2005年11月の日誌
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11 月 28 日 (月)  



 快晴 お日様燦々と輝いています。予定変更し 瑞鳳殿に参りました。
目的は紅葉の撮影です。昨日は曇天で撮影結果に不満で 再度の挑戦です。

 所定の場所で撮影を始めたら 一見プロ風の方が後を追ってきました。「毎年・昨日も此処で撮影しました。最高の場所です」と申したら「フームなるほど」と撮影場所の選定に感心して、カメラを据え付けました。
 場所を教えた代償?に、撮影技術、目線等についてアドバスを頂きました。

 お名前を伺いましたが教えて頂けませんでした。ただ、「年末 光のページェント点灯式に市長から招待されている。また、瑞鳳殿の七夕夜景の写真を財団に提供している。この線でどうぞ」とのことでした。著名な方らしいです。
 
 本ページの「四季」に掲載している「三春」について語りましたら、「仙台で花(梅・櫻・山茶花)の三春を撮影するとは 珍しい。まして櫻が伐採されて 再び撮影できない現在 記録的にも素晴らしいものです。宝物です」と絶賛してくれました。

 撮影に専念し ガイドの予定は無かったのですが、3組ほどガイド致しました。

 驚いたのは「1945年の空襲で焼失し、復元したものです」に、「誰が焼いたのですか」「いつ 文化財に指定なるのですか」のご質問があつたことです。

 楽しかったのは、「弔魂碑」で その由来を話しましたら、なぜ戊辰の役が起きたか、その目的は何であったかに始まり、新選組の創立者は 庄内・清川村出身の清河八郎で・・・・・・と語り続けました方が居られたことです。拝聴致しました。

 みなさまは「あかとんぼ」の先輩とお見受け致しました。



11 月 27 日 (日)  



  昨日の小春日和は何処でしょうか。でも、11月にしては暖かい日でした。
 参拝者は少なくなりましたが、途切れることはなく ガイドは休む事なく出来ました。

 外国の方を2組もガイドしました。ビックリ。

 マレーシアからの若いお嬢さん3人、一人は「あかとんぼ」がゆっくり話すれば、「珊瑚と真珠(パール)」を理解する程度。一目して 日本のお嬢さんと異なる所ありませんから、窓口で、やはり日本語のパンフを渡されていました。英文パンフを届けましたら喜んでいました。

 来春2月まで日本に滞在するそうで、日光には 訪れていないとのことでした。
 マレーシアも仏教国でしょうか。阿吽を知っておりまして、竜等の阿吽を視差すると納得してくれました。

 ミャンマー連邦からは40歳代15人程の教育関係の団体さんでした。通訳を通して涅槃門から本殿まで、ほぼ通常の内容でガイドしました。仏教国の方々です。 仏様・・仏陀と理解容易でしたが、通訳が「極楽」に難儀していました。

 本扉の開く日が限られている話から、年賀拝礼式・法要はどの様に行われるかのご質問がありました。裃・羽織袴姿での登段する「あかとんぼ」撮影の写真をお見せし、僧侶の読経があるを、通訳とゼスチァしましたら、手を合わせ 納得を表示してくれました。ああ 仏教徒と思いました。

 香炉では線香を手向け祈っていました。線香は箱に10円程度喜捨し、自由に取るようになっています。10円玉の持ち合わせ無い方、50円玉を出していました。

 ミャンマー連邦の通貨は チャット(Kyat)で、.為替レート 1ドル=5.73チャット(公定レート)(2005年5月現在 )。本日1ドルは119円です。10円は0.48チャット(Kyat)になりますが、果たして物価比ではどうなんでしょう。

 ミャンマー連邦の全国からの人々で 首都ヤンゴン等の南の人は、外套を纏い寒いブルブルと身振りで語っていました。北の山地よりには寒い地方もあるらしく、平然としている方もいました。(通訳氏の解説)

 通訳はほぼ正確に伝えていたようです。皆様 参拝を喜ばれ 本殿前の集合記念写真に一緒に入る様に誘われ一緒に写りました。ミャンマー連邦では「このお爺さん?は」と話題になるのでしょうか。

