2016年9月の日誌
| 前々月 | 前月 | 翌月 | 翌々月 |




9 月 29 日 (木)  



若林城


あかとんぼ は 仙臺城二の丸と若林城の関係を 次の様に聞いていました。

1.若林城は 政宗公の隠居城である。
2.仙臺城二の丸の内諾を政宗は得ていた。
3.条件は秀吉の形見「鎬藤四郎」の献上であった。


政宗公逝去から 忠宗公二の丸移転までを仙台市史年表で時系列でみると

1.寛永13(1636)年5月24日 政宗公 櫻田屋敷で逝去
2.同年同月26日 忠宗公 襲継

3.同年8月14日 忠宗公江戸を発つ
4.同年同月22日 仙臺着

5.同年11月21日 仙臺発
6..同年同月28日 江戸着

7.寛永14(1637)年5月18日 江戸発
8.同年同月25日 仙臺着

9.同年6月23〜26日 大雨 廣瀬川氾濫 大橋・花壇橋・舟丁橋、家屋3267軒流失、死者221人
10.寛永15(1638)年3月21日 仙臺発

11.同年同月30日 江戸着
12.寛永15(1638)年7月16日 仙臺城二の丸 造営 幕府許可

13.同年9月4日 造営開始
14.寛永16(1639)年4月30日 江戸発

15.同年5月7日 仙臺着
16.同年6月25日 忠宗公 仙臺城本丸から二の丸に移る


以上から
 
政宗公は生涯現役で 公式に隠居していませんから 「隠居城」の表現は適切ではありません。

秀吉の形見「鎬藤四郎」の献上は、政宗公没直後 形見として 確かに献上しています。
しかし、政宗公没から 仙臺城二の丸造営許可迄 2年2ケ月経過しています。「鎬藤四郎」効果とは思われません。

 
本日 仙臺城二の丸と若林城の関係を提起しましたのは、

27日東北文化学園大学地域連携センター副センター長 渡邉洋一先生の 「若林城下構築計画とその挫折」と題する講演を聴講しました結果です。

先生は裸眼では読めきれない細字でギッシリ記載した12頁を配り 資料を頼らず講義しました。


講義内容 まとめ

政宗公の若林城築城の意図は 城下町全面的な移動ではなく、黒田藩の福岡と博多の関係の様に、政経分離による経済基地としての機能を集積しようとしたのでないか?

廣瀬川の水運を考えたが、寛永14(1637)年の廣瀬川氾濫で、若林城下は壊滅的打撃を受け、行政府としての再建を断念し 廃城とし、仙臺二の丸の築城となり、城下の拡張は承応3(1653)年の東照宮の建立を契機に北東に向けられた。


あかとんぼ の結論
通史を読み 年表で 時系列で 整理し記憶するのが 肝心である。


本講座は 若林市民センターで歴史を学習している「若歴会」主催で ガイド仲間Sさんが 影の代表でした。

発言
1.古城に入城したい方は11月3日 宮城刑務所が公開されます。どうぞ。
2.宮城刑務所外周に堀跡があるが、更なる 堀が存在したか?

3.福田町に 伊達神社があるが、伊達家との関係、由来は。



9 月 27 日 (火)  



生涯学習のガイド

福島県喜多方市の山都公民館様から 公益財団法人瑞鳳殿を経由してガイド依頼がありました。

ご趣旨は、
会津の歴史や自然を学ぶ講座「会津発見塾」を開催しており、
伊達家の足跡1として、伊達家発祥の地 伊達市を、
足跡2として、政宗公幼少の地 山形県高畠町を、訪れており
その3として、政宗公縁の瑞鳳殿を参拝することで、会津ともゆかりの深い伊達家について、より深く、身近に感ずる事が出来るように学習したいとの事でした。


ここまで趣旨を明確にし、伊達家発祥の地に始り、政宗公の人格形成の地 そして終の棲家 を訪れる 熱意に頭を垂れるのみです。


会津山都からは 遠いですが 僅か10分の遅れで13時20分の到着でした。
希望は、出発は計画の通りで、資料館はゆゅくり見たいとの。

それでは、資料館はビデオだけで30分以上、歩行で20分必要で 計50分となり 瑞鳳殿参拝・見学の時間が無くなります。

「出発時刻を厳守します、時間配分を一任できませんか?ご満足頂けるように ガイド致します」とお願いしました。

途中で 10分の延長を頂き 瑞鳳殿・資料館・弔魂碑・感仙殿地区迄を 60分で約束の通りまとめました。

講座講師 佐藤紀子先生から「予想以上」のお言葉を頂きました。
佐藤先生は 会津若松でボラガイドもされていると自己紹介されました。

梅雨あけの様な気候 ムンムンしているのみならず 緊張の1刻であった為か、終わったら全身汗だく。



待機中 通常ガイドをしました。

瑞鳳殿の石段を降りてきた来た 高齢のご婦人。
「この石段は段差があり 降り難い。手摺が必要です。ある所では 住民が手摺を寄付しました。私は再訪しませんから寄付しません」

ご高齢です。再訪は無いでしょう。
「住民が手摺を寄付すればの、お金の問題ではありません。文化財保護の監督官庁が許可しないと聞いています」
「そうか お上には 勝てないな」

