2008年3月の日誌
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3 月 30 日 (日)  



研修「平城遷都1300年記念国宝薬師寺展」にて、7世紀に鋳造された 月光・日光の両菩薩等を拝するため ガイドを休みます。



3 月 27 日 (木)  



瑞鳳山

 瑞鳳山と経ケ峯を1897年頃 称した旨  戊辰の乱の殉難者の供養祭をすべきであると 運動しているK氏から 御教示がありました。1897年1月17日付け河北新報に「瑞鳳山上の独眼流伊達政宗」なる記述がある旨の補足がありました。



3 月 26 日 (水)  



瑞鳳殿と瑞鳳寺 そしてその末寺

 参拝者から@ 「瑞鳳殿は瑞鳳寺の境内にあるとガイドブック等に記載されているが」の質問があります。又A「瑞鳳寺には 末寺があったそうだが その所在は」と問われた事があります。

@については、1636年瑞鳳殿を創建した際、維持・管理の目的で創建された寺が瑞鳳寺で、歴史の経緯から、ともに伊達家の所有・管理から離れ、瑞鳳殿は財団法人瑞鳳殿が管理しており、瑞鳳寺は 宗教法人臨済宗妙心寺派が管理しています。「瑞鳳寺の境内にある」の表現は正確ではないと、問われる都度回答しています。

Aについては、これまで「忠宗公 瑞鳳寺境内に 雄心院、天桂院、泰療院、定光庵、般若院、龍興院の6ケ院を建立 廟勤番を仰せ付ける。(1870年寺院由緒)」と、その所在は調査中と回答してきました。
 1664年の仙臺城絵図から1875年宮城郡仙臺町地引図まで 確認した結果、末寺の数に増減があります。
 最大限は1856年安政補正改革絵図に、3ケ所 7ケ寺でした。それでは、

1番目 現在のループルバス停留所裏 参道右手 御霊屋下19番付近で、3ケ寺 ??院(名称無記載)、般若院、定光庵です。
2番目 現在の旅館天龍閣と住宅付近 御霊屋下22番付近で、2ケ寺 ??院、??庵(?判読困難)です。
3番目 現在の瑞鳳殿から感仙殿に至る道の左側 向山一丁目5番付近で、2ケ寺 雄心院、天桂院です。

 1875年宮城郡仙臺町地引図では、寺名が確認出来ませんが7ケ寺です。1870年寺院由緒とは一致しません。

蛇足
 先般 「某学芸員情報によれば その昔 参拝者から木戸銭を徴収した」とEさんから聞きました。その場所、額、時期、証拠資料名等は不明との事でした。
 1664年絵図には、東西参道分岐点に 木戸門が記載されています。ここで徴収したのでしょうか。1673年絵図には記載ありません。無料開放したのでしょうか。



3 月 24 日 (月)  



 仲間の勉強会が、「史跡 陸奥国分寺・国分尼寺跡」で、仲間のU氏を講師とし催しました。

 陸奥国分寺と尼寺は、741年に創建され、1189年源頼朝によって焼却されました。国分寺の跡地に政宗公が薬師堂を1607年に再建しました。1955年から寺跡の発掘調査が継続されています。これらを踏まえて U氏作成の詳細な資料のもと 丹念に探索しました。
 大変良くできた資料です。ご希望の方 お申し出下さい。斡旋します。

 通常のガイドブックに記載の無い話
1.政宗公 1593年の渡海の際 軍船に僧侶が紛れ込んでいた。明國に佛教の勉強に行く陸奥国分寺の僧であるの申告であったので 領内の僧で感心な事と 渡海を認めた。引揚船には、陸奥国分寺の僧称する僧がいた。これも乗船を認めた。これら僧の功徳か 往復の航海が安全無事であった。政宗公が帰国後 国分寺を詣って その僧侶に面会を求めたところ 斯様な僧は存在しないと云われ、 「ハタ 薬師様が 姿を変え 航海の安全を守護してくれたのか 有り難い」と、1607年に薬師堂を創建された。

