2004年6月の日誌
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6 月 28 日 (月)  



 本日は「ぐるーぷ・よっこより」の現地勉強会です。仙台城趾のガイドポイントが主題です。

 青葉城恋歌のイメージで訪れる観光の方々は、姫路城等のイメージで訪れますが、城趾ですから期待外れでガッカリされる方が多いです。
 あかとんぼがガイドする際は、広瀬川河畔から始ます。大橋を渡り、「片倉家屋敷等」に「二の丸」を指視ガイドし「三の丸」に入り、巽門、清水門、澤門、見付塀、時太鼓、本丸詰門の各跡を通る登城路を案内します。本丸からは瑞鳳殿を指先にガイドします。これで、仙台城の大きさ、石垣の少ない特異性、瑞鳳殿の位置関係をご理解頂けます。

 本日はH代表が講師で、内容を期待していますが、腰痛対応と梅雨天候に残念ながら参加を取りやめました。



6 月 27 日 (日)  



 梅雨の晴れ間、快晴でした。ても、瑞鳳殿のホラガイドは休み研修しました。

 家紋について
 五代藩主吉村公は宮床・伊達家の出身。この宮床所在の大和町の教育委員会主催で、「伊達家の家紋について」と題して仙台市博物館高橋あけみ学芸員の講話を聴講しました。
 仙台伊達家の家紋は、三引両紋、竹に雀紋、牡丹紋、蟹牡丹紋、菊紋、桐紋、九曜紋、雪薄紋の8紋である。
 これは、1705年「御紋之事吟味仕候覚」遊佐二郎左衛門好生」筆と1846年幕府に提出した書き出し「御家の御紋譜」の控えによる。というものでした。

 1879年12月発行、「伊達家史叢談」伊達邦宗著(14代当主宗基の弟、1870-1923)によれば蟹牡丹を含まずに7紋であると明記しています。
 これに基づいてガイドしてきました。今後はいかがガイドしましょうか。

 高橋講師は漆工芸品・甲冑担当である故に、主に「竹に雀」紋の変遷は複雑であるを、政宗公始歴代の藩主の武具・衣類・工芸品に描かれた家紋を例示し、説明をされた。
誠に多様に変化しており、「その時代によりそれぞれ正しいです」とガイトすべきと知りました。 これは一門宮床伊達家の場合として、例示された事によって納得しました。

 H代表にIさんUさんも参加され、日頃の勉強を基に質問されていました。家紋は馴染みがある故に瑞鳳殿でも 参拝者から色々の質問があります。勉強になりました。

 四ッ谷用水について
 政宗公は1615年頃家臣川村孫兵衛重吉に命じ、広瀬川の水を城下を貫流させて梅田川に至る工事を行っています。忠宗・綱村・吉村の各公の時代も新たな水路を開き、城下の水利の便の向上を図りました。現在、別途に上下水道が整備された事により、本流は暗渠で工業用水路になっています、支流は消失しました。この歴史遺産を後世に伝えようとする《「四ッ谷の水を街並み!」市民の会》があります。現在面影が残っている八幡地区で、何らかの形で復元し、潤いある景観の街並みにしようとする話し合いに始から参加してきました。午前に会合があり、それでこの地区のガイド要員のご指名を頂きました。でも腰痛完治したら考えます。

 ガイドの対象は 瑞鳳殿は観光客、四ッ谷用水は景観に関心ある市民となるのでしょうか。むずかしい。



6 月 23 日 (水)  



 台風一過。真夏日です。

 瑞鳳殿とガイドとの懇談会が10時30分から局長応接室で開かれました。財団からは局長、次長、主任の3人。ボラガイドからはH代表に、Iさんと私の3人です。

 瑞鳳殿でボラガイドを始めた経緯等を尋ねられ、H代表から次の様に答えました。
 「シニアネット仙台の立ち上げの経過と〔ぐるーぷ・よつこより〕が、仙台市内の史跡等の勉強会を経て、仙台市の支援と瑞鳳殿のご理解の元に、ガイドをさせて頂き5年になります。」
 「仙台市で常時ガイド出来るグループは〔ぐるーぷ・よつこより〕のみで、全国の観光客、修学旅行の担当の先生等から県や市の観光課、観光コンベション協会の紹介で、ガイド依頼を頂いております。」

 以上の外、リーフレットの活用策を始として、参拝者の方々が安全・快適に参拝し、楽しんで頂く為に、お互いの努力すべき事柄について積極・前向きに意見の交換を行いました。



6 月 20 日 (日)  



 台風接近によるものか蒸し暑いどんよりした天候です。

 開門早々、バスが連続しました。
 国内大手旅行会社の旗を持って案内するガイド嬢、間違いではないですが表現がかなり乱暴(現代日本の表現かも知れませんが)、ここ瑞鳳殿で3年も世話になっていますと、政宗公の尊厳が大変気になりまして、お断りの上補足のガイドをしました。

 5月5日に○交バスのガイド田○嬢から「再建以来補修はしていないのか」と尋ねられましたが、今日は「瑞鳳殿の扉が開くのは正月2日間なのか、2日なのか。七夕はどんなのが飾られるのか」の質問がありました。「瑞鳳殿の扉が開くのは正月2日です。七夕は一番丁等の七夕と異なり、仙台伝統の古式の飾りで飾られます。涅槃門前にクロスして、拝殿に横にと2ケ所に飾られます」と答えました。ガイド田○嬢は正確に明瞭にガイトし、巧みにお客さんを誘導しています。若い人の成長は早いものです。

