2003年11月の日誌
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11 月 30 日 (日)  



 小雨ながら終日雨でした。一時本殿もガス(雲中)に包まれました。紅葉も終わりですが霧にけぶる風情も又よろしいものがありました。
 関東圏からの若い女性4人、滅多にない風情とパチリパチリと相当枚数撮影していました。

 外国語のお嬢さん2人、台湾・韓国ですか、お國語の機械ガイドありますと案内したら、必要無いとのことで暫し、お話しました。「瀋陽から経営学を学ぶに来た留学生で、一泊二日の仙台旅行です」「ここは1636年に亡くなった伊達政宗公の御霊屋。お墓です」「天皇か」「否、天皇ではない、天皇の次に将軍がいて、その次のローカルキングです」・・1636年大陸・瀋陽地方の歴史はどうで、どの様に彼女等は理解しているか。ローカルキングの表現には我自身も首を傾げました。
 これ程の豪華華麗な御霊屋に眠る人故に「天皇?」と外国のお嬢さんに言われた政宗公は、仙台城にも、ここ涅槃門扉にも菊の大きい紋章を飾ったのは皇室を崇敬する気持ちの表現であったのでしょうか。政宗公「我が心中を理解してくれたか」と喜ばれておられるか。どうか。
 極楽・地獄の話しに至り、極楽とノートに書いて示したら、「同じ様な話し、教えを聞いています。瀋陽には建物のお墓(御廟 )は無く、石のお墓でその前に立派な拝殿があり訪れたことがある」「、日本文化の根元に大陸文化がある」等を話しました。資料館を見学後「さよなら」と声をかけてくれました。

 本殿の供花を見たご婦人から何日周期で取り替えるのか質問されました。何曜日に取り替えているのか、何時も全てに新鮮な花が供えられています。年間の花代相当額になるでしょう、デモ無駄と投書しないで下さい。これで生活している花屋さんもいる訳です。一番は祖先崇敬の表現です。

 津軽からのバスツァー今日も4台入りました。懸命に本殿を目指して直ぐ降ります。ガイドしますの声をかける余地ありません。朝から飲酒している方も居るらしく、昨日は事故があり救急車を呼んだそうです。

 善応殿でガイド中に「なぜ伊達騒動と言うのか」「三大お家騒動とは何々か」のご質問に至りました。なぜ「お家騒動で、藩騒動ではないか」。これは江戸時代には大名領は藩とは云わず「家」とか「家中」と呼ぶのが通例であった故に仙台藩で生じた御家騒動は伊達騒動と名付けられた。藩が正式名称になったのは1868年閏4月新政府が地方組織を分類するにあたり、旧幕領を「府」「県」と称し、旧大名領を「藩」と称したのがはじまりですと、昨晩「 講談社現代新書 百瀬明治著 御家騒動・江戸の権力闘争」を読んだ直後でしたのでスラスラと答えられました。

 11月最後、 靄の中にのガイドでした。今月も楽しい出合いがありました。



11 月 24 日 (月)  



 三連休最終日、昨日より参拝者が多いようです。松島・瑞厳寺と廻り最後が瑞鳳殿で締めなのでしょうか。

 瑞鳳殿から仙台城に行くコースを辿られる方、結構多いです。バスで移動されるのが普通です。そのほうが分かり易く、早いからです。でも、このコースでなく裏から簡単に行けますヨネ、その路の口まで案内して欲しいと中年のご婦人から注文されました。確かに行って行かれない事はありませんが、向山から八木山に至り、竜ノ口渓谷を渡ってのコースとなり、分かり難く、時間を要しますので、簡単にいくコースはありませんとお答えしましたら、酷くご不満の様子でした。ここ経ケ峰の地から仙台城は樹間指1本で見えます。政宗公がここを終の棲家に選択されたのも、この距離感があったのではと推察していますが、実際には広瀬川が蛇行しており二度渡らなければなりません。近い様で近くありません。ループルバス利用の方は地図を貰っており、この様な注文をされる筈がありません。この方、人並みの道を歩け無い事情があるのかナと考え込みました。

