2009年7月の日誌
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7 月 31 日 (金)  



瑞鳳殿を参拝されるお客様 多数の方は、作並温泉または秋保温泉に投宿し、奥州仙臺の名湯を楽しまれます。

朝、ガイドの際 さりげなく「夕べはどちらにお泊まりで」 「ハイ 作並温泉 岩松 です」とか 「秋保温泉です」のお答えを頂くと なんか旅行にゆとりを持たれているな と感じ、ガイドも滑らかになります。

ガイド仲間のUさんから 「作並温泉で碑があり、苔が生え 文字が読めないで お客様に聴かれても答えられずに困って居るらしい。お得意のカタクリコ作戦で 世の為 社会の為 頑張りませんか。役に立つ 年寄りの存在を示す機会ですよ」と誘われました。

新聞の運勢は「煽てに乗るな」とありましたが、ここまで上手に 煽てられれば 乗らない訳にはいきません。
七つ道具 @片栗粉AバケツBブラシC雑巾D鎌Eゴム長Fエプロンを車に詰め込み。通常は このほか 水2リットルを何本か、虫さされ対応の薬を持つ事もありますが、今日は水源の側とわかった居たので水は持ちませんでした。デジカメとメモは云うまでもない必携です。

場所は 作並温泉 岩松旅館 の真向かい 温泉神社の境内です。早速 Uさんと水を掛けながら、洋ブラシと金束子(カネタワシ)で碑面を損なわないように擦ります。苔と垢が流れます。未だ 文字は読めません。綺麗なり彫溝に余分なものが無くなった所で、いよいよ片栗粉の出番です。塗ります。満遍なく塗ります。余分な片栗粉を乾いた雑巾で拭きます。彫溝に片栗粉が残ります。黒い稲井石の碑面に文字が鮮明に浮き出ました。

作並温泉碑 従五位伯爵伊達宗基袈額
作竝山在仙(検出不能文字)臺 城西七里廣瀬川發源・・・・・・・・・・・養老五年釈行基・・・・文治五年源右大将東征・・・・喜蔵・・・・・・・・楽山公・・・・(岩松氏歴代開発に尽力された) 
明治二十年歳次丁夷七月二十五日仙臺湯村行作撰弁書
とありました。

作業開始30分 文字が鮮明に浮き出ました頃、社長が駆けつけ、由来・先祖の偉業が鮮明に記されているを凝視。作業の成果に歓喜アリアリ。手すきの男女従業員が多数 作業を見守っています。作並温泉の歴史を県図書館で調べたと語りながら真剣な眼差しで見ている方も居ました。

2基目の碑 「宮城郡作並邑温泉地坪之碑」とありました。

岩松の社員が撮影した碑面2枚をA3版に出力してくれました。あかとんぼ の能力ではA4版です。PC活用の現役に脱帽です。有難く頂きました。現代文に読み下し文に挑戦の宿題が残りました。

発起人の料理長と岩松十二代目社長。 近来になく 文字が鮮明に浮き出ました事、予想以上であったらしく 大変喜んでくれまして、名物の岩風呂(渓流添いの露天風呂)と豪華な昼食をご馳走してくれました。感謝です。

本来ならば 撮影を終われば 片栗粉を即 洗い流しますが 投宿されたお客様等にも 見て頂きたいです のご希望で作業はここでストップ。雨が降りますと 流れます。早めにお出かけになり Uさんとの傑作をご覧ください。


蛇足
渓流沿いの露天風呂は、浴槽が数々あり、一緒に入る人が居れば 脱衣所別の混浴になります。
湯船から眼下の渓流には 魚の大群が見られます。
大雨の時は 湯船が水没する事があるそうです。それ位 川原にあります。
地産地消をモットーに、ウド・自然薯の山菜に 葱等の野菜を自家栽培して食膳に供して好評を得ているそうで、帰路農園を拝見しました。発想を転換した栽培もありました。農園見学もどうぞ。



7 月 28 日 (火)  



石なおし

昨日の「宇和島伊達家見聞録」では、家祖伊達秀宗公の生誕から逝去迄を年表化し大まか辿りました。宇和島を知る基本と考えたからで、秀宗公の生涯を中心に政宗公、、秀宗公御生母、忠宗公、宗時公、宗純公(吉田初代)を語りました。整理し語ったあかとんぼ は理解しましたが、聴いてくれた皆様が理解してくれたかが問題です。

勉強されている方 沢山おります。事前に質問されました。
@秀宗公は政宗公に年間3万石分を払っていた。A支払いの必要が無くなった年間3万石分を宗純公与えた。本当か。

講義の中で回答したつもりですが、整理します。
@宇和島伊達家では 山家清兵公頼の監督下 宇和島城下北口に「仙台役所」を設置し支払いした。
A仙台市史近世1 141頁によれば 仙臺伊達家資料では受取と確認できない。
Bであれば 途中 誰か着服したか。
C伊達政宗言行録 木村宇右衛門覚書174頁には、自分隠居料を宗時公に譲るつもりとあります。この隠居料は宇和島伊達家からの年間3万石分と判断するのが妥当である。
D政宗公が亡くなる迄支払われて居ます。亡くなる前年の採りいれ時1635年秋迄です。
E宗純公に3万石の分知が認められたのは、1657年7月です。政宗公が亡くなられてから21年経過しています。

以上から ご質問の内容は成り立たないとなります。

秀宗公の所領は細かには 102,514石.386で 17郷:273ケ邑 人口(1757年)93,142人。

1647年領内の検地は 1間を、6尺3寸で実施しています。
1691年(2代宗利治世)の検地で72,000石から 100,000石に石直しをしています。殿様は國持各大名の格式・名誉が欲しいでしょうが、面積・領地の拡大無しに生産額を増やす。 1間尺に 縄延び が認められなかった事です。1.43倍の大増税になります。

