2014年12月の日誌
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12 月 31 日 (水)  



2014年 
瑞鳳殿でのガイド 年 115日致しました。
本ガイド日誌  アクセス 11,600回ありました。
6月28日には、時代考証学会 in仙台 で ガイド活動を発表の機会を頂きました。

これ一重に、
公益財団法人瑞鳳殿役職員、
瑞鳳殿ガイドの会の仲間、
生涯学習での講師・先生、
生涯学習の仲間
参拝のお客様、
読者の皆様
一期一会の皆様
仙台藩志会会員
郷土史家U様

の温かいご支援を頂きましたからこそであります。
唯々 感謝申し上げます。


28日日誌 加筆・修正しました。



12 月 28 日 (日)  



政宗が仙臺城に飾らせた門松 2

仙臺城に飾らせた門松と同様の門松が 連綿と400年余 飾られている所。

家格 御一族。 家禄2000石。 領邑 伊具郡金山・要害預 中嶋播麿。 の領地 伊具郡大内邑。

今年も「いきいき交流センター大内」の広場に 邑の長老が集まり 伝統の様式で 40分程で 飾られました。

鬼打木(橡)・信柱(栗)・横柱(栗)・五階松・笹竹・注連縄・藤紐・和紙・縄 使用する材料は 全て地元 山野・田畑で収穫・生産したもの。
作る人・講釈すろ人。皆様 少なくとも400年と連綿続いて現在に至る伊具郡大内邑 生まれ育ちの人々。

仙台市博物館の倉橋先生は 作業開始の9時から、あかとんぼ は完成間近に 到着。
飾り付けを見守りました。

9時40分完成。温かい缶コーヒー等で 乾杯。
作業指揮者 大内活性化施設管理組合長塩沼邦夫を中心に、邑人輪に、倉橋先生・Uさん にあかとんぼも入り 記念写真撮影。


続いて 
鬼打木・信柱・横柱の用材は何か? 鬼打木は橡(クヌギ) 苦を抜く。信柱・横柱は栗 その由来は???
鬼打木の長さは何故 3尺か?  炭焼き釜の規格。
鬼打木は3本で 3か所 3重で縛る由来は?   ????
注連縄を縛る紐は 麻紐でないのか?  藤紐(藤の蔓を 浸し・叩き 紐状にした)で 山に幾らでもある。
締め飾りの紙は障子紙か?  地元で漉いている 大内和紙。
等の拘り
を お聞きし、縄での締めの実技指導、締め飾りの作成実演(動画撮影)を拝見。

仙台市博物館の菅野先生からお預かりした「地域の伝統文化を伝えていこうという志を持った皆さまには、私も陰ながら応援している」というメッセージを 確かに伝えました。

倉橋先生が早朝から駆付け 記録されました。

邑人皆様も 民俗から 注目・支援している人々が 邑以外 学問に世界の人々に居るを 認識された様です。
来年は 若い人を巻き込み 伝承と発展の機会に なるでしょう。

あかとんぼ は赤穂の殿様 浅野内匠の並の未熟を自覚しました。手ぶらで行きました。不覚でした。

教えて頂きました上 更にお土産を頂きました。  餅米 1.45kgです。 
売られているのは 通常1kg単位です。 何故 中途半端な1.45kg  ?????

餅 1升 1升餅分でした。 
生活の根底に 少なくとも80年前の日本の民俗的生活 が 社会の規格が変化しようが 面々と繋がっているのです。驚いた。
日本の原点が 此処にあるのか。



山城跡

戦国時代以前の山城・陣屋であったでしょう 「陣林」を 地元郷土史家Uさんに 案内頂いた。
樹木が繁茂しており、ゴム長・軍手等を携行しておらず 装備不十分から 中腹まで 登る。

片面が急斜面で、切通 空堀状があり、 頂上部から東方向を望めば 太平洋が見える。即ち 相馬軍の侵攻を視認できる位置。
伊達家の 対相馬家侵攻の自衛の最前線でなかったか?
地元郷土史家Uさんの解説でした。うなずける地形です。


郷士・豪氏

陣林の登り口に 門松長老の一人 S家があります。正確には S家の屋敷を通らなければ 山城跡に至りません。
陣林に至る 喉佛を押さえています。郷士であったでしょう。

江戸時代の水鉄砲 ポンプを みせて頂きました。
大きさは 消火器を やや細くし 全体が 長くしたもので 木製です。

軸部 本体に 「陣林 長次郎」 墨痕 鮮やかに墨書されいます。何代か前の ご先祖様のお名前だそうです。

正面に、江戸 江戸の間に 「七」に「ナ」の文字が組合せて、四角で囲まれた文字。 屋号でしょうが。

縦参列の中央に 大きく 「龍吐水師」 文字 
右列に 横山町壱■」
左列に 櫻井善七
の焼き印 が刻されています。由緒 正しいものです。

江戸横山町は、現在の東京都中央区日本橋横山町で、
江戸一番の繁華街こと日本橋両国に隣接した立地から、多種多様な問屋が軒を連ねていた。(ウイキペデイアによる)

何時の時代の「陣林 長次郎」 が江戸で求めたのでしょうか?仙臺伊達家の参勤交代に お供した際 求めたのでしょうか?

S家では 元旦朝

霜様       シモサマ
水の桁      ミズノケタ
氷の梁      コオリノハリ
雨の垂木     アメノタルキ
雪の葺き草   ユキノフキクサ

と 3回 家族一同声高らかに唱え 当主が放水をする。
水は 母屋の屋根上迄 登り その飛沫で全身が濡れる・・・お浄め となり その後 元朝詣り に出かける。
現在も この行事は 行われているそうです。


屋敷内に 籾倉があります。 珍しいと 申したら。

その横に 土蔵が2棟あったが 土壁が崩れ 維持困難となり解体した。
母屋を新築する際 仙臺箪笥、長持 を何棹も 焼却した。残した仙臺箪笥、長持は 各 1棹。
(屋外物置に 無造作に 置かれていました。)

書類 古文書 沢山ありましたが 読めないので 全部 焼却しました。
との事。

「S家の由来 邑の生活が 読め切れる 貴重な古文書でしたのに。今日来た 仙台市博物館の倉橋先生は 古文書解読の大先生です。
相談 すれば???」

「Uさん達 10年 早く来てくれれば」

この様な 事例 多々 あるのでしょう。誠に残念な事です。
あかとんぼ家のささやかな古文書も 後世に伝わるか 心配しています。


相馬中村城跡

伊達家領と相馬家領の境が 現在 片道2車線に歩道付の幹線道路になっています。
これを通り 中村城跡を一周 相馬神社・中村神社に参拝 帰仙。

常磐自動車道開通で 相馬ICから長町ICまで 45分 乗せて貰っている故か はやいものです。
長町駅から 地下鉄・バス乗換・徒歩で あかとんぼ屋敷まで 80分 こちらが遠い。