善応殿 で再会しました。
「このお殿様 品川に お住まいであったのね。品川屋敷は どの辺かしら。私 品川に住んでいるの。味噌は 仙台味噌を食べているの。仙臺坂 昇り降りしているの。お詣りに来てよかった。私 仙台と縁があるのよ。楽しかった」

瑞鳳寺山門前で 再び 再会。バラバラに行動してますが。

「この 寺の山門 白金町の伊達家屋敷門を模したとあるが、現在の住居表示では どこですか?」
「わかりません。調べます」


るーぷるバスのお客様
山門前で一息を入れ「これから88段か?」と 呟かれました。

88段 日本人は 88 が大好きで、 88夜 米寿 。
「お客様 88段とは? どちらで聞きました?」

「バスの運転手が語りました」

伊達家家禄62万石とは別に、政宗公行年70歳から 62段プラス18段の70段と申す方います。しかし 起点・終点を明らかにしません。無責任です。88段は 62プラス26段です。26段の起点・終点は?

言葉遊びは 慎むべきでは?



9 月 26 日 (月)  



ガイドの依頼

「瑞鳳殿ガイドの会ですか?ガイドしてください」の電話。

「どちら様でしょうか?生涯学習を目的とした団体でしょうか?」
「〇〇市から補助金を貰っている団体です」


瑞鳳殿ガイドの会は、その目的を「経ケ峰歴史公園に所在する歴史遺産に関する説明を行い、その歴史・文化を広く伝える事」と会則に定め、
待機型(予約を受けない)・無料で実行しております。

目的達成から、次項について限定し、無料で予約を受け対応しております。

1.小・中・高校生の校外学習
2.生涯学習を目的とした団体
3.行政機関及び関係機関
4.役員が特に認めた団体


これについて 「なぜ そこまで厳しく自制するのか」と尋ねられた事がありました。
1.旅行会社が地元ボラガイドが案内しましと集客をし 収益確保から ボランテイアガイドを使役する 使役されるのに疑問を感ずる。
2.有料でガイドをする団体に利敵行為になる事はしたくない。
からです。


襟に「瑞鳳殿ガイド」と記載した 五色乱星模様陣羽織を着て 待機しております。気軽にどうぞ。



9 月 25 日 (日)  



9時15分頃 お客様の波の第一波が到着する時刻です。
30分前に瑞鳳殿に到着し、案内板等を設置するを常としております。

諸事情で本日は到着が遅れました。準備できる前に第一波が襲来しました。早速のご依頼。
受け入れ準備半ばで ガイドに。

山梨県の植木を専門とする造園会社経営者層でした。

樹林 杉の大木について 質問がありました。
今 満開の 萩 香り始めた 金木犀 については 質問がありませんでした。


金木犀の香りは 強烈です。馴染み深い人が多く「ウーン」と唸る方 それなりに います。
周囲を見回されますが 低木で 即 見つける方 少ないです。


「萩」 涅槃門内の左右 石垣にあります。
興味を示す方 少ないです。関東圏からのお嬢さん 「萩の〇」ならと 仙台銘菓を言われました。

県花・市花に なっています。
表参道脇 登り口 から  あればと 思います。話題になります。

平泉・毛越寺では、境内と 山門前 そして 達谷巌毘沙門堂に至る県道両脇に紅白で萩が植えられています。
萩は 「馬の餌」と軽視された時代もありますが、見事な花です。


JTB当番は 空振り。
ガイドの会役員諸氏と「報・連・相」をして帰途に。



9 月 24 日 (土)  



仙台藩志会伊達学塾

本日 例会場 戦災復興記念館で開催されました。

第1部
演題  だてのふるさと
講師  福島県伊達郡桑折町郷土史家 菱沼正人 氏
概要  646年(大化2)年 信夫郡設置から1542(天文11)年の天文の乱迄の期間における 伊達家の入部と寺院創設を。

第2部 
演題  大枝城の成立
講師  大條家20世 伊達宗行 氏
概要  大條氏とは、大枝城とは、史跡を訪れて



運営に不手際があり 聴講された方、講師に 100%満足して頂けませんでした。申し訳ありません。
原因と改善について総括する担当者会議会議の開催を提案しました。



9 月 23 日 (金)  



要害

「伊達家22要害跡 全てを訪れたい」と 21日日誌に記載しました。
ら、Uさんから 「行きましょう」と連絡を頂きました。

「して、未訪の要害跡は」と問われました。 名前のみ列挙します。

@谷地小屋 A岩屋堂 B川崎 C坂元 D上口内 E人首 F岩沼 G不動堂 H平沢 I師山


既訪は

@亘理 A涌谷 B角田 C登米(寺池) D水澤 E岩出山 F船岡 G高須水 H金ケ崎 I金山 J宮沢 K佐沼の要害跡



所は
@伊具郡丸森村 佐々家 A黒川郡宮床村 伊達家 B桃生郡和渕村 武田家

在所は、
@宮城郡蒲生村 和田家 A宮城郡八幡村 天童家

のみで 意外と訪れていません。
 






9 月 22 日 (木)  



20日掲載 17日日誌 2ケ所誤りがありました。

講師三浦泰之さんの学歴と、稲田邦植のお名前 間違えていました。
大変失礼致しました。早速 訂正致しました。

ご指摘下さいました 友田昌弘先生有難うございました。



本日は 彼岸の中日。
昼夜の時間が同じくなる日です。が、小雨のくもりです。昼夜 イコールには?


