2016年10月の日誌
| 前々月 | 前月 | 翌月 | 翌々月 |




10 月 29 日 (土)  



政宗公初陣の地

このタイトルで売り出している町。

天正9年(1581)5月政宗公15歳父輝宗に従い 初めて出陣。その先は伊具郡。
と、丸森町郷土史年号に記載されているそうです。

伊達政宗 小林清治著によれば、

稙宗の死後、永禄9年(1566)に伊具郡金山城および小斎城が、元亀元年(1570)には丸森城には丸森城が相馬守胤の手中に陷つた。略
輝宗の反攻は、天正4年(1576)ころから始められた。

政宗の初陣は、失地回復のための一連の反攻戦のうちの一つであった。
以後天正12年の夏に至るまで連年、政宗は父と共に伊具郡の各地に転戦し、小斎・金山・丸森の諸城を奪回した。

とあります。

この小斎城と金山城を 地元郷土史家榎並利夫氏が 案内する企画がありました。
Uさんと 亜細亜系外国女性2人を含む23人が参加しました。

夜来の雨が上がり 視界良好で 蔵王の紅葉まで望めれました。
視力が1.5クラスの方は、小斎城から金山城本丸が、金山城本丸から小斎城物見櫓が 見える 見えたと語っていました。


瑞鳳殿の参道口に備えられている「杖」。 榎並さんが数年前 100本単位で寄進したものです。
使い勝手がよい との評判で いつしか 在庫が減少しました。その旨を伝えると 「今日 用意した杖 瑞鳳殿に届けてもらえるか?」となりました。

小斎町民センターは、小斎城跡や金山城跡の見学の前線基地・窓口です。訪れる人々の便宜から 「今回瑞鳳殿寄進まった」がかかったらしく、帰る時 話は立ち消えていました。



10 月 27 日 (木)  



図書

「時代考証学会第4回ファーラムin仙台 伊達政宗と時代劇メデイア  地域の歴史・文化を描き、伝えること」の長い書名
204年6月28日仙台市博物館ホールで開催されました際の報告書です。

東京学芸大学副学長大石学先生が会長を務める「時代考証学会が、
東北学院大学菊池恵子教授の実行委員長で開催したものです。

仙台市博物館主幹・学芸普及室長 菅野正道先生、
宮城学院女子大学講師 千葉真弓先生、
NHK大河ドラマ「独眼竜政宗」デイレクター 吉村芳之氏、
仙台市市民局地域政策課長 小山裕行氏
の諸氏が講師として 研究者・行政の立場から日頃の研究成果を発表されました。

あかとんぼは、「市民が伝える伊達政宗-瑞鳳殿ガイドの会の活動を通じて」と題して、政宗公が着用したとも伝えられる「紫地羅背板五色乱星」風陣羽織を着用して、ガイドの活動内容を報告しました。

大先生方の真面目で難しい 講話の中に 市居の隠居が 挟まりました。
日々の生活目線からの見方として お役に立ったのでは自負しております。


女子大生が見た ガイドの様子「御霊屋放浪記」 山下とも著。
鋭い観察で 愉快な気分になる書き方です。併せて読んでください。 


報告書の中で ガイドとしてお客様に語る部分「カッコ」内は、政宗公と公を付しました。
それ以外は 政宗 となっております。その事情は、

菅野先生から 研究者は 尊称 公 は付さないのが常識ですの注意を頂きました。
しかし、現場・瑞鳳殿では政宗公と公の尊称を付してガイドをしております。これは 伊達家ご当主への信義であります。

悩みました。その結果です。表現が不統一と見ないでください。 


編集・発行者 大石学・時代考証学会 で 2016年10月5日の日付けで刊行されました。
本日 手元に届きました。

早速 日頃 お世話になっている 公益財団法人瑞鳳殿とボラガイド支援機構理事長に 届けました。

又、2000年来の仲間(本書に協力者と明記) Uさんに 明日にでも お届けいたします。


本書は、今野印刷会社(022-288-6123)のオンラインショップ (http://www.konp.co.jp/pub/products/list.php?category_id=1)から購入できます。




10 月 25 日 (火)  



品井沼干拓

元禄6年(1693) 伊達家(藩)事業として、潜穴(トンネル)工事が始り、元禄潜穴と明治潜穴の2本の潜穴工事となり、最終的に1952年の干拓工事が完了しました。

俗称「富澤大学」の大学生NYさんが主宰する妙齢の女性グループが元禄潜穴と明治潜穴の2本を丹念に探索する会を催しました。
農業土木専攻の方が居られ、この長さ 2600mに 2.1mの高低差とは、200mの吉田川横断のサイホンとはの解説がありました。

年寄りの書物頼りの年表知識に一陣の風 新鮮でした。

ずり穴跡の現場で 太白区大野田小学校4年生の野外学習の一団 バス2台と交差しました。
日々の生活に繋がる農業の基である農業・土木遺産に 目を向けさせた 学校指導者者に 賛辞が 一行からありました。

オマケとして
松島町の「西行戻しの松」
利府町の「馬の背」 を観光しました。


27日 参加者 最若手様から 写真を送付頂きました。
「馬の背」 を恐る恐る 越える あかとんぼの後姿の写真が。

後姿の写真は、誠に貴重です。
高齢を自覚しました。

最若手様 ありがとうございます。



10 月 24 日 (月)  



 

「伊達家の歴史と日本の歴史」と題する貴重な資料を某氏(特に名を秘す)から頂きました。

A3版 左側に 伊達家中心に伊達治家1〜7巻・伊達正統世次考・吾妻鑑等から、右側に日本国内の出来事が、旧石器時代から最近まで 15頁にギッシリ記載されています。

作成は2016/08/11 伊達市学芸補助員 稲村信吉氏です。

一読し 中々の資料・年表です。作成された努力に敬意を表します。
この貴重な資料を提供された某氏(特に名を秘す)に 感謝の意を表します



10 月 23 日 (日)  



