2004年7月の日誌
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7 月 27 日 (火)  



 爽快な暑さの日です。

 本日は亘理町立郷土資料館を主会場に、政宗公の知のブレーン片倉小十郎に対する、武のブレーンとも言われた伊達成実(しげざね)についての勉強会が、「ぐるーぷ・よっこより」主催で、27名の参加で開催されました。

 初めに資料館学芸員から、出生から政宗公との関わり合い、領主としての治世と後世にへの影響等を、90分の濃縮講義を受け、成実ゆかりの展示物を見学、屋上展望台から、眼下に家並み、遠くに山々、広漠たる田圃、荒浜等の豊かな城下を望見しました。

 続いて、成実と代々の亘理伊達家の居城であった、臥牛城と称される「亘理要害」に歩を運び、二の丸、本丸、内堀等をつぶさに探索し、在りし日を偲びました。

 最後に、成実と父で始祖の実元と五代実氏の三廟を初めとする亘理伊達家の墓所を参拝しました。

 亘理伊達家は北海道開拓に渡り、亘理には不在と聞いていますが、町の人々が誇りして亘理神社を創建し、廟所の整備保存に努めて居られるのは、歴代の治世宜しかった証でしょう。施政者はかくあらねばと思います。



7 月 25 日 (日)  



 連日の真夏日。ループルバス20分間隔運行の効果でしょうか。参拝者は切れ間なくお出でになりました。

 本日の特徴は、ボラガイド時間中は貸し切りバスが1台のみでした。、観光タクシーの運転手氏には一人もお会いしませんでした。どうしたのでしょうか。先週3連休には、あんなに多かったのに。
 連休と参拝者が利用する交通手段に、何か因果関係があるようです。

 唯一の貸し切りバスのオジサン10人ばかり、「ボラガイド居ます」の案内をセットと同時に入場し、「ガイド嬢でなくオジサンやってよ」となりガイドしました。62の石段の説明で、「伊達様は三番目の大大名です・・・・」と言った途端、「私たち一番目の所から来ました」と返って来ました。扁額等の金貼を見て、「これ金沢ものかな」の発言しながら真面目に聞いて呉れました。最後に「ここに政宗公が葬られています。越中の人々は信仰深いと聞いています」申しましたら、百円から千円札迄をお賽銭箱に入れられ、手を合わせ深く頭を垂れて居られました。さすがです。

 此の方々から、前田家の末裔は東京に住まいしています。伊達様は仙台に住まいしてお出では羨ましい、大切にして下さいの発言がありました。
 この外にも、伊達家御当主は何処にお住いですかの質問が何問かありました。日によって同一趣旨の質問が集中するのは、どうしてでしょう。

 知っていて知らない風にしてガイドをさせる感じのご夫妻にガイドしました。「歴史が好きでガイドしているのすか、うちの人も歴史が好きなんです」と夫人の言。地元仙台の人と思い、ご一緒にガイドしませんかと誘いましたら、「静岡から来ました」の返事。ギャフン。「久能山東照宮と三保の松原が今一番訪ねたいと思っている所です」「久能山東照宮はナガーイ石段を登らなくてはなりません。功徳を考えなければ日本平からケーブルで登る方法もあります」と久能山の案内はありましたが、三保の松原は話に出ませんでした。天女伝説は地元でも今は話題にならないのでしょうか。
 旅行社のツァーには静岡県を訪れるコースはありません。どうしてでしょう。個人で訪れると交通費が割高で、無駄時間が多いので、訪れかねています。

 ギャル風の二人連れ、写真のポイントを求めていましたので、声をかけましたが反応がありません。構わず手招きし、指差しして最高のポイントをガイドしながら目に入ったのは、英文5pの厚みの日本観光ガイドブックでした。東洋系の外国人でした。あかとんぼの日本語は通じませんでしたが誠意は通じた様で、撮影後ニッコリしながら「ありがとう」の言葉がありました。

 真夏日で持参の水筒1本飲み干しました。ご婦人2人連れから「仙台は凌ぎやすいですネ」と言われ、驚きどちらからと聞き返したら「福岡」。直後に来た中年男性「仙台は暑い。暑い」と。「どちらから、先程のお客さんは仙台は凌ぎやすいと申していました」応えて「北海道、稚内から」。なるほどです。日本列島の南と北の端からお出でになれば、こんな感想になるのは当然かも。

 拝殿に飾っている伝統仙台七夕、気が付かない人がおりますので、わざわざガイトしています。七つの願い 和紙 なるほどと納得され好評です。
 シニアネット仙台では今年も三本飾ります。その案内チラシをカゥターに置いて頂きたいと次長にお願いしましたら、快く承諾頂きました。ありがとうございます。参拝者が政宗公に頭を垂れるだけでなく、シニァネット仙台の七夕にも願いを託して頂ければ幸いです。

