2010年11月の日誌
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11 月 24 日 (水)  



戊辰の役 弔魂碑 の学術調査が 東北大学金属研究所で行われる事になりました。
朝から昼迄で 碑(鐵製4枚組合せ)が台座から 午後から銘板が降ろされました。

仙台市商工部・東北大学金属研究所・伊達家御当主・(財)瑞鳳殿学芸員・仙臺藩志会役員・ボラガイドの関係者に、大阪と奈良の歴嬢 ほかの方々が歴史的瞬間 を見守るりました。

この歴史的瞬間の撮影に失敗しました。突然の電源不足です。確認して持参したのですが 機械が 不足です 稼働しません と申しては お手上げです。


本格的撮影隊が涅槃門にカメラを向けていました。(財)瑞鳳殿のHP更新だそうですが、肝心の透かし彫りに レンズを当てません。
仙台郷土研究会の大先生が居ましたが ここ限りでは あかとんぼ の方が 詳しいと自負し、僭越ながら 撮影隊に 涅槃門の妻の彫刻の特性、見所を解説しました。ご理解頂き レンズの向きが変わりました。(財)瑞鳳殿のHPをご覧下さい。お楽しみください。

本日は 参拝者が少なく 調査現場と掛け持ちで行動したため ガイドは涅槃門周辺に終わりました。

涅槃門の説明を聞いてくれた 奈良と大阪のお嬢さんは、弔魂碑の外す瞬間を確かめるべく 予定を変更し1時間近く 一緒に見てくれました。恐縮です。感激です。

21日指示棒 欲しいとお願いしたら 氏家さん 早速持参してくれました。使い勝手を確認し 更に工夫し 改良型を日を改めて持参されるそうです。器用で面倒見の良い人です。作品 指示棒 近日 表紙に公開します。お楽しみに。



11 月 23 日 (火)  



瑞鳳殿 全山 燃えています。西陣織? 錦織りに溶け込んだ様 360度 紅葉です。雨でも 美しいです。

大雨です。祝日の割に 参拝者の足は伸びません。
ある ご婦人「天気予報は晴れ と云ったから 来たのに。ガイドでしょう 晴れにしなさい」 それは ご無理と申しもの。雨はガイドし難く 出動するか どうか 迷ったのです。

でも、今日は「勤労感謝の日」で 珍しく 日替わり・曜日の変更の無い祝日です。家人から「毎日が日曜日で 勤労していないでしょう。勤労感謝の日 くらい 勤労したら」と背を押されて 出て来た身に 鋭い ご挨拶を頂きました。

通常と異なり 主に拝殿でガイドしました。
説明しないのに 立て続けの質問 「なぜ 米国は空襲したのか。日光や京都は爆撃されなかったのではないか」です。質問は 短時間に集中的に、同一内容が 問われる傾向があります。今日は 空襲でした。

松島町立博物館を見学して来た方が これまた不思議 数組続きました。
広島からの御夫妻は 「一度ツァーで来たが 見られなかったので 夫婦で出直して来ました」と申していました。

お客様の感想は「あれだけの 寶物 伊達家・仙臺城の遺産を 無造作にガラスケースに入らず 展示しているのに 驚いた」 あかとんぼ も同感です。 「仙台市博物館にも 無い 貴重な物があります。よく 勉強されていますね。敬服致しました」と返事。

ガイドしましたお客様は、名古屋に、名古屋でない愛知の方(何故か拘っていました)、島根は出雲大社付近から と比較的遠方の方々でした。

「仙臺は 極彩色の綺麗な社が 数あり 宜しいです」の発言があり、「どちらから?」に 「島根です。出雲大社のほとりです」のご返事。
「出雲大社は1000年の歴史があるでしょう。ここは わずか400年です。大社造りの根元でしょう」と返しましたら ニッコリされました。

ボラガイドは、99%の説明が良くとも 最後の一言1%を誤ると、評価は「+」から「−」に 100%転換すると 先般 仙台観光コンベション協会専務理事から注意された所です。 今日は最後の一言1%を誤らなかったと 自己評価しました。

なお、[出雲大社は、『古事記』『日本書紀』には、国譲り神話として出雲大社の創始にかかわる伝承を伝えていますが、神殿成立の記録上の上限としては、斉明天皇5年(659)に「厳神之宮(いつかしのかみのみや)」として神殿を修したことがみえます]と 大社のHPにありました。1000年以上 1351年の歴史がありました。


仙台文学館で、「文学に描かれた伊達政宗」展が開催されています。関連行事として、瑞鳳殿加藤寛学芸員の「瑞鳳殿発掘調査の様子、建造物としての見所 等」の講話がありました。 スライド・VTRを活用し2時間近く要しました。スライドには あかとんぼ のガイドの様子も写って居ました。いつ撮影したのでしょうか。

スライドは ループルバス始発から始まって、瑞鳳殿・経ケ峯地区の施設・彫刻・碑 ほぼ全てを 丹念に 詳細に 収録されています。これを見れば 「現地でボラガイトのガイドは不要。行かないワ」 と云われそうな 完璧な出来です。 
簡単に一般公開しないでください。高齢者であるボラガイドの生き甲斐を奪うことになるかもしれませんので。



11 月 22 日 (月)  



仙台市主催「町中ガイド」 依頼がありました。

コースは 仙台駅から 駅前ビル31Fからの 仙台市街を展望し、名掛丁から芭蕉の辻、東一番丁を経由 定禅寺通りの彫刻と欅並木迄 2時間でご案内するものです。

本日のお客様は、沖縄県那覇市から還暦祝いのご婦人10人です。20日に来仙、瑞鳳殿と仙臺城はライトアップしたものを見学し満足されたそうで、昼 再びの希望は全くありませんでした。還暦で かつ 沖縄のご婦人であれば 歴女はいない様で 当然かも。 戦国武将の政宗公の神通力は働きませんでした。薩摩を観光した場合 どんな反応を示しているでしょうか。