地元郷土史家Uさん 一日 お世話になりました。ありがとうございます。



12 月 27 日 (土)  



御用納め

行政機関は、昨26日 「御用納め」で、来年1月5日の「御用始」まで 9日間の長のお休みに入りました。
この方々が この機会に 瑞鳳殿の政宗公お詣りに お出でなるだろう 期待し 雪道を ノロノロと 行きました。

先ずは、昨日 飾った 門松を撮影しました。
昨日と今日の写真で(門松作成の手控) を作ろう と思ましたので。

天気予報 また 外れました。
気温があがりません。真冬日です。

盛岡と千葉からのお客様 が多かったです。
盛岡の客様 仙台は寒いと一往に 洩らします。
盛岡は積雪が少ないが低温を 知られています。その人々が寒いと申すは 異常低温かな。

涅槃門前広場より 本殿前が 寒さが 骨身に凍みます。あかとんぼ のみの現象で無く 仲間も 同じ様に 洩らし ハナミズを啜ります。
廣瀬川の冷たい川風が 鹿落坂を駆け上って来るのか?
Uさんは ホカロンを揉んでいました。あかとんぼ も次回から 必需品かも。


本日ガイドしたお客様 1組2人。最少記録かも?

岩手県から。
「伊達領ですか? 南部領ですか?」
「サアー」
「北上市の東西を流れている 和賀川を境に 盛岡より? 一関より?」
「アッ 南部領です」

北上展勝地に 伊達領と南部領の境を 示す 塚 がありますが 御存知ない様子。
現代日本の若者の特徴に 自国 日本の歴史 居住している地元 郷土史に 暗いがあります。

歴史に暗い故か 質問がユニークです。
相性が 宜しく 感仙殿地区まで 御伴し 再会を約しました。



落し物・拾い物

瑞鳳殿で待機中 お客様から 涅槃門で拾いましたと 財布を預かりました。
診察券と1日バス券が入っています。

事務所で 全山放送をしましたら 若い女性か 駆けて来ました。
本人が 落としたのを 気きかない内に 発見されました。よかった です。


あかとんぼ屋敷で 駕籠から降りた路上凍結雪上に スマホがあります。
若い女性の持ち物に見えます。色・デザインからして。

交番に届けました。若いおまわりさん 珍しく スマホ 持って居ないのか あかとんぼ 同様 電源を オンに出来ません。
電源が入れば 個人情報 確認出来 本人に容易に連絡つくとおもいますが?

何処で、何時に 拾ったか?住所・氏名・電話(固定・携帯)番号・落とした人届出無い時 所有権を主張するか?・落とした人現れたら 住所・氏名・電話等の情報を伝えてよいか?を 問われました。

所有権を放棄・情報を伝えないで と 申し 届出書が出来ました。

番長 らしきお巡りさん 曰く 「何故か 若い女性のスマホ等の落し物が 多い」 

あかとんぼ の分析 寒気が基因だと 思います。
ポッケットの出し入れで 手袋を落とすか? スマホを落とすか? でしょう。



12 月 26 日 (金)  



政宗が仙臺城に飾らせた門松

2012年12月20日に、かって仙臺城に飾られた門松が、仙台市博物館菅野正道市史編さん室長、同市史編さん室倉橋真紀先生、根白石邑肝入・山守を務めた熊谷家の現当主熊谷和夫氏の指導で、瑞鳳殿資料館前に 再現・飾られました。

2013年は、12月25日に。
2014年は、本日12月26日 やはり瑞鳳殿資料館前に 今年も飾られました。


作業は3時間ほど要しました。
真柱は立てられ 笹竹・三階松・鬼打木等は用意されており、単に 組立作業だから 1時間位と予想して居ました。
が、、熊谷和夫氏の指導で、瑞鳳殿加藤学芸員、博物館N沢係長等 6人で 結果 3時間の長時間を要しましたのは、寒気が厳しい為でした。

市史編さん室倉橋真紀先生の監修後、瑞鳳殿富田常務理事の音頭で 熱いコーヒーで乾杯 身体を温め 完成を祝いました。


あかとんぼ は、政宗の民俗・行事に寄せた見識を広く 参拝者に 知って頂く意味合いからも、涅槃門正面前に、または、右側の一般参拝者口に 今年から設置の検討を 12月15日 事務局長にお願い致しました。

本日 事務局長から 内部で検討した結果
1.涅槃門前では、優れた彫刻の鑑賞の視界を妨げる恐れがある。
2.復元門松は 通常の門松に求める意味合いの他 「復元」からの 資料としての意味合いが寄り大きい。
よって、資料館前に飾ることになりました。
と 丁寧に ご回答を頂きました。

老人の たわ言 を真摯に検討され 丁寧に ご回答を頂きました事に 感謝申し上げます。 



12 月 25 日 (木)  



伊達氏の縁 村田二小と江刺人首小 交流

の見出しで 24日河北新報は伝えています。

村田二小の所在する村田町沼辺地区は 安土桃山から戦国時代に沼辺氏が治めていた。
その後、江刺郡人首(ヒトカベ) (現岩手県奥州氏江刺区米里字人首)に移封になり 約260年治めた。
この縁で 両校の交流が始まった。



沼辺氏は、家格 一族 石高 1000石 在郷屋敷 江刺郡人首村 要害預かり
(仙台藩歴史事典 仙台郷土研究会編)

仙臺人名大辞書 によれば
1.ヌマベゲンバ 沼邊玄蕃
 武将 柴田郡沼部村沼邊城主 年代詳ならず

2.ヌマロクロー沼邊六郎
 将校 旧仙臺藩御一族江刺郡梁川村人首邑主沼邊梓之助の子。陸軍歩兵少佐。従六位勲四等に叙される。大正8年4月30日歿す。享年46。仙臺北八番丁紅巖寺に葬る。

とありました。


なお
1989年 江刺中央公民館刊 「人首村口碑伝説 ; 笠森稲荷・麓山大権現・大森太峯由来 ; 沼邊氏系図・佐伯氏系図 」 佐島直三郎編に沼邊氏系図が掲載されているようです。

宮城県立図書館の蔵書には 見当りません。



12 月 24 日 (水)  



