2017年2月の日誌
| 前々月 | 前月 | 翌月 | 翌々月 |




2 月 28 日 (火)  



議会と政宗公生誕450年

宮城県議会、仙台市議会で 政宗公生誕450年にあたり 知事・市長の見解・施策を問う質問がなされています。


2016年9月30日宮城県議会で 相沢光哉議員が「伊達政宗公生誕450年について」として質問をされました。

要旨
1.内外に広報するに、宮城県の事業計画 特に教育・観光・地方創生等の分野に積極的に、生誕450年のロゴを冠等を使用すべき。
2.「政宗がはぐくんだ伊達な文化」が日本遺産に文化庁から認定された。29年度の取り組みは?
3.29年度に 第11回全国高等学校総合文化祭が 宮城県で初めて開催される。伊達な文化 政宗公の深い教養は刺激あるメッセージになる。教育長の所見は?

知事の回答は、

仙臺藩祖伊達政宗公は、戦国大名としての生きざまはもちろんのこと、現代につながるインフラ整備など、豊かな県土の基礎を築かれたことは、広く県民の知るところであります。また、文化芸術にも秀で政宗公の活躍した時代の豪華絢爛で、個性と国際色にもあふれた粋な文化は、このたび、日本遺産に認定されるなど、ますます評価が高まっているところであります。このように、貴重な地域資源として今日も鮮やかに息づく政宗公の功績を生誕450年の節目に改めて照らし出すことは、我々の目指す地方創生の大きな原動力になるとともに、子どもたちを始め、多くの県民の皆様にとりましても、郷土のすばらしい歴史を再発見するきっかけなるものと確信しております。
 
このほど、私から各部局長に対して、来年度は、伊達政宗公生誕450年を県を挙げて前面に押しだすように指示したところであり、今後、官民すべての関係者と手を携え、あらゆる場面を通じて、発信してまいりたいと考えております。


2017年3月2日宮城県議会で 中沢幸男議員が「伊達政宗公生誕450年について」として質問をされます。

如何なる内容の質問でしょうか?傍聴したいものです。


仙台市議会では、2月19日渡辺拓議員が「藩祖伊達政宗公生誕450年事業とVR・AR」と題して質問したら 「その回答が冷たいものであった」と翌日の河北新報が大きく報じました。

この度、質問原稿全文を入手しました。
全5問の一つが 「藩祖伊達政宗公生誕450年事業とVR・AR」でした。

要旨に絞ります。

先人は 大きな節目ごと 藩祖伊達政宗公の顕彰を如何にして来たか?

〇 藩祖伊達政宗公(没後)300年祭
1933年11月26日 伊達政宗公300年祭協賛会が内閣総理大臣斎藤實を総裁として結成された。
協賛事業は
@ 貞山公史料編纂
A 瑞鳳殿の維持保存
B 青葉神社設備の完成
C 貞山公遺物陳列館の設立

1935年5月20〜26日 青葉神社・瑞鳳殿において祭典。本丸跡に(伊達政宗公騎馬像)設置

〇 藩祖伊達政宗公生誕400年祭
1966年5月祭典。
1968年瑞鳳殿修復決定、1979年11月竣工、12月瑞鳳殿資料館開館。

〇 藩祖伊達政宗公没後350年祭
1986年5月 政宗公350年祭青菜祭 催行 感仙殿地・善応殿 再建。

先人は、政宗公回顧の大きな節目ごとに、歴史回復を期して、熟慮のうえ、周到な計画の基逐次「後世への遺産」を清美してこられたことがわかるのであります。先人のご配慮に敬服するのみであります。

藩祖伊達政宗公生誕450年の大きな節目に企画している「後世への遺産」とはいったい何か?
驚くなかれ 「博物館における特別展」と「関連グッズ販売」のみ。

藩祖伊達政宗公生誕450年は、後世に「空白の時代」として記憶されるでしょう。藩祖政宗公に申し訳が立ちませんし、後世に対する恥であります。

これに対する 冷たい回答は 入手次第 記載します。


社会の指導者層が 活発に論議して下さるは 有難いことです。



2 月 27 日 (月)  



26日補遺

群馬県からのお客様が「ここはなんですか?お寺ですか?」のお尋ね。
「ハイ ここは、お墓です。仏教(臨済宗妙心寺派)のお墓です」

「神様では 無いのですか?」
「政宗公は 1636年に佛で祀られ 1874年神に祀られ 青葉神社が創建されました」

「お詣りに行きたい。どこにあります」
お客様が 仙台駅から瑞鳳殿迄に 掻き集めた 観光パンフレットには 一切記載されていません。

「この辺が 伊達家関連のお寺が連なる北山で この道路(奥州街道)が 突き当たった所です。
バス路線から外れています。タクシーか、地下鉄東西線北仙台から徒歩でしょう」 と 説明しました。
果たして お詣りに 行かれるか?

 仙台市の観光地図・案内は 大崎八幡宮以外の神社には 冷たい と感じます。
仙臺東照宮も 話題にする機会がありますが、交通機関の説明に難儀します。


牟宇(ムウ)姫

伊達家御一門筆頭 角田・石川家に嫁がれた牟宇姫(政宗公第2息女・第9子・政宗公42歳時の子)が持参された雛人形が、角田市郷土資料館で 今年も公開されています。

幼稚園児が鑑賞した旨 NHKで報じていました。
角田市広報誌は、同腹の兄 政宗公第7男 宗高(村田城主)の牟宇姫宛 書状も併せて公開していると記載しています。

25日午後 姿を現さなかった Uさんに 「角田に行きましたネ」に ニッコリ。



2 月 26 日 (日)  



ガイド実績 ゼロ人を覚悟しました。

9時 お客様は見えました。高齢の女性客です。あかとんぼを不審者と感じたか そそくさと通り過ぎました。

続いて 20代 健全そうな男女4人。声掛けしたら 中華民国の方で 「日本語少々」と 指幅 1cm広げました。
龍頭について語り合いたいと 思いましたが 断念始ました。

続々 お客様 お出でになりますが、忙しのか? 爺様と敬遠したのか?ガイドに至りません。
ゼロ人を覚悟しました。途端に 大分県からのお嬢さん2人 「20分で」10時です。