お客様は 秋の好天故か怒濤の如く 比例しないガイドの人数。

8時55分 セット完了しました。
63段目で ウロチョロしていた若い人 意を決した様子で 券売口に。

「名古屋から車で来た。9時開場とあったので 時間前で 入れるか躊躇した」でも 気持ちよく 「どうぞ」と言われ ホッとしたと。
中々 聞き上手です。
資料館もガイドをしてね と。 (通常はビデオ見ている人の邪魔になるのでガイドをしません)

綱宗公の副葬品での鏡 珍しい とは意識していませんでした。
「あなたは 1日何回 鏡をみます?」と 尋ね なぜ 珍しいか 理解して頂きました。

政宗公の兜の前立ては 半月です。「何故 水平でなく 又 左右正対照で無いのか?」
よい 質問を頂きました。

終わったら10時10分でした。瑞鳳殿で個人のお客様で 75分は 最近では 無い記録です。


冬外套着用のバスガイド嬢 「ボラガイドさんいませんかー」連呼しながら登って来ました。
「九州は福岡の10人衆です」 丁度 終わった所で本殿前から始めました。、

頼んだガイド嬢 何時何分迄を言わずに 消えてしまいました。「ボラガイドにお客様を預けた」と安堵したのでしょうか?

竹に雀 径20mm位のバッチを着けています。旦那衆の感じですが。
 話せば いつまでも聞いてくれる様子。


10時50分 涅槃門前に 帰りつきました。ほっ 腰かけた途端
ご婦人から「ガイドできます?」 「ハイ」

「みなさん ガイド頼みました。いかがですか」と 大声で不特定多数のお客様を集まました。
後で 「自分が頼んだ」と 集金するのでは?と思いました。

なぜ。堂々たる体格で 真っ黒い大きいサングラスをかけ、低音で響く声です。
ビビリながらガイドしました。
目玉の動きが見えない眼鏡の方は苦手です。表情が読み取れないからです。


11時30分 30代早々の男性10余。
ガイドいる とあるが 頼む・頼まないと討議を始めました。

「無料です。30分で」   安堵の表情。 有料か 無料か 時間は? これが迷う要因です。
「無料です。30分で」 の掛け声 有効のようです。


「第8回 瑞鳳殿秋の能楽」が 14時から善応殿前広場で催されます。
あかとんぼ邑のAさんが出演されます。空腹を感じないので 鑑賞しようと思いました。

が、出演の老若男女の皆様 袴姿で 続々大型車両で乗り入れて来ます。駐車場 オバーフローしています。
職員数名が 整理をしています。

催事にご迷惑かけられません。希望を断念 K副会長との 打ち合わせは そこそこに 下山しました。



10 月 22 日 (土)  



仙台藩志会主催 歴史探訪会 「伊達氏発祥の地を訪ねる」に参加しました。

訪ねた所 所感等

 1.朝宗公墓所 

  伊達家始祖 常陸入道中村念西朝宗公の墓で、伊達家公認で、参勤交代の途中 必ず参拝したそうです。

  伊達氏発祥の地は、本地桑折町と 保原町の高子岡、梁川町の梁川城とする 3説がある。
  鎌倉時代の東山道等からして本地桑折町が正しいだろうと 案内された国見町教育員会笠松金次氏が力説しました。

  敷地内に 新設された墓碑の後方に、大きい自然石がポツンとあります。これが本来の墓碑との事。
  本来の墓本物か ? それは発掘調査をしないといけないが、地主が承諾しないので出来ないとの事。

  伊達家墓所の地所が伊達家所有で無い事はありえるか? 質問された方がいました。
  あかとんぼの推測ですが、1945年以降の(お家の事情)でしょう。詮索しても何ら益の無い話と思います。


 2.12代成宗公墓所

  墓碑があると言われる松蔵寺迄 案内されました。しかし、墓碑には案内されませんでした。
  案内されたのは、松蔵寺と99歳で矍鑠した現役住職でした。

  「長寿の住職にあやかりたい ついては ツーショット写真を あかとんぼ のカメラで撮影しなさい」との高齢女性がいました。
  この女性 30年後 写真をみて ニッコリされるでしょう。長寿を祈願致します。

  今一つ案内されたのは、松蔵寺前 冨塚家です。
  伊達二十四将の一人と言われた冨塚家は、延享5年(1747)に、故あり断絶しています。

  2009年02月に冨塚家末裔の名乗る方 数名と接触があり、又、別から 瑞鳳寺境内に 冨塚家の墓碑があるの情報から 
  調べた経緯があります。
  その際、冨塚家傍流が、天明6年(1763)に小坂宿 口留番所の役を命じられた 迄確認しました。

  案内された冨塚家は、口留番所の位置で 今日まで253年続いた家との事で、
  @「伊達晴宗判物(天文18年(1540)卯月21日)」と
  A「伊達政宗書状(天正15年(1587)菊月20日)」を御座敷で拝見しました。

  @476年前とA429年前の殿様からの判持・古文書です。
  約4cmに折り畳み 和紙で包み 重蓋箱に入れられていました。

  座卓に無造作に 広げられました。博物館等での古文書の扱いに比較して 「無造作 これでいいのか」と思いました。


 3.高子岡城址

  伊達家が始めて拠点とした地と言われており、何回か訪れ山頂迄登り その地形の特有性を確認した所です。
  今回、岡の登り口で 国見町教育員会笠松金次氏の説明で終わりました。

  亀岡八幡神社口からは 数分の登りです。山頂が見えていますのに、山頂まで案内されなかったは誠に残念でした。何の現地探訪か?