朝1番のお客様 御夫妻で軽装です。
「どちらから? るーぷるバスですか?」に、
「南部・八戸から マラソンで、靴と服装見てください。これがマラソンスタイルです」

「ハハー」
でも 水戸黄門さん Wか? 貸杖 1人2本を 手にしています。

今 ガイドをする事柄を察知して 質問してきます。忙しい方です。マラソンも先頭集団でしょうか?


昨夕遅く、「こちら大韓民国建築学会〇〇団の添乗員 〇〇です。明日10時半頃 瑞鳳殿見学します。1時間程 ガイドしてほしい」と電話がありました。

ガイドの会は、生涯学習等 限られた団体以外は 予約を受けていません。
「電話を何処で知りましたか」に 「仙台市の観光ガイドブックに 名称と番号が掲載されています」

物見遊山の団体でなく、建築学会です。公的資料を頼りにしての依頼です。
祝日で ガイドに行くつもりでしたので、上(涅槃門前)で、下(瑞鳳寺山門前)で 待つかの違いです。快諾しました。

1時間の内、移動に20分は必要とします。残り40分を あかとんぼの日本語と 添乗員〇〇さんの韓国語の折半です。
20分間で 真髄を伝えなければなりません。真剣勝負 緊張の一瞬です。

添乗員〇〇さんは、予習をしてきたと申しながら 年号(西暦)などメモして 伝えています。 正確でした。

お客様からも質問がありました。

0.瑞鳳殿とは、何を意味するのか?
1.政宗公が仙台を治める前の領主は 誰か?
2.62万石の殿様とは どの様に偉いのか?
3.青森ヒバとは?
4.なぜ 政宗公は江戸で亡くなったか?
5.菊紋が散見するが?皇室とに違いがあるのか?
6.ガイドには 資格試験があるのか?
7.年齢は何歳か?健康の秘訣は?
8.熊目撃情報の看板あるが でるのか?大きさは?
9.ハギ(萩)は 草冠に秋と書くよな?

ガイド中 伝えきれ無かった日本語

1.香木  涅槃門で 白檀 の代替えで
2.里帰り 臥龍梅の若木の帰国で


臥龍梅は、日韓交流の絆です。

「お国では、この梅の木は途絶えたそうです。宮城県加美農業高等学校では瑞巌寺の臥龍梅から育て 韓国水原農生命科学高等学校に里帰りさせています」に、

多数の方は 「初めて知った 宜しい事」と肯定的な反応でした。

涅槃門と本殿の前で 2ケ所で集合写真を。 涅槃門の屋根と樹木を背景にも 至る場所で撮影していす。


この涅槃門の屋根と樹木を背景は、「日本の風景」なのか、今朝 インドネシアの方が やはり撮影していました。
この方と 瑞鳳寺山門前で 再会した際 「仙台駅に 路線バスで行くには」 と尋ねられました。霊屋橋の停留所を教えました。

待機していた タクシー氏 「外国の人は 100人に5人しか 乗らない 何故かな」とボヤイて 居ました。
背景に 生活環境の違いがあるのではと 語り合いました。



添乗員さんと 名刺交換しましたが 100% 判読できません。参った。
今日も 色々あり充実した日でした。勉強になりました。



9 月 21 日 (水)  



17日日誌 宮沢城 補足


宮沢城は、伊達22要害の宮沢要害でした。

仙台藩歴史事典に、
所在・栗原郡宮沢村
年代、城主・
  慶長5年〜慶長12年  後藤信康
  慶長13年〜延享4年  上郡山常為-高為-重常‐景常−為常-為道−為倫
  延享4年〜        長沼致信-致真-致泰-致辰-致豊-致中-致季

家臣家格に
  着座(110番目)、名字・長沼、石高・1500石、在郷屋敷所在・栗原郡宮沢村(要害) とあります。


宮沢村は、
1875年(明治8年)10月17日- 水沢県による村落統合により、宮沢村と小林村が合併して嵯峨村が、桜目村と川熊村が合併して豊岳村が、それぞれ成立。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行にともない、嵯峨村と豊岳村が合併して新制の宮沢村が発足。
1950年(昭和25年)12月15日 - 志田郡荒雄村・志田村と共に志田郡古川町へ編入。古川町は同日付で市制施行し、古川市となっています。

城主長沼氏のご子孫でしょうか、宮沢村村長4代目を、長沼大四郎 が1909年(明治42年)5月から1921年(大正10年)6月迄 12年間勤めています。

要害であった事を示しているのか、本地の地名は「館ノ内」 バス停が「城内」となっています。


瑞鳳殿ガイドに日参していますが、歩けるうち 22要害を 訪れたいものです。




9 月 20 日 (火)  



17日日誌の続きです。

5.12:30

 講演会
 地域の歴史を学ぶ in 岩出山 北の大地へ渡った侍たち  北海道開拓と岩出山伊達家

 会場:大崎市岩出山文化会館

 仙台ナンバーの車が続々と。駐車場整理が 仙台在住・岩出山古文書を読む会のAさん。

 仙台藩志会伊達学塾で講演を頂いた 友田昌宏先生 高橋陽一先生に 御挨拶。
 仙台市博物館三の丸会S会長、富沢大学A教務主任、K戊辰の役研究者等 既に 着座。

6.13:00 開会

 講演1.
 北海道開拓と士族移住  北海道博物館学芸員 三浦泰之 氏

 氏は、京都大学文学部日本史専修。
 夫人の先祖は四国徳島 洲本の城代 稲田邦植の家臣で北海道開拓に入られた。
 現在でも お正月のハレの食文化は 140年前の先祖墳墓の地の食文化が再現される。