瑞鳳殿は 復元されたと申せ 御霊屋ですから 過去から現在に至る 歴史・美術等は語っても ご理解頂けます。名掛丁・大町・東一番丁は、現在 仙台第一の繁華街とは申せ 老舗は少なく 県外連鎖の薬屋に 板壁(閉店舗)が目立つ所に 伊達時代の歴史等 過去から現在を、 趣味・嗜好の全く異なる 老若男女のお客様に 100%満足頂ける様にご案内するは 誠に難しいことです。

本日 お客様発言
1.仙台朝市は、本当に安いか。
2.鮮度はいい。林檎3箱送った。那覇で売っている林檎と鮮度が違う。
3.仙台の町は、昼も夜も 清潔で綺麗です。
4.呉服屋が多いが なぜですか。
5.この欅並木と彫刻 素敵です。
6.那覇の大通りでコケシ等を販売しています。仙台は100円以上 安いです。
7.仙臺味噌は 那覇では購入できない。仙台味噌は知らなかった。
8.瓢箪揚げ の素材は 蒲鉾か

以上のとおりで、瑞鳳殿ガイドとは 全く異なり、政宗公 伊達家治世 戊辰の役 空襲 敗戦 等の節目の時代についてのご質問は一切ありませんでした。



11 月 21 日 (日)  



雲一つ無い快晴 小春日和です。

紅葉が見事になりました。表紙をご覧下さい。
高価そうなカメラと高い脚立を持参され、半日 人の流れが途絶え 葉っぱが輝く時を熱心に 狙っている方がいました。

遠野物語等 民話の語り部のお婆さんが各地にいます。語り部は 聞く人ではありません。そんな方が見えました。
ご依頼があり、ガイドを始めたら 昨日瑞厳寺を参拝してきた。伊達家の紋所は、政宗はと、涅槃門の彫刻を説明をしても見向きもしないで 語り続けています。他のお客様は、彫刻 門内外・表裏を 懸命に見て 聞いています。

語り部の語りを聞く人がいないと気づいたか サッと 視界から消えました。それとも 御霊屋とは 建造物の御墓と知って 怖いと思いに逃げ出したのか。3分程で 断り無しに消えられたのは初めてです。

政宗公や瑞鳳殿について 知識豊富な方々は沢山おいでになります。ガイドの話を一応聞いて 最後に「私の知識では」と ガイド内容に付いて質問・指摘して頂くと 私には勉強になります。お客様との楽しい会話に思わぬ事柄「目から鱗」があり、調べる材料が頂けるからです。

タクシー氏 「40分でお客様を案内して」の依頼。メーターの都合もあるでしょうから 涅槃門から本殿まで 35分でガイドし感仙殿に向かって頂いたた所に タクシー氏が迎えに来ました。自分より 内容の濃いものを短時間で提供するボラガイドを活用すると考え 実行したタクシー氏は偉いと思います。お客様も タクシー氏も 私も 全て満足 三方一両得であったハス。

大阪の御夫妻 ガイドサイドで 理想的な形で聞いてくれました。何かお土産を差し上げたい気分になりました。「市史通信」たまたま持参していなかったので、背中を提供しました。お客様はカメラ目線 私は背中の竹に雀の紋所で、ペアを撮影して頂きました。御夫妻 喜ばれ 交互に撮影されました。 

今日最後は 90余歳の老婦人です。お婆さんではありません。拝殿から 段差の厳しい石段を軽々下りていました。「お丈夫ですネ」と80歳前半と思い 声をかけました 「90余歳です」のご返事。涅槃門の内で 要点をガイドしましたら 「本殿まで戻る」のご発言。お付きの男性2人 「おかあさん 止めてください 勘弁して」と一斉に。息子さま 60歳前後でしょうか。高段差にギブアップの様子。
歳に勝てない の言葉ありますが この親子は 歳に負けていません。90余歳の老婦人と 再会を約しました。

彫刻を示す際 指先だけでは お客様を容易に誘導出来ません。菜園の支柱 (2m長 10mm径)に焦茶色を塗り 持参使用していました。Eさんが長すぎると1,5m0,6径の支柱の先に真ん丸いプラ玉を装着し持参し全面切換使用していました。

先般 仲間の氏家さまと「先がもっと お客様にアッピールする形に出来ないか」「PCなどの 指さしの形にしたらどうだろう」「棒の長さ 短いな 握りも太くできないか」等が 話題になりました。

早速 話題の点を全て クリアした指示棒を制作持参されていました。テストさせて頂きました。お客様から好評でした。
あかとんぼ 専用を制作して欲しいと お願いしました。その理由は、涅槃門の麒麟の彫刻は光線具合で見えにくい日が度々あります。突端の指示の指形に平行に懐中電灯を装着し 照らせば、お客様には 見えやすく理解容易であろう それを実験したいのです。よろしくお願いします。 



11 月 20 日 (土)  



ガイドの様子

「ウエルカム みやぎ観光ガイドブック10」宮城県刊行 に瑞鳳殿でのガイドの様子(写真)が36頁に掲載されました。
09年11月30日(月)13時30分から、仙台市主催「町中ガイド」の研修の際 仙台市職員が撮影したものです。

本ガイドブックは、A4判 全178頁の分厚く重量のあるもので、宮城県内の観光に関する全て 社寺仏閣に行事から食・土産まで記載されています。本ガイドブックを熟読 記憶にとどめれれば 観光ガイド資格「宮城マスター検定1級」に合格出来ます。




11 月 19 日 (金)  



