2011年1月の日誌
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1 月 30 日 (日)  



あかとんぼ は昨晩 あかとんぼ邑の夜警当番でした。「戸締まり」と「火の用心」を拡声器で訴えながら、馬(車)で邑内を 4〜5kmで一巡すると小一時間を要します。出発直前から降り始めた雪は 終わっても降り止みません。あかとんぼ屋敷門前の除排雪しながら 明日ガイドに行けるか心配でした。

朝 太陽は燦々と輝いていますが、バリバリと凍結しています。幹線道路に融雪剤の散布が終わる時刻を待って出発です。在所も城下も 未だ白舗装(圧雪)です。全車両は 規制速度以下 ノロノロ走行です。

事務所の元締役「アラ あかとんぼ さん ご無事で ヨク お出で頂きました」と歓迎のメッセイジ。元締めも 今朝の通勤は 怖かったのでしょう。


「歴女ツァー」 今週も バス満員の人数で入りました。K学芸員 メリハリのある 通る声で説明していました。確かに離れていても聞こえます。今日のツァーの一団も、直前派 と 数メートル離間派 と 2グループに分かれていました。何故でしょう。

政宗公の熱烈なファン です。「政宗公をお詣りして最高」とウットリした表情です。して、感仙殿・善応殿をお詣りしないでバスに戻る方々が大部分です。政宗公 一筋。

この仙臺・松島コースは今日が最終日。次回からは 亘理・白石コースですと 毎回盛会でニコニコの添乗員嬢のお話。
他人様のふところですが、毎回の満員と学芸員を起用したしたことで潤ったでしょう。ヨカッタネ

ガイド1番目のお客様 は、マレイシア(漢字表示 馬来西亜)からの20代の男女8人。
涅槃門前での 撮影ポイントからスタート。涅槃門で香木「白檀」、拝殿の扁額「珊瑚と真珠」はマレーシアにあるでしょうに、香木「白檀」は「知らない」の返事。印度が原産地です。気候・風土の相違から生えていないのか、年齢・興味の範囲外からの「知らない」の返事なのか。
「珊瑚と真珠」は 4女性から即「高価」の返事。

本殿前の定位置で記念写真。
国教がイスラム教であるからの風習なのか 単に寒い故なのか 女性はストールで頭部を包んでいました。

伊達政宗はこの地方NO1のサムライか の質問がありました。
マレイシアには、この様な華美な建造物は無い。これは中国文化では?の反問がありました。

マレイシア大学には、日本語コースが設置され30年以上なるそうで、簡単な語彙なら理解できる方がおりまして、その方を通しての会話・通訳で皆さんとの交流でした。

赤道直下の地区の方々には、雪は珍しく 枝からの落雪が吹雪き状になり、これは 素晴らしい 馳走と喜ぶと思いましたが、真冬日の寒気に 身を震わせ 鼻水を・・・でした。資料館で暖まるように 奨めました。約40分後 元気を回復し 感仙殿地区に向かいました。安堵。


8人ほどの高齢者に滔々と説明をされています。公民館の先生かなと 聞かせて貰いました。オヤと思ったのは
1.忠宗公の時 松平姓が許された。
2.涅槃門の扉 左右に食い違いがある。

1.については、慶長13(1608)年正月、政宗公が陸奥守に任じられ松平姓が許されています。以来 伊達家は松平姓を名乗れました。忠宗公が陸奥守に任じられたのは 慶長16(1611)年です。この説明は正確ではないと思います。
2.については、小説の中で そのように語られていました。一見してください。左右同形です。

この説明された方 間もなく 一人下段して行きました。服装からタタクシー運転手氏にも見えました。正体不明の方です。

寒気厳しく、時折 風雪で視界不良となります。参拝者が途切れた時点でお仕舞い。熱いお茶を馳走になり帰巣の途に。



1 月 27 日 (木)  



家康、光成の歩いた道

この標題と講師に釣られて、仙台市南端、地下鉄終点に所在する富沢市民センターでの講座に参加しました。

政宗公は何故 仙臺に築城したか。仙台は交通の要衝の地である。
太平洋沿いに北上する東海道・濱海道、内陸を北上する東山道・奥州街道、海沿いに南下する石巻街道、内陸を南下する東山道・奥州街道、奥羽山脈を横断する作並海道・二口海道。これらの南北・東西に通ずる道が仙臺でX字の如く合流している。
これがポイントである。それに 1600年当時の軍事情勢も選択の要件に当然なる。

