2010年2月の日誌
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2 月 28 日 (日)  



涅槃門 
化粧直工事 大詰。
工事用の足場と覆いが外されました。明日には、塀が外れ、門扉が据え付けられるそうです。工事は予定より大幅に進捗した様です。

仮設歩道橋から、外妻の「牡丹に唐獅子」が、ほぼ同じ目線で見られます。補修前も美しく 「内心 何で化粧直しするのか」と思っていましたが、無知でした。驚きです。全くの生まれ変わりです。鮮やかな色彩です。黒漆に金箔 最高の調和です。唐獅子の「阿吽」の口元もパッチリしています。
瑞鳳殿本殿や大崎八幡宮の化粧直工事以上の出来映えと云いたいです。

本日 天候は霧雨から曇りで 撮影条件は疑問で 工事中である記録撮影に留め、近日 天候回復した平日、早朝 撮影します。「涅槃門」の項 全面改定します。


山形・米澤からのお客様が続きました。偶然でしょうが不思議です。米澤の青年10人程、通常、朝早い男の団体は酒臭する人が何人か居ます。この人達には、一人居ません、真剣に聞いてくれました。上杉鷹山公の教えが効いているのか? なお 竹に雀の家紋に興味を示しませんでした。

7人の団体。「この子初節句の御祝いにお詣りに東京から来ました」。 「この子初節句」とは 萬一歳を迎えるお嬢さんです。政宗公との関係は? 子の両親2人に、その両親(祖父母)4人の7人。
4人の祖父母、「儂の孫だ 独占させん」と、3分置かずに抱き手を交替しています。
孫に夢中でガイドを聞くのは「上の空」で、抱手から解放された途端に 今ガイドした事を質問します。たしなめる配偶者の一言。まるで「夫婦漫才」の様子です。

南部と津軽からの3人。涅槃門を仮設歩道橋からガイド「現在の柱は青森ヒバです。塗りは国産の黒漆と聞いています。もしかして 浄法寺の漆かも」 に 「青森ヒバ」に反応はありません。天然青森ヒバは入手困難になった現在 地元の人々も その優秀性に無知になったのでしょうか。浄法寺の漆については、浄法寺塗りの漆器を使われているのか、天台寺・瀬戸内さんの説法を知っているのか 反応はありました。

ガイドを頼まれた時 「どちらから」と尋ねます。それは 伊達家・政宗公と 絹糸の様に細くても良いです。何か関連することないかです。それを搦めてガイドすると、瑞鳳殿に親近感を醸し出すからです。
今日のお客様も、帰り際 「よかった たのしかった」と申してくれました。



2 月 23 日 (火)  



〔「中世の城・近世の城」仙台城を理解するために〕と題して、仙台市博物館菅野正道さんの講演がありました。地元紙でも告知しましたので、普段から指導・教授を受けている人、フアンの人々40人程の出席がありました。

その内容は、
@中世城館研究の進展
A戦国の城から江戸の城へ
  ★江戸幕府の城郭政策
B戦国城館の特徴
  ★縄張りが大きく発達
  ★軍事要塞と同時に領内統治の施設
  ★建物は寿命が短かった
C仙台城と若林城 戦国を内包した近世城郭
 ☆仙台城の歴史
 ☆仙台城の特徴
 ☆若林城の歴史と構造
 ☆若林城の築城意図
D城を見る時に
  ★近世大名はどの様な役割を期待したのか
  ★城の防御はどこが重視されたか
 ☆天守や櫓は城の「上澄み」のような者、城の本質は門や城壁、堀の配置などにある

以上のレジメと図面をもって110分 。内容が極めて濃く、後半若干駆け足になりました。

記憶に残った点
1.城郭制限「1國1城令」は、西日本を対象とした法令という最近の理解。伊達家は特別に白石城を認められたは、ハテナ。出羽・佐竹家は大館・横手に、南部家は花巻にと認められている。48舘も城と理解されている。・・・納得。