伊達家15代邦宗公遺訓

「人間は、いつ如何なる時に於いても、歴史を忘却して現在ありとは考えられない。過去に於いて祖先は、我々の現在を産まんが為には、血と肉と心を捧げ奮闘したのである。」

伊達家31世15代邦宗公の略歴は、30世14代宗基公の弟にして、明治3(1870)年9月10日仙臺にて生まれ、明治32(1899)年5月世子となり、9日邦宗と改め、大正6(1917)年2月28日伯爵に、大正12(1923)年5月27日卒 54歳 仙臺両足山大年寺に帰葬。(仙臺人名大辞典による)です。

邦宗公は、戊辰の役 の後 日本の政治経済全て変革の明治の御代に、政宗公の末裔として 伊達家の当主として その生き方に 種々 感ずるところがあっての遺訓と推察しています。

10月6日高畠町で伊達家36世18代泰宗様の講演で、締めとして「伊達家15代邦宗公遺訓」を披露されました。要旨は当日の日誌に記載しました。祖先があって 我々が現在あるのです 至言です。文字として正しく記録したいと思っていました。

17日瑞鳳殿にて、泰宗様にお会いしましたので、お願いしたところ 快諾され サラサラと書いて頂きました。




11 月 18 日 (木)  



忍城

10月3日お客様から「故郷は忍です」と返答され、忍は武蔵野國 行田にあって松平(奥平)10萬石。幕末動乱時に、歴史?記録に残る行動のあった藩とは知っていましたが 現場で容易に思い出せなく お客様から 「忍」と 云われたら 何を語りたいか 察知し語り合う機会を失したことは 残念と云うか 己の未熟を知りました。

勉強しました。

忍城は、現在の行田市に所在し、関東七名城(忍城・川越城・前橋城・金山城・唐沢山城・宇都宮城・太田城)の一つと云われ、日本三大水攻め(備中高松城・紀伊太田城・武蔵忍城)の一つと云われた 由緒ある城でした。

特に、1590年豊臣秀吉が小田原の北条氏を攻めた際、忍城は別働隊の石田三成に攻められたが、巧みな防御で、石田軍に多大の被害を与え、かつ、他の支城が全て落城し、最後に本城の小田原城が落城後に、初めて落城しないで開城した城として 記録に残る城でした。

1590年は、政宗公の転機・激動の年でした。
1月20日政宗公は秀吉から書をもって小田原参陣を命じられました。6月9日秀吉に謁しています。8月9日黒川城にて秀吉 奥州仕置を命じています。
この小田原参陣と小田原落城の経緯を今一度 精査しておれば、石田三成と忍城の関係を知れたでしょう。手落ちでした。

この出来事は知る人知る有名な話で、これを題材にした小説も数書かれています。
今回 「のぼうの城・ 和田 竜 著」を 「四ッ谷の水を街並みに市民の会」のある人の推薦で読みました。水と人の使い方を思いおこさせる書き方の小説でした。小説としての表現ですが 史実と大きく離れていないようです。

早く読んでいれば 10月3日のお客様のとの 応答も違ったものになったでしょう。 



11 月 17 日 (水)  



仙臺七坂七崎

政宗公が仙臺城下の建設した結果、その城下の地形を端的に表現したのが、標題「仙臺七坂七崎」と云われています。

この七崎の一つに「烏崎」があります。この付近に「三居澤不動尊」と「日本最初で現在も現役の水力発電所」があります。仲間の氏家さんが講師になり現地勉強会があり、時間と手間を費やして調査した「よくぞ調べた」資料での説明がありました。満足致しました。

備忘録
1.不動尊と滝 一体配置が多いがなぜか。参加者からの質問です。
  あかとんぼ邑の不動尊も滝と一体になっています。昔は滔々と流れ落ちる水量があり、伊達家の殿様も 眼病に効くと 参拝された由に伝えられています。現在は宅地開発の結果チョロチョロの流下です。でも、参拝者総数は、年間0萬人と驚異的に増えました。誰も 滝との関係に違和感無く お詣りしています。

2.年の表示  「元号00干支年00月00日」が正しいと理解していました。例えば「寛永14丑丁年5月24日」と記載し、元号は永続性が無く、代わります。60年単位である干支と組み合わせて 西暦の通歴の役を持たせたと 理解していました。

 大崎八幡宮の鳥居は、「寛文8年申戌8月15日」と掘られいると報告がありました。さてさて です。
瑞鳳殿の「献灯配列図 大正8年3日」によれば、 「寛永14歳丑丁5月24日」と 年の次に干支が記載されています。
゜仙台市文化財報告書第22号記載の感仙殿・善応殿・妙雲界廟石塔籠銘文」によれば、「寛文4甲辰年7月12日」と記載されており、あかとんぼ の是までの知識と一致しています。

記載の仕方は、年の文字の前後と2通りある。干支で60年単位の前後を容易に知る の結論に達しました。

「仙臺郷土研究 仙台藩歴史用語辞典  仙台郷土史研究会 2010年刊行」には、年代表と題して 和暦 永禄7年 西暦1564年 干支 甲子 と明治14年 1881年 辛巳 迄を一覧しています。便利です。本辞典のご活用をお勧めします。



11 月 16 日 (火)  



金上侍

江戸時代に かかる言葉あった。これは「金銭と引換に武士身分に身上がりしたり、武士に近づく様々な資格を得た者」です。

仙台藩と盛岡はんは、庶民が武士になるための金額を法律として定めていた。「売禄定価表」なるものが存在、金額の多寡によって獲得できる武士の地位が違った。

仙台藩の場合、農民が50両を藩に支払えば帯刀が許され、100両で苗字を名乗ることが許された。250両支払えと、農民の戸籍から武士の戸籍に移る事ができ、500両以上支払うと正式に藩士になれた。