宗旨

政宗の菩提寺は 瑞巖寺。臨済宗妙心寺派。
綱村から大年寺。黄檗宗。

伊達家中興の祖 政宗の宗派 臨済宗から黄檗宗に変り 新たに寺を創建した 綱村の精神の分析に悩んでいました。

確かに、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗は 禅宗であるとは知っていました。


江戸時代 臨済宗黄檗派 であって 1874(明治7)年 臨済宗に統一され、1876(明治9)年に黄檗宗として独立した。
将軍 家綱・綱吉 後水尾天皇 多くの大名が帰依した。

となれば、綱村の臨済宗から黄檗宗に変ったは理解出来ます。


昨23日 宮城歴史研究会12月例会で、福島美術館尾暮まゆみ学芸員の 
「大年寺の今昔(いまむかし) 黄檗宗ってなんど?」 の演題で講演されました。

この講演で 氷解しました。

先生は、現在の大年寺と 昔の大年寺との関係。毎年6月20日の綱村の遠忌法要の経緯 をも語られました。


通常の歴史講座と異なり 土日では無く 15時から 太白市民センターと 時刻・会場が異なる所以か 若い人の参加が目立ちました。



12 月 23 日 (火)  



天皇誕生日  積雪・凍結

6時 路上除雪すろ音。
やられたか?

心配は現実に。あかとんぼ屋敷の門前は除雪されていた。
有難い が 実は 後期高齢者の爺様には 幼少のみぎりから体験の再現 除排雪が楽しみ 生きている 証しの作業なのです。

城下は凍結していました。ブレーキ厳禁 かけると スリップ 滑りました。コワイ 怖い。
低速運行でも 9時前に 到着。

全山 真っ白 雪景色。まず 撮影しました。
お客様 来ません。

寒いので 売店で 待機していました。

10時 ようよう お客様きました。 若い女性2人。
Aさん 売店を出て 応対していましたが、間もなく 帰って来ました。

中華民国からのお客様ですが 若い故に ガイドを理解する程 日本語が堪能では 無いと 断られたそうです。

樹木 枝に積もった雪 時折の風で 吹雪き状になります。
雪 自体 珍しい方々です。一時の吹雪 最高の馳走か? 喜んでいました。


本日は、お客様 皆無 ゼロを記録するのか・・・・・

10時30分 東京からの お客様。
「一人ですけど?」 「一人のお客様 歓迎です」
じっくり ガイドしました。

「明日から仕事です」 なんのお仕事か? かまいませんが カップ麺が数多く入れたコンビニのポリ大袋を下げて 聞いて下さいました。
駅弁を下げて来て 四阿で 使う人は 温かい季節には います。
厳冬の最中 熱湯も無いのに どうすか 内心 不思議を感じていました。

時が経過し 別のお客様をガイドしていたら 生垣の外で 呼ぶ声が聞こえました。
先程のお客様 戻ってきたのです。

「ガイドさん これ食べて!」
「お客様 在仙中の 食糧でしょう!」
「いや 重荷になったの!」

困っている人を 助けるのが ボランテイアです。頂きました。
さて どうするか?

瑞鳳殿は 元日 午前0時から 元朝詣り 日中は 本殿が開扉 されます。
政宗公には 若い時 原野を駆け巡っての 戦争をした様な 激務が待っています。
伊達家の兵糧として 糒(ホシイ)が 有名です。
現在の 糒 としての カップ麺で 体力をつけて 奮闘して頂きたく、政宗公の賄いを担当している職員に 差上げて頂きたい とお願い致しました。
快諾されました。
年賀拝礼式は 1月2日11時からです。カップ麺を食して 元気溌剌の政宗公に御対面できます。
お待ち致しております。




12 月 22 日 (月)  



昨日 瑞鳳殿ガイド休みました。

「宇津志惣兵衛と四ツ谷用水」と 題する 四ツ谷の水を街並に 市民の会 の講演会に参加しました。

俗に 四ツ谷用水の工事は川村孫兵衛が作ったと伝えらていますが、普請奉行は 宇津志惣兵衛であり、ご褒美を頂いた記録もあります。
これについて ご子孫の宇津志勇三氏が 家系図等 家伝の史料を基に 

田村家の家臣である宇津志城主が 
田村家没落後 如何にして 伊達家家臣になったか、
宇津志城跡はどうなっているか  
等を パワーポイントを使用し 淡々と語られました。

聴衆は100人を越えました。
市居の人が講師の歴史講座で 100人を越えたは 大成功 です。

演題が 馴染みの無い人 宇津志惣兵衛が 前面に来ています。
あかとんぼの感覚では 「政宗の造った四ツ谷用水と普請奉行宇津志惣兵衛」の表題の方が 生涯学習者には 良く伝わるのでは と思いました。
聴衆の集まりがヒトゴトながら心配になり チラシ100枚を あかとんぼの周囲に配りました。
10余人が来てくれました。有難いことです。


講座アンケートでの 感想欄の披露が 慰労会でありました。

我が意を得た 感想
「元号だけでなく 西暦を 併記して欲しかった」 が 5指以上 あったことです。

延暦16(797)年坂上田村麻呂に始まり、天正18(1590)年秀吉 奥州仕置きから寛永13(1637)年頃までを中心に語られました。
年表を持参して 聞かない事には 時系列に理解が 容易でありません。
感想(要望)は 当然とおもいます。



遺構保存

土橋通 四ツ谷用水遺構の保存策について 東北大学工学部G教授とS四ツ谷事務局長に あかとんぼ の三者で 次の様な結論になりました。

今回 発掘可能な距離を全発掘し その中で 一番原始的な石組の個所を 裏込め含めた部分 ブロックで 発掘 保存をする。
貝塚等 埋蔵文化財 が発掘され プラステック等で 包み込み保存されている 手法で 出来ないか?
S四ツ谷事務局長が 仙台市の工事担当に部局に 申し入れをすべき。

四ツ谷用水保存に関心のある 水環境ネット・水の文化史研究会の団体と 歩調を取れば 効果的と思います。取るべき ですが?????