 家紋は日本独特の文化の様で、この2国の方々は 家紋には興味を示しませんでした。

 逆に 日本の方々は 我が家の家紋は1個しかないのに なぜ伊達家は幾つもあるのか 不公平だとの表情を示します。「ならば お宅の家系を1000年遡って はっきりさせたら 使用されなくなった家紋が出てくるでしょう」と申したいところですが、グット堪えています。

 殿様でない一般の人々は、3〜400年 家系を遡るのは容易ですが、家紋は困難のようです。

 23日の撮影会の作品 紅葉は今日が最高で、幾分物足りない面もありますが、3点事務所に提出しました。絵画・写真既に何点か提出されていました。展示が始まりましたら、お知らせ致します。見に来て下さい。

 H代表から「ガイド日誌」見ているかと云われ、過日読みました。
 「御霊屋の中になにがあるのか。伊達家は大大名であるから宝物が一杯あるだろう」の質問に「ナニも無い」と答えた旨の応答記録がありました。代表指示の趣旨は、この文章にあったようです。

 御霊屋は御廟であって、宝蔵ではありません。宝物は別に保管されます。また、明治と昭和の大変革の際、各大名家は、宝物を離しているのが通常です。
 
 御霊屋の中には厨子があり、御尊像が座しています。現在の厨子は 創建時に比較すると簡素ですが、それでも豪華な作りです。
 本扉は通常 閉じていますので ガイドの際 拙い写真をお目にかけています。

 H代表も欲しいとの事で 20日の千載一遇の機会に撮り直しをしました。良く撮れました。ご期待に応えられると思います。

 読者の皆様には ページを改定し公開致します。おたのしみに。



11 月 23 日 (水)  



 勤労感謝の日 祝日です。

 42年前の1963年今日、歴史的出来事がありました。日米初テレビ宇宙中継実験が成功し、米大統領暗殺の画面が流れて来ました。指導者はとかく命が狙われのは歴史的事実の様です。ふりかえると、政宗公は秀吉・家康・秀忠・家光と時の最高権者と相対しながら、老衰では無いにしろ、平均寿命以上生き、畳の上で生を全うしました。目出度い事と思います。

 昨日が「少雪」。仙台地方は初雪が降り始める日だそうです。今日は暖かく、雪の気配はありません。
 参拝者は日曜日以上にありました。紅葉は進みました。綺麗です。

 支倉常長の末裔の大学教授と友人と称する方から次の様な質問がありました。
1.此処は何か。御霊屋とは御廟・お墓と理解されていなかったらしいです。
2.墓室から兜が出たと図を示しているが、有名な三日月の兜ではなかったのか。
3.なぜ、竜が使われているのか。芭蕉の辻には現在もあるのは、なぜか。
4.なぜ、金のブローチが出てきたのか。
  金のブローチから、常長の末裔の話となり、「末裔は(常長)の話になると不快感を表す」と、この間 終始ニコリともしないで語っていました。

 戦前・空襲で焼失する前の瑞鳳殿を知っている方、2組見えました。何れもガイド終わった後、御霊橋付近に住まいし、片平国民学校に通学、此処は遊び場であったと語り懐かしがっていました。
 空襲で焼失しなければ、国宝であるから、涅槃門を潜れたか。本殿前でお詣り出来なかったろう。空襲での焼失は 不幸な出来事なれど そう言い切って良いのかと 独り言を申していました。

 20日本殿が開扉され、御木像を直に拝見した方々から「小さい」の声が上がりました。
 「座像です」と申しますと大方の方は納得されました。

 政宗公の身長は159.4センチと発表されています。2003年度17歳男子の平均身長は170.7センチに比較すると確かに小さいですが、当時は平均より上と聞いています。
 
 03年度13歳(中学2年生)男子の平均身長は160.0センチです。政宗公にズバリです。座高は85.0センチです。
 御木像の高さは1メートルです。烏帽子も含まれていますので、真の身長(座高)は幾らでしょうか。座高は85.0センチではないでしょうか。
 決して、短足・胴長では無かったと推察しております。

