2009年12月の日誌
| 前々月 | 前月 | 翌月 | 翌々月 |




12 月 31 日 (木)  



今年は82日回と、前年・前々年の72日回の記録を大幅に更新しました。

3月に「西の伊達家 宇和島」に1ケ月間の短期移住しました故、年間目標52日回達成出来るか心配した所でした。幸いにして、健康を維持でき、ゴールデン・シルバーの各ウィーク、祝日の稼働。そして「ANAスイカホリデー」と「びゅう伊達な仙臺浪漫」においてE代表から配慮頂き達成したものです。

月別には、1月7日回, 2月4日回, 3月1日回, 4月4日回, 5月10日回, 6月6日回, 7月4日回, 8月7日回,  9月8日回, 10月9日回, 11月9日回, 12月:10日回の計82日回です。

今年を振り返って 
1.多くの人々、日本国内のみならず外国の方々との交流がありました。
 外国の方の意外性として、タイ王国の16歳のお嬢さんです。政宗公を中心とする戦国武将についての知識に詳しいのに驚きました。ホームページを英文で立ち上げて居ます。内容的には 発芽したばかりの感じです。ともかく之は、政宗公ブームが亜細亜に広がるキッカケであろうか。

 国内的には、歴女ブームを実感しました。印象に残った大阪のお嬢さんは伊達家治家記録各巻・木村宇衛門覚え書・仙台市史資料等の伊達家関係図書を熟読されており、メールで度々アドバスをしてくれました。群馬・山形のお嬢さんは、数回にわたり参拝され、来春には、大願寺灰塚・北山の寺院・大崎八幡宮・仙臺東照宮等の伊達家関連施設を案内して欲しいとの ご要望を頂いております。  
 何れ 応接した歴女の皆様は、勉強されていますので、緊張もしますが 教えられる事もあり、来春の再会が楽しみです。

2.西の伊達家宇和島を訪れ 勉強になり、交流の輪が広がりました。
 瑞鳳殿でのガイド実績が評価されたか定かではありませんが、一つのチャンスとして西の伊達家 宇和島を訪れる機会に恵まれ、秀宗公はじめ吉田伊達家を含む歴代の殿様の事績、景観・産業・人情を知る機会となり、宇和島の方々との交流の輪が一つ出来、帰仙後「宇和島見聞録」を語る機会が度々あり、講演の都度 宇和島観光名誉市長と自称したい程、宇和島市当局から支援を頂いております。有難い事です。 

3.優れた先生との出合いの機会がありました。
 一番有難かったのは、仙台市立博物館の菅野正道さんとの出合いです。昨日の日誌にも記載しましたが、地元紙に1年間連載された「せんだい歴史の窓」です。非常に有効な記述が数有りました。あかとんぼ の疑問、自己解釈について 菅野さんからは温かく、丁寧に 面接・メール等でご指導して頂きました。有難い出合いです。

 又、仙臺藩志会は「志のあるものであれば 士でなくとも農工商の末裔、他家家臣の末裔でも 可 」となって、自称 瑞鳳殿ボラガイド苦節10年で加入が認められ、伊達学講座、陣屋のあった竜ヶ崎訪問にも参加出来たことです。重臣の末裔の方もおられ、書籍で伝わっていない話等を聴ける機会があります。有難い事です。 

最後に
今年も元気に そして記録更新する程 ガイド出来ましたのは、(財)瑞鳳殿、仙台市観光交流課、仙台コンベション協会、JTB・JR東日本・ANNの大手旅行社をはじめとする国内旅行会社、国内外から瑞鳳殿等を訪れた観光客の皆様。熱心な読者の皆様、そして瑞鳳殿ボランティアガイドの会と「ぐるーぷよっこより」の仲間の皆様、自称ボラガイド支援機構理事長等のご支援・ご指導を頂きましたからです。誠にありがとうございました。

来年 2010年も宜しく ご支援・ご指導を頂けます様に お願い致します。



12 月 30 日 (水)  



「せんだい歴史の窓」 仙台市立博物館の菅野正道氏の一年間50回の連載が終わりました。
瑞鳳殿でのガイドの際 非常に有効な記述が数有りました。あかとんぼ の疑問、自己解釈に対して 菅野さんから は温かく、丁寧に 面接・メール等でご指導して頂きました。誠にありがとうございます。

来春2月23日10時30分から仙台市民会館でのガイド仲間の勉強会に講師として 菅野さんをお招きすると聞いています。終了後 好物と聞いています「塩瀬の饅頭」を用意して、ファン倶楽部が結成できればと夢見ています。

瑞鳳殿では 月半ばに「すす払い」を行い 拝殿前に「門松」を立てました。
一般的門松 斜めに切った3本の若竹を立て、周囲に若松を配し、下部を藁や竹で巻いた門松です。

これは関東流であって、仙臺の伝統的門松は、栗の木の柱を2本立て松(所謂「三蓋の松」)や笹竹を添え、柱の根元には「鬼打木」と呼ばれる割板を何枚か巻き、2本の柱の間に昆布や柚子・柿・炭などを用いた正月飾りを渡すものだった。

宮城郡根白石村8軒の旧家から、寛文10(1670)年には47組分の材料が献上されて入る。仙臺城の門等に飾られたと思われる。

なぜ 根白石村からの献上かの経緯はまだわかっていない。しかしながら・・・・・・
以上が 菅野さんのお話しの要旨です。

あかとんぼ の疑問です。
伊達家の藩政時代 瑞鳳殿・感仙殿・善應殿の涅槃門の門前に 門松が飾られたか です。それとも 惣門前に飾られたか です。佛教系 施設であるから 全く飾られなかったか です。
さて さて 如何様に調べるか悩みです。

さて、前49回の記述に、
江戸時代、正月早々神社仏閣にに参詣に行く習慣はなかった。せいぜい屋敷神や氏神にその都市の最初のお供え物をして祈り捧げる程度であった。ありました。

