2004年1月の日誌
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1 月 26 日 (月)  



 政宗公か政宗か。

 実は、仙台城跡整備構想の表記に当たって、仙台市教育委員会は、意見が分かれ調整に模索していると、25日の河北新報に大きく報じられています。
 城跡の沿革を記した文章などで「初代藩主・伊達政宗公」と記述したら、『公』の表現に違和感を感ずる、不適切だとの声があったためです。

 違和感を感ずる人は 何事にも違和感を感ずるでしょう。不適切と云う方は政宗公の歴史的事績を否定するのでしょうか。
 政宗公七十年の生涯の事績は、現在の倫理観で見れば全て「善」であったとは看取られないでしょう。しかしながら、戦国の世にあって奥州に安定をもたらした事実は評価すべきと思います。
 この様なことから、瑞鳳殿でガイドしている「ぐるーぷ・よっこより」の仲間は、ガイドする際「政宗公」と「公」の尊称を必ず付けています。
 「政宗公」以外の方は、各自の判断で対応しています。
 尾張や浪速の方から「なぜ、自分の殿様だけ公がついて、秀吉と呼びしてするのか」と苦情ともつかないクレームがついた事があります。でも江戸の人から「家康」でクレームはついていません。
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1 月 25 日 (日)  



 快晴温暖な日和です。参拝者は極めて少ない日でした。

 仙台市内の若者が多く、県外からの方は散見する程度。亜細亜系外国人は音声ガイドを聞いていました。

 ガイド無用でトイレの在処を聞く中高年の方々方が多く、ガイドよりもトイレ案内人になった感じ、そして瑞鳳殿のみで、感仙殿に向かう方の少ない日でした。

 本殿前で写真を撮っているペアに声をかけましたら、聞いて呉れましたので本格的にガイドしました。ガイドの中で、さりげなく居住地と姓を聞きましたら、仙台の○○と名乗りました。寶篋印塔の説明の最後に「一番若い人は22歳、○○さんと同じ歳では?」とさりげなく云ったら、銜えていた飴の棒を急いで口から取り出し「どうして歳がわかるのー」と驚嘆し、霊媒師に出合った様な驚きの顔で彼女の手を引いて慌てて降りていきました。彼は、先人が22歳で殿のお供をした、その思慮の深さに比較し、自分は飴をしゃぶりながら彼女の手を握り、先人の墓参りをしている幼さに恥じたのか、単に同じ歳に驚いたのか。私も年齢を当てたことには内心吃驚しました。
 同じ歳と云っても満年齢と数え歳と数え方の違いがあります。そこまでガイドすべきであったのか。

 23日の大雪は霊屋の屋根や樹木にどっかりと積もっています。暖気で屋根の雪が走らないか、雪が当たって怪我する人が居ては大変と、除雪担当は青空を見上げていました。
 特に善応殿地区は樹木で日陰となっており20センチ余の積雪があり、、此処の坂で親子が橇遊びをしていました。障害物が無く安全で、距離があり格好の遊び場です。周囲の住宅地でも知らない人が多いらしく、この穴場を1組み3人が独占していました。
 幼稚園年長から小学低学年向きです。



1 月 18 日 (日)  



 数日に渡った、厳しい風雪も去り、最高気温6度の温暖な天候となりました。
遠くは福岡、そして名古屋と全国各地から切れ間無く参拝にお出で頂きました。

 職場の慰安旅行風の一団が登って来ました。一瞥し下山するだろう、酒臭くないかなと見ていましたら、本殿前で「竹に雀」の家紋の金具の材質は何か。花頭窓の工芸蒔絵ははどうして貼り付けたか、プリントではないか。等の議論を始めました。拝殿の前では、柱はぼかし塗りしたのか、下地塗りの材質は何か、私には見えませんが「刷毛」の塗り方向、これはこれででよいのか等の議論になりました。
 何時ぞやは、仏壇等の秋田・川連塗りの塗師の集団が見えて、仲間内の話しを傍聞しました。今日の方々も塗師でも、対象は若干大きい物のような感じでした。
 この様な職人集団からの質問は専門的・技術的なものが多くて答えられませんが、それなりに勉強になります。

 管理職風の方から、ここは、神社か、お寺か、何かのご質問がありました。又別の方から、拝み方はどの様にすればよいかのお尋ねもありました。
 ここは、御霊屋、お墓です。拝礼の仕方はご自由にと申し上げました。

