2012年2月の日誌
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2 月 29 日 (水)  



河北新報 夕刊 1面トップに「100万人の輪」と題する連載欄があります。
氏名・年齢・住所・顔写真に日々の活動と震災時の対応を紹介しています。

「藩祖伊達政宗公瑞鳳殿ボランテイアの会」を取材したいと 担当の横山寛記者から電話を頂いておりました。

郷土と歴史を愛する巷の老人の間で 好評の図書は、
「せんだい れきしの窓」仙台市博物館市史編纂室長 菅野正道著 
「祈りの街 仙台三十三観音を尋ねる」河北新報 横山寛著
の2冊です。

「河北新報の横山です」に 「観音様の?」 「ハイ」 一発了解。
10時 瑞鳳殿売店で Uさん NMさん と 3人で。

名刺交換 氏名と読みを確認。
生年(年齢)、ガイドを志した動機・楽しみ、活動状況、震災時の対応等を取材され、瑞鳳殿を背景に顔写真の撮影。

横山寛記者にも本殿前に立って頂き 撮影しました。最高に撮れましたが 本頁に掲載の了解を頂くのを失念。残念 掲載できません。

3人から同時取材し 共通部と個人の個性 どの様に 書き分けるのか楽しみです。
3月29・30・31日に掲載されるそうです。ぜひ 購入 ご覧ください。



2 月 28 日 (火)  



臥龍梅 3

17日日誌の続きです。

5ケ所 6本
1.仙台市西公園に。
2.大崎市岩出山町字大学町に。
3.宇和島市・天赦園に。
4.宇和島市・市庁舎前に 2本。 
5.宇和島市・龍華山等覺寺 秀宗公墓前に。

今 1本 判明しました。
若林区1本杉町聖ウルスラ学院.に。

6ケ所 7本 になりました。

ここは、14代伊達宗基公が買収し、15代邦宗公が 伊達伯爵邸を建てた所です。
尚、
1908(明治41)年皇太子殿下が寄られ、松を手植えされました。
1947(昭和22)年天皇陛下が1夜を過ごされました。 

大正・昭和 天皇陛下が 政宗公由来の臥龍梅ご覧になったか、お言葉の記録は?


本項は、伊達家の秘話 伊達泰宗・白石宗靖 著 によりました。
昨日の項は、要説宮城の郷土誌 仙台市民図書館編、杜の都の名木・古木 仙台市建設局編 によりました。



2 月 27 日 (月)  



臥龍梅 2

17日日誌の続きです。

臥龍梅に関わる出来事は、
文禄2(1593)年9月18日 名護屋に、政宗公は半島から帰還されました。
慶長6(1601)年 仙臺城を築城されました。
慶長14(1609)年3月26日 瑞巖寺精舎上棟祝に 紅白の梅を手植えされました。
寛永5(1628)年11月16日 若林城に入城されました。

さて、宇和島の天赦園の臥龍梅の由来は、次の様に表示されています。

政宗公が岩出山城の居城した時代(1591−1601年)秀吉の命により文禄の役に出陣した際、朝鮮の風土でたくましく伸びた枝が地面に接して根を張り、その姿が龍に似ているので、その稚苗を持つ帰り植栽され「臥龍梅」と名付けられました。
 その後、仙台城に移され今日まで幾星霜の樹齢を重ね大樹となり、昭和12年国の天然記念物の指定を受けました。
 この臥龍梅は仙台市洋種園技術者の一員として、保護対策に活躍された岩出山町出身の宇和野三男氏(仙台市泉区)の実家宇和野輿一氏(岩出山町字大学町27)で20数年育てたもので、現在瑞鳳殿に植栽されている臥龍梅と兄弟木です。
  宇和島市 岩出山町
 両市の歴史姉妹都市締結に伴い平成11年11月吉日交流事業として記念のため植樹


さて、政宗公が 臥龍梅を どの様な方法で 何種類 如何程 持ち帰ったか の記録はありません。
考えられる方法は
1.実 で持ち帰った。政宗公は5月から9月迄 5ケ月の滞在ですから 十分 採実出来ました。持つ帰りが 容易です。
2.稚苗 で持ち帰った。 実生です。採取と輸送途中の水管理が大変では。
3.枝 で持ち帰った。 輸送途中の水管理が大変では。
宇和島の天赦園は、「2. 稚苗」説です。

何種類は、最小限 2種類 瑞巖寺精舎上棟祝に 紅白の梅を手植された から。

如何程は、3本に限られないのでは。
宇和島の天赦園の臥龍梅の原木 親木の岩出山町字大学町は、山城である岩出山城の麓 至近距離にあります。ここが育苗畑であったのでは。
仙臺城に 移植された際 何本か残したのが 天赦園の臥龍梅の原木では。

瑞鳳殿の木の 親は 若林城址 天然記念物指定の木と 理解していましたが、天赦園の由来に従えば、岩出山町になりますが??
若林城址は 宮城刑務所です。余人は立ち入り困難です。分植できたか??