JTB当番 故 当方の余裕時間も20分です。エキス絞り ガイドをしました。
政宗公の身長を聞かれましたので「お嬢さん 何センチ?」に 「159cm」の答え。下調べして来たのでは?
「ご遺骨での計測で 159.4cmです。ピタリ 一致しました」 に 手を取りあい 喜んでいました。
「DNAまで わかります。資料館にどうぞ」
じっくり ご覧なった様で 30分後降りてきました。

以後、JTB当番解除後 茨城県 群馬県からのお客様が続きました。ゼロ人は回避されました。

Mさん 「嬉しい事がありました。これ見てください」と 封筒を渡されました。

お客様4人とMさんが 拝殿から本殿を背景に 美麗・鮮明な写真が 縁取りされたPhoto standに。
開いて開いて3面。 4人は「M先生」で始まる感想・礼状です。

ガイド冥利に尽きる 文です。きっと 家宝に Mさんは されるでしょう。
4月の総会の席で 会員に披露して頂きたい。Mさん よろしく。





2 月 25 日 (土)  



仙台藩志会・伊達学塾

演題  仙台藩の参勤交代
講師  東北文化学園大学地域連携センター 副センター長 渡邉洋一 氏
概要
 1.参勤交代とは
 2.参勤交代の意義
 3.参勤交代の終焉
 4.仙台藩の参勤交代の始り
 5.参勤交代の員数
 6.参勤交代の費用
 7.参勤交代の効果 @政治史的見地 A社会経済的見地
 8.参勤交代の弊害


あかとんぼ 私語

1.渡邉洋一氏は、2012年2月に「仙台藩の江戸屋敷」と題して講演をしており、伊達学塾では2回目。
 江戸屋敷と参勤交代は、表裏一体で、今回で完結?

2.2016年2月に「仙台藩の参勤交代 仙台から江戸へ360キロ」と題する 著書を刊行されています。
 講座前 紹介し 頒布したら 瞬時 持ち込み全冊 完売しました。

3.参加者は、1月に負けましたが 会場定員の71パーセント92人でした。

 昨日 仙台市南部での講演は、会場と同時 満席になりました。
 それ以後の来場者には 入場制限・立承知無・資料無配布でした。
 遠路はるばるの来場した者に 冷たい対応では?



2 月 23 日 (木)  



東京に残る伊達政宗公ゆかりの地巡り

仙台市は 標題のA4版 四つ折りの パンフレットを制作し、瑞鳳殿で配布しています。

紹介しているのは、
1.仙台藩外櫻田上屋敷跡
2.仙台堀
3.仙台堀川
4.仙台藩芝口上屋敷(浜屋敷)跡
5.鹽竈神社・塩竈公園
6.仙台藩麻布下屋敷跡
7.仙台藩品川下屋敷跡
8.正覚寺
9.浅岡飯たきの井

以上が 伊達政宗とは に始り 案内図付き 簡潔に解説されています。
上京の折 散策に最適です。

詳しい内容は、「東京に残る政宗公ゆかりの地」で検索をお勧め致します



2 月 21 日 (火)  



奥羽仕置(宇都宮仕置)

天正18(1590)年7月26日 奥羽仕置第1陣を 秀吉は宇都宮仕置を行っています。
政宗公は最上義光と共に仕置の補佐・案内を命じられています。本格的奥羽仕置の始りです。

仙台市博物館学芸普及室長菅野正道先生
「宇都宮での秀吉と政宗  奥羽の戦国が終わった日」と題して講演されます。

仔細は
2月25日(土)14時から 宇都宮市役所14階大会議室で講演されます。
主催は、「よみがえれ!宇都宮城」市民の会事務局。会費は300円。
申込は、電話・028-632-2989 Email u55002200@city.utsunomiya.tochigi.jp


政宗公は天正18年6月5日 小田原に参陣、豊臣秀吉政権下に服属しました。

6月14日小田原を出発、25日黒川城に帰着。
7月10日頃、木村清久、浅野正勝に黒川城を明渡、米澤城に入りました。

7月26日 豊臣秀吉は宇都宮城に入りました。白河・黒川城間の道普請を命ぜられていた政宗公は同日宇都宮に遅着しました。
正に、政宗公の転機の第二幕の始りです。

宇都宮城跡で 菅野正道先生の講演「宇都宮での秀吉と政宗  奥羽の戦国が終わった日」で聴けるとは 至福の一時では?

1月末 菅野先生からご案内を頂きました。
菅野先生追っかけ隊としては 是非参加したい所すが、同日同時刻 仙台藩志会の公開講座で、運営担当としては これを放棄できません。

残念ながら 宇都宮での講演聴講は断念しました。


仙台藩志会の公開講座は、
演題  仙台藩の参勤交代
講師  宮城県歴史研究会会長 渡邉洋一 先生
会場  戦災復興記念館
時刻  14時
会費  700円
申込  022-392-7729

 



2 月 20 日 (月)  



伊達領か? 南部領か?

18日 瑞鳳殿再建資金芳名録を熱心に見ている親子(40代と中学生?)が 居ました。
「祖父(おじい)さんの お名前を探しているのですか?瑞鳳殿再建時に 再建資金を寄付された方の名簿で 伊達家領内に限らず 全世界からご寄付がありました」 に 名簿の見直しを始めました。

岩手県釜石市か来た。仙台市博物館で 伊達家領内の絵図が公開されていると聞いた。

自分達の住む所が 伊達領であったはずであるが、現在の行政区画では 南部領の区域である。それは何故か知りたく来た。
が 休館中であった。残念であり、時間に余裕が出来たので ここ瑞鳳殿に来た。
(暇つぶし?)・・・瑞鳳殿、政宗公に 興味が無いとガイドは断られました。



11日の まちなか博物館講座で(南部口 釜石一揆)が語られ、あかとんぼなりに復習したのが、14日の日誌です。

一揆鎮圧の根拠地、狐崎城跡の所在は、岩手県釜石市浜町1 釜石湾の北側の山地 未整備で熊が出ると云われる所でした。


伊達領は、胆沢郡、江刺郡、気仙郡で これに隣接する 和賀郡、上閉伊郡が南部領です。釜石市は上閉伊郡です。

2009年に北上市立博物館では、「南部領伊達領境塚展」を開催しております。
その図録 掲載図(岩手県教育委員会・北上市教育委員会{南部伊達両藩藩境-北上川以東の部}1980より転載)に 境塚が詳細に記載されています。