和霊神社の説明の際、@秀宗公が山家清兵公頼を無断で斬殺した事を怒り、3年間勘当した。A山家清兵公頼の仙臺に残った長男は500石で仙臺伊達家に仕えた。B末裔は幕末 砲術指南約と要職にあった。C時勢に通じ、デペロッパーとして 屋敷を商業地に開放した。それが現在の東一番丁商業地としての発展に繋がった。以上を洩らしましたので付言します。
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7 月 27 日 (月)  



「宇和島伊達家見聞録」と題して、仙台市民会館第1会議室で 100分近く、ガイド仲間「ぐるーぷ・よっより」、「四ッ谷の水を町並みに市民の会」等の会員40人ほどの方々話しました。

内容は、この3月 櫻開花観察隊として1ケ月間 宇和島市に滞在し、観測の合間に、宇和島伊達家の墓所、吉田伊達家の墓所、宇和島城、伊達博物館、天赦園のほか、色々な史蹟を瑞鳳殿ボラガイドの目線で訪れました。
この間に蒐集した資料による話と撮影した写真のウチ80枚ほどフロジェクターをして 見て頂きました。

項目は
1.今 なぜ宇和島伊達家か
2.家祖 伊達秀宗公とは
3.吉田伊達家とは
4.宇和島城とは
5.家紋「竹に雀」に違いがあるか
6.山家清兵公頼とは
7.宇和島の景観・産業・人情は
8.臥龍梅・櫻は

配布資料は
   資料名             製作又は提供
1.宇和島伊達家系図       宇和島市立伊達博物館
2.伊達秀宗公年表         あかとんぼ
3.伊達家墓所略図         宇和島市文化財保護審議会
4.宇和島城下絵図         作者不詳
5.伊達十万石の城下町宇和島  宇和島市商工観光課

終了後、来年 会で宇和島を訪れる計画があります。アドバスを頂きたいのお声がありました。滞在中にお世話になりました 宇和島市商工観光課と宇和島市立伊達博物館の御厚意に 幾ばくの恩返しになれそうです。

時代を幕末に移し、東西伊達家を違いを整理し、機会ありましたら 皆様に報告したいと思っています。

炎暑の中 お出で頂きました、あかとんぼの拙い話しを聴いて下さった皆様 ありがとうございました。



7 月 26 日 (日)  



猛暑です。

開門一番のご夫妻。左右を眺め、何か唱っています。

松島(まつしま)の サーヨー 瑞巌寺(ずいがんじ)ほどの寺もない トーエーアレワエーエエ エイト ソーリャー
大漁(たいりょう)だエ と斎太郎節(さいたらぶし) (大漁唄い込み) を唱っているのです。どうされましたとお聞きしましたら、この歌に引かれて 名古屋の在から来ました。昨日 瑞厳寺を参拝、今日はこちらです。
気分は高揚しています。「歴史建造物が大好き」のご夫人の要望でガイドしました。

仙台の民謡 斎太郎節を聞きながらのガイドとは 初めてです。

オジサン(失礼 元気なお兄さんです)2家族一族郎党引き連れて、ビデオとカメラ撮影です。出会いの言葉「アツイー。出汁(ダシ) が出るー。お爺さん ガイド出来る。ガイドシテー」でした。誠に愉快なご依頼の仕方です。最年少小学2年生。十分配慮したつもりですが。「わかった?」に「ウウン!」

若いお嬢さん「アッ 居た お願い!」 どちらから」 「ハイ 大阪です」 「あら 先週も大阪から熱心なお嬢さん 見えました。今大阪では マサムネブームですか?」 「ハイ ソウデース」 大阪の熱心なお嬢さんのお友達?

(財)瑞鳳殿の調査では、関西地区のトップは大阪で、他の県(兵庫等)の10倍です。やはりブームなのでしょうか。

Eさんから「チョット手伝って! 東北大文学部のK君です。卒論の資料収集だそうです」
いつ 何年前からガイドしていますか。資料集 分厚いようですが どの様にして製作され どの様に活用されますか。この辺で 質問切れた と云うか 尋ね慣れしていない様子。

なぜ ガイドしているか。大儀は・・・・・。メリット・効果は・・・・・と 語りました。続いて Yさんが質問を受けていました。この程度の回答で卒論かけるか 他人事ながら心配です。

弔魂碑で手を合わせ 真剣にお詣りされているご婦人を見かけました。横目で通る方が多い中 珍しいです。
「戊辰の役で犠牲になられた伊達家家臣の末裔の方ですか。それとも 会津の方ですか?」と お尋ねしたら、首を左右に振られました。それまでです。「昨年10月10月10時から140年祭を、この碑前で催しました。今年も同月同日同時刻催します。宜しければ どうぞお出でください」 カスカに肯いて居ました。 


午後、黒川郡大和町まほろぼホールに移動。ここは三男宗清が政宗公からここを頂き 飯坂氏を嗣いだ地で、その墓所天皇寺の隣が会場です。常日頃ご指導頂いている 仙台市博物館市史編纂室主査の菅野正道さんの「宮城郡と黒川郡を結ぶ山の道」と題して講演を拝聴しました。

仙台城から江戸に向かう街道について講話を聴く機会はありますが、仙臺近郊、以北について話される人が皆無に等しく、政宗公以前、当時、以後の変遷等 實に興味深い講演でした。
奥州街道文化研究会、根白石探検隊等 仙台からのお顔が多数でした。参加者の8割が仙台市内からと推測されました。仙台に向かう国道を目指す車が会場から長蛇が物語っています。



7 月 24 日 (金)  



「藩祖伊達政宗公瑞鳳殿ボランティアの会」打合会が催されました。
(財)瑞鳳殿から常務理事はじめ計7人、瑞鳳殿ボランティアガイド11人が参加。

(財)瑞鳳殿から
1.前年度要望等事項の対応状況として、参拝者からも要望の強いバイアフリー・安全対策である手摺りの設置は市関係部局と協議中であり、第一順位として 急勾配の西参道に手摺りの設置、目地補修を実施します等、要望を真摯に受け止め 対応している旨の説明がありました。