 Yさんが暫くでガイドに見えました。江戸っ子のメリハリあるガイドは好評です。羨ましい。今日は沙羅双樹の花の写真を撮りたかったのにと。今年は全く咲いていないのでガッカリしていました。
 昨年の写真で宜しければ、四季のページに写真があります。ご覧ください。

メモ
 瑞鳳殿のお賽銭は年間幾らかは、財・瑞鳳殿の事業計画書等に明記されています。仙台市役所行政情報センターで閲覧出来ます。



7 月 19 日 (月)  



 海の記念日。1876年7月20日に明治天皇が東北巡幸を終えられ、横浜に帰港されたに由来するのが、何故か今日に繰り上げられました。由来に関係なく変更されることは、将来、誕生日や命日も変更される心配があるのでしょうか。

 変更の効果か参拝の方がゴールデウィーク並に沢山でした。

 「此処はいつ出来たものですか」と中高齢のご婦人に尋ねられました。はて、なにを尋ねたいのかと思いながら、「1637年に創建され、1945年空襲で焼失し、1979年再建され、2001年に化粧直しが終わりました」と概略を申し上げ、次の発言を待ちました。「子供の頃、花壇に住んでいまして」と。「それでは焼失前の姿をご存じで」「イヤーそれは」 これで、およその年齢が推測出来ました。何十年振りの里帰りで、御霊屋が留守中に立派に再建されていてご満足の様子でした。

 今日も「ボラガイト居ます」の案内板をみて、イルノーと若い女性2人。表示板から本殿まで、積極的に聞く態度に応えてガイドしまた。神奈川県の南端、湯河原町から来たとのことで、天女さんのガイドの際、隣の「三保の松原」の天女伝説を話題にしましたが知らないと言われてしまいました。この現象を学者は如何に分析するのでしょうか。

 最後にオバサンにからかわれました。「あら ボラガイド居た。東京からのお客さんなの、サーやって。みんな集まって」涅槃門の扁額から本殿の説明をしようとしたら、「時間です。帰りましょう」と号令。皆さんもあかとんぼもアッケにとられました。この方、自分の号令で世の中全て動くと過信している○○天下の方だったのでしょうか。
 瑞鳳殿にお出での過半数は東京からです。東京からのお客さんは特別・珍しいでは無いんですが。

メモ 
「花壇に住まいする」について
 仙台城と瑞鳳殿のある経ケ峰との間にあって、広瀬川に囲まれた地。1970年までの地名。由来は伊達家の花壇があった事による。政宗公の花壇屋敷があった。後に評定所が設けられ、中・少身侍屋敷も設けられた。明治以後には牧場が設けられた事もある。現在は公団高層住宅街となっている。(角川日本地名辞典・宮城県を参照)



7 月 18 日 (日)  



 梅雨は空けました。昨日の大雨は幻の如く、雲一つ無い快晴、真夏日になりました。

 涅槃門前に交差して飾る仙台七夕の準備が懸命に進められていました。

 「ボラガイド居ます」の案内板をたてると同時に、若い女性2人から「あらボラガイドがいるよ」の声で、政宗公肖像画が標示された案内板から、臥龍梅までご案内しました。若いから「涅槃」なる言葉を知らないかと思いましたが、知っていました。敷居も踏みませんでした。何か事件があると「親の顔を見たい」と発言する有識者がいますが、あかとんぼは、逆の意味 こんなにしっかりした娘さんに育てた親の顔を見たいと思いました。

 昨日レンターカーで駆けつけたら、時遅く閉門になっていた、瑞鳳殿に参拝しなくは帰れないと出直して来ました申される現役のご夫妻。天女さんを拝見して中国又して仏教の文化を感ずると洩らされ、あかとんぼのガイド心を擽りました。11時には仙台空港に向かわなければとのことで、時計を見ながら妙雲界廟迄ガイドしました。感仙殿の涅槃門を潜る際、気付く人の少ない天女さんに気付かれました。もしかしたら天女が変装してお詣りに来たのでしょうか。要所で撮影されていましたので、見逃しは本ページをご覧くださいと久々に自己宣伝しました。

 JR,JTBの添乗員さんから、「ボラガイドが居たのか、頼みたかった」のお言葉。「土日のこの様な形のガイドは無料でしています。それ以外はご相談に応じています、又の添乗の際は是非」と返事しましたが。はたして。

 夏の風物詩。天女さんと同じ様な姿で参拝される方が散見される季節になりました。



7 月 16 日 (金)  



 梅雨末期 新潟県内では洪水大災害が発生しています。仙台城下では、河岸段丘である地形から、開府以来水害はありません。政宗公の都市計画に敬服します。
 本日は曇りで時には小雨の天候です。財・瑞鳳殿のご依頼で、泉区の○○町内会連合会の「施設を見る会」40人様を85分を要してご案内致しました。

