2015年6月の日誌
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6 月 29 日 (月)  



補足

26日日誌 御霊屋

「付録の絵図(天保4(1833)年大谷味明邑雫石大右衛門調整)に 寺の所在が記載されています。勝れものです。
経ケ峯に 瑞鳳寺と庵と記され、御具屋の文字が囲われ記載されています。
大年寺山に 不鮮明ながら 御具屋 と推定される記載があります。
御具屋 とは 伊達家廟所を指しているのでしょうか?」と記載致しました。

郷土史家A様から
「御霊屋に間違いない。大年寺に「ごべう」ふりがなが振ってあり、孝勝寺に御○屋が出ています。」 と御教示頂きました。

善應寺の静寂殿(綱村公正室仙姫御霊屋)は 如何に記載されているか?
善應寺と庵(現在の善應寺の位置)の記載ありますが、御霊屋の文字は 配布資料では読めません。

経ケ峯・大年寺山・孝勝寺の御具屋の表示は御霊屋であります。

なぜ 素直に 御霊屋 と表示しなかったか?
冥 とも読める のご教示がありました。
霊 は 筆記体では 具 又は 冥 となるのか? 



19日日誌  歴世称呼

「徳川旗本は必要の際、憚るように、法名「安国院様」と お呼びする習わしであった」と記載致しました。

読者A様から
「肥前佐賀鍋島でも、藩祖直茂公(初代は勝茂公)を直茂公とは呼びません。
「日峯(にっぽう)公」「日峯さん」と呼びます。法名「高伝寺殿日峯宗智大居士」からきています」と 御教示頂きました。

伊予宇和島では、何と呼んでいたか記憶はありません。ただ 菩提寺を 寺号では無く山号で 呼んでいました。
龍華山等覺寺を 龍華山と、金剛山大隆寺を金剛山と。

それは、秀宗公は等覺寺殿義残山常信居士で、5代村候(ムラトキ)公は大隆寺殿羽林中山紹興大居士であり、殿様の戒名を呼びしてしては申し訳ない故とのことでした。
なお、仙台では、政宗公の法号が 「瑞巖寺殿貞山大禅居士」でありますが、青龍山瑞巖寺を瑞巖寺と呼び、青龍山とは呼びません。 


伊達家では、
伊達家史叢談 首巻 冒頭 「歴世称呼訓」で、

「総じて子孫より歴世の諸公及び夫人を称し奉るに、御実名を唱ふるは、敬意を表する所以にあらず、故に公には、山号、寺号又は院号を、又夫人には、寺号又は院号を用ふべきなり、第二十九世以後は、神葬式に更ためられたるを以て、法名を奉らざるが故に、之を更ふるに雅号を以てすべなり、楽山公の後夫人は、儒礼を以て葬られたるを以て、文靖夫人の諡号を称し奉る」とあります。

7月12日 忠宗公の遠忌法要があり、ご当主のご挨拶があります。
@忠宗公 A大慈院殿 B義山公 何れで 忠宗公のご遺徳を語られるか しっかり聴いてまいります。



6 月 28 日 (日)  



2人連れ 
その内容は 色々ながら 2人組が多数でした。

朝1番 東京からの男性を案内した仙台に居住している女性の組み合わせ。
女性は 伊達家・政宗公についての素養があり、感度抜群です。
男性は 女性比 かなりの格差を感じます。ガイドのし甲斐を感じます。
あかとんぼのガイド意欲を掻き立てくれます。感謝します。

「一人でよろしいですか?」
「看板の通り お一人様からガイドします」

爺様でも男です。男女ペアを敬遠したいらしく周囲を窺っています。同年配の女性が見えました。「ご一緒にガイド聞きましょうよ」
一人が二人なりました。

オジサン夫婦が「仲間に入れて」 
「先約の東京の方 よろしいですか?」 

続いて 美人姉妹も 「仲間に入れて」 「皆様よろしいですか?」 
たちどころ6人に。

この輪の外に ガイドを聴いていない素振りで聞いているのが15〜20人位。チョットした惑星になりました。

東京の女(ヒト)は 日比谷公園を散歩されているそうで、オジサン夫婦は 茨城県龍ケ崎市のご近所で、美人姉妹は札幌白石区の人。
其々の伊達家とのご縁を語りましたら 皆様 御親戚の雰囲気に。

本殿前で ガイド終わりましても お木像の写真を撮り、また 色々 語り合いました。
滞在予定時間 大幅に超過された様ですが ご満足のご様子。我も マンゾク。


長らく 病気休業中で 引退が噂された Aさん。 社会人の正装で現れました。
「舌が 回るか 心配だ」と申しながら 涅槃門 表をガイドされていました。

Aさんは、西南の役の敗者 国事犯として仙台に収容された人々の収容内容について、学者以上の知識を持っています。
経ケ峯での ガイド内容の幅が広がります。ガイド仲間復帰歓迎です。

徐々に健康回復され ガイド完全復帰を期待しております。


過日 26日日誌について有難いメール頂きました。A様 有難うございます。



6 月 27 日 (土)  



大雨

大雨の影響?
るーぷバス 始発のお客様 定刻10分遅れで到着。

東京のご夫妻「2人でもいいですか?」 「はい お二人の方が好きです」
大雨で 本殿前でフアイル広げられず 拝殿で在して頂き説明。

10時15分です。JTB当番。仲間に10分前から待機して欲しいと伝えています。
先週は15分前に見えたお客様居ます。

待機位置に急ごうとした途端「ガイド御願いします」
「申し訳ありません 予約が入っています」 
本日に限り フリーの仲間いません。

45分迄 待機しました。お客様 続々参りましが JTBのお客様は皆無。
「逃がした魚は大きい」の言葉通り 需要があるのに供給できない 悔しさ。

東京からの女性3人。女性の特性を如何なく発揮されます。
不統一・広範囲の発言の連続。ガイドのストーリーはズタズタに。

ご質問には 前後しながら全てお応え致しました。
ご満足頂けたのか 名札を確認・復唱し 「今晩は上山温泉よ」と意気揚々賑やかに 去って行きました。



券売口横に 見慣れない品 5cm径 長70cm 竹で編んだ簾(スダレ)状 全長1m位 が2個あります。
用途は なにか?