2.21年度の主要・注目事業として、涅槃門の補修工事を実施する旨の説明がありました。

3.瑞鳳殿の公式ホームページ 求められる情報を速やかに提供できる様に改定する旨の説明がありました。

4.参拝者に対するアンケート調査結果の分析結果の説明がありました。
 ボランティアガイドの存在が好評価されていました。嬉しい限りであります。今後も期待に応える様 誠心誠意のガイドをする事を心中期しました。

ガイド代表から
1.土・日のガイドは、社会参加の場として、瑞鳳殿から提供して頂いているものである事を忘れるな。
2.参拝者に邪魔にならないように、また、自知識の披露の場でない事を十分に認識せよ。
等の心得を厳しく言い渡されました。

以上 理の世界の会議に続いて、情の世界 懇親会が会発足以来初めて開催されました。

宴席は大と小の2席にわかれまして、小の席では、こんな事が話題になりました。
@拝観料が券売窓口で高いと云われた事は無い。全く値上改定を行って居らず 他の施設に比較して相対的に安価では無いでしょうか。
Aガイドを聴いた方々は、満足され 苦情を言われた事は無い。ガイド付きで安いと云われた事があります。
B七夕 職員が製作したとガイドすると 皆様 エーと その器用さに驚かれます。
C紙細工展等の企画を検討しています。ボラガイトさん一緒に作業しませんか。智恵を提供して下さい。
D文鎮等 瑞鳳殿売店限定品 お土産・記念品に 仙臺を代表する品として贈っています。喜ばれます。
E在庫少なくなっています。再度 作る事は無いでしょう。
Fガイドユニホームの陣羽織 非常に評判がよく、モデルになっています。欲しいと申す方います。販売を検討されませんか。

短時間と感ずる程の内容の濃い打合会でした。瑞鳳殿を参拝する世界各地の皆様、管理する(財)瑞鳳殿の職員の皆様 この方々の期待に応え、且つ 自身の健康管理・維持に有効なように ガイドしなければと感じました。
この場を設営された(財)瑞鳳殿に感謝致します。



7 月 23 日 (木)  



林檎

政宗公より 娘 牟宇姫宛書簡に 林檎 が記載されていると 大阪のお嬢さんからご教示頂きました。

・・・・・きのふハ文、ことにここもとはつのりんご、ゑとにて大御所様、一たんと御かう物のよし申候まま、すなわち進上申候、・・・・・・(封書) 7月1日 むう  むつより

伊達政宗文書4 3432牟宇姫宛消息 による。
解説では政宗公在国中の寛永元年(1624)、4年、6年、8年のいずれかのもの となっています。

寛永元年(1624)頃、伊達領内で林檎が産したことを示すものです。旧暦7月1日では 太陽暦に大まか換算して8月上旬になります。現在は極早生品種です。古来の和林檎はこの季節に採れたのでしょうか。

政宗公は、大御所秀忠に 珍しいものです。初物です。お中元ですと、贈ったのでしょうか。

寛永元年(1624)であれば、政宗公58歳 牟宇姫16歳です。政宗公42歳の子となります。歳の子(娘)は可愛いと云います。その典型でしょうか。

参考 牟宇姫 略歴
母 側室柴田氏。石川駿河宗敏の室。宗弘、白石宗信、貞弘並びに2女の母。天和3(1683)年2月卒。76歳。法名はコ雲妙高、号は松壽院。伊具郡角田 長泉寺に葬。



7 月 22 日 (水)  



仙臺城下の町屋は、茅葺きと瓦屋根と混在した。菅野さんの「歴史の窓」のサブタイトルです。

江戸の町の民家の屋根に瓦葺きが認められたのは、1720(享保5)年。仙臺城下も18世紀半ばから芭蕉の辻中心に増加していった。奥州街道沿いも芭蕉の辻から離れると茅葺きの家 と土蔵造りの家とが混在していたとあります。

さて20日の参拝者「涅槃門、御供所、拝殿、本殿の屋根葺きは、戦災焼失前の材質はなにか」の質問。
焼失前の写真から銅板葺きであり、その様に復元されたと確認しました。

あかとんぼ は戦災焼失前と創建当時とイコールと考えていました。疑問があります。
大崎八幡宮、陸奥国分寺 共に柿葺きです。仙臺城の大広間図(仙臺城沿革附図)による屋根は柿葺きです。大手門は本瓦葺き、中門、詰門、子門等は瓦葺きであったと記録されています。
さて、瑞鳳殿は築30年程で大修繕をしており、この周期で補修されたのではと推測されています。

となれば、国宝に指定された1931年から焼失した1945年までは、現在と同じ銅板葺きであったでしょうが、それが創建当時からではなく、ある時期に「柿葺き」から「瓦葺き」そして「銅板葺き」に葺き替えられたと推測出来ます。
拝殿から本殿の外観から説明していますが、「創建当時」ではなく「戦災焼失前」と言葉使いを注意してガイドしなくては反省しました。 

20日の参拝者曰く「九曜紋の軒瓦 これも銅製だ」。一見 瓦に見えます。26日双眼鏡を持参・確認します。

本日の菅野さんの「高度成長以降の開発によって、仙台では古い建築は次々と失われていった「伊達文化」を標榜する一方でで、その「文化」を支え、人々の営みの場となってきた建物や歴史的景観を壊滅してしまった。古いものを大事にしない一方で、安易に「伊達」を連発する風潮があるが、仙台に息づいていた文化と「伊達」の言葉の関係を、もう一度根本から見直してもよいのではないだろうか」のご発言。

あかとんぼ 同感です。そう思います。歴史的建造物を復元する際には、外観中心の安易な復元ではなく、基礎部からの完全な復元を目指すべきであった。あるべきと切々と思います。 



7 月 20 日 (月)  



参拝される方 昨日より少ないと感じました。
1000円効果は、数値に出ているそうです。ループルバス利用で割引対象者とそうでない方の比率、実施前の1対1から最近1対2(概略)になったそうです。確かに、土日は第2駐車場が開放されています。