12 月 21 日 (日)  



寺号と院号

「忠宗には 大慈院と 院号が付いていて以下歴代公が院号です。 政宗には 院号が付けらていない。それは なぜか?」のご質問が有りました。

これに気がつくとは、伊達家について勉強されている方 です。


政宗の戒名は、 瑞巖寺殿貞山禅利大居士 で、瑞巖寺 と寺号が入っています。
瑞巖寺は 政宗の菩提寺であり、現在の寺に造営したのは政宗であります。

寺を 創建した人には その寺号が、 院を創建した人には その院号が 当然として付与されるのです。
政宗正室 愛姫は82歳時 1650年陽コ院を 開山しています。陽コ院殿榮庵壽昌大姉 です。


参考まで、ウイキダイア では、

戒名(かいみょう)は、仏教において受戒した者に与えられる名前である。仏門に入った証であり、戒律を守るしるしとして与えられる。

上座部仏教と大乗仏教の両方で行われており、多くの場合、出家修道者に対して授戒の師僧によって与えられる。上座部では出家後に南伝仏典に残る阿羅漢に変名するため、その意味で「法名」と呼ぶ。

また、仏弟子として新たに身につける真の名前という意義から「法諱」(ほうい、ほうき)[1]ともいった。

また日本においては、死生観の変化により死後に成仏するという思想のもと、故人に戒名を授ける風習が生れた。(「成仏#日本文化のなかでの「成仏」」を参照。)死後の戒名は、特に日本において盛んに行われている。寺に支払った金額によって戒名のランクが変化する。

戒名 基本的に戒名は2字で表現される。身分の上下や精進、報恩の多少に関係なく、仏の世界が平等であることを表す。
例1 「OO院△△XX居士」例2 「○○院ΔΔ××大姉」上記の例の場合、「OO」・「○○」が院号、「△△」・「ΔΔ」が道号、「XX」・「××」が戒名、「居士」・「大姉」が位号である。
ただし、位牌・墓誌・過去帳・法名軸などには、戒名の前後に院号・道号・位号等の号を付すことから、その全てを「戒名」として捉える事が通例化している。

下線はあかとんぼ が付与


本来 寺・院を開山・創建した 功労に対して 贈られたもので、故人の一生の功徳 寺に対する功労を 一括納付する発想が現今の考え方では?

遺族が 故人に 院号 を欲しい場合 功徳の一括納付 が お布施です。
よく 院号付与に莫大なお布施を請求された。回忌法要等で 予想以上のお布施を求められた のトラブル話が 茶飲話に話題になります。
これは 遺族の見得と勉強不足 そして寺側の説明不足が 基因して居ると 思います。


さて 伊達家にもどります。

政宗の以後は、4代綱村のみです。 綱村は 大年寺を創建されており、大年寺殿肯山全堤大居士 です。

政宗のご先祖では、
初代  朝宗 が 満勝寺殿
 3代  義広 が 観音寺殿
 4代  政依 が 東昌寺殿
 5代  宗綱 が 金福寺殿
 6代  基宗 が 満願寺殿
 8代  宗遠 が 喜見寺殿
 9代  政宗 が 東光寺殿
10代  氏宗 が 正光寺殿
16代  輝宗 が 覺範寺殿
と 寺号が 付いています。

あかとんぼ 満勝寺・観音寺・東昌寺・覺範寺は お詣りしています。

 



12 月 20 日 (土)  



天気予報は 河豚か?

今日も当たらなかった。9度の予報。
曇天で気温が上がらない。お客様の出足は・・・・・  寒さを感じます。

A・U・O・S・Mさん S嬢と  年季の入った仲間 7人。
とりあえず 瑞鳳殿到着順に ガイドしました。一人1回終わった所で 規制解除 自由競争に。


愈々 門松を飾る時期になりました。
政宗が見たであろう 仙臺城門松  今年は 何処に飾られるか?
15日 公益財団法人瑞鳳殿常務理事に 「涅槃門前に」と陳情しましたが?
昨年は、25日に飾られました。今年は いつか? 
その日に 成果がでます。


400年の伝統 民俗学的にも評価されて良いと思う 丸森町大内邑の門松を 伊達学塾での 講演で 仙台市博物館の倉橋先生は 紹介して下さいました。
邑人は 感激 奮起され 今年は より伝統に 復元し 28日8時30分から 飾り付けるそうです。
あかとんぼ は 当日 Uさんと 見学に行きます。



12 月 18 日 (木)  



生涯学習は 不用不急?

本日 明青大史学部の講座がありました。
70人程の教室に 学生はパラパラ 30人程 通常の4割程度の出席率。
昨日来の暴風雪に マスコミは親切に 「不用不急の外出は控えましょう!」と連呼していました。

素直な高齢者は 生涯学習は不用不急の外出と判断し 自宅学習に 入ったらしい。
講師も 内心 ガッカリしたのか 「本日の出席は 何人 何割ですか?」と 幹事に確認してから帰って行きました。

講師は、仙台市歴史民俗資料館 佐藤雅也氏
演題は、都市と村落の交流
内容は、伊達家時代の流木・薪炭

市史せんだい VOL12/2002.7 掲載 研究ノート「仙台地方の木流し」に 基ずいたものでした。

先生は、仙台の薪の供給 木流しの研究の創始者と申されました。

12月4日に フリーライター西大立目祥子氏は、 青葉区中央市民センターで 配布資料無 パワーポイントで
「廣瀬川の記憶」取材ノートより と題して (木流しに関わった古老からの聴取主体)で 同一内容で 講演されました。

何れの聴衆は、 ストーブの薪 を 切り・割った 整えた経験のある年代。
フムフムと聞き、今度は 亜炭 の話し聞きたいと洩らす人 数人いました。
これまた 亜炭の煙と臭い 悩まされた年代。昔が懐かしい人達でした。



明青大史学部の来年度講座に、仙台市博物館で開催される 「宇和島伊達家秘寶展」の鑑賞が計画していると 聞きました。
楽しみです。

昨年の宇和島伊達博物館での「大伊達家展」では、仙台市博物館・瑞巖寺 から 秘宝の数々に 学芸員が付添 出展しています。
仙台から 仙台伊達家当主・仙台市長・瑞巖寺住職等も 駆けつけています。

2月に 宇和島伊達家当主・宇和島市長が来仙されると聞いています。
「宇和島伊達家秘寶展」にも お出で頂けるのかな?