 本日は参拝者が途切れる事なく続きました。タクシー利用の方も数見られました。
 ○一交○タクシー○村さんからは「菊の家紋と阿吽の龍」に付いての、ボラガイドの見解を求められました。収集した知識を整理中の感じでした。

 弔魂碑の前に若い人々が不思議そうに眺めていましたので、1868年の戊辰の役での伊達藩士等の1260名の霊を弔う為に伊達家と旧家臣等が建立したものですと、ガイドしましたが、納得した様子はありませんでした。当然でしょう。自国の歴史を勉強していない人々は「1868年の戊辰の役とは」は知りません。20分観光の人々にガイドするには難しい点です。

 大人の家族連れ5人を感仙殿までガイドをする途中、弔魂碑のガイドは省略しました。事前に島根からお出でと聞いたからです。それは一瞬、島根は長州かと思ったからです。「島根は長州ですか、長門ですか」と話したら「出雲です。官房長官の選挙区です」と返ってきました。
 東北で町村合併の新しい市の名前を「出羽の国」に在りながら「みちのく市」と名付け様として、指導者でありながら誠に貧弱な歴史知識の持ち主であると、世の顰蹙・嘲笑を受けた事例が最近ありました。この話からして、この島根の人をエライと感じました。

 本日の最遠方は中国の三娘、続いて韓国からの御婦人でした。過日、先輩から「あかとんぼの日本語は理解されるのか」と云われた事があります。本日は全て通じました。



6 月 13 日 (日)  



 梅雨です。霧雨に緑が濃くなりました。

 「烏の行水」この言葉を言った事、云われた事ありませんか。よく洗いもしない短時間の入浴を意味する諺です。朝の挨拶、清掃担当Bさんの開口一番が「烏の行水にまいった」でした。「おはよう・暫く振り」ではなく、この言葉でした。
 毎日16時頃、閉門で参拝者が居なくなると、手水鉢に烏が来て水浴をする。烏は濡れ羽色になって綺麗なるでしょうが、後に羽根と脂が浮くのだそうです。
 濡れ羽色に綺麗になった烏は夜の町「國分町」にでも行くのでしょうか。
 参拝者がご不快にならないように、朝一番の仕事が手水鉢の清掃だそうです。
 本当の烏の行水の話でした。

 仙○バスが2台続けて入りました。ガイド嬢は真面目なのか、意地なのか、本殿前一杯のお客様に熱心に長時間ガイドしていました。前後を塞がれた○交定期観光バスのガイド嬢、いつまでも本殿前に進めずに、時間が限られているので、拝殿から大きい声でガイドしていました。でも先発は本殿前を占守していました。
 私らボラは左右に分かれてガイドしますが、プロの対決は厳しいものです。

 善応殿で「品川屋敷」に逼塞をしたとガイドして、東京からの若いペアに、品川は都心部と見ますか、そうでないと見ますか、と尋ねましたら都市部と返ってきました。当時は品川は一番目の宿場で、江戸城下ではなかっとガイドしたら、ヘェーと驚き・喜んでいました。

 感仙殿の前で、あかとんぼと同年配のご婦人から、「此処は奥方の」善応殿を指差して「あちらは側室の廟が」と聞かれました。予想もしないご質問にビックリしました。
 「ここは、伊達家三代のお殿様の廟で、全てお殿様お一人、単身赴任です。奥方様等は別の所にあります」と返答しました。ご理解頂けなかったのか、なんか腑に落ちない様子でした。

 徳島・函館と遠方から参拝にお出で頂き、ガイドを聞いて頂けました。H代表にUさんもガイドに見えましたので、腰痛は本復しておらず不安があり、梅雨の小雨もあり、本日は90分でお終いにしました。



6 月 6 日 (日)  



 梅雨入りの前の晴天

 故あってガイドを休み逼塞しています。

 梅の実の季節になりました。瑞鳳殿の臥龍梅は何個実を付けたでしょうか。昨年、何個か頂きまして地植えしました。今日現在一個も発芽していません。植え方に誤りがあったのでしょうか。今年再度挑戦したいと思っています。



6 月 4 日 (金)  



 晴天晴朗誠に爽やかな日です。

 三代綱宗公の294回忌の御命日です。
1711年6月4日品川屋敷にて72歳で没しました。見性院殿雄山全威大居士です。
 廟所「善応殿」に於いて、御当主、藩志会、財団、市民が参加し11時から法要が行われました。

 たまたま、山口県からお出での高齢のご婦人一行は、岩出山伊達家の末裔で藩志会長である伊達氏とお話をし、記念写真を撮りご機嫌でした。

 法要の直前に、ツァーを案内していたペテラン女添乗員が、大きい声で「この殿様の菩提寺は瑞厳寺の隣の円通院です」と説明しました。法要準備中の関係者一同、目を白黒にしていました。
 腕章にネームプレートを外していましたので、一般拝観者を装い「円通院は忠宗公の嗣子光宗公の御霊屋と聞いていますが」と云ったら、ムャムャと云い帰って行きました。

 GW期間中のガイドを起因とする座骨神経痛でガイドを休んでいます。当分復帰は無理でしょう。徒然なるままに、1971年河北新報から刊行された久坂榮二郎著の「伊達騒動」を読んでいます。史実ではなく小説ですと断ってありますが、よく調べています。事件の発端をもたらした殿の法要に参列出来ました。感新たにしました。





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