本殿前でガイド終わったトタン「あかとんぼ(本名)さん お元気で。お陰様で息子2年生になり 元気に部活しています」と絶世の美人から声をかけられ ツーショト写真を渡されました。驚き ビックリです。

本殿も奥様も 輝いて写って居ます。HPに載せたいくらいです。ご主人から名刺を頂き、息子さんの名前お聞きしました。新聞で 活躍を確認・応援します。
モデルには度々なりますが、名前を忘れずに ご持参頂いたのは 初めてです。北九州市からの再来を約してくれました。「超カンゲキ」です。毎日曜日 欠かさずに ガイドしている継続の成果です。

建築コンサルタント風のオジサン4人。「瑞鳳殿再建の経過 瑞鳳殿再建期成会発行」「経ケ峯伊達家廟域の散策 瑞鳳殿叢書」を2冊をひっくり返しながら討議しています。観光ではありません、職人さんの研修でもありません。ツイ 割り込みました。
「涅槃門、御供所、拝殿、本殿の屋根葺きは、戦災焼失前の材質はなにか」と質問されました。焼失前の写真と配置図で、涅槃門、御供所、拝殿、唐門、太鼓橋等の配置、姿について 納得して頂きました。

「本殿建築の際、パイル打ち込みしているか、地盤の硬さは どうか」に 「パイル打ち込みしていると聞いています。仙台市全般の地盤は硬いでしょうが、本地付近は亜炭廃坑の心配があり 堅固がどうかは疑問があるようです」

ここで「亜炭とは」の質問。 「石炭になり損ねた燃料。仙臺を代表する工芸品 埋もれ木細工の素材です」と答えましたがご理解頂けなかったようです。亜炭の知らない世代でした。

売店に戻って「瑞鳳殿再建調査報告書」を見て頂きました。「経ケ峯の原地形と地盤」の弘法筆を選ばず開き、専門用語飛び交い討議していました。結論として、パイルの打ち込みはされていないとなりました。その外に、本殿の屋根は銅板葺きである。なぜ 瓦葺きでないかと 2.3の推論を並べていました。

この本〔「瑞鳳殿再建調査報告書〕20,000円か。欲しいが金が無いから小冊子で我慢する」と洩らし、買いませんでした。1人5,000円ですが、割り勘はしないようです。
何らかの収穫 得るものがあったのでしょう。喜び コヒーで乾杯していました。誘われましたが断りました。

お客様に喜んで頂ける これ無常の喜びですが こんな質問は ガイドが惰性では無いかの目覚ましになります。調査報告書 読み直しの機会でもあります。研究熱心の4盛人に感謝します。

E・ U・ NK・SNの各氏と久々に一緒になり有効な情報を交換。



7 月 19 日 (日)  



明日は「海の日」で祝日。三連休の中日。自動車道1000円効果。全国から参拝者が続々と見えました。

8時55分案内板白黒の政宗公像を若いペア 手を結びジイーと観ています。「カラーではこれです。原本は仙台市博物館に展示しています。畳2畳ほどの大きさです」   「教科書でみたよネ」「アリガト」              
爺様は お邪魔ムシの雰囲気。  スーと引き下がりました。 二人は手をつないで 涅槃門の透彫等を一目することなく登って行きました。

真っ直ぐ売店に向かったお嬢さん二人。出て来ました。「なにか よいグッズありました?」 「ハイ これ」 「自分にお土産 イイノヨ」と包装を解いて見せてくれました。 玉虫塗りの絵葉書等 「よいもの 見つけましたネ」 「ハイ」
全く素直です。「先週土曜日来たんです。ガイドさんいなかったので 政宗公関連グッズ買って帰ったのです。広げ整理していたら、親から 〔なに 我が家の家紋 買ってきたのか〕と云われ、初めて我が家の家紋を知りました。九曜紋です。今日は買い洩らした物を買いに来ました。ガイドお願いします」

人を服装で判断しては駄目ょ と云われています。その通りです。この2人 一見;歴女風?ですが、聞く態度は堅実そのものです。自省させられました。

北海道・苫小牧からの親娘4成人。ガイド途中ポコポコ質問されます。
そのひとつ。「昨晩 秋保温泉の北海道資本のホテルに泊まった。採石跡が見えたが この石段に使われているのか」 この様な質問は珍しいです。語りました。この石段の石はご覧の様に硬い石です。城下で採れ 仙台城の石垣、ここの石段に使われています。秋保は軟らかく加工容易で、政宗公の墓室は秋保では と云われています」

その2。「これは寶筺印塔です。殉死者の供養碑です。・・・・・末裔の方、苫小牧に居られるかたが5−6年前に一族でお詣りに見えました」 「ヘイー 誰だろう」の表情。「苫小牧の人口は幾ら?」  「172千人 ウンー」

岐阜から80婆。「次ガイドしてください」 「ハイ」。 「この龍と毛越寺 浄土庭園に居た龍との関係は」と誠に難しいご質問。わかりまん と答えたところから 話は進展。連れ合いの三周忌法要を終え、気持ちの整理ついたら80歳になった。娘3人を連れて 松島瑞鳳寺と平泉中尊寺のお詣りの旅出て来ましたと 話されました。

「山寺立石寺には これからですか。弘法大師縁の寺として この三寺を廻りお詣りされる方 いますが」  「禅宗だから そんな細かいこと 考えなくてよいの」  お元気です。盛年の娘に連れられてではなく、仕切って居ます。

洋犬を腕に乗せた夫妻。八王子から来ましたと語りながら「アノ金箔頂けないかな」 「それは無理ですネ 居所・様態 既にインプットされましたから」 「そうだ アハハー」 「どうして 資料館 ご覧ならないのですか」 「犬は 入れないと云われました」  「犬を交互に抱き 犬抜きで見学されれば」 「お爺さん さすが」・・・・・・

