2009年3月の日誌
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3 月 14 日 (土)  



松之廊下

 1701(元禄14)3月14日、江戸城松之廊下において、勅使御馳走役浅野内匠頭長短(ナガノリ)(播州赤穂53,500石)は、高家筆頭吉良上野介義央(ヨシヒサ)を斬りつけた。
この時の相役、勅使御馳走役は伊達左京亮村豊(伊予吉田30,000石)です。浅野内匠頭が切腹した屋敷の主は、田村右京大夫(陸奥一関30,000石)です。時の月番老中は稲葉丹後守正往で、その娘仙姫は4代綱村の正室です。政宗公の血脈の方々が斯くも関与しているのは歴史の偶然と考えるか、何かあるかと考える所です。

 この事件の発端は、1590年(天正18)年8月9日秀吉の奥州仕置に遡るとするものです。

 徳川時代、「不通」と言われる関係があり、惣登城等の式日に挨拶しない、行列も譲らない、同席しても顔を背け、口をきかない程の断絶状態の関係です。
事例として
前田家(加賀1,020,000石)と細川家(熊本540,000石)に丹羽家(陸奥二本松100,000石)。
島津家(薩摩730,000石)と伊東家(飫肥51,000石)。
黒田家(福岡470,000石)は細川家(熊本54,000石)と蜂須賀家(阿波25,000石)。
南部家と津軽家。それぞれ歴史的経緯ありました。
幕閣も頭を抱えた事例は、伊達家(陸奥仙臺620,000石)と浅野家(芸州廣島420,000石)。両家とも高格式家、大広間詰で、影響が大きかった事です。

 この伊達家と浅野家の不通の始まり、断絶は、1596(慶長元)年7月に発生した伊達家の家臣が殺害された事に立腹した政宗公が、昔年の恨みを11ケ条とも云われる箇条書きにした絶交状を発したにあります。
日付は文禄5年8月14日 署名は羽柴越前守政宗花押 宛先は浅野弾正少弼殿 人々御中となっています。政宗30歳 浅野長政は豊臣五奉行筆頭50歳。政宗公の面目躍如。なお文禄5年は慶長元年で1596年です。
これ以来、105年経過しても断絶状態にあったそうです。

 時の老中 稲葉丹後守正往は、両本家の融合の手順として、まず末から融和と考え、勅使御馳走役に、伊達左京亮村豊と浅野内匠頭長短に命じた。しかし、双方の家臣も祖先の遺言を守り不通を続けた。相役同志の横の連携・連絡をとらなかったらしい。それに浅野長短の個人的な精神の弱さが暴発し、標記の事件となったが深(真)相と見る説があります。

 田村右京大夫が浅野内匠頭長短の身柄を預かり、切腹の場を提供する羽目に至ったのは、奏者番として出仕していた巡り合わせです。外様の小大名が奏者番に就任は出世と評価されています。

この深(真)相説の評価は別として、仙臺伊達本家、分家一関田村家、別家宇和島伊達家の分家吉田伊達家のオール伊達家が濃く関与している事になります。何か血脈の怨念か不思議なものを感じました。

 伊達家と浅野家は1994(平成6)年10月3日 398年目にして、松島観欄亭での茶会において伊達家18代泰宗氏と浅野家17代長愛氏との間で和解されました。


本項は、「仙台市史、小林清治著伊達政宗、古川愛哲著九代将軍は女だつた」を参考にしました。

 私 あかとんぼ は以上の予定稿を書き上げた時点に、瑞鳳殿でのボラガイドの実績を評価され、宇和島市役所(商工観光課)から、3月一杯滞在のご招待を頂きました。滞在中 伊達家の史蹟を隈無く訪れる予定です。その結果、内容の変更・修正があり得ます。阿含み置き下さい。



3 月 1 日 (日)  



曇りで低温です。春はまだまだと感じます。
お客様は、神戸をはじめ全国から続々、若い人々を中心においでになりました。

 若いお嬢さん。武将ブームの一環でしょうか。「撮影ポイント教えて」 「いいよ」 涅槃門の右サイトと正面下向きの遠望、拝殿、本殿を案内しました。「撮影したのです。お詣りしてネ」 「ハイ」 素直です。
 間もなく降りてきました。自由に撮影したら満足、資料館を見学しなかったようです。