2.政宗公は、晩年 国分氏居城跡の古城(フルシロ)に 居城を設けた。 薬師堂は古城から一視一直線上にある。この線上に母親 義姫供養の為の保春院を1636年に創建した。

 以上は、薬師堂僧侶の話で あかとんぼ 初聞です。真偽のほど不明です。

3.現国分尼寺には、和賀忠親主従の墓があり お詣りしました。1600年に和賀一揆争乱の責任が伊達家に及ばないようにと同寺で「自殺」したと冶家記録等に記載されています。さて 真相は?平凡社刊「宮城県の地名」では 「暗殺」したと記載されています。。
 現墓石は、1995年武田長助氏が整備したとの標柱がありました。この方 いずこのどなたか 末裔なのか が話題になりました。何れも正解は出ませんでした。

 勉強会 あかとんぼ が担当した仙臺城と仙臺城お裏林 以外は雨に恵まれている感じ。今日も雨。講師の熱気を冷やしているのかな。



3 月 23 日 (日)  



 臥龍梅が開花しました。ハールです。
 嬉しくなり参拝者に「梅が咲きました。臥龍梅が」と申しても 怪訝な様子です。
 「梅は散っています。櫻が咲き始めたのに 何トボケタ事を云っているの」の表情です。これからがガイドの醍醐味です。

 仙台市役所主催「仙台再発見」なるツアー。10月からの観光キャンペーの前触れ、市民ガイドを養成したいとの趣旨。最小限3時間欲しいところ、50分で説明゙するようにとのご指示。

 瑞鳳殿をお詣りするのが初めての方半分以上、 満海上人を知っている方 半分以下でした。ご当局の目論見のとおりガイドをする気持ちになるように あかとんぼ としては、知人を案内する時 役立つように内容に 配慮しガイドしました。

 62石段の横を登っている方に、「殿様は この石段を登られました」と小さく囁いたら サッと移られ登って行かれた盛年ご夫妻。ガイドしたかったですが、上記一行出迎えで出来ませんでした。

 弔魂碑の裏に聳えていた配電盤が移動し、背景がスッキリしました。

補足
 臥龍梅は、1593年朝鮮半島から鉄兜に入れ 持ち帰ったといわれ、瑞厳寺境内に八重の紅と白の2本、政宗公の晩年の住まい 古城(現宮城刑務所構内)に白の一重1本あります。
 ここ瑞鳳殿の臥龍梅は、古城の末裔です。西公園と片平市民センターにも末裔の梅の木があります。
 品種改良されたの記録がなく、原木と理解しています。実は数ならず 実生は あかとんぼ は成功していません。



3 月 21 日 (金)  



弔魂碑

 仙臺では、何故 戊辰の乱の殉難者の供養祭をしないのか。するべきであると 運動しているK氏から 調査資料の最新版の送付が20日にありまし。その日、あるグループのメーリングに「遠縁に当たる百歳に近いおばあさんの葬儀があり、喪主の挨拶に母は、「但木土佐」の玄孫の一人だった。斬刑された時53歳。その時にもう孫がいただろうか、玄孫でもおかしくはない」がありました。なるほど 計算は合います。
 さて、この方に、 瑞鳳殿には「戊辰の乱の殉難者の弔魂碑があり、粛々と責任を取った姿に感銘する 但木土佐のファンも 参拝に見えます」と知らせたら、「知らなかった」の返事がありました。 現仙台市長も知らなかったそうですから、当然かも。
玄孫は 知っていたのか。1968年6月14日但木土佐成行百回忌追悼式が催されましたが 出席されたか。

 戊辰の乱の殉難者の末裔の方々に 弔魂碑が瑞鳳殿境内にあります。と広く伝えたいと 思いました。問題は 末裔の方々が 末裔である事を知っているか です。

 注
 但木土佐成行のお墓は 知行地であった大和町の 保福寺にあります。



3 月 17 日 (月)  