2.仙台城は、伊達家62万石の規模から考えると城の規模は大きいものでない。
  @天守の欠落 A少ない櫓、櫓門 B総構の欠落がある。  納得。

3.若林城の築城意図について、従前日誌に記載したところですが、先生達の発言として
  @小林清治 「失意の晩年の別荘及び城下の南方への拡大」
  A東海林恒英「嗣子忠宗公との住み分け」
  B斎藤鋭雄 「大御所政治の拠点
  C金森安孝 「北目城が果たした機能の承継」
  D千葉正樹 「双核都市の建設」
  E入間田信夫「東海道や國分氏の城下町を最終的に仙台城下に取り込む方策」
  これらの要因が重なり合って築城されたか。政宗公は隠居して居らず「隠居城」は正しく無いと纏められました。  平成16年若林区中央市民センター「シンポジュウムもうひとつの城 若林城」の報告書を読みました。そして今日のお話しで納得しました。

仙臺城址を案内する際、三の丸址の博物館裏庭、清水門跡、中門址を経由し本丸址に至るコースを推奨しています。
菅野さん 28日発行される「市史通信22号」を配布され、記載の(もう一つの大手筋)を紹介されました。そして このコースをガイドしてくれれば、仙臺城の真髄を理解して貰える最善ではないでしょうか。ボラガイドに期待したいが「シメ」でした。
我が意を得たり です。 ガンバルーゾー 



2 月 22 日 (月)  



平成22年2月22日ぞろ目の目出度い日です。

「東西伊達家の明暗」と題して、宮城県が支援する生涯学習団体「まざらいん会」で90分間、思うところを語りました。
司会のご挨拶が冒頭です。私も「2時22分には、お目出度い話しが飛びだす筈です」と応答しました。

西の伊達家・宇和島10万石は政宗公とご新造の方との正真正銘のご長男。東の伊達家・仙臺62万石は、政宗公と正室愛姫正真正銘のご長男、政宗公からしては二男です。

幕末の動乱期、西は中央政界で活躍し、侯爵の爵位を得ました。東は、1260余名以上の犠牲者を出し、領内を荒らされ、朝敵と言われ賊軍の汚名を着せられ、城地没収、西より下位の爵位 伯爵でした。

その起因は何かです。昨春 宇和島で蒐集した資料を加えて 私なり整理した結果を、資料として「東西伊達家の殿様の略歴と在位年表に、西の領域図ほか」を作成し発表しました。

要点として
1.伊達家の殿様は、幼少で、若死にし、短期間の在位で、統率・指導力を望めなかった。
2.米単作で、他産物の商品化が無いに均しい状態で、長年の凶作で、財政力が極めて悪化していた。
3.世情の変化に対する情報収集の必要性に目覚めるのが極めて遅かった。

これが、「政宗公以来の大藩、幕府に次ぐ軍団を持ち 300諸侯の筆頭」と云われ、五大老国事に参画をと招かれても応ずることが出来なかった、正に「アンコの無いモナカ」状態に陥っていた のでないでしょうか。



2 月 21 日 (日)  



天気晴朗なれど路板凍結。涅槃門の仮設橋の路面が凍結し テロテロです。10時になるも解氷しません。滑走・転倒の危機を感じ、融雪(解氷)剤を散布して貰いました。これで安心です。

本殿でのガイド終了した時点で「資料館は右回りで、左側出口に近い展示物。容器を見て頂きたいです。中身を見て感激されるお客様がお出でですが、容器を見てください」と話ししました。

涅槃門前で待機。降りてお出でになり「アノー 正解?・・・・・」 「甕ですか?」 「小判ですか?」 予想のとおりです。人は黄金に弱く小判に目が眩む様です。3人3様の答えです。

「甕をご覧頂きたかったのです。この次ぎご覧なる善應殿 3代綱宗公が実際にご使用になった甕棺です。中の小判は本物かどうか 聞いていません」 皆様 「アッ」
感仙殿・善應殿に期待を持った様子て自動扉を潜られました。

朝早くは、若いお嬢さんの2人組、11時近くから若い男女のペアが、続々と。盛年以上は観光タクシー利用が続々。日本語以外の人皆無。携帯電話での撮影は皆無。日によって特徴が出ます。なぜでしょう。



2 月 20 日 (土)  



樅の木は残った

ある小説家の作品名です。かってNHKTV大河ドラマとして1ケ年放映されました。善應殿でガイドする際に話題しますが、見た記憶のある人は極めて少なくなりました。

今晩、NHKでない局が2時間ドラマとして放映しました。
寛文事件 俗称 伊達騒動を作者の視点で 主人公 原田甲斐を悪人から 御家大事一筋の善人に仕立て上げたのが この小説です。ドラマもその粗筋を踏み外さないように描かれて居ました。