 瑞鳳寺と瑞鳳殿との関係、瑞厳寺との関係をも尋ねられた若夫婦が居られました。

 H代表のガイドをメモを取りながら熱心に聴いている5〜6人に団体がありました。一般観光の団体と異なり、何様かと眺めました。市内のタクシー会社の運転手の研修でした。この人達なら、目を白黒させる様なガイドはしないでしょう。お待ちしています。


メモ
 瑞鳳寺は瑞鳳殿が創建されたことによって、1637年10月 24日香華院「管理事務所的目的」で建立された一門格130石の寺領のお寺です。それ故、明治維新で廃寺になり、1926年再興されたお寺です。
 瑞厳寺は828年に創建され、政宗公が1609年に再興したお寺です。政宗公のお位牌が祀られてあります。政宗公の戒名は「瑞厳寺殿貞山大禅利大居士」です。正室「愛姫」御霊屋「寶華院」が境内にありますが非公開です。戒名は「陽徳院殿榮庵壽昌大姉」です。



1 月 14 日 (水)  



 今朝の地元新聞に次の様な投書が掲載されました。
表題は「質高いガイド 博物館に必要」
内容は、
ボランテイアの名札を下げた男女がタムロしていた。
1.強い訛りのある方言で
2.はっきり聞き取れない
3.展示物について誰も要領よく説明出来なかった。
4.政宗公の知識は幼稚で、TVドラマ等で素人でも知っている程度。
要は、見学の邪魔だった意欲的な若者で活性化した方がよい。
 と言うものでした。

 瑞鳳殿は参拝者と言うより、仙台唯一の観光地として訪れる方が多く、中には 政宗公も 御霊屋も知らないで、おいでなる方が多いです。この方々でガイドを聞いてくれる方々にガイドをしています。

 博物館は生涯の学習の場です。自習したものの裏付け学習に訪れる方が多いと思います。私等も答えられない質問に対する勉強の場は図書館・博物館です。浅学非才の身では博物館ガイドにはなれません。
 瑞鳳殿でガイドしていて、聞いてよかった、でなければ見落とすところであった。面白かった。のお声は聞いています。未だ、見学の邪魔だったとは云われていません。
 でも、今回のこの投書は他山の石として、ボランテイァガイドと云いながら、顧客の要望に応えるガイドとは何かと 反省の機会になりました。



1 月 12 日 (月)  



 寒さは峠を越えました。本日は成人の日の休日。三連休の最終日。参拝者は世界各地から断続的に見えました。
 政宗公の墓前で、青春の誓いを立てる盛装した成人の参拝を期待しましたが、あかとんぼが居る間は、参拝はありませんでした。

 「ガイドは有料ですか」と成人男性5〜6人の団体に声を掛けられました。神戸からお出でになったそうで、同一職場の仲間の様子で、アルコール臭していましたが真面目に聞いてくれました。これまでの経験では、同一職場の旅行でアルコール臭していた場合は、真面目に話しを聞かない傾向がありました。関西の人はしっかりしているのかナ。

 昨日までの風での落ち葉と門松の整理で、清掃担当2人で懸命の作業をしていました。木片は商品の如く綺麗に束ねられていました。「芋煮会用ですか」と聞きましたら、「正月の篝火ですー」「青竹はお盆の花竹ですかー」「−−」昨年の七夕の際、青竹を使った夜の飾り付けは幻想的でした。この竹を七夕に使用するには青いまま保存しなければなりません。無理でしょうから、何れゴミに・・・。

 天女さんの足裏の話し続きましたが、何の話だとメールがありました。
本殿の天女さんには、ほかの所の天女さんには見られない特徴があります。それは、
 「不可能な体型、通常出来ない体型をして、足裏を見せている」
 「見せないものを見せている。通常美術作品で足裏を描いたものは皆無に等しい。」
これは、ここ瑞鳳殿だけでなく、解体修理中の大崎八幡宮の天女さんにも見られます。
 H代表によれば、この足裏文化は、紀元前200年の大陸埋蔵文化財から発見されているそうで、となれば1636年の創建である瑞鳳殿の天女さんの起原は、それより1800年前に由来することになります。
 飛天文は、美しい姿で自由自在に空中を舞い、奏楽し、香を薫じ、佛を賛美供養する荘厳のための供養像として絵画、彫刻、工芸品、建築の装飾文様なとに用いられた。
 これを知っていた学者が伊達家中に居ました。それを進言した人も、進言を採用した作事奉行も偉い。瑞鳳殿を建築した二代殿様「忠宗公」は人を見る目があった。その様な後継者を育成した「政宗公」は最高の指導者であったとの、私の結論に至り、その様な想いを語っています。
 十二天女さんをクリックしてよくとご覧頂ければ幸です