これにより 50000分の1地形図に 併せて 町村境を みました。
(伊達領であった筈であるが、現在の行政区画では 南部領の区域である)は、 
釜石市唐荷(トウニ)町でした。

1955(昭和30)年4月1日気仙郡唐荷村は、釜石市、上閉伊郡甲子村・鵜住い住居村・栗橋村と 廃し、その区域をもって釜石市を設置しています。郡単位を超えた 広域合併です。


これまで、R45,R4号線を 震災以後も 幾たびか通過しています。
が、南部領と伊達領の境を 意識したことはありませんでした。


北上市立博物館では、藩境の紛争は、水利権と鉱山権の獲得にあると論じています。
米作地であり 金鉱山が数あり 理解できます。

南部領と津軽領の藩境塚(野辺地町)は 如何なる利権が あったのでしょうか? 




2 月 19 日 (日)  



風花が あかとんぼ屋敷を舞いました。山の西側は吹雪でしょう。
瑞鳳殿本殿前の風は、剃刀で肌を切る感覚の冷たさです。

9時 函館の壮年男性15人と八戸のバス会社の嬢です。
ガイド嬢 疲れたのか? 「イタイタ」 「ガイドは専門の人では」 と振ってきました。

ガイド嬢は 対価を得てガイドをしています。プロです。 ボラガイドは 対価を得ていません。アマチュアです。
プロがアマチュアに 丸投げは 社会通念上 如何かと思います。
でも、 頼まれまる内が ハナです。にこやかに引き受けました。

結果的に 感仙殿地区まで ガイドをしました。

お客様の希望に答えられなかったのは、喫煙の場所の提供です。
瑞鳳殿の参拝が終わった時点で 「煙草吸いたい」でした。
「全山禁煙です」  なんか それからの感仙殿地区に移動は 元気が無くなった様でした。


手水舎の吐水龍に 2歳女児が興味津々です。
「これは 昭和の龍です。上に 江戸時代寛永14年生まれで 国宝であった龍頭がありますよ」

祖母 「無かった。見て来なかった」で ご案内しました。
「ウー 知らなかった。昔からあったかしら?」
「仙台の方ですか?」「ウン この瑞鳳殿の再建が始まった頃 霊屋下 穴蔵地蔵様の足元に住まいしていました」
この後 爺様・婆様の昔話が始まりました。



昨日 「奥州・仙台の謎時シリーズ2 伊達政宗卿 2.26事件と騎馬像の謎」と題する 地元学応援団 佐々木伸 著 が送られてきました。

昨年末、「高橋是清翁の筆なる石碑が2本ある筈だ」と訊ねて来られたお客さがいました。

「あります。2本ではなく (國寶 伊達政宗 伊達忠宗 御廟)と記され 1本です」と案内しました。
仙台市役所の観光・地域おこし等行政の要職を務められた方で その出自は水澤伊達家家臣の末裔らしいです。

「高橋是清翁の人生・功績を知る人が少なくなり訪ねて来る人が少なくなった。お出で頂き また、広報誌を刊行されるとは 有難いことです。
ついては、石碑前に仙台市は案内板を建てられ、植栽が繁茂し 視界を妨げ気味です。改善をして頂きたい」と申し上げました。

「本に お話と写真を掲載したいが 如何?」に 「どうぞ 枯れ木も山の賑わいです」と答えました。
数回の校正を得て 刊行され 有料(@700)・無料併せて 送付頂きました。

伊達政宗公に関わる 高橋是清翁を知る 最適の入門書です。



2 月 18 日 (土)  



梅 開花のたより チラホラ。
瑞鳳殿の臥龍梅の蕾は 硬いです。


潟^ゼンの田中善一社長が9時前、公益財団法人瑞鳳殿にお見えになりました。
用務を済ませ 待機中のあかとんぼ に「お寒い中ご苦労様です。お客様 沢山おいでになりますか」と声をかけて下さいました。

容姿・物腰から 仙台財界の指導者とお見受けしましたが 何処のどなたか わからずで 後 券売嬢に確認しました。

タゼンさんは、ホームページに
「当社の初代善蔵は、慶長元年(1596)、伊達政宗公により御飾職(銅の彫金工)として大阪は田中の在から召抱えられました。岩出山や仙台の町づくり、青葉城築城に際しての功労により柳町(一番町)に住まいを賜ったとされ、これを創業としています」と記しています。

創業421年仙台で最古の老舗です。
拝殿内 本殿前 左右の大香炉は 先代社長が寄進したものです。
2011年3月11日地震で 左 香炉の正面 「三引両」の家紋 打撲傷を負いまして、現在 潟^ゼンが自社工場で修理中です。

そのタゼン社長に「ガイドします」と言えば失礼でしょう。冷汗ものでしたでしょう。

その後、岐阜、東京、南部領からと お客様が 連続しました。


今日は、
伊治城築城1250年祭、
東北学院文学部史学科熊谷公男教授の「古代蝦夷の実像を求めて」と題する公開講座、
東北工業大学 ライフデザイン学部 小山 祐司教授の「仙台城〜お城でござる〜」 と題する公開講座、
仙台郷土研究会公開講演会
全日・午後の同時刻 に開催されました。ガイド仲間のFさんにも 誘われました。が、仙台藩志会常任理事会と競合し、断念しました。



2 月 17 日 (金)  



文久二年仙台城下絵図

昨日 仙台市博物館学芸普及室長菅野正道先生は、明治青年大学史学部講座に出席者に 御褒美(?)にA4版カラー印刷して 下付されました。

この絵図は 斎藤報恩会から仙台市博物館に寄贈されたもので、2016年11月11日〜12月27日まで 企画展 斎藤報恩会寄贈の名品 で展示されたものです。この絵図を目的に 何回か 入館しました。