七夕ナイトの小道具? 見当つきません。

Aさんに尋ねました。自称 精通者です。
「わからない はじめて見た 聞いて来ます」

「わかりました。手水舎の夜間の覆いです。 わかりますか?」

管理上の企業秘密でした。
どうしても お知りになりたい方 メールくださるか、土日午前 あかとんぼ ガイド中 瑞鳳殿に お出でください。



6 月 26 日 (金)  



講演

演題 仙台の歴史 幕末から明治にかけて 仙台における寺社の盛衰
講師 仙臺郷土研究会会長 吉岡一男 先生
会場 北山市民センター

先生は80代後半の筈ながら 矍鑠とマイクなし トイレタイムなし 110分の独演でした。
実は90分時点で主催者から 「時間です」と水が入りました。入らなければ止まらなかったでしょう。

1976年発刊 佐々久著 「宮城県仏教史」が資料でしたが、肝心の内容はサラッと流されました。
付録の絵図(天保4(1833)年大谷味明邑雫石大右衛門調整)に 寺の所在が記載されています。勝れものです。

経ケ峯に 瑞鳳寺と庵と記され、御具屋の文字が囲われ記載されています。
大年寺山に 不鮮明ながら 御具屋 と推定される記載があります。


御具屋 とは 伊達家廟所を指しているのでしょうか?
仙臺郷土研究会刊 仙台藩歴史用語辞典 には記載ありません。


先生 最期に 「この資料を市民センターで作ってくれました。よく読んでください。今晩にも古紙回収函にいれないで」3回 念押しをしました。
仙台藩志会・仙臺郷土研究会の会員の顔 見えますが、大部分は高齢者学習会員なので 不安を感じたのでしょうか?



6 月 25 日 (木)  



24日 続

亘理郷土史研究会

昨日 1時間亘理郷土史研究会41名の方々と経ケ峯を巡りました。
亘理伊達家は、御一門 席次2番 1番の石高23853石です。始祖成實は政宗公と同じ年頃の従兄妹です。

@ 瑞鳳殿で 我が殿様はとの 上記の事柄の反応 一言発言 が有りませんでした。

A 戊辰の役弔魂碑で 会作成資料には、亘理伊達家戦死者33名と記載ありますのに、戦没者の遺族であるの反応 一言発言 が有りませんでした。

これは 何故か? 
1869年から9回にわたり 家臣と家族 579戸3078人が蝦夷地有珠郡に移住しました。結果、現在の亘理の人々は、侍の身分でなかった人々末裔であり 関係者以外であると 関心が低いのかと 推定しました。


伊達市歴史講演会

「.伊達政宗の戦略と攻防」と題して講演された仙台市博物館主幹 菅野正道先生の資料を読みました。
昨日30数分の補習授業 理解しました。

1.「百万石の御墨付」文中 「御家老衆中へ為可被宛行」の文字の意味する背景です。
2.論功行賞の交渉( 伊達政宗文書1094)に、.「百万石の御墨付」が触れていない背景です。
3.家康政権に心服したの時期は 慶長4年(伊達政宗文書1042)の起請文の提出時。
4.江戸時代の軍記物は創作が多く、記述を歴史的事実と関係させる場合 十分な検証が必要である。
 (松川合戦・・・記載地名が現実と符合しない・・・・)


安部龍太郎著 「名将の法則 戦国乱世を生き抜いた12人の知らざる「決断」とは」に 伊達政宗 の項があります。
政宗は織田信長と似通った幼児体験を持つ 等 これまでの小説家に無い視点で 政宗を分析しています。

まだ読んでいませんが 二本松藩士を中心に戊辰の役から大東亜戦争までの原因を探ると 「維新の肖像」 と題して 安部龍太郎は刊行しています。着想が 斬新と興味持ちました。

「この人は 史家か 史家でないか」と 先生に聞いてしまい 反省しています。
書かれた内容を理解・咀嚼するのは 読者の責任です。知識です。

以上が 昨日の反省です。




6 月 24 日 (水)  



夏至が過ぎたら灼熱の夏です。12時 汗 びっしょり。

亘理郷土史研究会

会員に仙臺郷土史研究会会員、仙台藩志会会員が居り、各自の研究論文掲載の分厚い会報を発行され、また、岩沼の領主であった古内家の現当主を招いて講演会を開催するなど、真面目で活発な活動の郷土研究会が亘理郷土史研究会です。

今年4月15日 「瑞鳳殿を参拝したいが 説明を願えるか」の電話を頂きました。
「由緒正しく活発に活動されている亘理郷土史研究会からのお声です。 喜んで」とお応えしました。

要望は、
@予定時間は、下車・参拝・乗車で1時間、A高齢者が多い、B資料を作ってほしい、でした。

@Aについては 高齢者が多いを念頭に ポイントを絞り 1時間以内で 案内します。
Bについては 3時間以上時間を頂けるならば、東北学院大学生向けは8頁でしたが 12頁のも作りますが 40分弱であれば 瑞鳳殿配布の栞で充分です。と申し上げ、用意しませんでした。

行程は、
@正宗山瑞鳳寺(由来) A62石段(62万石・62万人分食糧) B再建寄附芳名録(亘理町寄付額確認) C涅槃門(麒麟・透かし彫) 
D石段・灯篭 E拝殿扁額 F本殿阿吽龍・寛永14年製龍頭 G本殿背景記念写真撮影 
H本殿彫刻・厨子(新旧御木像写真)ここがお墓です に、亘理は 廟の木像は安置されているが 埋葬されているか?I沙羅 
J戊辰役弔魂碑(亘理は戦場になっている、亘理伊達家戦死者33名。戊辰役弔魂碑と大東亜戦争戦没者慰霊碑 ○○に所在。暫し時間を要す) 
L感仙殿広場(絵図1878年改修前・甕棺) Mコウヤマキ N感仙殿 O殉死者寶筐印塔 P妙運廟界 Q燈籠未修理理由 
R灯篭火窓一列(地球は安定しているか?) S丸森領主佐々家墓所(1.5倍広かった) ◎ 鹿児島七士墓(監獄と優遇扱い)  
〇駐車場 あかとんぼ と写真(あかとんぼ 背中も1枚・・・竹に雀)