盛岡藩の相場はもっと安く、60両で藩士になれた。
それでも なり手が無く、天保14(1842)年には、3分の2の20両までさげた。

以上は、想像を絶した 内容です。

「江戸のお裁き 驚きの法律と裁判」 河合敦著 角川学芸出版 183-4頁に記載されています。
原本は、「江戸時代の身分願望」 深谷克巳著 吉川弘文館刊行 と記載しています。確かめてください。



11 月 14 日 (日)  



お客様の出足はイマイチです。

この時間を借り、Uさんと瑞鳳寺を訪れました。目的は、昨日の住職お話の絵の拝見です。
本堂は開放されており 御佛様をお詣りしました。問題の絵は掲げられていませんでした。
庫裡と住職私宅は、完全施錠されお留守でした。と云うわけで 本日は拝見できませんでした。

ガイドは1組4人で終わりました。「先週平日 いわき市から参拝に来たがガイド不在であったので 出直して来ました。ジックリとガイドして欲しい」と申される前期高齢者のご婦人3人プラス1です。

伊達八家紋をガイドしたら、A老嬢「我が家も三ッ引両の横です」 B老嬢「我が家は九曜紋です」 「皆様 由緒ある家柄の方々ですネ。C様はヒョットして 竹に雀の紋では?」  C老嬢「私は皆様と違い そんな 恐れ多い事 申しません」
B老嬢「九曜紋の 曜は 曜日の曜で 星の不規則な配列 御不動様等の佛様がついているとは 今の今まで知らなかった。ガイドさん物知りだネ。ありがとう」   これ褒められたのか からかわれたのか。



11 月 13 日 (土)  



正宗山瑞鳳寺 住職さま

鎌田文恵住職とは、年に4回お会いしています。しかし、住職は あかとんぼ に面識は全くありません。瑞鳳殿での正月2日の年賀拝礼式、5月24日の政宗公回忌法要、7月12日忠宗公回忌法要、6月4日綱宗公回忌法要の4回です。あかとんぼ は ボラガイド・仙臺藩志会会員で、その他大勢 山の枯れ木 故です。

御城下で 仏教(臨済宗)系 大学 聖和学園大学 の公開講座が催され、最後に挨拶されたのが瑞鳳寺鎌田住職でした。アレッと思いました。肩書きは 学長でした。境内で幼稚園を経営されています事は 了知していました。しかし、大学学長 されていたとは 知りませんでした。

仙台市史 近世2 170頁に 図111があり「清水小路にあった湯目氏(知行高500石)の屋敷 明治中期に描かれたもので、樹木が生い茂る武家屋敷のようすを詳しく描いている」と解説しています。
白塗りの壁塀に、立派な屋敷門 背後に鬱蒼たる森が描かれていて、伊達家 中堅家臣の屋敷でも この位 堂々たるものと 理解させる画です。

瑞鳳寺鎌田学長から「我が寺は 明治中期に武家屋敷のようすを詳しく描いて画を所蔵している。拝観料は取らないから どうぞ」と 話された。
所蔵は、仙台市博物館であろうと推測していました。まさか 瑞鳳寺にあって 常時公開しているとは 驚きです。

早速 鎌田住職にご挨拶をし、明日のガイドの際にでも 見せて頂くように お願いしました。

本日の公開講座は「仙台今昔物語 泉区編」で 西暦700年開基の山の寺洞雲寺から 現代まで写真でたどる今昔でした。  



11 月 12 日 (金)  



家康公はいずこに

「東照宮と門前町宮町について」と題した、仙台市博物館 水野沙織学芸員の講話を拝聴しました。
先生は、「静岡県は久能山の麓で生を受けたと自己紹介後、家康は元和2(1616)年4月17日亡くなり、久能山東照宮に「東照大権現」と祀り、翌元和3(1617)年4月17日 日光山に遺骸を移した」と説明され、配布資料にも そのように明記されていました。

あかとんぼ のグループの見解では、「〔霊〕が移られ、遺骸は久能山に埋葬されている」としています。その様にガイドしています。遺骸を移したとなれば説明に変更を来します。それは構いませんが、当時の技術で死後1年を経過した棺桶を移送出来るかです。ドライアイスも無い、冷凍技術も無い時代 木桶棺であれば本体も腐食するでしょう。

久能山東照宮刊行資料によれば、〔神廟 家康公のお墓所。重要文化財。御本殿の裏手50mの所にあり御遺命により御遺骸を埋葬し、西向きに建てられている。塔は高さ5,5m外回り8mの石造りである〕と説明しています。

日光東照宮刊行資料によれば、〔御遺言により天和3年4月御遺骸を日光に御遷し〕と記載しています。先生の説明と一致しています。

あかとんぼ の疑問は 
1.久能山と日光と 説明では どちらにも 御遺骸が存在することです。御遺骸を分割する事は皆無と思います。
2.日光の説明が真実だとすれば、遺骸を どのように移送したか です。

伊達綱宗公の様に甕棺であれば容易に可能でしょう。
政宗公は御遺骸の周囲に牡蠣灰・水銀・塩を詰められています。政宗公より20年前に 既にこの技術があって、牡蠣灰等は容易に駿府で入手出来たかです。出来れば あながち不可能では無いと思います。

講話の最後に「質問は無いか」と促されましたので、勇気を奮い 上記趣旨をお尋ねしました。
「11月26日(金)10時から 博物館での「仙台人物史」の講義まで 宿題にします」 のご返事でした。

なお、本講座 11月19日(金)10時から  仙台市史編纂室長 菅野正道氏の「幕末と仙台藩のかかわり」と題して 福沢市民センターで開催されます。本日現在 会場に余裕がありました。



11 月 10 日 (水)  