目録解説に、

文久二年仙台城下絵図 「蘭光」落款 1幅 文久二年(1862)9月  縦87.0 横159.4
仙台城下を西から俯瞰し、街並みを描いた絵図。

左下に「文久二年壬鮪戌菊月中旬写之」とある。落款の「蘭光」は不詳。

画面の上が東、右が南に当り、元寺小路を東端、南材木町を西南端、奥羽街道と大町の通りを中心に描いている。

画面右下の建物が大手門で、右上部に藩主廟所のある経ケ峯、愛宕神社がある。

城下の街区が明確であり、廣瀬川の段丘崖など地形的な特徴や、街路に面した町屋や武家屋敷の門・塀・屋敷林までもが詳細に描かれている。
また、町方の仏堂(柳町の大日如来など)や神社(春日神社・松尾神社など)がその本尊・神名を記した幟を掲げた姿で描かれていることも特徴といえる。

と記載されています。


この絵図の原寸大コピーが 券売口売店に 掲示されています。解説文が無く 理解できないか?見る人は 皆無に等しいです。

瑞鳳殿の入場券の下絵が この絵図です。

右上部に 経ケ峯瑞鳳殿と その位置に記載されています。
又、左側に

入りそめて くにゆたかなる みぎりとや 千代とかぎらじ せんだいのまつ

と政宗公自筆の和歌が 記されています。

あかとんぼ はお客様に 和歌を読み上げ 築城・開府 262年後の城下を描いた絵図ですと 政宗公の意図 想いを伝えています。

この 文久二年仙台城下絵図は 特段 思い込みの深い絵図です。
菅野先生の意図は さだかでありませんが あかとんぼ には 御褒美(?)に感じました。有難うございました。


2日日誌 追記しました。



2 月 16 日 (木)  



明治青年大学史学部

演題 仙台城下の町割りをひもとく
講師 仙台市博物館学芸普及室長 菅野正道先生

概要
0.仙台城下の成立と変遷
0..仙台城下の地名原則
0.仙台城下の景観
0.仙台城下の基本構造(特徴)
0.他の城下町との比較
0.政宗公の真意 


あかとんぼ 感

.他の城下町との比較で、

仙台は、江戸以北 最大の城下町
江戸、大坂、京、金沢、名古屋に次ぐ 

弘前 3〜3.5万、秋田 2〜3 盛岡 2〜3 山形 2〜2.5 仙台 5〜6 米沢 3〜3.5 若松2.5前後 
斎藤清治(江戸時代の都市人口 地域開発1984年9月号)

武家屋敷と町人町の配置 完全分離は、秋田、山形、米沢、若松。町人町が武家屋敷が入り込むは 仙台、盛岡、弘前。

との 以上の事は、 旅行・居住経験から 納得。

武家屋敷と町人町の配置について、

秋田(久保田)城下は、確かに完全分離でした。

お城の右側 北から南に流れる川を境に、左岸東側は上級家臣と下級家臣の屋敷町 右岸西側の北方は 中級家臣で、南方は 職能別町人町でした。

武家言葉と町人言葉 違いが1955年頃まで 残っていました。
(あかとんぼ 全県一区の高等学校に入学し知りました)
(秋田弁は 同じでありません。詳しい内容は秋田県教育庁文化財保護室のお尋ねください。2003年報告書(音声付)を刊行しています)

竿灯は 外町・町人の行事で 武家屋敷の内町からは 完全不参加でした。


仙台城下で 侍と町人で 言葉・民俗行事に 違いがあったでしょうか?



2 月 14 日 (火)  



11日日誌 まちなか博物館講座

演題「伊達政宗と北の関ケ原」 講師「仙台市博物館学芸普及室佐藤健治先生」

.関ケ原(1600年)以外でも 徳川派と豊臣派の武力衝突はあったとして、政宗公中心に、伊達・信夫口の陣、米沢口の陣、和賀一揆そして釜石一揆を説かれました。

釜石一揆は、慶長6(1601)年7月7日の出来事です。

葛西浪人鹿折信濃を張本人として浪人・金堀等 一揆。狐崎城に籠る。
政宗公 南部領境の気仙郡に古田重直、中島信貞を配備。
磐井郡東山 大肝入 白石豊後、気仙郡 大肝入 薄井 釜石住人等 加わり、海陸から攻める。
籠城の者 161人討取る。鼻 家康の意向で南部家に。
(講演概要)


仙台市史年表慶長6(1601)年の項には、
1月11日 仙台城普請開始、同日 城下の屋敷割行う
3月5日  近江国5000石 家康に安堵される。
4月14日 政宗公 仙台城に入る。
9月10日 政宗公 岩出山を発ち、江戸経由 伏見に10月上旬着。家康 政宗公に江戸に屋敷与える事約す。
12月    仙台城と城下を結ぶ 仙台橋 架橋される。

一切 釜石一揆が記されていません。

人物叢書「伊達政宗」 小林清治著、岩手県の歴史 山川出版社版にも 記載ありません。
仙臺人名大辞書に 古田重直、中島信貞の記載はありません。


狐崎城跡の所在は、岩手県釜石市浜町1 釜石湾の北側の山地 未整備で熊が出ると云われる所です。


係る 辺鄙な地 南部領を 政宗公が 何故 討伐軍を派遣したのか?
何故 南部家が 鎮圧に出動しなかったのか?

和賀一揆同様な 政宗公の野心の発露では?
伊達家関係に記録が 少ないのは 何故か?

今度 佐藤健治先生にお会いしたら お尋ねします。



2 月 12 日 (日)  



1週間ぶりです。新鮮。

9時早々 2組登って来ました。
内1組は 中腹の温泉旅館に宿泊されたお客様。
札幌から東京に転勤になり、家財道具は別便で移動中、自分達は車で南下中。

「札幌と東京の中間にある大都会仙臺、その仙台を築かれた伊達政宗公の霊廟をお詣りせず 東京に向かえない」
誠に、感涙 こぼれる ご挨拶。時間をかけてお詣りをして下さいました。


10時 京都からのお嬢さん2人。ホテルから歩いてきたそうです。元気です。
歴女 政宗公入門編クラス。
京都の社寺仏閣に疎く、伊達者、伊達男の語源、文禄元(1592)年3月の京都での観閲式等は 存じていませんでしたが、
貪欲に質問され これまた時間をかけてお詣りをして下さいました。
伊達政宗公検定があれば 1級に合格できるでしょう。