昨日 お客様との会話の続きです。

1.涅槃門で「この彫刻の作者は誰ですか」 戦災で焼失、復元したものですと語る前での質問です。江戸時代に創建された建造物 これだけ見事であれば 地元の人は必ずや 「左甚五郎」と 答えるであろう を期待している風情。

 「左甚五郎」ではありません。「左甚五郎」作と云われる彫刻は 大崎八幡宮にあります。昔人の寿命から逆算して 左甚五郎の作品歴が異常に長いです。私見ですが 見事な彫刻に対する尊称として左甚五郎作があるのでは。

 軽く老人を揺さぶったのでしょう。これにて一件落着。

2.社寺仏閣・彫刻を見歩いている風情のご婦人。涅槃門の透彫り を見直して「アラ どこかで 同じ 見事な透彫り 拝見したわ 何処だっけ」 「もしかして 京都・二条城ではありませんか」 「ソウー そう。どうしてアナタ ワタシの行った所知っているの?」

 「この透彫りは 日本三大透彫り 瑞鳳殿・二条城・高台院の一つと云われた聞いています。お客様 高台院は如何でしたか」
 「高台院だけ まだなの」

3.本殿前で、割り込み質問です。「この建物 毎年 イロアゲするのですか」 イロアゲとは 聞き慣れない言葉で一瞬戸惑いました。 豪華絢爛の彩りに 塗装の周期を聞いた物と理解し 「2000年に塗装等の補修を行っています。次回は何時かは わかりません」と 答えたものの よかったかな。
 帰宅調べました。イロカケとは、色あせた着物を染め直すとありました。なるほど、豪華絢爛の彩りの御霊屋も 色あせます。色あせた着物と同じですか。さすが年の功のご婦人です。

みたまま

 杉花粉対策か 顔面一杯のマスク着用の方います。記念写真撮影でも外しません。こんな事が、涅槃門前で。日差しが強いと感じたのか 帽子を深く被っています。白内障対応でしょうか黒いサングラスに、顔面一杯の杉花粉対策マスク着用の 高齢者3人 同行の若い女性は 多額の小遣いを貰った孫なのか 高価施設の職員なのか 高圧的指示に素直に応じています。ご本人はサングラスを通して見えていますが、出来上がった写真では、覆面姿 せっかくの美貌は?
 気の弱いボラガイドの爺さんは 注意できません。内心 アーアーと思うだけです。皆様なら どうしますか。



3 月 16 日 (日)  



 岐阜から家族ともどもマイカーで参拝に訪れ方。千客万来です。観光の季節 オープンです。9時から13時まで切れ間ありませんでした。

 9時開門。本殿前で若い男性から「ガイドして」の依頼に 話しを初めて様子をみましたら、政宗公についてそれなりに知っている感じ。「知っていますネ。大学は史学部ですか」 「イヤ 高校生です。政宗公に夢中になり 新潟から来ました。伊達家に政宗は2人いましたヨネ」 なるほど。
 彼が知っている事をなぞらえながら、ここでしか聞けない話しをしなければと、内心緊張しました。

 本殿扉の家紋をみていた、三女性から 「九曜紋の成り立ち、その意味合いを教えて」との質問。 「いつの時代 誰が どの様に意図して デザインしたかは 判りません。お答え出来ません。ただ この紋は、七曜(日.月.火.水.木.金.土)の星に、羅ごら と 計都の2星が加わり 九曜で九曜紋です。熊本の細川家から使用を許されたものです。・・・・・」とその経緯等を話ししましたら、納得され 「細川家と御縁があり 千年祭の企画等に携わりました。近衛家とも親しい御縁があります」 「そうでしたか、伊達家は近衛家とご親戚です。近いところでは、29世慶邦公は1844年4月近衛備子姫と婚姻されています。23世重村公は、年子姫と1760年2月婚姻されています」
 「伊達家と近衛とはご親戚とは知らなかった。私どもの活動資料を送ります。ところであかとんぼ さんは 何年生まれですか。私は戌です」
 あかとんぼ自身は 若いつもりでも 見る人みれば同年配と判るようです。