あかとんぼ の感想です。
初詣は神社 の固定観念でいました。邑では 雪原をして先祖の墓参りをする風習がある と聞いた時、即納得しました。現在はあるのは 先祖が居たからであって 禮を申し上げるのは当然。無地の雪原を漕いで 新年の誓いを奏上?する 誠に妥当 気持ちよい事と思いました。

さて、疑問です。
瑞鳳殿は、今年も12月31日23時から お詣りの人々に開放します。伊達家ご当主の参拝もあり、相当多数の参拝があると聞いています。ご当主の参拝は当然として なぜ 一般市民が参拝されるかです。端的に表現すると 神社ではありません。御霊屋はお墓ですが 政宗公のお墓で お詣りする方の先祖のお墓ではありません。邑の論理と異なり、神道とも異なると思います。

ある方から、仙臺藩志会では、瑞鳳殿で2日年賀拝礼を行うが なぜか? いつから行っているか? 政宗公が祭神の青葉神社に初詣に行っているのか?、拝礼式は 青葉神社が 社会通念上 妥当ではないかな と申す趣旨の お話しを伺いました。

あかとんぼ には 難しい問題です。仙臺藩志会は当初 伊達家につながる一門一家の人々 そして 藩士の末裔で構成されていました。今は 志のあるものであれば 士でなくとも農工商の末裔、他家家臣の末裔でも 可 となっています。故に、瑞鳳殿での拝礼式について疑問が湧いたものと思います。
1月2日 仙臺藩志会の幹部に尋ねてみたいと思っています。

あかとんぼ は 平成21年1月2日11時からの 年賀拝礼式に 伊達家十八代御当主伊達泰宗様、仙臺藩志会会長古内重義様、(財)瑞鳳殿会長(宮城県知事)村井嘉浩様の連名で ご案内を頂きました。
感謝申しあげ 僭越ながら あかとんぼ家の家紋の裃で参列致します。



12 月 27 日 (日)  



寒さを感じない温かい日です。
涅槃門の化粧直工事も冬休みに入った様で、職人さんの姿見えません。「膠臭」もしません。
「塗装」イコール「シンナー」の感覚でいまして、説明会で職人さんから 無知 と顰蹙を買いました。ニカワの臭みでした。本日は 全くの無臭です。

今季、手袋の片手を2回落とし紛失しました。左右です。残った左右 色・デザインを異なるものを着用しガイドしています。機能的です。お客様からの指摘はありません。
今年 2回の紛失に、ボラガイド支援機構理事長からは 「大丈夫? 説明 ポイント 落としていないー」といわれました。説明はガッチリしています。ご安心下さい。

落とすばかりでなく、拾う事もあります。今朝9時33分に割拝殿でバスカード〔今日12月27日日付〕を拾いました。落とす役から拾う役です。時間的に仙台駅前9時発の始発のお客様です。人影がありません。事務所に届けました。資料館内人影あるをモニターで確認、探してくれました。見つかりました。メデタシ。戻らなければ、次の停留所で初めて気づき 慌てるでしょう。

群馬県から10人の団体、昨日は瑞巌寺をお詣りしたそうで、「ガイドしてくれ」のご依頼の割に 皆様 テンデバラバラ 話しかけ 知識を披露します。遂に 「私 ガイドです プロではありません が」 本殿に到達 3回目に初めて 理解した様です。もっとも 披露する知識も底ついたかです。 静かに聞いてくれました。
この一行の平均年齢・性別は ご想像のとおりです。

戦国BASARA風の服装のお嬢さん 2人。真っ黒く、そして太い・長いレンズのついた一眼レフをお臍あたりに提げ 石畳や竹林を狙い 闊歩していました。
涅槃門でガイド不要と断られましたから 以後の撮影ポイントは紹介出来ませんでした。早い時間で降りてきました。目的はなんでしたでしょうか。
之だけの情報で どんなことを想像されますか。

老夫婦に娘さん。あかとんぼ より若干 年長かなと思いつつガイドしていました。1925(大正14)年生まれ84歳でした。矍鑠とされ元気そのものです。「失礼しました。驚きました」に 「なに 陸軍2等兵でした」 「ハアー 大東亜戦争 歴戦の勇士ですね。金鶏勲章を頂いたでしょう」 「イヤイヤ ビンタばかりです」
ご高齢なのに、この切り返すセンスの若さに 最敬礼の気持ちを込めてガイドを続けました。

Sさんも福の神の筈なのに フラフラしていました。「竜頭と○○」の撮影ポイントを紹介・撮影して 本年のガイド終わりました。



12 月 26 日 (土)  



瑞鳳殿・仙臺城に続いて ガイド依頼があるのは大崎八幡宮です。
大崎八幡宮の参拝登り口 鳥居を過ぎた所に 太鼓橋があります。現在は暗渠で工業用水が流れています。元は 政宗公が城下えの給水の目的で「川村孫兵衛重吉」に命じ、宇津志惣兵衛が工事奉行とし1629(寛永6)年に完成させた「四ッ谷堀」が流れていました。

「四ッ谷の水を町並みに!市民の会」なる会があります。あかとんぼ は 流れが見える様に復元し、歴史遺産としい明示し 教育面での活用。水流があり潤いのある市街にしたい。せめて 金沢市並に 観光の面でも活用する様にしたいとの想いで 参加しています。

久々に例会に出席しましら来年度の計画が討議され、数ある提案の中に
政宗公の都市計画 四ッ谷用水と町中堀の話もあるが、基本として 瑞鳳殿と仙臺城と広瀬川の係わり、仙臺城の給水の確保 この様な視点から 瑞鳳殿と仙臺城を案内して欲しいの要望がありました。

涅槃門の化粧直工事完成後 4月以降 ご案内しましょう と快諾しました。 



12 月 25 日 (金)  



「伊達な仙臺浪漫」のガイドの当番です。記憶に残る出合いがありました。

瑞鳳寺山門まで待機しています。タクシーは 常時5台以上ジィーと待機しています。以前は法人でしたが最近は個人タクシーが主流となりました。15時過ぎると夕刊の配達もあります。お寺等えの配達より早いです。