寛文事件について、大先生始 研究者が論文を発表しています。者の見方に表裏がありますから 今回のドラマについて 浅学非才の素人がとやかくの評はありません。

ただ 見ていて違和感があったりは、
@役職名です。吟味役、國家老、江戸家老等です。伊達家では、この呼称は無かった筈です。評定役、奉行では

A後見役を中心に、御一門の方々に奉行(家老)が加わって 重要事項決定の会議を開催している事です。御一門の方々は 政治には直接に参画しなかったと聞いています。

B老中酒井雅楽頭が品川迄散策し、帰路浪人宅に立ちより、酒席を強要している事です。品川は宿場で、名物は女郎とする説もあります。幕府の責任者の老中が 供を連れないで(警備無し)で、買春に行くかです。又、素性の知れない浪人宅に立ちよれるか、酒席を強要は ヤクザ並です。誠に滑稽な筋たてです。

C原田甲斐邸を伊東重孝(七十郎)が気軽に訪れ、「原田さん」と呼び、酒席を供にしています。伊達家奉行の原田は8,000石の殿様です。伊東重孝は伊達家家臣でも、桃生郡北村200石です。 身分が違います。あり得ない場面です。

Dまだありますが。時代考証ゼロのドラマです。この辺で。



2 月 18 日 (木)  



瑞鳳殿ガイドについての感想

1.「翌日は、行きたかった、伊達政宗公の霊屋、瑞鳳殿へ ボランティアでガイドをして下さるちょっとご年配の方のお話が面白い! とても楽しい時間でした」

2.「瑞鳳殿はとっても勉強になりました! それまで、存在も知りませんでしたし、建物にもいろんな意味合いもあり本当に行って良かった〜と思えるところでした。 出来れば、事前に勉強していけば良かったのですが。

桜や紅葉の頃は、仙台の街並みも美しいのでしょうね。ゆっくりと観られなかった分、また行きたい!と思いました。 ぜひまたその節には、楽しいお話をお聞かせ下さい。
仙台はきっと、まだまだ寒い日が続くのでしょう。」

goo RSS 「瑞鳳殿」のキーワード検索したところ、上記1.感想がありました。早速 お礼の書込に 2.を頂きました。

拙いガイドながら 面白いと楽しんで頂き、又、訪仙したいと申してくれました。仙台観光の黒子として些かでも貢献したかなと 喜んでいます。

「存在も知りませんでしたし、建物にもいろんな意味合いも・・・」 これが普通 当然でしょうから ガイドの語り始の要点かなと 自省する所です。

この方、何処の方かな。「仙台空港まで2時間、仙台はまだ寒い日続く」から福岡空港利用のキャリアウーマンと推測しました。桜や紅葉の頃の再来をお待ちしています。



2 月 15 日 (月)  



「玉蟲佐大夫」の履歴

諱は諠茂、字は子発、通称は勇八。後に佐大夫と改める。3歳時父を喪い兄勇蔵に養育される。武芸を好み槍術を善くす。13歳 時荒井東吾の嗣子となり1子の親に。24歳時 時事を感じ、相続を辞し江戸に登る。
大學頭林復斎に従遊し塾長になり、世子學斎に侍読、又広く四方名士と交わる。安政始 林家を辞して、仙臺藩江戸邸順造館にて、江戸にて学ぶ伊達家臣を督す。
安政3年凾館奉行堀織部正に従い蝦夷地に赴き、山野を跋渉、風土習慣を視察、「蝦夷紀行」を編纂摺る。
万延元年1月幕府使節新見豊前守に従い米国に航し、文物制度を視察する。
慶邦公、録を給し大番組に列す。小姓組、養賢堂指南頭取に進む。
奥羽列藩同盟軍務局副頭取に。但木土佐家老の信厚く、会津、越後、加賀と赴き、北越諸藩と同盟を図る。
藩論一変、捕らえられて獄に、切腹命じられる。時に、明治2 年4月14日享年47歳。遺骸を三百人町保春院に葬る。
以上「仙臺人名大辞書」による。

13日講師星亮一氏の内容の基本は上記履歴のとおりであり、研究成果を付加されました。メモ取れず一睡の夢と消えました。



2 月 14 日 (日)  