 拝殿の扁額で 「当時 全国的に名の知られた書家佐々木文山 満76歳の時の作品です・・・・・」  「アレー ワタシと同じ歳・・・」元気なお声。この女性 三段一段の急な階段を軽々登られましたので 60代中程からとみていました。実年齢より運動年齢が10歳も若い。大変結構なことです。羨ましい。

 三段一段の急な階段を「なぜ このように造ったのか それは 宗教心理学からみれば・・・」と解説してくれたお客様 いました。
 「1945年にアメリカが何故空襲し焼失させたか。それは 佛教施設であるからで、イランイラク戦争の本筋は・・・・・」と解説してくれたお客様も いました。
 高齢者の生涯学習の場として なかなか有効な場所です。

 全山を覆う杉の森 焦げ茶色になってきました。間もなく杉花粉が 雲のようなかたちで飛ぶでしょう。その対応でしょうか 仙台市森林課が調査伐採する旨の表示板が立てられました。

 140年前の戊辰の乱の受難者の弔魂碑の前に 立ち止まり メモをされる方 数組ありました。特徴を語りながら 末裔の方でしょうかと尋ねましたら 否定されました。何れにせよ 世間の風向きが変わったのか 関心持たれ始めたようです。近日 (財)瑞鳳殿では 後方の受電盤を移動させ 景観の修復工事を実施するそうです。よいことです。 



3 月 13 日 (木)  



 伊達62万石。
表向き これで家臣団を支え、政治・行政・警察・民政の経費を賄う訳です。
では 家臣には幾ら配分されているかです。
 280,262石 45%です。
内訳は
  御一門 137,250石 トップ 亘理伊達氏 23,852石
  御一家    5,077   トップ 片倉氏    18,357
  準一家     937   トップ 高泉氏     2,700
  一族      3,165   トップ 茂庭氏    13,000
   宿老       560
  着座    4,783   トップ 岩沼古内氏  7,042
差し引き残 3 39,739石が殿様 分 なれど 足軽等の人件費を含みます。

以上 仙臺人名大辞書1933年刊行ほかに寄りました。
石未満の関係で合計が一致しません。



3 月 9 日 (日)  



 啓蟄を過ぎ、日にまし日差しが温かくなりました。出足も速くなりました。9時開門と同時に参拝に見えます。仲間も啓蟄、昨日は2人もガイドに。「アッ○○さんと△△さんが出たんだ」と独り言。聞いた事務の☆☆さん 「あかとんぼさん オバタリァンでないですよ △△さんですよ」 そうです 新進気鋭の方です。どうして そう聞こえたのでしょう。

 明治の始め、白石・亘理から渡道開拓しています。末裔の方々が見えました。
 札幌市白石区からの方、「先祖は、函館に上陸して、陸路 現地に入植し、村に、町になり、区になった」と語りました。
 伊達市からの二組のご夫妻は、「亘理伊達家の家臣の末裔で、移住者の4代目。昨日 仙臺で法事をしました。本日は、まず 政宗公等の三霊廟を詣りに来ました。そして祖先墳墓の地 亘理に行きます」と語りました。

 末裔の方々、先祖の開拓の苦労は、伝承になっても、血が祖先墳墓の地に向かわせるのでしょうか。

 福島県は郡山のご夫妻、愛姫の御霊屋は瑞厳寺に有りますとガイドするとガックリの表情。隣町が愛姫の生誕の地 三春町 政宗公と一緒と思って お詣りに見えたそうでした。
 手持ち資料の藩志会の人々の裃姿での参拝写真をご覧に成り、是非 当日 参拝したい 「5月24日9時30分」 とメモしていました。お待ちしています。