富沢は、行政単位が仙台市になる以前は、名取郡です。今日の今一つの標題は「名取郡の奥州街道前夜」です。岩沼から仙臺までの間の海道の変遷を詳細に説明をされました。 東山道・奥大道のコース 大野田・根岸・石名坂と説明され、瑞鳳殿の東側の坂道 鹿落坂と称し 東街道の一部と云われている事についても説明されました。  

さて「家康、光成の歩いた道」とは。
1591(天正19)年1月九戸政実反乱を。2月4日政宗公 旧領を秀吉に没収されね葛西・大崎領を与えられる。8月中央軍北上川に到達、討伐開始・9月3日5,000人籠城の九戸城を殲滅。落城した月は 他の資料と2ケ月異なります。本行は岩手県の歴史年表17頁 1942年山川出判社刊行によりました。

この一揆討伐の中央軍の構成は、総大将三好中納言秀次。打手大将蒲生氏郷25,000人。横目石田三成。加勢 徳川家康家臣ね井伊直正。家康は二本松迄出陣。 本行は岩手県の歴史97頁 1942年山川出判社刊行による。

政宗公9月23日 岩手沢(岩出山)城に入城しました。岩出山築城の縄張りは、徳川家康が担当しています。岩出山の寺には、その時使用した什器がのこっているそうです。仙臺東照宮の所在地は、家康公が休息地である縁であると伝えられています。

以上から「家康、光成の歩いた道」となったものです。

本日の講師は、仙台市博物館市史編纂室長菅野正道氏でした。講師は、09年09月19日廣瀬市民センターで「戦国時代の道と城」と題して講演をされ 聴講しました。この講演を主体とした論文掲載の「市史せんだい 20号」が発刊されたとの事。早速に頒布して頂きました。

瑞鳳殿等の建造物は、建築年月日が記録され 明確です。奥州街道等の公共物は 建設・供用開始年月日の記録は明確ではないようです。若林城の拡張の時期との関連を示唆して頂きました。明日からの楽しみが一つ増えました。

今一つ、家康公の岩出山・仙臺での行程(日時。宿泊)を確認していません。なぜ 二本松までの出陣との記録もあるのか。この行程の確認も明日からの楽しみ事に加わります。

「みちのく歴史街道研究会」(現在解散)での仲間も参加していました。「奥州街道文化研究会」も会員高齢化で解散しました。街道族は 年老いて群れを為すこと出来ずに はぐれ狼の境遇になっても 街道 と聞けば 片道1時間の距離を厭わず参加されるようです。 

ガイド勉強会の若い仲間 多数参加していました。菅野さんも 歴史は徒歩で確認すると 良く理解できると まとめました。同感です。ガイドに踏み込み 併せて座学もするが最良と思います。

今日はよき日でした。主催した「郷土を愛するの歴史の会」と講師菅野正道さんに 感謝致します。 



1 月 25 日 (火)  



江戸・仙台 と 東京・仙台  (昨日の続き)

吉村公は、享保2(1716)年5月15日江戸上屋敷を発ち5月23日に8泊9日を要して仙臺城に入られた。所謂 参勤交代で下向されました。
その行程は、
@15日草加で昼食、越谷で宿泊。 A16日杉戸で休憩、栗橋で昼食、侭田で宿泊。 B石橋で昼食、宇都宮で宿泊。 C喜連川で昼食、太田原で宿泊。 D芦野で昼食、白坂で宿泊。 E矢吹でで昼食、郡山で宿泊。 F八丁目で昼食、福島で宿泊。 G越河で昼食、大河原で宿泊。 H岩沼で昼食、仙臺城入城 となっています。

さて、西南の役の国事犯の内305人が仙台に移送・収監されました。第1次移送51人は、明治10(1877)年11月10日東京・佃島を出発、@大澤(越谷市)に宿泊。 A11日栗橋で宿泊。 B12日小山で宿泊。 C13日宇都宮で宿泊。 D14日作山で宿泊。 E15日芦野で宿泊。 F16日矢吹で宿泊。 G17日本宮で宿泊。 H18日福島で宿泊。 I大河原で宿泊。 J宮城県監獄(現放送大学付近)に収監。10泊11日の行程です。

太字 同じ宿泊地。

明治10(1877)年であれば、道路事情は161年前の吉村公の下向1716年当時と大同小異であったと推定します。さすれば 2泊2日も短い時間で、1000人前後の集団が移動した 現役の武士集団 伊達家の規律ある移動能力 軍事力に あらためて驚きました。