勉強しています。案内板をナナメに読み、テストなのか真剣なのか 質問してきます。
☆正宗山 正しくはナント読みますか。
☆政宗では無く正宗は 誤字ではありませんか。
☆ガイドの会の研修資料 充実していますネ 頒て頂けませんか。
☆伊達家の屋敷は 半蔵門の傍にあったそうだが本当か。
☆お寺と瑞鳳殿の関係は。
等です。

個人タクシー 「あ・・・1」のプレートです。「今日のお客様は 小説家でない文人の先生です。今 高尾門を見学しています」  先生に「勉強しているガイドさんです ご質問をどうぞ」との紹介。逃げ出したくなる紹介です。
あかとんぼ の車は「そ・・・1」です。さ行が個人ですから1番の5番目です。「あ・・・1」は営業車の1番の1番です。凄い

先生曰く「仙臺で忠宗公の評判はどうですか?」 「ハイ 文武両道優れ 立派な行政官でもあったと 高い評価を得ています」  なんかすれ違いしているようです。
「三代綱宗公ですか。仙台では伊達騒動とは申しません 寛文事件と称します。歌舞伎等を観る機会の少ない年代の人々が多くなり、特別話題になりません」
ヒットすると、吉原の遊女高尾を、隅田川で・・・・等 遊び人であったの答えを期待していたのか。
この先生 連載しているそうですが いつ どの様に 書かれ 発表されるか 楽しみです。

瑞鳳殿は冬時間に入り、16時閉門です。夏時間の16時30分と勘違いし 日没してもジイーと待機していました。

「伊達な仙臺浪漫」号。約束の時間を過ぎても車姿が見えません。間もなく閉門時間です。事務所に電話しましたが連絡入っていないとの事。漸う到着しました。之までで最大数のお客様です。ほぼ全員トイレに駆け込みました。需要と供給のバランスが崩れています。時間を要します。

瑞鳳殿の前の見学がビール工場です。タップリ試飲して 交通渋滞に遭遇した結果です。
この後、瑞鳳殿と仙臺城と光のページェントを見学して、19時10分発「のぞみ」に乗車するお客様がいます。間に合う時間設定と売り出した商品です。時間厳守は死命?です。クリスマスの金曜日です。交通渋滞は既に発生しています。ガイド嬢 内心焦ります。理解できます。

「瑞鳳殿 30分で」 東西参道経由 瑞鳳殿本殿主体に、資料館含め30分で乗車しました。移動するバスの中で補足説明し、副葬品の写真等を見て頂きました。昼で90分を要するところ 圧縮しましたので 又のお越しをお待ちしますと お断りしました。

「仙臺城 30分で」 昭和天皇お立ち所と称される所で 台上の明治初年の絵図、現代説明図を懐中電灯で照らし、実景と対象して頂きました。本夕は視界良好 好評でした。又 落ち葉の上 歩きましたら「あら 暗い所 落ち葉の上 歩くの 何年ぶりかしら」の呟きがありました。 ご夫妻での青春を思い出したのでしょうか。手を繋いたかは知りませんです。

仙臺城大手門跡から青葉通り 流れは止まり気味。今日のガイド嬢は 「先生 よろしく」。フギァスケート発祥の地・荒川静香に真央ちゃん。土井晩翠旧宅等 語らせて貰いました。

臨時駐車場に。半数の方は自由行動を。「先生は」 「会場までご案内します」
瑞鳳殿・仙臺城でも 撮影をする スケッチをする 熱心に聞いているお嬢さんがよってきて、政宗公について 色々質問をします。知っています。

このお嬢さん 外国人でした。THALANDはBANGKOKからROTARYの留学生として東京・大田区六郷の倶楽部で世話になっている16歳の少女でした。ホストママと日帰りで仙台市内訪れたものでした。日本の戦国武将 特に政宗公に夢中となり、日本文字を十分に読解出来ずに、やむ得ず英文4cmの厚さの図書で、その知識を得たそう
です。

○政宗公の生まれたのは、永禄10年8月3日 1567年ですネ
○亡くなったのは、寛永13年5月24日 1636年ですヨネ
○政宗の弟 小次郎のお墓は何処にありますか。
○政宗公のライバルは 誰ですか。
○佐竹義宣 知っています。
○真田幸村 とはどんな関係ですか。
○政宗公は お酒飲みましたか。何処で造りましたか。
○政宗公は、料理造れましたか。なにが好きでしたか。
○旬の食材とは どんな意味ですか。
○色は なにいろが好きでしたか。
等々 矢継ぎな質問です。スラスラ答えの出るもの、数秒考えるもの 多々ありました。

TVアニメ「戦国BASARA}のフアンの様子。この劇画調に自分で描いたスケッチに、販売されているグッズの数々を披露してくれました。
主会場の散策路 彫刻(グレコ作夏の想い出)を背景に撮影した所で、ホストママから「オジサン この後の予定がなければ夕食に同席し この子の話しを聞いて頂戴」 「ところで ササカマも牛タンも食べました。この子 新鮮な魚が好きなの ヨイお店知らない 回転寿司はありませんか」
「アッ 海鮮居酒屋ある あそこに オジサン一緒に」 

食事しながら質問は続きます。タイ王国の留学生でした。現住所 メールアドレス URLを交換しました。
食後 「ご馳走様でした」とキチンと挨拶していました。行儀の良いのに感心します。タイから16歳で単身留学(ロータリークラブで責任をもって世話をするにして)です。両親は上流階級でしょうか。躾のヨサから。

「父母が来日したら 仙台に連れてきたい。その際 ガイドして欲しい」 「はい いつでも どうぞ 連絡を待っています」 一行皆様4人の写真を撮影 サヨナラしました。

ボラガイド支援機構の理事長と食事しながらに 報告し、「このホストママ程の宰領は出来ませんネ」にあっさり「ソーです」の返事。



12 月 23 日 (水)  



天皇陛下76歳の誕生日。日本国民の祝日です。

水曜日、週の真ん中です。連休ではなく、又、寒気が続いています。条件は不良です。でも、天皇誕生日の祝日です。
知人から「あら どうしたの」のお声。「日祝日はガイドをする事にしています。本日は天皇誕生日の祝日です」に「アッ」と申していました。 「毎日が日曜日」の生活に入ると起きる現象でしょうか。