「政宗公のお墓は ここ1ケ所だけですか」の質問がお二人からあり、次の様に答えました。
高野山に政宗公と殉死20人の墓所と伊達家累代の墓所があります。何れも供養墓です。お骨が埋葬されたお墓ではありません。
火葬であれば分骨も可能でしょうが、政宗公等殿様は火葬ではなく 通常の土葬とも異なる方式で埋葬されており分骨は不可能です。

水も飲まず 語り続けて 切れ間が12時。一服したところに Yさんが 「陣羽織 着なかったら ガイド依頼のお声が少ないの」。 あかとんぼ は途切れなく依頼されました。やはり陣羽織効果でしょうか。


大阪のお嬢様から 林檎について こんなメールを頂きました。

政宗文書に林檎が出てきてたはず…と思い、少し調べてみたらありました!伊達政宗文書4収載の3432号文書、牟宇姫に宛てた書状です。
この書状に出てくる林檎は今私たちが普段目にする林檎の事だと思い込んでいたのですが、そうではなく和林檎なのか〜、と思うとなんだか新鮮な気持ちになります。

牟宇姫に宛てた書状は、早々に確認します。どの様に書かれていたか 興味津々です。政宗公と娘牟宇姫の親娘を取り結ぶ林檎。

秀宗公二男 伊達左京亮宗時 今 あかとんぼ が注目している人物です。調べ、ご教示頂きました。ありがとうございました。何れ発表させて頂きます。
資料を良く備えられ 勉強されています。もし 仙臺城下に居を構えていたら 早々門前に馬の手綱を結んだでしょう。



7 月 18 日 (土)  



鎮所

瑞鳳殿の東側、鹿落坂の登口付近は「鎮所」と呼ばれていました。

過日 伊達家史の土生先生から「11代齊義公の事績に経ケ峯の広瀬川の浸侵対策工事があります。それを示す碑の所在と現況は如何」とご下問がありました。

「ハイ 霊屋下6番XY号Oホテルの筋向の経ケ峯の斜面、草と土に埋もれて〔太(泰)山府君〕碑があります」と答え現況写真をお届けしました。

「この齊義公の事績を記録した書面、伊達冶家記録等を探したら 唯一発見しました」と、土生先生から次の図書をご教示頂きました。

広瀬川の歴史と傳説 三原良吉著 昭和54年10月20日宝文堂出版販売(株)発行。

関係部は次のとおりです。

「瑞鳳山の東側脚部を流れるところを鎮所と称するが、この地名はあまり知られていない。ここは藩祖政宗の霊屋の背中に当り、急斜面をもって広瀬川に臨んでいるので、藩では杉をうえて補強したが、脚部が川に洗われるためしばしば崩れて、藩公も代々心を痛めた所であった。そこで11代藩主齊義は思い切って東側斜面全域二渡、石塁を築く大規模な工事を計画し、巨額な費用と努力をかけて、155年前の文政7年8月に至って完成し、以来ここを鎮所と称した。
道路を中に山腹から河岸水際まですき間なく石を敷き詰め、上を太い鉄線で網の目におさえ、土をかぶせた当時としては仙台城の城壁以上の大工事で、今も河岸一帯るいるいと石があらわれている。この時、鎮護のために建立した自然石の泰山府君の碑が、西側路ばたに半ば土に埋もれて立っている。泰山府君とは中国の道家の説による泰山の神で、物の生命を司る神といわれている。齊義はこれで末代大丈夫と、非常に喜んで関係の諸有司を表彰したが、以下略。

狭い道路、石塁、鬱蒼たる樹木の姿、この付近が現在の様に開発される以前の写真が併せ掲載されています。

本図書は、仙台市の図書館にあります。「日本の古本屋」には在庫ありません。



7 月 17 日 (金)  



15日の日誌の私の疑問について、菅野さんから次のようなご教示を頂きました。

500石クラスの家臣は県庁職員にたとえるなら、との点。
500石クラスですと、行政関係の役職としては、出入司、郡奉行、町奉行、公儀使(他藩で言えば江戸留守居役)といったところに就いています。
それぞれの分野においての実質的責任者のような立場ですので、県庁で言えば局長クラスに相当するのではないでしょうか。
ただ、知行高だけで言えば、1000石以上の家臣がゾロゾロいる仙台藩の場合、500石クラスは中の上くらいな地位でしょうか。
全体的傾向として、江戸時代でも早い時期だと出入司、郡奉行、町奉行でも1000石、2000石クラスの重臣が就任しているのが、時代が下がると禄が低い者が進出し、江戸時代後期になると100石未満の家柄の者も抜擢されることがあります。
よく、江戸時代は世襲制と言われますが、実のところこうした役職は世襲されるものではなく、本人の才能や、あるいは派閥力学などによって人選されているように見えます。
幕末を見れば、遅れていると言われがちな仙台藩でも、実は相当の抜擢人事をしていたことはご存じのことと思います。

次に林檎の件です。
私自身も「えっ、江戸時代や明治初期に林檎?」と疑問に感じました。
それで、原稿を書いている段階で確認したところ、これは「和林檎」と称されるもので、今の林檎とはちょっと違う種類だということがわかりました。
和林檎は、実が小さいことや、酸味や渋みがあったりするなどの弱点があって、明治中期以降に導入された洋林檎に押され、今はホントに一部の地域でしか栽培されていないそうです。

新聞ではスペースの関係があって、樹木に関係するものしか紹介できませんでしたが、他にも牛蒡や大根などもかなり沢山取れていたようです。


また 林檎についてEさんからもご教示を頂きました。

明治8年のリンゴは「和リンゴ」で直径3〜4センチメートル、重さ30g。現在我々が口にしているリンゴとは比較にならないものです。800個の収穫ということは、2〜3本の木の収穫かなと思います。カキ400個も2本位の収穫でしょう。


あかとんぼ は故あって津軽で生活したことがあります。主産業が林檎で、関連産業で経済が回転していました。
林檎生産の歴史は1875(明治9)年内務省勧業寮からの苗木配布を受け、試植に始ったと 林檎博物館に記録されていました。林檎は 土壌が基本と地下2-3mの土壌見本まで展示されています。この林檎博物館は林檎に関して日本一と思います。地元の評価は高くありません。尚、津軽地方には当時明治9年の原木が現在も生存し 生産していました。