 身長等の計数は04年1月発表 文部省学校保健統計調査速報によりました。

 財団の主催で「秋の瑞鳳殿 写生・撮影会」が開催されており、次長から「あかとんほさんもどうぞ」と誘われ、参加しました。涅槃門前の山に登る事が許され、正に千載一遇の機会です。涅槃門・拝殿・本殿と真上からを狙いましたが、常緑樹の葉が茂っており、狙い通りの写真は撮れませんでした。

 何点か提出したいと思います。12月16日から1月15日迄 資料館に展示するそうです。
 著作権は財団に帰属し、ホームページ等に活用されるそうです。
 ここが悩みです。傑作を提出すと このページで使えなくなることです。傑作でないと賞を貰えないことです。何れに軸を置くかです。うぬぼれの極みでしょうか。 



11 月 20 日 (日)  



 天気晴朗なれど寒気厳しい日でした。
 充分に厚着をしたつもりでしたが、瑞鳳殿本殿で、指さす指先が凍え、お子様御廟までご案内した際は、冷気で頭痛し、鼻水を感じました。

 鎌倉に近い横浜の○○様、シニアネット仙台のホームページで、ボラガイドの存在を知り、事務所に依頼の電話され、受け付けた美人ボラガイドのYさんが不都合で、代役でガイド2時間しました。
 ○○様は障害者関係の全国大会で来仙され、仙台の観光は瑞鳳殿1本に絞った、日本史には詳しく無いと、事前に洩らされましたが、何のその、熱心に聴いて、見て頂きました。
 この様に、ご指名があり、熱心に観聴して頂ける事は嬉しいことです。

 在京テレビ局の取材が入り、瑞鳳殿本殿が開扉されました。居合わせた参拝の方々に「、年間5回しか開かない扉が開かれました。千載一遇の機会です。御尊像実物がお詣り出来ます」とガイドしました。歓声が上がりました。撮影される方には「御尊像にお断りしてから撮影してください。てないと政宗公がお怒りになるかも」とガイド。みなさま納得、それぞれの仕方でご挨拶し、撮影していました。

 地元テレビ局では無いためか、管理事務所職員が立ち会って居ない故にか、傍若無人とは申しませんが天真爛漫に撮影していました。例えば拝殿正面の屋根に登り、その股下を参拝客に潜り抜けさせていました。無礼と落下物の危険を全くお呼びでない様子。

 涅槃門の撮影ポイントを決めかねている様子に、H代表が見所をガイドしたそうです。でも「理解してくれたかな、しっかり撮影したかな」と洩らしていました。

 思い入れも無く、予習も充分かなのこの人々の作品、どんな作品となり、放映されるか、意外性に期待し、楽しみです。

 「どちらから」 いつもの会話です。「大垣です」「殿様は・・」と言いかけた途端「戸田様です」と返ってきました。驚くやら嬉しくなりました。大垣10万石 戸田家末裔は「あかとんぼ」の上司でした。4年間ご指導を受けました。現在は、大垣に帰らずに関東圏の戸田なる地名の地にお住いです。

 「どちらから」に都市名を答える方は少ないです。陸奥・奥州以外の地で、殿様を直ぐ答える方も少ないです。二重に少ない事例にあって、些かご縁ある方をズバリ申されて、驚くやら嬉しくなりました。賀状にてご報告しようと思いました。

 先週13日ガイドを休みました。読者の方から「生存している?」とメールを頂きました。毎週日誌が更新される事で、「あかとんぼ」か元気でいると確認していると有り難いお話でした。

 ボラガイドとして、「応接態度の反省が必要」と自己研修を突然思い立つ出掛け、13日はガイドを休みました。元気です。ご声援に感謝します。



11 月 9 日 (水)  



 2005年11月5日の日誌について、読者の方から、次のとおりご指摘頂きました。

 感仙殿・善応殿が城に背を向けている」のではなく、政宗に背を向ける
(尻を向ける)訳にはいかないでしょう。敬意を表して正面を向けて建立

 正にご指摘の通りです。近視眼でした。
 さて、他家の殿様のお墓の配列はどうなっているでしょうか。

 秋田・佐竹家、米沢・上杉家の廟と、白石・片倉家の墳墓は、横一線配列。
 伊達家の大年寺山の墳墓はコの字配列と記憶しています。それ故にか、伊達家臣のお墓は、コの字配列が多い様です。