天皇誕生日は例年 気象条件が不良です。05年は大雪、06年雪、07年雨、08年雪で、参拝者僅少でした。今年も、例年並みでした。

ガイド、表示板のみ、本殿の一部のみのガイドは「単品」、涅槃門から本殿までは「定食」、感仙殿から御子様廟迄至れば「フルコース」と、密かに名付けています。
Oさんが来るまでは、案山子、立ちん坊でした。その後「単品」が数件、「定食」2本でした。Oさんは福の神です。

単品に この様な相談?がありました。
私の旧姓は、○場と申します。現在は福島県居住です。先祖の戸籍を調べたら 住所が大名小路となっています。現在の片平丁ですよね。WEBで伊達時代の絵図を見ました。筆書きで、縦横に書かれ 読み切れませんでした。どうしたら 調べられるでしょうか。
という内容でした。「ループル経路の市図書館郷土室に立ち寄られたら」と返事しました。

以下は あかとんぼ の午後の調べです。

WEBで伊達時代の絵図とは、何年に製作されたどんな地図なのかです。頭に浮かんだのは「安政補正改革仙府絵図」です。あかとんぼ 所有の絵図では姓は読み切れません。絵図付録「仙臺城下絵図人名録」の「安政補正改革仙府絵図」の頁には、片平丁の項には 遠藤文七郎から重臣の名前はありますが、○場姓は見つけられませんでした。

「大名小路」は俗称と覚えていました。明治8年の地名調査でも「片平丁」はありますが「大名小路」はありません。角川日本地名大辞典宮城県 には 江戸期から昭和45年までの町名。偏方町とも書き、広丁、大広町、大名小路ともいわれた とあります。

さて、戸籍に「大名小路」と記載されていますとの事で、いつの戸籍ですかと尋ねたところ 最古の戸籍との返事でした。

日本の戸籍の始まりは、645年の大化の改新迄 遡り、江戸時代は全国的に統一された仕組みはありませんでした。1868(明治元)年の京都戸籍が始まりで、1873(明治5)年に戸籍法が施行された。これが現在の戸籍の前身です。壬申戸籍(じんしんこせき)といわれるものです。
本籍は、住所地において屋敷にふせれた番号(屋敷番)が登録されていた。この戸籍には、華族等の身分、職業等まで詳細に記載されていて現在は公開されていません。明治19年からの戸籍では、土地台帳の整備により地番に原則的に変わりました。
参照 行政書士清水潔著「戸籍を読み解いて家系図を作ろう  (戸籍書式の時代による違い)

この○場さまは 先祖を戸籍から追求しています。正しい方法だと思います。古い戸籍が破棄されている現在、何処まで追求できるかです。

参考まで、宮城県大人名辞典 宮城県姓氏大辞典をめくりましたが、片平丁近辺には ○場姓の家を発見出来ませんでした。辞典は広瀬図書館備付本を閲覧しました



12 月 20 日 (日)  



残雪・凍結の厳しい朝です。

朝一番セミプロ写真家風のお嬢さん。「撮影宜しいですか」 「ハイ 撮影自由です でも 政宗公の御霊屋 お墓ですから お詣りされからの撮影が ヨイ写真撮れると思います」 あかとんぼ の提言を素直に採用し お詣りされましたので、撮影ポイントを紹介しました。雪の瑞鳳殿 傑作が撮影されたでしょう。

九州の大学生10人 パンフを読みながら 「なぜ 身長・血液型がわかるのか」語り合っています。説明しました。「本殿まで説明しましょうか」に、リダー格の「時間が無いから」の断りに 素直に引き下がりました。
手洗所前で 非生産的な諸事に時間を費やすより 短時間でもガイドを聞いた方が有効と 思いますが、尺度の違いでしょう。さてさて、本殿前でどれだけ 桃山様式の廟と政宗公のお姿を理解されたか。

東京の大学生2人。本殿前で説明を終わったら、質問が続きます。政宗公について勉強している内容です。けっして 山○先生等の小説の知識ではありません。昨日は瑞巌寺、円通院等を参拝された由。
質問は「なぜ 瑞鳳殿・瑞厳寺等の瑞の文字が多用されているのか。母保春院に対する心情はどうであったのか。なぜ 光宗は期待されたのか」等でした。
売店に預けた荷物を受け取りに来ました。「資料館ご覧になりましたね。・・・・・」 「あれ・・・・・」 存在自体を見逃した様子。資料館まで案内し、主要展示品の概略を説明 時間一杯 観て貰うことにしました。
この大学生は旅慣れし、ガイドを活用し、効率的有効な見学をされたな と感心しました。

小学5年生との親娘。冒頭「おたまや て何ですか?」 孫に説明するモードに切り替えガイドしました。大学生のお姉さんの剣道の試合応援に来た余暇利用ですと。
娘さんと 五色水玉模様の羽織の背のペア写真を撮りました。お姉さんに報告するからと本殿前石段で3人での撮影。あかとんぼ は裏表を記録された事になります。今度おとうさんを連れてくるからと喜んでいました。ヨカッタ。喜んで頂いて。

タクシー氏 「頼む」 「マカセテ」。  「お客様はどちらから」 「私のお客さんです」とタクシー氏。なんか焦っています。お客様は 福島県中通りから。「伊達家の御縁 伊達郡にあります」 知っているゾーの反応ありません。伊達・信夫では無く、安積郡地方からでしょうか。
一人 「30年前に来た事がある。当時ガイドが居らなくスーと通っただけだった。今日は ヨカッタ」の感想。この方、スプリング・蛇腹のカメラを持参されました。「イヤー素晴らしいカメラお持ちですネ」 に知る人知る 満更でも無い様子。曰く「社寺仏閣の参拝が好きです。上杉家・毛利家の墓所 ヨカッタ。その様な場所 お墓の撮影はこのカメラに限る」との おことば でした。

今年のガイド 23 25 27日の3回となりました。



12 月 19 日 (土)  