これらから、日本の林檎の歴史は100年そこそこと理解していました。改めて、日本の林檎の歴史は白鳳(600)年代 日本の文献に登場しているを この機会に知りました。ご教示くださいました方々に感謝致します。

「バーチャルリンゴ博物館 http://www.town.itayanagi.aomori.jp/vrh/」を ご紹介します。



7 月 16 日 (木)  



本日 政宗公生母 最上氏義姫のご命日です。
1623(元和9)年7月17日76歳にて仙臺で没し、覺範寺に埋葬されました。灰塚は永昌寺にあります。
政宗公は、菩提を弔うため終焉の地に保春院を創建し、1636(寛永13)年 最後の参勤に向かう前々日の4月18日に落成を祝っています。

覺範寺は、政宗公の父輝宗公を弔う為に創建されたお寺です。

この様な事から、本日 覺範寺において 第十六世輝宗公と正室義姫の法要が催されました。
仙臺藩志会幹部は参列すると聞いて居ります。あかとんぼ は参列しませんでした。

参考
輝宗公戒名 覺範寺殿性山受心大居士
義姫 戒名 保春院殿花窓久榮尼大姉

寺所在
遠 山 覺範寺 青葉区北山1−12−7
小林山 保春院 太白区保春院前丁50
通寶山 永昌寺 青葉区新坂町18−1



7 月 15 日 (水)  



毎週水曜日は早起きします。菅野正道さんの「せんだい歴史の窓」を読むためです。
本日は、屋敷林の恩恵 実りと潤いもたらす の副題です。

500石であれば900坪の屋敷が基準であった。
ここで ハタと考え込みます。現代に換算すれば、政宗公は県知事に相当するでしょう。知事は軍隊を持っていないにしても、災害時には 電話一本で 自衛隊が派遣されます。警察もをそれなりに指揮出来ます。全く権限のないのは司法でしょう。県知事は殿様に相当します。

さて、500石の伊達家家臣は 県庁の組織でのクラスは何に相当するでしょうか。課長クラス? 900坪の屋敷とは恐れ入ります。

市役所前広場付近が屋敷であった家臣清水広永の1875(明治8)年記録によれば、屋敷内での年間生産物として、桑の葉20貫目、林檎800、柿400、梅1斗、筍50本、茶7kg(12斤)と記録されている。

この種目が多種に渡っている事と その生産量の量の多が驚きです。梨の木 杉・松の木も、他家の記録にあるとの事。後世 杜の都と言われた原点が ここにあったわけです。

意外な産物は、林檎です。津軽地方の林檎は 明治中頃 米国からの苗木により、日本で本格的生産の始まりと聞いておりました。まさか明治はじめに仙臺城下で斯くも 採れた 生産されたとは 想像以上でした。一瞬 菅野さんの誤記と思い それなりに調べ直しました。 驚きました。

瑞鳳殿参拝や、伊達家史蹟巡りの お客様をガイドする際 菅野さんの情報を活用させて頂きます。感謝です。



7 月 13 日 (月)  



昨日の続き

大阪のお嬢さんから 次の要旨のメールを頂きました。

1.石灯籠の配置 実は去年あたりからずっともやもやしていた事でしたので、今回ご教授いただいて本当にスッキリいたしました。次回瑞鳳殿を訪れた際には、それぞれの石灯籠の奉納者を思い浮かべつつ拝見したいと思います。

 この献燈について、興味を示す方は皆無に等しいです。瑞鳳殿の献燈は配置替されています。整理し手持資料として 長年携行していて 昨日 漸う日の目を見た感じです。石灯籠の奉納者を思い浮かべつつ拝見したいとの事、感激です。

この石灯籠の資料として、「仙台市文化財調査報告書第22集 経ケ峯 昭和55年3月 仙台市教育委員会」を私は使用しています。

2.次は宇和島に行こうかなと思っています。綱宗公お手製の指面が展示されているようなので…。

 この綱宗公お手製の指面は、宇和島滞在中 伊達博物館を4・5回訪れ、学芸員から教示を頂きましたが、記憶は定かでありません。

 「宇和島伊達家伝来品図録」にありました。能面100面。黒漆木箱5列5段に仕切られ、4段重で、精巧な小型面が揃って納まっている。綱村公から 吉村公夫人冬姫に贈られ、娘富姫宇和島伊達家に嫁入りした際の婚礼道具の一つとの事。

 貴重な情報です。感謝です。再び伊達博物館を訪れる機会には必見です。

政宗公に始まり、秀宗公、忠宗公の熱烈なファンの大阪のお嬢さん ありがとうございました。また お出でください。



7 月 12 日 (日)  



忠宗公352円年忌法要が 御霊屋感仙殿で10時から催されました。

次第
読経 正宗山(ショウシュウザン)瑞鳳寺和尚様 三世代
焼香 1.伊達家18代当主    伊達 泰宗 様
    2.一関田村家当主    田村 護顕 様
    3.殉死者代表       細目 典夫 様
    4.仙臺藩志会長      古内 重義 様
    5.一関藩志会代表    中鉢   弘 様
    6.大年寺会代表      建宮 文雄 様
    7.(財)瑞鳳殿常務理事 鹿野 正利 様
挨拶 1.伊達家18代当主    伊達 泰宗 様
    2.仙臺藩志会長      古内 重義 様
    3.(財)瑞鳳殿常務理事 鹿野 正利 様

天候は 梅雨の晴れ間 照らずの暑く無い天候で 黒服で参列された方々は救われたでしょう。
万治元年7月12日仙臺城で60歳で亡くなられました。太陽暦に換算しますと1658年8月10日(土)です。
冷房設備の無い時代の お盆の前の灼熱の暑さに亡くなられた。本人を含めた関係者は、何かと大変であったろうと労苦が偲ばれます。