以上まとめは、仙台藩歴史事典 昨日講師資料によりました。


11日日誌に、 雑誌「歴史人」を探し当たらず購入できなかったと記載しました。NMさんが 「それは気の毒」と現物を持参されました。
名称は「歴史人 保存版 戦国武将の城」KKベストセラーズ 680円でした。
本日 次の予定がつまり コピーする余裕が無く 未だ読み終わっていない・・・・を無理無理借用しました。28日まで返却します。

ある支援者の方から、「元博物館館長佐藤憲一さんが 仙臺の地名の由来を 雑誌「仙台闊歩」に書かれています。存じていますか」と 知らせがありました。

ガイド仲間のOさま から 昨秋に岩沼市で開催された「岩沼藩350年記念シンポ」の資料を頂きました・

多くの皆様の暖かい ご支援 誠にありがとうございます。今後も宜しくお願い致します。



1 月 24 日 (月)  



ガイド仲間の勉強会がありました。

本日のテーマは「鹿児島県人七士の墓」です。
瑞鳳殿参道際 瑞鳳寺墓地側に 上記標題の案内板があり 墓地に至る路があります。生涯学習等の団体の場合は ガイドしています。

この表示板を設置した ガイド仲間のSさんが 西南の役の敗者(国事犯)が、仙臺に移送され、厚遇を受け 鹿児島に帰った。この間の数々の出来事、歴史学者は決して語らない事柄を紹介しました。

次回のガイドの際 特に鹿児島に縁のある人々からは 驚嘆・賛辞を頂けガイドが出来ます。

西南の役 の際 東北から約7000人が東京警視庁所属警察官として参加しています。些か縁のある者としては この辺も語ってほしかったがかないませんでした。
興味のある方 資料館の「西討戦没之碑」をご覧頂ければ幸いです。



1 月 23 日 (日)  



大寒です。

世界各地から参拝に お見えになります。朝一番は 中国からの団体です。
日本国内からのも 多数の参拝者です。
本日は500人を越えるのではの予想がありました。

本日の最北端は、旭川市からの歴嬢様です。
昨日 団体で訪れ 学芸員の説明を聞きましたが、ゆっくり 心ゆくまで参拝したいと 更に一泊 早々に参拝に見えたのです。

ガイド仲間のUさま から 「再訪を約したお嬢さんがいます」と昨日連絡がありました。ガイド中に寄ってきたお嬢さんがおり、確認したところ 「そうだ」 の返事。拝殿に座して手持資料の昔日の写真等を広げ じっくり説明しました。

「年賀拝礼式」における仙臺藩志会の行列の写真を見て「なんですか」の質問。説明したところ 「政宗さまなら なんでも。 是非 入会したい」 「事務局長に連絡しましょう。審査は厳しいですヨ」 「是非」と 住所・氏名を記しましたので 事務局長に連絡しました。

千葉からの 青年夫妻  献灯の配置図をみながら 奥様に 「この片倉さまは 息子の重長で、大阪の陣にも参加しており、側近として有名なのは親の景綱で 片倉家は代々小十郎が中に入るので 最後までその名前を読まないといけない。片倉家は代々色白の美男子であった」と 説明されていました。「代々色白の美男子であった」は 初耳でした。

「真田家と片倉家 真田幸村の娘と片倉家 ご存じですか」と 問ましたところ 当然 の表情。後はお二人にお任せました。語りながら涅槃門を潜られました。

今朝のNHKTVで、京都・奈良の社寺のお賽銭では、亜細亜に限らず 諸外国の紙幣・硬貨がザクザク。硬貨は両替困難ので、大使館に持ち込み 現地の福祉事業に活用して欲しいの要望を付して寄付していると報じていました。

さて瑞鳳殿では、どのような状況でしょうか。密かに尋ねた所、紙幣は少なく 硬貨はそれなりにあります。でも ザクザクではありません との回答でした。

「自国の通貨でお賽銭を献ずると 御利益がありそうなので」と外国の方が答えていました。
政宗公にお詣りしての 御利益は どのようなものでしょうか。政宗公の御生涯から 「商売繁盛」「家内安全」「大漁豊作」の御利益に 結び付かないようですが。 まさか「武運長久」では ないでしょう。それは困ります。


能へのいざない 見て 知って 楽しむ 能講座 が仙臺藩志会主催で、昨日開催されました。
能の振る舞い 発声は 武士の嗜みでした。政宗公は 秀吉と同じ 金春流。それはなにか 下心があったのでは?。徳川家は観世流です等 能の歴史から 武士の関わり を説明。実演・解説・再度実演を「羽衣」等で繰り返し 詳しい講義がありました。
能は 想像の世界 所作から 何を 表現しているか 脳内で 演じられている世界を想像しながら見る芸術 が締めでした。

瑞鳳殿では 年何回か 能が奉納されます。篝火の中で演じられ 優雅な世界を演出しています。夜の催事であること と 所作を理解できずに退屈な世界の思いが 先に立って 鑑賞は1回しかありません。

事務所でお茶を馳走になった際、「昨日の能楽師は 瑞鳳殿に奉納される方々の一人でしょうか」に、「別です。瑞鳳殿奉納でも 多くの人々が 楽しまれる様に 解説を付けたいものです」 のお話がありました。解説付きなら あかとんぼ でも 楽しめるでしょう。今年の奉納が 楽しみです。





1 月 19 日 (水)  



石塔は焼失する?