茨城県のある行政単位で保護司をされている方々を瑞鳳殿と仙臺城址を120分でご案内しました。
行程が短時間であるだけでなく、高度の社会奉仕されていて知性が高い人々故か、非常に良好な雰囲気でガイドをしました。

意外な出会い。
ある方の名刺を出して、「この方 10余年前 水戸徳川家の墓所(常陸太田市所在)を訪ねられました。私 当時 墓守り していましてご案内しました。丁寧に参拝して頂き お元気なら お会いしてお礼申し上げたいです。伊達家筋の方と承りました」

お名前を拝見。その方は 仙臺藩志会の元会長でした。「ご高齢で 数年前 旅立されました」と応えました、
政宗公の御霊屋を参拝される行程 故に旅行に参加され、 蓄積された資料から 伊達家関連を検索し ご対面を期待されてお出でなったようで いささかガッカリの表情でした。 

意外な ご質問
「石の産地はどこですか。仙臺石の墓石は 私どもの地方では最高クラスです」
さて、最高クラスと お褒めを頂きましたが、墓石屋の広告を見る限り、中国産が幅を利かせていて、仙臺石を見ていません。

大年寺山の無尽灯廟の4代綱村公初め、妙雲廟界と歴代殿様御夫妻の墓石は巨石です。運搬を考えれば、当然領内、それも城下近辺となります。仙臺石と称されるのでしょうか。さて、其の産地を特定出来るかです。

忠宗公は寛永15(1638)年二の丸築城の際、北西の国見峠方面から仙臺石を切り出した。よって仙臺三渡戸の一つ「牛越渡戸」の地名が確定した。(平凡社刊宮城県の地名 282頁)に記載されています。

「ふるさと みやぎの地学 宮城県高等学校理科研究会 地学部会編 1999年5月刊行」によれば 仙台市国見三滝の「三滝玄武岩」が仙臺城石垣に使用されていると明記してます。

これを根拠に仙臺城石垣・瑞鳳殿の石垣・石段の石は城下近郊の産とガイドしています。

碑の石の産地も問われました。
碑に石の産地を明示している例は少なく断定できません。作並温泉碑は「陸前國牡鹿郡湊邑井内」と刻しています。他の碑も一見して 石の質は同じく見えるところから 伊達領内の碑の多くは 井内石(粘板岩)と理解しています。その様に回答しました。

政宗公墓室の石は問われませんでした。が。
地下3mの低面に、縦1.8m 横1.2m 高さ1.5m の大きさで 擬灰岩47個が組み合わされています。お客様が宿泊された秋保温泉で、加工容易な秋保石が近年まで採掘されていました。ホテルからも採石場跡が望まれたと思います。あの秋保石が 政宗公墓室の石と見られています。とガイドしました。

墓室の石材については「名取郡馬場村の秋保大滝下流名取川左岸の森安部落産の擬灰岩。地名石ケ森にちなみ石ケ森石と称し、下流の磊々峡付近の角礫擬灰岩に比して質が緻密の上に硬い割に細工し易い。大滝不動堂の石華表にも用いられている。家格千石の秋保氏の宰地故 献納されたと思う」と「瑞鳳殿 伊達政宗の墓とその遺品 1979年11月 瑞鳳殿再建期成会 刊行」13頁に記載されています。

本日は、「玄武岩」・「粘板岩」・「擬灰岩」 を確認し、「宮城県仙台西高等学校 1997年刊行 地域学習フィールド・ノート ふるさとの自然・歴史・文学」が ガイドの資料として最適であるを再確認しました。



11 月 7 日 (日)  



小春日和。温暖です。

涅槃門の表妻の懸魚等の彫刻に一筋の光が当たり輝いていました。お客様の9割は、眼中に無く素通りされました。

朝一番 お爺さんが ノートと杖を持った男孫二人を従えて、登ってきました。
涅槃門で「此は、日光・東照宮の陽明門に相当する門である。涅槃とは・・・・・・」と解説、孫にノートさせていました。暫時経過後 あかとんぼ が涅槃門の彫刻の特徴を他のお客様に解説していたら、3人で熱心に聞いていました。お爺さんの脳内資料には蓄積されていなかったらしい。

祖父の解説を孫が懸命にメモをしながら見学をする。お爺さんの解説内容は不詳ですが、この祖父と孫の語らい 人間関係はほほえましく 羨ましく拝見しました。

50代のご夫妻。50cm長の望遠レンズのカメラで案内板「狩野永眞安信筆 政宗公象」を撮影しています。資料の多色印刷をお見せしました。「馬上少年過 世平白髪多 残躯天所赦 不楽是如何」を ご夫人がスラスラと声高らかに読み上げました。日本語では無く理解できません。中華民国台湾のご夫妻でした。20文字の意味を理解されたか どうか 確認も解説も出来ない自身が誠に悔しい。

明石からの女性3世代。「孫様 高一、新聞部(写真部)、政宗公に熱烈 とか。今回の目的地は ここ瑞鳳殿です。丁寧に説明して欲しい」との事。
あかとんぼ 好みの撮影ポイントを紹介し、手持資料の撮影も応諾しました。バツバツ 遂に電池切れを表示。母上のカメラを借用していました。

祖母様発言 備忘
1.手洗鉢があるのは 誠に珍しい。京都でも少ない。さすが伊達さまです。
2.我が生家は 三ツ菊 の家紋です。それなりの由緒ある家柄でした。
3.母は「長持」を持って来ました。私は桐の箪笥です。

明石のお客様は、じっくり聞いてくれ、最後に「是まで丁寧にガイドしてくれて 無料ですか?」のご挨拶。嬉しい限りです。
本日は このお客様以外は、「ボラガイド暇では大変だろう 喋らせなくは」のボランティア精神旺盛です。「5分で、10分で」 のみでした。Aさんは、涅槃門の外・内の折り返しを繰り返して 拝殿迄も お客様と一緒に上がって来ませんでした。