 10人ほどの方は初めての参拝との事でしたが、2000年の開府400年のイベント以前から仙台お住いの方ですから、政宗公についても、御霊屋とは何かも全て了知されており、話途中で腰を折る様な質問はなく、移動は迅速で、短時間で、案内板から瑞鳳寺・下馬石迄、気持ちよく楽しい、中味の濃いガイドが出来ました。

 手水鉢の龍を見て頂きたく、「此処で清める方がおおいです」と申しましたら、ほぼ全員が清められ、吐龍をご覧頂きました。独眼龍政宗と龍です。

 涅槃門を潜る際「これから涅槃の世界に入ります、普通は帰って来た方はおりませんが、今日は極楽を拝見し、帰ってきます」と話しましたら、「涅槃」の意味をお解りの方ばかりで、笑みを浮かべていました。さすが敷居を踏む人は居ませんでした。

 感仙殿の涅槃門の天女さん、やはり気が付かずに通り過ぎる所でした。なまめかしい背を拝見して、老若男女一緒に賑やかに盛り上がりました。

 印象に残った質問は、この森の樹齢は何年か、どんな動物がいるか、でした。杉の大木は400年位、瑞鳳殿を創建された時、荘厳を保つにふさわしい木として植えられた様です。動物は都会にありながら「栗鼠」はよく見かけます。事務所の方は「カモシカ」のペアを何回かみかけています。と答えました。

 涅槃門前の敷石「硯等の雄勝石」とガイドの際、「オガヅイシ」と発音したら、「アァー、オカチイシ ネ」と返ってきました。そうーです。あかとんぼはふるさと手形がでるのです。



7 月 12 日 (月)  



 小雨煙る中 二代藩主忠宗公の御命日の法要が催されました。

 法要は11時から御霊屋感仙殿で、瑞鳳寺住職の読経で始まり、ご焼香は@18代ご当主A財団瑞鳳殿常務理事B藩志会会長C一関・田村家ご当主D一関・田村家藩士会代表E大年寺会代表の順で、続いて、ご当主と藩志会会長からご挨拶があり、恙なく終わりました。
 お二人のご挨拶で、あらためて、なるほどと思ったのは、
1.発掘調査の際、ご遺体を目にした時の情景が今でも生々しく思い起こされる。
2.ご遺体調査は機器等の都合で、仙台で出来なくて東京科学博物館に運び、6ケ月の長期間を要した。
3.実際に調査をされた方々15名、御命日の前日、お詣りに来てくれ、嬉しかった。
4.愛姫の生家田村家を再興させたのは二代藩主忠宗公で、母親思いの人柄が偲ばれます。
等でした。

 政宗公・綱宗公の法要の際には参列していなかった、一関・田村家ご当主と一関・田村家藩士会代表が、忠宗公の法要に参列した意味合いをご挨拶を聞き、納得しました。

 法要の準備のお手伝いの合間に、御木像を拝し撮影致しました。
 ガイド4年目で、初めて忠宗公の御木像を拝観しました。

《メモ》
 愛姫の生家田村家は、坂上田村麻呂の末裔の名家と云われたが、愛姫の父清顕の1587年10月の死によって廃絶した。1653年1月に亡くなった愛姫の遺志で、同年4月に忠宗公の第4子宗良(ムネヨシ)が 田村家を継ぎ、1686年8月名取郡岩沼を賜り3万石を領した。
 寛文事件の処置にからみ、1672年4月一関藩主伊達宗勝3万石所領没収された後に、宗良の子建顕(タテアキ)が入った。
 一関城趾には宗良公を祀った田村神社があり、田村家歴代の墓所は祥雲寺にある。
 あかとんぼは、田村神社も祥雲寺も未だお詣りをしていません。



7 月 11 日 (日)  



 断続的に小雨です。暑くないのには助かりました。

 9時開門と同時に、仙台空港から直行、さいたま、新潟等からのバスが連続しました。「アッ地元のガイドさんが居る。よろしく」とガイド嬢に云われて5台ばかりガイドしました。バスの中で瑞鳳殿について、どの程度ガイド嬢から説明を受けているか、話題がダブラないようにと、些か思案します。今日は重複しなかった様で素直に聞いて頂きました。