オマケ
 このページで天女さんの足裏に関心を持たれた愛読者のOさんから、02年に京都東寺の黄金色の足裏の根付けをお土産に頂き、日々愛用致しております。健康で瑞鳳殿でガイド続けられるのは、これの功徳でしょう。
 Oさんからは、京都・薬師寺に国宝に指定された「佛足石」があると教えて頂きました。
 足の紋様は瑞祥文七相と言われ、月王相文、花文相文、金剛杵相文、双魚相文、寶瓶相文、螺貝相文、千幅輪相文、梵王頂相文の八つあって七相だそうです。



1 月 11 日 (日)  



 夜来の風雪は上がりましたが、極寒でした。充分に着込んで行きましたが、あまりの寒さにお昼で切り上げました。
 大河ドラマ「独眼流政宗」のラストシーンは政宗公の頭骨でした。資料館で暖を取りながら眺めたのが政宗公の頭骨のレプリカ。これらの影響からでしょうか頭内が凍結する思いの寒さでした。事務所で熱いお茶を馳走になり、蘇生した感じでした。

 朝一番の方、防寒準備万全の人生の先輩夫妻でした。仙台の人では無いと感じましたので、「ガイドしましょう」と声をかけましたら、「見ればわかるから」と断られました。なるほど、本殿までの往復5分一瞥して去っていきました。

 三連休の中日。埼玉から3組、東京から、某ツァーの団体と途切れなく連続しました。見ても見逃す、見通せない、涅槃門の透かし彫り、拝殿の扁額の絵の具、本殿の天女さん、家紋等、ポイントを簡潔にガイドしましたら熱心に聴いて、喜んで頂きました。

 今日ご案内した方々には、石段について不満を漏らした方は居ませんでした。「創建当時そのまま、370年の歴史のある石段です」に皆様、納得されていました。と申すより370年の歴史を味わっている感じでした。

 1月8日の日誌を見たH代表が「ダリの足の裏を描いた画がある」と、1978年に刊行された現代世界美術全集第25巻「ダリ」を持参されました。1971年の作品です。「人間の深層心理を追求しながら、象徴的な超現実の世界を展開していった20世紀最大のシュール・レアリアズム画家ダリ」と紹介されています。なるほど視点の相違です。足の裏は描かれていますが、私は瑞鳳殿の天女さんの足の裏が綺麗です。好きです。
 
 



1 月 8 日 (木)  



 久々の雪です。

 1月4日ガイトの際に天女さんの足裏を語られたお客様から、次のようなメールを本日頂きました。
 「 一月四日に山梨県から瑞鳳殿に訪れた母娘にガイドをしていただいた方へ、問題の絵ですが、スペインのダリ劇場美術館でしか見ることはできません。私が見たのは1999年に山梨県立美術館の特別展で見たので現在山梨県で見ることはできません。
 また、あまり有名な作品ではありません。ダリはつい最近の人なので実験的な作品が多いようです。
 瑞鳳殿が建てられたころにはやはり足の裏を描いた画家はいないようです。インターネットで解説してくれている方もいるのでぜひそちらをご覧ください。」

 早速のご教示に感謝致します。これを糧に勉強します。



1 月 4 日 (日)  



 参拝者は皆無に近い位少ないです。昼直前に雪が降り始め増えませんでした。

 NHKTVで大河ドラマ「独眼流伊達政宗」昨・今日と6時間の再放送がありました。大河ドラマの再放送希望NO1であったそうです。見る為ガイドはお昼で切り上げました。

 山梨からの親娘、聞いて頂けました。天女さんの話しになって。2200年前に発祥の文化である話から、足の裏に至りました。絵画等で足の裏を描いたものは皆無に近いのではと申したら、足の裏を描いた美術作品を「ダリ」の作品にあって親娘で鑑賞したとの事でした。何れでご覧になられたか聞き漏らしました。
 福島・裏磐梯に所在する「諸橋近代美術館」は「サルバトール・ダリの世界」を副題としています、HPで見られる所蔵作品にはありませんでした。春に雪が溶けたら訪れ、足の裏を表現した絵画・彫刻があるか見てみたいものです。
 
 人生の先輩夫婦に盛年の女性が見えました。先輩は花巻から、盛年の方は関西弁で、夫の仙台転勤で、年始の休みを親子で仙台で過ごしているそうで、実の親娘の様に息が合っていました。仙台について勉強しているとかで色々質問されました。墓室の材質は疑灰岩で秋保温泉で採れる石ですに、今晩は秋保温泉泊まりです、どの辺ですかと地図を出されました。家紋「竹に雀」・「九曜紋」についても詳細に尋ねられ、ガイドメモを開いてお話するに至りました。メモを開いてガイドする機会は少なく、ご質問は嬉しい限りでした。最後に姑に私との写真を撮らせていました。