巷説に 「若林城址の木は 枯れた事があり 接ぎ木をした。で、純潔ではなく 杏の血が入っている」があります。真偽の程は不明です。

今般 仲間のSさんから 満咲も写真を頂きました。手元資料として持参します。お声かけください。

仙台西公園の臥龍梅は 1875(明治8)年に、若林城址と仙臺城址から分植されたもので、同年3月 山家豊三郎が「移松梅記」なる碑文を誌した。
尚、山家豊三郎は伊達家家臣にして 戊辰の役にて禄を失った者救済に、その屋敷に数十戸を建て賃貸をする、今日の東一番丁商店街の基礎を築いた人です。西公園設置に幹事を務めています。

仙台市の保存木に指定されており、戦災復興都市計画事業で現在地に移植されました。
推定樹齢は200年となっています。9代周宗の代に植えられた事になります???
若林城址と仙臺城址から分植されたもの 接ぎ木で1本にする技術  1875(明治8)年に有り、実施したでしょうか???


疑問が疑問を 呼びました。



2 月 26 日 (日)  



車道以外は 真っ白い雪原。
「昨日は 大変だった。重い雪が 休みなく降り続き 終日 雪との格闘であった」と 整美担当のSさん ポソリ。
(整美は整備の転換誤りではありません。財・瑞鳳殿の公式職制名です)

朝1番。バスガイドが案内の1行 20人。
ガイド嬢 「アツ! ボラガイドさんが居る。助かった。御客様 歴史に詳しいの。助かった。ガイドして!」

「御客様は 北海道富良野から4日前に来仙 津波被災地を回り激励し 昨日 平泉を参拝、自動車道が閉鎖になり 4時間要して 秋保温泉に。瑞鳳殿参拝 期待し 車中賑やかであったの。ガイドさん居て よかった」

秋保温泉に宿泊されたのでは、「ホテルから見えた 石切場跡 あの秋保石で 政宗公の墓室が作られています」等 付加しました。

「定期観光に 乗車していましたが こんなに 詳しく 楽いく ガイドはしませんでした。勉強になりました」
高齢者褒め殺し 人材活用の達人です。
M社の定期観光が運行していた時代 ガイド嬢の何人かとオトモダチになりましたが、今日のガイド嬢はその1世代前の方とお見受けしました。


昨日は、大雪で 交通機関が乱れました。その悪条件の中 大学二次試験 受験生の保護者が合格祈願に見えた と昨日担当した仲間kさん
から 聞いておりました。

「一人ですけど?」
御依頼の御客様 静岡から との事。地元新聞 読者投稿欄は 静岡から被災支援の投稿が 毎日数あります。で「御客様 被災支援の方ですか?」に、 「イエ 受験の付添です。いつも 横に居る人が 歴史好きで 門前の小僧・・・・・になり 史跡に興味があり 観光兼ね 合格祈願に」

「仙台は 被災の影響で 賃借物件 不足している と聞いて居ます」と 合格後の対応についての情報を。4月に親子共々の再会を約しました。


頭は丸刈り(頭髪無)、作務衣に下駄履き、手に大玉の数珠。「広島から被災見舞いに来ました。教えてください」
「御客様は 僧籍にありますか?」 「イヤ 広島の大工です」

「寺の門は 山門ですが ここは 寺ではなく御廟です。涅槃門です」  ここまでは 通常の通りのガイド。
門前に進むと 「これは可笑しい。下地が金箔で唐草模様の虹梁は ありえない」 涅槃門外妻の牡丹に唐獅子の彫刻を見て「これは駄目だ 永平寺の透かし彫が本物だ」

「ここは1945年戦災で焼失し、1979年再建したものです。復元ではありません。創建当時 国宝時代の写真と 突合するに 相違点 数あります」

国宝時代の写真に 平面図を お見せしました。納得した様ですが 再建と復元を 混同・勘違い したとは 啖呵の手前 認めません。
永平寺のある富山県の生んだ 彫刻家 宮窪繁に、また 林鳳雲の作品を 全面否定されては。 
宜しいです。
淡々と本殿までガイドしました。しかし 御木像の写真を お見せしません。
何やら アカトンボ 馴染みの無い 経文を唱え お参りされました。

年に何人か 子分を引き連れ ボラガイドの一言ヒトコト ケチをつけ 自分の知識が高いと誇示する輩がいます。
この御客様は信条を持たれての 御発言。 
「皆様をご案内され またのお出でをお待ちしております」 に 「ウン 家内を連れた来る」 感仙殿地区に向かわれました。
何時の日 奥様とご一緒の再来が楽しみです。


震災以来 初めて 伊太利亜系?の夫妻2組。亜米利加系?お嬢さん2人 計6人の参拝がありました。

関西のテレビ局から 3月9-10日 カメラが入る 事前にと NMさんが取材を受けました。
春の兆しです。

横浜のお嬢さんから 梅は いつ咲くのか のお尋ねがありました。
臥龍梅は 蕾は堅いです。昨日の残雪が枝 枝に 乗り 花の様に見えます。後1ケ月でしょうか?