お客様発言 備忘
1.政宗公は なぜ 米澤で生まれたか?
2.年賀拝礼式は なぜ 1月2日なのか?
3.NHKTV 大河ドラマは歴史の勉強になる。

1.母親義姫が 結婚しての居住地が米澤であったから 米澤で生まれた。400年前 武家で生家に帰って出産する風習があったろうか。質問の主意を理解できず 返答出来なかった。

2.仙臺藩志会は以前から この日時で開催しています。その昔  元日に宮中参加する会員がいたらしく 又 (財)瑞鳳殿と仙臺藩志会の双方の準備その他の都合から 2日になつたと 聞いています。1日に開催は 現実的 常識的にみて 相当の無理があります。

3.NHKで  制作したとて 史実に忠実 正確に表現していません。「伊達政宗」は 伊達家御当主が監修していますか 問題ないとして それ以外のドラマには ハテナが 暫し見られ 不快になります。10年10月6日高畠町で伊達家当主 泰宗氏は 講演の際 この趣旨を話されました。


徳島からのお嬢さん 「陣羽織 撮影させて ブログに載せるから」  載りましたら お知らせします。
「三好長慶 (みよし・ながよし)」を御存じていますか と問いましたら スラスラと応えてくれました。阿波徳島で知る人ぞ知る人物です。

 徳島県の歴史 山川出版社(1973年刊行)によれば、阿波一国下克上争乱を治めた人物です。
1600年代を中心に歴史を見ている あかとんぼ には それ以前の人物で馴染みがなかったです。
阿波は、土佐の長宗我部元親に獲られ、更に秀吉に征服され、蜂須賀家政が領主となり幕末に至ったを知りました。



11 月 6 日 (土)  



若林城址〔政宗公が晩年の居所として築いた城郭址〕を見学してきました。

宮城県歴史研究会の11月例会が若林城址(現宮城刑務所)で開催するので、如何ですかと お招きを頂きましたので、勇躍ゲスト参加しました。
普段は 決して立入出来ない施設で 千載一遇の機会です。

本物 天然記念物の臥龍梅をこの機会に是非 拝見したい。撮影したい の希望でした。門内は 撮影禁止 携帯電話も使用禁止で、肉眼映像保存のみでした。

推定樹齢360年 樹高9m 樹周1.3m 枝張 東西17m 南北22mと 仙台市指定保存樹木型録に記載されています。
地表を臥したのか 3本の幹に見えます。1本の幹が臥したと推定していました。外れました。

案内したSさんの発言の備忘録です。
☆.臥龍梅経歴
1.文禄4(1595)年 政宗公29歳 朝鮮半島から持ち帰り 岩出山城に植えた。
2.慶長7(1602)年 仙臺城完成 仙臺城に移植した。
3.元和9(1623)年 春 母・義姫 観梅をする。政宗公53歳 母・義姫76歳
4.寛永7(1629)年 春開花前 若林城に移植。
5.1760年頃(正確な年代不詳) 枯れ寸前で 福井文大夫 接木し再生を成功する。
  朝鮮梅の純血を失い、杏6:梅4の比率となる。
6.天保9(1838)年 菅井梅関(仙臺4大画家) 臥龍梅を描く。
  「舊城朝鮮古梅之図」 174.5×92.0 伊澤家コレクション 仙台市博物館収蔵資料図録NO7 57頁掲載。
7.明治10(1877)年 本地・臥龍梅込み 伊達家 7,500円で政府に売却。現在に至る。

★.建造物の移築
1.大部分は、二之丸に移築。
2.正門は、五峯山松音寺(仙台市新寺四丁目)に寄進された。現在 同寺 山門として存置。
3.北門は、北原山正楽寺(仙台市新寺四丁目)に寄進された。現在 同寺 惣門として存置。
4.東門は、重臣茂庭家の屋敷門として移築。
5.書院は、瑞鳳殿御供所として移築。戦災焼失。
6.黒書院は、外人屋〔他地域の本陣に相当〕に移築、

なお、
◆ 6.黒書院は仙台市史[城館]による。
◆ 2.正門と 5.書院は、記録に関連記録がなく詳細は不明と仙台市史[城館]にある。
◆ 2.正門と 3.北門は、仙臺市史7の各寺院の項に記載あり。


本日の参加者は、宮城県歴史研究会会員以外の 素人歴史愛好者が多数 ゲスト参加していました。昨日以前の過去400年を圧縮し 年輪を無視・混同し 質問されている方に 講師は戸惑いの表情でした。



11 月 4 日 (木)  



「作並温泉の老舗の取締役が瑞鳳殿において、あかとんぼ との面談を希望している。都合は如何」とガイド仲間Cさんから 連絡があり瑞鳳殿にて 待機しました。結果として 急用が出来のか お見えになりませんでした。

高齢者と称される年代の夫婦5組が売店で 渋い政宗公グッズを求め のんびりした風情で 涅槃門に来ました。「台湾の方ですか」 「そうです」 「ガイドしたいのですが 日本語しか話せないです。ご期待に応えられず 残念です」 一番の長老に 通じました。理解してくれました。

涅槃門の菊紋を見て 「これは天皇の紋?」 「伊達家の紋です。天皇 皇室と同じ紋は使用出来ません」 続いて正面の「麒麟」 左右妻の「阿吽」も ご理解頂けました。仲間に伝えていました。長老は 矍鑠たるものですが あかとんぼ の日本語を理解した事と長老である事から かっては「大日本帝国臣民」であったのか。だから と推察しました。