 30台の男女10人程を手水場から本殿までガイドしました。菊のご紋をガイドしたら関係する者ですの反応がありました。本殿前で全員の記念写真の際、真ん中を空けて伊達家の紋章が写る様に左右に分かれてと注文したら、「アンウン」のガイドがお気に召したらしく、右側の人々は口を大きく開け「アー」左側の人々は「ウン」と締めました。なかなかユーモァのある人達でした。資料館から出てスーと寄ってきました1人から懐紙が差し出されました。これ程、ガイドを評価して頂けたとは嬉しい限りです。「ボラガイドです。楽しんでやっています。もっと有効な所にさし上げて」と申してバックに戻して頂きました。職場仲間でもない、同期会でもない、最後まで正体不明でしたが気持ちよい団体でした。

 ご当主ご案内の背広の7人程と本殿前で遭遇しました。私のガイドを聞いてくれた方に小さい声で「あの方が伊達家こ当主です」と申したら、みなさま「世が世であれば・・・・」と申しました。背広の7人程は資料館前まで案内され、ご当主と別れたら本殿に拝礼もしないでサッサと帰られました。背広は偉いと限りません、無礼かつ勿体ない人々だなと思いました。

 今日も津軽から2回に別れてバス4台が入りました。大津波の様な感じでした。各自勝手に大声で喚きながら団塊の如く押し寄せて、汐の様にサーと引きました。波が去った後、墓前に「安東水軍」ラベルの小瓶が1本上がっていました。後から来た親娘の方「あれ何ですか、仙台土産にパパにどうかしら。ゆうべのお酒美味しかったネ」と話ししていました。ここのパパは休めなかったわけです。元気に働いて妻子を旅に出す。男子の本懐?

 トップページのモミジの写真 「とっても綺麗だ 仙台でこんな素晴らしいところがあったのか」の過分のお褒めのメールを頂きました。今日は曇天で悪条件ですが太いレンズで熱心に撮りあっている夫婦がいました。いい写真撮れたでしょうか。

 メモ
 安東水軍
 安東氏は青森県中世史上の惑星であり、出自について疑問が多い。十三湊(トサミナト)に活躍したと云われるのが安東水軍。十三湊は現在発掘調査中である。
 青森県の歴史 山川出版社 を参考にしました。

 



11 月 23 日 (日)  



 いささか寒気身に浸みる天候。連休の中日なれど参拝の方々は今一歩といった様子でした。

 朝一番の方から御霊屋本殿前で、「何が入っているか」のご質問を頂きました。それでではと一連のガイドして、最後に「本日は寒い中、遠路政宗公墓参にお出で頂きまして」と感謝を申し上げましたら、シマッタと言う顔をみせて降りていきました。どうしたのでしょう。

 親娘の方から「三引両の印のついたお椀で正月にお酒を飲んだ」のお話がありました。話としては 「現医学部の所に屋敷があって、三引両の家紋のついた盃を拝領しており、お目出度い場で使ったらしい、祖父の代に東京麹町に引っ越して、今は何も残っていない」と言うことでした。伊達家家臣録に祖先の名はあるまでは語りましたが、それ以上は語らずに、「後は何を観ましょうか」と降りていきました。この方は祖先は祖先 私は私と過去にこだわらない方なのでしょうか。

 発券窓口までフーフー言いながら登ってきた40人ばかりの団体。ガイドしようと思って近づいたら全員今来た階段を下りていきました。どうも拝観料が予想以上だったらしいです。ガイド出来なく残念な所もありましたが、ガイドしても果たして聞いて呉れたかは疑問です。結果よしとひとり慰めました。

 東京の呉服屋、又は染物屋等にて、仙台牡丹、仙台笹と云うは、伊達家の蟹牡丹と竹に雀を指していますと、18日の勉強会資料によってガイドしたら、ウーンー知っていると唸られました。

