2011年10月の日誌
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10 月 31 日 (月)  



久々のご依頼ガイドです。
約束が15時 瑞鳳寺山門前です。14時30分現地に。客待中のタクシー氏と会話。

「久々ですね 顔(車)見えなかったようですが。売り上げは?」
「まったく駄目。63歳定年で 再雇用だから稼働日  少なくなったのに お客様が居ない。ループルバスの観光客 仙臺城に向かうをまっているが バスも20分間隔から30分間隔に減便になった。直前のバスから一人も降りて来ない。之では 幾ら待っても駄目だ。河岸を替えなくては。どこに行っても 空車の行列。マイッタ」

会社タクシーは 相次いで下山。残ったのは コジンタクシー。


14時40分バスが登って来ました。ご依頼あった団体です。20分も早いです。通常は 事前に電話がありますが 予告無しの早着です。いつも早めに待機していますから 良かったが 時間厳守すれば どうなったのでしょう。

朝7時雨の中を出発。直ちに飲酒、昼食は山形のコンニャク料理とか。口の回転良好 石段を駆け上ります。
越後高田からのお客様です。高田城を築城したのは 伊達政宗公。高田の殿様 松平忠輝の正室は 五郎八姫 政宗公の長女。ここまでは知っていました。

添乗員から「瑞鳳殿は60分で」と。約束の刻限にバス迄案内しましたが、発車したのは 10分後。

仙臺城本丸址 「30分で」。20分でガイドし トイレタイムを確保 バス迄誘導中 振り向いたら 誰も居ません。夕闇迫り 暗く成り 売店の電気が 誘蛾灯になったのでしょうか。売店に吸い込まれたのです。結局 又10分遅れの発車。

今晩は 秋保温泉○○屋にお泊まりとの事。
瑞鳳殿で 「墓室の石材は 秋保石で 浴室からでも 石切場後が見えるかも」とガイドしたら 「女風呂からも見える」と 即 反応が。
「女風呂入ったこと無いんで・・」 この調子では 温泉に入っても 瑞鳳殿を思いださないでしょう。

瑞鳳殿は 涅槃門の彫刻等 懐中電灯で照らしながらガイドしました。仙臺城址はガイト中 釣瓶落としに日が暮れました。これからは 午後のガイドは 懐中電灯が必携です。




10 月 30 日 (日)  



9時 続々と団体が。でも ガイド不要でスーと通過します。

境内一巡し資料館に。(財)瑞鳳殿の新規収蔵品「政宗公 天正13(1585)年 矢部宮内少輔 に宛てた書状(軸装)」を拝見。
拝見中 「アッ ガイドさんいる お願い」 「ハイ 館内はDVD見ている人の邪魔になりますので 外でお待ちしています」

臥龍梅・扁額・本殿・涅槃門・弔魂碑・感仙殿・善応殿・妙雲廟界・公子公女廟と 約90分のガイドとなりました。
途中 「時間は宜しいですか」と 確認したら 「夕方の新幹線に乗車すれば良いです ゆっくりお願いします。所で 仙臺城の外 推薦の箇所 有ります」

「仙臺城は 本丸のみイメージされる方いますが 廣瀬川を渡ったところから仙臺城です。大橋を渡った左側が白石の城主 片倉家、右側が登米と水沢の両伊達家のそれぞれ仙臺屋敷跡です。大手門址を左折登坂すれば本丸ですが、現在 地震の影響で通れません。直進し 二の丸跡から 御裏林を通り 本丸に至ります。バスはその後 県美術館前で止まります。

この美術館に 世界的彫刻家 佐藤忠良 の記念館があります。生き生きした女性像 ブロンズ 木造と数々 展示されています。宮城県出身なので収集数は 日本国内で最多でしょう。仙臺でしか見られない作品があります。是非」とお勧めしました。

山梨県からの 知的職業 社会主事風の8人の盛年女性でした。
女性には 「霊」を感ずる 感じ易い方が ママおります。公子公女廟入り口で 3人程 足が止まったらしいです ストップし、他の5人を待たれました。 


参道口で 山梨の8女性から 4老女に 「このガイドさん 丁寧にガイドしてくれます 頼みなさい」と引き継がれました。 問わずに「福島からきました。いわきです 原発です」と連呼されます。フクシマは勲章でしょうか。あかとんぼ は差別も意識もしません。平等にガイドします。
階段 数えて頂きました。全員 62の正解が出ませんでした。ガイドの話に 惑わされたのです。

4人の内 絶えず組み合わせが代わり 2人が聞く人 2人は個人的会話に夢中です。資料館に入館した瞬間 出てきました。興味無い、面白くない のか お別れの挨拶しようとすると 「モット モット」 結果的に 妙雲廟界迄 約90分ガイドしました。疲れました。

この4人組に 外国の少年が同行しました。日本語を理解しています。聴きます。語ります。政宗公について 知っています。フクシマのご婦人は太刀打ち出来ません。

少年は 伊達家と家名が定まった故事を知っていました。
政宗公に「瓢箪から駒」なるエピソートがあると その内容を紹介してくれました。知らなかったのは 瑞夢によって懐胎誕生した世子である話くらい。何でも 知っています。

「政宗公は「藤次郎」と名乗りましたネ」 の確認がありました。元服した時の名前を知っているとは歴女以上です。「梵天丸」の名前 なぜ 梵天丸かまでは 発言が無く 又  少年は 15歳 中学3年生です。この年齢には 説明し難く しませんでした。

何故か サムライ言葉で 話します。
どのようにして 政宗公についての知識を得たのでしょう。不思議です。
あまりにも不思議で 普段は問いませんが 国籍を聞きました。露西亜の方で 新潟の○○中学校3年生と 教えてくれました。


13時を過ぎました。
13時30分から 東北大学図書館創立100周年記念講演会が図書館本館2号館4階会議室で、講師は 平川新氏(東北大学東北アジア研究センター教授)で、演題が「江戸時代の日本は『帝国』だった−ヨーロッパの見た日本−」 と 非常に 変わった視点からの内容の講演です。

平川教授の講演は、岩沼市民会館(9/25)、廣瀬文化会館(10/29)でも 拝聴しています。平易に語ります。大学図書館での講演では 難解用語で 語り口も変わるでしょうが 聞きたかったです。

瑞鳳殿から 直行しました。「図書館来館の市民の駐車場は有りません。遠方の民間有料駐車場をご利用下さい」と 空きが一杯の「萩ホール」駐車場管理要員に 鄭重に断られました。
遠方の民間有料駐車場に入庫し、駐車料金とタクシー往復の経費負担は 厳しいので 講演は断念しました。