 講演概要

 「士族移住」は、明治10年代迄の動向が特徴的である。
 分割分領政策
 仙台藩士・・・亘理・伊達邦成、岩出山・伊達邦直、角田・石川邦光、白石・片倉邦憲

 北海道開拓と関係ない古文書が発見される。
 士族移住の際、自からの「由緒」に対する「誇り」を失わず保ち続ける決意が反映されている。

 この古文書は 移住元の歴史の解明にもつながる。


 講演2.
 岩出山伊達家の北海道移住と我妻謙(ユズル)
 東北大学東北アジア研究センター上廣歴史資料科学研究部門 助教 友田昌宏 氏

 講演概要

 我妻家・我妻謙とは
 我妻家文書とは

 当別開拓に至る紆余曲折を我妻家文書によろ解明
 開拓に成功し、士族に復籍した 一念は何か?

 先生は 「本藩(仙臺伊達家)に一矢を報いる」と 解説されたが 果たしてそうでしょうか?

 配布資料と展示図録に 小説石狩川 を これから読み 勉強致します。


6.15:30 閉会

仙台に帰る 最終列車が 16時との事で 時間延長出来ないと 講演の最後が駆け足気味 質疑応答が無かったは残念。
昨年より開催が2ケ月早まり 日没前に帰れたは 助かりました。

送迎・案内して頂きました U様に 感謝申し上げます。


伊予宇和島は 暴風雨と NHK07:00 報じました。
2009年にお世話になりました方に お見舞いを発信しました。被害がなければと 思いますが。 



9 月 19 日 (月)  



雨の連休、最終日。
彼岸の入りです。政宗公を参拝の方 ペルーからも お出でになりました。

今朝の特記事項は、
1.駐車場 これまでは 蚊 の大群が屯していました。今朝は 1匹もいません。
 代わりに 蜘蛛の巣が張り巡らされていました。ひっかりました。

 あかとんぼは 蜘蛛は 地獄と極楽を結ぶ 釈迦の使者と幼少より信じています故、蜘蛛の生命に関わる行為は一切しません。
 その様な事から 極楽の政宗公が 彼岸の入りに 朝早くからと 喜び 使者を派遣されたと理解。

2.瑞鳳殿前 生活道路を 2〜3組 5・6人が 自動扉付近に立ち止まり 「ココダ」「ココダ」と 連呼し 撮影している不逞の輩がいました。


今日は 千葉の日 ?
何組目かの 千葉からの お客様を。

続いて、函館からのご夫妻、宇都宮からの母親と娘に、発地不詳の初老の男性の5人で極楽ツアーと称して 60分ガイドをしました。
旅慣れているか? 歴史の素養があるのか タイミング良く 適切な 合いの手を入れて下さいました。

発地不詳の初老の男性、
 涅槃門の彫刻の説明 「10枚全部異なります」に関心を持たれたか本殿参拝と資料館見学後、涅槃門の彫刻を丁寧に撮影されていました。
 再建された涅槃門は、創建当時と比較すると 100% 同じではない そうだが、具体的に何処か? のお尋ねがありました。

 (公財)仙台観光国際協会主催のスタンプラリー用紙を持参されていました。
 クイズ3問 答えを既に記載されていまして、正解か 確認を求められました。全問正解でした。

 スタンプ 瑞鳳殿のみが未だで、仙台城、大崎八幡宮、北山寺院、陸奥薬師堂の4ケ所 押印済でした。

 北山寺院、陸奥薬師堂は、瑞鳳殿と異なり ガイドが常時いません。交通の便も恵まれていません。よくぞ スタンプを得ました。
 それなり、かなりの努力をされた成果です。

 観光国際協会から 素敵な商品を 貰って下さい。


本殿前で 説明する際、常には 一行の長と見られる男性に 御当主が立つ位置に 立って頂いています。
今日は、宇都宮からの母親が最年長に見えました。立って頂きました。

「なぜ 私が?」 当然のお尋ねです。

この場所は、年賀拝礼式、遠忌法要の際、34世18代の ダブルの数え方ですが、伊達家の御当主が立つ 尊い位置です。
今日は 敬老の日です。この中で 最年長とお見受け致しました。政宗公を始め 殿様の運気が 伝われば と 思いまして。

ご満足頂きました。


坊主頭の青年

「此処は何故 経ケ峯 と言うのか」
「はい ここで満海上人が修行され・・・・」最後まで聞かずに 「それは 腹を借りた奴か?」 (不遜な発言です)

「いや 別人です。夢枕に立ったのは白髪の老僧です。政宗公は満海上人の生まれ変わりと伝えられていますが、白髪の老僧が満海上人であるとは 聞いていません」

大分 不満の様子で 足早に立ち去りました。


ペルーの女性

タクシー氏 (○仙台の〇崎氏) 「イツモ・・・  外国の女性 20分で案内して」  「日本語専門です。英語できる人未だです」
「大丈夫 お宅の日本語 通ずるから」 ナンカ変な 説得です。

