2011年3月の日誌
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3 月 30 日 (水)  



伊達家墓所の被災

経ケ峯に所在する伊達家の廟・墓所の被災状況は既報のとおりです。4月1日からの参拝可能を期待するのみです。

今 一つの墓所、大年寺山に所在する 「無尽灯廟」と「寶華林廟」を、被災直後に検分された ガイド仲間Uさんは「何れも 転倒 散乱の状態」と報告され、「無尽灯廟」の写真を提供してくれました。表紙に掲載しました。

正面 4代綱村公  向かって左 綱村公から右 5代吉村公 と 夫人冬姫  続く 12代齊邦公 と 夫人綾姫 向かって右 綱村公から左 10代齊宗公 と 夫人諧姫 の墓石は 健在です。巨石 故か その威徳 故か。灯籠等は散乱しています。

吉村公のご命日6月28日 以前の日曜日に催していた、吉村公と歴代の殿様の遠年忌法要迄に 修復が可能であるかの懸念が残るところです。

参拝者が極めて少ない 「二の森墓所」の様子は如何かです。
ガソリン事情が回復したら 政宗公祖母裁松院の墓所・根白石・寶積寺をはじめ巡礼をしたいと思っています。


瑞鳳殿の被災
3月27日に、理科年表に基づく地震被災を記しました。その中に、「1678年10月2日(延宝6.8.15) M7.5 白石城 石垣崩れる・・・・3代片倉景長」と記しました。
2日後の 「延宝6年8月17日の地震で、仙臺城内の祀堂が破損、東照宮、瑞鳳殿にも被害」の記述を発見しました。
創建41年後です。この修復工事の全貌は あかとんぼ の書庫が開扉した時 治家記録で確認し 記載します。

仙臺城の被災一覧
仙台市史 特別編 「城館」269頁 「仙台城関係災害年表」をご覧ください。
 



3 月 29 日 (火)  



世話人会

ボランティアガイド仲間「ぐるーぷ・よっこより」の世話人会が開かれました。

大年寺山の墓所の被害状況を確認したUさんから報告がありました。

10年度のガイド実績は、ご依頼が1379人 土日祝日の自由ガイドが 日当たり最小限 50人の年間5,000人以上の実績がありました。

さて、今回の被災で、新幹線・市内観光バスの運行と、ホテルの再開がされ、又 発電所関連の悪風評が除去されない限り 国内外からの観光の来仙は 望めないでしょう。参拝者が居なければガイドは出来ない。

瑞鳳殿のホームページでは 「当分休み」と表示しています。しかし、(財)瑞鳳殿常務理事は「4月1日再開」と地元紙に表明しています。
当分とは 3月末 なのか 無期限なのか 早い時期の 開扉・公開を期待しましょう。

4月からの大手旅行会社からのガイド依頼はキャンセルになります。会議室等が確保困難なので、4月開催の総会・勉強会は中止にしましょう。

世話人は ガイド意欲満々です。11年度の勉強会項目等の希望を各自から披露しました。


ボランティアガイド仲間「ぐるーぷ・よっこより」と「藩祖伊達政宗公御霊屋瑞鳳殿ホランティアの会」は、全員が重複・参加して居ません。別組織です。瑞鳳殿の再開を待って 打合会が 開かれるでしょう。



3 月 27 日 (日)  



地震の確率

今回の地震で 瑞鳳殿は多大の被害を受けました。
この10年間 度々 被害を受け、寶筐印塔に奉納灯籠は落下・転倒しないように、又 人的被害は発生しないように工事はしていました。しかし 自然界の力には 破れました。幸い、人的被害はありませんでした。

仙台では、1978年6年12日の宮城県沖地震(M7.4)以来 30年周期説が囁かれていました。33年目に襲来しました。

あかとんぼ の書庫(市・県の図書館)は 現在 地震の為 開扉出来ません。机上の資料 「理科年表 国立天文台編 1998年版」の地学・地震年代表で 仙台を中心とする地震を拾い上げました。

01.1855年9月13日(安政2.8.3) M7.25 仙臺 屋敷石垣・堂宇石塔・灯籠 崩れる・・・・慶邦公
   間隔30年
02.1835年7月20日(天保6.6.25) M7 仙臺城 石垣崩れる・・・・齊邦公
   間隔42年
03.1793年2月17日(寛政5.1.7) M8,4 仙臺封内 家屋1000戸 死者12人・・・・齊村公。
   間隔57年
04.1736年4月30日(元文1.3.20) M6 仙臺城 石畳 澱橋 破損・・・・吉村公
   間隔19年
05.1717年5月13日(享保2.4.3) M7.5 仙臺城 石垣崩れる・・・・吉村公
   間隔39年
06.1678年10月2日(延宝6.8.15) M7.5 白石城 石垣崩れる・・・・3代片倉景長
   間隔10年
07.1668年8月28日(寛文8.7.21) M5.9 仙臺城 石垣崩れる・・・・綱村公
   間隔22年
08.1646年6月9日(正保3.4.26) M6.7 仙臺城・白石城 被害・・・・忠宗公
   間隔30年
09.1616年9月9日(元和2.7.28) M7 仙臺城石壁・櫓 破損・・・・政宗公
10.869年7月13日(貞観11.5.26) M8.3 多賀城 城郭・門・櫓 等崩れ、倒壊無数。津波 城下死者1000余人。 