伊達家・亘理伊達家の歴史に精通している方々で、理解が早いです。足腰達者です。故に1時間で回れました。
ゆっくり 時間を取れれば 質問と御教示を頂けたと思います。残念です。

戊辰の役の記録 貴重な図書「戊辰紀事」を貸してくれた仙台藩志会のK様 と ある団体のパソコン倶楽部の仲間であったS様に 暫く振りに会いました。お元気でした。嬉しかったです。


伊達市歴史講演会

「北の関ヶ原 その実像を探る」 と題して 21日伊達市梁川中央交流館で開催されました。

次第
講演
1.会津120万石の領国支配と防備       福島県立博物館主任学芸員  高橋 充 氏
2.上方西軍と上杉景勝 最上出兵の意味  米沢市上杉博物館主任学芸員 阿部 哲人 氏
3.伊達政宗の戦略と攻防            仙台市博物館主幹         菅野 正道 氏
討論
 コーデイネ−ター   本間 宏  氏      福島県文化財センター白河館学芸課長
 パネリスト       高橋 充 氏
              阿部 哲人 氏
              菅野 正道 氏

会場は 仙台から 新幹線・私鉄・タクシー乗換て辿り着ける 交通不便の地です。
瑞鳳殿ガイドを優先し 参加を断念致しました。

第一任者これ程の先生の この演題の講演があったで聞き逃したで 済ませる訳にはいきません。
講師でご多用の菅野先生に 「当日 配布資料の余部 貰ってきてください」と 厚顔・厚かましくお願い致しました。

「300人を超える予想外の聴衆で 資料の余部はない」 と申され 講師用の写しを 態々用意して下さるとの事。
本日昼 博物館に頂きに参上しました。

講演会資料は 30頁の太冊です。
「講演を聞かなくても 講演会資料は読めば理解出来る様に書かれています」と云って頂きました。読みます。

今1冊 「伊達八百年ものがたり 伊達氏歴史めぐりマップ」(伊達市商工観光課刊行) 瑞鳳殿の紹介があります。
伊達市内 史跡めぐり 最高です。態々 貰ってきて下さいました。有難い事です。

御多用の中、更に 
講演会での感想として、先生が得たもの・・・
軍記物等は 史書では無いありません。地理・地産等背景からの検証・
研究者の節度とは。
等 貴重なお話を 聴かせて頂きました。

先生の企業秘密が含まれているかしれません。今日はここまで。

菅野正道 先生 ありがとうございます。




6 月 21 日 (日)  



神君 政宗

19日日誌「神君 政宗」について 早速 A様から 「私の地方では ○○とお呼びします」と 貴重な内容のメールを頂きました。
皆様の地方では 政宗、家康等 創業者的 御殿様を どの様な 呼称 でお呼びして居ますか?
教えて ください。


快気祝

仲間のAさん 2週間振りに ガイド現役に元気で復帰しました。
軽い手術と思っていたら 結構 珍し病気でした。
Aさんは 周囲を明るくする才能を持って居ます。足の筋力の回復に努め これまで同様 リーダーを務めて頂きたい。


才能

本日のガイド 実質3組 東京からの人々。

本殿の彫刻の説明。「向揚羽蝶」で こう語りました。

この向揚羽蝶は 380年前 ここが創建された当時のデザインです。現在でも 即 使用可能な 卓越した感覚の作品です。
この様な作品をデザイン出来る才能を持った人は偉いと思います。

この様な才能を持った人を見出し 仕事をさせた人は これまた 偉いと思います。
この霊屋を 政宗公は 参勤に出発する前に 発注していた想像しています。

政宗公は偉い と思っています。

聴いた 社長?らしき お客さま。

「そうだ。部下の能力を見極め 発揮させるのが 上司です。その様な上司がれば組織は確たるものになり伸びます」
と 実感のこもった お返事を頂きました。


秋保石

瑞鳳殿の墓室の石材は 秋保石 です。

今晩 お帰りならないお客様に 聴きます。「秋保温泉ですか?」
「ハイ」のお答えは1割位の低率です。

今日は 10分1 おられました。
手持資料 墓室の石組のカラー写真を見て頂き、墓室に水漏れが無かった堅固を理解して頂きました。
今晩 どこかの温泉浴室から 採石場跡を見ながら あかとんぼ を思い出してくれているかも。


親孝行

瑞鳳殿本殿の御木像は 1637年作も 現在のものも 独眼ではなく 両目 パッチリです。
両方の写真をお見せし、その由来を語ります。

なぜ政宗公は 両眼パッチリかは 母親に対する親孝行の思いです ですと ゆっくり いつも語ります。
今日も 語りました。

東京からの人生経験ある年代の姉妹風のひとり。突然 ハンカチを取り出し 暫し 目を押さえていました。
なにか 辛い人生経験を 思い出されたのでしょうか?