 向きは、城に正面とは云いにくいながら、背面では無いようです。

 水戸・徳川家は、山頂が家祖で、以下順序に里に下る縦一線型と聞いています。正面は上か下か、何れか 家祖を向いてているかは聞いていません。

 いずれにせよ興味深いところです。

 まもなく、加藤貞仁著「とうほく藩主の墓」が無明舎から発行されます。著者は、東北地方には 50藩もあり、藩主はのべ420人 以上いて、この全部の 戒名を調べ墓を確認されたそうです。
 この本で、とうほくの殿様の墓所の配列もわかるか、期待しているところてす。
 



11 月 6 日 (日)  



 行楽日和です。朝開門から 夕方閉門まで、参拝者は途切れる事なく続きました。久々に終日のガイドで些か疲れました。
 
 本日で、年頭来 60回日を記録しました。昨年は年間で59回日でしたから、今年は快調です。年末迄 後何回日出来るでしょうか。

 朝 早々の盛年代のご夫妻、「どちらから?」「生まれは徳島で、今は埼玉」の返事。(最近生誕の地を語られます、なぜでしょう)車で日光・鬼怒川・那須・会津と廻り仙台に着いた。那須のローウェーも、会津の大内宿も、4〜6キロ渋滞でで、諦めて来た。此処は幸い参拝出来てよかったと、喜んでいました。
 仙台城 何も無かったと 常のご批判を頂きました。白石に寄られると、本格復元の白石城が見学出来、名産白石温麺(ウーメン)を食べられますと勧めたら、温麺(ウーメン)とは、どんな食べ物かのご質問があり、孝子の話から一席。
 広域観光に寄与したツモリです。

 続いての方、「私 片倉です」  白石城主の片倉小十郎の末裔? ヤ ヤ これはこれはと一瞬 思いましたが、片倉家の末裔の方は 青葉神社の宮司であったと聞いており、ボラガイドを聞くはずがないと思い直し、聞き返したら「先祖を辿っていますが、片倉家本家に辿り着けない、家紋も?」とのことでした。

 この方、建築関係の仕事をされているそうで、「コンクリートの建物は30年が限度です。お寺さん 一時 鉄筋コンクリートの建物にするのが流行しましたが、現在、木造に転換しています。最近のコンクリートの質は向上しましたが、先の保証はありません」と語り、瑞鳳殿の将来をひと事如く心配してくれました。

 涅槃門前広場のベンチで10分以上も休息している若者3人に、声をかけガイドしました。長野県からの大学生で、瑞鳳殿は政宗公の御霊屋とは知らずに登って来て、62の石段でへばった様子。寶筺印塔の説明で一番若い人で行年22歳、満年齢で20歳と何ケ月と説明したら、法律専攻の一人の顔色が変わりました。同年齢だそうで、昔日の若者の思考との差にショックを受けた様です。
 将来、裁判官か弁護士になるのでしょうか、どの様に活かしてくれるのか。
 一番は 62の石段でへばらない体力をつけて欲しい。日本の為 本人の為にも。

 午後、予約のガイドがあり、瑞鳳寺の山門前で待機していました。登ってくる方々、すべからく瑞鳳寺の山門を潜ります。それは結構な事なのですが、原因は、瑞鳳殿と瑞鳳寺との区別がつかないでの出来事のようです。
 以前は、この間違いが無いように「この先が瑞鳳殿です」の案内板がありました。如何なる事情か撤去されていました。原因は此処にありました。

 客待ちの運転手氏から聞かれました。「参道右側のあの木は「銀木犀」。参道左側の櫻の木は、櫻の源木(染井吉野等の前の木)と聞いているが何れも本当か」でした。確かに「銀木犀」なる木の存在は知っていますが、この木がそうなのか判りませんでしたので、判った人に聞いてみますと答えました。
 お解りの方 教えてください。