11時前、屈強な体格の7人。早々に 自己紹介がありました。
「自分達は、伊達家1万石 陣屋のあった龍ケ崎から来ました」

「横綱 稀勢の里が義務教育を受けた松葉小・長山中の学区は 伊達家龍ケ崎でしょう。どうして龍ケ崎の人々は 横綱の地と 声を大きくしないの?」 

「皆 知っている事今更。一番若い子 関取遠藤の同期生です」 (この地方は 国産相撲取りの地かな)」

「伊達家1万石 陣屋のあった龍ケ崎から来ました」と自己紹介する方々です。
政宗公始め歴代公が訪れた事、伊達家史跡(寛永14(1641)年忠宗公創建の愛宕神社」にも詳しいです。色々語ります。

2009年10月16日 龍ケ崎市を あかとんぼは 訪れました。龍ケ崎市歴史民俗資料館 湯原武学芸員に 陣屋跡始め伊達家関係史跡をご案内を、又、龍ケ崎で一番の料亭で 市長と親しく懇談の機会を頂きました。感謝です。

その際 市長から「伊達領以前からの文化を大切にしています。わざわざ 龍の文字、難しい文字を使用しています。小学生にその思いを直接伝えるべく、順次 、教室で懇談しています。この思いから 62分の1 龍ケ崎市ですが、仙臺との交流を深めていきたいと思います。ついては、仙臺七夕の飾りを頂けるように関係機関に伝えて頂きたい」と ご挨拶を頂ております。

この事を伝えると 市長と湯原武学芸員に報告するからと 一同とあかとんぼ表裏で 集合写真を撮影しました。


龍ケ崎の女性 師岡家 たけ は 忠宗公の側室となり 宮床伊達家の祖 宗房のご生母となりました。
師岡家の墓所は、龍ケ崎市 龍峰山大統寺にあります。側室たけ の墓所は 宮床伊達家の菩提寺覚照寺に所在します。

「宮床の覚照寺にも 参拝されますか?」 「この次」 そうでしょう。


11時40分頃 福岡からのご婦人。
歴史には詳しく無いとの事。確かにそうでした。 NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」ご存知ありませんでした。
桃山様式 豪華絢爛 からガイドをしました。

本日 日本語圏外 2組を 見かけましたが 沈黙。
昨日は ThaiLanndから 多数の方が 参拝に見えたそうです。

本日は意外と寒気が厳しく、一時 頭痛がしました。大事に至らず安堵ですが 次回から お湯を持参します。



2 月 11 日 (土)  



建国記念の日
1967年紀元節が名前を変え 復活しました。本日は皇紀2676年です。

バス停 「バスダイヤが乱れている。表示時刻のとおり運行されて居ない」と 土曜日ダイヤを見てブツブツ言って人 多々います。
「今日は 祝日です」に ほぼ全員 ポカンとしています。祝日(建国記念の日)の意識がありません。普通に土曜日の感覚です。
誠に遺憾であります。


東北大学東北アジア研究センター
「歴史資料学と地域史研究」(幕末維新期の日本と世界)と題する公開講座(学会)が 東北大学川内キャンパスで開催されました。

地下鉄東西線仙台駅エレベーター内から 身体堅固長身の露西亜人(人目 個性的で)男女6人と一緒になり、同じ車内、川内駅下車、会場等棟、エレベーターとついてきます。結果論 会場まで 案内したことになります。

公開講座(学会)が始まりました。来賓挨拶に並んだ人を見てびっくり、結果論案内した露西亜人、正真正銘の露西亜人で、露西亜国立ノビスック大学の教授・研究生でした。
冒頭とトリが女性で 日本語で挨拶されました。

さすがにと言うか これが 当たり前か 東北大学の先生以外 他大学、他国の先生の 研究発表が行われました。

開会冒頭 記録・撮影は自由であるが、聴いた事は発表しない様に と申し渡されました。記録は此処まで。
東北大学を代表する 友田昌宏先生の講演は 幕末 伊達家内部の動向を理解するに 参考になりました。


まちなか博物館講座

演題  伊達政宗と北の関ケ原
講師  仙台市博物館学芸普及室 佐藤健治 先生
会場  東北工業大学 一番町ロビー2階ホール
時刻  13時30分から15時まで

概要  聴いた事の発表禁止はありませんでしたので下記の通り。

0.仙臺開府までの政宗公の動向
1.関ケ原(1600年)以外でも 徳川派と豊臣派の武力衝突はあった。
2.政宗公中心に見る
3.会津攻めから関ヶ原の戦い
4.南口(伊達・信夫口)の陣 第一弾 白石城攻め
5.最上口(米沢口)の陣 慶長出羽合戦
6.南口(伊達・信夫口)の陣 第二弾 福島攻撃
7.南部口 和賀一揆
8.南口(伊達・信夫口)の陣 なくなった会津攻め
9.南部口 釜石一揆
0.百万石お墨付き フイの真相は?


13時30分開講です。早いかと思いましたが 13時前 到着しました。既に120人満席です。講師直前数席のみ空席です。
椅子のみ 卓無で 100人位の会場です。13時 完全満席

資料は300余部印刷で完全配布。100人程 入場・聴講を断念したそうです。(2017.02.17加筆) 

仙台市博物館は休館中で 仙台市博物館の先生方の講座が聴けない 飢餓状態の高齢者が 押し掛けたようです。
入場制限を行いません。 100人位が立ち席承知で 入場した様です。大盛況でした。

佐藤健治先生の講演は初めての聴講ですが、高齢者にも理解容易に語られ 満足致しました。

アンケート これまで 年齢区分 70歳まででした。80歳以上 多数と気が付かれたか 80歳の年齢区分が新設されました。

瑞鳳殿ガイドの会の仲間 9人はいました。東北大学アジア研究センターと 掛け持ちは2人でした。

講演に 東北工業大学理事長が見え 隣席でした。学長時代 本一番町ロビーを開設したと申されました。
市民に開放し かつ 大学の広報活動に資すろとは 学者を超えた経営者です。




2 月 10 日 (金)  