ガイドしました。通じました。わかって頂きました。 
「お客様のお国は どこですか?」「ペルーです」 「この次 お会いする迄 スペイン語 勉強しておきます。また どうぞ」



函館のお客様に 年齢を問われ 「私の父と同じ、お大事に」と言われました。矢張り 老齢に見えるようです。
11時30分 雨が強まりました。
敬老の日です。予定より早めですが 終わりました。



9 月 18 日 (日)  



大雨。ゴム長靴を履きました。

某国政府要人は被災地が忙しい最中、街歩きの靴で視察に訪れ、背負われ ニコニコ視察をされたそうです。
お客様をにこやかにガイドをするには、足元を固めるのが肝心です。


9時船橋市からの団体。軽く素通り。
「あそこに見える塔は 誰の墓だ?」 「ここ経ケ峰は伊達家三代霊廟です」をバスガイドが教えなかったようです。教えたから 誰の墓?になったのでしょうか?

「戊辰の役の弔魂碑です」
「戊辰の役とは なんだ?」 「東北の各地にあるが なぜだ?」

「お客様は 長州 山口の方ではないですね。戊辰の役とは・・・・・・・・・・・・」


札幌市豊平区からの2夫婦 続いて 千葉市からのご夫婦
拝殿が化粧直し工事で 立ち入り不可で 雨の中 フアイルを広げるのに ひと難儀。濡れると張り付いて 開き難くなります。

明日の敬老の日を前に 二人で 還暦か 古希のお祝いでしょうか。
夫婦仲良くは 社会を明るくします。熱心に聞いて頂きました。



横浜からの盛年3人連れ。
ガイドをするうち 相性が ピタリ会い始めました。感仙殿地区迄 ガイドをしました。

綱宗公の甕棺底の 宝永小判10枚から、金箔に話題が飛躍しました。
昨日、瑞巌寺を参拝した際、お坊さんに叱られた と語りだしました。

襖絵 復元され あざやかです。
汚染しないように 透明なカバーがされており、 突然 カバーが途切れました。

「直に 触れてください」と カバーを 取り除いた理解し、サッと手を伸ばした途端。お坊さんから叱られたそうです。
「金箔の襖絵に触り、お坊さんから叱られた」は普段ありえない事。きっと金運が 着いたでしょう? に ニッコリ。

「とろで、政宗は 金 持ちか?」
「はい。伊達者 伊達男 の言葉の起源は 朝鮮出兵の観閲式での 装備一式 派手派手であった事に 京童の称賛からと言われています。

この装備が出来たのは 財政力があった故です。領内からの産金で調達したと言われています。


「奥羽地方は古来 産金の豊富な地と言われています。文禄4年(1595)10月以後、領内の金山は政宗公の支配に属した。
慶長3年(1598)諸国の金銀山秀吉に納めれた運上目録によれば、政宗公は 上杉景勝の越後1124枚 佐渡799枚についで600枚を収めている。

金1枚は金10両、米にして4−50石に相当する。
日本切支丹宗門史にも 政宗公が豊富な金銀の鉱山を所有した事が記されている」この項 小林清治著 伊達政宗 130頁による。


この後 ズンダ餅・雀踊りの起源 語源を問われ、牛タンの昼食 と ひとくさり 語り 元気・闊達に行進していきました。



9 月 17 日 (土)  



本日は Uさんに ご配慮頂き 時間を有効適切に活用しました。Uさんに感謝申し上げます。

1.9:30
 鶴楯城(大和町下草(鶴巣村)所在)を見学。
 国道R4から至近距離、常に横目に見ていた所。

 Uさん資料によれば 80m高、東西200m、南北300m連郭式状中世山城の典型。
 黒川郡随一の名城との事。

 麓。三の丸。二の丸。本丸と登りました。
 二の丸は80mの方形の平場、野芝に櫻があり 公園風。泉岳・七ツ森と 黄金いりの田圃が望めました。

 9月10日日誌に
 「天正18年 政宗公が黒川城を攻め難儀した際、地元の老婆から城の弱点を聞き出し 落城させました。
 政宗公は褒美を出さず、首を刎ねました。
 それから 老婆の亡霊が棒を振り、田が作れず 近ずく事が出来なく「棒振り田」と呼ぶようになった。と云う民話を語っています」
 と記載しました黒川城とは、本 鶴楯城です。

 本資料では、「北西の山麓部には合戦時の悲話がまつわる「ぼうふり田」と呼ばれる地名が遺跡として残っている と あります。

 この城の歴史として
 黒川安芸守晴氏が永禄年中(1558)迄 居住、天正18年(1590)政宗公に滅ぼされた。
 後、政宗公4男 河内宗清 元和年間(1615頃)吉岡に移るまで、この城・西の丸に居住したと言われる。

 資料図には、西の丸、ぼうふり田も記載されています。
 城跡の全景を 見ました。西の丸、ぼうふり田は 藪でもあり 立ち入りしませんでした。


2.10:30
 宮沢城(大崎市古川宮沢所在)を見学。
 屋敷と屋敷の2m幅員の小路を入った奥にあるお椀の様な丘と周囲の田圃が城址でした。

 Uさんは よくぞ発見したものと驚賛する位置です。
 付近住民に聞き込みした際、知っている人皆無に等しかったそうです。

 伊達家家臣 上郡山千賀之助に続いて 長沼壱岐致直が 封をはんだと 資料にあります。
 略図に 長沼氏屋敷と表示あるのは 長沼壱岐致直の末裔なのか?