 山門前広場の障害者専用トイレで突然 警報音が鳴りました。運転手氏と駆けつけました。「どうしました」と先ず 外から声をかけました。そしたら健康な体格のオバサンが泰然と戸を開けて出て来ました。警報音のスイッチを押したのに、その認識が無いのです。
 どうも、排水のスイッチと間違い、目についたスイッチを注意する事なく押した事にあった様です。
 事故で無くってヨカッタです。でも人騒がせです。

 予約ガイドの方々、次の予定があるから終了時刻を厳守して下さいとスタート前の注文。歩き始めたら、ゆっくり歩いて下さいとご注文。歩かないで時間厳守で全部をガイドしてくれと 難しい注文。結果として時間厳守し、バスガイドよりヨカッタとのお声を頂きました。

 この方々を送り、戻ろうとしたら、お嬢さん4人 日暮れかけた坂を登ってきました。「どちらから」「北海道」「北海道はどちら」「札幌」「札幌は白石区?」「イヤとなり」。本殿前までガイドしました。4人とも涅槃門の透かし彫りに、本殿の天女さんと熱心に撮影されます。でも、取りこぼしがある様です。「あかとんぼ瑞鳳殿ガイド日誌でチェックされたら」と勧めました。ドサン娘のサッパリしたお嬢さんでした。仙台観光は如何でしたか。



11 月 5 日 (土)  



 「瑞鳳殿 正面は何れの方向を向いているか」



 まずは、
 「ぐるーふ・よっこより」のガイド基準・指導要領には、古文書等での証拠に基づかないガイドはしないようにがあります。歌舞伎・講談・小説等の創作芸術に起因する俗説は駄目ヨというものです。(当然の事ですが、聞く人々のズレに悩む事もあります)

 つぎに、
 政宗公の終の棲家は、何故「経ケ峯」(現在地)に定まったか。
 定説によれば、参勤に旅立つ前に、北山」・西山と巡り、ここ「経ケ峯」で初不如帰(ほととぎす)を聞いた故と云われています。表面的にはそうでしょうが、果たして、それだけでしょうす。あかとんぼは 1.位置的問題(仙台城を指視の位置と距離) 2.情緒的問題(宗教的に霊地、板碑・寺院の存在。地名の由来)もあったと思っています。

 本日 仙台市博物館主催で仙台市史セミナーが開催されました。講師の東北大学名誉教授・仙台市史編纂専門委員の入間田宣夫先生から「瑞鳳殿の正面は仙台城を向いている。それは何故か、伊達家の行く末を見守る為である」の発言がありました。

 冒頭の質問の答えにはなっています。あかとんぼのこれまでの推論と、今回 著名な先生と不十分ながら 一致しました。いささか生意気は発言かもしれませんが。

 「不十分ながら」と申しましたのは、瑞鳳殿の正面は、確かに仙台城を向いています。しかし、政宗公のご遺体は、瑞鳳殿復元工事調査結果では、正反対の東の方向を向いています。正に仙台城下・領民を見ています。

 まして感仙殿・善應殿の正面は城に背を向けて、瑞鳳殿を向いて居ます。と云うことは瑞鳳殿の先にある、仙台城下・領民を見ていますとなります。

 こ此の点が迷う所であります。

 これでは、「伊達家の行く末を見守る為」の説明・立証にならないのでは。単純に「伊達家の行く末を見守る為」と言い切れるかであります。
 些か悩みが増えました。
 
 本日 「ぐるーふ・よっこより」のガイドの諸先輩も参加されていました。あかとんぼの認識誤りありましたら ご指摘よろしくお願い致します。



11 月 3 日 (木)  



 文化の日。昔は明治節。晴れの確率70パーセントの特異日だそうです。

 紅葉は 未だ始まりません。地元紙の解説によれば、地球温暖化の影響で20日ほど、遅れているそうです。あかとんぼが03年に撮影したの紅葉の写真をお見せすると「こんなに きれいなの」みなさま驚嘆されます。あの錦秋が待ち遠しいです。(本HP 四季に掲載写真)