出足は遅いです。10時前は自習時間です。

chinaの方々3世代10余人、欧米系小団体と続き、外国人2対8の日本人の比率を感じ、日々 瑞鳳殿の参拝者は国際化しています。手水所の龍の背に立ち並び 記念写真を撮って居ました。外国の方は龍が珍しいらしいです。中国は「春節」と申す小正月の行事で7−10日間全国的に休暇です。東京・秋葉原には家電を100万円単位で買物していると報じて居ました。その一隊が瑞鳳殿に政宗公参拝に見えたのでした。

久々に定観バスに遭遇しました。10指を越えるお客様に、「午後は乗車率もっと高くなるですけど」と洩らしながらガイド嬢は張り切っていました。
今日も 瑞鳳寺山門前のタクシーの駐車はゼロでした。別に穴場を発見したのでしょうか。

本殿の天女さんをガイド中、東京のお嬢さんとの事で「柴又帝釈天」の天女さんを紹介したら「あらー嬉しい。帝釈天の門前に住まいしています。みちのく仙台で家の前が話題になるとは!」
「帝釈天の彫刻に悪戯した人がいたので、文化財保護の見地から硝子カバーとクーラーを設置しました」と現況を教えてくれました。

副葬品について拘る方が居りましたので「文鎮」複製品が売店で数量限定で販売していますと伝えました。求められたかどうか。

「この瑞鳳殿の維持・管理・補修工事は全て伊達家で行っていますか。それとも 税金ですか」のご質問がありました。「(財)瑞鳳殿が、基金で補修工事等を行っています。詳しくお知りになりたいのであれば、事務局の幹部があそこに居ります。どうぞ」に、私の回答で満足したらしく 幹部に歩を運びませんでした。

お客様を案内した地元精通者らしき方、手水所の「九曜紋」をさして「これは九曜紋と申して、真ん中の大きい丸は土星で、不動明王です。政宗公は・・・・・」と説明していました。面白いので聞きました。手持資料によれば「確かに真ん中は土星です、仏様の配置では聖観音です」  はてなです。不動明王は1時の位置で「羅ごら」ですが。

券売所前のモミジの大木の枝先に「小さい花びら」 櫻の早咲きの様に見えます。青空に点々を見上げて居ましたら、通ったお客様も一緒に見上げてくれました。「花?」です。望遠で撮影し確認しました。葉ッパでした。
カナダで冬季オリンピックが始まりました。カナダの国旗は紅葉したモミジが中央に描かれています。この木は冬季オリンピックを祝して 花の様な葉ッパを見せているのでしょうか。 



2 月 13 日 (土)  



戊辰の役 の殉難者の一人「玉蟲佐大夫」
この方を主題にした講演・落語・演劇の3部門の一括公演が、玉蟲佐大夫の墓所(保春院)に程近い「若林区文化センター」で開催されました。

仙臺藩志会員・殉難者末裔・戊辰史研究者の方々の外、多数の若い人々で大ホール500人席は満席でした。

講演は、戊辰の役関係に多数の著作のある歴史作家星亮一氏。1860年日米修好通商条約批准書交換に渡米し、見聞録を発刊し、戊辰の役の犠牲者となった人生とその生き方についての硬い話。
照明が落とされ、某国の某副総理の如く 睡魔に襲われ 十分にメモが取れず 肝心な点が忘却してしまい誠に残念です。

落語は、桂友楽師匠の「玉蟲佐大夫外伝」と題する大酒呑みや、1854年の安政大地震にからむエピソードを交えた創作落語。落語は最後にオチがあって成り立つもの、苦労されていました軟らかい話。

演劇は、「超サロライ 玉蟲佐大夫」と題して、米国から香港を経由した地球一周にかかる280日の航海中の出来事を音と映像を屈指した新しい演出の演劇。理解容易で楽しめるものでした。脚本は石川裕人、演出鳳城りむの両人、この業界では有名・評価されている方でしょうか。

この公演に有名な和菓子店が協賛しており、全員に羊羹1本のお土産がありました。豪儀です。

席上 信頼すべき筋の方から瑞鳳殿の「弔魂碑」の補修に着工の目途がついたの情報がありました。期日は10月10日の弔魂祭以後でしょうネ。



2 月 12 日 (金)  



「政宗は白内障で失明したのか。それで独眼流政宗と申すのか」
昨日 この様なご質問を頂きました。年齢的に60代後半の男性です。糖尿病に起因する白内障で失明する方が、最近 それなりに居ると聞いています。この方も健康診断で侍医から、その様な注意を受け、内心悩みながら参拝に見え、かかる質問になったのでしょうか。