 上記に 大阪の女子大生等 今日ガイドを聞いてくれた方々 一様に「聞かなければ スーと通過してしまった。よかった」と喜んでくれました。聞いて頂きまして感謝致します。

 Eさん 「2月28日の勉強会 伊達家の系図で 藤原鎌足が始祖 と話ししたでしょう。この系図をご覧」と 和紙に書かれた某家の系図のコピーを見せてくれました。なんと 始祖が藤原鎌足です。となると某家と伊達家は始祖が一致するご親戚です。由緒正しいお家柄です。ヒェーと驚く あかとんぼ に「系図とはそんなものですよ」
 ある時代から以前は、願望が固まって作られた系図となるのでしょうか。あかとんぼ家は 16??年以前は現在不詳です。願望を強烈に持って探す出した(系図を作った)人が居なかった訳です。これから しましょうかな。



3 月 6 日 (木)  



 本日 片平市民センターには、「住む人のみ知る経ケ峯マップ」を作る講座があり、現地住民対象に有料地区は立ち入りしない確認会があり 勉強に参加しました。

 経ケ峯を対象にして、瑞鳳寺山門の裏表を丁寧に説明して、瑞鳳殿等伊達家の霊廟を除くのは、饅頭の皮のみ食べて餡を食べずに捨てる様なものと感じました。

 伊達家の家紋は、10家紋である。博物館でも、寺でも その様に説明しているとの主張。ここで あかとんぼ 曰く 伊達家の家紋は8家紋です。10家紋 16家紋とも語る方いますが、伊達家で公式に認めているのは8家紋です。年代順に申しあげますと、三引両、竹に雀、菊、桐、九曜、雪薄、牡丹、蟹牡丹です。
 尚、博物館学芸員が、幕府に提出した書類控に基づいて8家紋と講義・公開しているのに、なんで。34世18代伊達家当主のHPでも 8家紋と説明しています。

 1819年11代を継いだ斎義(ナリヨシ)公は、広瀬川の浸食による崩壊の危機に有った経ケ峯・瑞鳳殿側を護岸工事を施工し、「太山府君」と記した鎮護祈願碑を設置しました。この碑は健在で 「太山府君」と自然石に太く彫られています。
 郷土史家が「山府君」と誤記しました。その道の専門と称する方が、「先輩は正しい」と譲らず、写真を提示したところ 妥協として 「太山府君」(泰山府君)と記載を認めたそうです。

 ストレスが溜まる確認会でした。市井の老人の戯言と相手にされませんので、ここにて毒だしします。

 H代表の 「資料の孫引きは危険だ 可能な限り原本に当たれ」 誠に至言です。かかる指導に感謝です。 



3 月 5 日 (水)  



 2日日誌  石塔奉納の茂庭周防守良綱と殉死者茂庭采女兼綱との 関係について照会がありました。調べました。
 
 石塔奉納の茂庭周防守良綱は、鬼庭左月(人取橋合戦で戦死73歳)の孫。政宗・忠宗の両公に仕え、志田郡松山邑13,000石 御一門で、執政職(家老職)を38年間務め 1663(寛文3)8月に85歳卒です。

 殉死者茂庭采女兼綱は、上記松山の茂庭家の家臣斎藤孫左衛門の子で、政宗公の近習として1,000石。殉死時44歳。家臣東海林茂傳治・横川角兵門兼綱は采女兼綱に殉ずています。采女兼綱の子は 禄高800石です。

以上の通りで、親族・親戚の関係は無いです。いつから「斎藤」姓から「茂庭」を名乗り、近習として政宗公にいつから仕えたかは、判明しませんでした。

 采女兼綱と その家臣横川角兵門兼綱と 同じ「兼綱」を名乗るとは不可解ですが真相は不明です。

 以上は、仙臺人名辞書1934年2月仙臺人名大辞書刊行會発行、宮城県史29巻1986年3月発行によりました。



3 月 3 日 (月)  