1855年から1978年迄 123年間 地震の記録がありません。4回はあって然るべきですが。
月の干満の如く 周期は定まっていない様です。備えあれば 憂い少なし です。 
Mはマグニチュード。 ・・・公は あかとんぼ付記

1798-1837(寛政10-天保8)年に、11代の齊義公は、鹿落坂から見上げる瑞鳳殿の斜面を大規模な土留石垣工事を実施し、鎮護の為「太山夫君」の石碑を建てました。その功により、妙雲廟界に墓碑があると伝えられています。

03.1793年2月17日(寛政5.1.7)の地震で 地滑る 崩落があつたのか。5年経過後に工事着工ですから 被災復旧工事とは言えないようです。


仙台市史近世1には、仙臺城の石垣積み直し等の再建が必要になった地震として 次の3度が知られていると記載しています。、
09.1616年9月9日(元和2.7.28) M7
08.1646年6月9日(正保3.4.26) M6.7
07.1668年8月28日(寛文8.7.21) M5.9

仙臺城を案内した際、石垣は3期とありますとガイドしています。
第1期は、09.1616年9月9日(元和2.7.28) 迄で 「野面積」
第2期は、07.1668年8月28日(寛文8.7.21) 迄で 「野面積」
第3期は、07.1668年8月28日(寛文8.7.21)以後 「切石積」  現在の高17mの稜線の美しい石垣です。

観光のお客様に、「政宗公は1600年に築城した」で 説明を終わると 現在の石垣を政宗公が築き 眺めたと 思いこみ 帰られることです。
 
 
津波を拾い上げました。
01.1978年6月12日(昭和53) M7.4
02.1960年5月23日(昭和35年チリ)
03.1933年3月3日(昭和8) M8.1
04.1896年4月2日(明治29)
05.1611年12月2日(慶長16.10.28) M8.1
06.869年7月13日(貞観11.5.26) M8.3

理科年表では、津波の襲来は数分から30分位、予報精度は不十分、侮らない警戒が必要と記載しています。

なお、宇和島は
01.1749年2月25日(寛延2.4.10) M6.75
02.1649年3月17日(慶安2.2.5) M7
の2件のみでした。

宇和島は リアス海岸ではあるが 宇和海の内海で 又 地震も少ない 故 津波被害も記録されていない。温暖な地と言えます。

仙臺60万石 宇和島13万石(吉田を加算) 何れ 住みよい所であったか。自然界のみでは比較出来ません。



3 月 24 日 (木)  



瑞鳳殿 
昨夕刊に、瑞鳳殿の被災写真 寶筐印塔転倒した写真 16cm × 24cm の大きさで掲載しています。
被災状況について、石灯籠が130基が転倒、石垣の崩落5ケ所 地盤沈下している。復旧作業は 重機が入れず手作業でしている。
「仙台復興の象徴として早期の復元を図り、4月1日に 拝観を再開した」と 常務理事が語っています。

ガイド10年間で寶筐印塔は 大地震の都度 3回は転倒しています。
12日日誌に記載しました
@「本殿右 職員駐車場側 法面上部に 廟に平行した亀裂多数。土滑りの前段状況」、
A 「拝殿後庭 右側に 太い地割れ線 多数。従前の地割線より 太くて 長くて 数が 多い」 です。


なぜ 瑞鳳殿の本殿付近だけ 地盤が脆いのか です。

瑞鳳殿を発掘調査した 伊東信夫先生は、その報告書で
「まず整地が行われ、経ケ峯の高い方を削って、その土を低い方に盛って建物を建つべき平面を造成した。政宗の遺骸を埋葬したのはその最上段で、ここで奥の方の地山を約2mほど削って、前面の低い方に盛土し、東西約20m、南北16mの平坦面を設け、そのほぼ中央に方10.5m、1.2〜1.7mの土壙を掘り、その中に仙台で秋保石と称する宮城郡秋保地方産の擬灰石の切石を組合せて石室を設けている」と記述しています。

@の箇所は、下線表示の盛土の部分でしょうか。
Aの箇所は、拝殿と本殿の間の香炉の前庭で、北側に限定されます。南側には亀裂が走らないことから 盛土の部分と限定は困難です。

1951(昭和26)年、伊達家は仙台通産局鉱山部長宛に亜炭・埋木採掘禁止の陳情書を提出しています。専門家 奥津春生氏は「この時から経ケ峯鉱害調査に従事してきた。当時既に瑞鳳殿の地表や石組だけでなく、その周辺にも変状が認められた」と 報告書「亜炭鉱害調査・発掘調査結果から考える」で述べています。

瑞鳳殿周辺の鉱害発生状況を示す図には、亀裂箇所として表示された箇所は 地割れ箇所と一致しています。

危弱な地盤整備に、1969(昭和44)年臨時石炭鉱害復旧法の適用を受け、国、県の助成により亜炭鉱害復旧事業3ケ年計画、予算1億1百万円で、1969(昭和44)年1月25日伊達家17代伊達貞宗氏 参列のもと起工式が行われた。

工事は計画の通り施工されたでしょう。この鉱害が 人が若い時の怪我した古傷が 老いた時 病み 痛む様に 地震の都度 現れるのでしょうか。

夕刊では、
仙臺東照宮の被害として
1.参道入り口 の石鳥居の土台が欠けた。
  石鳥居は、国重要文化財です。材質は 花崗岩 備前国大島の産です。
2.参道石灯籠 34基の内19基が転倒した。
  国重要文化財が34基で、現在37基があります。重要文化財でない3基は転倒しなかったのか不明です。
3.唐門の柱が基礎から浮き上がった。
  唐門は、国重要文化財。承応3(1654)年に本殿・隋身門・石鳥居等と同時に建築されたものです。
4.透塀の一部が脱落した。
  国重要文化財。承応3(1654)年に本殿と同時に建築されたものです。