12 月 17 日 (水)  



水路遺構

仙臺城下の利水として開削・設置された四ツ谷用水。
本流は、暗渠となり 工業用水と 名を替え 滔滔と流れ 麒麟麦酒等に 姿を替え 再び 市民に再会しています。
城下に42km 播巡された 支流は 道路路面下に埋没され 姿を消しました。

第一支流は、 覺性院丁 春日神社付近で 分れ 土橋通り を南下 北三番丁に 至り 支倉丁 を東進していました。(旧地名で標記)


土橋通りの拡幅工事で 国道48号線寄り土橋通で この第一支流の遺構が 出土しました。
本日 11時から13時迄 道路拡幅工事を中断し 公開しました。

内幅 120-140cm 高さ 90cm で 左右両岸が石組  底面は 粘土?の遺構が 10m程 の水路遺構でした。

90翁 二人 水路遺構に入り 80年前 幼少の折の 姿 景観 体験等を 語り合っていました。
水路遺構の語り部 です。

石の色 大きさから 宇津志惣兵衛奉行 施行当時 その物では 無いと思れます。
午後から 工事が再開し 破却されるでしょう。

仙台市教育委員会文化財課の職員5-6人 傍観していました。
「埋蔵文化財として 調査・報告されるのでしょうか。毎年刊行される報告書 記載されると 後世の人々の 有用ですが?」
と 一番偉そうな係官に 呟いてきました。

「四ツ谷の水を街並に!市民の会」と「仙臺・水の文化史研究会」の会員 多数が 霙の中 多数参加 撮影し 思い思いに 語ったいました。
あかとんぼ は両会の実働しない会員です。

宇津志惣兵衛奉行の子孫 宇津志勇三氏は 21日13時30分から 仙台市民活動サポートセンター6階で 「宇津志惣兵衛と四ツ谷用水」と題して 講演をします。会費無料 お土産付です。



12 月 16 日 (火)  



甕棺

12月2日記事の続き です。

2006年の茂ヶ崎城址発掘調査において 発見された甕棺の詳細です。

発見経緯は、野草園・野草館の改築・擁壁工事の掘削中、粘版岩製石3枚を撤去したら木槨甕棺墓(モッカクカメカンボ)が発見された。

1.底面四隅に直径8〜10cmの扁平な河原石が敷かれていた。
2.その上に一辺85cm箱が置かれていた。
3.箱は、横方向の板材が組まれ、底面に枠が残っていた。木質は脆弱で原型を留めていない。
4.この中に堤焼の大甕が入れられ、炭が充填されていた。
5.大甕は、口径62cm 器高77cm 胴径64.6cm 底面内径17cm 底径20cm 緑色の器面に白色の釉(ウワグスリ)が大きく垂れている。
6.底面25cmの厚さに成人男性とみられる人骨が東西方向を向いている。
7.雲母片 銅銭5枚(種類等不明) 数珠玉(水晶玉13個 木製玉80個 木製玉破片15個)
8.部位特定は、頭骨、下顎骨、左上腕骨、左第腿骨等
9.50〜60代 身長160cm前後

では 誰の遺骨か?

大年寺の子院 「大千院」の所在後に 元文5(1740)年の銘の石塔があり 僧侶の墓と伝えられている。
今回の場所は 「四天王院」の所在後地?で、単独に葬られた僧侶の墓の可能性がある。

青葉区北根で発見された 新島家墓地の甕棺5基は  明和7(1770)年〜慶応2(1866)年迄のもので、何れも素焼き であった。
この点が 今回と大きく異なる点である。

以上は 仙台市文化財調査報告書第326号 12 茂ヶ崎城址発掘調査 報告書によりました。


参考文献として 次の図書が掲記されています。
1.古泉弘2001「W江戸の墓と葬制2 埋葬形式」(図説江戸考古学研究事典)江戸遺跡研究会編pp142-146
2.仙台市史 7 城館



12 月 15 日 (月)  



朝方の雪もあがり 晴天青空

瑞鳳殿 恒例の煤払い です。
伊達家御当主を先頭に 伊達武将隊も参加  公益財団法人瑞鳳殿職員総出で 10時前から 瑞鳳殿本殿 内外の煤払いの儀は催されました。

マスコミ各社 TBC,NHK,河北新報 の常連に、珍しいマスコミに サンケイが取材・撮影に見えました。
TBC,NHKのキャスターのお嬢様から あかとんぼ まで質問されました。
(マスコミの取材風景を取材に訪れたのに 取材されたは マスコミの 逆襲か 爺祓いか)


たまたま 参詣に訪れた お客様から 様々なご質問が

1.今 何をしているのか?
2.煤払い とは 日時を定めて 行う行事か?
 (主婦を引退された年代の方 この方は 自分の体調と天候と連れ合いの機嫌に 合せて 大掃除していたのでは?)

3.政宗の末裔が仙台にいるのか?
4.あの清掃集団に いるのか?

5.本殿の扉は いつでも 開扉されているのか?
6.瑞鳳殿は、伊達家が 保有・管理しているのか?

7.木像の政宗が 手にしている 品 の名前は 何と云う物か?
8.服装と座り方を 何と云うのか?

・・・でありました。
服装は、「従三位権中納言の衣冠束帯 装束」と即答しましたが、この座り方を 何と云うかわかりません ので 「わかりまえん 調べて メールで?」に、 「21世紀の文明の利器は 使いませんので」と言わらました。


400年前 政宗が 根白石で見て 仙臺城に 飾らせたと 伝えられ 復元した 門松。
御縁の深い 瑞鳳殿にと 2012年暮 瑞鳳殿内 資料館 前に飾られました。
仙台 初 です。今年が 3年目です。

丸森町大内邑の 連綿と続いた 門松。 この瑞鳳殿の門松に刺激され 古式・伝統 門松に 戻して飾る動きがあります。
民俗文化 復元の発祥の地に 瑞鳳殿が成ろうとしています。

涅槃門前に飾ると
1.これなんだ と 参拝に訪れた方々の注目をあびます。
2.さすれば 政宗が400年前仙臺城に 飾らせ門松。
 武人であったのみならず 民俗文化の保存・継承にも優れた人であったと 評価されるでしょう。
3.涅槃門前であれば 舗装されておらず 地面ですから 杭を地に刺せて 本格的 復元は 望めます。

ご検討 ご英断を 宜しく お願い致します。

と 公益財団法人瑞鳳殿常務理事・局長に 煤払いで ご多用の中 お願い致しました。真剣に聞いて頂きました。

既成の 今風の門松が 涅槃門のコンクリート基盤に飾られました。
今風の門松の前の 地球に直接 設置されれば・・・・・・。
仙台城門松を飾る作業は 28・9日でしょう。
まだ 間に合います。仙台市博物館は 対応してくれると 確信しております。



12 月 14 日 (日)  



トンネルを抜けると そこは 雪が 無かった。
あかとんぼ邑は雪原 でも トンネルを抜け 城下に入ると そこは枯れ野。

積雪のない地に 築城し 町を 開いた 政宗公は 偉いと あらためて思います。

島根県からの小団体。
「我が殿様は 松平様だ 譜代だ」(お前らと違うんだ の口調)
となると 黙っていられません。

「伊達家も 松平姓を 慶長13(1608)年正月 陸奥守に任じられた際 許されています。外様の雄です」

帰邸し 確認しました。
濱田市所在 61000石 松平家。
松平家初代は6代将軍家宣の弟 でした。

他国領主の霊屋を訪れて 「我が殿は・・・・」と発言される 郷土愛に 敬服致します。

今年の年賀拝礼式の一連の写真をお見せし、
「仙台には 34世16代仙臺伊達家御当主がお住まいです。仙台藩志会に お入りなりませんか? お世話致します」に
「会費は?」 
「年会費10000円。入会金10000円です」 
以下の反応がありませんでした。当然かも。