 読者の皆様

 プリンターEPSONの PM-930C PM-940C PM-950C PM-970C PM-980C をお使いの方 この機種適合のインク(染料)
ブラックICBK21 2個 ダークイエローICDY21 2個 
ライトマゼンタICLM21 イエローICY マゼンタICM21 シアンICC  各1個 合計8個 未使用未開封を 差し上げます。

 使用中のPM-950Cが故障し 修理費が新機種と同額必要との見積もりで 修理を断念しました。故に 買い置きしていました 上記 インクが不用になりました。
使って下さる方 ご一報お待ちしております。

あかとんぼ



3 月 2 日 (日)  



 日差しが温かくなり、参拝者が多くなりました。

 セット中に、早速声がかかりました。65歳頃のご夫妻です。若いお嬢さん3人が別途加わりまして、涅槃門から拝殿扁額に、本殿と至りました。参加型ガイドを致しました処、三嬢の答え・発想が、「想像を絶する奇想天外・アッと驚くタメコ゜ロウ」でした。これがガイドの醍醐味でしょうか。一緒したご夫妻も「アー驚いた」と洩らしていました。
 越後の方で、「ご夫人が美術工芸品に興味があり主導し、ご主人が記録係で歩いて居ます。越後の上杉家との関係を初めて知った、米沢経由で帰宅する」と、喜んでいました。

 「ボラガイドさんいませんか」 の大声 バラバラと。「アッイタ ヨカッタ」と。埼玉県行田市の商工会議所会員一行?。松島瑞厳寺を参拝、秋保温泉に宿泊、仙臺城の政宗公銅像を拝し、締めくくりに瑞鳳殿を訪れたとのこと。研修と称する観光旅行は朝から微醺を匂わす団体がありますが、そんなこと有りません真面目です。

 ガイドを捜すだけあり、色々質問がありました。
 1.涅槃門・本殿の彫刻の材質は何ですか。
 2.創建当時の工匠は誰ですか。左甚五郎も参加していますか。
 3.墓室の石材はいずこの産の石ですか。
 4.硯の原石があるそうだが、どれですか、その特徴と名前は。
 5.茂庭氏(周防守良綱) 奉納の石塔はありますか。どれですか。
 6.殉死者 茂庭采女兼綱の寶筺印塔は どれですか。
 7.ここの飛天の特徴はなんですか。
 8.杉の大木の伐根あるが、復元の際 用材に使用したのですか。

 行田からの同行しているガイド。対象が全国区のガイドなのに、ダテに亀の甲(年功)ではない 勉強しています。菩提寺は松島瑞厳寺と知っていました。で「瑞鳳寺の性格 瑞鳳殿との関係は」と確認してきました。

 参道登り口でタクシーから下車し、62石段に驚き 高齢で足腰が丈夫でないを気遣って参拝中止の様子の一行がいました。運転手に南参道から職員駐車場に迂回するように提案しました。三段一段は両脇抱えられ参拝し、「お陰様で政宗公にお詣り出来ました」と喜ばれました。障害を持ち始めた年長者に喜ばれることは 嬉しい事です。

 資料館が 改装開館しました。ビデオ画面が更新されました。「ビデオ ジックリご覧なれば30分要します」に 「そんなに長いのか・・・」とブツブツ 申される方います。で 直ぐ出て来るかなと 観察していると 出て来ません 30何分後です。

 仙台駅から東北大学片平構内を通って来た。観光バスがあるのか。観光バスで来れば割引があるのか。と券売所で語り 不満げに入ってきた方おりました。
 でも、バス代節約になりました。30分歩き健康になりました。景色をゆっくり見ました。結構なことではあませんか。ボラガイド活用すれば尚良いと思いますが無視されました。





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