2 月 25 日 (土)  



モッソ  モッソと夜明けから 降雪です。10時頃から 自動車道や空港の閉鎖が伝えられました。

仙臺藩志會主催「伊達学塾」。
城下は 積雪 今季最大 20cm近い積雪で 道路はジャブ ジャブです。ゴム長が天下無敵一番。
講師が よいのか。悪天候・悪路に関わらず 100人満席。

演題・講師は、
1.二の森時代の伊達家墓所  土生慶子
2.仙台藩首席但木土佐の生涯 榎戸通夫

伊達家二の森については、4代綱村公正室仙姫の菩提寺満壽寺・御霊屋「静寂殿」を アカトンボ なりに 調べたことがあり、その際 合わせて調べており 真に 興味津々 でした。
今 1度 整理します。

但木土佐の生涯。戊辰の役以後 宮城県発足後 県勢が振るわなかった一因に 但木土佐等の優秀な人材を失った事にあると 聞いておりこれも 真に 興味津々の内容でした。

今 1度 整理します。



2 月 20 日 (月)  



冬季 読書感想文 ???

1世代前? 政宗公は どの様に 描かれていたか?
市の図書館から 次ぎの5冊借りました。

0.「郷土の歴史 政宗公生誕400年記念」 仙台市産業局 編 1967年発行 
A.「虚説実説伊達政宗」河北新報編・1977年発行 
B.「実録米沢太閤記 伊達政宗の生涯」田宮友亀雄著・1982年発行
C.「真説 伊達政宗 独眼龍の実像に迫る」 鈴木双龍著 1987年発行
D.「黄金のロザリオ 伊達政宗の見果てぬ夢」鈴木由紀子著 2009年発行

0.の構成は、
ア.伊達政宗公年譜 伊達氏歴代藩主名
イ.今に生きる政宗 朝日新聞宮城版所載
ウ.伊達藩物語   民友新聞宮城版所載
エ.東一番丁物語  河北新報所載

イ.に「政宗の墓の周辺は荒廃し、粗末な墓標が1本建っているだけ」の記事。
1966年が生誕400年です。これで 瑞鳳殿再建の機運が出ました。
ウ.に「葬儀は23日、覺範寺で営まれ秀宗、忠宗をはじめ・・・参列した」の記事。
 忠宗公は 江戸に滞在しており 葬儀には参列していません。「覺範寺で営まれ」は不正確な表現です。

今から45年前の本です。朝日・民友の両新聞 長期連載です。重箱の隅を穿りましたが、全体として大変よく書かれています。真の執筆者はどなたでしょうか?
手元に置きたいと思いましたが、この本 「日本の古本屋」等 古本屋市場に出ていません。

Aには、貴重な写真があり、参考になりました。

Bに、「慶長5年12月24日政宗は、室町から戦国時代にかけてこの地方を支配した国分氏の旧城である千代城にはいり、ここを伊達家の居城と決めて縄張りを行った」の記述がある。
 慶長5年12月24日に縄張りを行ったが、居を移したのは、慶長6年4月14日で、其れまでは北目城でした。千代城は廃城になっていました。記述が飛躍しているな の感想。

Cに、慶長19(1614)年 48歳の政宗公が「18000人の老兵を引き連れて」の記述がある。何故 老兵 なのか? 通常は 精鋭 と記載する。老兵と精鋭では 転換誤りとは言えない。作者の意図はなにか?

Dに、五郎八姫は 忠輝の子を身もごり、箱根の湯治場で出産 それが 天麟院の二世黄河幽清和尚である。
 江戸から箱根の湯治場に ひっそりと移動出来たでしょうか。現代の感覚で描かれています。
 五郎八姫 出産説は 初めて聞く話。五郎八姫 研究の土生先生に確かめなくては。

B,C,Dは 小説ですから めくじら 立てるべきではないでしょう。目に留まったところ。
山形の人は宮城の人より 政宗公を好きな割合が高いのでは?
作者 版元 何れも 山形・米沢等です。




2 月 19 日 (日)  



雨水

暦では、雨水。立春から15日目、雪が雨に変わり日ごとに春らしくなる日と言われています。が、今朝も積雪、日中は凍結。依然として寒気厳しいです。

御客様は 岩見沢市と札幌市からと北海道から続々。札幌市からの方 札幌から車で来たそうです。厳寒・積雪の季節に偉いものです。

四国からのオジサン 若者2人を連れて来ました。ガイド仲間のHNさん ガイドは如何ですか?に、
宇和島の殿様の始まりは 政宗公の 長男だよネ
忠臣にヤンベと申す者がいた。殿様の上意打ちに見舞われた。ヤンベ神社がありお祭りは盛大です。
( お客様 それ和霊神社と申します。確かに 祭神は 山家清兵衛公頼です。仙台にも和霊神社 あります)聞こえません。
{夕日と拳銃} 満州馬賊の頭目に なった 伊達順之助は 宇和島伊達家の一人。ガイドさん 知っている。
・・・・・滔々と捲くしたて 「わかっているから」と 涅槃門の彫刻を見ずに 登って行きました。

数分後 拝殿目石段で 交差しました。早々に参拝され 御帰りです。「ドウモ」と丁重に挨拶されました。
宇和島伊達家に詳しいのには 一目おきますが、連れの若者に 政宗公が現在も休まれている事、桃山様式 透かし彫 等の美的見どころを説明されたのか ・・・・・