 伊達家世臣録に、@長沼五郎左衛門 1014石 A長沼秀三郎100石 の2名の記載あります。

3.11:30
 竹工芸館を見学。
 岩出山4代村泰公が家臣の手仕事(内職)に奨励した。300年の伝統ある岩田山の特産品の体験館。

 初めて入館しました。4・5人が細工を楽しんでいました。
 宇和島市のSさんが 数日滞在し 修行されています。

 驚いた。
 館の入口、陽当たり 最大に恵まれた位置に 政宗公木像が鎮座しています。具足は日焼けし 生地模様が薄くなっています。
 大崎市長は どの様な意図で ここに鎮座させているのでしょうか?
 これは 招き猫の代わりです。
 


4.12:00
 「吾妻家文書展」を森民酒造店・昭和レトロ館にて見学。
 築80年の民家1階すべてを使用し パネルが展示されていました。

 読み切れません、覚えきれません、展示図録を購入しました。

 東北大学東北アジア研究センター上廣歴史資料科学研究部門と岩田山古文書を読む会の共同事業です。
 作業に参加した岩田山古文書を読む会会員の中に 現職中に同僚であったA氏の名前が中程にあります。

 歴史に興味を示していたので 瑞鳳殿でのガイドの仲間に再三 誘っていました。返事は「そのうち」でした。
 仙台から岩出山に通い 古文書解読の勉強をしていたのです。勉強の成果が この図録です。偉い。

5.12:30
 日をあらためて 記載いたします。
 



9 月 13 日 (火)  



仙台は今日も雨だった。

城下南東部 若林市民センターの講座に参加。丁度1時間を要した。

「若歴会」事 若林の歴史を考える会 会員11名(ガイド仲間のS氏も会員)が主催で、
宮城歴史研究会会長渡邉洋一会長が、

「若林城下町構築計画とその挫折」と題して講演されました。
2回講演の第1回目 

本日の概要は、

若林城の以前に城があった。古城と呼ばれていた。小泉城もあった。
なぜ、若林城を築城したか?

木村浩二先生と視点が異なり フムフムでした。

資料 9ポイントでしょうが 極小文字で紙面ぎっしり12頁です。翁には格好です。
2回目が27日10時からです。楽しみです。


仙台藩志会伊達学塾 2017年2月25日の講座 先生に
「仙台藩の参勤交代」の演題でお願いし、快諾頂きました。ご期待ください。



9 月 11 日 (日)  



季節の変わり目 冷涼です。

ガイドの仲間 長袖シャツです。お客様に 先日迄 飛天スタイルの方 居ましたが 今日は皆無でした。

埼玉・東京からの女性2人連れ
函館からの女性3人連れ…北海道新幹線効果アリアリ

拝殿前から涅槃門を背景に女性3人連れのシャッター押す係。
仙台市内の方との事。
原形仙台七夕と紅葉の写真を公開しました。
さばけた方々と判断しましたので、「ここの七夕は 他と異なり 情 があり、竹の先 彦星と織姫に秘密があります」に ドット歓声が。
11月 紅葉を見に来るとの事 再開を約しました。

盛年期の女性に40人に、オマケの様に男性2人の団体。 
バスガイドは 自信 ありげに あかとんぼを無視して お客様を急がせます。
幹事の女性 「頼みましょう」と バスガイドを説得しています。聞こえてきます。

お客様の勝利です。バスガイド「20分で」と 追い打ちです。
本殿を中心に。

佳境に入りました。「制限時間20分になりました。どうしましょう」とお客様にたずねました。
「続けて」のお声。

昨晩は 秋保温泉泊であった由、「政宗公の墓室の石材は秋保石です。ホテルから採石場跡みえたでしょう」に、
「アー見学順番 間違えた ここが先であった」

最後、涅槃門の彫刻 透かし彫を説明しました。時間オバーしましたが、「地元ガイドを聞いて良かった、楽しかった」の声が聞こえました。
これが 生き甲斐です。



9 月 10 日 (土)  



瑞鳳殿ガイドと 競合する時刻に諸会合 4本あり 瑞鳳殿ガイドを休みました。

出席した会合

1.あかとんぼ邑 敬老会

 お招き頂き 有り難いと思いました。まだ その歳で無いと思いましたが 今回 欠席すると 次回 お招きして頂ける機会は8年後です。

 邑長(町内会長)の挨拶に、
 邑は 1000世帯、邑人2000人 70歳以上 570人。
 70歳、77歳、80歳、88歳、90歳以上は全員 で 124人の招待対象者がいる。
 本日は、52人が参加。益々のご活躍を。

 単純計算で 1世帯2人は 単身世帯がそれなりあり 高齢化率25パーセントを事を示しています。
 本日の参加者は、全員が自力で歩行出来る人でした。ガイドの会の仲間もいました。

 瑞鳳殿での ガイド活動は、高齢者の生き方に有効の様です。


2.まほろぼ大学 郷土史講座

 仙台市の隣町 大和町教育委員会主催です。
 例年 参加者の3分の1は、仙台市民です。

 本日の講師は、仙台市博物館学芸員菅原美咲先生
 演題は、仙台藩の街道と宿場の人々

 会場のある大和町吉岡は、映画「殿、利息でござる」の舞台となった土地で、出席者に 映画に出演した人が多数いました。
 映画の公式HPに「・・・・・さびれはてた小さな宿場町・吉岡宿で、・・・・」とあるが、はたしてそうか?