涅槃門から拝殿の間の「献灯」(石塔)について、「これも焼失し復元されたものか」の質問が 若いお嬢さんから 暫しあります。
確かに 新旧 混在しています。

再建前の瑞鳳殿全景写真には 献灯は存在しますが 寶筐印塔は 存在していません。撤去されています。

石は火事で焼失するか? 石は耐火・耐久材の認識あり、はてな の気分になります。

本殿両脇の寶筐印塔は、全面的に新しくなっています。
本殿に至近で 火勢で割れる等の被害があったのか。献灯は、強い火勢に会わず破損しなかったのでしょう。全損しなかったにせよ 傷が入っている塔もあります。


なお、寶筐印塔の碑文の記録が無く、法名・俗名・没年齢を瑞厳寺・治家記録により、古字・俗字・略字の記載は正漢字を用いて再建されました。
焼失前は、相模石で 総高5尺8寸であった。焼失後は、岡崎産白花崗岩で 直臣15基は5尺3寸、陪臣5基4尺8寸となっています。

表紙と下記の写真は、左から
石母田大膳亮宗頼(ムネヨリ)・・・加美郡宮崎の領主。元和元年大阪の陣で抜群の功り。忠宗公時 國老。正保4(1647)年5月26日64歳卒。献灯時54歳。
亘理伯耆守宗根(ムネモト)・・・・父政宗公、母香の前(秀吉愛妾)、慶長11(1606)年亘理重宗の婿養子。寛文9(1669)年10月26日70歳卒。献灯時38歳。
茂庭周防守良綱・・・・政宗・忠宗両公に仕え 國政預かる。致仕して「左月」と称す。寛文3(1663)年8月2日85歳卒。献灯時59歳。

本日の資料
伊達家史叢談。瑞鳳殿再建の経過(瑞鳳殿再建期成会)。仙臺人名大辞書。仙台藩歴史用語辞典。





1 月 18 日 (火)  



政宗公所用「黒漆五枚胴具足」

戦国武将伊達政宗の甲冑 (二分の一 全高約80cm 全幅約38cm) があなたの手で 789円で甦る。
この呼びかけで 書店店頭に、A4判76mm巾の箱が堆く積み上げられたら 素通りできるだろうか。

極寒の日々 書斎の日なた 安全安心の環境で コツコツ組み立てれば 鎧 兜の詳細を習得出来る これは冬休みの最高の課題と購入しました。アマカッタ。全55週シリーズでした。1年は52週です。:13ケ月の作業は とても無理です。費用は 108,303.です。早々に断念しました。

模型組み立ては断念しましたが、付属資料は 読み応えのあります。具足の詳細を知る事が出来ます。


仙臺城を 立体化した図面が 雑誌「歴史人」12月号に掲載されているのを ガイド仲間のNM様が発見された。「一見の値があります」とE様から伝授され 書店を訪れましたが肝心の図書を発見できずに 上記となりました。


本日の収穫
戦国時代とは。
1467(応仁元)年の応仁・文明の乱から 1615(元和元)年大阪夏の陣までの148年間を指す



1 月 17 日 (月)  



明け方から雪です。年寄りの外出は控えた方が無難で、2回の除排雪作業の合間にDVDの鑑賞です。

1959年東映作品「独眼流政宗」です。01年に日本名作劇場のタイトルで放映された録画です。
52年前の作品ですから、出演されている方々は既に鬼籍に入られており、懐かしいの思いが ストリーを楽しむ前に 先になります。

政宗公の母 義姫は既に伊達家を去っており、父 輝宗との父子家庭。愛姫、家老?茂庭綱元、片倉小十郎、乳母喜多、豊臣秀吉、石田三成が登場します。成人した政宗公と愛姫が庭先で見合いする場面に、村娘の恋、刺客によつて片目失明、父輝宗を狙撃する、小田原参陣・凱旋までを1時間でまとめています。