大阪・宇都宮・東京・仙台等からのお客様 連続。 拝殿前石段からの 折り返しもありました。

宇都宮からのお嬢さん2人。歴女ではなく、ループルバス 多数の乗客が降りるので それではと 登ってきたのが瑞鳳殿。ガイドが居たので 依頼したまで。
仙臺も政宗公も 知識は 皆無であったらしい。ガイドを聞いて 仙台の町と政宗公の関わり、そして政宗公のお墓と理解したらしい。「チョット 勉強してくれば ヨカッタ ネ」と 小声で話あっていました。
予備知識があれば 無いより 益すです。でも 知識皆無でも 政宗公のご生涯と桃山文化の美 の一端に触れ、楽しんで頂ければ それで結構です。その為のボラガイドです。

5月24日(木)9時30分 政宗公法要にぜひ とお誘いしましたが。

大阪も 梅の開花は 未だ との事でした。今年は 遅れているのでしょうか?

先週 「参道途中の木 柳か 櫻か 枝が下がっているが?」と 問われ 「柳は ありませんが」 に 「では 櫻か でも違うな」と言われました。
お客様は どの木を指して 問われているのでしょう? 過日 松と杉の 区別つかないお客様おりましたが、このお客様は 素養があって 質問された様子でした。

帰路、東参道から 西参道と 通常と逆回りで 観察しましたが わかりませんでした。
瑞鳳殿叢書 「経ケ峯伊達家廟域の散策」7頁に「経ケ峯の動植物」に樹層別図が掲載されて います。が わかりません。
今 暫くの宿題です。



2 月 17 日 (金)  



臥龍梅 瑞鳳殿の兄弟

瑞鳳殿の臥龍梅は 若林城の臥龍梅の子供です。
親は、1942年に国の天然記念物に指定され、更に 1975年6月5日仙台市から保存樹木に指定されています。
その概要は、「樹高/8.0m 幹周/1.3m 枝張/東西17m 南北22m 花は白色一重の大輪。香は高く、実は大きい」と記録されています。

「花は白色一重の大輪」と記載されています。松島・瑞巖寺の梅花とは 異なっています。

若林城の臥龍梅の子供 瑞鳳殿の兄弟の存在です。アカトンボの知る限り
1.仙台市西公園に。
2.大崎市岩出山町字大学町に。
3.宇和島市・天赦園に。1999年11月移植。
4.宇和島市・市庁舎前に 2本。 1975年11月3日 仙台市贈呈。
5.宇和島市・龍華山等覺寺 秀宗公墓前に。 1987年10月23日 日専連仙台会歴史散策の旅 仙台市民墓参植樹。

以上の6本です。
兄弟は まだ多数いるでしょう。ご存知の方 教えてください。

本項は、「西公園にも」と 匿名の愛読者のお知らせに啓発され 記載しました。匿名様に感謝。



2 月 16 日 (木)  



臥龍梅

奥州仙臺で 梅の開花は3月下旬ですから、今暫くの「おまたせ」
先週12日に「この木は、政宗公が朝鮮から持ち帰った梅の木です。花弁が24枚ある 真に珍しい梅の木です。・・・・・・・」と プロが 数人のお客様にガイドしていました。
前後 完全に聞きたかったのですが この部分のみ鮮明に聞こえました。

瑞鳳殿でガイドをして12年。花がなかなか咲かない・実の生らない 梅に木とガイドしていました。
花弁が24枚とは 不覚にも 知りませんでした。

瑞鳳殿の梅の親・先祖である 若林城内の臥龍梅の写真を入手しました。余人が立ち入れない場所にあり、花が咲いています。誠に貴重な写真(虚説 実説 伊達政宗 1987年河北新報 刊)です。
他弁ながら24弁には 見えません。

慶長14(1609)年瑞巖寺上棟の祝に、文禄の役の際 朝鮮から持ち帰った紅白の梅の木を植えさせました。八重咲で「臥龍8房」の異称がある と 松島観光協会のHPで 説明しています。

花弁の8弁は 確かの様です。
瑞巖寺の梅は、本堂大修理の工事区域内にあり あと10年近く見られません。
後1ケ月。瑞鳳殿の梅の木 開花が楽しみです。


臥龍梅の名前の由来
その姿が「臥せた龍」に似ているから「臥龍梅」と名付けられた と口伝され、松島観光協会のHPでも その様に説明しています。その様にガイドしています。