瑞鳳殿は初めてではないが、初めて色々聞きました と洩らされました。



6 月 20 日 (土)  



綱村公・歴代公 法要

10時 現・大年寺に集結。バスにて大年寺山山頂に。
無尽灯廟にて 塩竈・東園寺住職読経のもと 参拝。続いて、寶華林廟を参拝。

バスにて大年寺に。仮本堂にて法要。
次第
1.読経 大年寺ほか4僧侶
2.焼香 @東園寺住職 A孝勝寺住職 B護国神社権宮司 Cご当主 D殉死者後裔会会長 E仙台藩志会佐藤副会長 F公益財団法人瑞鳳殿富田常務理事 GK参議院議員秘書 HO仙台市議会議員 I茂ヶ崎町内会長 J伊達家御廟大年寺会阿部会長

3.読経 大年寺ほか4僧侶
4.説教 大年寺住職
      正面 釈迦三尊は 綱村公が寄進されたもの。

5.挨拶 伊達家御当主 伊達泰宗様
6.報告
 @参拝 塩竈神社・志波彦神社 敬神婦人講 60人が今年もバス2台で参拝された。
 A献花 本堂に、ご当主、殉死者後裔会、仙台藩志会、塩竈市、本間家、岩村家
       墓前に、仙台藩志会、塩竈市、本間家、岩村家、塩竈神社・志波彦神社、塩竈神社・志波彦神社 敬神婦人講

法要会食 客殿
  献杯音頭 仙台藩志会佐藤副会長
  施主挨拶 伊達家御廟大年寺会阿部会長


余禄
1.13日開催 仙台藩志会公開講座、演題 「仙台藩4代藩主・伊達綱村と黄檗宗」 
 講師 社会福祉法 共生福祉会福島美術館 学芸員 尾暮まゆみ先生
 の講座を受講された方々 戊辰史のK様 ガイド仲間Sさん、藩志会員Wさん 他 氏名不詳の方5名程が 参拝に見えました。

 尾暮先生は 急用で欠席されました。講座の効果 実見出来なかったは残念でした。

2..13日開催伊達学塾で 仙臺郷土史研究会H理事が
 「伊達家政宗公から三代迄 臨済宗。二代正室は日蓮宗、四代以降 黄檗宗で 幕末 神道に転ずるまで続いた。
 9代 11代御夫妻 5.6代を中心に公子公女のお墓が経ケ峯にある。この方々は 何れの宗派で祀られているのか」

 講師には答えられない質問をされました。

 本日 読経の際 4代から12代までの法名は読み上げられたが 9代・11代は読み上げられませんでした。

 9代・11代と妙運廟界の公子公女は 仙台藩志会・伊達家御廟大年寺会の関与のなく ご当主がご供養されているでしょう。

3.寶華林廟を参拝中の質問に、
 @ 二の森墓所から改葬なった墓碑前で なぜ改葬したか?
 A その他の墓碑群をさして 殉死者の墓か?
    殉死は禁止されており殉死者の墓では無い、誰かは未調査です。
 B 伊達家奥津城とはなにか?

4.護国神社権宮司から 30余分の講話がありました。
 ご先祖は伊達家家臣で なぜ 戊辰後 神主になったか。13億円あれば仙臺城を復元できる。
 お土産に 仙臺城復元写真葉書を頂きました。有難い。ただ手持ち資料には 小さくて使え難い。


瑞鳳殿春の企画展 「祀られる政宗 御参詣と祭祀のうつりかわり」は 明日限り です。
内容は 濃厚です。まだの方 明日限り です。



6 月 19 日 (金)  



神君政宗

元和元(1615)年10月14日片倉小十郎景綱は59歳で その居城 白石城で亡くなりました。
地元 白石で10月に 盛大に没後400年の式典、記念行事を催されるでしょうが その詳細は未だ伝わってきません。

起爆剤になればと、仙台藩志会藩報きずな 53号(2015年4月発行)に、片倉小十郎景綱没後400年記念記事の掲載を企画しました。
先輩お二人に書いて頂きました。この記事で 発火するか が 楽しみです。


徳川家康は、元和2(1616)年4月17日駿府城にて75歳の生涯を閉じました。

没後400年の今年は、駿府・久能山東照宮・日光東照宮等で 徳川宗家・尾張徳川家・水戸徳川家のご当主が臨席し 盛大な式典等が開催されています。
また、家臣末裔の先祖を語る手記を始め 多数の関連図書が刊行されています。


ある席で、神君家康 と世間で申しているが 神君政宗とは 誰も云わない。それは なぜか? と疑問が投げかけられました。

家康に「東照大権現」の神号が勅許されたのは元和3(1617)年 です。
政宗の神号は「武振彦命」で、1874(明治7)年 旧家臣の願で青葉神社の祭神に祀られました。 

この時差等の違いと全国区と地方区の違いでは 無いでしょうか?

別冊太陽 徳川家康 没後400年 に
元旗本では 家康と呼び捨てはしない。家康公とも云わなかった。家康は諱であるから。
神君様・権現様とも 軽々しく口にしなかった。

必要の際、憚るように、「安国院様」と お呼びした。
仏式で営まれる法要における法名は 「安国院殿コ蓮社崇譽道和大居士」。

将軍を法名で呼ぶにが 江戸・武家の習わしであった。
の記述があります。


今 神君家康と 呼ぶ人々は 旗本の末裔で無い人々。

この論で 仙台藩志会の面々は 政宗公ではなく 「瑞巖寺殿様」と 呼ぶのが旗本流かもしれない。
瑞巖寺と 混同 紛らわしので 「貞山公」と 呼ばれているのでしょうか?

いずれ 神君政宗 の呼称は難しいのでは?