るーぷバス利用で 1日乗車券 持って居ない 数人の団体のお客様。

「1日乗車券 持っていれば 割引になります」に、
「買えなかった。車内では 1回券のみ」と。

窓口嬢に 尋ねたら
「消費税が 5から8%と増税になり 620円と 端数が付いて 運転手のつり銭勘定が面倒で中止したらしい。10%に来年なる筈であった。その時に、機械を調整する つもりで在ったのでは」のコタエでした。

交通局の責任者に確認していませんので 真偽の程は 定かでありません。
窓口嬢のコタエが 正しいとすれば お客様の利便に配慮のない 石頭経営と 思います。


千葉からの20人程の社員旅行。年齢構成に格差の無い男女比5:5 です。
社員間に 協調性と積極性が高いと感じれました。

社員旅行のガイドは10分から40分に至らない 短時間のお付き合いですが、それぞれ 会社の個性を感じます。
今日の会社の業種 何か 見当つきませんでした。


本殿前に至ると カミソリで 身えを切る様な寒風です。
11時30分 脳味噌が凍結始めた感じ 痛くなってきました。
日本には 100歳以上で 元気な老人が 6万人以上いると 今朝のテレビで 報じていました。
100歳迄 ガイドするには 御身大事 と ガイド終了しました。



12 月 13 日 (土)  



本日の瑞鳳殿ガイドは 休みました。

仙台藩志会広報部の会議と 時刻が重なりました。
土・日の午前は瑞鳳殿でガイドと 自分で決めています故 会議招集を土・日にはしないで頂きたと 申しておりますが、各自の都合では 多勢に無勢 です。

明14日と15日は ガイドに行きます。

なお、15日10時から 恒例 の煤払い が伊達武将隊も参加し 行われます。 
あかとんぼ は 自宅の煤払いもしないで の批判を覚悟で 今年も参加します。



12 月 11 日 (木)  



冨澤大學(郷土を愛する歴史の会)

参加者は 地元在住者が主体で 地区外参加者は マレであるが 気持ち受け入れてくれるので毎回出席して居ます。

歴史講座は 全県隈なく 日に3会場も梯子すると自称のKN嬢は 当然 出席しています。
この冨澤大學に地区外から参加するNK嬢。
講座の梯子はしないで、夫妻で広く探訪をされて 集めた資料の余部を下さいます。

本日は、
1.冨澤館跡発掘現地説明会資料
2.九戸城址
3.衣川絵地図
4.山元町遺跡ガイド
を 持参されました。何れも 有難い資料ばかりです。

2.の九戸城址は、先般小説「冬を待つ城」を読みました。

事実として伝えられた結末は 凄惨 でした。しかし 小説は書けなかったか 凄惨ではありませんでした。

小説では 伊達政宗軍の布陣が記載されています。
人物叢書「伊達政宗」(小林清治著)には 九戸攻めの記述が見あたりません。

天正18(1590)年10月26日 葛西大崎一揆制圧に米澤城から 政宗は出陣しています。

翌 天正19年6月20日秀吉は 奥州再仕置きとして、
白河口には豊臣秀次を総大将に率いられた3万の兵に徳川家康が加わり、
仙北口には上杉景勝、大谷吉継が、津軽方面には前田利家、前田利長が、
相馬口には石田三成、佐竹義重、宇都宮国綱が当てられ、伊達政宗、最上義光、小野寺義道、戸沢光盛、秋田実季、津軽為信らにはこれら諸将の指揮下に入るよう指示しています。

石田三成の指揮下に入った>伊達政宗が どこで、どのように 行動したか 知りたいと思いましたが、頂いた資料・ウイキペデイアには記載ありませんでした。
宿題です。


講座・講演会の開催は なぜか 開催日・時刻が競合します。開催日時の情報を知り得ない事もあります。
講座・講演会の資料等の交換会 市場を開設出来ないか 暫し 考えます。



12 月 10 日 (水)  



宇和島城主 になりませんか?

1615年4月18日 慶長20年3月18日 伊達秀宗は、「57騎」を率いて宇和島入りをしました。
2015年4月18日 が宇和島入り400年目の節目の日です。「宇和島伊達400年祭」 が盛大に催されます。

2015年2月20日
 宇和島市長・宇和島伊達家13代当主が来仙し、仙台市長・仙臺伊達家18代当主を招いて、仙台市内某ホテルで晩餐会を開宴する。(信頼すべき筋の情報なれど 詳細不明)

2015年3月29日 
 秀宗公入部伊達五十七騎大武者行列 の開催。
 岩出山町から借用の甲冑での「57騎に、騎馬隊と鉄砲隊に、甲冑以外の侍隊、輿の御姫様を加えた大行列。
 宇和島伝統 牛鬼、八鹿、唐獅子、ほかも参加。

2015年4月11日
  仙台フィルハーモニー管弦楽団in宇和島

以下
 11月22日迄 各種行事(様々なイベント)が 催されます。


宇和島に 行かなくとも 参加できる行事

 櫻の記念植樹
 寄附金額 1口 10000円
 20口単位で、寄附者名刻印したプレートを取り付け、宇和島城・天赦園等に植樹後 寄付者に知らせる。
 ふるさと納税 が適用になります。

 あかとんぼ と 仙台藩志会から10余名が 参加しております。 

 宇和島1口城主
 寄附金額 1口 5000円
 特典
 1.宇和島市HPに氏名の掲載
 2.城主 証 の発行 希望日付 (日付け 20150年9月1日以降の日付)
 3.1口寄附 宇和島城天守 無料入場券 2枚
 4.2口以上 @ 宇和島城天守内に氏名を掲示
         A 宇和島城天守 無料入場券 2枚
         B 伊達博物館   無料入場券 2枚
 5.ふるさと納税 が適用

あかとんぼ は 城主の申し込み まだです。

寄附の問合は、宇和島市役所企画情報課企画係 0895-24-1111 内線2570
date400@city.uwajima.lg.jp まで


菓子は、唐饅頭 と モナカ・伊達候 のみと思っていました。
これ以外 27種の菓子がありました。(季刊誌 きずな 30号掲載)