 4.梁川八幡宮

  永観2年(984)創建で、伊達66郷の総社として伊達家の篤い庇護をうけた。天正10年(1582)4月 政宗公は戦勝祈願に参っています。
  と、「梁川八幡神社 關根亘禰宜」と「梁川歴史の学び舎・すごろく会 5人」の方々が 懇切に説明してくれました。

  「 關根亘禰宜」から 政宗公が寄進した「菊紋」があるとの事で、別途 案内頂き 拝見・撮影しました。
  「菊弁は 何弁でしょうか」に 「17弁」と返ってきました。

  「政宗公の御霊屋(瑞鳳殿)には 政宗公が秀吉から拝領したと伝えられる「菊紋」が飾られています。16弁の単葉です」と伝えました。

  梁川歴史の学び舎・すごろく会の皆様の ガイド振りは 同じボラガイドとして参考になりました。
  会長金垣節子様と名刺を交換しました。
  90分後 まだバス乗車中 御礼のメールを頂きました。瑞鳳殿での再会を期待する旨 メールしました。


 5.大枝城址

 応永20年(1413)に伊達家8代宗遠三男孫三郎宗行が居城した大枝城址を 阿武隈川対岸から遠望。
 大條家20代伊達宗行氏が、城の規模、立地、目的等を解説。

 本地は、阿武隈川の川港で、上流からの荷を揚げ、税金を貸し、ここから丸森に陸送し、大型船に積み替えた。
 丸森に陸送したのは、途中 「サバネ」と呼ぶ 狭隘箇所があり 船の航行が不可能であった故である。
 旨の説明が 国見町教育員会笠松金次氏からありました。

 最上川の新庄の手前に 「サバネ」と呼ぶ地名があります。大河の狭隘箇所を「サバネ」と呼ぶのか?宿題です。


 6.朝宗公夫人墓所

 福聚寺住職の案内で、焼香・参拝を。

 朝宗公夫人は結城氏の出身であります。
 生年・没年は不明です。

 この時代 武将は単身赴任が通例と思うが 何ゆえ 伊達まで来たのか?朝宗公の墓所とかくも離れているのはなぜか?

 現在の五輪塔は、文政4年(1821)に伊達家が再建したもので、旧塔2ケが寄りそうてありました。
 梁川産の赤石の柵 墓前の伊達家と明示した石柱があります。

 国見町教育員会笠松金次氏の説明によれば、「朝宗公の墓所を向いて建てられている。が、朝宗公はこちらを向いていない」です。 
 夫婦仲 睦ましくない といいたいのdしょうか?

 ここは、文政4年(1821)に伊達家が再建したもの、整備されています。
 朝宗公の墓所に参勤交代の道中の都度参拝されたの割に、補修工事せず、自然石のママは理解できない。


 7.阿津賀志山防塁

 文治5年(1189) 源頼朝の奥州侵攻の際 阿津賀志山から阿武隈川まで築かれた 長大二重堀構造の土塁。
 大木戸に現存する土塁を発掘調査に参加した国見町教育員会笠松金次氏外が 資料を配布 説明されました。

 既に 日暮ました。


おわり

朝から日没まで 終日 ご案内・解説してくださいました国見町教育員会笠松金次氏ほか 皆様に 厚くお礼申し上げます。 

 
  



10 月 21 日 (金)  



テレビを見ました。

20時 BS日テレの番組「ぶらぶらの美術・博物館 秘仏と独眼竜政宗お宝」です。
現在 三井記念美術館特別展「松島瑞巌寺と伊達政宗」を、清水眞澄館長 他 有識者の解説で 放映されました。

五大堂の五大明王佛像については、33年に1回の開帳の際 見れても 実眼では見落とす箇所等を拡大、詳細に解説されました。

政宗公御木像については、兜は鉄製である。右眼は如何に表現されているか、足 履物は どうなっているか?等、
瑞巌寺の博物館青龍殿で 御木像に拝謁した際 気が付かない見落としていた 箇所を丁寧に解説されました。

三井記念美術館に行きたいと思いつつ 行けずにいます。
行っても これまで詳細なガイドは得られないでしょう。今晩は 良かった。



10 月 18 日 (火)  



生涯学習団体に無料ガイド


登米市迫公民館健康倶楽部 35人様
10時 瑞鳳寺山門から 妙運界廟まで110分のガイド。お客様もガイドも 満足感が得られる時間です。

担当のゴトー主事から 再三に 照会・確認の電話がありました。
本日は写真入り8頁の資料を作成・持参されました。

会員にアンケートをしたら 瑞鳳殿(経ケ峰)の希望が多数でした。
それで、ここ瑞鳳殿が主体で後は 昼食・買い物(道の駅)のみです。
時間に余裕があります。ゆっくり・丁寧にガイドをして下さい のお話でした。


本日のガイドのほぼ全部を SNさんが担当されました。SNさんはメリハリのあるゆっくりした口調でガイドをされました。
表現内容にも配慮され 高齢者の方々は 非常に聞きやすい わかり易かった と思います。

SNさん曰く 「日本語を理解する外国人に 早口では理解できない、適度のスピードでは理解できると云われて 納得し 実践している」
あかとんぼ 高齢になり 若い人の早口には 付いていけません。

これです。高齢者と外国人には 早口でない適度のスピードで ガイドをする。
あかとんぼ 収穫 になりました。


あかとんぼ がガイドをしたのは、
1.瑞鳳寺由来 瑞巌寺との関係
2.表参道 数えて頂きま、何故 62段か
3.再建芳名録
4.奉納灯籠
5.感仙殿に登れない人に感仙殿地区
です。

オリンピックのボート会場 長沼 の近辺の方々です。
ウキウキされ いきなり語られるか 期待しましてが 意外に冷静でした。

天正19(1591)年6月20日 政宗公は葛西・大崎一揆の拠点 佐沼城を落としています。その時の敗者を埋葬して塚を築いています。
瑞鳳殿再建で 宮城県の寄付250百万円に 佐沼が選挙区の先生が 歴史と選挙民の感情を考えれば と反対したと聞いています。