NHKTVの「伊達政宗」をご覧なった年齢の方々は、独眼であったを承知しています。

歴女(娘)は別です。之まで接したこの方々は 「知っています」正に〔門前に手綱を繋げねば〕と思うほど 事詳細に勉強しています。

瑞鳳殿にお詣りに見える方、歴女と比較的高齢の男性を除けば、全て政宗公のご生涯に精通していない前提でガイドしています。この前提が敗れました。

これからどうするかです。次回ガイドから 均しく「政宗公の政治的・軍事的 徳川幕府開府時の立場」を説明する必要があるのか 考え込んでいます。



2 月 11 日 (木)  



建国記念の日 天皇誕生日と同様に 日替わりの無い祝日です。と言うことは日曜日と連休云う。可能性の少ない祝日です。

木曜日です。昨年は水曜日でした。11時前後から東京圏を中心に参拝者がみえました。
9時30分青年。伊豫國松山からお出でとの事。伊豫宇和島は西の伊達家、奥州仙臺は東の伊達家、兄弟で、同じ家紋を用いているも承知のうえ、資料館に1時間ほど 籠もっていました。相当の政宗公フアンの様です。

宇和島の青年達の町おこし塾のHPのタイトル「伊達政宗」です。宇和島の伊達家の祖は 秀宗公ですのに、その親「政宗公」を標題にしているのはなぜでしょう。政宗公の名前は国際的に通用します、地元町おこし塾では、それにあやかったのでしょうか。

過日、ブログに「歴女ブーム 若い娘の参拝が多く、騒がしく傍若無人だ。マナーを心得よ」の記事がありました。確かに、お嬢さん達の参拝は多いです。ガイドを求めずマイペースで参拝されます。この記事の様なケースには、遭遇したことはありません。ガイドを活用してくれればと思っています。

本殿前でのガイド終わった途端「オジサン 政宗さん ここの地下にいるの」の声。若い、綺麗なお嬢さん2人です。「地下にいる」の表現は若干ヒッカカリました。「ハイ、地下3mの低面から1.2mの石室・・・・・・・」と説明に、「アッ ここお墓!」 全て快活な応答です。
寶筺印塔の最年少者は数え年22歳です。それを語ろうと、若く、綺麗で快活な応答に、ツイつられ「お歳は?」に 「わたし39歳 こちら29歳」とスバリの返事。普通は歳は答えません。応えられ内心ドギマギです。「ここの最年少者は数え年22歳です。同じ年頃と思いお尋ねしました」と正直に応えました。オジイサンには女性の年齢は見当つきません。
本殿全景撮影の際、オジイサンとペアと裏表も撮影しました。ブログに掲載されるかも。

涅槃門の修復工事、大詰めの様です。作事奉行のK学芸員 覆いの中で点検して居ました。半透明ビニールの覆い越しにも黒漆塗装、金箔が見えます。事務所でK学芸員から、各彫刻の修復前と後の対の写真を特別に見せて貰いました。色鮮やかです。模様等も詳細に描かれて居ます。工事着手前に撮影し、鮮やかと思っていましたが、格段に美しくなりました。足場、覆いのはずれる日が楽しみです。

建国記念の日 昔 紀元節。皇紀2670年です。国民の祝日 建国記念日です。その割に 市中に国旗掲揚が少ないように感じました。
フト 思いました。「國の祝日と伊達家の祭日、参道と主な所に、国旗と伊達家の家紋の幟、旗物差を立てれば」と。どなたに提案すれば宜しいのかな。



2 月 10 日 (水)  



昨日早速、博物館の菅野さんから
「若林城を築いて「二極化」したことの是非、そしてなぜ政宗がそのようにしたのか」につて、平成14年11月23日若林区中央市民センターで開催されたシンポジウム「もうひとつの城 若林城」の記録集を参考にされたらと、有難いご教示頂きました。PDF60頁 です。印刷拝見しています。目から鱗です。
http://www.stks.city.sendai.jp/citizen/WebPages/wakachu/joho/j001.html#j2