本日は、仙臺藩志会と大年寺会の皆様のほか、一関田村家当主と一関藩志会の皆様が参列されたことが、政宗公、綱宗公の法要と異なる事です。

なぜ、一関田村家当主が参列されたか質問がありました。
忠宗公の生母 政宗公正室 愛姫は 途絶えた生家 名門田村家の再興を忠宗公に求めました。1653(承応2)年4月三男 宗良 をして再興させました。今日の一関田村家の始まりです。この 御縁です。

一段下の一般席で、法要の開式から閉式まで ジィーと参列されたお嬢さんが居りました。関係者の末裔の方で、若年の為 関係会に未加入の方かと思慮し、伺いました。

政宗公に始まり、秀宗公、忠宗公の熱烈なファンとか、大阪在住で、今年は日曜日なので昨日 仙台に入った。昨年は、土曜日であったので 休みが取れず残念な思いをした。今日 大阪に帰れる最終時刻まで、博物館等で調べをし、又、孝勝寺管理墓地の忠宗公正室徳川氏振姫のお詣りされるそうです。

「感仙殿前の奉納石燈篭毎に奉納者を調べた」とノートを開かれ、「瑞鳳殿の奉納石燈篭は足場の点で調べられないでいます。方法ありませんか」と問われました。
手持資料「貞山公献灯配列之図大正7年3月謹製とあかとんぼ調 瑞鳳殿献灯配列対照」を開げ、コピーし差し上げました。大正7年3月図の原資料名を教えて欲しいとの事。「伊達家史叢談  伊達邦宗著」です。仙台市内図書館にはあります。 

お嬢さん 本頁 読まれているそうで、あかとんぼ 宇和島訪問を知っており、大阪からは、仙台も宇和島も時間距離は等しいと洩らしていました。鉄道使用です。

今朝は早めに巣を出ました。ボラガイド支援機構理事長からは 町内会の清掃日、朝食の準備と一緒になる様な事 突然 宣言するな 厳しいお達し。納得。

法事の前のガイド 聞いてくれるご婦人で50分要しました。法事の後の栃木のお嬢さん2人、移動は素早く熱心に聞いてくれまして50分要しました。今日は2組3人でガイドは終わりました。




7 月 11 日 (土)  



シンポジゥム「やさしさの〔わ〕をみらいに」ミュージアムとユニバーサールデザイン
6月14日瑞鳳殿に取材に見えた宮城学院女子大生の発表の日です。発表を聞くに行きますと当日約束しました。瑞鳳殿で、高齢者や障害者をガイドする際に配慮している事を伝えました。

当日の学生が、あかとんぼの指定席まで 挨拶に見えました。約束は守らなければなりません。しかし、内心 学生は記憶しているか?でした。シンポ実行委員でした。シッカリした学生2人です。

シンポの講師は、元神奈川県立生命の星・地球博物館学芸員奥野花代子氏 仙台市歴史民俗資料館館長大竹牧夫氏。奥野氏は、視覚障害者に やさしい施設、観て、触って、楽しみ、知って貰う博物館づくりを ソフト・ハードの両面での工夫を語られました。
大竹氏、仙台市有形文化財に指定された建物であり、資料館としての悪条件のもとで、費用効果のサテイの厳しい現状にありながら、高齢者に喜ばれる施設としての、運営上の配慮を語られました。

本来は、博物館学芸員資格取得の講座でしたが、高齢者自身として 訪れる高齢者の皆様に お詣りしてヨカッタと喜ばれるように を念頭にガイドしている事に 誤りないか 反省の機会になりました。




7 月 10 日 (金)  



御命日

今日 7月10日は 瑞鳳殿、感仙殿、善應殿の三殿の65回忌日です。
1945年7月10日の仙臺大空襲で、「霊廟を営建す。之を号して瑞鳳殿と言うなり、珠玉金銀を鏤め黝亜丹漆を雜へ、彩画厳輪奐を盡す者、口宣ぶる所にあらず、心測る所にあらず、寔に扶桑中を盡して等類少なきの寶殿なり」〔
仙臺叢書仙臺金石上326頁〕と言われ、書かれた寶殿は焼失、灰燼にきしました。

世界遺産指定ブームの折りは、現。瑞鳳殿も世界遺産にと在仙ユネスコ関係者は申しておりました。焼失していなければ、あながち 夢でなかったろうと思います。

殿様の遠年忌法要は催されますが 建造物の遠年忌法要は催されません。あかとんぼ が密かに催します。安らかなれ。



7 月 8 日 (水)  



寺町の配置

博物館の菅野さん「城下町の面影 寺町の役割」と題して 河北新報に書かれています。

北山のお寺 全てが仙台開府と同時に 現在地に配置されたものではない。また、新寺小路も元寺小路から移転させられたものである。このことは理解していました。

城下町は城を中心に、階級別、職業別に階層で配置され お寺は町の周辺部に配置される。
一旦急あれば、お寺の建物は兵站となり 墓石はトーチかとし、防衛の第一線として使用される。
この一般論で 仙台の町を潜在的に理解して居ました。

佐竹家の城下 久保田の城下は一般論の典型的作りになっています。
蛇行する河川を直線化し、左岸を侍町とし、この一画の北と東は沼地、南は古川跡沼と河川。周囲四方は 防衛上 有効な地形です。
右岸は町人 商工業者を配置、その端 西側に寺町を配置しています。その先は田圃です。

各城下絵図を見ますと 概ね この形態であります。この刷り込みから 仙臺の町も そうかなと見ていました。
北は 北山・台原。西は 蕃山 南は 広瀬川・阿武隈川 東は 太平洋の地形に、亀岡八幡、大崎八幡宮、北山寺町、東照宮、釈迦堂、新寺小路、荒町寺町等の寺社仏閣が配置されているのは それかと。

仙台市史近世1 城下町の建設 の項 仙台城下の概念図92頁掲載も この発想で描かれて居ます。
個別の史料を整理すれば 自ずと異なることが理解できる事です。それに至らなかったのは やはり素人 洞察力の欠如です。