 別のお嬢さん集団。ガイド依頼してきました。期待に応えるべく涅槃門6面の透かし彫りから丁寧に説明しました。「ご質問ありませんか」に、「ハィー 政宗公は生涯 独身でしたヨネー」  直前 本殿扁額は長男忠宗公の直筆ですと語っています。 聞き流されたのでしょうか。 「お客様 NHKTVの見過ぎでありません?」  ここで ハッと気がついたようです。上杉謙信と混同したのです。

 「側室飯坂局との間に長男秀宗が居ます。宇和島10万石で宇和島伊達家を創設しています。正室愛姫との間に、政宗公次男、愛姫長男の忠宗公が仙臺伊達家を嗣いで居ます。側室は何人か居ました」質問者は納得の評定。特に若手の数人は怪訝な表情「結婚する前に女が居て、しかも先に出産しているとは?」「不潔!」 ごもっともです。時代が違います。

 円熟した女性。「家紋の説明聞きました。いつ(何代)迄 使えるものですか。我が先祖は竹に雀の家紋を頂いています」 「家紋に使用期限はありません。いつまでも。竹に雀の家紋は時代で変化して、現在の葉が52(内22.外30)露16(内12外4)節8となっています。誰が何時(いつ)誰から頂いたものでしょうか。それによって、異なることがあります」 「現在埼玉です。紋付き着用の機会無く、詳しい模様等わかりません。勉強なりました」 「とういたしまして」

 EU圏の顔立ちで円熟年代の女性。「you from to country?」 「 France」 予想は当たりました。ガイドをして欲しい様子。「no speaking France we Japanese only」 「you guide?」 「yes guid」とガイド陣羽織の襟文字を示しました。「no read」 当然の返答。別に国粋者ではありませんが、ガイドしなければ日本男子として、長年 瑞鳳殿でガイドとして「○○が廃る」の気分になりママよとガイドしました。

 涅槃門では、「麒麟」は麒麟麦酒の商標で、透かし彫りは厚さ20cm 6面全部異なり 見る位置てまた異なるを納得して頂きました。
 拝殿扁額は、3ケ国語表記資料で一発理解。両手面を叩いて、貼り付けのゼスチァで納得して頂きました。
 本殿は、スラスラとガイトしたと記録したい気分。

 質問
1.政宗公が祀られているは理解したが 神様か 仏様か。  
2.1600年代 桃山文化であるは理解したが この色彩は中国、沖縄の影響を受けているのか。
3.寶筺印塔は殉死者の供養碑であるは理解したが この形はなにを表しているのか。 

同行の若い男性は 東京の大学に留学している息子で、激励に来日した母親でした。
フランスも雪は降りますが仙台は寒いのコメントがありました。11月の紅葉は素晴らしいです。再来をお待ちしています伝えました。

 Eさんから 地図を広げての発見。参道も石段であった様だ。登り口に門があった。の2点 標題を聞いた時点でガイド依頼があり、本日再会することなくサヨナラになりました。


 瑞鳳殿でのガイド9年目になります実績を宇和島市がお認め下さいまして、住家の家賃・光熱水費を宇和島市が負担し、交通費・食費・見学費は自己負担で、1ケ月滞在し、櫻観測隊のゲストを務める条件でお招き下さいました。千載一遇の機会です。明日 出発します。この間 ガイドは休みとなります。

 Uさんは宇和島市を何回か訪れていて、博物館学芸員を紹介して下さるとの事。本日紹介状と資料を頂きました。有難い事です。
 宇和島と吉田の両伊達家の史蹟をつぶさに拝見し、又、幕末の争乱で 宇和島伊達家がリダーの一画を占める事がなぜ出来たのかも 知れれば最高と思っています。

 あかとんぼの技術面から 現地からの更新は断念しました。色々技術指導・アドバス下さった方に感謝します。 





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