伊達家の家紋が 九曜紋です。その他 上記のとおり ストリーには歴史事実の時間配列に 疑問の箇所 多数あります。
東映 時代劇と 一世を風靡した作品の一つです。知りすぎた知識を控え 雪の降る日 年寄りが雪かきの合間に楽しむには 満足でした。

このDVDをご覧なりたい方 一報ください。



1 月 16 日 (日)  



日本列島 冷蔵庫の中とNHKの天気予報が伝えています。
まさか 本当かなと 見ていました。NHKは正しいです?。伊豫宇和島の櫻開花観測隊長は 降雪で真っ白になった宇和島城下の写真を配信していました。
宇和島伊達家の領内であった ある場所は30−50cmの積雪がある とも伝えています。

さて、奥州仙臺は、冬 雪は降る と決まっていますから 冬タイヤに交換しています。市役所は幹線道路に 絶えず凍結防止剤を散布しています。今朝は新雪はなく、路面は黒でネバネバしています。ネバネバの原因は凍結防止剤・融雪剤です。
セッセと散布して呉れるのは有り難いのです。何故「が」がつくか。凍結防止・融雪剤は 塩です。絶えず洗車 流さなくては 車が 春には漬け物になる危険性が高い故です。

事務所に「おはようございます」と挨拶しましたら 「あかとんぼ さん 足もと注意してガイドしてぐださい。お客様も よろしく リードしてください。本殿前等は 金物の錆び防止から凍結防止剤・融雪剤は 散布しておりません」 「はい わかりました」

車なら 水洗いしますが 瑞鳳殿は漆塗りに 金物ものです。気軽に水掛洗浄は出来ません。
お客様が 滑り 転倒されては大変です。建造物が錆びても困ります。痛し痒しです。 凍結防止剤が駄目なら 砂を散布する方法もあります。
本日は、完全に除排雪しており 滑らないようになっていました。安心して ガイド出来ました。


朝一番の団体は、職人・匠の方々でした。涅槃門の彫刻・塗りを ジイーと見て 仲間で語らっていました。ガイドを申し出ましたが 歴史的視点ではなく 細工・塗りの技術面を重視したいらしく 断られました。

若くないペア。ガイドの口火をきる直前に質問を発します。例えば 「此処は政宗公の・・・」で 「オタマヤとはなんですか」 先手必勝 がモットーの様です。今説明しましょうとする事柄を直前に質問され 話しのコシを折られることは 流れが断ち切られ 誠に説明し難いです。 でも、お客様が関心あっての質問です。尊重しなければなりません。移動し 説明の前 「なにかご質問は」と確認の上 ガイドしました。

若いペア。政宗公の肖像画みて、「なんか変?」の様子。
「どちらからですか」「岩手県です」 「南部ですか 伊達ですか?」 「ハァー?」 

 「北上市の西から東に流れ 北上川に注ぐ 和賀川の北側ですか 南側ですか。南側が伊達領で 櫻の名所 北上・展勝公園に藩境塚がありますが・・・。岩手県の偉人と云われている 高野長英・斉藤実・後藤新平等水沢3偉人は伊達家家臣の流れです」
「南部です」 

1872年に岩手県が成立しています。既に139年を経過しています。道州制度が論議される時代で いまさら 伊達だ南部だ と語る時代では無いわけです。若い人が知らなくて当然です。アー我老いたり。


「最近 女性の大学先生 着物が多くなったようです ネ」 謹厳実直なEさんのご発言です。Eさんの予想もしない「女性・着物」のご発言に驚きました。
どなたが話題の主でしょうか。頭脳コンは回転・検索しました。「伊達政宗、最後の日々」を10年2月に講談社現代新書として刊行した 博士(文学)東北大学。現 東海大学文学部教授 小林千草 氏が検索されました。扉の著者紹介欄の着物姿あります。これが 話題の火元です。

政宗公の小姓 木村宇右衛門可親(ヨシチカ)が政宗公の言行を記録した「木村宇右衛門゜覚書」を、あかとんぼ でも容易に理解できる様に 平易にかつ 手軽に開ける様に新書判で刊行され 発行と同時に購入しました。
伊達治家記録を読む会を主導されている Eさんは 当然 愛読 愛用されている訳での発端です。

大人の女性 さらに 大学教授 の着物姿 社会的地位・知性から 仙臺藩志会での年賀拝礼式で裃着用しても着付けの決まらない あかとんぼ は 着付けの決まった着物姿は羨ましく 着物姿での授業は さぞかし優美だろうな と思い浸る一時に。無情にも 瞬時の夢たちどころに カツカツの音声で破られました。若いお嬢さん 絢爛な着物に洋風防寒衣を纏い 進路と逆方向に敷石の上を勢いよく ハイヒールで闊歩していきました。
この現実に 驚くようでは アー我老いたり です。 