城下の書店にて「せんだい歴史の窓」購入し あかとんぼ邑に帰りました。頁開いたら 本日の疲れも残念も スーと抜け、消えました。



10 月 28 日 (金)  



伏見地震

10月8日に、
演題 「國寶瑞厳寺本堂ほか7棟保存修理工事の概要」
講師、酒巻仁一氏 (財)文化財建造物保存技術協会・國寶瑞厳寺本堂ほか7棟設計管理事務所長。
を聴き その内容として 記載した一項に 

意外な話
上段の間等に 筋交い が入っていた。誠に珍しい。明治以降から 入り始め 一般化したのは最近です。
慶長大地震の経験から 筋交い が入ったのではありませんでした。。慶長大地震は慶長16(1611)年で 瑞厳寺は完成していました。

これについて、「慶長地震とは伏見地震のことで、三陸地震ではありませんのでご理解ください」と ご教示を 酒巻仁一先生から頂きました。

慶長(伏見)地震とは、下記の地震をさすのでは、
「1596.9.5(慶長1.閏7.13) M7.5
畿内、京都では三条より伏見の間で被害が最も多く、伏見城天守大破、石垣崩れて圧死訳500。緒寺・民家の倒壊も多く、死者多数、堺で死600余、奈良・大阪・神戸でも被害が多かった。余震が翌年4月まで続いた」理科年表1998年判(799頁)

更に 

「慶長元 1596 30歳 この年 伏見城修築の課役をつとむ」 小林清治著 伊達政宗 略年譜

「1609(慶長14)年3.26.瑞厳寺上棟  政宗 松の祝詠、紅白梅・松手植す」瑞厳寺の歴史 発行瑞厳寺 年表

以上から 政宗公は伏見滞在中に 慶長(伏見)地震を体感しています。更に慶長16(1611)年10月28日仙臺で慶長大地震を体感しています。


以上から 意外な話 を下記の通り 修正します

「上段の間等に 筋交い が入っていた。誠に珍しい。
明治以降から 入り始め 一般化したのは最近です。
慶長(伏見)地震の経験から 筋交い が入ったのでしょう。

なお、慶長(伏見)地震とは 「1596.9.5(慶長1.閏7.13) M7.5 畿内、京都では三条より伏見の間で被害が最も多く、伏見城天守大破、石垣崩れて圧死訳500。緒寺・民家の倒壊も多く、死者多数、堺で死600余、奈良・大阪・神戸でも被害が多かった。余震が翌年4月まで続いた」 理科年表1998年判(799頁) です。





10 月 27 日 (木)  



BS歴史館 シリーズ 激論!戦国の真実(2)「華麗なる独眼竜・伊達政宗」

NHKはBSで標題タイトルで 下記内容で 今晩 放映しました。

華麗で大胆!謎めくしたたかさに男の色気が香る戦国武将・伊達政宗。自分の趣味や個性を武器に危機を乗り越え続けた男の現代的な魅力を、俳優・石坂浩二らが語り尽くす。

華麗で大胆、男の色気が香る謎めいた言動で、したたかに生き抜いた武将・伊達政宗の現代的な魅力を、俳優・石坂浩二らが語り尽くす。豊臣秀吉や徳川家康の強大な圧力に対し、美食やアート、ファッションなど趣味や個性を巧妙に生かし、何度も危機を乗り越えた生き残り戦略とは? 直筆の手紙に浮かぶ孤独な思いと、母や娘に寄せた切ない愛情とは? 東北の復興と繁栄を目指して挑んだ、日本人の枠を越えた途方もなく大きな夢とは?

出演 渡辺真理, 石坂浩二, 加来耕三, あさのあつこ

以下 あかとんぼ の感想

流石 世界に冠たるNHKです。冒頭 政宗公の魅力はどこにあるのか。歴女を始め 老若男女に一言語らせています。そして本題に。
印象に残った一例

黒と白
伊達家のカラーは 黒ですとガイドしています。それついては 古代中国の英雄「李克用」に由来するのではと10月17月とUさんからご教示頂きました。石坂浩二先生は この故事を 何故か 一切語りませんでした。 桃山文化で 絢爛な色合い 金箔の鎧が武将の間で流行している中で 目立たない色として 目立無いように 黒色を用いたと語りました。

鎧は武具を身を守る道具です。実用性を重視していて、胸板は厚い鉄板が入っており 現在の22mm口径の銃にも耐えます。そして黒色にしましたと語りました。

納得します。
黒は 目立たない色 地味な色では無いと思います。瑞鳳殿をご覧ください。黒漆塗りに 金色の飾り金具 正にハデハデです。
目立たない ではなく 他人と異なる方法 この場合 色を黒にして 逆に 目立つようにしたのではないでしょうか。

小田原参陣の際 死装束 白の衣装で 秀吉の前に。秀吉の度肝を抜いた。これは 白は外の何色にも 染まります。花嫁の白無垢衣装と 同じ発想。絶対服従を表現したもの 言がありました。 なるほど。

黒と白 対照的 色に このような解釈が付される なるほど 納得 ガイドの際 使いましょう。伝えましょう。 


子籠
鮭の雌を卵と共に塩漬けしたもので、政宗公が進物として用いた。10月18日の日誌に 10月13日の仙台市博物館菅野正道さんの講演で、認識を新たにした旨 記したところでした。講演と資料で どんなものかは 見当はつきました。

鮭を輪切りして 卵が抱かれた状態の 料理として供された映像がありました。百聞は一見にしかず です。
09年8月26日「せんだい歴史の窓」に菅野さんが書かれた事と今回の講演 これで 100%近く 理解しました。

筆まめ 料理 接待 進物 四ッ谷用水 ・・・・・
58分番組ながら 政宗公の生き方 そつなく まとめています。お勧めします。
再放映は 10月30日(日) 午後0:00〜午後0:58  BSプレミアム  です。


「せんだい歴史の窓」が 河北選書として 発行になりました。46判 226頁 840円です。内容 質と料から極めて安価です。
巷間伝わるところでは 公務員法の定める所により 印税を受け取れない 故 安価 だそうです。
相当の時間と経費を 投じている筈です。時間と金があっても 能力が無ければ 出来ない仕事です。印税が貰えない なんら報われないは 誠に 気の毒です。
巷の老人として 出来ることは 自分用の購入と 他に お勧めすることのみです。
みなさん 書店で手にするか 河北新報出版センター http://www.kahoku-55.co.jp/  電話022-214-3811に どうぞ