再建芳名録には 迫町が150万円で 上位に名を連ねています。

再建芳名録前で これを語りました。 反応は 冷静でした。

奉納灯籠で
「右上2番に位置する石灯篭は 亘理伯耆守宗根 家格 一家 佐沼要害預が寄進したものです。
佐沼の領主 皆様の殿様が寄進されたものです。

2011年3月11日の大地震の際 石灯篭の笠と玉が 今 休まれている 皆様の足元まで 飛びました。(写真を提示)
皆様も元気ですが 殿様は 極楽に行かれても 元気ですね」  ニッコリされていました。


佐沼の 要害(鹿ケ城)址と博物館は 訪れています。
伊達(亘理)家の 霊屋と墓碑は 健在ですと言われました。 今度 お詣りします。

生涯学習で依頼があったら 依頼先の 地理・歴史を調べて 望みます。これが楽しみです。今日も 楽しかったです。



10 月 17 日 (月)  



仙台城大手門 復元

本日の河北新報朝刊1面に、復元のネックは迂回路の確保で 旨の 東北大学丸山重直教授の案が掲載されました。

これまでも 大手門の図面はあるので 技術的に再建は容易である。
ただ、大手門を入った所の 利用形態が替わり、門の位置が道路交差点になった。
この解決策が示されなかった事が 復元運動の隘路と聞いていました。

丸山重直教授は、中嶋跡の作業道路の活用を提案しています。
之まで発表された復元計画を見るに 今回の提案は 誰でも納得出来る 案のようです。

1985年に、仙台市博物館は 仙台城館および周辺建築復元考 を発表しています。

1999年には、仙台商工会議所仙台城復元委員会は 仙台城復元基本計画 を発表しています。
復元の為の期成会設立まで 図式化され 県・市・商工会議所・瑞鳳殿に仙台藩志会が組織の中核と記載されています。

当初は 仙台開府400年記念事業と 捉えてでした。故 活動は、休止状態ですが、今回の提案を起爆剤として 来夏の 政宗公生誕450年祭まで 進展のある事を期待します。


参考
仙台城復元基本計画 大手門関係計数

歴史的経過
 建築的特徴は桃山時代(柱間寸法)もの。

規模・構造
1.構造 木造二階建 入母屋造 瓦葺

2.平面  桁行           梁間       面積
 1階   64.95尺(19.68m)  22.32(6.76)  133.09u
 2階   64.98尺(19.69m)  25.99(7.87)  155.05u
 床面積                        288.10u

3.高さ 
 軒高  27.15尺」(8.23m)
 鷹さ  約12.5m

4.備考  平面寸法高さ等 実測図による

5.工事費概算 約20億円(1999年積算)



10 月 16 日 (日)  



千客万来

9時 御当主が涅槃門で 中高生から盛年男女 30〜40名に説明されておられました。
相当のVIPのお客様と推察しました。

なぜ、 早朝から御当主 自らのガイドは破格です。
お客様は、加藤有華バレー教室の方々と推察しました。

御当主原作の「伊達政宗が愛した異国の女性(ジュリア)」を2004年に公演しています。
11月6日 仙台で「伊達政宗が愛した異国の女性(ジュリア)ハイライト」 の公演があります。
事前の御挨拶の参拝と推察しました。

加藤有華様はお姉様と 5月24日 政宗公御命日法要に 欠かさず参列されています。
又、公演のご案内を頂いた事あります。
御挨拶しようと思いましたが、何故か敵いませんでした。 公演のご盛会を祈ります。


中華民国台湾省の20代の青少年20余人を ガイドしました。

拝殿から涅槃門を撮影していたお嬢さんに 「紅葉は 綺麗です。京都に負けません」と話しかけた。 
会話が 何かしら 異質です。「どちらから?」  「ハイ 台湾」とかえってきました。

その後 涅槃門前で 友人と話していましたので、「私の日本語でよければ 皆さをガイドを致します」
「はい お爺さんの日本語なら 後続の皆 わかる」 でガイドをしました。

しかし 風習・歴史・年齢の異なる方々に 瑞鳳殿の特徴・特質を如何に伝えるか 悩みながらガイドしました。

A4版 美麗の観光パンフレットを持って居ました。見せて貰いました。
瑞鳳殿紹介写真が 数枚ありました。撮影角度が 日本のパンフレットと異なりました。新鮮でした。



その後、南部領の親娘、東京高齢者の三世代、群馬県高崎市の方々ほか 連続し 12時体力限界で 終了。


(公財)仙台観光国際協会からの緊急連絡に その対応策をK副会長と協議。



10 月 15 日 (土)  



ガイド 2.5組

0.5組とは 何ぞや?
タクシー氏に案内されたお客様です。 トボトボと戻って来ました。元気がありません。

「(参拝)ありがとうございます。どちらからお出でになったのですか?」
「愛媛 松山からです」 
 
「松山は 松平様ですね。宇和島では 無かったですか? 
宇和島の殿様は 伊達家です。側室との間の長男 秀宗公が 宇和島伊達家10万石の初代です。今 お詣りした 政宗公の政治力です。

隣町 吉田は 宇和島伊達家の別家 3万石で、浅野内匠頭が勅使供応でミスった時の 相方 院使供応を無事勤めています。
松山から宇和島まで 現在1時間位でしょう。宇和島にも どうぞお越しください」

「運転手さん こんな話しませんでした。ガイド頼めば よかったわ」

以上が 0.5組の顛末です。

あと2組は 北海道一円と関東圏の10人前後の団体でした。



会運営の打ち合わせ、仙台藩志会幹部会があり11時40分でガイドを終了。
「オイソガシシですね」と言われた。年寄りの冷や水。



10 月 14 日 (金)  