 ご婦人から「ベンガラを使用してるのネ」と執拗に確認されました。珊瑚・真珠の玉・日本画用顔料等を使用しているまでは確かですが、日本画の顔料にペンガラがあるのか、その成分も知らなかったので判りませんと答えました。ベンガラとは「印度のBengalに産した帯黄赤色の顔料、成分は酸化第二鐵」との事でした。なぜベンガラにこだわったのでしょうか。

 モミジが見事に色づきました。京都にまけていません。



11 月 17 日 (月)  



 終日 木枯らし一番が吹き、落葉の大舞踏会でした。県庁前の銀杏並木では銀杏を拾う姿が散見されました。
 藩政時代には、屋敷に生活の足しになる実のなる木を植えることが奨励されたそうです。侍屋敷がビルにマンションになったので、公の実を拾いに来るのでしょうか。

 ボランティアガイドの仲間「ぐるーぷ・よっこより」の勉強会がありました。市博物館渡辺学芸員から「寛文事件」。これは伊達騒動と称して三大御家騒動の一つであり、1658〜72年に至る藩内の政争で、事件は二つの内容に別れている。世間では混同していると、事件発生の起因を詳しく語られた。善応殿でのガイドに厚みのある内容での自信を得ました。今年の勉強会で1・2番に充実ものでした。成果を23日確認においで下さい。



11 月 16 日 (日)  



 久々に温暖な日となりました。昨年の今頃は参拝客が激減していました。今年はたくさんお詣りにみえています。紅葉は今年はまるっきり駄目です。

 津軽からのバスは今日も何台となく入りました。越後からも見えました。お客さんを先に入場させてから、ガイド嬢からガイドして云われましたが、お客さんが先行した後なのでガイド嬢と添乗員にガイドしました。メモしてましたので車中で語るのでしょうか。越後の女性はしっかりしています。
 
 福島は本宮から見えた日焼けしたご夫妻、本殿の天女さんをカメラ・ビデオと熱心に撮影していました。ビデオには私の音声も一緒に録音しますにはマイッタの一言でした。最後に「我が家は寺子屋をやっていた、二本松の殿様から鎧・具足を2組みも拝領した」と語り、ポケットから木ザワシ柿2個差し出しました。柿の大好きな私は思わず「ご馳走様」と頂きました。

 欧米系の彫の深い美人を、盛年の美人が案内していました。涅槃門・拝殿をガイドしました。お二人とも相当の素養をお持ちのようで、私の一言か゛長い会話になっていました。拝殿の扁額の真珠と珊瑚。この珊瑚は専門外の言葉であったか、和英を取り出し確認していました。適当に通訳しないで正確に通訳するとは単に美人だけでない信頼おける人と感心しました。

 タクシーは常連の方でない、初顔の方々がご案内をしていました。不慣れなのか本殿の前に立ったきりで他のお客さんの撮影に支障きたしても気付かずや、涅槃門は皇室がお出で以外は開かない等の説明をしていました。私らの反省になります。

 今日は涅槃門の敷居を踏む人が多かったです。足の長い若い人に多いのはなぜでしょう。H代表とUさんがガイドしていまして、原因分析をお願いしたいと思いましたが余裕がありませんでした。
 



11 月 9 日 (日)  



 曇りで時々小雨の寒い日でした。頭髪が薄くなった為寒気がストレートに脳に響く感じでした。
 開門と同時に津軽から奈良・神戸から多数の方々か参拝に見えました。

 奈良からの女性、昨晩20時に大阪をバスで発ち、今朝着いて直行したそうで、朝食を使いたいから拝殿を貸してくれと申し、友人と持参のオニギリ食べ始めました。今晩は秋保温泉で同級会との事でしたので、「政宗公の墓室の石材は{疑灰岩・秋保石}です。ホテルから採石場跡が見えます」とガイドしたら「今晩 参加者に話しするゾー、みんなはいつの間にか学者になったと驚くだろナ」と大喜びしていました。