講座案内

仙台は 生涯学習講座 土日を中心に 平日も 各団体が競って開催しています。

あかとんぼは 歴史講座 日本史・江戸時代に限定し 参加しています。
あかとんぼ 同様の思考の方 300人位 います。
仙台市博物館ホールで200席欠けます。仙台藩志会は130人、市民センターは30〜50人です。

当然 参加申込の競争は 苛烈です。
仙台市博物館・市民センターでの講座 情報を入手した時点 2ケ月前でも 往復葉書で申込ます。
申込 当選しない事には 参加できません。
早すぎて 忘れて 再度 申し込む事もあります。この場合 共に落選します。

(何月何日 何時から 電話か 窓口で 先着順で受け付けます)は、これには 参ります。
300人との 先着 の競争です。用事があり 指定時間から 1時間遅れて 満席 断られた経験暫しです。

3月10日13時30分から 宮城野区中央市民文化センターで 菅野正道先生が「歴史から探る宮城野魅力」と題して 講演されます。
バージョンアップ されると聞いています。

申込が 1ケ月前の 今日10時です。
9時59分30秒を過ぎたところで 電話しました。繋がりました。
(宮城野区中央市民文化センターのKです)
(3月10日の歴史講座申込です)
(まだ 1分あります)と 切られかけました。応答している内 センターの時計で10時になったらしく 受付られました。安堵


歴史講は 第3土曜日の午後に集中する傾向があります。
参加する方は 悩みます。鼎の軽重が問われます。

仙台圏 300人の歴史講座愛好者のため、競合しない様に 主催者間で調整出来ないでしょうか。
仙台市博物館と仙台藩志会では 10月の講座を 調整しました。





2 月 9 日 (木)  



子孫が語る刀剣と秘話 伊達政宗にとって刀とは家を存続させる象徴〈週刊朝日〉dot.?2/8(水) 11:30配信
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20170207-00000051-sasahi-life


 戦国武将の中で異彩を放っている伊達政宗。(※写真はイメージ)
「独眼竜」という風貌と知名度、秀吉を翻弄した知力と胆力、仙台藩62万石の礎を築いた統治能力と先見性、どれひとつとっても戦国武将の中で異彩を放っている伊達政宗。

 幼少時に天然痘にかかり右目の視力を失い、そのために母親に疎まれたと言われている。成人した政宗は獅子奮迅の戦いで、出羽国と陸奥国の覇者になった。

 天正18(1590)年、秀吉が小田原征伐を開始。秀吉から参戦要請の書状が政宗の元に何通も届いたが、同盟していた北条氏のために応じなかった。

 しかし小田原で秀吉の兵力を目の当たりにした政宗は、秀吉側につくことを決断する。

 その折の光景をドラマや講談では、「政宗は白装束を着て秀吉に謁見した」とされているが、史実はどうだったのだろうか。関ケ原の戦いで家康の東軍に与(くみ)した結果、仙台藩(伊達藩)は62万石の雄藩へと上りつめていく。
その政宗の愛刀は鶴丸国永と鎬(しのぎ)藤四郎

前者は平安時代の刀工・国永の作。2尺5寸9分半(78.6センチ)、反り2.7センチ。細身で、反りの高い優美な立ち姿の、『享保名物帳』に記載される名物。

後者の鎬藤四郎は、8寸8分(26.6センチ)の短刀で、慶長3(1598)年、秀吉の死後、遺物として政宗に贈られた。

 政宗から数えて18代目の伊達家当主伊達泰宗さんは鎬藤四郎について次のようなエピソードを明かしてくれた。

「鎬藤四郎は2代将軍秀忠饗応の時、幕府世話役である内藤外記が“上様に鎬藤四郎吉光の脇差を進物すべし”と伝えました。これに対し政宗公は“この脇差は太閤様の形見として拝領の物なり、いかに人去り世移り追従を思うとも御恩を翻すことなし、だからこそ公方様へも進物せず”と一喝し、きっぱり断りました」

 あと10年早く生まれていれば天下人になれた、といわれる政宗の反骨精神あふれるもの言いだ。

「戦国の世を生き抜いた政宗公にとって刀は戦の道具であり、裏返せば家を存続させるための象徴でもあります。泰平の世を生まんがために命を懸けた先人の魂たる刀を、まるで道具のように軽々しく扱う風潮を政宗公は許せなかったのでしょう」(伊達泰宗さん)

一方の鶴丸国永は明治天皇の仙台巡幸の際に、第14代藩主伊達宗基から明治天皇に献上され、現在は天皇家が所有している。鶴丸の号の由来は不明だが、失われた太刀拵(こしらえ)に「鶴」の文様があったからとも言われている。鶴に丸の文様は日本で古くから使われてきたもので、日本航空がロゴマークに採用しているのはご存じのとおりだ。

「政宗公が身近に置いた刀剣は少なかったようです。そして刀を人前に曝(さら)したり、見せびらかすようなこともありませんでした。刀剣について伊達家ではそのように認識しており、私も同じ思いです」(同)

 政宗は刀剣について多くを語らなかったが、家系と世の安寧を守る守護神と信じていたのだろう。(ライター・植草信和、本誌 鮎川哲也)

以上のとおり Yahoo Japauニュースで配信されていますと さる方からお知らせがありました。


また、次のような たより もありました。
数年前までは、戦国バサラとかが流行ってたかもだけど、今の流行りは「刀剣乱舞」です。
刀の化身?みたいな「刀剣男子」が活躍するものらしい。

政宗の「燭台切光忠」は、「キャンドルカッターピカチュウ」と呼ばれてるらしい。
刀と言っても、政宗の「振分髪正宗」は多分出てこない。草薙剣も七支刀も稲荷山鉄剣も出てこないらしい。
あかとんぼ さん、このゲーム、知ってる?