仙台(櫻川)を復活する市民の会 発足の集い に参加

四ツ谷用水本流の内、通町から梅田川までの区間は 1660〜1703年に開削され、桜並木があり 櫻川と称された。
今回 東北大学農学部構内が 民間企業に売却される。

仙台市都市計画によれば、北六番丁側に5mの歩道状空地が位置つけられる。

ここに延長150mの水路を 地主の民間企業に設置させ 管理させようとする 虫の良い提案です。

「言うだけ」の人が 何度の発言していました。発言したら責任を持って。

会則も代表者・世話役の選任もなく、入会申し込みも取らず、会が発足したのか 運動出来るのか 不思議だ。

10月1日に参加した「仙台最後の大名屋敷跡の活用策を考えるシンポジウム」も 今日と同じ 語るのみの会合でした。
結論を求め、それに向けて 一致団結邁進する の無い会合でした。市民運動とはこんなものかな?



10 月 13 日 (木)  



校外学習 「郷土を愛する歴史の会」 略称「富澤大学」

行先
1.福島県新地町
  講師 新地町教育委員会佐藤主事
  内容 @ 役場屋上より3.11被災状況と古来よりの地形の説明。
      A 昭和の先進住宅(久留米絣の家)見学
      B 新地城址 遠望(バス乗入不可)
      C 三貫地遺跡 人骨多数発見された貝塚 (縄文土器破片・貝化石採取)

2.相馬市
  講師 相馬観光協会 X氏 (職名・氏名語らず)
  内容 @ 中村城址
      A 相馬中村神社


3.南相馬市
  講師 ボランティアガイド イナガキ氏 (3.11津波生残)
  内容 @ 櫻井古墳
      A 相馬野馬追祭場


あかとんぼ 感想
1.普段の講座は、70〜80人参加の盛会な講座ながら、26人の参加? 和気藹々
 あかとんぼ非会員ながら「〇〇」が認められ 参加特認

2.新地は元々 伊達家領であったが、何故か 福島県になった。(戊辰の役の報復?)
 行政上 冷遇されている? 県境を境に道路幅員が違う。

3.伊達家領であった時代 伊達家の教育投資史跡「観海堂」は流失した。今回案内されなかった。
 Uさんと訪れており、残念な思い。

4.相馬領の人々の相馬家贔屓は当然かも。 だが、伊達家に攻められた、虐められたの.相馬市・南相馬市の講師の連呼は 如何なものか?

5.松川浦で昼食。「新鮮な魚が売り」で楽しみ。世話役は期待しないでと念押しを再三。
 供された膳の魚介は 新鮮美味であった。

 店の案内に「仙台市場から仕入れた水産物 安全安心な魚介類を使用し提供」とありました。
 世話役の弁はここにあったのか? 魚の揚がらない漁港なのか? 人影はまばらであった。  考え込む問題。

6.相馬中村神社の神馬像の腹一杯 九曜紋が描かれています。
 「伊達家の家紋だ。相馬家は伊達家から許さて?」と叫んだ人がいました。偶々 相馬市の講師の耳に入らず 騒乱になりませんでした。

 伊達家と相馬家は親戚ですが 戦乱に明け暮れた中でもあります。家紋の使用を許す中ではありません。
 伊達家の九曜紋は1600年代 細川家から許されたもの。相馬家はそれ以前から使用しています。

7.日本が大陸と地つなぎ時代から現代の史跡までの学習でした。勉強になりました。



10 月 10 日 (月)  



俗称 「明治青年大学史学部」 校外学習に参加。

学習先 会津若松・・・滝澤本陣・御薬園・渋川問屋・阿弥陀寺・恵日寺
      飯盛山・鶴ケ城址等 観光定番コースは一切寄らず。

講師  明治青年大学史学部長 大泉強氏
     仙台市博物館学芸普及室長 菅野正道氏

講義  大泉強氏

     地球が出来た時代から松平容保までの歴史を。
     特にクイズ形式で、次項も講義

     @ 会津は、何故評価されなかったか?
     A 保科から松平に変わったのはいつか?

     B 会津・港を意味する津 どうして?
     C 若松の名前になったのは?

     D 黒川城から鶴ケ城に変わったのは?
     E 会津名物 鰊 海が無いのに?


     菅野正道氏

     学習先概要を濃縮した資料で 理解容易に。
     特にクイズ形式で、次項も講義

     @ 仙台藩にも御薬園があったか?
     A なぜ藩は薬園を作ったか?
     
     B 会津若松城下と仙台城下 と大きく異ななる点は?
     C 白石城は一国一城の例外であったが、他の藩では?

推薦  菅野正道氏は 本日訪れませんが 是非と 勧められた先は、

     @ 福島県立博物館
     A 芦名家墓所

     B 高徳寺
     C 諏訪神社

     D 摺上原古戦場
     E 猪苗代城址

     (松平家墓所の推薦はありませんでした)

感想  学者の講義直後 現物に接するは 理解容易 目から鱗が落ちる でした。
     (瑞鳳殿でも 無料ガイドを 利活用をお勧めします)

     滝澤本陣跡 屋根は葺き替え整備され 一新されたに安堵。
     管理運営は 個人の様子 如何なものか?

     滝澤本陣跡・御薬園跡の150年まえの戊辰の役での侵攻軍の暴虐行為の痕跡を保存・表示していたには 驚き。

     政宗公騎馬像は大東亜戦争末期に出陣し 馬と下半身を失い凱旋されました。
     弥陀寺の大仏様も出陣されましたが、70年経過しても帰還されませんでした。石積の台座が虚しく大仏の帰りを待っていました。
     佛様に供養とは 無いものでしょうか?