涅槃門改修工事

戦災焼失前の涅槃門の外妻に「竜頭」がありました。写真資料があります。
先般の現場研修の際、色彩補修については詳細に説明を頂きました。その際、「竜頭」の復元については話題にありませんでした。仲間のUさん、Nさん等と話題になりましたが、質問する余裕がありませんでした。

昨日 びゅう企画の待機中、K学芸員にお尋ねしました。
1.今回の工事の基本は、色直しです。
2.「余分?」な物の付加は、文化財保護審議委員等の先生方から認められていません。
以上から「竜頭」の復元は今回の工事には入っていません。

もし 復元するとなれば
1.どの様な「竜頭」に復元するか、焼失前と全く同様に復元出来るか。拘らないか。
2.どなたに依頼するか。
3.本体との接合等の工法は如何にするか。
4.資金面をどうするか。
等の難しい問題があります。

以上の様な懇切な教示を頂きました。ありがとうございます。



12 月 18 日 (金)  



冬日です。朝 あかとんぼ の巣は積雪で、除雪・融雪剤の散布しました。此の悪天候の中、巣補修の職人さんが来宅・工事しました。作業を手伝いましたら骨まで凍みた感じです。

午後から「伊達な仙臺浪漫」のガイドの当番です。思切り厚着しましたが背が温まりません。(財)瑞鳳殿で温いお茶を馳走になり、ヤット人心地つきました。

バスは、之までは約束の時間より先着しましたが、本日は遅刻です。16時閉門です。太陽光で拝観できる時間内に、豪華絢爛の瑞鳳殿を観て頂きたいと本殿に直行、ガイドしました。以後 移動の都度、照明を点灯してくれました。バスも特別に駐車場ではなく転回場に駐車を認めて頂き、時間圧縮に有効でした。(財)瑞鳳殿のご配慮に感謝します。

本日のバスガイド嬢、瑞鳳殿と仙臺城址はボラガイトが語るのは 会社の方針。私だって案内し 語れの態度アリアリ。「先生 途中 話しあります」
プロの面目を尊重する方針です。「仙臺城址は大橋から始まります。そこから、仙臺城址乗車迄語りましょう。後はプロの先生 宜しく」 仙臺城址発車から錦町駐車場、勾当台公園角迄 欣喜 ガイドしていました。仙台市内ガイドを始めて聞きました。プロはなるほどです。

錦町駐車場で「先生はお引き取りください」 朝市どおりの場合の様に 仙台駅まで誘導しないと駄目かな と思っていたら、早々の解放に内心感謝。と言われても 最寄りのバス停は市役所前です。ガイド嬢の解散号令後、一市民として 定禅寺通の散策路 彫刻(グレコ作夏の想い出)まで 希望の方に同行しました。

定禅寺通迄の行事は「2009SENDAI光のページェント」です。約200本の欅に約60万個の豆電球が点滅するもので、勾当台公園には張りぼてのサンタの爺様、市民広場にはスケートリンクが特設され、屋台も数あり、若年者の夜遊び絶好の場です。
屋台の中に、宮城県特産の食材の専門店があります。大変に ヨイ企画と思います。仙台産の生ビールの専門店もあります。あかとんぼ の不思議は 宮城県は「日本酒」の有数の産地です。しかし 燗酒等の専門店を見つけられなかった事です。寒空に燗酒は体が温まります。生ビールはトイレが近くなります。



12 月 16 日 (水)  



涅槃門改修研修会が(財)瑞鳳殿主催で、ボラガイド対象に開催されました。
講師は、学芸員K氏、T氏〔30年前復元工事を施工した松井建設(株)の現場責任者〕、S氏とK氏〔日光所在の小西美術工芸(株)の彩色の専門技術者〕の4氏です。

内容は、
築30年経過し、表面〔塗り、金箔押し、金具〕等に劣化が見られ様になった。現状調査の結果、腐食等は見られなかったが経年変化が顕れた状態と確認した。
仙台市文化財保護審議委員・仙台市教育委員会文化財課と協議し、方法等を決定した。
工種別作業工程・材料を配布資料のとおり(添付省略)
現在の進捗状況として、@柱等の黒漆塗完了A金箔押し完了B彩色作業中。今後として、金具、取り外した彫刻など 日光工房での作業完了後、2月以後取付作業となる。
以上 学芸員K氏から説明。
以後、漆に弱い人は被れる危険があるの注意の上、作業現場に移動。胡粉、岩絵具(緑青)、金箔、膠等の現物に、各種の筆等の工具類を提示し解説。

質疑の主なもの
@胡粉等の価格の開きは何か。品質と用途の違い。
A金箔の純度は。100に近い、金箔酒の金箔より 遙かに高純度である。研修生代表に土産として配る。
B門周囲の香りはシンナーか。トンても無い、漆の香りです。シンナー等の化学塗料は一切使用していない。
C本殿正面と東面では、色違いが起きているが。そのとおり、直射日光が強い為 正面は変化している。特段に早いとは認め無い。
D彫刻等、取り付ける前に拝観・撮影は出来ないか。工房で包装されたままて゜、その都度 取り付けるので希望には応えられない。(財)瑞鳳殿では、完成確認に工房を訪れる。その際、撮影をする。提案のとおり、修復の前と後との対比写真等の記録の作成は考えています。

門の改修工事完成と併せ、寄進燈篭の修復工事を行います。全部完成後は、門は保護の為 閉門し、横通用門からの出入を予定していますとの事。

本日10人が参加しました。勉強になりました。でも ガイドの際どれだけ語るかです。



12 月 15 日 (火)  



石階

昨日の日誌に「石階」と記述しました。「石段」の誤記ではないかと確認がありました。
12日に記載しました[佐藤巧著 「W藩政時代の感仙殿・善應殿」]に、「石段」と表現せず「石階」とありました。この業界の第一任者の表現であれば間違い無いだろうと確信し、「石階」と記述しました。



12 月 14 日 (月)  