陸奥国分寺の被害として
 厨子などに被害。

市教育委員会文化財課長は「以上のほか、県指定・市指定の文化財の多くが被害に遭っている。ガソリンが無く調査もままならない」と語っています。

有史以来の最大の地震です。調査が進むにつれ 被害数は 莫大な数と判明するでしょう。修復できるか。経費と技術の面で 心配です。



3 月 23 日 (水)  



伊豫宇和島からの支援

本日 宇和島市に隣接する 旧宇和島領 鬼北町から給水車等の支援隊が 仙臺城下 在郷のあかとんぼ邑に来ました。
遠路 寒い中 有り難いことです。粗茶の一服でも と思いましたが 貰い水の最中 断念しました。
宇和島市観光観光課S補佐からの観光パンフで暫し歓談し、名刺を交換しました。

瑞鳳殿を案内したい所ですが、あかとんぼ はガソリンが無く動けず 又 閉鎖中でもあり 改めて お出でください。その節は ガイドしますと約しました。

鬼北町の災害支援は、町のホームページに寄れば

☆物的支援 県を通して食料・毛布等を提供しています。
★ 人的支援 3名の職員を応急給水活動のため派遣しています(宮城県)。
○ 3月22日、交代要員3名が鬼北町を出発しました。
● 義援金 日本赤十字社鬼北分区及び共同募金会鬼北支会を通じて、町民の皆様にご協力をお願いしています。詳しくはこちらをご覧ください。
▽ 今後の支援 保健師・看護師等の派遣を予定しています

宇和島市の災害支援は、市のホームページに寄れば

1 人的支援について
 平成23年3月13日(日)に市災害支援隊4名(市職員1名含む)を宮城県仙台市及び大崎市へ派遣しています。10日間程度、被災者の救援にあたり、宇和島市へ必要な救援物資などの情報が提供される予定です。
3 物資の輸送について
(1)現在の輸送状況
 3月14日・15日に姉妹都市である仙台市及び大崎市に飲料水、食糧、毛布、電池、紙おむつ等を輸送しました。

政宗公にかかる ご縁で 温かい 援助 誠に有り難いことです。ありがとうございます。


手帳は 日々 白紙に 

仙臺藩志会
次の様な連絡がありました。
1.26日開催の 伊達学「伊達政宗と狂歌」は 会場 戦災復興記念館震災による休館のため、11月に延期。
2.30日開催の 戊辰の役殉難者弔魂碑の改修工事 落成式は中止。
3.4月10日開催の 総会・記念講演会・懇親会は 開場使用許可が当局より出ないため中止。

大手旅行会社
4月下旬に ガイド依頼がありました。ボラガイド案内と明記し、ツァーを募集していたのですが 交通機関・宿泊施設が 完全回復するかです。
予約のキャンセルは 覚悟しなくては。

瑞鳳殿
参拝の安全が宣言されたでしょうか。給油困難で 復旧作業手伝いしますと申していながら 行けないでいます。
道路・燃料供給・交通機関・宿泊施設の完全回復は いつでしょう。
参拝者がお出でになるのは いつでしょう。

4月末までの 日程は全て白紙になりました。



3 月 21 日 (月)  



火葬か 土葬か

ガイドの際 良くある質問が 「火葬か 土葬か」です。
あかとんぼ は 「生葬です」と答えています。皆様一様に 怪訝な表情になります。

まず、火葬はされていません。又 質問者がイメージする 「桶に入れて村はずれの共同墓地に深い穴を掘って埋める」とは異なるからです。

政宗公は、亡くなった江戸で、遺体に束帯と麻の帷子を着せ、小判型の座棺に入れ、蠣灰(石灰)・水銀・塩・木炭を堅く詰めまられました。座棺は葬送用の白木の駕籠に乗せられ、その侭埋葬されました。尚、駕籠の担棒には白絹を厚く巻いてあった。駕籠全体も布で包んだらしい。

忠宗公も、政宗公に準じた方法、束帯姿で、汞(水銀)・蠣灰(石灰)を詰め埋葬されました。

綱宗公は、常滑焼の甕棺に、蹲踞(ソンキヲ・ウズクマル、シャガム)の姿で入れられ蠣灰が詰められた。

以上を説明し、火葬では無いが、と申して 我々が知る土葬とも異なります と補足をすると 皆様は納得して下さいます。


さて、今回の東北・関東大震災では、宮城県で5053人 岩手県で2650人 全国で死者8450人 行方不明者12931人 と報じられました。合計すると21381人の犠牲者となります。

このご遺体の葬送です。火葬場の処理能力をオバーしました。
「宮城県では27ケ所の施設のうち5ケ所が地震等で損壊し、燃料不足から1日当たり処理可能は80遺体程度、町村では2年を要する所もある。
宮城県内では、仙台、東松島、気仙沼、石巻、名取の5市 南三陸、女川、山元、亘理の4町 岩手県の大槌町が 土葬を容認。仙台市では 市営霊園に身元不明の遺体1600人埋葬可能な墓地の造成に着した」と今朝の河北新報は伝えています。

