様は、度々 参拝されていて、伊達家の歴史に精通しています。
佐賀の女性は、出張で来仙され 時間の有効活用で参拝されたとの事 伊達家・政宗公の知識皆無です。故にガイド依頼されています。

この格差? ある状態で ご満足いただけるガイド。
それなりの配慮・気配り 致しました。
「聞いてよかった」のお言葉を頂きました。 誠意が届いた様です。


昨日 仲間から聞かれました。

南相馬から来ました。
1.私には 伊達家の血が流れています。
2.家紋は 羽根が折れた 竹に雀 です。
3.姓は ○谷です。

と若い男性に言われました。真偽の程 如何なものでしょう。と

1.本人が、伊達家の血脈である と申すからに 戸籍・系図で立証できるのでしょう。
 伊達家は 藤原鎌足に遡るとも言われています。既に1000年以上経過しています。
 我々も 同根の可能性は無きしもあらず と思います。

2.功績のあった家臣に褒美として 家紋を下付することもあると聞いています。
その際 何処かに変更を加えて 全く同じは無いいると聞いています。
羽根が折れた竹に雀の家紋は 初めて聞きました。

3.○谷の姓が 伊達家家臣禄に記載あるか  どうかです。
 南相馬に、いつから住まわれたのか、明治以降なのか?

と 答えました。

ちなみに
仙臺大人名事典と仙台藩歴史事典には、○谷 姓は見当たりませんでした。 



10 月 4 日 (土)  



間断なく 全国から 参拝に見えました。

ガイドの際、「どちらからおいでですか?」尋ねます。
お客様の中には「何処から来ようが勝手だろう」の意思表示される方います。その通りです。
聞くのは 伊達家とのご縁のあれば 単に政宗公の墓参に終わらない 思い出になる 何かキッカケがないか です。

千葉・埼玉の人は東京と、神奈川の人は 横浜・鎌倉と 答えるお客様が多いです。3分以内にバレますが。

本日は、
1.北陸の方、来春開通する新幹線の先 金澤以南の人 親娘
2.秋田 佐竹家の菩提寺近隣の国立小学校の3年生親子
3.静岡・久能山東照宮の麓からの3女性 

番号順にノリが良くなって行きました。

「家康は、江戸の方向を向いて埋葬されている」と教えてくれました。

最後 本殿を背に 本人は表 あかとんぼ は 裏と表 計6枚の景 モデルになりました。
楽しかった と各人 握手を求めてきました。
美人から握手を求められるとは 果報・・・・・


大崎八幡宮でも ガイドされているAさん

七五三になると シャッター屋になる。幼児を中心に背景の社殿を一緒に撮影するには 中腰になり腿肉がバンバンに頑なる。
小さい椅子を持参し 撮影している。気がつくと 長蛇の列。
ガイド頼まれないで シャッター屋になる。

漆は紫外線に弱い (聞いていました)故 ポッリポッリと修理している。金と暇のかかる作業です。
21日 ある生涯学習団体から講師依頼されている。漆職人から聞いた話を語ろうか 思案しています。職人は語らない故

等を漏らしていました。


戊辰の役弔魂碑前に 綺麗な供花 1対がありました。
10日の官民一体の慰霊祭は 今年は知事・市長を特に招かない 自由参拝となりました。

で、関係者の誰かが 事前に参拝されたのか?
瑞鳳殿職員に聞きました。
「参拝に見えたとは聞いていません。ただ・・・・・・・」と洩らされました。納得しました。

あかとんぼ 10日10時から 待機しております。


本日 白石で 「鬼小十郎まつり」が開催されました。
例年なら 明朝 一番で 白石かえり の暦女様 駆けつけます。
明朝が 楽しみ です。 来るか?



10 月 1 日 (水)  



図書

よみがえるふるさとの歴史

1.荒浜のにぎわい 東廻り海運と阿武隈船運の結節点        ・・・井上卓巳
2.慶長奥州地震津波と復興 400年前にも大地震と大津波があった・・・蛯名裕一
3.イグネのある村へ 仙台平野における近世村落の成立       ・・・菅野正道
4.湯けむり復興計画 江戸時代の飢餓を乗り越える          ・・・高橋陽一

先週末 全4冊が揃った。
蛯名裕一・高橋陽一・菅野正道の3先生の著書は、これまでの講演の集大成?
聞いて・メモしても ザル状の現状では 本にして頂き 誠に 助かる。有難い。

井上卓巳先生は、さいたま市大宮盆栽美術館に勤務されており、日本近世海運史の研究とは 意外な結節点があるのか?

読書の秋 夜長に勉強します。





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