表参道「手水所跡」について 瑞鳳殿W学芸員からご教示頂きました。ありがとうございます

結論として、手水所は寛文年間(1660年)以前から存在しました。仏式ながら手水所は存在しました。手水所は神式の専用施設とは言い切れないようです。

瑞鳳殿御霊屋絵図「寛文〜天和御修覆帳」 〔仙臺藩封内神社仏閣等作事所修繕ニ属スル場所調 宮城県図書館K521.セ2.タ〕によれば、この場所に「手水所」と記載されています。
尚 瑞鳳殿の創建は、1637年10月ですから、23年後には存在した事になります。

瑞鳳殿御霊屋絵図「元禄以降御修覆帳」  〔御修覆帳 宮城県図書館K521 コ.21.タ〕によれば、この場所に現在の「手水所跡」と同様の石組みが記載されていますが、「手水所」の表示はありません。

尚、62石階は、「寛文〜天和御修覆帳」には、石階の存在は全く表示されず、「元禄以降御修覆帳」二は、段数不詳ながら石階が表示されています。

10日の日誌に「安永7(1779)年2月9日の日付が表示あり」と記載しましたが、元禄年間の図面にあることは、安永7(1779)年より先、元禄元(1688)年頃 321年前には石階になりましたが 正解となりました。

学芸員のWさんは 御用繁多の中 調査してくださいました。感謝するとともに、暇な老人が自己責任で綿密な調査をしないで 安易にお尋ねしたこと 深く反省しています。 



12 月 13 日 (日)  



日々 寒くなります。でも、瑞鳳殿の参拝者数は秋口と変わらず、9時開門から続々と続きます。休憩取れませんでしたが、沢山の方がガイドをきいて下さるは有難い事です。

朝一番のお客様、南部・田子からです。大蒜と牛肉の美味なる地で数回となく訪れています。懐かしく尋ねました。あのステーキを調理した人 健在だそうです。お客様は政宗公の熱烈なファンで、一晩身近なところと瑞鳳寺山門前のホテルに宿泊し、お詣り見えたそうです。政宗公を知っています。ご夫妻でメモを取りながら参拝を続けていました。

群馬・東京・米澤に品川からと、皆様 政宗ファンです。品川からの若いペア、瑞鳳殿ガイドを熱心に聞いてくれました。「感仙殿等 お二人の雰囲気にお邪魔で無ければお供しましょう」に 是非。戊辰の役弔魂碑、感仙殿、善應殿、妙雲廟界、そして御子様御廟迄 ご一緒しました。日曜日のお客様には珍しい事です。

善應殿で、「綱宗公は逼塞を命じられ、終生品川屋敷で過ごされた」に、品川の何処かになりました。現在の地図「東大井4丁目付近」(JR大井町駅そば)を広げましたら「アッ 私の○○はここなの。立会小・岩倉具視墓 知っているヨ 近所なの」 「ハイ 仙台坂 仙臺味噌の工場知っていますよネ」  「仙台坂は急なのよ。味噌屋の土蔵等ありますよ。私 仙台味噌 好みなの。 所で 江戸にあって何で仙臺味噌なの?」

8月19日仙台市博物館菅野氏の河北新報連載「せんだい歴史の窓(味噌をつける)の記述。完全正確に記憶しておりました。仙台味噌の由来・歴史・江戸から東京の占有率の変化を語りました。帰宅し確認しました。正確に語っていました。菅野さんありがとうございます。

この二人 あかとんぼの説明 1発で理解します。同じ内容の繰り返しを求めません。感仙殿前広場の石垣の切込について、お嬢さんに素早く説明していました。何者からと思いましたら お嬢さん 彼 大学史学部講師ですと洩らしました。○○大学迄は申しませんでしたが、なるほどと納得しました。敬老精神お持ちで 「知っているよ」といわずに「勉強になりました」のご挨拶。恐縮の極みです。
内心 瑞鳳殿については、大学の先生より2番目に勉強していると自負しています。



12 月 12 日 (土)  



瑞鳳殿に至る東参道 途中右側に「手水所跡」の表示があり、説明は「伊達家は明治に仏式から神式に変わった。西側の湧水をしての手水所跡」となっています。之まで、その様に あかとんぼ はガイドしております。

伊達家御修覆帳・貞山様御霊屋の図面に、参道右側に石組施設が記載されています。形は現在の「手水所跡」と一致します。となると。現在の考え方の神式の手水所では無い、類似の施設 伊達家関係者が 参拝の前に身を清めた施設が存在したのでは。と思いました。

あかとんぼ の推論がもし正しければ、現在の解説は 誤りではないが 正しくないとなります。明日にも 学芸員に教えを請います。



12 月 11 日 (金)  



びょう旅行の企画「伊達な仙臺浪漫」のガイドの2回目です。ご案内したのは前回と同様の「瑞鳳殿」「仙臺城址」「仙台駅前朝市とおり」の3ケ所を15時30分から17時30分迄です。

天候は雨です。視界不良、基本的に「闇夜の烏」です。
瑞鳳殿等の御霊屋は投射照明の中、拝殿内で説明を集中しガイド。仙臺城址の騎馬像は投射照明。成人男子「以前 吹雪の中で、尊顔を拝する余地もなかった。今日は目迄はっきりしている」と大感激。そのまま、眼下に広がる仙台城下の夜景に夢中です。昭和天皇お立ち所と称される個所に移動し、堪能して頂きました。

青葉通りは、雨の金曜日と地下鉄工事で渋滞です。びょうバスの美貌ガイドSY嬢にマイクを返しました。プロです。サラリと一日観光を総括し次回を宣伝していました。

朝市とおりは、7人の盛年男子は新幹線乗車を急ぎ、1組のご夫婦は仙台一泊します買い物は明日で、通過オーライです。

今回、車椅子利用の方がいました。瑞鳳殿の62石階は当初から断念されました。仙臺城址は、「平坦ですから」とお誘いしました。椅子を押す人は傘を、乗る人は合羽です。。厳しいです。騎馬像に投射照明されていますが、他は暗黒です。懐中電灯で露払いしました。騎馬像前では 健常者と別に更にガイドしました。満足されたか、雨に負けたか、早々にバスに戻られました。