6 月 18 日 (木)  



沙羅の花 ひっそりと咲いています。

仙台市北部の小学生。自由研究で三々五々。
瑞鳳寺山門前で ○○小支援隊のオカアサマ2人で 誰が来たか確認しています。
るーぷるバスを使用し、瑞鳳殿・博物館・山居澤発電所等 自分達が選択した個所を訪れる設定とか。
目的地が 同一でも 何故か到着時刻に早い・遅いが出ている様です。
○○小支援隊の文字の入った桃色のチョッキをきたオカアサマ ご苦労様です。各箇所に派遣されたのでしょう。

路線バスで来た 一団もいました。
違いは 何か?
交通費の総額と 施設の入場料の割引が効かず 合計で高額となる事です。
結果として お小遣い に影響するでしょう。


JTB首都圏の営業第一線で活躍されている方がの研修がありました。 

講師依頼を受諾した目的は、
1.瑞鳳殿を中心とする経ケ峯の歴史的価値、美術・建築価値、特異な自然環境、また、産業遺産の宝庫である事。
2.この宝庫を実見され、理解され その上で 世界の人々が 瑞鳳殿を訪れる様に 宣伝・販売して欲しい。
3.JTBのお客様を どの様に受け入れ、満足して頂けるガイドをどの様に実行しているか実見して頂きた。

その様な事から、
1.待機・受付看板、プレートの提示の位置
2.瑞鳳殿・資料館・弔魂碑・感仙殿・善應殿・妙運廟界・公子公女廟
迄、2〜3時間を要す箇所を1時間で案内をしました。

事前に「本日は、ご要望により限られた時間で全部をご案内致します。ポイントを絞ります。本来のお客様には 要望に合わせ調整しいております」と 御断り致しました。

ほぼ全員 ピタリ貼り付いて聴いて頂き、会話も致しました。
40代でも 坂・階段の乗降が 堪えたのか 複数の方から 「何歳ですか?」と聞かれました。

事後、講師依頼先に 「改善すべき事等の感想が寄せられていませんか?」とお尋ねしました。
「満足していました」とお返事を頂き 安堵しました。



午後 明治青年大学歴史学部6月講座に。
着替えに一端戻り バスと徒歩で 会場に。
仙台駅前西口降車場から東口会場迄 仙台駅横断に15分要します。開講5分前に到着。遅刻ならずホットしました。

講師は 仙台市博物館の菅野正道先生
演題は 粟野氏と北目城

政宗以前の仙台の統治者とは知っていましたが 詳しく調べた事ありません。
鎌倉時代から 縷々 その由来を教示頂きました。
今日の資料を基に 勉強しなくては。

この講座の参加者は 大東亜戦争の際 戦艦○○にて戦闘された方から 戦争を知らない年代迄で構成されていると 冒頭 学部長から紹介がありました。

先生は冒頭
亡きご両親からの話しをされました。
1.父親が学徒動員先から駆付け、長町の橋を渡り 河原町付近で 熱気が熱くて進めなかった。
2.母親は 連坊小路の火葬場に集まる 焼死体の数、無残を。
3.学徒動員先の給食 カレーライスの不味さ。以来 .父親は 終生 カレーライスを食べなかった。
4.食糧難から 米に色々混ぜて焚いたご飯であった事から 母親は 御茶御飯等は好まなかった。
等 涙を浮かべ語られました、

70年目の節目の年。7月10日の仙台大空襲 また 8月14日最後の空爆された日。 色々語られるでしょう。



20日 綱宗公始め歴代公の法要が10時から 大年寺山の御廟 無尽灯廟と寶華林廟が催されます。
数人の方から 「法要会食に参加は遠慮するが、ご.廟所の参拝だけできるか?」の お問い合わせがありました。

「出来ます。塩竈市から例年 バス数台で 直接 御廟に参加に見えています」と ご返事致しました。
大年寺山の伊達家御廟 無尽灯廟と寶華林廟は 公開されていません。参拝される良い機会です。どうぞ・



6 月 17 日 (水)  



ほととぎす

政宗公が最後の参勤に旅立つ前 ホトトギスの初音を聞きたいと 北山・青葉山・経ケ峯を巡った際に 「終の棲家 は ここ経ケ峯と定めた」との話は広く知られています。

参勤に旅立つたのは、寛永13年4月20日です。
4月に仙臺で ホトトギスが 啼くか 問われたことがあります。

参勤に旅立つたのは、現在の暦で 1636年5月24日です。1ケ月遅いです。
昨日 6月10日 Aさんが 4〜5日前から 「テッペンカケタカ」とか「トッキョカキョク」と ホトトギスが啼き始めました と教えて呉れました。
時期・季節として ホトトギスに間違い無いでしょう。


なお 杜鵑は 郭公とも書かれます。故に、郭公が ホトトギスであるとも 云われています。
啼く時期が接近していても 啼き声 が異なる故 同じとは 言えないでしょう。


ある方から 「寛永13年4月20日の参勤は 現暦では 3月で 本当は ホトトギスとは 鶯です。とガイドされた方が居ました。ご指導は どうなっているのですか?」 と云われました。

これは、太陽暦は 旧暦より 約1ケ月 遅い を 逆に覚え それに自然生態を 無理無理 合わせたのでしょう。

昨日の東北学院大学文学部 歴史学科 菊池ゼミの学生は、旧暦と太陽暦の日差、年齢の数え歳と満年齢の差は 了知されていました。
歴史を語る ガイドをする際の基本常識です。

でも 誤認者が居る事は 拙いです。注意を喚起します。 



6 月 16 日 (火)  



沙羅

平家物語で儚さ「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理(コトワリ)をあらわす」の象徴とされた。沙羅(ナツツバキ)の花が咲きました。
瑞鳳殿の涅槃門からの参道 右上部 照明塔の側で ひっそりと咲いています。

写真を撮り難い位置です。1日花と云われ 1日で散ります。
仙台が北限と云われ 仙台では 珍しい樹木です。

地元紙 河北新報も知らないのでは?
朝刊に 京都・妙心寺塔頭・東林院の庭に散った沙羅の花の写真を大きく掲載しています。
「政宗公の墓前に 咲いている」 と掲載して欲しい。


東北学院大学文学部 歴史学科 菊池教授のゼミの学生が 菊池教授と共に見えられました。
3年生ともなれば 古文書の読解もスラスラ、近世史にも明るい筈です。

只 伊達家と経ケ峯については、学生に負けない自信があります。
限られた時間で 正確に伝え 記憶して頂く様に ガイドは難しいです。
語りたいが、語り切れない事柄 年代・構造・数量等をメモしました。A4 8頁になりました。内容に自信はあります。