     2011年初夏訪れた際、 鶴ケ城址等に町中に人車が見えませんでした。観光施設を訪れませんでしたが 今日は人車が多数でした。
     慶賀です。



10 月 9 日 (日)  



連休中日

お客様の動き 違います。
バス 9時30分頃から 連続 6〜7台入りました。

1台50人満席であれば、300〜350人です。熟練したバスガイドが誘導していましたから 流れはスムースでした。
でも、一般個人のお客様は本殿前には 上がれず 待機の状態が一時ありました。

未確認情報です。
日本の某社が 全国の支社・営業所の役職員700名余を仙台に集めた。市内のホテル 数軒に分宿し、本日は文化コースを選択された人々が瑞鳳殿に参拝に見えた。そうです。

秋保温泉を含めた仙台市内に 700人宿泊出来るホテルは無いでしょうか?
識者は 即決 無い の答えでした。さて、仙台市内での 1晩の収容人数は 何人でしょうか?


タクシー氏と 何人かと顔なじみになりました。
今度 独立し 個人タクシー 1人1社になりましたと挨拶され 名刺を頂いた事があります。
ガイド内容が正確な 女性観光タクシー氏います。最近 お目にかかれず どうしたのか 按じて居ましたら 本日 みえました。お元気でした。良かったです。


本日 ガイドをしたお客様の性別。全員 20〜40台の女性ばがりでした。不思議。
私は お客様を選びません。頼まれた方に素直に応じています。


河北新報 隔週連載 千葉真弓 作
独眼竜政宗  132話 天下の戦

本日掲載 ご覧なりましたか?
政宗公が秀吉に 小田原で臣下の礼 をとる有名な場面です。

映画・テレビでの画面とは 趣が異なります。
河北新報ニュースサイト「河北新報オンラインニュース」でご覧出来ます。どうぞ。



10 月 8 日 (土)  



予報より早めの雨、気温はグングン下がっていきます。
雨コートを余分に着用しまして 助かりました。「寒い」と冷感を訴える人いました・晩秋そして初冬が まもなく。

三連休の初日 るーぷるバスでのお客様 続々と。傘を持参されています。安堵です。

5組程 ガイドしましたが。

高齢の御夫妻、年季の入った奥様は 配偶者を前面に押し立て 巧みなリモコン操作をされています。
質問・注文を 夫にさせます。上手です。

女の生き方は それでは駄目 自分が積極的に発言しなくては の方います。結構な事です。

本日 夫婦 同時にバラバラ 関連の無い事を 質問・注文される高齢の御夫妻に遭遇しました。
夫と婦と どちらを選び 優先的に 応えるべきでしょうか? 

本殿で政宗公御木像を語りだしたら 婦が「ハイどーも」と申されました。
ガイド内容に興味が無いのか?いずれ満足されない故の ストップサインと理解し 終わりました。

夫が「おわりか?」に  「いや 語る事柄ありますが、奥様から 要らないいわれまして」
即、ショボンとされました。 高齢御夫妻の力関係 如実でした。


最後のお客様 親娘です。
 
「以前に父と お詣りに来ました。その際 この陣羽織の方に 矢張りガイドして頂きました。父は元気に 石段を昇り降りしました。数年前98歳で亡くなりました」と語りました。

「その父は、仙台育ちで 幼少時八幡宮の境内で遊んだ。瑞鳳殿の近所?」と 申しました。
「この近所に 八幡宮が ありますか?」

「1604年 政宗公の命で創建された 大崎八幡宮でしょう。るーぷるバスでしょうか?仙台城址の次です 石段があります」
NHKのフャミリーヒストリーの自家版 祖父を孫に伝える旅でしょうか?



田村家研修
現在 実施評価を Kさんが集計中です。本日 口頭で ありましたのは

1.往路バスでの事前説明のお陰で 現地での説明・現物を理解できた。
2.現地まちなかガイド 駆け足の速歩で、追いつくと出発で 解説が聞けなかった。

3.予想外に 歩行距離があり 足腰に響いた。



10 月 7 日 (金)  



一関 田村家居館

現地ガイドの会会長のご案内を頂き非常に勉強になりました。


「日本から城が消える」 加藤理文 著を 読んでいる最中でした。

徳川幕府崩壊の際、城は193、陣屋は127、要害は20合計340城(森山英一・明治維新 廃城一覧)と記載されています。
版籍奉還で政府所有となり、管理は知判事となったが財政事情から放置された。

1873(明治6)年太政官は
陸軍省に「全国の城郭陣屋等存続を定め存置の地所建物木石等陸軍省に管轄せしむ」
大蔵省に「全国の城郭陣屋等存続を定め存置の地所建物木石等大蔵省に管轄せしむ」
と布告した。略して 「廃城令」ともいわれる。

軍用する城郭陣屋以外は廃城し大蔵省に引継、売却する の趣旨でした。


この意識で 田村家居館を理解していました。

居館に住まいしていた田村家は、1871(明治4)年 命により 東京芝愛宕下(旧上屋敷)に移りました。
居館は、一関県県庁となり、裁判所・郡役所になり、現在 公園と盛岡地方裁判所一関支部の敷地になっています。


今回 居館 建物配置図を頂きました。

居住区に 門の表示はありませんが番所の表示があります。位置的に 門があったと推定されます。
政務区に 表門と裏門の表示があります。中門の表示はありません。

中門は 大正10年代に 毛越寺に移され 現在 山門となっています。

表門の位置は、政府系金融機関店舗で 現場まで ご案内頂きました。当然 痕跡皆無です。
裏門は移築され 存置していると 現所有者に交渉され ご案内頂きました。感謝申し上げます。