本日の主な質問
1.米国はなぜ 瑞鳳殿を空爆したのか。
2.関ヶ原の戦いは、何年か西暦で答えよ。政宗公は、どのように参加したのか。当時の覇権状況を述べよ。
3.瑞巖寺と瑞鳳殿と政宗公の関係を詳細に説明せよ。
4.大崎八幡宮の創建年月日と創建に携わった匠の名前を列述せよ。
5.日光東照宮との相似・相違点を列述せよ。

本日と昨日 大学入試センター試験が行われています。上記質問の内容と問方は正に、瑞鳳殿ガイドセンター試験の様相です。
昨日 美人ガイドのYさんから 「冬 無理されないで 休まれたたら」と注意されました。有り難い勧告を受け入れて休めば 斯様な質問の風雪にあいませんでした。仲間と年寄りの注意は 間違い無いようです。 年寄りは 炬燵で 読書するに限ると 悟り 本日のガイドは終わりました。 



1 月 11 日 (火)  



栗鼠

9日の日誌で 瑞鳳殿の栗鼠は冬眠しないのか と記載しました。その後の調べで 栗鼠は冬眠をしないとわかりました。
秋口 地中等に 団栗等を貯蔵し 冬期間食用に供するとのことです。さて、瑞鳳殿の栗鼠は いずこの場所に貯蔵したかです。
9日の栗鼠は、枝上で雪を食べている様に見えました。食後のデザートを求めたのでしょうか。

さて、瑞鳳殿に生息している動物・鳥類は。
動物は、カモシカ・ムササビ・リス
鳥類は、シジュウカラ・コゲラ・キジバト・ヒヨドリ・アオゲラ・スズメ・ハシブトガラス
以上です。
「瑞鳳殿だより 経ケ峯の四季」 2010年8月1日 (財)瑞鳳殿刊行によりました。



1 月 10 日 (月)  



城址とは。

細井計岩手大学名誉教授は、「城址とはそもそも天守閣も石垣も存在しない更地を意味する」と本日付けの河北新報で論じています。
1597(慶長2)年に南部氏が築城した盛岡城(不来方城)の現状は、建物は存在しないが水堀と石垣が存在している。これについて安易に城跡史跡として指定した文化庁の考え方は如何なものかと まとめています。

仙台城は、青葉区川内・荒巻に所在した近世城郭で青葉城とも称され、遺跡の一部が国史跡に指定されています。
仙台市史「城館」に基づき、瑞鳳殿とともに観光ボラガイドを行っている身にあっては 誠に困ったご発言です。

元々 天守閣が造られなかった 仙台城は 城では無かったのか。又 石垣が残っていて 水堀の機能を果たした廣瀬川が相変わらず滔々と流れているが 城の時代建物が一切無い これで 仙台城址と云わずに 仙台城と 言えるかです。

1月15日は「成人の日」と 記憶していた あかとんぼ は5日も早い 祝日に戸惑いを感じ ガイドを休み 日向(ヒナタ)で新聞を広げて 上記の記事を目にし 国立大学の名誉教授の肩書・権威に メタメタ弱い あかとんぼ が 頭脳空白になった瞬間の一人言です。


付録
城 城の基本知識と戦いのための構造がわかる 138城ガイドつき  小和田哲男監修 日東書院刊 
戦国時代以降の城について解説しています。イラストがあり 熟読すれば 城についての一言居士になれそうです。  



1 月 9 日 (日)  



朝の積雪で、経ケ峯 全山枝々 真っ白です。お客様のお出でになる前 急ぎ為すべき事は 足跡のない境内の撮影です。

盛年男性4人 「京都・鎌倉の景より 素晴らしい」 と洩らしながら 懸命の撮影。撮影ポイントの取り方 素人離れしています 「プロでしょう」に 「イヤ でも 展覧会で賞 頂いています」  ここで あかとんぼ の傑作と好みのポイントを紹介しました。 キット どこかのコンテストに入賞する作品 撮れた筈です。
 
間もなく雲一つ無い青空となり 雫となり ボタボタと落ちて 通常の景になりました。【雪景色撮影は先手必勝】

今年 最初の3連休の中日。朝から切れ間無し 続々と参拝のお客様で、ガイド依頼も連続しました。

冒頭 「ここは なんです」が2組 と 「ここは お墓です」が1組から質問がありました。
ガイド依頼されたお客様 ほぼ全て拝礼されましたが 仏式と神式の割合 5対5でした。気持ちがあれば形は問わない が あかとんぼ の方針ですから 気づかない様子でいます。