1882(明治15)年、仙台はコレラが流行しました。虎烈刺(コロリ)と恐れられました。当時の仙台市の人口は54,000人で、2月間で930人が罹病し、410人が亡くなりました。人口の0.7%です。北山市民センター・河原町桃源院裏・木下薬師堂裏で火葬しました。

今回、「1600遺体埋葬可能な墓地の造成に着した」事は、明治のコレラ、昭和の戦災を凌ぐ 有史以来の 大災害となります。
貞観11(869)年5月26日M8.3の地震以上の地震。有史以来最大の地震と津波であった訳です。

水道・瓦斯が供給停止、ガソリン・灯油が買えないは 枝葉末節 備備たる問題です。生きただけで 幸せと思わなくては。

犠牲になられた方々のご冥福をお祈り申し上げます。



3 月 20 日 (日)  



本日の瑞鳳殿ガイドは 休みました。

理由
1.ガソリンの購入が難儀で、走行は「貰い水」優先で、ガス欠防止のため。
2.体臭で不快な思いをしないで貰うため。
  水・ガスの供給が停止しているため、震災以来 入浴が出来ない。
3.新幹線・観光バスが運行停止しているので、参拝者は皆無に等しいと予測しているため。

車に満タン給油が出来て、作並温泉の日帰り入浴が可能になり 清潔になった時点でガイドを再開します。


11時28分 伊豫宇和島櫻観測隊長から、4輪を確認した。後3.4輪 開花寸前です。規定の5輪をクリアします。
14時に宇和島市長が宣言します。
以上の電話がありました。

開花は NHK愛媛放送局で17時10分報じました。

今朝は7時から 観察が始った とあり 10時の定時観察での一報を期待し 電話を手許に 待機していました。
11時にも 震度4の強い揺れがありました。地変は続いても 天候と植物は 年々歳々と 変わりなく巡っています。
奥州仙臺にも 間もなく 梅・櫻と 花咲く きせつが確実に訪れます。

政宗公と忠宗公は、「我らは この地震で微動だもしなかったぞ。秀宗公 お主 我が日本の國花 櫻の開花で日本一の座を取ったのう 伊達家家門の誉れ あっぱれ」 と 申すでしょうか。



3 月 19 日 (土)  



仙台市博物館の被害 如何と心配していましたら、関係者の方から、
「何点か転倒した展示品があったが大部分の資料は無事。建物も大きな破損はないが、安全確認などの必要があり、当分の間は休館」
との お知らせを頂きました。何点か転倒があって当然の地震でした。入館者も職員も怪我が無かった事は幸いです。

 基本的に仙臺城三の丸跡は 地盤は堅固でしょう。被害軽微は 政宗公のご加護と 云いたいところです。
が、河北新報夕刊は、「仙台城跡 石垣など一部崩落 市道通行止め」の20mmの大文字の見出しにつづいて、

「崩落した石垣は、本丸西側の護国神社が管理している高さ5m、巾10mと7m程で、市道の半分を埋めている。
隅櫓 南軒先部分が崩れ 土塀の一部も剥がれ落ち、灯籠なども崩れた 」と報じています。
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/03/20110319t13055.htm

さて、仙台城址は 過去何回が 石垣の崩落は経験しておりますが、今回の場所は前歴のある所でしょうか。復元は、教育委員会が参画・指導するでしょう。その際の発表を待ちます。


今夏のデスネーションの際、仙台市観光課は、「晩翠草堂前から 徒歩で瑞鳳殿に移動し 移動と見学で二時間のコース」を設定し、ガイドを我々の仲間に依嘱するを検討しているの情報がありました。

このコースは、2002年仙台市教育委員会の「片平界隈まっぷ」と2006年の片平市民センターの「片平界隈マップ」の作製に参加しています。
この界隈は、伊達家に関連する史跡が数在ります。
瑞鳳殿は 「下馬」石標跡からループル乗車場所まで 駆け足参拝で1時間は必要です。となると バスで1停留所間 約2kmは、普通の歩行は30分ですが 見学しながら1時間に満たない時間でガイドをするのは 箇所を絞り込まないと無理でしょう。
絞り込みは後程として「片平界隈ガイドブック」の作製に着手しました。

大震災で この企画自体 実施されるか 依嘱されるか 白霧の中になりましたが 会合等全てキャンセル 日々在宅の身になりました。勉強の機会と 早速着手しました。午前まで「NO3馬上蠣崎神社」迄 記しました。

馬上蠣崎神社とは。
政宗公の愛馬「五島(ゴトウ)」〔遠田郡不動堂村旧領主五島家の百姓が献じた名馬〕が大阪の陣(冬・夏の陣の別不詳)出陣に加えられなかったを嘆き、本丸東崖から投身自殺をした。政宗公は落下した場所に神社を祀った。その場所が帝国陸軍用地となり、明治18(1885)年に現在地の移る。川内追廻の地にも祠がある(現場未確認)
神殿の階段から胡桃を転げ落とし、それを拾って霊薬とすれば子供の病気ジフテリア予防の効能があるとされた。



3 月 18 日 (金)  



震災8日目
今季最大の積雪。依然として断水。
会合の全てがキャンセル・流会になり、時間的に余裕が出来たが ガソリン入手困難から 瑞鳳殿に片付けの手伝い、伊達家関連の施設被害確認にも行けない。
在宅し バケツの雪が溶けるのを待っているトイレの排水に使用するものです間、パソコンを開く。