 あかとんぼと同年配の御顔がそっくり三婦人に「今日はどちらから・・・」と問うと「ハイ 東京。生まれは山形の・・・・・・」「ハイ 生誕地と生年月日は結構です」 お互いに苦笑いしました。
 身長・体型もそっくりです。「本当のご年齢は?」の問いに、怒らずに「・・・と・・・と・・・です。8人姉妹で、残った6人 作並に集まり 姉妹会なの」「ウチの主人が世話役なの」「度量の大きい、殿様の様な人ですネ」「ハイー」皆様ニコニコでした。
 「ウチの主人」は復元された政宗公の尊顔そっくりでした。

 「小次郎の肖像画等の資料ないか」のお尋ねがありました。政宗公の弟で、1590年4月に故あって暗殺され、墳墓は宮城県本吉郡横山南澤村(現登米市津山町)にある迄は知っていましたが、それ以上の事は了知しておらず、「わかりません。本日 学芸員が居ますので、事務所でお尋ねください」と返答しました。
 あかとんぼの知識のテストであったか、事務所に寄らず降りて行きました。

 読者の方から次の様なメールを頂きました。
 11月2日の記事を読んで。現代人の寿命は100年前の寿命50歳以下と比べれば30年以上も長くなってきておりますから 考えるものさしが全く違うのですね。チンプンカンプンの質疑応答となることは当然かも知れませんね。昔の14歳は立派な大人でしたから。(後略)

 ありがとうございます。拙い日誌に早速の感想を頂きまして。



11 月 2 日 (水)  



 雲一つ見えない、暖かい 日和です。

 仙台市青葉区吉成市民センターの「仙台の歴史を探る 瑞鳳殿の巻」に参加しました。
 行政の効率化に伴う、広報誌の発行回数減少により、講座開設の広報が主催者の意図する様に伝わらず、参加者はわずか12人と少数でした。
 平日の開催とセンターの所在から、若年者は皆無で、初めての方が半数でした。

 出発は、10時ループルバスの停留所です。先ずは、辻標(仙台市制八十八周年記念事業・由緒ある町名・通名と八十八辻標)の47番に記載された、昔日 この辺は「霊屋下」と「瑞鳳寺前丁」と称する地名であり、それは、霊屋を警備する御小人衆(足軽と同格か、其の下の格)の居住地であったという内容を読み 成る程と。
 それにしても、現在は御霊屋そのものを含めて 「霊屋下」と一括りは不可解な地名表示と思います。あかとんぼの生育地に「味噌○○まるめて」の表現があります。正にそうだと思います。

 現在 瑞鳳寺の門前に所在する「下馬石」は、昔日は此処に所在し、左右は鬱蒼たる杉の森であったらしく、昭和初期のその絵葉書のコピーを見広げて、60年余の変化に驚きました。

 経ケ峯に至る急坂の途中、正室愛姫が信仰したとも伝えられる穴蔵神社(夕日明神)と、俗称西南の役(当時は鹿児島地方騒擾と称している)の国事犯の墓地をみて、当時の仙台の人の人情の大きさに感心しました。正宗山瑞鳳寺山門からは、通常のコースです。公子皇女廟までで、12時ピタリに終わりました。

 市民センター主催の「仙台の歴史を探る」のタイトルの講座 故に 普段の全国からの参拝者対象のガイドとは異なり、勉強になり、新鮮でした。

 質問される方は、日本の国はここ100年で生活様式・習慣が大きく変化した事は忘れているか、知らないのか、現在を基準で、それは何故かと質問されます。
 1.政宗公始め 三代の殿様は当然 火葬であろうと、生葬が全くイメージされないことです。
 2.夫に先立たれたら、さっさと再婚したよろしいのに と云うことです。

 2.の質問の背景は、次のとおりです。
 11代齋義(なりよし)と奥方芝姫ご夫妻の墓碑前で「齋義公は田村左京大夫村資の三男、6代吉村の曾孫で、1819年5月21歳で11代となり、1826年2月に10代齋宗(なりむね)の娘 芝姫10歳と婚姻し、翌1827年11月27日30歳で亡くなられた。芝姫は11歳で夫に先たたれ、1858年4月43歳で亡くなられた」の説明があった事によります。





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