菅野さんは〔江戸時代の城下町については、すぐに「戦いに備えて・・・」ということが言われる。しかし、当時の社会は、そんなに軍事優先の社会だったろうか?街づくりのの理念はもっと政治的、経済的なことが優先されたように思うが〕とまとめられています。

納得です。

経ケ峯に瑞鳳殿等を創建した 政宗公の意図を どの様に分析されるか 楽しみです。



7 月 6 日 (月)  



本日の河北新報に 下記記事が掲載されました。

伊達家の縁 愛媛・宇和島市と北海道・当別町が姉妹協定

 伊達政宗が青年期を過ごした宮城県大崎市岩出山で5日、伊達家ゆかりの愛媛県宇和島市と北海道当別町の姉妹都市協定の調印式が行われた。両市町と姉妹都市の間柄にある大崎市が伊達家の縁を生かして仲立ちした。

 調印式は伊達家の学問所の旧有備館で行われ、かみしも姿の伊藤康志大崎市長と石橋寛久宇和島市長、泉亭俊彦当別町長ら3市町の関係者約100人が出席した。石橋市長と泉亭町長が「姉妹都市盟約書」に署名し、立会人の伊藤市長らもサインした。

 宇和島藩の初代藩主の伊達秀宗は政宗の長男で、当別町は岩出山伊達家10代領主邦直が明治時代に移住して開拓した。大崎市合併前の旧岩出山町は1999年に宇和島市、2000年に当別町と姉妹協定を結んだ。合併後の06年には3市町で「交流の誓(ちかい)」を交わし、観光分野などで連携してきた。

 伊藤市長は「調印が互いの発展につながるよう願っている」とあいさつした。石橋市長は「世間で言う三角関係は問題があるが、今まで以上に交流を深め、お手本となる関係を築きたい」と述べた。

姉妹都市関係を結び、住民が交流することは、経済面のみならず その効果は莫大なものと感じています。
この姉妹都市関係の樹立は、3月宇和島市長に挨拶した際 語られたもので、今回形となり、住民に発表されました。誠に慶賀に堪えないものです。おめでとうございます。

所で、記事を読む限り、仙台市長の動きが一文字もありません。東の伊達家 62万石の総本家の伊達家。その所在地の仙台市長が 「蚊帳の外」とは情けない。141年前にも、今回も 西の伊達家に負けた。敗れた同然では無いかと思います。


午前、仙臺藩志会事務局長と面談し、お願いし、願われました。瑞鳳殿でのガイドに有効な事柄です。瑞鳳殿ガイドに理解ある方々との面談の機会を持てるようになり アドバスを頂ける事は嬉しい事です。

午後、仙台市柏木市民センターの館長と企画担当 計7人の方々を、2時間を要して瑞鳳殿を案内しました。瑞鳳殿等を中心し、仙台市に転入した家族を対象とした講座を企画しませんかと 以前から提案していた所、瑞鳳殿を参拝した事が無いとのこと。それでは企画・募集出来ないでしょう。まず下見して下さいとお願いしたものが、今日の見学会でした。来年度の講座開設に至るでしょうか。
本日 (財)瑞鳳殿 鹿野常務理事からは、多大のご配慮を頂きました。ありがとうございました。



7 月 5 日 (日)  



ほどよい暑さ。紫陽花が盛りです。沙羅・夏椿が咲きました。
ガイド30分資料館30分 瑞鳳殿で1時間余とゆっくり、丁寧に参拝される お客様が連続しました。

信州松本からの4老女。全員一眼レフを下げています。「説明は軽く、撮影の推薦ポイントを紹介して欲しい」の要望  涅槃門全景に始まるポイントを紹介しながらご案内しました。「展覧会を開くのですか」 と問いましたら 「アルバムを作るだけ」と言いながら「メモリ取り換えないといけないわ」と撮り続けていました。

今日の質問
1.本殿のご尊顔写真を見て、「何歳ですか」  他のグループで何でも知っているオバサン 「70歳で亡くなったの。70歳の顔」自信たっぷり。  ガイド交替しましょう。
 「当時 写真がありませんでした。ご遺骨から復元したものを基本に製作されましたが、何歳の時に相当するかは わかりません」と答えました。

2.「他のご尊顔とは異なるようにみえるが」 「その通りです。各人の記憶と 各作風があり、製作年月の違いもあり、異なるところもあります」と答えました。

3.「古いお寺や神社をお詣りすると 階段が急で段差が高いです。どうしてですか」 「階段をゆっくり登る事により、神や佛の世界の雰囲気に浸るようにする為と答えている向きもあります。私は、底辺と高さか決まれば 自ずと仰角が決まる。これと理解しています。面白み無くてスミマセン」と答えました。


ループルバスカードを拾いました。30分後 お嬢さん 気むずかしい顔で「バスカード落ちていませんでしたか」と。「券売所に届けてあります」  ニコニコで戻ってきました。ヨカッタ。これで 1日仙台観光 楽しめます。
今日は 拾い物の多い日でした。拝観券 4枚拾いました。パンフとセットで素晴らしい資料になるのに。落として残念です。

お爺さん 涅槃門の紋をみて「なんで こんなに 紋があるのだー」と 菊紋以外の紋を拳骨で叩いて居ました。注意しようと思った、その時、仲間に呼ばれ急いで行きました。全く 今時の年寄り爺様には 困ったものです。

「政宗公の回忌法要は盛大です。伊達家関係のお寺 何ケ寺に 各関係者が参列し、お茶から雀踊りまで奉納があり、最後に 市民も参拝出来、政宗公に直々に御対面できます」に。札幌から単身赴任中のお父さん 手帳を開き 「来年は月曜日 年休を取らなくては」とメモしていました。 来年のお会いを期待しています。

8月6・7・8日は仙臺七夕です。拝殿休憩所に職員自作の仙臺七夕の原型が飾られました。早速 説明しました。1ケ月後 何人が出直して お出でになるでしょう。





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