瑞鳳殿等 三殿の政宗公・忠宗公・綱宗公の御木像は如何か。資料館の展示物は如何です。12日はそこまで確認出来ませんでしたが。心配です。

仙台市博物館 19日の講座を延期と連絡ありました、施設内部の様子には触れていませんでした。展示物・収蔵庫の様子 如何 心配です。

仙臺城三の丸跡 博物館中庭の政宗公胸像 台座から 転倒せずに 前にすんなり降りられた。本丸 騎馬像は 泰然自若微動もしてない。
さすが政宗公である。との情報がブログにありました。

松島の津波の高さ1m程度と報じられました。とすると 松島町立博物館は水被災は無かった事になります。まず安堵です。

山形S様 福岡HA様 お見舞いに感謝します。



3 月 17 日 (木)  



1000年に1回

貞観11(869)年5月26日M8.3の地震があったと「日本三代実録」(仙台市史)、日本理科年表(1998年版)に記載されています。
市史等によれば、多賀城の城郭、倉庫、塀、壁が大きく崩れ落ち大被害を受けた。又 大津波が発生し約1000人の溺死者を出した とあります。
1142年前の 約1000人の死者です。この人数に民・百姓も含まれているでしょうか。ともすると戸籍がないとして 計算されていないのではの疑念があります。そうすると 犠牲者の数は2倍3倍になるかも。当時の国府 多賀城は 大都会であった事を示しています。

以前の講義で、「この貞観津波が若林区役所付近迄 到達した事が 地質調査で明らかになっている」 と聞いた記憶があります。 
今回の津波は、若林区役所付近迄 到達したと報じられました。


未だ 今回の浸水区域の詳細図は発表されていませんから 比較確認出来ません。が 貞観11年当時と 途中に建物等の建造物が在ります。それでも ほぼ同位置と点に達した事は、その規模は、貞観津波より大きいものであった となります。
 
陸奥国分寺 若林城を結ぶ 線上に 若林区役所が所在します。
若林城の築城は、約760年前の大津波の到達最先端、此処までなら 大丈夫と 政宗公は判断し 築城したのでしょうか。

今回のM9.0の巨大地震は、古代貞観地震を越えるものであった訳です。
1000年に1回の地震です。
悠久2660余年の日本史に在って 僅か2%の期間の生である あかとんぼ が 体験するとは 最高の機会 であったと思います。今後を更に大切にしなくては。



3 月 16 日 (水)  



雪です。
津波に罹災した方々には無情の雪です。
あかとんぼ邑は 依然として断水しています。被災6日目トイレ排水の備蓄が僅少となりました。屋上の雪を浴槽に備蓄しました。
あかとんぼ には 有り難い雪です。

本日は ガイド仲間の勉強会です。結論として 流会となりました。
E代表によれば講師をはじめ会員との連絡が取れないとのことでした。

バスは200余路線の内 25路線のみ 30分から1時間間隔の不定期運行との情報です。

あかとんぼ が通常利用する路線は道路陥没による通行止めの為運休です。最悪の場合7kmを2時間で歩く覚悟で、不定期運行路線のバス停に、30分から1時間待たずに5分で来ました。座れました。道路は混んでいません。楽に早く着きました。

会場の市民会館の正面ガラス戸 一面に 「当分の間休館」の掲示と 市役所発表の生活関連情報が張り出されていました。
会館に入館出来ません。開講出来ない状態です。直ちにE代表に電話しました。バスを待っている所でした。

あかとんぼ バスを乗り換えての帰巣の途に着きました。三越を初め東一番丁商店街はシャッターがおりていて、カタカナの薬屋の前に長い行列がありました。車窓から見るに スパー や 八百屋 肉卸屋の前に行列がありました。


本日 勉強会で 仲間の無事確認出来るかと出かけましたが 出来ませんでした。

昨晩 NMさんから電話頂きました。
群馬の伊藤さん 静岡の山本さん から 「HPが更新されました ご無事でしたネ 多忙でしょうから返信不要」 と お気遣い下さいましたメールを頂きました。誠に有り難いことです。


伊達家関連 諸々の様子を確認に回りたい心境です。ガソリンが不足し スタンドは長蛇の車列で囲まれ 給油の可能の目途がありません。降雪です。暫く 座して天命を待つの 心境に変わりました。



3 月 15 日 (火)  



震災5日目
冷たい雨 夕方から雪との予報。

昨14日22時過ぎ 通電。インターネット使用可能か確認。OK。
メール300本入電していました。
10年2月にガイドしました お嬢様(年齢・居住地不詳)、徳島県のお嬢様 をはじめ宇和島と ガイドを支援して下さっている方々から 安否を心配するメールを沢山頂きました。誠に有り難いことです。

固定電話は 依然として不通です。携帯電話は安定しません。

Eさんとは 昨日 対面し安否を 互いに確かめ 情報交換をしました。

Uさんとは、震災直後から 音信不通になっておりました。津波が遡上した名取川近くに お住まいがあり 流されたか心配しておりました。
只今 13時30分 携帯電話が通じまして 元気な事を確認しました。電気・電話が不通で、携帯電話は電池切れの状態であったとの事。