今月23日10時30分から市民会館で仲間の勉強会があり、菅野さんに「中世の城・近世の城」の標題で講演をお願いしています。上記についても語られるそうです。興味のある方 参加してください。申込は278−2848まで「あかとんぼ日誌」でみたと。
http://zuihoden.web.fc2.com/yoltuko.htm



2 月 9 日 (火)  



「政宗、晩年の城 若林城」と題し、仙台市文化財課佐藤淳主任の講演会に7日参加しました。

「若林城の遺構〔黒書院〕が瑞鳳殿に御供所(ゴクショ)として移築されたと伝えられています」の話しがありました。小憩の際、詳細な説明をお願いしましたが、講演でのお話以上はありませんでした。

仙台市史[城館]398頁に「伊達政宗の霊廟瑞鳳殿の拝殿脇にあった御供所(竹楼とも称された)も若林城の書院を移したともいわれている。この建築については江戸時代の記録などに関連の記録が無く、詳細は不明である」と記載されています。生涯学習歴史関係のガイドの際、その旨を語りましょう。

1600年、仙台城下を開いた際、川村孫米重吉に計画立案させ、宇津志惣兵衛を奉行として給水施設である四ッ谷用水工事を施工させ、仙臺城下反映の基礎を築きました事は周知の史実です。
先般、歴史研究の先輩から「若林城を築城し、ミニ城下町を形成し2極点化を図った事は、政宗の都市計画の大失敗だ」の発言を聞きました。
何故 若林城を築城したか、その意図・目的を分析せずに、単なる事実のみの観察で決め付けるは無礼だと思いました。この面からも講演を期待しました。

講演は、昨年までの発掘調査の経緯、発見されたものからの規模等の現存時を推測する内容で、レジメの標題は
@若林城はなぜこの地に造られたか
A城の形や大きさは
B城の中はどうなっていたか
C最近の発掘調査で発見したもの
D政宗はここで何をしていたか
E何を目的にした城だったか
Fなぜ廃城になったか
等でした。

現在、若林城と呼称していますが、寛永4(1627)年2月23日幕府から「仙臺屋敷構」として普請が許可されています。在國時は原則として若林城に居住しております。*1この居住について政宗公研究の一任者小林清治先生は「戦国大名としての野心、南蛮遺使の抱負がともに破れ、61歳の老いらくを迎えた政宗の事実上の隠居所とみるべき」*2と語って居ます。

若林城と呼称している事について、講師は「幕府の許可は〔屋敷〕で届け、許可を得ている。絵図には〔古御城〕と記載されており、若林地区に所在した事に由来する最近の呼称である」と明言されました。
仙台市史[城館]394頁では、「仙台藩内では当初から「若林城」と称していたことが確認される」とあります。2006年発刊以後に見解が変わったのかな。

若林城築城の意図と殉死者15名を伴ったこの2点は、本人政宗公に直接確認できない現在、永遠の謎ではないかと思います。
当初の疑問はスッキリしませんでしたが勉強になった講演会でした。
*1 仙台市史[城館]397.604.頁
*2 伊達政宗 人物叢書188頁



2 月 8 日 (月)  



昨7日の続きです。

或日、或事項が連続するが、それは其の日限りである事が多々あります。
今日7日は、占い?風水を信ずる方が連続しました。

結論を先に。

瑞鳳殿 〔宮城県 仙台 パワースポット〕
瑞鳳殿は晴れた日の午前中に訪ねるのがポイント。参道から墓へと続く階段がパワースポットになっています。瑞鳳殿はやる気がみなぎるパワースポットとしておすすめです。尚、本殿脇の墓には立ち寄らないようにしましょう。http://lucky.lovemoney-fusui.com/archives/549846.html です。

1番目、Eさんに「本堂脇の」と尋ねたので 瑞鳳寺と理解し説明したそうです。手書きメモを持参したそうです。
2番目、Eさんと打合中に、盛年婦人が携帯にダンロードした上記を示し、尋ねられました。読み切れなかったので1番目の方と同じ説明になりました。このご婦人は「62石段は厳しかった」と洩らされましたので「ですからパワーが付いたのでは?」と返したら 「ソーネ」と喜ばれました。

本殿を詣れば、両脇の寶筺印塔に行きます。正確には「お墓ではありません、供養塔です」 お骨の無いお墓と表現しても差し支え無いと思います。自然にお詣りすることになります。これを「立ち寄らないようにしましょう」は酷な指示であると思います。
Eさんは、気持ち優しい方ですから この辺を配慮し、本殿を本堂とわざと違えて 説明したのでしょう。