お嬢さん達 「仙台は寒いですネ」 「どちらからですか」 「兵庫県からです」 「雪は降らないでしょう」 「降ります。元日は積もりましたヨ」 「仙台は降りませんでした。 今日のこの気温はプラスです 仙台は兵庫より 暖かいのかナ」 「ハァー」
多くのお嬢様は 毛のフサフサした長靴を履いています。このお嬢さん 夏にグランドを駈ける際の履き物 同様を履いています。神戸空港で 南は沖縄行きと 仙台行きと 乗り間違えたのかも知れない服装でした。それで冬の気温5度で暖かい日ですが 寒い になったのでしょう。

10-20分程度のガイドが連続しました。12時事務所に「本日是にて」と申告した途端。政宗公画像の表示板で ブツブツ討議している若いペア。ツイ 口を出し 資料を広げました。「丁寧にガイドして欲しい。時間に余裕あります」  それではと 定食コースで 涅槃門の透かし彫りから、資料館の展示目玉まで たっぷりとガイドしました。 お客様から 「聞いてよかった」のお言葉を頂きました。 あかとんぼ も ガイドをした満足感に浸りました。 お客様に感謝です。13時を過ぎていました。

本日の目玉
瑞鳳殿 本殿 南側の大木に居住している 栗鼠 が お客様に挨拶しました。
本殿南側の天女さんの説明の課程で 栗鼠の話しをしたら 「アッ あそこに居る」 胡桃の木の枝にいました。ガイド中に現れるは 誠に珍しいです。この栗鼠 成人式を迎えるので お祝いに出てきたのでしょうか。10人程の 若い男女のお客様 大歓声でした。

熊は冬眠します。仲間も 冬眠に入りました。さて 山の栗鼠は 冬眠すると履いていましたが 都会の栗鼠は 休まず働くのでしょうか。



1 月 3 日 (月)  



大和田建樹(タケキ)

汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり・・・・鉄道唱歌
10年12月4日東北新幹線 新青森迄 開通した日 6時40分仙台始発 一番列車が発車時 この唱歌がホームに流れ 仙台市長のテープカットで発車しました。鉄道の節目行事の際 流されますので 多くの人々に知られています。

大和田 を知っていますか。鉄道唱歌を知っていますか。
昨日 拝礼式終了後 仙臺藩志会のAさんから 立て続けに質問されました。話を整理します。

この鉄道唱歌を作詞したのは、大和田建樹です。宇和島伊達家の家臣で 1857年宇和島城下丸の内で生まれ、14歳で殿様に四書を進講した学才優れた人で、後、東京帝国大学講師等を歴任、1910年10月1日54歳で卒。
「鉄道唱歌の碑」東京新橋駅構内に、大和田建樹詩碑」が伊豫宇和島駅前にあります。

大和田建樹の先祖は、秀宗公に付添い宇和島入りした 57騎の一人 大和田茂左衛門であり、山家清兵衛と同様 家族を仙臺と宇和島に2分し、それぞれに仕えた。

仙臺大和田家は配偶者の親戚であり、仙臺と宇和島の両大和田家の再会、再縁付を考えていた。
あかとんぼ が企画に参加した 仙臺藩志会の宇和島訪問(10年10月11日から2泊3日)が諸般の事情で中止になった。
この宇和島訪問を機会に、両大和田家の御対面に繋げたいと考えていた。故に 誠に残念でした。

これで お話は 全て了解しました。

09年03月の1ケ月宇和島に滞在した際 駅前公園に、碑と坊ちゃん機関車が展示してあり アア ここが大好きな鉄道唱歌発祥の地 とは見てきました。その生家が宇和島市の指定史跡で、生家そのものが 秀宗公の菩提寺に移築されていた(現在解体保存中)事は 知らずに 訪れませんでした。

以上は、「新・宇和島の自然と文化」宇和島市教育委員会発行、「宇和島藩庁・伊達家史料 家中由緒書」近代史文庫宇和島研究会発行 によりしました。

宇和島にも 仙臺藩志会と同様の団体があり、やはり 年賀拝礼式に、秀宗公の遠年忌法要に 裃姿で 参拝しているかと 別の方から 聞かれました。勉強不足で そこまでの情報は持っていません。



1 月 2 日 (日)  