また、「東京・江戸博物館での「戦国時代展」の刀剣に たくさん群がっていた」とmailも頂きました。

仙台藩志会には、刀剣が趣味で、刀剣美術館を運営されている方がおります。また薀蓄を傾け 仙台藩志会会報に 何頁でも書きますと申される御仁もいます。

刀剣は 高齢者の世界と 理解していたら 若い女性まで 形を変え 蔓延しているようです。


あかとんぼは

鎬藤四郎 は、忠宗公が将軍家光に献上し、火災で焼失した事は知っていました。
格納した箱は将軍家光に献上されず、1945年頃 酒田・本間家に移り、後 本間美術館所蔵となりました。
同館で拝見しました。美術・工藝品として見事でした。現在は 東京上野の博物館に寄託されたと聞いています。 

鶴丸国永 は、今回 初めて知りました。皇室は 公開してくれる事あるでしょうか?
刀剣について 無知文盲ですが 鶴丸国永 拝見したいものです。



2 月 6 日 (月)  



瑞鳳殿ガイドの会役員会(定例会)

会の基本は ガイドする事を楽しむにあります。

会員は、社会で幾多の試練を乗り越えた高齢者が 構成員の主体となっております。
過去の経験・知識に基づいた幾多の建設的意見を寄せられます。

議会と異なり 決定は多数決でありません。意を尽くし万人が満足出来る方向に纏めることが求められています。
本日も この方向で 2時間 真剣に討議しました。


でガイドの時間がありませんでした。
若い女性が 集団で参拝に見えて居ました。ガイド出来なかったは残念でした。
Aさんが 今日も ガイドをしてくれていました。感謝です。


春節

昨日迄 中国大陸からのお客様が 沢山 参拝に見えました。
10人程の団体で 英語が通ずる人が居る場合 英語でのガイドをしております。

家族旅行・少人数で ガイドを求める方がいます。「日本語専門です」とお断りします。
中国語でガイドが出来る仲間 一人います。若い故か ガイド活動実績が 少ないです。

お断りは ガイドとして悔しいです。 各国語で 対応できる様にならなければと思います。

スペイン語、中国語 出来る方 ご一緒に ガイドをしませんか。

券売口で パンフレット 4国語(英語・台湾・大陸・朝鮮半島)のどれを希望するか 選択見本を提示しています。
親切が 少し進歩しました。



今2月下旬から スマホで 多国語で案内する装置が稼働します。

役員会で報告しましたら、出席全役員 スマホを所有していませんでした。
参拝されるお客様 全員がスマホを所持されていません。

「ガイドは 不要になりますね」に、 「案内内容が掲示説明に限定されます」との事でした。
平成の御世 が続く限り ガイドの出番が あるようです。


木綿

昨日 木綿について記載しましたら、読者A様から 次の内容のメールを頂きました。

「作者の時代考証に敬意表する。永井路子著 「姫の戦国」に、「木綿」が日本では拡がり始めたところであると記載されていました。時代的には、今川義元の1世代前といったところです」

ご教示に感謝致します。



2 月 5 日 (日)  



朝 起こされるました。 老人には珍しい寝過ごす です。

瑞鳳殿には、始発のバスが到着する前に 到着・設営が出来ました。
9時20分北海道からの壮年男性3人 トランクをガラガラ 引っ張り上がって来ました。

北海道は帯広からの方々でした。
「今年の積雪は 幾何でしょうか?」に 「札幌が〇〇cmの時 帯広は〇〇cm 帯広は太平洋側気候で 札幌は 日本海側気候です」
(要は 帯広は 気候に恵まれた土地と 言いたい様子)

「帯広の 甘納豆 美味しいですね」 に 地元名産品 突然褒められ 驚愕の様子。
以後 和気藹々。

歴史・建築・化学等に高い知識を持たれる方々でした。この様な事柄がわだいに。

1.涅槃門の屋根の構造 断面を見られたい 他に見られない特殊な構造である。
2.拝殿・資料館の雨落ちのコンクリートが 何故 青いか? この元素ご存知か?

3.資料館の屋根 緑青 見事であるが なぜ かくも 見事になったか? そのわけは。
4.熊本県、秋田県の知事は 殿様の末裔である。伊達家のご当主は 宮城家知事を目指さないのか?

5.仙臺は 伊達家・伊達政宗 一辺倒であるが 他にも 斯様な地があるだろうか?



今日も 仲間9人です。大先生が門前を固めています。余裕を生じましたので 感仙殿地区に 回りました。

追分まで 降りましたら、御子様御廟から お客様出てきました。
御子様御廟から 参拝を始めるお客様は珍しいです。

「霊気を感じませんでした」から 62段を数えて頂き その意味を語り 瑞鳳殿本殿まで ご案内しました。
お客様は 神奈川県横須賀市からで、地元の人限定の話題を提供されました。

最後に
「仙台・宮城県には 伊達姓が 多いですか?芸人にも居ますネ。ウチの方は 今川は居ませんが 北条姓が多いです」



地元紙投書欄 特集「私とアメリカ」に 仲間の Kさんの投書が 掲載されました。
今日は ガイドに見えませんでした。次回 一緒になった時 続きを 聴きたいものです。


河北新報連載 独眼竜政宗 第141話 本日掲載になりました。意外は事が描かれています。
「織田信長公から輝宗様が頂いた 木綿の反物じゃ」と 保春院が 愛姫に渡す場面です。

この時代 木綿は珍しく高級品で、信長から輝宗に届いた際 伊達家中が驚いた と 注釈が付いています。
この注釈が無ければ ナンドと 思い 見過ごしたでしょう。

作者 千葉真弓 さん ありがとうございました。



2 月 4 日 (土)  



立春

寒さの峠 越えたでしょうか 雪で無く雨です。
啓蟄は未だですが ガイド仲間は 冬休みが終わり 続々と。
午前 9人が待機しました。JTB当番の2人を残して 間もなく全員 お客様と瑞鳳殿本殿に。

10時30分 JTB待機時間前に 9時からの90分に ガイドの機会が無いと 「ツキが落ちる」「無縁の世界」で 待機解除になっても ガイドの機会が 巡って来ない事が 多々あります。

今日は 無縁地獄 を覚悟をしたら お客様 お出でなりました。

最初は 若い女性。
東北学院大学文学部史学科1年生。
「それでは 菊池慶子教授のゼミですか?」 「ゼミは3年生から」
「毎年5月に 菊池慶子教授のゼミが ここ経ケ峰を訪れます。2時間程語っています。是非 菊池慶子教授のゼミの入られ お出でなるのをお待ち致しております」と 勧誘 バージョンアップでガイドをしました。