 映画の原本 「國恩記」を もとに 吉岡宿の規模概要を解き明かされました。

 街道が6本の結合点で、「東講商人鑑」に」登録され商人が数おり、資力のある人たち居た 決して さびれはてた小さな宿場町 ではなく、逆に 行政・殿さまに 献策 出来る実力を持った宿場町であった。と結ばれました。


 8月の講座は、佐藤憲一先生の「伊達政宗と狩りについて」でした。
 あかとんぼ邑は、政宗公の鷹狩の狩場であったと伝えられています。

 7月は、「七ツ森周辺の民話を訪ねて」でした。

 天正18年 政宗公が黒川城を攻め難儀した際、地元の老婆から城の弱点を聞き出し 落城させました。
 政宗公は褒美を出さず、首を刎ねました。

 それから 老婆の亡霊が棒を振り、田が作れず 近ずく事が出来なく「棒振り田」と呼ぶようになった。と云う民話を語っています。

 宮床伊達家や 奉行但木土佐の領地で かかる政宗公の評価が下がる民話が伝わっていたとは?

 7・8月の講座は 所要で欠席しました。資料を頂いて来ました。

 





9 月 7 日 (水)  



瑞鳳殿 焼失

1945年7月10日の米空軍による空襲で焼失しました。

あかとんぼは はっきり「1945年7月10日の米空軍による空襲で焼失しました」とお客様に告げます。
単に「焼失」とだけ 告げる仲間もます。

なぜ こだわるか?
放火・失火等 当時の仙臺の人々の責任で 國寶を失ったと 誤解されたくないからです。


8月27・28日 「空襲・戦災を記録する会全国連絡会議第46回仙台大会」が開催されました。
その大会資料を Uさんが ご多用の最中 届けてくださいました。感謝です。

当然ながら 瑞鳳殿を中心とする経ケ峯の焼失についての項目はありませんでした、

空襲の時の様子、焼失後に回収され遺物、その目録、保存先、木標を立てた経緯の記録を 纏めた資料が無いものでしょうか。
もし お持ちの方 おりましたら 教えてください。

最後の廟守りであった 石田常夫様にお聞きしましたが、当時 徴兵され不在時出来事で 不明との事でした。




9 月 6 日 (火)  



国際交流

宮城県名取市 国際交流実行委員会様のご依頼で、9時30分から 1時間 瑞鳳殿を中心とする経ケ峰をガイドしました。

ガイド対象のお客様は、オーストラリアの中学生・高校生34人、随行教諭4人、それに市職員等の合計70人で、通訳(有料団体)を用意します との2日前に 急な依頼でした。

結果は これまでのガイド実績からして 低い評価点でした。(アブハチトラジ)
原因について本日の日本語ガイドで 直ちに分析しました。分析結果はオトナの立場から公表致しません。

「英語でもガイド出来る人」とご依頼を頂ければ、短時間で要点を 的確、堪能に 日本語・英語の両語でガイド出来る仲間が 無料でガイドをしましたのに。


ホストファミリーの方から、ホストの楽しみと戸惑いを 伺い、「国際交流とは」を 理解する要を教えて頂きました。




9 月 5 日 (月)  



政宗公生誕の日  (*^_^*)

1567年9月5日(永禄10年8月3日)が 政宗公生誕の日です。
449歳です。

来年の今日 450年祭が最大に催されるでしょう。
問題は、官民一体となって 行われるか?



戊辰の役 北越の戦い

殉難者(戦死者) 昨日の続きで調べました。

仙臺藩戊辰殉難小史(大正6年10月10日戊辰殉難50年弔祭会長 従四位男爵伊達宗經 編)によれば、3名。

周旋方 我妻敬三郎 が昨日越後の人が語る 伊達家家臣の戦死者では。

性剛毅年19にして京都警護をめいぜられ尋て御小姓に採用戊辰の役起こるや軍務局応接係となる参謀黒沢壱岐に従いて軍監となり大に軍略を運らし奮闘遂に斃れる。とあります。

他2名は 肩書無の氏名のみ。


仙臺藩戊辰殉難者50年弔祭誌 殉難者遺族名簿では、上記の外 桃生郡中津山村の4名が加わっています。
この人々は、侍ではなく、足軽クラス 中津山村の領主に動員された人々では?