「独眼龍政宗」に 由来するのか?  政宗公は臥したままの龍に 終わったのか? の質問を頂いた事はありません。


臥龍梅の存在
「臥龍梅」は 若林城内と瑞巖寺にのみ存在する と思っていました。「井の蛙」と申します。

HPを検索しましたら http://www.garyubai.com/garyuubai.htm に 次項があり 再度「井の蛙」を痛感しました。

「臥龍」という言葉は古く、その出典は中国四大奇書のひとつに数えられる長編歴史小説、「三国志演義」であります。この小説は、魏、蜀、呉、三国対立時代の中国を背景に英雄豪傑の活躍と運命を描いたもので、その書中、「劉備玄徳 りゅうびげんとく」が在野の賢人「諸葛孔明 しょかつこうめい」を三顧の礼をもって自軍に迎え入れる下りに「臥龍・鳳雛 がりょう・ほうすう」という言葉が出てまいります。
「臥龍」は寝ている龍、まだ雲雨を得ないため天にのぼれず、地にひそみ隠れている龍のことで、転じて、まだ志をのばす機会を得ないで民間にひそみ隠れている英雄、「諸葛孔明」の例えであります。ちなみに「鳳雛」とは鳳凰のひなで、将来、大人物になる素質を備えた少年の例えであります。

さて、処はわが国に移り、時代は下って戦国時代末期のことです。後に徳川幕府を開設した徳川家康は、幼少の一時期、今川家の人質として当社の近隣の「清見寺 せいけんじ」という禅寺に暮らしていました。そしてその無聊の徒然に、寺の庭の一隅に一枝の梅を接木したと伝えられています。「諸葛孔明」の故事どおり、「清見寺」にあった頃の家康は地にひそみ隠れておりましたが、その後、龍が天にのぼるがごとく天下人となりました。家康の植えた梅は三百年の月日を経て大木に成長し、今も、毎年春三月には凛とした風情で花を咲かせております。さながら龍が臥したような見事な枝振りもあいまってか、この梅は何時の頃からか「臥龍梅」と呼ばれるようになりました。




2 月 14 日 (火)  



仙台市観光課の迅速な対応に感謝。

戊辰の役 殉難者 弔魂碑は、130余年経過し 損傷甚だしい状態で 瑞鳳殿参拝者の目に晒していました。
2011年7月 仙台市当局のご配慮と東北大学金属研究所のご協力で 立派に 補修されました。

碑前に 碑の由来と補修工事経過を記載した案内板が立てられ、観光客に好評ではあります。惜しむらくは、台座正面の銘板の文字は、色合いと視角から 直接判読困難です。

2011年10月10日慰霊祭の際 仙台市担当役席に「大変好評ではあります。が、銘板の文字、従前の案内板には記載されていました。今回は 意訳された内容のみになりました。銘板の文字 直接 読める様に ご検討頂けませんか。」と 陳情致しました。

2012年2月始、銘板実物A3版代が 案内板の一番目立 個所に設置されました。
瑞鳳殿参拝者・観光客・殉難者末裔の皆様から 更なる好評を 頂けるでしょう。立ち寄りが増えました。

仙台市観光課と(財)瑞鳳殿の迅速な対応に感謝します。


銘板
戊辰之乱仙臺市民為本
藩致命四方者無慮一千
人矣今建一碑於祖廟之
側以弔其魂冥々之中庶
乎其有所慰焉
 明治十年十月
  従五位伊達宗基建 



2 月 13 日 (月)  



板碑

板碑とは、中世の供養塔の1種で、仙台周辺で600基以上存在と言われています。
経ケ峯には 5基存在するとされています。アカトンボは4基確認しています。

内容は、
1号碑
場所  感仙殿前
状況  一部破損
石材  井内石
形状  高190.6cm 幅75.2cm 厚10.0cm
彫   薬研彫
文字  右造立志者為過去慈母  判読不明除 下旬候 施主敬白 証大井(菩提)無差平等利益故也

2号碑
場所  感仙殿前
状況  一部破損
石材  井内石
形状  高203.2cm 幅45.0cm 厚11.0cm
彫   薬研彫
文字 右 以下文字 摩耗解読不可

3号碑
場所  妙雲廟界  アカトンボ未確認
状況  大部分破損 3分割
石材  井内石
形状  高223.4cm 幅44.0cm 厚11.0cm
彫   薬研彫
文字  記載略

4号碑
場所  資料館内
年代  元亨3(1323)年2月
状況  一部破損
石材  井内石
形状  高212.4cm 幅70.4cm 厚7.5cm
彫   薬研彫
文字  コンカラ
    十万三世仏 一切諸菩薩 八方諸聖教 皆是阿弥仏(陀)
    右志者相当悲母十三年 遠忌所令造立也仍為過去 元亨参年癸?二月彼岸第一番 聖霊出離生死証大井(菩提) 乃至法界 平等利益也 施主敬白

5場所  資料館内
年代  元亨3(1323)年4月12日
状況  一部破損
石材  井内石
形状  高232.2m 幅6.4cm 厚12..0cm
彫   薬研彫
文字  右 以下不詳
    善根自元應元年至于亨三年首尾  元亨三年大才巳夷卯月十二日衆徒敬白 四年奉読誦一乗妙典井石婆二本以此追善自他法界平等利益故也



 井内石の産地は石巻地方です。海運・水運に民を動員出来る 権力・資金を持った者がこの当時 この地に居たわけです。それは誰か?また、青葉山・経ケ峯は特別な聖地と見られたか?