 2日の拝礼式の集合写真、鮮明に撮れましたのでA4版に出力・持参し、御当主伊達泰宗様と殉死者末裔代表の石田様に届けて頂きたいと事務所にお願いしました。

メモ
 九曜紋についてガイドメモ記載事項
 平安時代・九曜曼陀羅。藤原家管理 伊達と細川 東西代表い゛使用許可なる
真ん中の大きい○は土星で、その真上12時のところが水星、以下時計回りに「羅」「木」「日」の順で、この紋章は古くは印度に発した星に象ったもので、又、これに佛を配して天地四方を守護するという所から九曜曼陀羅が生まれた。
 星の名称に佛名をあてると
土曜「聖観音」 水曜「弥勒」 羅候「不動」 木曜「薬師」 日曜「千手」 火曜「虚空蔵」 計都「釈迦」 金曜「阿弥陀」 月曜「勢至」 



1 月 2 日 (金)  



 温暖な日です。本日は年賀拝礼式日です。

 10時50分仙台藩志会の旗を先頭に御住職、御当主泰宗様、仙台藩志会、殉死者末裔、その他関係者の順で、特に仙台藩志会の方々は羽織袴・裃・雪駄・脇に小刀を差し、一糸乱れね隊列で62の石段を登壇。本殿で法要が行われました。

 法要後 涅槃門前で記念写真の撮影が私あかとんぼにご下命があり、謹んで撮影致しました。その撮影の栄誉を藩士の末裔にプロがおいででしょうに、伊達藩士の末裔でない一介のボランティアガイドに昨年に続き今年も下命されたのはなぜでしょう。

 撮影の後、:撃剣十番の奉納が行われました。
 11時40分瑞鳳殿での年賀拝礼式と関連行事が全て滞りなく終了しました。仙台藩志会の方々はこれから新年会だそうです。御当主は事務室に居ました。藩主だから藩志会には入らないのでしょうか。

 10時頃、本殿前で財団・瑞鳳殿の常務理事から本日の予定を教えて頂いていたら、神奈川県の川崎からの2組のご夫妻が見えました。常務理事、即、私にふりました。本日は特別な日で、本殿扉が開かれ、政宗公の御木像を直々に拝めます。又、年賀拝礼式日であって、年に2回しかない、他で見られない行列が拝見出来、年間3時間しか開扉されなく、この機会しか通れない涅槃門も通れます。仙台城は逃げていきません。ここにお時間を取られたらと申し上げたら、その気になってくれました。丁寧にガイドし、資料館を見て頂き、時間調整の上、行列を拝見、法要に参加し、涅槃門を通り抜け出来たと大変喜んで4人交互に礼を申してお帰りなりました。喜んで頂けまして嬉しい限りです。

 法要の最中、ぐるーぷ・よっこよりの先輩のM子さんが子供さんと孫さんの三世代でお出でになりました。私の賀状の写真で、「アッ本日は年賀拝礼式日だ」と思い出して、子供夫婦に孫を案内して来ました。ついてはガイドしてと申されました。師匠格の先輩の家族にガイドするはビビリましたが要点のみガイトケしました。

 気が付いたら、参拝者も式関係者も、何れの人影も見えなく、閑静な佇まいとなっていました。

 式が始まる前に 参拝者に特別な日です、行列をご覧下さいとご案内致しましたが、聞き届けず、そそくさと本殿を一瞥し降りていく方がそれなりに居りました。これは時間と金の浪費です。千載一遇の機会は活かすべきと思います。

 「いろいろ願い事してよろしいでしょうか」と法要の最中に観光客の方から聞かれましたので、願い事叶うでしょうかのお尋ねでなかったので、よろしいですよ・どうぞと申しました。自己努力しないで神仏に願うだけで、願いが叶うようでは世の中平和です。

 今日も出合いがありました。御当主と2人の写真も撮りました。
瑞鳳殿の関係者、「ぐるーぷ・よっこり」の仲間の皆様のお助けを頂き、今年も愉快な出合いを求めてガイドしたいと思います。皆様よろしくお願い致します。

メモ
「神奈川県の川崎」と表記しましたのは、仙台で川崎と申すと、1722年一門の伊達村詮二千石で入り、幕末で八代川崎伊達氏の城下であった、柴田郡川崎町を指します故です。





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