只 あかとんぼ 

1.材質・腐食度合から、1873(明治6)年 太政官布告 「廃城令」「城郭取壊令」以前の門には見られない。
2.毛越寺山門(居館中門)に類似している。

から 瑞鳳寺山門(伊達家品川屋敷門)同様 模して建てられたものを取得、移築したものではと みました。

本物であれば、少なくとも 一関市の文化財に指定され 図書で紹介されると思います。

 赤とんぼの聞き違いか? 説明者は 時の流れを超越し 説明されたか?
精査します。


心残り

居館の居住区に 大きな池(心字池)がありました。現在の公園にもあります。現一関市長の肝いりで復元したものと聞きました。
会員に現地で 紹介が洩れました。心残りです。



10 月 5 日 (水)  



研修会

伊達家御一門を知る・第4回 「一関藩田村家及び伊達兵部宗勝一族の御廟所と居館跡を訪ねる」
の標題で 瑞鳳殿ガイドの会の研修を 本日開催しました。

研修内容として 箇所・講師を

1.大悲山祥雲寺 (田村家菩提寺 臨済宗妙心寺派)
 講師
  一関藩志会会長   小山 信 様
  大悲山祥雲寺住職 千坂芳覚 様

 参拝・見学
  田村家墓所・・・塚迄登壇許される。集合写真撮影。
  田村記念館・・・忠宗公・房姫木像、黒漆塗蒔絵重箱等30点 一関市指定文化財を拝観。
  保性院廟・・・・・房姫廟 桃山様式 豪華精細 文化財非指定不思議の逸品を参拝。
  六角堂・・・・・・・八角形・回転式 転輪経堂。経堂を回転を許される。
  長谷観音堂・・・千手観音堂 房姫葬地の祀るを参拝。
  伊達兵部家関連墓石


2.白馬山願成寺

 参拝・見学 
  薬師如来坐像
  伊達兵部と母保性院等 墓所・・・1997年達


3.旧沼田家武家屋敷
 講師 
 いわいの里ガイドの会会長 齋藤三郎 様 以下4・5・6も

4.居館跡・城下 
 
 見学
 居館三重堀址、家老屋敷址、五間堀址等 侍屋敷区域。
 居館跡、表門跡等。

5.一関城址(釣山公園)
 
 参拝・見学
 古来軍事上の要塞 釣山(標高90m)山頂にて 四方眺望、田村神社参拝

6.田村家裏門
 講師 取得者末裔

7.一関市博物館
 講師
 一関市博物館副館長 相馬美貴子 様

 見学
 領地安堵状 等 

 
まとめ

 会員・顧問36人中28人に、公益財団法人瑞鳳殿学芸員渡部治子様が助言者として参加頂き、29人との最多を記録しました。
 会は20代現役から高齢者まで幅広い年齢層で構成され、待機型の無料ガイドで、完全自己責任の奉仕活動です。

 会員同士の意思疎通の充実が 会運営の要であります。

 昼食は、一関で5ケ星の「世嬉の一」レストラン個室での「一関郷土膳」は美麗であり 美味を味わい 歓談しました。
 終日の団体行動、JTBからの報奨金の配布があり、意思疎通の充実の目的も達成されたと確信。

 会配布資料は 氏家監事が資料を収集し、あかとんぼが編集し、黒田副会長が校閲監修したもので 
 経ケ峯でのガイドに即 活用出来ると自負するものです。

 事故無く 開催できましたのは、役員はじめ会員皆様の協力のお陰です。有難うございました。 
 明日からのガイド 楽しみ ましょう。       



10 月 4 日 (火)  



栗鼠による胡桃直撃
お見舞いのメールを頂き 恐縮しております。


その中に、ご先祖様の旧領が 現奥州市胆沢区で 胆沢郡史にご先祖様と家臣が記載されている、この旧領地と墳墓の地を 週末に訪れる旨のメールが ありました。
台風一過 晴天に黄金輝く田圃と紅葉の山の景を 楽しんでください。


奥州市のホームページの(歴史)を開きましたが、この方の御先祖が出て来ませんでした。

札幌市豊平区平岸地区を開拓したのは、水澤伊達家の家臣200名、殿様は病弱で不参加。
伊達家の陪臣故、士族になれなかった。悔しくて 一致団結奮励努力した旨の記載がありました。


蝦夷地開拓に 亘理・岩出山の両伊達家の外 水澤伊達家の家臣も参加しているを知りました。
この外にも 伊達家の家臣 直臣・陪臣の蝦夷地開拓の事例が ありそうです。

岩出山でも、水澤でも「士族になれなかった。悔しくて」の意の表現があります。その心情の理解です。 
あかとんぼの祖父は 嘉永年間の生まれで その履歴に 「士族」と記載しています。
しかし、生活は貧乏でした。平民は裕福な方が多かったのでは。
日々の生活には 「士族」のメリットは なかったのでは?
開拓の方々も貧乏なのに、何故 拘ったのでしょうか?



10 月 3 日 (月)  



不思議

10月1・2日 白石城址で、第5回鬼小十郎まつり が9000人が参加し開催されました。

片倉小十郎重長は、大坂の夏陣での活躍が勇猛果敢な事から 鬼小十郎 と称され、若い女性のフアン(歴女)が多くいます。
例年 「鬼小十郎が寄進した 石灯篭はどれー」と 朝早く 駆けつけて来ました。

今年は 何故か 皆無でした。歴女の熱が覚めたのでしょうか?
NHK「真田丸」の最終回が終われば 駆けつける方が増えると期待しています。



10 月 2 日 (日)  



お命頂きます

時代劇の題名?

ガチン 頭の真ん中を打たれました。頭骨にひびきました。
本殿の天女さんと宝篋印塔を新潟からの1歳児を抱いたご夫妻に、「この南面が日焼けもせず、一番 綺麗です」と語った直後です。

80歳 脳溢血 アタッタカナ? 極楽に旅たち かなと思いました。
胡桃の実の直撃です。帽子に果汁跡が残りましたが 脳には響かなかったようです。

今年は 胡桃の豊作で 鈴なりなっており 栗鼠が収穫に懸命です。若い栗鼠が「年寄ガイド 毎日 五月蠅い」と 狙ったのでしょう。
再度 仲間が狙われたら 防災ヒルメットの備え付けを 考えなくては?