この5基の板碑は感仙殿(忠宗公御霊屋)の発掘調査の際、墓室の蓋及び周囲の土留石に使用されていました。

 この板碑をガイドした際 驚嘆されますのは、追善供養の板碑を 後世の領主の墓室の材料に使用した伊達家家臣の信仰感覚です。現代の感覚を超越しています。

これまで 仙台市教育委員会初代文化財課長として感仙殿等の発掘を勤めた 早坂春一先生の現地直々の講話を基本に ガイドしていました。
当事者の話が一番と思います。が 口伝は信用出来ない 紙でなければと洩す向きがいました。

 2012年1月26日「郷土を愛する歴史の会」で 菅野先生から名取・熊野山の板碑が語られました。2012年2月に  若い男女別々に 感仙殿前、資料館内で 尋ねられました。

 これに啓発され、仙台市史特別編{板碑}と「市史せんだい」8号で 整理しました一部です。



2 月 12 日 (日)  



鹿児島からの 高齢の御兄弟。
参道途中の「鹿児島7士の墓」の案内板を御覧になって 参拝に見えた。「なぜ あるのか? 政宗公との関係は?」の疑問を投げかけてきました。
まずは、瑞鳳殿をガイドしました。
西南の役 国事犯研究第一任者である ガイド仲間のSさんが 見えたら 引継 しようと思っていましたが、「鹿児島行きの飛行機の時間ですー」と そそくさと帰られました。

大阪堺からの4老女さま。
72.74.76.78歳 賑やかです。バラバラに勝手に話しています。 「かしまし娘ではなく かしまし○○ですー」
本殿前で 「政宗公がここの御休みになっています」と 御木像の写真を お見せしようとした 途端 「今日 これから 仙台城と多賀城と松島を 昼までに 見なくてはなりません これで」
ガイドは 突然 切られました。11時です。後1時間で 仙台城を見学し 仙台駅には戻られません。
統率者の一声に 3人 は抵抗する事なく  資料館も見ずに トボトボと。
寶の山の前まで来ていて  御気の毒。


寒さ厳しいです。
「仙台は 日中 雪が降るのですネ 面白いですネ」  「ハー」 何処から お出でになったお嬢さん でしょう。
雪や雨は 昼夜 何時でも 降るのは 世界共通では?

龍の吐水で 龍は 立派な白髭を蓄えました。若いのか 吐水が飛びました。御客様の足元を凍らせました。鏡の様です。気が付かないと滑ります。整美員と二人で 凍みを掻いて 融雪剤を散布しました。

完全な真冬日。最高気温 マイナス3度 最低気温マイナス10度。今季の記録では?
ガイド終了後 温かい紅茶をご馳走になりました。感謝。五臓六腑 ミルミル解氷。

帰路 用務で 青葉山隧道を抜け  西(作並温泉)の方向 に走りましたら 地吹雪 でした。



2 月 11 日 (土)  



建国記念の日 祝日です。

午後タイム(12:30-15:30)で、ガイドと新人研修。

新人が到着前、仙台と静岡のお嬢様をガイド。
久能山東照宮を静岡のお嬢様は よく御存じ。「表参道1159段の石段を登らずにケ^ブルで参拝しました」の語りに ニッコリ。仙台のお嬢様「あれー 私未だなのに」の表情。
涅槃門を丁寧にガイド。波長は合いましたが、新人研修約束の時間。互いに断腸の思いでガイド終了。

新人に、9日公開された U副会長作成 ガイドテキスト(総集版)を渡し ガイドの基本内容を説明。
テキストを基準に どの様にガイドしているかを仙台・泉区からの高齢夫妻と埼玉からのお嬢様2人の 2組のガイド振りを観察して貰いました。

新人 表参道 62段は無いとの事。一大事。下から 数えて頂きました。始点と終点を明確にしないと 過不足が生じます。納得頂いた所で 控室で 話の続き。

本日 寒気厳しいです。来賓を案内されたK学芸員 寒さに震えたいました。通常の来賓は 短時間で終わりますが、本日の来賓は 聞く気が旺盛だ 中途で御終いに出来なかったのか?


「四ツ谷の水を街並に 市民の会」の打合があり 明日を約して 15時30分下山。



2 月 10 日 (金)  



青銅製大砲 と 戊辰の役 弔魂碑(経ケ峯所在)

戊辰の役
 戊辰の役とは、慶応4年/明治元(1968)年 から 明治2(1869)に徳川幕府大政奉還を経て明治政を樹立した薩摩・長州らを中核とした新政府軍と、旧徳川幕府勢力および伊達家等の奥羽越列藩同盟が戦った内戦で、慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来しています。

 嘉永6(1853)年6月9日米国東インド艦隊ペリー提督は久里浜に上陸しました。
同年8月 幕府は 品川に台場を築き、湯島に鋳砲場を設置しました。
以後、開国すべきか、否か、日本国内は血を流す騒然たる状態になりました。

弔魂碑
 明治10(1877)年10月、時の利無く敗れた伊達家家臣、幕臣、応援の米澤上杉家家臣1260名の霊を弔うため、伊達宗基(ムネモト 30世14代)と旧家臣の出資で建立された。
2011年に仙台市ご当局のご配慮により、立派に修復されました。