10 月 23 日 (日)  



防災訓練

あかとんぼ邑 単独と あかとんぼ邑外6ケ邑合同の防災訓練が開催されました。
邑人として 日の出から 残務整理まで 参加しました故 本日のガイドは 休みました。




10 月 22 日 (土)  



仙台藩と蝦夷地

副題が「赤蝦夷風説考の世界」と題して 仙臺藩志会・伊達学塾が開催されました。講師は伊達宗行(大條伊達家20代)氏。
その内容は、

伊達家は幕命により、1808年と1856年の2度、蝦夷地警備に出兵している。1859年エトロフ・クナシリも伊達領となった。
派遣された者共は防寒対応の不備 食料不足で 僅かに死を免れる状態。留守先も経費15千両の調達に苦慮した。

伊達家の北方警備にに対する貢献は、1783年伊達家家臣工藤平助の啓蒙の書「赤蝦夷風説考」に端を発すると、
@アイヌとは
A一枚の地図から
B2度の蝦夷地出兵 仙台藩の苦悩
C赤蝦夷風説考と蝦夷拾遺の世界
D千島・露西亜の南下政策
以上の大きい標題の基に、100分の講演でした。

知識の蓄積が不十分なので、話しの流れに乗るのに精一杯でした。詳しく記載した資料と「赤蝦夷風説考」工藤平助原著 井上隆明訳の現代訳が 1979年教育社から刊行されていると 紹介頂きました。
仙台市史近世3 「蝦夷地の警備432頁以下」を併せ紐解き 復習します。


北山・東昌寺の墓碑を探る
「北山ガイドボランティア」主催の標題 講座が午前 開催されました。冒頭 会員の勉強の成果の発表であり、歴史的な人々は対象外ある の断りがありました。 

当然 東昌寺の由来等の説明、忠宗公の長男 虎千代丸と殉死者、綱宗公鶴千代丸の墓碑の説明は 一切有りませんでした。
数家を紹介しましたが、伊達家にいつから仕えたか。系図・経歴の紹介等の説明は十分ではありませんでした。、特に 墓碑の位置は 全く示されませんでした。

伊達家の重臣の墓碑・お寺を調べた 「史料仙台伊達氏家臣団事典」(本田勇著) 並の内容を期待しましたが・・・・・・・でした。



10 月 20 日 (木)  



小春日和。
ANAセールス蒲lから 満1ケ年振りのご依頼で お客様を@瑞鳳殿地区 A仙臺城地区 B大崎八幡宮 C仙臺東照宮と ガイドしました。

瑞鳳殿は 一般駐車場から 瑞鳳殿・資料館・弔魂碑・感仙殿・善応殿・妙雲廟界・公子公女廟と100分程 歩き通しです。途中で休みましょうかと 確認しましたが 必要無い 見たい 説明して欲しいで 休まず ガイドしました。

仙臺城は、本丸を南北に徘徊、本丸から三の丸に歩いて降りました。

大崎八幡宮は、R45の鳥居から登り 参拝し 北駐車場に歩きました。

仙臺東照宮も 鳥居からから登り 参拝し 北駐車場に歩きました。

若いお二人でしたが 普段の歩行とは異なり 最後は些か疲れた様子でした。
「この上り下り 毎日されているのですか」のご質問がありました。 「ムニヤムニヤ」と否定も肯定もしない返事しました。

3.11地震の復旧状況ですが、
瑞鳳殿は ほぼ修復が終わっています。未だの箇所も有りますが お気づきになる人は少ないです。

仙臺城は、修復完了度0%です。石垣・崖崩れ、地割れ。昭忠碑の落下と、生活道路は閉鎖されたままです。

大崎八幡宮も 仙臺東照宮も 参道両脇の石灯籠は 転倒・落下した状態です。

お客様は、始め 地震の被害 仙台は無かったと見ていた様ですが これらから「どうして 修復しないのですか ロープ張って放置しているのですか。観光地でしょう」のご発言がありました。当然の発言と思います。

特記事項
仙臺東照宮の随身門 左像は「藤堂高虎63歳」 右像は「本多忠勝43歳」と調査資料にあり そのようにガイドしました。 年齢が 左右 逆ではないか と反問されました。

容貌と年齢の関係は 主観的なものと思いますが確認します。

東照宮の本殿傍 柵内に 柘榴の実が 4・5個 熟して実っていました。木で熟した状態 初めて見ました。





10 月 19 日 (水)  



青葉祭・仙臺祭・町中堀

2011年5月25日の日誌に 標記標題で記載した事項に 下記一項があります。

「仙臺祭の際 町中堀はどのように対応したか」が話題になりました。

町中堀の規格は 巾3尺 深2尺が標準です。道路幅 大町が5間、國分町3間4尺 南町3間3尺 (天保記録)です。有効幅員は幾らになるかです。町中堀は、家庭用排水、雨水排水、防火用水、馬の飲料、打ち水に使用され、辻と要所に蓋橋が架けられたと伝えられています。

仙臺祭の行程を確認しないことには、辻以外に蓋がかけられたか 確認・推測できません。

祭礼は、辰下刻(午前8-9時頃) 東照宮を出発、宮町南端御旅所に到着、法要を、南進、清水小路、田町、通町、 未刻(午後1-2時頃) 芭蕉の辻到着、大町一丁目、元柳町、立町、通町、國分町、二日町、北一番丁、宮町、申上刻(午後3-4時頃) 東照宮に戻るが行程でした。(町名は城下時代の町名)

幹線道路に町中堀を設けました。祭礼は幹線道路を巡航します。祭礼の相当の旅程で 町中堀の存在する道路を通過しています。
2年に1日の祭礼の際 蓋をしたか は判明していません。ご存じの方 ご教示下さい。


昨10月18日 KM様から 次ぎの内容のご教示を頂きました。

仙台祭資料展座談会(三原良吉)
時 昭和11(1936)年4月23日 
所 仙台商工会議所 
談 伊藤清次郎氏 
「この仙台祭りの日には神輿の通過すると否とにかかはらずどの町でも昔は中央に下水堀がありましたが、その堀を全部板で蓋をして、その上に茣蓙を布いたものです、これは殿様の御参勤の御上がり御下がりの時もさうでした」