以上は、 「宇和島クラブ」 からの情報を基にしております。



12 月 9 日 (火)  



大年寺山公園

伊達家墓所「無尽灯廟」と「寶華林廟」があり、その昔 黄檗宗両足山大年寺があった大年寺山。
仙台市が 多額の経費と長時間を要して 「大年寺山公園」として整備しました。

一画に所在する 「野草園」は有名で訪れる人々が多いようです。
その反面 伊達家墓所がある メーン地区は 格段に少ないのでは?
あかとんぼ自身 毎年6月20日 4代綱村を始めとする歴代公の法要の際 訪れるのみで、兎角の発言は出来ませんが。

今回 大年寺山公園の「歴史散策まっぷ」が 公益財団法人仙台市公園緑地協会から刊行されました。

大年寺・木流堀・伊達家墓所「無尽灯廟」と「寶華林廟」・惣門・姥杉・杉土手を簡潔に説明し 理解容易な略図が記載されています。
フラッと 散策する際 携行便利で 有効です。

この様な案内書のコンクールがあれば、上位入賞 でしょう。

ご希望の方、瑞鳳殿・喫茶で 無料で配布しています。どうぞ。
残部僅少です。


瑞鳳殿ガイドは、冬季も休みません。 お待ちしております。



国連防災世界会議研修

第3回国連防災世界会議で会場内外で外国人参加者の案内や誘導を補助する語学ボランティアに、11月28・29日 瑞鳳殿で 通算12回 あかとんぼ と仲間が講師となり 現地研修を行いました。

その様子を 本日の河北新報が伝えています。



12 月 7 日 (日)  



積雪 凍結

あかとんぼ邑 積雪 凍結です。
昨朝は 駕籠の全面 霜で真っ白。 今朝は 駕籠の雪下しをしてから 瑞鳳殿に。
バス通り 日陰以外は 積雪・凍結はありません。

ガイドの前 本殿を参拝します。涅槃門からの段差26cmの石段 積雪・凍結しています。
滑る・落下・骨折の確立が 高い状態です。

公益財団法人瑞鳳殿は、お客様に 安全・安心な状態で参拝をして頂くを基本にしております。
ガイドは 聞いて楽しかった・知った・得した・また参拝したい の気持ちで帰られるように 努めています。

このハードとソフトの合致が肝要です。

「あかとんぼ さん 今 融雪剤 散布しましょうと 用意していた所」
「今年は 融雪剤の予算が 少ないのよ」と呟き ながら 即 涅槃門から本殿前まで 散布してくれました。

平年並みに気温が上れば 融けますが 今日は 上がりません。
帯広 からのお客様も 寒い 寒い と申しておりました。 北国 帯広より 寒い のです。
特に 本殿前は 寒風が 走ります。刺さります。


神戸からのご夫妻。妙運廟界まで ご案内しました。
ご夫妻は 瑞鳳殿に戻られました。

奥様が撮影担当か? バチバチと。
あかとんぼ が推薦する以外の個所 更に 撮影したくなったか?
それとも 瑞鳳殿と感仙殿の彫刻 類似性を確認されたのか?


本の河北新報朝刊 31頁に 仲間の新沼さんが 瑞鳳殿本殿前でガイドをしている様子 9cm×14cmの大きい写真が掲載されました。
昨日 10時から 記者と写真記者が 取材に訪れたものです。

同紙は取材から掲載まで時日を 要する傾向が あります。今回は翌日です。なぜか 早い。
記事内容は、http://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201412/20141207_11012.html を御覧ください。



12 月 6 日 (土)  



寒い 寒い

午前4時の気温が氷点下2.6度。日中最高気温 5.3度 1月中旬並。
石段の窪みの水は 凍っています。

お客様が途切れると 骨身に寒気が沁みます。

寒気厳しい故か、ガイドの存在は 目に入らず 一目散 本殿に この間 5分満たず。
瑞鳳殿に至る 経費と時間を 幾ばく費やしているのか? 勿体無い参拝。

「これぞ 金と時の浪費 ガイドを聴けば 拝観料の元は 取れるのに」
と、昨日も 不完全燃焼の Aさんと 語り お客様 待ち。



12 月 5 日 (金)  



初雪

氷雨です。ガイド支援機構から 「年寄りの冷や水だは?」のサインが出ました。
公益財団法人瑞鳳殿に、報告すべき案件 数件があり 報告を聞いてくれる役席 本日在席 故 本日となりました。

願の筋 9日朗報を頂ける事になりました。
寒さがトブ筈ですが 自然界の寒気には 勝てません。

Aさん
昨日は 寒いのに お客様少なく 骨身に寒さが凍み 短時間・少人数で 終わった。不完全燃焼であった。今日は????
瑞鳳殿に来ると「ハナミズ」が でるんだよな。
結果的に 燃焼したようです。


Sさん
高野山に 伊達家の墓所があるそうだが????

あります。
政宗と殉死者20人 供養墓が この瑞鳳殿本殿と同じ配列であります。
伊達家の供養墓があり、藤原朝臣綱村と銘が刻まれた石標もあります。
伊達安房守の墓標もあります。

あかとんぼ が訪れた記録 本HPの資料館・高野山に掲載してあります。
と申し上げました。


本日のお客様 2組
1組目 伊東・熱海方面からの 曹洞宗 若手僧侶の一団 10名程。

ガイド嬢と添乗員以外 8割の方 毛糸編みの帽子を被っています。
涅槃門の麒麟の説明から お客様の反応が普通と異なります。2割の方が 若いのに丸刈りツルツルです。
はっ 僧籍のお身の方々。涅槃門を潜った時点から 舌が絡みました。
極楽・涅槃の世界を 通常の如く 語るは、釈迦に説法 です。

言葉を選び 慎重に ガイドしました。最後に確認しました。
「ガイド内容に誤りの個所ありましたか?」
「いや 涅槃の世界の説明に誤り在りません」と。

之より 松島・瑞巖寺の参詣とのこと。
最後に「皆様の 宗派は?」
「曹洞宗 です」

「御承知の通り 瑞巖寺は、政宗公の菩提寺です。政宗公の戒名は 瑞巖寺殿貞山大禅居士 で 次号が附いています。
臨済宗妙心寺派です。 同じ 禅宗ですね」

「そうです」

政宗公について 知識 身長まで 知っていましたは それなりに 予習されて参詣に見えたのか?
緊張の20分 でした。

2組目 埼玉県からのご婦人 昔 仙台市○○に住まいしていたが、瑞鳳殿参詣は はじめてと。



12 月 3 日 (水)  



仙台に過ぎたるもの2つ

地元新聞に過日 「仙台に過ぎたるもの2つ @伊達政宗 A東北大学」とコラムに記載があった。

過ぎたる か否か?
 この2つが 無ければ 仙台は 目玉の無い都市であったろうと思います。

東北大学は、数年前迄 大学と云えば東北大学であり 大卒とは 東北大学卒で それ以外の大学は ○○大学と 必ず ○○が付され区別され 別格扱いされていました。

これは地元民のみならず 卒業生も同じ意識では?