大砲
 慶応4(1868)年5月19日 榎本武揚率いる旧幕府海軍の軍艦8艘は、江戸湾から函館に向かいました。激戦中の仙台藩等の奥羽越列藩同盟を支援する為に、牡鹿郡萩の浜に寄港、艦載の大砲を石巻・日和山に据え付ける計画でしたが、重量があり、山下・門脇海岸に放置されました。
 明治18・9(1885・6)年頃「戊辰の役」を偲ぶ品として、時の郡長黒川剛(大童信大夫)、細谷直英(十大夫)等相計り、「戊辰の役弔魂碑」脇に安置されました。
 大砲は、阿蘭陀(オランダ)製、砲長4尺7寸、内口径6寸3分、外口径回り3尺、砲太回り4尺、砲身上部にNO1388,砲控手にNO71829の刻がある。(伊達邦宗著 伊達家史叢談 巻之13掲載)

 戊辰の役を偲ぶ品としての大砲は現在 所在不明です。
大東亜戦争末期1945年頃 鉄資源としての金属回収運動が行われ、仙臺城本丸の政宗公騎馬像も回収されました。この時に同様に 回収されたと推定されます。政宗公騎馬像は、愛馬と下半身を失いながら帰還され、仙臺城三の丸(博物館中庭)に安置されました。
 
青銅製大砲
 嘉永6(1853)年ペリー艦隊が久里浜に上陸した事に驚いた徳川幕府は、品川沖に台場を築き、湯島に大砲鋳造所を設置 大砲を鋳造しました。金属博物館所蔵の青銅大砲は、この時に鋳造された全長210cm、口径19.5cm、重量800kg、鋳銅砲で、「用明宿壮」「嘉永癸丑年復月吉」「征夷府儒臣佐藤坦銘」「加州藩河三夷隷」と刻銘されています。

 製造後 現在に至る履歴は不詳であります。1853年に鋳造され、動乱の幕末から現代まで159年間 日本の姿を見てきた 貴重な歴史遺産であります。

 1979年 金属博物館所蔵になりました。金属博物館は2003年6月に日本金属学会から東北大学に寄贈され、現在は東北大学総合学術博物館所蔵となりました。
 金属博物館は公益財団法人みやぎ産業振興機構あおばインキュペーションスクエア構内(青葉区荒巻字青葉468)に所在し、大砲は野外展示されていました。
 博物館建物は3.11地震で被災し、解体される事になりました。野外展示されています青銅製大砲は 何処に定まるかの懸念が出てきました。

陳情
 159年間 日本の姿を見てきた 貴重な歴史遺産であります青銅製大砲が、もし屑鉄扱いで廃棄されれば、国家的損失であり、仙台市民として恥じであります。

 2月6日 仙台市観光交流課に 仙台藩志会常務理事のY事業部長・S戊辰の役担当と共に
「経ケ峯の本地区は 戊辰の役の殉難者末裔のよりどころであり、また、仙臺藩祖伊達政宗公御霊屋瑞鳳殿は、仙台最大の観光地であり、年間参拝者は2009年215千人、2010年202千人を記録しております。
瑞鳳殿を参拝・観光された方々は、弔魂碑の前を経由 感仙殿地区に向かわれます。
2012年4-6月プレ仙台・宮城デステイネーシュンキャンペーン「笑顔咲くたび 伊達な旅」。2013年4-6月には 本格的に観光キャーペンが 始まります。
ここに青銅製大砲を安置すれば 瑞鳳殿プラスの観光の目玉になり、又、青少年の郷土を愛する歴史教育の資料としても 有効に資すると思慮致します。よろしくご配慮をお願い致します」と陳情しました。

結果
 「東北大学から大学の費用で東北大学総合学術博物館構内に運び展示する の回答を得ました」と仙台市観光交流課担当役席から回答がありました。
懸念解消 1件落着 メデタシ。


大砲について戊辰の役研究者木村様から ご教示頂きました。感謝です。 



2 月 9 日 (木)  



今朝も雪です。

「藩祖伊達政宗公瑞鳳殿ボランテイアの会」の会合 2本。

1.(財)瑞鳳殿の役職員とボランテイアとの打合会。
常務理事・事務局長、次長は、5月に着任しました。3.11被災で 御多忙のため 会員一同 御挨拶する機会がありませんでした。
ようよう 本日 会員中10人 ご挨拶致しました。

常務理事から 要旨 次のお言葉を頂きました。

3.11地震被害額は1億円に達する。復旧工事は遅遅ながら進めています。
参拝者は激減しました。
ガイドの皆様の活躍に感謝しております。


2..ボランテイガイドの打合会。
仙台観光コンベンション協会から 「伊達な旅」4-6月の催事に 瑞鳳殿でのガイドを 我々の会で担当して欲しいの要請があった。
対応について協議。これまでの実績を認めての下命であり、積極的に対応することで衆議一決。
案として
1.通常ガイド
土・日・祝の9時30分から15時まで 涅槃門前で 待機 一人から 30分で 涅槃門から本殿まで ガイド。
2.特別ガイド
4/29.30.5/3.4.5の祝日5日間 瑞鳳寺山門前から 瑞鳳殿・感仙殿・善應殿・妙雲廟界・公子公女廟まで 一人から 2時間でガイドする。