「親元が 福島県の中通りの〇〇で 母方の家紋が 九曜紋です」 と 問わらる前に語りました。
九曜紋 とは 旧家でしょう。

続いて 壮年男性。
東京からと。香水では無い 独特の香りを発しています。
ご当主は「香道」の先生ですから 香りの根源 わかるでしょうが、只 初めての独特の香りでした。
最後に 「ガイドをして貰い 良かった 瑞鳳殿の認識を新たにした」の お言葉をいただきました。
真剣に聞き この様な感想を述べられるとは お医者さんでしょうか。


本日 このお二人のお陰で 無縁地獄 に落ちませんでした。感謝致します。


多数の仲間も 午後から 学会・民俗行事に 参加すると 昼近く 三々五々 姿が消えました。
あかとんぼ は仙台藩志会役員会に参加。個別・本会議と3時間は疲れました。



2 月 3 日 (金)  



「君の名は?」 ・・・「 数寄屋橋」

1952年4月から始まったNHK連続放送劇は「君の名は」
 一世を風靡。銭湯ががら空きになったと言われた悲恋物語。(現在では 古典?)

主人公 春樹と真知子が1945年3月9日東京大空襲避難の際での 出逢いの場が 東京・有楽町・数寄屋橋

1951年に江戸城外堀が埋められ 橋は無くなり、「 数寄屋橋 交差点」 と地名が残りました。 

この橋は、1629年 徳川幕府の命で 政宗公が架橋したのが初代で、この際 桝形門も建設されました。


橋の名の由来は、数寄屋頭 の屋敷があったから。
数寄屋頭とは、 数寄屋坊主 の 頭 で、その職務は、 江戸城 内 の 茶室 や 茶道具 の 管理・修繕 を 行い、 また 数寄屋坊主 を 指揮 し、 将軍 や 大名 への 城中 での 喫茶 の 世話 を 行う 役職。


以上を、大石学著 「地名で読む江戸の町」で 知りました。

歯痛で あかとんぼ屋敷籠






2 月 2 日 (木)  



吉村 吉之 氏

独眼竜政宗 (NHK大河ドラマ)のの製作者
2014年6月28日 仙台市博物館で「時代考証学会第4回フォーラムin仙台」で(伊達政宗と時代劇メデイア地域の歴史・文化を描き、伝えること)が開催されました。
NHKを退職された吉村氏は BS-TBSで制作された「臥竜の天」と 併せ 「二つの独眼竜政宗」と題して講演されました。

あかとんぼ は、講師の端くれとして、二食を共にし 親しく謦咳に接すました。

吉村氏は、独眼竜政宗で 主演 渡辺謙さんが 着用した 五色乱星の陣羽織を仙台市(観光交流課)に寄贈しました。
あかとんぼ は、歴史的価値から 仙台市博物館では 展示出来ないでしょうから 公益財団法人瑞鳳殿資料館に寄託展示されたら如何でしょうか と 仙台市観光交流課長、公益財団法人瑞鳳殿役職員に 何回か 陳情しました。
3年経過した現在 何処に保管されているか 定かでありません。

寄贈された 吉村吉之氏は 本日 亡くなられました。71歳でした。
ご冥福をお祈りいたします。



2 月 1 日 (水)  



江戸城 大手門

東京圏遊覧バスに乗った際、時間調整で 皇居周りを2周した事があります。
バスガイドは 同じことを2回 話題にしませんでした。 流石 プロです。

大手門の前を通過する際、(交通渋滞の心配? 停車しない) 「此処は、仙台の伊達政宗が作りました」 と さらりと語り通過しました。

今回 大石学先生の解説が見つかりました。

「この 大手門 は、 江戸城 本丸 への 正門 にあたり、 内 桜田・西の丸 大手 の 御門( いずれ も 千代田区) とともに 三番 所 と 呼ば れ た。
  元和 六 年( 一六 二 〇)、 伊達政宗 が 黄金 二 六 七 六 枚、 人夫 四 二 万 三 〇 〇 〇 人 余 を もっ て、 大手門 の 左右 一 三 町( 約 一 四 〇 〇 メートル) の 石垣 と 防御 用 の 空き地 で ある 枡形 を 持つ 城門 を 改修 し た。


城門 は 高麗門 と 渡 櫓 とに 分かれ、 高麗門 を くぐる と 城壁 に 囲ま れ た 四角い 広場( 枡形) が あり、 右 正面 に 渡 櫓 が 存在 する。
 警備 は、 城門 中 最も 厳重 で、 鉄砲 三 〇・弓 一 〇・長柄 槍 二 〇・持 筒 二・持 弓 二 組 を 常備 し、 一 〇 万石 以上 の 譜代大名 が 警備 に あたっ た(『 御府内 備考』)。
 
大手門 は 明暦 三年( 一六 五七) の 大火( 明暦 の 大火・振袖火事 とも) によって 全焼 し、 また 渡 櫓 も たびたび 災害 に 遭い、 第二次世界大戦 によって も 全焼 し た。 その後 昭和 四 二 年( 一 九 六 七) に 復元 さ れ た。
高麗門 と 石垣 が 現存 し て いる が、 この 門 は、 明暦 の 大火 の 翌年 に 再建 さ れ た もの で ある。

大石学. 地名で読む江戸の町 (PHP新書) (Kindle の位置No.1091-1102). PHP研究所. Kindle 版.

本書は、このほか 寛文事件の現場は この付近であると 細かに記述されています。


黄金 2676枚 とは 2676両と 理解して良いだろうか?
人夫 42万3000余人 は 成程ですが。


1月28日綱村公についての講話の中で菅野正道先生は 「5代吉村公の時に 財政は黒字化した。政宗公の時代から赤字財政であった」と語られた。

自己の領内振興に  黄金 2676枚を投ずるのは インフラ整備で 税収の増となり帰ってくるでしょうが、江戸城の門では それは 望めないでしょう。財政は赤字化するのは当然と思います。


あかとんぼが生涯学習に乗り出した頃、当時著名な郷土史家が「伊達家は裕福であるが、家康に 忠誠心を示す為 不必要な借金をした」と説かれました。

伊達家の幕府からの 借用金 は 果たして 必要の無い借金でしたでしょうか?
幕府からの借用金には、金利 利息が 付かなかったのでしょうか?

今、当時著名郷土史家の解説に ハテナ を感じています。





inserted by FC2 system