2012年11月の日誌
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11 月 29 日 (木)  



仙台・宮城デステイネーッションキャンペーン

2013年4月から6月迄開催されます。
我等 瑞鳳殿ガイドは 今年の実績を糧に 粉骨砕身 参加・協力する所存で 統括する仙台市(観光交流課・仙台観光コンベション協会)に、パンフレット・ホームページ掲載の資料を既に提出していります。

会員の資質向上と会員の増員を図る為の勉強会を 我々のみの開催では 内容的に力不足の面があり、共に開催を公益財団法人瑞鳳殿に お願いし 快諾を頂いております。
2013年元日発行の仙台市政だより(January 2013)号にて 参加者募集が公開されます。
多数の皆様の参加を期待しています。

本日 配布された仙台市政だより(December 2012)号のトップ記事は「仙台・宮城デステイネーッションキャンペーンの成功に向けて」と 2頁多色印刷です。
本記事に触発され 上記になりました。

市政だより 記事中に 東日本旅客鉄道株式会社が 仙台駅か瑞鳳殿まで 往復 7kmを3時間で回る 「駅からハイキング」を実施すべく、担当者が実査している記事・写真が掲載されています。

コースの時間配分は、仙台駅から瑞鳳殿迄 徒歩1時間 瑞鳳殿参拝1時間 瑞鳳殿から駅まで 徒歩1時間 の計3時間でしょうか?

瑞鳳殿での案内・ガイドは 駅からの案内人が そのまま担当されるのか、それとも 我ら 瑞鳳殿ボランテイアドの会か有料ガイド「ぐるーふ・よっこより」にタッチされるのか 定かではありません。

東日本旅客鉄道株式会社が 参加費を徴取しての催事であれば、無料ガイドの我ら瑞鳳殿ボランテイアドの会に 依頼は望めない でしょうね。



11 月 28 日 (水)  



快晴 天高く青空 
暴風雪で停電の北海道から 日本列島を南下する旅客機の航跡 真っ白い一筋 に輝いています。

「強風で小枝が落下します」の注意書が 境内に貼られていました。
昨日の 20m強風に対応したもの。杉の枝は 小枝のみならず大枝も落下します。これ程 連続 落下して 丸坊主 柱に為らないには 驚きです。


紅葉 今日も盛り 旬です。
太くて長いレンズに 三脚を背負った 一見 プロ風のオジサンが 5-6人 境内をウロチョロしていました。
本日の条件であれば 失敗・駄作は ないでしょう。


一般観光客は皆無に等しく 本格(通常)のガイドは ゼロ。 ナンダカンダ スポットガイドのみ。

個人タクシーのS様 妙齢のご婦人3人案内して来ました。2人 券売所前で 電話を。時計の針 グルグル回っても終わりません。
タクシー氏と会話。伊達家の家紋 よく御存じ無いです。伊達家・瑞鳳殿の知識 豊かでないように感じました。
「ガイドはボレンテイアか?」と尋ねますが 素人の老人にガイドを頼んでは 職業運転手の沽券に かかわると 思われたか 長電話の終わったご婦人3人を 涅槃門内に 案内していきました。

参道 追分で待機し 学童の動きを確認していた 泉區の某小学校教諭2人から、「伊達62万石の62万石の意味」を問われました。

昔 大人 1年間で食べる 米は 1石と言われました。容量です、現在は重量で計っています。何キロになるか 今 思い出せん。
62万石は 62万人を養える耕地のある土地を支配していることです。・・・・・・・
ヘーエー。

八乙女小学校学童3人。
入場券を手に 何が書かれているのか 不審な表情です。読めるのは「千代」だけ と素直な返事。

筆字は政宗公の直筆で、1600年に仙臺城を築城し、町を開いた時の 町が栄える様にと詠ったものです。に。
このグループは 他のグループ以上の発表出来ると ニコニコ。


八乙女・将監に木町通の小学校の学習グループは アカトンボ、NKさんから取材しました。自由闊達です。

教諭3人は 影 黒子役で 学童の安全を見守っていました。
アカトンボの孫 相模國で同様の学習の際、安全確認に母親が動員されたと聞きました。教諭も父兄の姿も 無い学校があります。
陸奥國は 悠に安全な地の証拠でしょうか?