「瑞鳳殿の将来像」

定例役員会会議途上 公益財団法人瑞鳳殿事務局長から
「瑞鳳殿の将来像」を職員で討議をしている。ついては ガイドの会役員は色々 考えを持っているでしょう。出して欲しい」

」「わかりました。只、期限時が本会議終了時では無理です。明日の昼を期限としてください。」
さて、本日出席した7役員から どのようなアイデアがでるか?(17:24現在3人から提出ありました。)




9 月 4 日 (日)  



スッキリしない天候

関東圏からのお客様2人の希望で瑞鳳殿を案内して来た親子。
案内の夫婦は 正直 興味なし、ブラブラ。

お客様は「政宗公フアン」と 申しだけあります。
せっせと ご質問。満足の様子。


新潟県からのお客様

「どちらから」  「新潟から」
新潟県・・・・・伊達家とのご縁 浮かんだのは 「越後高田城」

政宗公は、娘 五郎八姫の連れ合い 婿殿 忠輝の為の築城の総指揮に赴いています。
お客様 先刻 御承知でした。

スタートは それなりに 結構でした。

「戊辰の役 北越の戦いの際、伊達家の家臣が駕籠の中で狙撃された・・・・」
聞き取れませんでした。 お客様の近所での出来事らしいです。

「仙台藩の戊辰戦争」木村紀夫著で 検索しましたが 侍の名前が不明で 頓挫しました。


埼玉県からのお客様

最後に 銅板1枚打香炉で 八家紋を 再度説明をしました。
なぜ 再度の説明に至ったか?

「それは、権力関係、上下関係が 影響しているのか?」と 奥様から難しいお言葉で 質問があったからです。
昨今日、ある年齢になり 歴史に目覚めたご夫人が 配偶者の尻を叩いて 訪れたと 見られるケースが散見されます。


黒揚羽蝶

羽を広げると15cm位の 大きな黒揚羽蝶の乱舞が 長い時間ありました。
本殿で向揚羽蝶の模様を説明していたら 飛来 お客様の周辺を飛び回りました。

新潟県・埼玉県からの 真剣に聞いてくださるお客様の時でした。
黒揚羽蝶 お客様を選んでいるのでしょうか?


蒸し暑い天候の為か 「蚊」がブンブンしています。
券売口下、ベンチ下に ブリキ缶型の蚊取り線香が置かれています。

毎朝 係り員が 線香を取り替え 点火していると思っていました。
長老のYさんは 蚊に襲われるタイプです。線香缶を取り上げました。

「アレー これ火を使わない線香よ 効くのかしら?」と絶叫。事務所に聞こえたのでは。


菊紋の赤錆

昨日 お客様からご質問のあった
「菊の芯を中心に 「赤錆」がありますが、何故か」について 学芸員に お尋ねいたしました。

「赤錆では無い。錆が出る余地が無い」とのご教示でした。




9 月 3 日 (土)  



爽やか。

絶好の参拝(観光)日和。出足は比例しません。

9時 白河市からの盛年男性3人。
数年前 参拝をしたと ブツブツ洩らしています。

「ご案内しましょう。何処より?」
「なんで 何処からと聞くのだ?」の表情。

「伊達家・政宗公とのご縁がある所から お出でになっていれば 盛り上がります」
「ワシラは 白河だ」 「あの寛政の改革をされた 松平定信公の御領内からですか?」

以後、ツーツーカーカーの雰囲気でガイドをしました。

涅槃門の菊紋を指して 「金の純度は? かかるものは純金で造るものでないか?」のご質問。

菊の芯を中心に 「赤錆」があります。それ故の 質問です。
何故 「赤錆」が出たのか 原因は 分かりません。

分かる事は、
2009年9月7日から2010年3月10日までの工期で、株式会社小西美術工藝社が、33,915,000円で施工した。

紋章など飾金具については洗浄、下地処理の上で型を整え、金箔押仕上げとした。

との 報告書事項だけです。


北九州市からの御夫妻。

涅槃門の唐獅子牡丹を説明したら ニコリとされました。
お客様とあかとんぼ は阿吽の呼吸が通じました。

あかとんぼ は1952年4月から1953年5月まで 読売新聞に連載された小説「花と龍」。
 火野葦平が 両親をモデルに 若松港の沖中仕の生き様を描いたものです。

主人公の玉井金五郎の背には 「龍」の刺青がありました。
多感な少年 あかとんぼ の脳に蓄積されました。
今日 お客様にガイドをしていたら 強烈に思い起こされ 阿吽の呼吸となりました。


神奈川県からの御夫妻。

湘南らしいです。
奥様が 歴史に目覚め 車で北上中とか。昨日 白石市を丹念に、見聞きして来たそうです。

瑞鳳殿のみで1時間を要しました。お客様は堪能された様子。私も満足しました。
「ガイドさん 何歳ですか?」のお尋ね。

矢張り 本人は若いつもりでも 老人は老人に見えるようです。





9 月 1 日 (木)  





瑞鳳殿(経ケ峯)には、「蚊」(やぶ蚊)がいます。
券売口・ベンチの足元に、蚊取り線香が数多く 置かれています。

10数年前、経ケ峯の中峯の下草刈りを行いました。
(やぶ蚊)殲滅が目的でした。下草の生態系が変化しただけで、殲滅は失敗しました。

薬剤散布を提案された方がいましたが?
提案を採択し実行されたか? されないか?蚊は健在です。


蚊は薄っすら汗をかかれた露出の多い女性(比較的若い方)中心に、国籍・年齢に関係なく 襲っています。
人種は関係あるようです。黄色以外の方 襲われたと 騒いでいる姿を見ていません。

高齢の男性(爺様)は、まず 襲われません。不思議です。
参拝者の少ない 早朝に 気まぐれな蚊に襲われた事はあります。


昨晩 NHK「ためしてガッテン」で 撃退法を報じていました。
足裏を アルコールで拭き清めれば 効果絶大 と報じていました。

本当かなと 思われる方 オンデマンドで再視聴してください。 





inserted by FC2 system