KM様 誠に有意義なご教示ありがとうございました。今後とも よろしく ご教示の程 お願い致します。


仙台祭資料展と座談会が開催された昭和11(1936)年とは、どんな年であったか。

 仙臺祭は仙台藩最大の祭であった。その由来と履歴は、承応4(1655)年に始まり、毎年9月17日に行われた東照宮の祭で、最大70基の山鉾が城下を練り歩いた(山鉾がでるのは殿様が国元仙臺滞在の年のみ)。

 明治時代に政宗公を祀る青葉神社の礼祭(御命日の5月24日)に行われ、青葉祭りとも呼ばれました。
 特に明治18年の政宗公没後250年祭や、昭和10年の300年祭には多くの山鉾が市中に出て盛大に行われました。

この300年祭に関連し 資料展が開催され 更に関連として座談会が開催されたと 理解しました。
資料展の 開催期間 場所 内容までは 確認に至っていません。


語られた 伊藤清次郎様とは どんな方か。

 1856(安政)年生〜1938(昭和13)年卆
 仙台・河原町の富豪小西家の一族。戊辰の役時、輪王寺宮仙岳院に来駕された時、13歳で御附人に。
 
 1899(明治32)年、「宮城紡績電灯株式会社の社長に、1919(大正8)年、「仙台市街自動車会社」の創設にも参画しました。
明治・大正そして昭和の始めに仙臺を中心に活躍した実業家。

「電狸(でんたぬ)」の号を持ち、「仙臺昔話 電狸翁夜話」を著わし 幕末 明治の時代の仙臺の歴史を伝えている方です。
その方が 語られた 記録でした。

なお 「仙臺昔話 電狸翁夜話」は、1990年今野印刷 が 復刻・発行しています。



10 月 18 日 (火)  



茂ヶ崎城

「[古城書上]は、東西96間、南北61間。ほんまると二の丸の間が280間の山続きの平地。二の丸は東西38間、南北40間。城主は、名取郡北方23郷旗頭 粟野大膳とする」と仙台市史「城館」編161頁に記載されています。

1600年仙臺城築城時は既に 茂ヶ崎城は廃城であったと理解していました。そして 粟野大膳 の名前は家臣団に出てきません。
仙臺大人名辞典には、「茂ヶ崎城主・・・元和9年9月15日逝去。麓 宗禅寺に墓碑あり」と記載有るのみで、伊達家で如何に処遇されたかは記載有りません。

はてな と思っていました。
13日氷塊しました。

政宗公が岩出山移封の時、東山太東(一関市大東)に所替えになり、秀宗公が宇和島10萬石の領主として赴任する際 同行を命じられるも拒絶したため家禄没収となったのです。

現在でも 転勤を拒否すれば 馘首(退職)を覚悟しなければ成りません。400年前 馘首(切腹)を命じられる事無く家禄没収で終わった事は、極めて温情ある処分であったと思います。

さて、戦国時代 粟野氏は 伊達家に初鮭を献上するのが恒例行事となっていた。毎年 鮭を献上しているのは粟野氏のみ。これは廣瀬川・名取川の鮭が伊達領内でも有名な存在であった事の反映と思われる。

以上は、「郷土を愛する歴史の会」(富沢所在)主催 講演会で、「廣瀬川・名取川の鮭」と題した仙台市博物館菅野正道さんの講演で知った事です。


講演の内容は、上記の外 政宗公と鮭 川狩り 加工 子籠 進物 鮭漁と 幅広く 興味深いものでした。
今 鮭が旬です。瑞鳳殿ガイドの際 時間に余裕ある人 歴嬢に 政宗公の人となりを語るに最適の お話 材料でした。

政宗公と鮭について 関心のある方

仙台市政だより1997年9月1日号「市史編纂こぼれ話42」鮭 山を登る
河北新報2009年8月26日 せんだい歴史の窓 33 
をご覧ください。講話の80%は記載されています。

なお 「せんだい歴史の窓」は 全50巻に10巻余 加筆・増補の上 1000円からお釣りが来る価格で今月20日頃 発売になると 筆者が申していました。楽しみです。為書 頼みたいものです。
 



10 月 17 日 (月)  



伊達家の色は なぜ黒か?
昨日 お客様の質問に不勉強から即答出来ませんでした。ガイド仲間のUさんから 下記の様にメール・電話でご教示頂きました。

「政宗公の甲冑、瑞鳳殿など黒色については中国「独眼龍李克用」の故事に由来しているのではないでしょうか。政宗公に教示したのは虎裁宗乙ではないでしょうか。」

WEBにて 調べました。

李克用とは、古代中国・後唐の時代の英傑です。大水害と大干魃に、併せて苛税に苦しむ農民の蜂起に 猛将として登場したのが李克用であった。一方の眼が眇(スガメ)であったので「独眼龍」と呼ばれた。

[僖宗の時黄巣叛を造す。李克用之を破る。時人其の一眼眇にして勇有るをもって《独眼龍》と号す](「唐書」)にあり、相当の畏敬の念をもつて呼んでいた。

李克用の軍は 全て全身を黒衣を纏っていた。そのすさまじい進撃に「鴉軍来る」と恐れられていた。

「独眼龍」は隻眼で勇ある人、転じて 隻眼高徳の人を称する。日本では 伊達政宗公が有名である。

国語辞典の解説
[856〜908]中国、五代後唐(こうとう)の初代皇帝荘宗の父で、事実上の建国者。諡(おくりな)は武皇帝。廟号(びょうごう)は太祖。突厥(とっけつ)沙陀(さだ)族の出身。黄巣の乱で、反乱軍を破った功で河東節度使に任ぜられ、以後朱全忠(後梁の太祖)と華北の覇権を争い、陣没


小林清治先生は 「伊達政宗」(人物叢書)で、
梵天丸(政宗公)は疱瘡を病み 右眼を失明した。人に恥色を見せた。幼年時代の教育に決定的な感化を与えたのは虎裁宗乙である。当代の名僧であった。輝宗再度の招請により、元亀3(1572)年米澤近郊資福寺に着任、時43歳。政宗公は 佛教、漢学に五山文学の教養を虎裁から習得した。

大和田哲男先生は〔「六韜」や「三略」などの兵書も学んだのでは〕と「史伝伊達政宗」で述べています。


以上から Uさんは 控えめに ご教示くださいましたが 正にそのとおりです。
Uさんの学識と識見に 再度 敬意を表します。 ご教示ありがとうございました。


WEB調査中 簡体文字で記載された意外な頁に遭遇しました。

シャなる外国語学部の日本語日本文化専攻の女性が、卒業論文として「独眼龍、李克用と伊達政宗について」と題して、同じ乱世における違う生涯などの面から二人の処世観を研究する とありました。