11 月 25 日 (日)  



連休 3日目 温暖です。
昨日は 寒さに震えました。御客様は 続々 第2駐車場が開放され バス何台も入り 境内に雑踏を感じました。
本日は、最終日。朝早い 札幌・金沢の御客様の ゆっくりガイドから。

10時頃 御日様が射しました。境内入り口のモミジ 朱・黄・緑の3色 キラキラ輝いています。今期 最高の彩です。
「逆光ですが 枝木で遮り 下から見上げる位置で 撮影すれば 入賞狙える 写真が撮れるでしょう」 と1時間程アドバイス。
「撮れた」「撮れた」と 大喜びされますが ガイドの依頼はなく、 足早く 涅槃門を 潜ります。

思い思いの所で撮影をされて、午後には、帰路に着く、その前に 仙臺城見学しなけらばと 皆様急がれます。
そんなに 急がなくとも 予定された時間より 悠に短時間で仙臺城は見学できます。

旅行会社は 心得ています。有料ガイド依頼に 
「瑞鳳殿と仙臺城の見学を移動時間を含めて90分 次の予定があるので 遅着しても 終わり時刻は厳守、延長しない」があります。

観光地のお土産に 「○○に行って来ました」の銘柄品があります。アリバイ証明の土産です。
駆け足観光は 「仙台は瑞鳳殿と仙臺城に行って来ました」のアリバイ証明?

最期は千葉からのご婦人 おひとりで50分のガイド。
質問が厳しいです。
「なぜ 戦災にあったのか? 再建か復元か? 創建時の様子は? なぜ 拝殿・唐門等 創建時の姿で再建しないのか? 彩色は 創建当時と同じか?????の連続」
この様な 御客様は ありがたいです。 


瑞鳳殿学芸員の加藤先生から 23日日誌読みました。

瑞鳳殿参拝の記録として 天明8(1787)年に幕府巡見使に同行した 古川古松軒が記した「東遊雑記」巻の11 (東洋文庫版257頁)に
「瑞鳳寺は藩祖政宗卿の祠堂ありて、甚だ結構を盡しし美を盡せし寺いて」と記載されています。
又、ある大名か、その家臣か 奥羽地方の湯治に訪れ その際 参拝された の記録を読んだ記憶があります。 
と御教示、関係部のコピーをくだされました。


日光東照宮の庶民の参拝は、明暦元(1655)年の「日光山下知条条」に参拝者の扱い規定がある。それによれば 各藩の証明書を持参、予め申請してあった帳簿と照合、決められた宿坊に泊まり、参詣切手を受け、翌朝 衣服履物改めて堂引く者(案内人)に引率され参拝した。
この様に システム化されていませんでしたが、瑞鳳殿の参拝は 可能であったようです。
瑞鳳殿を庶民が参拝した 記録 心当り ありましたら 教えてください。
「東遊雑記」 読みます。


午後 仙台市博物館で開催されました「スペインの世界制覇に立ち向かった豊臣秀吉」と題する 東北大学平川新教授の講演を拝聴しました。

2012年は政宗公が 支倉常長を西班牙・羅馬に派遣(出航)して来年は400年目。

徳川家康政権における対外関係の展開を考える前に、前政権豊臣秀吉の文禄の役等について 国内の史料 立場以外 国外史料等 世界史の立場からの考察が必要であろと 詳細に説明をして下さいました。

歴史は 全天候型で考察すべき、日本の将来・外交の在り方を 暗に説いていると感じました。目から鱗です。
平川先生の数々の論文は 東北大学図書館のHPからダンロードできるとの事です。勉強します。 


講演は慶長遣欧使節400年行事関連であり 支倉常長から13代の御当主が出席されていました。


11月13日日誌に誤記(12代斎邦公が正)がありました。修正致しました。御指摘に感謝致し、勉強不足を反省致します。




11 月 23 日 (金)  



紅葉 黄色から 朱が盛りに。日々 変わります。

在仙 テレビ 2局 撮影に見えました。が、天候曇り 条件は不良です。アカトンボの腕では 快心作は無理です。
夕方 放映見ました。 流石です。センス抜群、鮮明 見事に 撮られていました。
明日から もみじ狩り の御客様 どっと 見えるのでは。



瑞鳳殿は、伊達家の時代 一般に開放されていない。家臣でも 中級以上でなければ参拝出来なかった と 思っていました。
それは、
1.藩祖の御霊屋である 特別性。
2.古地図に見ると、参道口(現ループルバス停付近)は 虎の口 となっており、石段登りの追分 と 瑞鳳殿62石段登り切った所に門があり、又、全体に柵が巡らされています。警備態勢が確立している様子。