瑞鳳殿はやる気がみなぎるパワースポットは、あかとんぼ もお勧めです。

尚、このHPでは「大崎八幡宮」「塩釜(塩竈)神社」を推薦しています。




2 月 7 日 (日)  



 昨日は4年ぶりの真冬日、終日暴風雪です。最高気温は氷点下1.2度が公式記録です。実際は? 朝昼晩3回 食事ではなく除排雪。路面は圧雪・凍結の白舗装の状態です。

 夕方に高齢者の「寄り合い」が仙台駅前であり、楽しい「談合」が終わり店外に出ましたら、歩道も車道のテロテロです。若い人もソロソロ歩いています。

 新幹線以外、在来線に、飛行機も運休とか、常にタクシーが溢れている500台駐車場、空車ゼロで、お客がタクシーを待っている 最近見られない状況です。ノーマルタイヤの車が居るらしく、車の流れは完全に止まっています。タクシーが戻って来れないのです。あかとんぼ の乗ったバスはチェーン着用ですから走れるのですか車線が塞がれています。通常35分の距離を100分余も要しました。

 今朝 降雪はありません。日差しがあります。路面の圧雪が溶けるのを待っての常より遅い出発です。
瑞鳳殿の階段も 融雪剤が散布されています。帰路の路面は融雪剤の痕跡で黒々しています。市内で如何ほどの量の融雪剤か散布されたのでしょうか。融雪剤の主成分は塩です。結果論で 市内一円 漬け物になりましたわけです。早い機会に洗車しないと大変な結果になります。

 弔魂碑前にお嬢さんが立っています。珍しい現象なので着替えの前ですがお話ししました。「戊辰の役の殉難者の末裔の方でしょうか」に、「サテナ?」の返事。札幌からお出でで、白石区、伊達市、白老町等には縁がないとのこと 、4・5代前はわかりませんです。(当然です)。伊達家また殉難者の末裔とも御縁無いようです。悪路・寒冷の早朝の参拝に「御当主」に成り代わりお礼申しあげました。

 お嬢さん二人、表示板の政宗公を熱心に見て、不審な様子です。語りかけましたら一人は反応し、色々質問します。今一人無反応です。興味が無いのかな。涅槃門で手話で伝え始めました。合点がいきました。それから、説明を区切り 伝えて貰いました。
 視覚に障害をお持ちの方は一目です。しかし、聴覚に障害のある若い人は 容易でありません。わかりません。聴覚に障害のあると知れば、パンフに、手持ち資料で説明できますが、それまでを如何にするかです。
バス。レストラン等で、誤解されているのではと心配です。
後継者の難聴は、お互い様ですから どうのこうのありません。

 「昨日、松島を遊覧船で観光しましたが、真白い世界 なにも見えなく残念でした。櫻咲く季節に、化粧直し終わった涅槃門と松島観光に又来ます」のお声を頂きました。

 「本殿の阿吽の龍にどんな意味があるのか」と盛年男性のご質問。「屋根4隅に何故龍が載せているか」を考えた事ありませんでした。「ウーン」一瞬詰まりました。「わかりません。その意味を記した資料に接していませんので。私見ですが、他の建造物の事例からも 魔よけの意味あいがあると思います」
 「あそこのある龍はなにか」 「戦災で焼失した際、救出された6頭のうちの1頭です」 「さすれば 残り5頭は、今の本殿屋根に飾られたのか?」 「いや、此処の資料館等に飾られています。屋根上のものは造り直し物です」 「なぜ 再使用しないのか」 なるほどの発想です。使えるものは 全て再使用する。大変結構な発想ですが。

 墓室の図面を見た、東京のお嬢さん「副葬品が多い」の言。時代と身分を超越してのお言葉です。現在100%近く火葬です。「燃えにくいのもの、余分なものは入れないでください」と云われます。又 高価な遺品は形見分けと称して寄せられると聞いています。この感覚での発言でしょう。

 副葬品の写真をお見せしました。完璧な保存と美術品としての優秀性に、さすが 驚嘆をしていました。「この文鎮は 完全複製品が個数限定で売店で販売されています。残 少量と聞いています」に 「ウーン」 携帯メール専門の世代に「文鎮」の出番があるかです。