年賀拝礼式

瑞鳳殿 恒例の年賀拝礼式が晴天 寒冷と恵まれた天候のなかで恙なく催されました。

次第
10時50分 隊列 仙臺藩志会の幟、露払、瑞鳳寺住職、御当主、仙臺藩志会会員(順 裃着用者〔身長順〕、陣羽織着用者、平服着用者)で出発。
11時00分 読経 瑞鳳寺住職
11時30分 焼香 御当主、殉死者後裔会、仙臺藩志会、大年寺会、(財)瑞鳳殿
11時40分 挨拶 伊達家34世18代 伊達泰宗 様
           仙臺藩志会名誉会長 古内重義 様
           (財)瑞鳳殿常務理事 鹿野正利 様
11時50分 奉納剣舞 仙臺藩志会 永山三男 様
12時00分 記念写真 涅槃門前 

挨拶の中で 耳目に残った事項 それは鹿野常務理事からの
@ 感仙殿・善応殿 周囲の土塁の修復
A 妙雲廟界 の環境整備工事
以上を2月から実施します の発言です。
完成すると 広義の瑞鳳殿の参拝環境が一団と整備されます。瑞鳳殿常務理事の有言実行には敬服します。


余話
天候は例年に比較し 積雪・強風もなく 仙臺の気候としては温暖と言えます。しかし、経ケ森は一段と レイキ(霊気・冷気)を感じます。
裃着用者は 胆力がある様で 寒いの弱気は吐かずに 泰然自若としていました。その点 平服着用者は 寒気には強く無いようです。式中に外衣を着用した人 数人いました。あかとんぼ は 仙臺藩志会名誉会長の挨拶終了と同時にギブアップ着用しました。

仙臺藩志会としての 進行に若手会員の起用がありました。そして 役員でも 裃の非着用・欠席(式典・新年会)が散見されましたことは 会員の高齢化現象の一端でしょうか。

表参道を幟を先頭に 登ってくる隊列は 絵になる情景です。多数の職業・素人のカメラの放列になります。隊列の横の脇を併せ登っている一団がいました。カメラは自主規制し 一定線で踏みとどまり お互いを妨害しないように配慮しています。この伴歩の一団も風景の一部と割り切れない人々から 不平不満の声が挙がりました。理解できますが 規制出来るかは疑問です。

式典進行は近来最高でした。
涅槃門と拝殿の外と内で 職員各1名が 一般参拝者を誘導しました。涅槃門では、行列通過直前開扉 退出直後に閉扉 行列専用に誘導しました。本殿も 式典終了後 いったん 西海波門を閉鎖 本殿前を整理後 一般参拝者に開放しました。
今年の この整然とした誘導の結果、式典の厳粛を関係者・一般参拝者ともに共感したと思います。  

あかとんぼ 諸般の事情で 平服を着用  新年会 を欠席しました。 



1 月 1 日 (土)  



あけましておめでとうございます

瑞鳳殿ボランティアガイド 11年目にはいります。
お客様から 「何年になります」と問われる事があります。その意図するところは 何であるかは知りません。十分に満足されたのであれば かかる質問にならないのではと反省しています。

伊達家関係者、識者、再訪者等の場合 ガイド内容は基本的に変わりませんが、前回に伝えなかった事柄を加える様に配慮しています。
一般のお客様は、伊達家、政宗公、桃山文化に興味・関心の度合いの異なる老若男女です。関心・興味を揺り起こす様なガイドをしています。

ガイドを始めた動機の一つに健康管理があります。未だ喜寿前です。日曜・祝日。黄金・白銀週間はガイドし 気力・体力の限界に挑戦しながら 健康管理の節目とします。

11年目の今年も、お客様・自分の為に 「よかった」と評価出来るガイドに努めます。 


本ホームページ「あかとんぼ 瑞鳳殿ガイド日誌」は 10年目にはいります。
当初は、お客様との出会いの記録が主体でした。近年 識者・関係者・誤読者・仲間等からのご教示頂き学習した事柄を、知識の共有になればと僭越な考えで 記録しています。

資料館の頁は (財)瑞鳳殿、仙台市博物館等の権威のある機関の刊行物を根拠に作成したものです。最近に至り 内容に疑義有りのご指摘を頂きました。資料館を活用され ご指摘下さられました事に感謝します。これを踏まえ 今年は内容改訂の検討期間とします。

表紙に設置しましたカウントよれば 日に10回から40回の高波で ご覧頂いており有り難いことです。写真・動画があればのご指摘もあります。これを踏まえ ホームページからブログに転換すべきか、思案をしています。

10年目の今年、読者様・自分の為に 「よかった」と評価出来る頁作りに努めます。 

今年も 瑞鳳殿ガイド と ガイド日誌の閲覧 昨年同様 よろしく お願い致します。 





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