中国では、李克用に関する研究が多く、毛沢東は李克用の軍事才能に対する評価が相当高かった。
日本では 李克用について 中国では伊達政宗について それぞれの研究が多くない、二人の比較は更に少ない。
と結んでいます。


政宗公の生き方に多大の影響したであろう 李克用との 比較・関係の論文に期待します。
ただ 大学が何処か不明であり 卒論が公開されるものかも不明です。論文も日本語で記述されるかも不明です。
果たして 一読の機会が有るでしょうか。 



10 月 16 日 (日)  



夜来の雨が上がり、麓から笛太鼓の音が聞こえて来ます。

意外な質問
1.伊達家の色は黒との説明ですが 何故 黒 なのですか。赤ではだめですか。
2.掲示に「アナグマ」が居ると記載されていますが、見ていますか、 どこに居ますか。

あかとんぼ の答え
1.どのような経緯で 黒 が好まれ 使用されたかは、勉強不足でわかりません。赤(朱)色の軍団も存在しました。何れの大名家であったか 咄嗟に出力できません。

2.ここ経ケ峯は、市街地に所在しながら 貴重な動植物の宝庫です。アナグマは夜行性です。夜間はガイドしませんので 見ていません。感仙殿・善応殿の西側の森に居ると思いますが 現在立入禁止に成っていますので 糞 足跡等も確認していません。

 カモシカ・栗鼠・青大将その他蛇は 暫し 見かけています。ムササビも居ますが 夜行性ですので見ていません。


アルコール臭 プンプンのおじさん
「茲 変わったよナ 石塔なんか 無かった筈だか。30数年前 御霊屋下に居て 散歩コースだった」
「お客様 30数年前とは オイルショックの前ですか 後ですか。丁度再建工事中に オイルショックに見舞われ 資金難。資材難に見舞われ 工期間が5ケ年要しています」と 再建工事着手前 戦災で焼失して何もない時の写真をお見せしました。

「アッ 思い出した。ワカッタ。昨日OB会で、11時から ある人と会うが 事前にお参りしてヨカッタ」と 酒臭い息を吐きながら ニコニコ去っていきました。

今 話題の「スマホ」に 初めてタッチしました。
お嬢さんが ベンチに携帯電話より大きい機器をセツトし 涅槃門前に立ってセルフ撮影をしていました。ピカピカ 連続約5秒後にピーカ撮影完了です。
涅槃門前 お勧めのポイントを紹介したら 「オジサン写して 液晶にタッチするだけ」3回目に成功しました。ソレナリ美人に遷り、ご満足。
聴きました。「これスマホなの」と返ってきました。

東京の駅ホームでは スマホの画面で読書しながら歩行する人の接触事故が多発していると報じられていました。この程度の大きさであれば携帯出来ます。読書もできるとなれば あかとんぼ も欲しいです。

どちらからお出でですか とお尋ねすれば 関東一円 昼東京都民は 東京と答えます。今日の方々 丁寧な方々です。
「沖縄本島コザ市で生まれ 現在山梨市です」又 「東京都下 八王子市です」

「八王子から5時間要した 夫婦二人旅」に 「秋保温泉は如何ですか 25分程です 政宗公の墓室の石材の産地です」と申し上げましたが。

昨日は午前Uさん 午後Oさんが対応されました。本日 NKさん HNさん SBさんと計4人です。後半 感仙殿地区にまわり 12時あがりました。雨も上がりました。



10 月 14 日 (金)  



仙臺開府

1600年政宗公は仙臺城を築城し 仙臺の町を開きました。
何故 青葉山に築城したかについては、@短期間で堅固な城が築城出来る A飲料水が確保出来る にあったと理解しています。

では、家臣達や職人・商人等民百姓の住む地帯は容易に飲料水を確保できる地形であったかです。当時は谷地・湿地の原野であり、廣瀬川とは段差があり 取水が容易に出来ない無い地形です。

水が無ければ人々は生活出来ません。そこで 川村孫兵衛に命じて、城下西 郷六で取水し 西から東に 水路を開削 段丘の傾斜を 自然流下させる水路を南北に掘り 結果として44q 城下に縦横に水路を捲らせ 給水しました。四ッ谷用水です。

尚絅学院中学部から 1年生の総合学習で「廣瀬川・四ッ谷用水」について1ケ年の期間を設け学習をしています。ついては 四ッ谷用水跡の現地を案内し 語って欲しいとご依頼がありました。

8時45分から11時45分迄3時間を要して、廣瀬町9番に所在する尚絅学院から十二軒町・国道45号線八幡町経由、大崎八幡宮 太鼓橋を起点に、四ッ谷用水跡 現工業用水を忠実に辿り、最終的に 北七番丁 東北大学歯学部構内に残る 支倉堀跡まで 案内し説明しました。

出発前打ち合わせで、担当の田嶋先生から「政宗公の城下町開設当時 又は 伊達時代から残るモノ 地形なども 併せて 生徒に説明して欲しい」とのご依頼がありました。

当初 予定していた四ッ谷用水に関する以外に
1,ひくり沢の発祥から その規模。
2,弥勒院は 寺院と墓地が国道に分断されているが なぜか。
3,現生協は 造り酒屋の広大な敷地の後です。なぜ茲に造り酒屋が立地したのか
4,覚性院丁と石切丁の通りが廣いのは何故か
5,仙臺城石垣・瑞鳳殿の石段の石は どこで採石され どのように運搬されたか。
6,国見石の現物展示があり これです。
7,大崎八幡宮と龍寶寺の縁起と寺社の関係。
8,八幡町は龍寶寺門前町で、別当寺龍寶寺に支配が任せられていた。

先生は 時々 生徒の理解度を確認していました。先生は 数学と情報が専門と申されましたが 歴史についても 相当の素養をお持ちと感じました。それ故に 上記の注文がでたものでしょう。

中学一年生は あかとんぼ の孫の年齢に相当します。孫に語る気持ちで 四ッ谷用水以外 ご注文の事項を知る限り 語りました。
どの程度 理解され 来春の発表会 秋の学園祭で 披露されるか 楽しみです。

昨年も案内しており、今春3月12日の発表会にご案内を頂き、参上しましたが 東日本大震災の翌日で流会になりました。残念でした。



10 月 13 日 (木)  