控室で報告したら、SMさん
 「あかとんぼさん 良かったね。栗鼠の投じた胡桃に当るは 流れ星に当る確率です。もう 脳溢血に、車に撥ねらる等 アタル事ありません。
私 コートを新調し 外出した途端 〇〇の〇〇が天から舞い降りました。連れが (運が着いた)と喜んでいました。確かに 以来 運が付いた様です」と 言ってくださいました。


「あかとんぼさん 先日 ありがとうございます。」と 券売嬢に 支度していたら言われました。
「はっ 何?」  「あのアズキ色の花 なにと聞かれました。 スラスラ 答えましたら お客様に 喜ばれました」

朝 お客様がお出でになる前の 会話が 役立ったようです。

「あの 黄色い花 沢山付けた木 何ですか」と聞かれました。
「金木犀です。お客様 どちらから?」  「青森」  青森に金木犀無かったかな まだ 咲かないのか?

植物の 南限・北限 仙臺が境が多いのでしょうか?
「萩」南からの方は 珍しがります。北の方は なんだ? です。

感仙殿地区の高野槇  「どちらから」とガイド前にきいた情報が 説明するか しないか の判断ポイントです。



市史せんだい 2016.9号が刊行され 昨日 購入しました。
僅か100頁ですが、講演記録・研究ノート その内容の重い事。秋の夜長 読ませて頂きます。

ビッリポン

本年5月 表紙掲載の政宗公書簡 掛け軸 2幅。読者 肥前様のご厚意で 事前に拝見したものです。
2016年5月5日 仙台市博物館で 政宗公真筆と鑑定されたものです。

今回 伊達政宗文書・補遺(10)に、解説・所蔵者(氏名・所在)・写真が掲載されています。
補233.補237です。

何れ 仙台市博物館に寄付したいと申しています。さすれば、企画展「政宗公書簡」で 再び 拝見出来るでしょう。

肥前様には 市史せんだい 2016.9号は未着ですが内容は了知している旨、
併せて 三井記念美術館特別展 「松島瑞巌寺と伊達政宗」 現地仙台に 松島では 見られない 逸品ばかり とのメールを頂きました。

千葉県のM様からも お薦め頂いております。
東京・仙台間 通学している人も居るのに 老人が なぜ東京に 気軽に行けないのか?



10 月 1 日 (土)  



秋晴れ 
麓の御霊屋幼稚園 運動会。9時花火。園長先生(瑞鳳寺鎌田住職)の御挨拶。
運動会日和、お昼を食べて午後もか?
 

朝一番のお客様は お忙しい。
「何分 かかるの?」 「30〜40分頂ければ」 「それは 長い 10分で」 「ハイ」

ガイドを語る前 小さい声でブツブツ  挙句 立ち止まらず 先行します。10分でした。
お客様は満足されたでしょうが 当方は???

Oさんもブツブツ云っています。

「次のバスに乗るから20分で」 バスは20分間隔です。次のバスに乗るなら すぐバス停に急がないと。往復だけで20分要します。
ひとバス遅らせて貰いましたが ガイドをする時間 20分弱です。このようなお客様に限り 歩みは亀です。益々 時間が無くなります。と語りました。


明石からの老夫妻も、東京からの3組夫妻は オトナです。
聞くときは聞く、質問するときは質問をする。ガイドの使い方上手です。

どちらも 写真が趣味の方おりましたので、通常紹介しない 龍頭の後部から瑞鳳殿本殿を望む位置に案内しました。
ピント 合わせに苦労していました。良い写真 撮れたでしょう。


東京からの3組夫妻と 弔魂碑前で再会しました。
お昼です。 「牛タンのフルコース料理の美味い店 紹介して」と申されます。

丁度 午後の Uさん と Sさんが 来ました 食通なので替わって貰いました。


聴力が低いと思われる 御夫妻1組と 成人親子4人1組の2組が 別々に お見えになりました。

手水舎で清めておりましたので 「おはようございます」とお声がけしましたが、反応が芳しくなく 気が付きました。

秋篠宮家皇女様は手話をされるそうですが。あかとんぼは手話がダメでガイド出来ませんでした。


秋晴 11時頃 日差しが温かくなりました。
全長10cmほどの 蜥蜴(トカゲ)が 石畳みを ユウユウ 日向ぼっこしながら 横断しました。

お客様も「吉獣」と 足をとめ 眺めていました。


午後 「仙台最後の大名屋敷跡の活用策を考えるシンポジウム」に参加。

「仙台最後の大名屋敷跡」とはどこか?
青葉区大手町2番 法務省省庁別宿舎(仙臺高等裁判所裁判官宿舎)があったところで、現在 財務省所管です。

敷地面積 約5,500m2 景観重点区域指定
大町から大橋に向かう左側 河岸段丘の中程 閑静な住宅地です。

正保絵図 (1645年)によれば 石母田勘解由(一家 五千石・栗原郡高須水村(要害預)嘉永元年5月15日奉行職)の屋敷です。


30余年前 ここにこんな地があるのか 強烈な印象を持った地で、仙台城の対岸に位置し 仙臺城址の歴史的位置と景観を考えた時、本地も一体に考えるべき地と思います。

此処を どの様に 活用すか、事前勉強した有識者が勝手に 発言する会でしたが。
次回あれば、復習・勉強し 自分の考えを持って参加します。


「仙台最後の大名屋敷」の標題は 「羊頭狗肉」では?
石母田は、伊達家の5000石の家臣です。それを 大名と称して 宜しいですか?





inserted by FC2 system