高齢期の男女 「東京と徳島から来ました、夫婦ではありません」この様に自己紹介されると ドギマギしてしまう あかとんぼ です。
拝殿扁額 例によって 「珊瑚と真珠です。徳島は四国 産地ですネ」 「イエ 珊瑚は高知 真珠は宇和島です。徳島は〔ミヨシチョウケイ〕です」
徳島は 阿波踊り・鳴門渦潮が出てくるかな の予想を覆す 人名です。「三好」は聞いて居ますが 詳しい事は 脳内デターベースにありません。沈黙

三好長慶 (みよし・ながよし) 1522〜1564. 織田信長以前の戦国時代の武将。畿内・阿波の戦国大名。室町幕府の摂津守護代。と 帰宅してのパソコンで知りました。勉強の種を頂きまして感謝致します。

栃木県小山からの小団体。「小山って 知っています」と問われ 「ハイ知っています。昔 急行停車駅 今新幹線停車駅 宇都宮に次ぐ大都会です。下車した事はありません」 マアマア マンゾクして頂けたようです。

「涅槃門・本殿の豪華絢爛な彩色は、日光の小西美術工藝社さんが施工されてます」とガイドしました。帰り際に 「私 小西美術工藝社さんと懇意にしています。小西さんのお仕事 見られて 嬉しいです」と 満足げな様子。

この団体 商工関係でしょうか。添乗員 当初 「時間はたっぷりあります」が 30分で説明終わった途端 「みなさま 丁度 お時間になりました。蓮に・・・」 移動して 昼食 さて何を 牛タンでしょうか。好みで無い年齢の方々ですが。

お爺さんが涅槃門前のベンチで休んでいます。お婆さんが 付近をウロウロしてから 並んで座りました。「お詣りされました。どちらからです」に 「未だです。静岡からです。長い石段で疲労困憊し 休んでいます。 この後の石段 急な様ですネ」 「ハイ急です 手すりが無いから 降る時特に大変です。赤ちゃんの様に 後ろ向き 両手を使い降りれば 安全でしょうが イヤですよネ」  「どうして 手すりが無いのですか」 「はい それは・・・・・・ お願いして居るようですが・・・・・」  「私 新聞に投書しようかしら・・・」 「どうぞ」  本殿について 資料をひらき語りました。

結果として 本殿に登壇を断念して お帰りになりました。
昨日 市文化財課 主催で見学会がありました。市の職員の皆様が案内されていました。手すりの必要性 理解されたと思いますが。他県の方から当初される前に 観光立市を目指すからには 手すり設置 実現して頂きたいです。



11 月 3 日 (水)  



識者A(特に名を秘す)様から、昨日まで記載しました「伊達小次郎」について、次の様な ご教示を頂きました。

1.仙台市博物館前館長の佐藤憲一氏が、『Kappo』(カッポ)という雑誌の最新号に興味深い説を掲載しています。ぜひご覧になってください。

2.「小原縫殿助」ですが、読みは「ぬいのすけ」で、「縫之助」よりは「縫殿助」または「縫殿之助」の表記が一般的だと思います。


1.について、あかとんぼ 利用図書館は公設民営で、雑誌は皆無に等しく閲覧不可なので、城下の大書店に駆け込み購入しました。

全文 興味深々ですが、特に 貞山公治家記録 天正18年4月7日の条に小原縫殿助は、政宗公に手討ちになったと記載されています。これでは 果たして小次郎は政宗公に討たれたか? お墓の説明文と 不一致で、お墓の主は誰かなります。 伊達小次郎は生きていたか?です。誠に 興味深い説です。

政宗公毒殺未遂事件・「貞山公治家記録」の全面的な見直しが必要だろう。毒殺未遂事件と小次郎殺害は、政宗公の人生の最大の暗部である。光を当てる時がきているかもしれない。と 筆者は結んでいます。
ご一読を あかとんぼ もお勧めします。

2.については、納得しました。


識者B(特に名を秘す)様から、11月1日 2.記載「田村男猿改片倉三右ェ門良種墓」につて、如何なる人物であるかの資料を頂きました。

愛姫は田村家の独り娘で、父親田村大膳大夫清顕は家督を弟の氏顕の長子孫三郎を迎え、宗顕と名乗りました。宗顕の三男が田村男猿改片倉三右ェ門良種墓です。男猿(おさる)と名付けたのは愛姫で、可愛がりました。寛永4(1627)年元服後、姓を片倉と改め、三右衛門と称し、片倉家のご一家となった。狩猟の名人で青葉流マタギの開祖と云われたそうです。

更に詳しくは、頂きました資料の原本「仙台マタギ鹿狩りの話」1997年6月8日刊をご覧頂ければ。


「岩沼藩開藩350年記念シンポジウムが、岩沼市民会館で開催され、「伊達騒動と岩沼藩主田村宗良」と題して東北大学アジア研究センター 平川  新 教授、「岩沼藩の成立とその領域」と題して東北大学アジア研究センター 蝦名祐一 教育研究支援者 の講演。続いて  岩沼藩・一関藩田村家16代・田村家56代 田村護顕 氏を交えてのパネルデシカッションがありました。

田村家56代は、祖 征夷大将軍坂上田村麻呂から、16代は 1653年 愛姫の遺言により 忠宗公は三男 宗良をして 田村家を再興させました。ここから数えてです。56代は 他に例が無いとも語りました。

平川教授は、伊達騒動が史実に基づかない創作が蔓延と 一般の人々が事実誤認されていて困る と発言されました。田村氏も、浅野様 田村屋敷での切腹について 事実と相違する三点ありと 子細を語られました。