ボラガイド支援機構からは 「大学教授とゼミの大学生には僭越では」と云われました。そうかもしれません。

10時50分から12時40分 110分で 瑞鳳寺山門前の石畳みから 公子公女廟 11代斎義公側室の墓前まで 学生と語り合いました。
たのしかった。螺子の巻き戻しにもなりました。

あかとんぼ の収穫

1.涅槃門からの参道左側の奉納供養塔の位置が、大正7(1918)年3月 廟守石田常直氏 謹製の位置図(伊達家史叢談 巻之十四 貞山公廟献灯配列之図)と対照するに、
 @ 1族 中嶋監物意成が寄進した燈籠が無い。
 A 上から3番目にある筈の 片倉小十郎重長(1家・白石)の灯篭が最下位に設置されている。
 B 4番の奥山大学常長(着座・村田)の灯篭が 現2番に昇格 最下位の佐々若狭亮元綱(着座・丸森)が現3番に昇格している。
昔は席次が厳しく 狂えば 家の名誉を傷つけられたと 紛争になったでしょう。史跡の正確を保つから 疑問ですが?


2.綱宗公の甕棺(常滑焼)の本物が資料館に無造作?に展示されています。
 @正徳元(1711)年6月江戸・品川屋敷で亡くなれ、この甕棺に入れられ仙台に運ばれ ここ善應殿に埋葬されました。
   当時の大名家の葬祭を知る貴重な現物です。
 A名古屋近郊の焼き物 常滑焼です。焼物・常滑焼の歴史遺産でないか?
 B名古屋近郊から江戸に移出され大名家のお買い上げになった。当時の物流をしる貴重な遺産でないか。
以上から 何らかの文化財の指定と保存の在り方 検討されるべきでは?


菊池先生は、しかるべき機関で検討しましょう と申されました。

参道右側石垣が、3.11で崩落した際、宮城県文化財審議員されていた菊池先生は、裏込石での伝統工法で復旧すべきと具申されました。
結果 伝統工法で復元しました。これは 史跡の正統性・伝統性が守られた。かつ、伝統工法の継承に繋がりました。

しがない老人の疑問が 大先生の討議の結果 どう示されるか 楽しみです。


今日は この外 山梨県からご夫妻ほかをガイドしました。

ガイドしませんでしたが、
@ 米国海兵隊の兵士 バス2台で 参拝にみました。私服でニコニコ 好青年です。
A 富裕層らしき 欧米系のやや高齢者が グレードの高いバスで見えました。英語できるガイド付です。



6 月 14 日 (日)  



着替え前ガイド

政宗公画像前でご夫妻が討議されています。何かご不審があるらしいです。
ユニホームに着替る前ですが お訊ねし お答え致しました。

浜松からの 政宗公フアンで経ケ峯麓に投宿 朝一番に参拝に見えたお客様です。


9時30分のお客様 30分遅れで到着。「35分間でバス乗車する様に経ケ峯をガイドをしてくれ」の厳しいご注文。
予約を受けないガイドの会で ガイドを なぜしたか?

事務所に「無料でガイドをしてくれ」と依頼があり 学芸員ガイドは生涯学習等に限定し業務に支障に無い場合に限定されています。
できかねるので 「ガイドの会 あかとんぼ 対応できますか」と なったものです。

幾らでもガイドします。でも 時間には遅れないで頂きたい。影響(被害)を受けるお客様を生ずるからです。

9時30分予約と連絡があれば 15分前から待機に入ります。早着されることがあるからです。
通常のガイド30分〜40分を要します。9時30分予約と申されれば その前のお客様のガイドが出来ません。

ずるずる30分遅れの10時なると 1時間の待機時間となり この間 一般のお客様に 頼まれても出来ない 断ることのストレス お客様はガイドが居るのに ガイドを聴けないストレス と2重のストレスを生ずるのです。

これらが 「幾らでもガイドします。でも 時間には遅れないで頂きたい」 のお願いです。
影響(被害)を受けるお客様を生ずるのです。


浜松のお客様のほか、千葉・弘前・鹿児島・常陸太田・東京からのお客様をガイド致しました。

常陸太田のお客様。
「儂の先祖は佐竹家の家臣 家老であった故 佐竹家の転封の際 久保田に随行しなかった。随行したの雑兵だ。
家老だから 士族で 平民ではない。兄は士官学校に入学したが 士族だから 平民出身より早く出世した。これが華族であれば?」

話された方は 真面目に語られました。真面目に拝聴しましたが、その内容は歴史的に 正しいものか 疑問を抱きましたので 記録として記載しました。

常陸太田には、水戸徳川家の墓所があります。
2003年から 歴代当主とご婦人に一族が葬らた「水戸徳川家瑞龍山墓所」を文化庁の申し出もあり水戸徳川家は調査を致しました。
2007年 ご当主 徳川斉正氏が155頁以上の報告書を編集され、常陸太田市教育委員会から刊行されています。

あかとんぼ 機会あれば参詣したいと思っています。
この方 佐竹家の家臣であって 後 徳川家の禄を食まなかったのか この水戸徳川家瑞龍山墓所について 一言も語りませんでした。



6 月 13 日 (土)  



爽やか。

お客様は気まぐれ?
9時30分迄 待ち続け。前回は 8時45分到着時 お客様が待っていて 着替えそこそこにガイドしました。

北陸からの兄弟姉妹の一団。鋳型が同じ?全員似ています。
この彫刻の産地は何処か?
冒頭のご質問。
「皆様の故郷 井波です」 に 「そうだろうー」 満足の頷き。

本殿 政宗公御木像で 「これも 井波か?」と云われる前に 
「仙台出身 日展審査員を務めらた 阿部正基さんです」
内心 ホットしました。
伊達家領内の末裔の作です。
これも井波の作品だと 「伊達62万石と吹聴する割に 彫刻から御木像まで 他国の世話になるのか。たいしたことないな」と云れたでしょう。