からです。

「江戸時代後期には、観光名所となり 案内人がいて案内していた の記録があります」
と仙台市史編纂室長菅野先生から 聞かされ 本当かな 一瞬 信じられもせんでした。


仙台市博物館の特別展 (江戸の旅 たどる道・えがかれる風景) を 見学しました。
関連講座 「しろ・まち講座10「街道こぼればなし 名所・名物・旅案内」(2012年11月10日仙台市博物館開催) として 担当 坂田美咲学芸員の講演を拝聴しました。

講演内容そのものの 論文を発見しました。


標題 「旅日記が語る江戸時代の仙台  風土・名所・旅事情」

3.仙台地方の旅事情 に

ここでは、仙台城において旅人がどこを見物したのか、城下の見所に注目する。城下を訪れる場所として、大年寺・瑞鳳寺・仙台城近辺を巡るコースが挙げられる。
大年寺では藩主家の墓所を巡り、愛宕山を抜け瑞鳳寺に至る。
途中愛宕山からは「街坊皆当東千門萬家。隠見緑樹翆煙之間也」(東奥紀行 宝暦9{1579}年)と、屋敷林に覆われた城下町の風景が一望できた。

 瑞鳳寺では伊達政宗の廟所・瑞鳳殿や善應殿などを見学している。
特に、瑞鳳殿では政宗の像が双眼であることに触れた日記があり(松島日記 文政7{1824}年・読書余適 天保12{1842}年) 当時は日常的に公開されていたことがうかがえる。
また「浴陸奥温泉記」(文政10{1824}年)では大年寺と瑞鳳寺に「謝礼」としてそれぞれ20銭、72銭を支払っている。

と記載しています。


これについて、仙台市史編纂室長菅野正道先生は、

長町に 専門の案内人が居て 大年寺から鹿落坂を経由 瑞鳳寺・亀岡と案内し、国分丁泊まり が定型コースであったようだ。
また、秋田からの旅人が「こんなもので謝礼が高い」と記した 日誌を読んだ記憶がある。

「謝礼」の20銭、72銭 の記述は 史料確認の必要があるが、銭20文 銭72文 と同意味と推定します。

貨幣価値は 次の通りと見られる
江戸時代中期(およそ1700年代) 1文・・・30〜50円
江戸時代後期(1800年代)     1文・・・20〜30円
幕末                   1文・・・10〜20円

と 御教示下さいました。


「浴陸奥温泉記」(文政10{1824}年)の「謝礼」銭20文、銭72文は、400-600円から1440-2160円となり 現代感覚で500円から2000円でしょうか。妥当な額と思います。

あるお寺を お詣りした際、寺族様が「お布施は1円以上です」と叫んでいました。
お寺に差し上げる お金は 全て「お布施」で 金額は問題でなく 日本の貨幣の単位以上で あれば宜しい と申す 意味ですと 補足されていました。

「お布施」も「謝礼」も 包む人の裁量・気持ちに かかっていると思います。

秋田の人が「こんなもので高い」は、感覚の相違でしょう。
なお  「瑞鳳殿の拝観料は 高い でも ボラガイド込なら安い」と申す方もおります。


江戸時代 瑞鳳殿は 「既に観光地であり、案内人がいて、双眼の御木像を拝観した」は 驚愕。

ガイド内容の変更に 迫られます。



11 月 22 日 (木)  



期待は 外れる事もある。

瑞鳳殿でのガイド。御客様の反応が今一の場合があります。
原因はなにか? 
とやかく申したくなりますが、結論は 御客様の求めているものを 提供して居ない 解説して居ない事です。
需要と供給のミスマッチです。

本日の講座がそれでした。
終了後 玄関で 各歴史講座常連から「期待外れ 時間の浪費」と 厳しい発言が 相続きました。
時間の浪費 と申すなら 途中退席されたらヨカッタのに。

経過は こうです。
北仙台付近の市民センターの歴史講座が、北仙台付近に寺院を会場に開催され、講師は戊辰の役の殉難者の代表格の末裔です。
演題は「○○寺と伊達家」です。