御3人の講演内容は、興味深い内容でした。機会を捉え お伝えいしたいと思います。


帰路 瑞鳳殿にて ガイドしました。
神奈川県の理系の女子大生さま。今日で3回目、此までガイド不在で失望していた。本日はラッキーと喜ばれました。

「政宗公は現在も従前と同様な方法で埋葬されています。 1636年には 座棺(棺桶)に衣冠束帯を着衣し ご遺体の周囲に牡蠣灰を主に詰めました」に、 即 「ショウセッカイですネ」 「ハイ そうです。これが血や油を吸い取り、カルシュウムを補充した結果となり ご遺体からご遺骨に 変身し 完全に保存されたのではと 思っています」 ニコリ 内心 頷けない の笑みでした。

故郷は、常陸國真壁郡・・・・で 姓は「中村」です。政宗公と何らかのご縁があるなと 思い再三訪れています。と別れ際に申しました。

本日は文化の日。識者A様 識者B様 ご教示ありがとうございました。お陰様で終日 文化的に過ごしました。



11 月 2 日 (火)  



続き

10月31日と11月1日の記述について 愛読者(特に名を秘す)様から ご教示頂きました。

31日 小原縫殿助は、小原縫之助 ではないか のご確認。あかとんぼ は 墓所案内版(昭和62年7月伊達小次郎君奉賛会 文)によりました。なお、「仙臺人名大辞書」には掲載ありませんでした。

1日 
1.証人奉行とは、初耳です。あかとんぼ も初聞です。室町幕府には この職名があり、裁判が公平に行われるように訴訟人の対決に立ち会った役とあります。徳川幕府では 見あたりません。

なお、牧野内匠頭信成の履歴〔天正6(1578)年生、正保1(1644)年下総関宿17,000石に転封、慶安3(1650)時73歳で卒〕を確認しました。しかし、幕府証人奉行 なる職歴は見あたりませんでした。

2.家中御親類家老の親族調書とあるが、伊達家の職制に家老職は無く 奉行と称したのではないか。お説のとおりです。
片倉家は 御一門ではありません、一家の格です。しかし、政宗公の側近NO2でした。又 一国一城制度にあって 特別に 仙臺城と共に認められた白石城の主です。これらから、御親類または奉行(家老)として 報告の対象に なったものと 理解しています。

1日の項は、孫引き ならぬ 曾孫引き 故 識者には ハテナの表現になりました。
文字の転換誤りもありました。ご教示に感謝致します。励みになります。



11 月 1 日 (月)  



9月30日日誌の続きです。

片倉家の城下 白石を散策した際の宿題

1.田村清顕の本物?のお墓は 三春にあるのか?

2.なぜ 真田幸村の墓と 一族と推定される墓があるのか? これについて 「仙台真田代々記、小西〇〇著」を読むように 学芸員からアドバスがありました。

此について、「仙台真田代々記、小西幸雄著」を読みました。
1.について、「白石市蔵本勝坂の田村家墓所に奥州三春城主田村大膳大夫清顕の供養墓が建てられている。これは、政宗公の正室陽徳夫人(愛姫)が政宗の死後、片倉重綱に命じて建立させたものといわれる。なお、清顕の本墓は、福島県三春町字御免町の副聚寺にある」 と仙台真田代々記119頁に記載されています。

なお、愛姫の母、清顕の正室の本墓は、仙台市北山輪王寺にあり 「密乗院殿玉室性金大姉」と祀られています。母(名不詳)は相馬氏の出で、嫁ぎ先三春・田村家断絶後、相馬に帰り、相馬領「津加美加也」に隠棲していた。慶長7(1602)年夏 政宗公が仙臺に引き取り、城内の北辺に居を構え「御北」としょうされていた。元和5(1619)年1月21日卒 年齢不詳。輪王寺に葬られました。

相馬領「津加美加也」の現在地名は不詳です。「ツカミカナ」と仮読み 相馬領(相馬市・原町市・小高町・新地村)の1963年現在の地名(類似読方)を検索しましたが発見できませんでした。

2.について、「田村清顕御墓」「真田左衛門佐幸村御墓」「真田幸村二女阿菖蒲墓」「牛脇改片倉金兵ェ定廣御墓」「田村孫七郎改坂上宗顕御墓」「田村男猿改片倉三右ェ門良種墓」「梅津勘十郎改弥左ェ門長門墓」と7基の氏名が記載されています。残り13基は依然として不明です。

 幸村墓碑前標石に「眞田左衛門佐源幸村墓 元和元年五月七日 二代片倉小十郎重長後室父 田村金兵工室父」と刻まれています。

{二代片倉小十郎重長後室父}の重長後室の表現 誤りでは有りませんが正しくないようです。それは

寛永12(1635)年9月1日幕府証人奉行牧野内匠頭信成から 家中御親類家老の親族調書の提出を命じられた際、重長について「母、女房は先年証人に罷り在りて、相果て候」と 正室針生氏の死後9年を経過した寛永12年においても 幸村の娘 阿梅を正室として報告していません。(本項仙台真田代々記111頁より)

又 お墓も 歴代正室の墓所(常英山傑山寺)には所在せず、白石城下 功徳山 泰陽院 当信寺の境内にあります。

余録
11月1月付 河北新報は「仙台真田氏売り出し中」の標題で 眞田左衛門佐源幸村の次男「大八」が 伊達家の家臣となり、蔵王町 矢附と曲竹地区に知行300石を与えられた。幸村 大阪城入城400年祭として 大々的に地域振興の手段として売り出す。

7日13時から仙台真田家14代当主と仙台真田代々記の著者小西幸雄氏との対談を実施するそうです。

小西幸雄氏の著述の中に「仙台真田家当主真田○○氏の自宅 仙台市太白区を訪れた」とあります。あかとんぼ の現役時代の上司の氏名と住所と一致しました。驚きました。上司は 13代当主で 斯様な話を一切 しまないで旅たたれました。





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