東2番丁で下車、仙台駅までの間、仙台の人は仙台駅前ですが、旅行者には駅舎が見える所まで案内しないと、闇夜の砂漠に放り出された状態となります。健常者を先に、駅前高架歩道迄 案内しました。急ぎ、引き返し、車椅子利用の方を、エレベーターに案内しました。高架歩道は歩道表示の凹凸があります。傘を差しています、条件は更に悪くなりました。代わりに押して、今晩宿泊の駅前ホテル迄案内しました。

仙台駅前周辺は、エレベーターがあり、車椅子利用が容易になっています。これは評価しますが、利用可能なエレベーターがどこにあるか、旅行者に容易に周知されているかが、心配です。

瑞鳳殿は、車椅子利用の方の参拝は困難です。高齢者等の足腰に障害のある方には、決して優しい施設ではありません。管理者は十分に了知していますが、厚い壁が解決を阻害しています。一介のボラガイドに厚い壁に風穴を開ける方法がないか 悩んではいます。



12 月 10 日 (木)  



あかとんぼ は週休2日制の実施を目標にしています。本日は久々の休日です。整理日です。

1.参道
  先般、参道の石段の設置年月を問われたが、答えられませんでした。
  「瑞鳳寺の門前から石階が通じており、この石階を登り詰めたところに、もと経ケ峯廟墓群のいわば総門に当る瓦葺の坂下門があった。この門を潜ると道は三方に分岐する。右道は御子様御廟に通じ、中央道は石階により感仙殿・善應殿・妙雲界に通じ、左道は同じく石階によって瑞鳳殿に通じている。挿図1瑞鳳寺諸廟への藩主御参詣図」と佐藤巧著 「W藩政時代の感仙殿・善應殿」まえがき(25頁〜)に記載されています。
 図によれば、瑞鳳殿地区と感仙殿地区に登った地点に柵と門柱の表示があります。又、末寺・院の表示に注釈が表示されています。(読解困難)。この図面に安永7(1779)年2月9日の日付が表示されています。(7代重村の時代)230年前には敷設されていましたとは 答えられると確認しました。

 「総門にに当る瓦葺の坂下門があった」地点までの石階は、現在は石畳になって、タクシーが駐車しています。

 石階を瑞鳳殿に登り切った地点は「御口」と称され、間口1丈1尺5寸 柵7尺と「御修覆帳」に記載されています。「御修覆帳」は、宮城県立図書館郷土資料室書庫で保管され「請求番号K521.コ2 タ」です。原本は東北大学図書館保存です。


2.石畳その1
 瑞鳳殿前広場の石畳の設置年月、材質を問われた事はありません。不規則・不整形で、材質的に高価には見えません。最近、不安定となり歩行には快適とは申せない状態となっています。表紙の写真です。
 現在、安定化工事が進められています。石畳の間の緩衝材に、大粒の砂利を接着剤で固定しています。出来上がりの姿が「栗羊羹を雷おこし」で固めた様に見えます。皆様は、何に見えるか 是非御来館 実見頂ければ幸いです。券売所のお嬢さんに感想を求めたら「私 和菓子より ケーキが好きなの 」とのことでした。

2.石畳その2
 手水鉢と涅槃門一般口と出口に、45cm角の濡れると色変して綺麗になる石が敷かれています。宮城県特産品雄勝石の硯石の原石と教えられ、産地の方が寄進されたものと理解し之まで その様にガイドし、本日誌にも記載してきました。最近 先輩から 「あかとんぼ さん その話 正確ですか」と 問われました。あらためて検証しました。
1992(平成4)年2月15日玄昌石(踏石)を(財)瑞鳳殿で購入敷いたものでした。産地からの寄進ではありませんでした。玄昌石ですが、硯石の原石である程の材質かは確認できませんでした。

今後 ガイドする際「この石は玄昌石です。宮城県特産品雄勝石の硯石の原石も玄昌石です」でとどめる事になります。

参考
http://www.hirahaku.jp/web_yomimono/geomado/sekiz22.htmlによれば
 
 玄昌石は黒色緻密な薄板状の粘板岩で、天然スレートとして全国的に有名です。産地は宮城県登米市(旧登米郡)登米町[登米玄昌石]と、石巻市(旧桃生郡)雄勝町[雄勝石・雄勝硯]及び女川町[女川石]に分かれて分布しています。それは二畳紀後期の登米層(中部層)が2地域に分断して分布するからです。この地域には、二畳紀後期に登米海と呼ばれる深い内海があり、粘土や泥が堆積し、それが白亜紀前期の地殻変動で褶曲を受けスレート劈開を形成して粘板岩化し、玄昌石となりました。従って、稲井石と同様、スレート劈開と地層の堆積構造とは著しく異なります。黒色の色味は粘土中の炭質物によります。
 登米町には日根牛・入谷・北沢や、その北東の米谷町鏡石に数多くの採石場があります。また、他方の雄勝町やその南の女川町では、二畳紀の登米層の他、三畳紀の大沢層中の、葉理の良く発達した灰色粘板岩からもスレートを加工しています。天然スレートは日本では二畳紀登米層と三畳紀大沢層のみから産出するだけです。
  玄昌石は天然スレートの屋根材の他、一般的には、薄い角板・乱貼り材、ないし薄い角丸の貼り床材として、内外壁・門柱・玄関床やアプローチに使われています。玄昌石は室町期以降に採掘され始め、年150万枚を産出します。雄勝石は雄勝硯として全国の硯の90%を占めると言われます。東京駅丸の内側の屋根がこの玄昌石の天然スレートです。現在では屋根用には使われないようです。 



12 月 8 日 (火)  



びょう旅行の企画「伊達な仙臺浪漫」のガイドをしました。ご案内したのは「瑞鳳殿」「仙臺城址」「仙台駅前朝市とおり」の3ケ所を15時30分から17時30分まです。

冬至間近です。日没は早いです。瑞鳳殿はライトアップ(投射照明)での案内、幾分 太陽の残光がある程度。下車からトイレ済ませ発車まで40分時間厳守でガイドしての厳命。足腰の丈夫なお客様です。時間厳守して妙雲廟界までガイドしました。