 売店で物色中の3人娘、「オジイサン着ている ソレ欲しい」 俗称五色水玉模様陣羽織です。 「残念ながら非売品です。5月24日の政宗公の法要にお出でなれば、ほぼ100%復元した品が見られます」と 仙臺藩志会の行列の写真を見せました。「ア この笠被りたい」 「じゃ5月24日の法要にお出でなり お声かけあれば?」 別の娘さん「このスカートを穿きたい」 「うー それはネー これは袴と云います」 幾らジサマでも 孫でも無い 若い女性の前で袴を脱ぐわけに行かないでしょう。 彼女は別の事を考えていました。(脚が短い 裾を引きずるだろう)です。 校門を出た所で スカートを腹部で捲り 膝上何センチした経験を思い浮かべている様子です。「袴は腹部で捲る事は出来ませんよ」に ガッカリの様子。

 世代・性別で 色々な発想があるを知った日です。明日に続く。



2 月 2 日 (火)  



臺湾青年の瑞鳳殿参拝の感想

ブログに下記記事を発見しました。31日日誌に記載した臺湾青年一行です。

森之都散策 (01/31)
http://heidika.blog2.fc2.com/blog-entry-1606.html

心当たり部分

剛走到去靈屋部分 有無料的TOUR GUIDE(是一位慈祥的伯伯)在介紹
瑞鳳殿經過戰事的失火曾經修復過 所以這個已經不是原貌了
(我在看新舊圖對比時 有覺得以靈屋來?好像修復得過於華麗了一點...)
伯伯?殿?還有政宗公的像(即是拜祭的地方) 但現在已經不開放
所以他打開手上的文件夾讓我們看一下靈屋?部是什麼的

下線部分は、{無料の観光ガイド(1人の慈悲深くて優しいおじさん)が居て紹介した}です。
次のソフトで簡単に翻訳出来ました。ご教示に感謝します、
http://www.excite.co.jp/world/chinese/



2 月 1 日 (月)  



無尽灯廟

「伊達家無尽灯廟の公開活用」 平成21年11月の仙台市議会での一般質問の標題です。質問の詳細は確認出来ていません。HPでは公開されて居らず、議会事務局を訪れれば確認出来る筈
用語解説で「四代藩主伊達綱村公の遺命で大年寺山に作られた歴代藩主の墓所。四代、五代、十代、十二代藩主の霊屋となっている。現在は管理上の理由から公開されていない」とある。

四代綱村公の正室の墓所は、当初小田原・萬壽寺に創建され、現在は孝勝寺にあり、綱村公は単独の墓碑、五代吉村公、十代斎宗公、十二代斎邦公の御三方はの墓碑は正室の墓碑と並立しています。巨大な石墓碑7基があり、墓所の四方は土手と柵で仕切られ、正面口は常時施錠されています。

大年寺山に伊達家の墓所として「寶華林廟」があります。此処には、無尽灯廟と妙雲廟界に祀られている藩主等以外の方々が祀られています。ここは、高い土塀に囲まれ、正面口は常時施錠されています。


四代綱村公は享保4(1695)年6月20日61歳、江戸屋敷で亡くなられています。09年6月20日(土)綱村公が創建された黄檗宗両足山大年寺と廟所 無尽灯廟で315回忌法要が執れました。その際、あかとんぼ も参列が許され、現在の大年寺と無尽灯廟と寶華林廟を初めてお詣りしました。
その際、施主の伊達家十八代現当主伊達泰宗様が開錠されたと聞きました。

何れも 公開されていない事は確かです。戊辰の役で伊達家が家禄を失った以後、大年寺の廃寺等から廟を含めた土地の所有権が点々と移動し、公園化計画の進行で、市議会で暫し 討議された事は知っています。

墓石と御遺骨は、伊達家の私有財産でしょう。となれば、行政、議会が公開を討議することは、私有財産権の侵害出はないでしょうかと思うのです。

もし 常時公開すれば「管理人の常駐」で人件費を必要とします。参拝するのは、伊達家関係者と歴史好きの老人に限られ、瑞鳳殿の様に豪華絢爛な廟はなく、地味な石碑群です。又、政宗公と異なり、社会的に有名人ではありませんから、一般の人々の参拝は期待できないと思います。管理人の人件費は賄え無いでしょう。

以上は、昨日配布された「仙台市議会だより 平成21年第4回定例会号」の所感です。





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