仙臺城石垣

本丸北側の石垣が3.11地震で崩落し、市道が通行止めになっています。いつ 石垣の修復が始まり 市道が開通するか です。
仙臺城観光の方々のみならず この道路は生活道路にも なっています。早期開通が望まれる道路です。

仙台市議会・震災復興推進特別委員会では11日 「14年度末完成を目指す」と発表しました。

14年度末とは、2015年3月です。目指す とは、目標値です。確約ではありません。
仙臺のシンボル 仙台城が 復旧されず 放置され、最小限 後5ケ年 不便が強いられる訳です。



10 月 12 日 (水)  



弔魂祭 本日の河北新報朝刊・WEBwで下記のとおり報じました。

「弔魂碑」修復、戊辰慰霊新た 仙台・瑞鳳殿

 戊辰の役(1868年)で亡くなった仙台藩士1260人を供養する慰霊祭が10日、仙台市青葉区の瑞鳳殿敷地内の弔魂碑前で行われた。
 仙台藩志会の伊達洋司会長や仙台市の伊藤敬幹副市長ら約30人が出席。ことし7月に修復を終えたばかりの弔魂碑を前に、参加者は神妙な表情で焼香し、殉難者の霊を慰めた。
 勤皇派の秋田藩士に暗殺された仙台藩士の遠縁に当たる中沢幸男さん(71)は、戦没した藩士の子孫を代表して「弔魂碑を新たにしてもらい、先祖たちも感謝していると思う」と語った。
 高さ6.74メートルの弔魂碑は鋳鉄製で1877年に建立。近年は老朽化で亀裂が目立っていたため、所有する市が約1700万円を投じ、東北大金属材料研究所が修復作業を行った。

写真 碑前で焼香する伊達宗家御当主
修復された弔魂碑の前で仙台藩士の冥福を祈った=10日

http://www.kahoku.co.jp/news/2011/10/20111012t15026.htm



10 月 11 日 (火)  



戊辰の役殉難者143年慰霊祭

昨10日10時から 瑞鳳殿脇広場 弔魂碑前で 雲一つ無い 秋晴れの中 殉難者後裔 市民 仙台市 仙臺藩志会等 50余人が参列し 仙臺藩志会主催で、戊辰の役殉難者143年慰霊祭が催されました。

式 次第
開式  仙臺藩志会常任理事 煤孫晴夫
式辞  仙臺藩志会会長    伊達洋司
     式辞 全文 下記掲載
黙祷
鎮魂篠笛演奏 荒城の月 ほか  「篠の会」

挨拶  仙台市副市長      伊藤敬幹 様
     仙台市市議会議員   鈴木繁雄 様

焼香  伊達家18代御当主   伊達泰宗 様
     仙台市副市長      伊藤敬幹 様
     仙台市観光交流課長  嶺岸裕  様
     殉難者後裔代表     中村嘉輔 様
     (財)瑞鳳殿常務理事  大崎啓一 様
     仙台市市議会議員   鈴木繁雄 様
     仙臺藩志会名誉会長  古内重義 
     仙臺藩志会会長     伊達洋司
閉式  仙臺藩志会理事     中澤幸男


仙臺藩志会会長伊達洋司 式辞(全文)

本日茲に戊辰の役殉難者143年慰霊祭を開催するに当たり、主催者として一言ご挨拶を申し述べます。

 今年は災害に明け災害に暮れようとしております。とりわけ東日本大震災では、多くの人命や財産が奪われ、さらに多数の人々が被害を受けられました。改めてご冥福とお見舞いを申し上げます。

 伊達宗家におかれましても、累代の墓所が甚大な被害を蒙り、再建が急務となっております。18代御当主伊達泰宗様も、本来であればこの席でご挨拶を頂くところでございますが、先月28日から始まった工事現場の指揮を取らなければならず、今日はお焼香だけにさせていただきますとご連絡がありましたので、予めお許しを戴きたいと存じます。

 さて、10月も半ばとなり、ここ経ケ峯にも仙台萩が美しく咲き乱れ、秋の気配を濃くしております。今日10月10日は先の戊辰の役において、祖国のため藩のため尊い犠牲となられた藩士の方々の御霊(ミタマ)安かれと弔魂をする日と定め、私共仙臺藩志会では毎年お参りを欠かさず続けて参りました。

 本日は、仙台市副市長伊藤敬幹(ユキモト)様を始め、伊達家18代御当主伊達泰宗様並びにこの弔魂碑改修にご尽力を頂いた元仙台市議会議長鈴木繁雄先生、瑞鳳殿常務理事大崎啓一 様など多数の方々にご参列を賜りましたことに、哀心から厚く御礼を申し上げる次第でございます。

 また、この戊辰の役で犠牲となられた藩士の後裔の方々、仙臺藩志会会員、一般の方々にもご参列を頂きましたことに、敬意と感謝を申し上げます。

 さて、慶応4年正月に起こりました戊辰の役は、仙台藩にとっても命運を懸けた戦いでありました。しかしながら、訓練された兵力と西洋仕込みの砲火の前に敗退を余儀なくされ、1260名の犠牲者を出しました。みな日本の将来のためと信じ、藩のために散った尊い犠牲者であります。

 この方々を祀ろうと、第14代伊達家御当主伊達宗基様を始め、ご家中の方々のお力添えによって、この政宗公ゆかりの地に弔魂碑を建立なされたのは、明治10年10月10日のことでございました。爾来134年、長い年月風雨にさらされ、この弔魂碑は傷みがはなはだしくなりましたので、ご出席の鈴木繁雄先生などが仙台市に働きかけられ、仙台市の配慮でこのような立派な弔魂碑が完成いたしました。専門的な立場から工事をご指導いただいた東北大学金属材料研究所の後藤孝教授を始め、工事関係者の皆様に改めて御礼申し上げる次第でございます。

 明治維新の戦いは、熾烈な戦いでありました。同胞同士が血で血を洗う戦いを繰り返したことによって、日本に夜明けが訪れたことを、そして近代国家日本が建国されたことを、私たちは決して忘れることができません。

 本日茲に、戊辰の役143年慰霊祭を開催するに当たって、御霊(ミタマ)の安らかなんことを、そして尊い犠牲者となられた方々のご遺族に、深甚なる弔意を表し、式辞と致します。

平成23年10月10日   仙臺藩志会会長  伊達洋司



10 月 10 日 (月)  



地震
11時46分 震度4の激震。
拝殿の内側でガイド中 前兆が無く 突然 ガクン グラグラと揺れました。

揺れが続く様では大地震です。寶筐印塔や石段途中の奉納石塔が 再び転倒する可能性があります。
参拝中のお客様に「拝殿まで下がってください」と叫びました。本殿で参拝中の20人近くの方々が、拝殿と拝殿前に避難されました。