仙臺城址は、石垣・騎馬像を説明しているさなかに完全日没です。眼下に広がる仙臺城下は、ネオンに窓灯がキラキラ点滅輝いて見事です。仙台港に入港する船や、仙台空港に着陸する飛行機のライトが点滅するのが見えました。昼間の景観と異なり夜景を楽しむで好評でした。
携行した懐中電灯でお客様の足元を照らしながらバスに戻りました。当然の配慮ですが、ボラガイドながらお客の安全確保を之までに努めるとはと、喜ばれました。

仙台城址からのコースは、左に竜の口渓谷、右に御裏林を抜けると、東北大学青葉山構内、歴史をサラリと語り、地下鉄工事で渋滞する青葉通りを経由し 仙台駅前に。

お客様は、仙台の町中を市電が走っていた時代、国分町の盲腸線を含め良くご存じでした。長町から仙台まで片道20円で、市電を専ら利用した。仙台駅前の事業所で夜遅くまで働いたことがある等を話しされ、昭和時代を懐かしむ話題で盛り上がり、30年振りの大人の修学旅行の気分との感想を洩らされました。大満足の様子。

最後の案内個所 朝市は精通しています。ユックリ買い物して帰りますとのでした。夕べにも盛業の店前でガイドを終わりました。夕餉 鍋物の食材を求め 新幹線でお帰りでしょうか。鍋を囲み 盃を傾け 今日一日をどの様に語られるのでしょうか。

記憶に残った話
ウチノ人(配偶者)は歴史の勉強が好きです。政宗公を尊敬しています。家康公が「政宗 褒美に31万石を与える」と云った。聞こえない振りをした。再度 家康公が「政宗 褒美に31万石を与える」と云った。途端 「ありがとうございます。31万に31万の計62万石有難く」と返事をした。これで62万石が確定した。政宗公は偉い。とウチノ人が教えてくれました。

「お客様は、そのとおりと思われていますか」に、「はい ウチノ人の云うことです。間違いありません」 誠に 素晴らしい 夫唱婦随 です。 
小説・講談に この様な記述がありますが、これ程本気になられているとは驚きです。実話ではありませんとは言いそびれました。あくまで他人夫婦間の話題です。



12 月 6 日 (日)  



:境内は落ちもみじが敷き詰められ 絨毯です。

今日印象に残ったお客様は、庄内・鶴岡からの4ご婦人です。
徳川四天王の一人、酒井忠次嫡孫、酒井忠勝を祖とする13万8千の石 庄内・鶴岡からですか、遠方からありがとうございます。
酒井家の墓所は、鶴岡城址に近い、大督寺に隣接していますね。私お詣りさせて頂きました。神式も一部ありましたが仏式で、全て石塔で、ここ瑞鳳殿の様な廟は見かけませんでした。大木の伐根が多数あり、かっては荘厳な雰囲気の杜でしたでしょう。勿体ないと思いました。

良くご存じで、私宅は酒井家墓所の隣です。杜の落ち葉が近隣を悩ませたこと、時代が変化したことから 杜がなくなりました。町の景観に潤いが無くなりました。酒井家で再び 植林することはないでしょうね。残念です。

仙臺藩志会員の年賀拝礼式参列の羽織袴裃姿の写真をお見せしたら「伊達家家臣の末裔の方々 今でも 政宗公をこの様に詣るのですか。素晴らしいです。其の昔 伯父は新年に 酒井家に記帳に必ず伺ったものでしたが」

仙台市民は偉いワー 政宗公の御霊屋を 山茶花・椿とこの寒気に咲く花を植え 整備されています・・・・・
今日は、エジプト展を見に来まして、時間調整のつもりが シッカリ長いしました。又 来ますと 去って行きました。

庄内酒井家18代酒井忠久氏が10月31日、戊辰の役140周年祭で仙臺に見えましたと 伝え損ねました。

外国からは、Finlandの家族の集団、Chinaからの若き男女の集団と見えました。
今朝は開門から、ガイド依頼が連続し、時間制限が無いから丁寧にガイドしてと申される方々ばかり、11時40分初めて途切れました。



12 月 4 日 (金)  



春5月22日仙台・柏木市民センターからのご依頼で、政宗公の灰塚があり、4代綱村公正室仙姫の御霊屋「瀞寂殿」唐門を移築した北山・大願寺等をご案内しました。

その時の主力メンバー20人は、仙台に転住されて間もない方々で、仙台での生活について自主的に勉強されていまして、11月で一応卒業となり、卒業旅行で 何処に行くか と討議の際、あかとんぼ を思い出して頂きのご指名でした。高齢者をボケさせないの発想か、転勤族の逞しさか 講師謝金・足代実費も講師の自己負担でした。

転勤族の逞しさか、ガイドする前に質問してきます。質問が連続すれば 答えていれば コースが成り立ちますが、気ままに 不連続に質問されますので、態勢建て直しつつのガイドなります。勉強になります。

記憶に残った質問
1.東参道(62石段)は、いつ、誰が作ったか。
2.涅槃門の彫刻の作者は 誰か。
3.仙台駅構内広場の 政宗公の騎馬像が無くなったが、いつ撤去し 何処に あるか。

答えとして
1.1637年の造営以後ですが、正確な年月、普請奉行の名 等の記録に 現在未だ到達していません。わかりません。

2.創建当時の彫刻の作者はわかりません。現在のものの作者は・・・・・
質問者は、左甚五郎 を期待していたらしく 急速に関心を失った様子。現在の作者名 披露に至りませんでした。

3.調べ12月17日、柏木市民センターで開催の地域学「大崎八幡宮」に持参を約束しました。 


今回の参加者、転勤族ですから マナーは心得た方ばかりでしたが、一人だけ 私勝手な発言と立入お断り地区に係の制止を振り切り、立入・滞在した事です。約10年間のガイド経験で初体験です。この方の配偶者は 高位高官なのでしょうか。チョット 横着無人過ぎると感じました。





inserted by FC2 system