 人生の達人5〜7人 北からお見えになったか外套を召していましたが、参拝の際、全員外套を脱がれました。さすがと感心しました。
 その反面、若い人達 涅槃門の敷居を踏む人が沢山おりました。全く踏まれない日もありますが、なんか今日は踏む若い人の多い日でした。

 津軽からのツァー。バス2台時間をずらして参拝に見えました。拝殿の大香炉にて、ほぼ全員が線香代を払わずに、1人2〜3本計100本近く立てられました。香炉から瑞雲がたなびいていました。その割に本殿に登壇した途端に帰っていきました。信心深いのか、どうなのか、無駄な投資をしない。誠に堅実であります。オイソガ氏でガイドする余地はありませんでした。

 オイソガ氏はたくさんいます。本殿前に立って一見して「コレダケ」と呟いて、ガイドしようとしても聞きたく無い表情で、そして物足りない風情で降りていきます。当然涅槃門の上内部の素晴らしさも見ていません。高い入場料を払われて勿体ないことです。発券所が石段の登り口付近にあれば、石段の難儀も料金の内と理解し「コレダケ」の呟きも少なくなるのでは。

 タクシーの運転手さんの案内が5〜7組もありました。勉強のため涅槃門の説明を聞かせて頂きました。初耳の事がありました。「これ(竹に雀の紋)は藩の紋、これ(九曜紋)は藩主政宗公の紋です。各藩主別々に紋を持っています」今一つ「この涅槃門の扉の上下左右の高さ、幅、厚さ、配置全てバラバラです。わからないでしょう。バラバラのものをまとめて美しく見せています」
 一行が立ち去った後に確認しました。涅槃門の扉は上下左右の高さ、幅、飾り金具とも均等です。バラバラではありませんでした。政宗公の統率力の話しをしようとして飛躍したのでしょうか。

 案内板からガイドした夫妻に子息夫妻の5人連れ、本殿迄で50分を要しました。愛姫の終焉の地墓所は何処に等のご質問があり、長時間になりました。この位聞いて頂けるならガイドする身には嬉しい限り、寒さを感じません。母親の方は越後高田の生まれだそうです。納得しました。



11 月 3 日 (月)  



 連休最終日、文化の日です。曇りですが開門早々から、参拝客は途切れる事なく続きました。

 参道登り口からガイドしたご夫妻、段数えて頂きましたが、途中で杉の樹齢等を申した為か、数は62段に至りませんでした。そのまま本殿までガイドしました。最後にデジカメを取り出し、ピタリと寄り添われ、写してくれとの事で2ケ所「本殿直ぐ前と定位置」でシャッターを押しました。映りを確認され「今日は結婚記念日、良い記念になった」と喜ばれ下段して行きました。デジカメは薄くて軽いカード型で旅行の際は最適、欲しくなりました。

 人生の達人風のご夫妻に、母親そっくりの娘さんの方、涅槃門から本殿までガイド致しました。聞いて頂けますので、最後は拝殿の椅子に腰掛け頂きガイドを致しました。男性の方足腰が幾分弱られたかな感じでしたので、ホームページを見て頂ければと娘さんに「パソコンを使っていますね」と聞いたら「父は毎日座ったきりで見ています」の返事でした。私の持論の「座ったきりに成ったら社会との接点はパソコン」を実践されている方でした。URL記載の名刺をさし上げ、今日見逃した所等をゆっくり見て頂くことにしました。

 7月14日号でご紹介した沙羅双樹「写真は四季のページにあります」の枝が紅葉し、実をつけています。30人程の中高年の同期会の団体、資料館から出てくるみんなを待っている幹事に、「この木は何でしょう、平家物語の沙羅双樹です」とお話したら、早速に集合したみなさんにご披露していました。この幹事さんは幹事留任になるのでは。