Uさんからの昨日までの被災状況確認報知。
1.鹿落坂の道路閉鎖は、途中の旅館の倒壊が 道路に散乱しているため。
2.瑞鳳殿地区の石塔の倒壊の割に、瑞鳳寺墓地の墓石の倒壊が極めて少ないのが謎です。
  亜炭隠れ採掘の跡があるのでは
3.仙臺城大手門の多聞塀に破損が見られた。
  この塀は 仙臺城の唯一つ現存する貴重なものです。
4.八木山大橋(釣橋)が通行止めになっている。
5.本丸 昭忠碑の金鳶が落下した。羽根内部が空洞で、鉄の骨があった。
  1907年に建立されたものです。既に100年を経過しています。修復可能でしょうか。技術と資金の面で どうなるでしょう。


瑞厳寺
津波は山門迄到達した。国宝の本堂と庫裡に大きい被害が無かった。
五大堂は大きい被害が無かった。
以上は 河北新報15日記事です。
これ以外の 重要建造物、店舗の被害は報じていません。
松島町立博物館 所蔵の伊達家由来の宝物に被害が無かったか心配です。



3 月 12 日 (土)  



東北・関東大震災

瑞鳳殿等の三殿は、一見 異常はありません。が、拝観は中止しています。
地震発生約20時間後の12日10時瑞鳳殿に駆けつけました。歩行順に記録します。

停電による信号無作動による渋滞を懸念。
壽徳寺前、土橋通り、澱橋、博物館前、大橋、琵琶首、評定河原橋と 「鹿落坂」通行止 引き返し 参拝客第一駐車場に駐車。

東表参道閉鎖 「向山 矢印表示」2枚掲示あり。
事務所 停電で暗黒 田の字型 机は勝手気ままな方向に移動 什器・書類散乱。

01.涅槃門 そのものは異常見られないも、献灯スタンド2本倒壊

02.涅槃門から拝殿に至る 奉納供養塔 全9塔 脚から倒壊 下草に埋没 亘理伯耆守献灯の傘部分 階段に転倒。

03.拝殿は 異常は見られず。

04.拝殿後庭 右側に 太い地割れ線 多数。従前の地割線より 太くて 長くて 数が 多い。

05.本殿石段 左側に 崩れの異常が見られる。

06.瑞鳳殿 本殿の外観に異常は見られない。

07.寶筐印塔 右側 土台部から四方に転倒・散乱。左側 「茂庭兼綱」の塔のみ孤立、他は全て 転倒。

08.本殿前 火災消火器箱から 2本 飛び出し散乱。

09.本殿真後ろ地盤に亀裂。

10.本殿右後設置 消火栓・ホース 飛び出し散乱。

11.本殿右 職員駐車場側 法面上部に 廟に平行した亀裂多数。土滑の前段状況。

12.右側 外回廊の石段上部 落下。

13.龍頭の台座の中間部 積み木落とし の如く 右に移動。

14.萬海上人供養碑 外観に異常は見られない。

15.戊辰の役 灯籠(増田繁幸ほか寄進) 土台部から転倒。蝋燭形 供養塔は異常見られず。

16.感仙殿・善応殿・妙雲廟界 完全施錠 立入不可。視界の範囲内の廟と墓石は 異常が見られない。供養塔はほぼ全倒。寶筐印塔は確認出来ず。

17.御子様御廟は 尼の2基以外 前灯籠・墓石のほぼ全てが転倒・散乱。

18.瑞鳳寺 一見 異常見られず。

参拝者駐車場に気仙沼から1昼夜要して脱出した車 「ガス欠になった ガソリン購入まで駐車させて欲しい」との事 住所・氏名・電話番号をメモして貰い 事務所次長・主任にに届ける。

常務理事・学芸員 確認作業中。

「猫の手 でも 必要の場合 駆けつけます 電話ください」と 退散。後で電話不通に気づく。



3 月 8 日 (火)  



寛文事件(伊達騒動)・柴田外記

寛文11(1671)年3月26日 酒井雅楽頭忠清の屋敷における刃傷で結末を迎えた。
この時、古内義如と重傷を負った柴田外記は、宇和島伊達家の江戸屋敷に収容・保護された。

宇和島伊達家2代宗利は、この日 参府したばかりであったが、使者を立て「陸奥守家来於御屋敷不義仕ルノ段言語ヲ絶ス、陸奥守聞○来共々マテ拙者家来同意ナリ、外記 六左衛門尓今御屋敷ニ置カレ、御念入ヲル儀誠忝シ」と謝しした。

さて、柴田外記は、奉行(所謂 家老)であるからに、伊達家譜代の家臣と疑わなかった。

今般 宇和島郷土史家のK様から「柴田外記は土佐人なり」と記述された図書「南國遺事 寄石正路著 1916念刊行」の関係部分「仙臺騒動餘聞」のコピーを送付頂いた。本図書は宮城県内市町村図書館には所蔵されていません。国立国会図書館には所蔵されています。

その要旨は、「柴田外記は仙臺藩家老柴田宗朝(ムネトル)の養子。本姓は佐竹氏。父は高國郡上加城主 佐竹蔵人親義 母は長曽我部宮内少輔元親の二女 慶長14年大阪に生まれ、元和元年大阪落城の際捕らえられ仙臺に連行された。
仙臺國家老柴田総四郎宗朝 寛永5年病没し 嗣子無く 政宗公 家を継がせる。是より政宗・忠宗・綱宗三代に忠勤。
刃傷事件で、大老老中等現場視察の際重傷で片息ながら、陸奥守幼少なれば万事頼み奉ると申し、域途絶えた。
今はの際に至る迄祖國の恩を忘れず士道の心掛け神妙なり」と、土佐人の誇りと褒めております。