講座は、住職の「宗祖の創宗から宗派の歴史」 30分 講師の「○○寺創建の伊達家の関与と檀信徒の善行」を中心に 歴代伊達家の殿様が語れれました。

仙台を代表する焼物の祖の御墓がありますと申されましたが、少なくとも 仙台市史 近世3 571頁の記述以上 語られと期待していましたが、軽く流されました。

又 講師の先祖(戊辰の役の殉難者の代表格)に ついて語られと期待していましたが、一言もありませんでした。
御事情あっての事と推察致しますが 残念でした。 

本日を糧に 明日からのガイド 心して あたります。





11 月 21 日 (水)  



強い風で冷たい 津軽は積雪50cmと伝えています。納得の寒気です。

最上古街道探訪会(主催 愛子の郷交流会)に 瑞鳳殿ガイドのU・NMの両氏と共に参加し 青葉山を10.000歩以上歩きました。

以前、有料ガイドの会「よっこより」の依頼で、東北大学理学部付属植物園(仙臺城御裏林)構内に残存する最上古街道は探訪しております。
植物園の先は 東北大学青葉山構内として 造成され 山林時代の面影は皆無であります。更に 先は山林で 邑に続いています。

植物園(仙臺城御裏林)構内を探訪した際 参加された「奥州街道文化研究会」(現在解散)仲間のYN氏から 東北大学青葉山構内から先のルートを発見した、案内人も確保した 探訪は如何と誘われ 今日に至りました。

行程は、宮城教育大学正門前から「青葉の森」構内に入り、有為曲折の末 最上古街道(御姫様コース)に到達。
姫様達は 駕籠で往来したので 勾配は緩やか との説明。確かに その通りです。山間未整備の道が最上古街道でした。

郷六の邑に降り、道祖神・郷六御殿址・郷六城址(仙台市史 城館 P147参照)に到り、ここ残存する 最上古街道跡を確認し 解散。


本日は 案内人が居て、晴天であった故 辿れました。
問題は、道標が無く、倒木や落石が道を塞ぎ、落橋しており 知る人のみ知る 最上古街道 となっていることです。

仙臺城が 落城の危機に瀕した時 この道を経由 宮床に脱出 再起を期する 伊達家にとって重要な道と 言われているのを 聞いています。真偽の程は定かでは ありませんが、最上古街道 の歴史価値は 有 変わらないと 思います。
要整備 を 関係各機関にお願い致します。


余禄
参加の宮城地区歴史探訪会の方。
「片栗粉と束子を持参した。碑の文字 見る方法を どなたか 実演・教授して欲しい。」

どなたも 手を上げません。僭越ながら アカトンボ 実演・教授しました。

1.最少限 2リットルペットボトルの水・束子・バケツ・雑巾・ハンドワイパーを持参する。
2.碑面の黴・汚れを 水・束子で 洗い流し、軽く雑巾で拭きとる。
3.碑面の下から 上に 手で 片栗粉を 塗り込める。
4.文字に塗り込めた片栗粉が 残る様に碑面を ハンドワイパーで軽く擦り 碑面の片栗粉を擦り落とす。
5.文字が鮮明に 浮き出たら、 撮影・書き寫す。
6.片栗粉が碑面に 残らないように (残すと黴・汚染の原因になる) 水で丁寧に 洗流す。 

なお、拓本を取るのが 本筋と 専門の先生は 言われています。 




11 月 19 日 (月)  



仙臺城址ガイド

瑞鳳殿での有料ガイド団体の「仙臺城址ガイド」の勉強会に参加しました。
講師は NPO仙台城ガイドボランテイア会のIT氏です。

仙台城ガイドと申しても 観光客にガイドするのは 本丸の一部 政宗公騎馬像に限られ、シャッター押すが 結構多い との事。

通常 アカトンボが 本丸で観光客にガイド出来る限度は20-30分です。其れより狭い範囲(天守台・巽門・埋門等を除く)で 90分の解説です。流石です。

今回の収穫
1.御成門の位置と向き、併せて 詰門の位置と向きを現地で確認した事。

2.本丸での井戸跡の位置を確認した事。
  (本丸に給水は 御裏林・御清水からの取水・懸樋による給水のみに頼っていたと理解していた)

3.流附されている大広間平面図は 1600年政宗公が築城した時の物でない可能性がある。
 仙台城発掘調査の結果 異なる柱跡が発見されている。
  (果たして 本当か? 災害記録に 石垣崩落の記録があるが 新・改築した記録に遭遇していない
   仙台城発掘調査報告書の確認が必要)

4.騎馬像の馬は 政宗公大阪の陣の際に自殺した馬だ。
  (騎馬像の馬は 1800年以降品種改良された馬であることは 一目瞭然です。なんでも政宗公過ぎるのでは)