JTB当番は 空振り。午後の設営の為 ガイド早退


午後 仙台藩志会公開講座
演題 「仙台藩4代藩主・伊達綱村と黄檗宗」
講師 社会福祉法人 共生福祉会 福島美術館 学芸員 尾暮まゆみ先生

現・両足山大年寺寺族様、伊達家御廟大年寺会会長はじめ60名の参加。

来週20日10時より 伊達家御廟で仙台伊達家4代綱村公・歴代公の遠忌法要が催されます。
法要の時刻を合わせてお知らせ致しました。
10時までに 大年寺(太白区門前町3−22)に行きますと 大年寺山の伊達家御廟までマイクロバスで案内して頂けます。

企画に関与した故 時期的に タイムリーであったと 自己満足致しております。 



6 月 12 日 (金)  



梅雨に あかとんぼ邑は 入りました。

政宗公の殉死者に 入生田三右衛門元康 なる方が居ます。
60歳で 6月20日愚鈍院で殉死され成就院が菩提寺と記録されています。

姓は藤原。
山岸参河守宗成より出で、宗成の第3子入生田主水成定を祖。
成定は、羽州永井(長井?)荘入生田城に住み因て姓とした。
元康 16歳時 伏見に詣って政宗公に仕えた。
子孫は 虎間番士 200石の禄を保持した。


この子孫に、1867年(慶応3) 江戸藩邸詰出入司の職を務めたのは、入生田三右衛門康欣(ヤスヨシ)がいます。
又、仙台市史4巻近世3と5巻近世4の協力者一覧にある入生田憲一氏は ご子孫と推察しております。


入生田三右衛門元康の在郷屋敷が、冨澤館であり、その所在は 太白区冨澤字館である。

仙台市史 特別編 城館 181頁 冨澤館 を執筆された 柳原敏昭東北大学大学院教授の講演と現地説明が 本日ありました。

講演では、入生田氏 在郷屋敷になる前 戦国時代 北目城主粟野大膳が築城したもので、その規模は 古城 より大きく 要害にも匹敵した。
それが 現在 どの様に なるか 資料、各種図面で 詳しく 語られました。

現地説明は、先生と 現地史家 郷土を愛する歴史の会岩淵隆是会長が 詳しく 語られました。

現地は 区画整理事業前 埋蔵文化財調査の切り土 と 樹木の伐採で 図面と様相は 全く異なっていました。
戦国時代に始まる 伊達家家臣の在郷屋敷 が完全消滅を 向えていました。 



6 月 7 日 (日)  



爽やか。

先週は 9時前から依頼がありました。今日は?

緑が新鮮です。樹木の下で 光線で透かされた葉脈を眺める事1時間。仙人になった気分です。
生目でみる 葉っぱ は新鮮です。レンズを通しての再現は 敵いません。


亜細亜系外人 想定外の位置・角度で撮影しています。
構築物の人工美に 目を奪われますが 自然美には 気付かれません。


静岡のお客様 立ち止まって 瞑想されています。
「お宅の久能山東照宮と 目的・性格・基本構造 同じです」とお声掛けしたら 「ハッ」と瞑想から覚め 「ワカッタ」と。


東京からの老若4人。
若い人は ガイド有料と誤解されたか 「はやく」と急き立てています。
老人は 馬耳東風 悠々。語りかけます。

「儂は 3月10日の東京大空襲で焼け出され 仙台に来たら 7月10日の仙台空襲に見舞われた。4ケ月で2回の大空襲を体験しました。
中2年生で その前 幼年学校を目指したが 成績で入れ無かったが、予科練に合格し 9月入隊であった。
戦後 東京の大学を出て 今日になった。
住まいは米が袋(経ケ峯500m範囲内)で、此処は鬱蒼とした森 叢で ここが喧嘩(決闘)のなった際 大人が仲裁してくれた。懐かしい」

と 語り出しました。

もっと話したい様子ですしたが 若い人に促され トボトボ 本殿に向われました。
あかとんぼ になぜ 斯様な昔話をされたのでしょうか?


秋田県からのお嬢さんを拝殿でガイドしていたら、硬い職業で責任あるポストに見える人から 「一緒に聞かせて欲しい」とお声を頂きました。
最近の日本人には珍しい律儀な人です。

あかとんぼ は先約の人が納得されば かまいません。お客様が2倍になる事は なお結構です。先約の方 同意されました。

「ところで お客様はどちらから?」
「宇和島です。宇和島市役所です」
「エッ 2009年櫻観測で1ケ月 宇和島滞在しました。市長、○○部長、○○様に大変お世話になりました。秀宗公宇和島入部400年祭行事の情報を絶えず頂いています。」

この方 ご先祖 宇和島伊達家直臣との事で、伊達57騎の末裔かなと確かめましたら、

宇和島伊達家5代村候(ムラトキ)が寛延3(1750)年12月、肥前佐賀5代鍋島宗茂(ムネシゲ)の娘 護姫(安永4(1775)年11月19日多根姫から改称)と婚姻された際、鍋島家から随行、宇和島伊達家家臣になられた。(年月日は宇和島市立伊達博物館学芸員資料によりました) 

この輿入れの際 持参された雛人形 見事です。3月に展示します。どうぞとお誘い頂きました。

2009年3月は展示されなかったので 見ていません。次回 機会ありましたら?
(宇和島市立伊達博物館図録には 記載ありません。有職雛と2頁にわたり記載されている品は1924年作とあります。
あかとんぼ どう聞き違えたか?