  東京科学博物館学芸員の研修とかで、瑞鳳殿再建期成会事務局長を務められた伊達藩志会会長が、涅槃門から本殿と、老躯を抱えられ昇段され、再建の経緯・発掘調査内容等を丁寧に語っておられました。あかとんぼとUさんと千載一遇の機会と、一緒に聞かせて頂きました。
 本殿の扉が特別に開かれました。博物館学芸員の方々の拝観に続いて一般の参拝者も拝観しました。本来は年賀拝礼式と御命日の2日約3時間しか開扉されませんと、ガイドしたら、皆さん感激し、よかった よかった と喜んでいました。
 御木像の前に高坏(タカツキ)に盛られた和紙包みの菓子をご覧なられた方から、テレビの水戸黄門様から連想されたか「あれー 小判の包みが山盛りだ」の叫びがありました。見ましたら「山科」でした。

 拝殿に仙台七夕が飾られました。
 仙台七夕の飾りと意味は、2003年7月13日のメモ欄をお読み頂ければ幸いです。

「メモ」
 「殿様は三途の川の渡銭は幾ら持っていったのか」と聞かれたことがあります。「殿様は我々と異なり、現金・カードを持っていなくとも渡れます」と答えたものの発掘調査結果を確認したところ、政宗公は慶長一分金3枚(1枚約4.45g)、忠宗公はお金はなく、綱宗公は六道銭(寛永通宝)《枚数不明》の入った金襴の巾着と宝永小判10枚が確認されています。

 



7 月 8 日 (木)  



 市民センター生涯学習で北山地区所在の伊達家ゆかりの壽コ寺と龍雲院を参拝しました。

 1597年に政宗公によって開山したとする龍雲院の門前の「有名人案内」に、作曲家故萬城目正氏の先祖は1593年政宗公の家臣となり、公から1705年家紋「九曜水玉を賜ったと記載されていました。


 1705年時の藩主は四代綱村公です。政宗公は1636年に亡くなっています。「公から1705年」の表現は誤認を誘導するものと思いました。

 九曜紋は「星の日,月,火,水,木,金,土の七曜に羅と計が加わった九曜」と勉強してきました。水玉とは初見です。

 由緒ある院の案内表示です、巷の老人は首をかしげて帰ってきました



7 月 4 日 (日)  



 快晴です。久々の瑞鳳殿ガイドです。

 ○交バス、断続的に連続しました。何れのガイド嬢も正確簡潔なものでした。社内教育の充実を感じます。

 福井ナンバー車、職員駐車場に入ってきました。「お客様は瑞鳳殿参拝ですか」「はい、カーナビの誘導で来ました、なんか変ですネ」「参拝者専用の広々した駐車場が反対側にあります」このお客様間もなく上がって来まして、時間をかけて参拝されました。カーナビは目的地に最短距離の道を案内する故に、この様に参拝客に戸惑いを与えます。これから夏休みの期間は数多くあるでしょう。
 電柱等に貼り付けた案内看板があるのにのご意見もありますが、目に入らなければ路傍の石同然です。

 神奈川からの若い男性、「瑞鳳殿には政宗公等三代が一緒に埋葬されている」と思ったの発言に、「政宗公お一人です。奥方は別です。二代・三代もそれぞれ別々です」と答えたら「伊達家は変わっていますネ。夫婦一緒が常識でしょう」と返ってきました。
 さて、「日光東照宮、家康公・家光公等の廟は単独です。殿と奥方が亡くなるに時差があります。お客様の言に従えば殿を埋葬し、その上に廟を建築します。奥方が亡くなり、取り壊し・埋葬・再建築の手順になりますが、その様な例は少ないのでありませんか。夫婦ではありませんが、平泉中尊寺は特異な例でしょう」とお話しました。
 自分の狭い生活環境が常識の全てで、それ以外が非常識ではないかの疑問符を投げる方が儘おります。でも、この様な発想の方に会える事がボラガイドの楽しみかも知れません。
 
 瑞鳳殿屋根の龍をガイドしていたら、「アッー、栗鼠がいる。リスがいる」の声。本殿を覆う大木の樹が揺れていました。「杜の都仙台ですネ、こんな都会の真ん中で野生の栗鼠が居るんですネ」と感嘆が続きました。

 本日の参拝者の国内最遠地は広島からのご夫妻でした。あかとんぼと同年配で、仙台勤務の娘さんを激励に見え、瑞厳寺等を参拝されている様子で、楽しい会話が出来ました。

 
 



7 月 3 日 (土)  



 本日ガイド出来ないかH代表から電話がありました。でも歴史街道探訪会で羽州街道「楢下宿・金山間宿」の道案内をする事になっていましたので、残念がらお断りしました。
 IHさんがガイドされたそうです。生誕地の隣村の方々で、ふるさとの話をしながらガイドで弾んだとのことでした。
 依頼ガイドの際は、事前に歴史・地誌を調べ、伊達家関連を探りガイドする様に務めています。こうすれば、単に綺麗・豪華絢爛で終わる事無く、瑞鳳殿等の見学が印象深く残る様です。喜ばれます。





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