瑞鳳殿に参拝に見える 60代で妻子を同行された方 「私が卒業した時 まだ・・・・・」と申されます。
「東北大学ですか?」に ニコリとされ 妻子を振り返ります。

この表情・自信に 「伊達政宗が開いた町 仙台に 東北大学が建学され そこを卒業した故 社会的に評価され 今日の幸福な家庭を営めるのだ」の思いが アリアリと浮んでいます。 


山形・天童・新庄・鶴岡・本荘・亀田・秋田・弘前・八戸・盛岡・一関・福島の都市を訪れても 「おらが殿様は・・・・」は、仙台程 アピール されません。
ガイドブックに記載は見当りません。案内するボラガイドにも会いませんでした。

仙台は 尊敬ではなく 利用の面が 多いのかも。瑞鳳殿のガイドも 利用者の一人かな。
いずれ 他の城下町との格差は 感じます。

あかとんぼ は
東北大学卒の研究者から 知識を頂き 御霊屋でガイドをして健康の維持しています。
仙台に過ぎたるものにお世話になっています。感謝しています。


ブログ

公益財団法人瑞鳳殿提供のブログ「瑞鳳殿四季折々」は、サービス会社の提供が11月30日で終了しました。
ブログ「瑞鳳殿四季折々」の移転先が不明です。

公式HPに記載出来ない 瑞鳳殿の日々の動きを記載・提供されていました。
ガイドの際の貴重な情報源の一つでした。
職員の方々が 我々ガイドに 個々に伝えるには 繁忙な業務の最中 有効な手段であったと思います。

この儘 閉鎖される事無い様 期待しております。




12 月 2 日 (火)  



甕棺

甕棺の事例
仙臺城下で @伊達綱宗 善應殿 A家臣新島家
盛岡で、盛岡南部家初代南部重直
江戸で、徳川家12代家慶側室 見光院
の、4例を了知しており これまでも 記載したところです。

仙臺城下で、第3の事例が ある事を知りました。

大年寺山 茂ヶ崎城跡から、17世紀後半の唐津焼から人骨と寛永通宝3枚、数珠玉3個入った甕棺が発見された。

甕棺は坐棺で、胡坐または正坐で埋葬されたと推定される。
人骨は、女性、出産経験の無い20歳代、身長は140cm代後半、彫の深い顔立ちで、歯並びが良くない、右の下肢が不自由であった可能性が高い。

この発見は、仙台市教育委員会の 次の調査によるものです。
遺跡名 茂ヶ崎城跡8宮城県遺跡01119)
所在地 仙台市太白区茂ヶ崎一丁目地内
原因   大年地山公園整備事業に伴う発掘調査
期間   1年次 平成19年11月6日から12月26日まで 320u
      2年次 平成02年07月2日から09月05日まで 209u

詳細は、仙台市文化財調査報告書第336集 茂ヶ崎城跡第2次発掘調査報告書 に記載されています。
文中 平成19年度野草園擁壁設置工事で堤焼(19世紀中頃)が 発見されたの記述があります。
第4の事例がある訳ですが、調査報告書は未読です。

今回の発見のきっかけは、仙台市文化財パンフレット第67集 銭貨に刻まれた文字 の項に 瑞鳳殿からの「慶長一分金」3枚、善應殿からの宝永小判10枚と ともに、六道銭の発掘から と題して 甕棺を紹介していた事によります。


甕棺について、東北自動車道 又 東北新幹線 の建設工事に伴う 発掘調査報告書を 読めば 更に 事例の発見があると思います。
  



12 月 1 日 (月)  



講座

昨日の菅野先生の講座 演題「戦国城館から近世城郭へ」は「中世の城から近世の城」から と 大幅に変更の上の講演でした。

丸森での講演は「伊具の戦国と城館」で 伊達家と相馬家との戦いにおける城館について語られました。

郷土史家U様から、それを踏まえ 「名生(ミョウ)城」と「宮崎城」を 現地踏査の上 講演の望みましょうと 資料と車を用意され お誘い頂きました。

「名生(ミョウ)城」は、大崎市古川・大崎・館に所在し、沖積地との比高約10mの火砕流台地南東端に位置する古代官衙遺跡と中世の名生城址との複合遺跡でした。

名生城についての由来を記した説明板があり、堀・土塁が現存して 1590年 天正18年の葛西大崎一揆を。
古代官衙遺跡についての由来・復元図を記した説明板が別位置にあり、国府多賀城との関連を。
其々 思い起せるように なっていました。

宮崎城址は、宮崎役場跡北方800m、平地比70mの丘陵にありました。現地に加美町教育委員会設置の説明板がありました。
この山中一画に 大崎領一の宮 熊野神社(1320年勧請)が祀られていて、氏子総代(邑の長老)4〜5人が境内清掃をしており、懇切に説明をしてくれました。

斯様 予習の上 講座に参加しました。

U様から 頂いた18頁の資料に、日本地名大辞典等 で復習します。
現地は、単独では 辿り着けない所でした。U様の重々のご配慮に感謝申し上げます。


伊達成實

昨晩の「独眼龍政宗」で、伊達成實が出奔し、その留守城の接収に、岩出山留守居・屋代勘解由兵衛景頼が武力を行使、家臣30余が討死し、又、成實妻子が自刃して、その報告を受けた 政宗が悔やむ場面がありました。

亘理の要害跡を見学し、御霊屋を詣している人から、妻子が自刃となれば 人の情(なさけ)から 政宗に帰参出来ないので無いか?と問われました。

なるほど。

成實の妻 玄松院は 1595年 文禄4年6月4日病没し、京都で葬儀し、角田に葬られました。
同年月日不詳 角田から伏見に出てから出奔し 高野山に入りました。
出奔の前に 夫人は 亡くなれています。自刃ではありません。
なお、後妻の岩城御前は、1620年 元和6年10月23日に亡くなっています。
(伊達成實公亘理入府400年記念伊達成實による)

以上からテレビと史実の違いが 明らかになります。

あかとんぼ も質問が無ければ 検証なしに テレビを鵜呑みしたでしょう。





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