色々お話を致し 20分の予定が3倍になりました。よいお話を聴けた故か 元気モリモリに。



6 月 6 日 (土)  



些か疲労を感じます。

あかとんぼボラガイド支援機構に「カロウの為 本日ガイド休みます」と申告したら
「連日 家を留守にして アシカルでしょう」と返ってきました。

確かに その身分は、家老ではありません。足軽です。


伊達家18代当主伊達泰宗様原作の「伊達政宗を愛した異国の女性[ジュリア]は、
2004年創作バレーとして初演されました。

この創作バレーの構成・演出・振付し、主役を演じた加藤有華様が 5月24日政宗公380遠忌法要の際 スタッフ一同とお詣りに見えました。
加藤有華様の姉様は 毎年お詣りに見えていましたが、有華様は久々でした。

三途の川岸近くまで行って来ました。元気になりました。舞台復帰します。ご招待致します。

に、午後 瑞鳳殿・涅槃門前での記念写真を人数分持参、イズミテイ21ホールに。
来賓席にて、伊達家伯記念會A氏(ご当主急用とか)と同席 鑑賞しました。

今回の演舞は バレーについて無知ながら 素晴らしい と感じました。


あかとんぼ 元気回復しました。



6 月 5 日 (金)  



経ケ峯 濃緑 爽やかな風 に包まれました。

武田家  「家格 召出(二番座) 所預(桃生郡和渕村) 石高 1184石 」
戊辰の役で 当時の当主は磐城口 で戦死された。

末裔の方 偶々 本[あかとんぼ瑞鳳殿ガイド日誌]を 読まれ 「瑞鳳殿を参拝したい」とのメールを頂きました。
日時調整の往復で、 上記の事情を知りました。


9時から30分程 仙台市博物館に 武田家伝来の古文書に、戦死時の遺品等が 直系の方から寄贈されており、又、県図書館にも 絵図等が所蔵されている事から市博物館・県図書館の保存資料を閲覧され、更に 所預(桃生郡和渕村)の屋敷跡・菩提寺・古老等 訪れ調査したお話を伺いました。

あかとんぼ から
当時の当主が磐城口で戦死されました模様を記録した「軍事日記控 大森忠五郎 仙臺郷土史研究第7巻11号」のほか 
仙臺藩戊辰殉難者五十年弔祭誌、仙臺藩戊辰殉難小史 本HP(弔魂碑)他 関係図書の所要部の複写を ご参考まで差し上げました。


お花を持参されましたので、公益財団法人瑞鳳殿職に助けを頂き、戊辰の役弔魂碑に祀られている1260名の一人である ご先祖様に献花・献香をし、 その霊安らかを祈られました。

その後、3時間を費やして 瑞鳳殿・感仙殿・善應殿・妙運廟界・公子公女廟・資料館と ご案内致しました。

この間 色々な話になりました。
0.先祖は 殿様に随行され 参拝された際 拝殿のどの位置に坐したか?
0.慶応4年辰7月11日 御武頭で出陣された 先祖は ここ経ケ峯に参拝されたでしょう。
0.戦死と 敗戦後の混乱で 難儀した と祖母等から聞いている。

戊辰の役研究の木村紀夫氏は「仙台藩の戊辰戦争 先人たちの戦いと維新の人物録」と題する図書を6月末刊行されます。
このチラシを差上げました。

充実の時間でした。
木村紀夫氏の図書が刊行されましたら早速購読し、所預(桃生郡和渕村)を訪れ 菩提寺耕徳院、武田屋敷跡等を見学し、今日お聞きした事柄を整理したいものです。



政宗公殉死者

政宗公の殉死者 直臣15人と陪臣5人の供養塔 20基が瑞鳳殿の左右にあります。
時折 後裔者が 一族郎党を束ね 参拝に見えます。

昨日 善應殿での綱宗公305遠忌法要で 代表焼香された殉死者後裔会副会長桑折秀彦様が、備前国からのお客様数人を案内され 見えました。
瑞鳳殿左側5番目にご先祖(桑折豊後網長 行年66歳)の供養塔があります。

ベテランの Aさんが 偶々 ガイドされました。
「お客様に面目が立った。(目から鱗)の話が沢山あった。仙台藩志会の伊達学塾での現地学習をお願いしたい」と桑折様から好評を頂きました。

仙台藩志会会員で 瑞鳳殿・経ケ峯を訪れた事の無い人や ジックリ参観されていない方 それなりに居るのではと思います。
もし 伊達学塾での現地学習が計画されれば 会員のあかとんぼ と Uさん が講師を引き受ける用意があります。




6 月 4 日 (木)  



綱宗公305遠忌法要

10時より綱宗公御霊屋 善應殿にて しめやか に営まれました。

1.読経 瑞鳳寺・善應寺 両御住職様
2.焼香 
 0.仙臺伊達家十八代当主     伊達 泰宗 様
 0.殉死者後裔会副会長       桑折 秀彦 様
 0.仙台藩志会副会長        佐藤久一郎 様
 0.伊達家御廟大年寺会会長    阿部 和子 様
 0.公益財団法人瑞鳳殿事務局長 富田 律男 様

3.挨拶
 0..仙臺伊達家十八代当主     伊達 泰宗 様
 0.仙台藩志会副会長        佐藤久一郎 様
 0.公益財団法人瑞鳳殿事務局長 富田 律男 様
 (概要)
 本日は、伊達綱宗公遠忌法要にあたりまして、瑞鳳寺・善應寺のご御住職様に読経を賜り、また、伊達家ゆかりの皆様のご参列を頂き、共に法要を執り行うことができました。誠にありがとうございました。

 綱宗公が芸術的才能に恵まれ、優れた作品を数多く残したということは、よく知られています。
 今、善應殿内に、戦災以前は御位牌があり、このお木像は綱宗公が描いた絵を元に制作されているということを知る方は、多くはないと思います。

 本日は、年に1度 善應殿が開扉され 綱宗公のお木像を直接 拝見できる貴重な機会です。


参拝記念栞は
1.伊達綱宗公の御木像について
2.焼失前善應殿に御木像はなかった?
3.再建された霊屋への御木像の制作
4.綱宗公の自画像
の4部構成、焼失前・現在の鮮明・美麗写真の御木像が掲載されています。

本日の参列者
1.仙台藩志会        16人
2..伊達家御廟大年寺会  2人
3.公益財団法人瑞鳳殿  7人
4.瑞鳳殿ガイドの会     7人





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