長曽我部元親は、四国の覇者となった人。南國遺事は全63項目があり、その中に 1項目を建て記述していることは 土佐では 長曽我部の血を誇りにしていた現れと読みました。

柴田外記の履歴は、仙臺大人名辞書、Wikipedia とも 基本的に同じ内容で詳しく記載されていました。
仙台市史の先生からは 柴田町史も 紐解く様に奨められました。


政宗公の時代は 能力主義で採用していた事。 本件で、又 昨日記載した 殉死者の殉死に至る経緯を知るに、門閥に捕らわれることなく 採用し 活用し 報いられている。企業の創業時の 溢れる活力の様子と共通していると理解しました。



3 月 7 日 (月)  



寶筐印塔

昨日 仲間のHNさんは 寶筐印塔 殉死者の身分(階級・給与)を問われ、資料の手持ちが無くマイッタと 語られました。
あかとんぼ の手持資料には、殉死者の氏名、享年、殉死日、場所は一覧と、殉死を止められた者の氏名・事情。
生前に 殉死を禁止したのは、徳川家康、佐竹義宣、紀州徳川頼宣、保科正之、水戸徳川頼房で。
殉死が禁止されたのは、寛文3(1663)年 4代将軍家綱の代。
以上まで 記載していましたが 各人の身分等は記載していませんでした。仙臺人名大辞書で確認しました。

01.石田譽純  小姓与頭  本人不詳 子孫に1300石
02.佐藤吉信  役職不詳  2000石
03.南 政吉   小姓     田6石
04.菅野重成  薬込役    300石
05.入生田元康 虎間番士  200石余
06.矢目常重  新田奉行  180石余
07.小野時村  役職不詳  本人不詳 弟に100石
08.大槻定安  鉄砲組士  200石
09.茂庭兼綱  近習     1000石
10.青木友重  小姓頭    1000石余
11.加藤安次  小姓      300石
12.岡崎喜齊  役職不詳  録高不詳
13.桑折綱長  役職不詳  次男に103石
14.小平元成  役職不詳  33石
15.渡邊重成  小人組頭  100石


忠宗公
01.古内重廣  國老     16,000石
02.遠藤高次  名懸頭     500石
03.平田茂直  物置番    録高不詳
04.矢野重成  鷹匠組士    100石
05.花見兼吉  同朋組    録高不詳
06.小野寺清・ 小人組    録高不詳
07.田中良長  僧(小姓頭) (1,400石)
08.油井直元  小人頭    300石余
09.鈴木重即  小姓     録高不詳
10.後藤當基  鷹師     録高不詳
11.笹原吉定  役職不詳  録高不詳
12.工藤清定  槍卒     録高不詳

古内重廣の國老を除いて 身辺にて仕えた 又は 身分上での恩義を感じた方々です。
ここが 殉死に対する一般的感覚と異なる点と理解しました。

なお、慶安4(1651)年4月20日、3代将軍徳川家光が死去した際、家臣5名と陪臣等が殉死した。

 堀田正盛(元老中。下総国佐倉藩主)。
 阿部重次(老中。武蔵国岩槻藩主)。
   家臣の新井頼母・山岡主馬・小高隼之助・鈴木佐五右衛門・村片某。
 内田正信(小姓組番頭・御側出頭。下野国鹿沼藩主)。
   家臣の戸祭源兵衛・荻山主税助。
 三枝守恵(元書院番頭)。
   家臣の秋葉又右衛門

この元老中堀田正盛、老中阿部重次の殉死が、大物側近が殉死するの感覚に繋がったと理解しています。



3 月 6 日 (日)  



啓蟄
参拝の方々も ボチボチ 春の兆しです。

奥州・水沢から 前期高齢者の集団。涅槃門の説明に入ったら 即座 麒麟・爛漫と麦酒・日本酒の銘柄名を連発します。呂律が回り過ぎる方がおります。昨晩は秋保温泉でしたかに 今晩 遠刈田温泉ですとニコニコ。旅行の前祝いの祝宴の効果が、今 出て来たのでしょうか。

水沢・伊達家の地からです。年齢的に勉強されて 3月卒業旅行かなと推測、「時間は?」 「時間はいくらでもあるよ」 「そうですか、生涯学習の
方々は 2時間費やし 徹底的に見学しますが。如何致しますか」 「イヤ そこまでは」 「ハイ 分かりました。では 20分で」

水沢は、水沢伊達家(留守氏)16000石の城下でした。現在でも旧武家町に多くの武家屋敷が残っています。
水沢三偉人として高野長英、斎藤實、後藤新平の資料館や生家など史跡も多く残されています。

あかとんぼ は今夏 一関田村家の史跡と併せ 訪れたいと思っている町です。
水沢三偉人 をチラリ 発言したましたが反応が全くありません。郷土の偉人に 関心・知識が無い様なので 後藤新平筆なる石柱をガイドするのは止めました。

本日 男性 女性 単独での参拝者からの依頼が連続しました。

男性に 「博物館前で下車をして、三の丸 博物館裏庭を見学し 清水門跡の坂道には 政宗公時代と推定される石垣が残っており、政宗公が実際歩かれた道を実体験し 本丸に上がられたら」と奨めたら 「是非 そうします。時を超越し 政宗公と実体験出来るとは」と大変に喜ばれました。