 津軽からのバス、今日は4台入りました。初日は仙台大観音、定義如来を参拝され、作並温泉宿泊で、2日目は輪玉寺、瑞鳳殿、仙台城を廻り、最後に○○蒲鉾さんのコースで12月まで毎日2〜4台のツァーだそうです。ガイド嬢は守備範囲でないらしく詳しいガイドをしないで、ツァー客の後ろを附いてきました。津軽の人は元気がよく、大きい声で語りながら競争で階段を一目散に登ります。涅槃門でガイドしますと声をかける余地がありませんでした。津軽で世話になった「あかとんぼ」としてはお礼の意味合いからもガイドしたいのですが。

 文化の日の行事として 下の瑞鳳寺では仙台市文化財課の指導の基にガイドしていました。土日もガイドしてくれれば仙台市の観光に寄与すると思いますが、この方々は無料では年に一日しか出来ないのでしょうか。
 昨日はH代表の外もみえましたが、今日はYさんと頑張りました。

 



11 月 2 日 (日)  



 まことに暖かい日です。連休中日で遠来からの参拝客が多数でした。

 東京からの三世代の方、小学校高学年の男の子。政宗公に興味をもって色々調べていると質問をしてきました。「政宗公の母親の名前は、お墓は、奥方のお名前は、お墓は」等でした。質問する姿に祖父母は目を細めて喜んで見ていました。私にとっても孫の世代、お寺の外、伊達藩独特の灰塚の所在等、真剣に答えました。昨日は会津若松、今日は仙台・松島と孫の希望に合わせた政宗コースと父親は語っていました。

 感仙殿前の涅槃門の所で、天女さんの艶姿を説明していたら、次々お出でなった老若のご婦人の方々、説明が無ければ見逃すところであったと、アレーと嬌声を上げ熱心に鑑賞されました。涅槃門の奥の感仙殿と紅葉が素晴らしいと写真を撮り始め最後に、枯れ木も山の賑わいと私をも撮って行きました。

 瑞鳳殿に比較して感仙殿等は化粧直しをしていないだけでなく、グレードがやや落ちます。二・三代目だから格差があるのかと質問される方がおります。焼失する前の御霊屋は瑞鳳殿と同様に豪華華麗なものでした、がしかし、復元の際の予算との事情で・・ここまでで大抵の方は納得して頂けます。今日は屋根の上の龍がなぜ感仙殿等に無いのかの御質問がありました。

 柏手をバンバン打っている団体がおりました。頭を垂れない方よりはよいかなと思います。リーダー格の最初の人の動作で全て決まります。

 津軽からバス4〜5台入りました。各人栄養ドリンクを手にして津軽弁で大きい声で会話しながら、階段を忙しく上り下りしていました。弘前から来たとの事で、津軽家の御霊屋・革秀寺をお詣りしていますかと聞いたら、「それナニー」の答えでした。これから仙台城ですかと聞いたら「イヤササカマヤ」の答え。今回の旅行目的はササカマの買い出しで、瑞鳳殿の参拝はこの方々にはオマケだったようです。

 昨日の駅からハイキング参加の方々はお見えになられなかった様です。



11 月 1 日 (土)  



 秋晴れの爽やかな日です。
 JR東日本主催の駅からハイキング「門前町からお屋敷町への路コース」のガイドの依頼が「ぐるーぷ・よっこより」にあり参加しました。
 仙山線東照宮駅に集合し、仙台東照宮、別当寺であった仙岳院、その傍院の延壽院を参拝し、門前町の宮町から侍屋敷町であった北一番丁を経由し、仙台で初めてでかつ私設であった都市公園の勝山公園で散会する4.8キロのコース。
 参加者の大半は新幹線で東京地区から駆けつけた人々、20余人をガイドしました。これまでガイドが付かない単なるハイキングであったので、ガイドが付いたと喜び、東照宮の由来等に政宗公の町割り、四谷用水等政宗公以来の仙台の町の歴の話しを素直に聞いてくれました。
 明日は瑞鳳殿でガイドをしておりますとご案内致しましたが、何人お出で頂けるか楽しみです。
 





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