揺れの続きがありません。一揺れで収まりました。 まもなく お客様は本殿に参拝に、資料館に と向かわれました。
「石段は 真ん中をお通り下さい」と叫びました。一休さんのトンチ話の世界だな と内心愉快になりました。

地震直後 (財)瑞鳳殿 S主任、K学芸員は 参拝客に怪我等無かったかの安否確認に駆けつけてきました。「本殿周辺 怪我等無し」との報告を受け、資料館・感仙殿等の地区での安否確認に急行されました。結果として 全山異常なし でした。慶賀です。


鬼小十郎
「片倉小十郎の奉納した 石灯籠があるそうですが どこにありますか」券売所で尋ねている声が聞こえました。
券売窓口嬢の振り返る姿が見えました。即答出来ないようです。

ここがガイド歴11年の出番です。
「あの側近の片倉小十郎景綱ではなく 2代目である 重長 が奉納した灯籠は 涅槃門を潜り 左側 直前1番目です」
「オジサンありがと。鬼小十郎ですネ」

歴嬢ですネ。歴女ではなく。昨日 白石を訪れ 今日は仙臺を巡る 歴嬢コースの様です。


政宗公はなにをした人
「ここは政宗公の御霊屋で・・・・・・」と ガイドを始めたら 「政宗公とは 如何なる人物か 何をした人なのか」の質問。
「馬上少年過 世平白髪多 残躯天赦所 不楽是如何」記載の仙台市博物館所蔵 政宗公像を開き その一生を説明しました。理解頂けた様です。

当初20分程度でガイドしての要望でしたが 興に乗った様なので丁寧に カットしないでガイドしました。
ガイド終わった所で 地震被災状況を尋ねます。資料で寶筐印塔等の転倒状況、香炉の打撲・擦過傷に、折損した避雷針を 現況を見て貰いました。

「お客様は 地震をどちらで体験しましたか」 と 問いましたら 「青葉山で」と 返ってきました。
「ハッ」  「東北大学薬学部を今春卒業 大手薬品会社に就職しました」 「私は3年前」

あかとんぼ の知人に 東北大学薬学部の卒業生がいます。「3・4年生になると 実習・実験に追われ 昼食・夕食は学食で、家では朝食のみであった」と語っていました。この人達も 同様で 学生時代 大学往復で過ごし 仙台の名所 瑞鳳殿 を訪れる事なく 就職後 人生に余裕が出来 瑞鳳殿参拝となったのでしょうか。で、「政宗公とは」 の質問に成ったのでしょうか。理系の大学生は 大変ですネ

この2人連れのガイド終わった途端、上記 震度4に見舞われました。地震を呼んだのでしょうか。


戊辰の役殉難者143年慰霊祭
本日10時催されました。詳細は 明日の日記に記載します。


本日のガイドはキセルでした。



10 月 9 日 (日)  



青葉神社 秋の例大祭

11時から、伊達家当主伊達泰宗氏臨席 多数の市民が参加秋晴れの基 挙行されました。

直会 3番目に挨拶されました伊達泰宗氏は、

4代綱宗公の墓所を始め 伊達家の墓所は震災の被害が多大である。年内に 仙台市内の、来年中に宮城県内、県外に所在する 伊達家の墓所の修復を完了させます。
伊達家当主と申せ 微力です。よろしく。

のご挨拶がありました。
瑞鳳殿は (財)瑞鳳殿で修復しますが、大年寺以外 二の森、孝勝寺、覚範寺、輪王寺等 根白石、新寺小路と各所に所在しています。
大変です。



10 月 8 日 (土)  



宮城県歴史研究会(会長渡邊洋一)勉強会。
会世話人の一人で、瑞鳳殿ボラガイド仲間のSさんのお招きを頂き末席を汚しました。

演題は、「國寶瑞厳寺本堂ほか7棟保存修理工事の概要」
講師は、酒巻仁一氏 (財)文化財建造物保存技術協会・國寶瑞厳寺本堂ほか7棟設計管理事務所長。

内容は
瑞厳寺は、政宗公が慶長9(1604)年再建を命じ、翌慶長10(1605)年6月着工、慶長14(1609)年8月完成した。
修理は、政宗公17回忌 慶安5(1652)年屋根瓦葺き替えが行われ、年回忌の都度に修理が行われた。
明治96(1903)年に大修理が行われた。規模は今回とほぼ同様である。

今回の工事は、2009年1月着手、2017年7月完成予定です。なお 地震・津波の被害は僅少でした。
総事業費は、14億6千万円

修理内容は
本堂 1棟 半解体修理  基本的に柱 小屋組以外は解体。
    解体後 発掘調査を実施、本堂を持ち上げて、基礎工事と破損した柱の修復。
    土壁は、壁小舞補修 全面塗り直し
    建具は、建て付け直し・修理
    漆喰部は、塗り直し
    飾り金具は、補修と取り替え
    畳は、取り替え
    土壁防腐処理・電気設備・自動家裁報知設備・避雷針設備の復旧

廊下 1棟 部分解体修理
中門 1棟 全面解体修理  

御成門 1棟 屋根葺き替え 部分修理
附太鼓橋 4棟 解体補修

意外な話
「上段の間等に 筋交い が入っていた。誠に珍しい。明治以降から 入り始め 一般化したのは最近です。
慶長(伏見)地震の経験から 筋交い が入ったのでしょう。

なお、慶長(伏見)地震とは 「1596.9.5(慶長1.閏7.13) M7.5 畿内、京都では三条より伏見の間で被害が最も多く、伏見城天守大破、石垣崩れて圧死訳500。緒寺・民家の倒壊も多く、死者多数、堺で死600余、奈良・大阪・神戸でも被害が多かった。余震が翌年4月まで続いた」 理科年表1998年判(799頁) です。

欄間の模様 部屋(文王と松の間比較)によって 模様・彫り込みが異なっています。
檜は地元で少なく 貴重であり 見える部分に使用している。それも 地元産松材で三方を包み込む形態です。


宮城県歴史研究会は 歴史ある団体です。
10数年前 錚々たる先生達の団体で 加入を申し出る余地がありませんでした。昨日の様子では 世代交代がなされた様子でした。



10 月 3 日 (月)  