提案が 如何に採用なるか。
何れにしても 参拝のお客様に「ガイドされ 楽しく参拝出来た」 の お声頂ける様に 会員一同努めます。



2 月 5 日 (日)  



夜来の降雪と凍結で 排雪と融雪で 出発が 定刻1時間遅れ。
城下の日陰は 凍結している所があり、スリップ注意 恐々と。

仙台市内のボラガイド仲間で 声が大きい事で有名な先輩が 10数人引き連れ 瑞鳳殿参拝に見えました。
久々の対面に握手し 互いの健闘を祝しました。
事務所に戻ったら「ボラガイドさんは 皆 声が大きいのね!」
有名な先輩の声 林 樹間を抜けるでけでなく 事務所にも響いた印です。

アイチから 震災復興支援で来仙 本日は休みなので観光に。
この方 決して ナゴヤとは 言わない。トヨタ・トヨカワ・オカザキ とも言わない。構わないが 大都会に対抗心があるのか?
写真が 趣味との事、アカトンボ 推薦個所を 示しながら ガイド。
涅槃門から本殿まで 通しでの ガイドは この方のみ。

千葉からのペア 政宗公画像前のみ、新潟からのお嬢さん2人は 本殿前から涅槃門の彫刻迄、東京の若き青年は 板碑のみ と断片的ガイド。

此処しばらく続く 降雪・寒波の影響か 参拝者の出足は、少ないと感じます。


2009年に215千人 2010年に202千人の参拝者。昨2011年は ???千人。 今年2012年 200千人の大台に回復するか?



2 月 4 日 (土)  



濡れ雪。

「宿場の風景 七北田と根白石」と題して,第23回仙台市史講座が 陸羽街道・七北田に拘り、旧街道添いの、地下鉄駅から12分の市民センターで開催されました。
現在では 交通至便ではない会場に 悪天候の中  200余人が 参加しました。

「みちのく歴史街道研究会」(現在解散)の仲間、仙台市史講座なら参加する人、歴史講座なら他町迄出かける人、等々 友人・知人・顔見知りが 多数でした。

七北田宿の町立て(宿場の開設)については、仙台市史・近世1に掲載されています。読めば 理解出来る筈です。しかし、執筆に関与した本人から、絵図・古写真を掲示し2時間の講義。これは理解が深まります。

旧街道添いの会場です。講義後 現場説明があれば 最高です。でも 200人を 霙雪の中 は不可能です。
配布の絵図等を持参し、橋では無く、河原から 見れば 等 観測ポイントを 伝授されました。
条件の良い時 自己責任で観測しなさい のご配慮。ナカナカです。

街道研究会時代の仲間を誘い、地元精通者「七北田探検団」OBに 講師を依頼し,探索の機会を持ちたいものです。


根白石については、「高札場があるが宿とは認められていない。それは なぜか? 時間の都合か サラリ 流されました。 

仙臺城御裏林から 西舘に至る 俗称(五郎八姫街道)、そして 更に 芋沢・小角・根白石・朴沢を経由 宮床に至る 現457号線は仙臺城 落城の際の隠れ街道??と聞いていました。その際、 根白石は 1番目 最初の宿 となりますが。

宮床伊達家の御当主は、「仙臺城一旦緩急の際の砦。奥州街道から見えない宮床に 信頼できる者として 我が先祖が配された」と申されていました。

この様な事柄から 根白石・宮床については アカトンボは 興味津々です。
サラリ 流されました 残念が表情に出たのか、本日の講座の奉行 菅野市史編纂室長 「アカトンボさん 根白石と宮床 もっと聞きたかったでしょう。まだ 資料が十分で無いの、待って」と 見送りっで 多忙の中 声をかけて呉れました。感謝し 期待して います。



本日の講師は、「倉橋 真紀 仙台市史編纂室嘱託」と案内されていました。
出がけに 「講師は 男か? 女か? 年齢は? 前職は? 」が 話題になり、 市史編纂室に勤務し、七北田と根白石の宿場について 講義するからに、泉市時代に 泉市内の小学校の校長先生であった方。真紀は「マサノリ」では? の結論に。

講師紹介で 驚き。
「ミキ 」と読む 齢若き 美人で 歯切れの良い 聞き易い講義をされる 女性でした。
美人効果? 居眠りは アカトンボの前で隣町からの1人だけ。 

 



2 月 1 日 (水)  



瑞鳳殿ガイドしませんか

ガイド募集のチラシを 先月下旬から 「仙臺藩志会・伊達学」「郷土を愛する歴史の会」のほか ガイド仲間の団体で 御配りしています。
反応がありました。

午前に電話を頂き、午後 瑞鳳殿で概要を 境内一巡を ポイントを説明しました。
「日時等 割り当て 当番制のなのか?」の 質問。
「時間も 経費も 怪我も 全て 自己負担 マアー 自営業ですネ」

納得された様です。
この週末から 先輩ガイドの背中を 見ることになりました。

読者の皆様 ガイドしませんか。
zuihoden@zau.att.ne.jp にメール下さい。子細面談しましょう。





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