山梨からの女性。本殿前の定番位置で 撮影してあげましたら「いつも 一人なので 自分が写っている写真が無いの それに 最高の背景で 写して頂いて」とエラク感激されました。
山梨県から仙台迄 3時間若で来ました。意外と近いです。武田信玄だけではありません。山梨にどうぞ と誘われました。

東京からのお嬢様。着衣・物腰は 「さん」ではなく「様」
御供所跡(現資料館)の復元絵図を見て「廻り廊下も無く 障子のみ 板戸が無くて 風雨に耐え 防寒・警備に支障なかったのか」のご質問がありました。

焼失前の写真を確認しました。障子になっています。平面図では、室の前に当然 廊下があります。この障子は 廊下の外側か内側か 判別つきません。(財)瑞鳳殿の学芸員に お尋ねする事にします。

E代表と 久々に 情報交換する時間がありました。衆議一決したことは、「ガイド養成講座を開設し 要員の増員を図りましょう」でした。



3 月 4 日 (金)  



綱宗 逼塞

万治3(1660)年7月18日 老中酒井忠清の屋敷に、立花忠茂、伊達宗勝、大条宗頼、片倉景長、茂庭定元、原田宗輔が呼ばれ、「綱宗に逼塞を命ずる」という 徳川4代将軍家綱の上意がが伝えられた。

その後、伊達家上屋敷に太田資次が派遣され、立花忠茂、伊達宗勝同座のもと、閉門の上意が直接伝えられた。

逼塞とは、門を閉ざして白昼の出入りを許さないことで、閉門は門扉や窓を閉ざして昼夜とも出入りを許さない監禁刑である。
なぜ、重い処分が追加されたのか 不明である。

翌19日 4人の家臣 渡邊九郎左衛門、坂本八郎左衛門、畑与五右衛門、宮本又市が 綱旨の放蕩を煽った罪で成敗されています。

以上は、仙台市史近世2 24頁記載 平川新先生記述。


本件について、宇和島の郷土史家K様から、次の様に尋ねられました。

宇和島藩「御歴代事記」では、「綱宗様御近習 坂本八郎左衛門・畑与五右衛門・山本弥次右衛門・渡邉十兵衛・渡邊九郎左衛門、放シ討と相成旨申来る」と記載されています。
当然、江戸での出来事であり、両江戸屋敷間の連絡(申し来る)あるわけですが、私の理解では4人だった筈で、仙台藩記録では誰・誰になっているか、ご教示頂ければ幸いです。

また、「放シ討」とは上意討ちと同義語と解釈すべきですが、仙台記録ではどうなっているのか?


近習の処分の記載は、綱宗 雄山公治家記録 に逼塞を命じられたと記述はありますが、伊達騒動研究トップと云われる平重道先生著「伊達騒動」を紐解きましたが、いずれにも記載はありませんでした。氏名を確認出来たのは 仙台市史近世2 のみでした。

仙台市史記載の4人は、仙臺人名大辞書に 侫臣、誅殺される等 履歴、様子が記載されています。しかし 仙台に記載なく 宇和島に記載のある山本弥次右衛門・渡邉十兵衛は 記載ありません。

私本仙台藩士事典 坂田啓編にも 当然記載ありませんでした。 


放シ討 の用語は、「仙台藩歴史用語事典」に記載がありません。この事典は、仙臺郷土史研究会が1945年以前からの 会報記載の解説の集大成です。この事典に記載無いことは、伊達家では使用されなかったと 理解しました。


以上の様に 整理し 仙台市史編纂室長菅野正道先生に ご多用の所を直接 ご教示を頂くに参上しました。

市史にも 仙臺人名大辞書にも 記載の無い2人については 知らない 記憶にないと 当然の回答でした。

「放シ討」とは、放打・放討 武家時代 死刑と決まった罪人などを拘置しないで、放任しておいて討ち取ること。日本国語大辞典 小学館刊行 364頁記載。
用語については、国語辞典が有効です とのアドバイスを頂きました。

今回 「上意討ちと同義語と解釈すべきか」については、 綱宗も 罪人になっており、発令の権限は無い筈、伊達家の重臣が 幕府に対する謝罪の態度として 裁判を行わず 遮二無二の断罪と見られ 成敗 であって 上意討ちと同義語と解釈は無理と理解する と述べたところ 頷かれました。

以上 昨3日寒強風の中 宮城県立図書館・仙台市立博物館にて勉強のまとめです。菅野先生ありがとうございました。
この強風で 瑞鳳殿で事故が発生したNHKTVは報じました。



3 月 3 日 (木)  



春浅い陸奥の國です。小雪が舞い 肌寒い日です。

博物館の相談カウンターのお嬢様から 「寒いですから 気をつけて お帰り下さい」と。
コピーの取り方を教えてくれるは 優しい言葉をかけるは。博物館は 役所でなく サービス機関であるを 心得ておられる。


昨10年11月7日に応接した徳島のお嬢さんから 「男は背中で語る」の写真入りの楽しいブログを頂きました。
http://ameblo.jp/ranranranberry/entry-10707746478.html
をご覧いたたければ 幸いです。

ブログ 拝見 驚いた。徳島県名東郡佐那河内村から、大阪で乗り換え仙台まで バスで往復しているのです。
仙台で 瑞鳳殿・仙臺城址・青葉神社・岩沼金蛇神社・多賀城跡をまわっています。瑞厳寺・塩竃神社・仙台東照宮には 訪れていないようです。
ともあれ タフです。若さです。

 





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