和久又兵衛宗是

豊臣秀吉の祐筆。小田原に政宗公が参陣に際し、促し、文禄4(1595)年秀次謀反事件で政宗公が疑惑を持たれた際に政宗公の危機を救いました。政宗公は恩義を感じ 秀吉亡き後 領内黒川郡大谷邑にて2000石の高禄を給しました。
大阪の陣開始と共に 入城し、政宗公に敵対し 慶長20(1615)年5月7日享年71歳で戦死しました。

その子 半左衛門を政宗公は 1000石にて近習に列し、栗原郡沼倉邑の館に居住しました。寛永15(1638)年8月21日享年61歳、栗原郡宮野邑妙圓寺に葬られました。碑は仙臺荒町佛眼寺に。(以上、仙臺人名大辞典による)

9月26日勉強会で Uさんから 碑前で「和久家 政宗公の恩人 家格着座」と説明されました。

昨日、宮城県歴史研究会 柴会長から 会報「歴研みやぎ85号」に 又兵衛の録地(黒川郡大谷邑)は、現在の大郷町川辺近辺の山中と推定したの論文を発表した。ついては その紹介が河北新報に掲載されています の連絡がありました。

10月8日10時0分から「瑞厳寺本堂保存修理の状況と津波の影響」と題して修理現場坂巻所長の講演が 宮城県歴史研究会主催で、仙台駅前プロミス鰍ナ開催されます。その席に 会報を持参・供与頂ける旨 約しました。

次は、柴会長に Uさんと共に 現地大郷町川辺を案内して頂く事です。8日に依頼し 日程の3者協議です。



10 月 2 日 (日)  



秋冷を感ずる気候です。
麓の瑞鳳寺御霊屋幼稚園では8時30分から運動会です。お昼まで 先生の元気な声が全山に響いていました。
お客様から「仙台では 幼稚園の運動会に招かれれば ご祝儀を持参するのか?」と 問われました。はてなと思いましたら「受付に 手提げ紙袋が数並んでいました」 さてさて  真偽の程は不明です。

あかとんぼ でも秋冷を感ずる気温です。南の国の方は 身に凍みると思います。

手洗鉢前で 「冷たい」と中高年 男1人女3人の連れ。ハテと思い「台湾からですか」 「ハイ」 「台北・台中、それとも台南ですか」 「台南です」と 迄会話が進んだ時、無粋な割り込みがあり、会話中断。その間 皆様は涅槃門を潜られました。

本殿南の胡桃の大木に栗鼠が住まいしております。本日9時10分頃と12時20分頃と2回 お出ましがありました。

名古屋からの御夫妻をガイド中 「ガイドさん アレアレ-」 東側の枝をスルスル南下していました。
山形等からの兄弟夫妻4組 ガイド中 又 アレアレ 栗鼠です。お客様大喜びです。胡桃が落下してきました。栗鼠からのプレゼントでしょうか。ポリ袋に入れ 参拝記念にとお持ち帰り頂きました。

「何故 桃山文化がここ奥州仙臺に華開いたのか」のご質問がありました。
豊臣秀吉の命で慶長3(1598)年迄 長期間 京都に滞在させられた。その間 京文化 (詩歌管弦・美術工芸・建築)を学び 吸収しました。そして 松島瑞厳寺、大崎八幡宮等の桃山様式の建築となり 桃山文化が仙臺に華開きました・・・・・」と説明。

「山形からもお出でになったそうですが、大崎八幡宮は 政宗公とともに米澤から岩出山に遷られた成島八幡と地元大崎八幡と合祀され 仙臺に遷り 大崎八幡宮となったもので、社殿は桃山様式の建築で国宝です。昇殿参拝されれば(左甚五郎作)と言われる彫刻も拝観出来ます」に

「ヘー 大崎八幡宮が・・・」絶句。 
一息ついて 「実は 息子が仙台におり、昨日 結婚式であり、兄弟夫婦に参列して貰った。式の神主は 大崎八幡宮の宮司様で(オオサキハチマングンのオオガミ・・・・)の祝詞がありました。
それほど 立派な神社の宮司様とは知らなかった。申し訳ない。ここから 何分で行けますか」

「車で10分かからないでしょう」
「兄弟 ご一統様 直ちに 大崎八幡宮参拝に予定を変更します。よろしく」
決断と実行のご一行様でした。果たして 昇殿参拝されたか??。


「あれ 萩ですよね 綺麗に咲きましたね うちは未だです」 「どちらですか」 「茨城県です」「ヒョットして 龍ヶ崎市では」 「はい龍ヶ崎市ですよ」 今日はヒョットして 台南市と龍ヶ崎市の方と 2回的中しました。不思議な日です。

「伊達家1万石の領地で陣屋がありました。平成21年10月16日仙臺藩志会(写真・年賀拝礼式裃一行・披露)一行と共に 訪れました。
竜ヶ崎市歴史民俗資料館 館次長湯原武様から、資料館・愛宕神社・般若苑・竜ヶ崎城址・鹿島神社・龍峯山大統寺・八坂神社と 終日 ご案内・ご説明頂きました。
夜は竜ヶ崎市長ほか 市幹部のご臨席を頂き 料亭「帰仙」で懇親を致し、市長から「地名の由来 (龍が登る) 故に 龍の文字を用いている。宮床伊達家の始祖宗房公の御生母は当竜ヶ崎市の出身です」等が語られました。

「平成22年5月15日 旧・新の竜ヶ崎市長ほか竜ヶ崎経済界のご一行が 松島・瑞厳寺参拝に見え、仙臺藩志会会長共々ご挨拶しました。お客様が竜ヶ崎市からお出でとは 御親戚が見えた感じです」

「歴史民俗資料館 館次長湯原武は 私の教え子です。今日は姉妹4人のうち 2人が古希・喜寿で そのお祝いに 長女の私の娘の企画で 仙臺・松島旅行に来ました。
教え子を褒めてくれ 竜ヶ崎に詳しい人に会えて最高です」

ガイドは 誠心誠意? 正心誠意? 気分的に内容は重厚なものとなりました。

姉妹の方から 「御礼を差し上げなくては」 に 「お客様が教師であって 教え子を優秀に育てられ その方から 私はご教示を頂き 今日のガイドになりました。 62分の1 のお返しかも知れませんが」 一件落着

今日は ガイド件数は僅少ですが 濃厚なふれあいの日でした。

〔仙臺藩志会伊達領竜ヶ崎訪問記は 会報「きずな 平成22年4月号第43号に あかとんぼ報告が掲載されています〕
宮城県立図書館郷土資料室にて閲覧できます。





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