観光ガイドは勉強会の先生では ない。ガイド養成講座と 単なる勉強会は 異なる。




11 月 18 日 (日)  



木枯らし。
枯れ葉が 雨嵐の如く 舞落下しています。 枯葉の円舞。
S整備員 ピラミットの様に 積み上げた落ち葉の山 3っ4っに また 限りなく舞落下に 茫然としながらも 敢然と片付けに挑戦していました。

事務室は温暖です。「暖かですネ」 
「背中は 暖かいです。でも、小さい穴から 冷風のジェット気流が 顔をめがけ そして お金が舞い飛ぶの。ツライワ」と券売嬢。

紅葉 1週間の御無沙汰 見事に変化しました。
ブログ 瑞鳳殿四季折々 http://bonten-maru.blog.ocn.ne.jp/zuihoden/ をご覧ください。


あまり期待しない表情で ガイド依頼されました。
静岡県からの小団体です。

「3.11災の精神的支援 新聞からの感じですが 静岡県が1番です。感謝致します。
久能山東照宮 暫し参拝されているでしょう。基本的に目的・性格が同じです。異なるのは 祀られている人が異なります」

以下 久能山東照宮・三保の松原を引き合いに ガイド致しました。

期待が裏切られたのか 期待以上であったか 最期に全員で「勉強になった」と言われました。ガイド冥利に尽きます。


埼玉の小団体、
昨日 松島瑞巖寺を参拝された、その内容は 
「有料ガイド案内で 御位牌を参拝した。でも 今 ガイドさんが言う 愛姫の御霊屋寶華殿・博物館青龍殿の政宗公・愛姫・娘五郎八姫の木像も案内されず 参拝しなかった。悔しい」でした。

この方々 五大堂等 瑞巖寺と伊達家 関連施設 参拝・見学されたのでしょうか。他人事ながら心配です。 

高額の拝観料とガイド料を払い 御位牌だけとは、悔しがる気持ち 察して余るものあります。

愛姫の御霊屋寶華殿の 化粧(補修)前と後の 写真をお見せ致しました。


限界を越えた御客様
@ 「どちらから」 「青森です」  「津軽ですか? 南部ですか?」 「青森市です」
  「津軽ですか? 南部ですか?」と尋ねたのは 伊達家との関連 御縁の話を 変える為です。

  例えば 「涅槃門の柱 用材は津軽ヒバ です」と 津軽の方にはガイドします。しかし 南部の方にはガイドしません。 

  「弘前に津軽家の廟があります・・」 「弘前は 知りません」
  「この菊紋は 伊達家の八家紋の1つです」 「昨日 博物館で 勉強してきました。知っています」

  本殿に至るまで 全て この調子で 返されます。ガイドする元気 すっかり萎えました。

  歩殿内部 政宗公御木像の写真 をお見せして 「博物館で 見てきました。知っています」と 言われては 益々 あかとんぼ落ち込みます。  ファイル開く気持ちにならず  早々 ギブアップしました。

A 数人のご婦人 涅槃門の前で菊紋を背景に 「シャッター 押して」との御依頼。皇室と勘違いしている様子。
  「チヨット あんた シャッター 押すに 上まで付いて来て」 ガイドもベストポジションの紹介も必要としない との態度。

  「ガイド依頼ありますので」 とお断りしました。アカトンボの心情は 記載しません 御想像におまかせします。



11 月 17 日 (土)  



疲労の為 ガイドに行きませんでした。

菅野先生の「政宗の実力」と題する論文掲載図書「懐風」(27号 2012.04.28.米澤御堀端史蹟保存会刊 ) を読みました。

15日の講座で紹介されました図書です。仙台では 入手困難とコピーを頂ております。

内容は
1.伊達軍団は精強か?
2.2つの大会戦
3..意外な苦戦
4.南奥制覇の秘密

で、なんでも政宗公、偉大な政宗公を 是々非々で 見る目を示しています。

疲労回復 1発で効果ありました。



11 月 15 日 (木)  



一段と寒気が身に凍みます。

明青大史学部11月例会に参加しました。
講師は 仙台市博物館市史編纂室長の菅野正道さん。
演題は 政宗を読み直す。

内容は CD化し 発売したい位。概略以下のとおり

○政宗研究の停滞
  基本図書として 人物叢書 伊達政宗 小林清治著 1959年刊
  文武に優れた名君 の範囲
  学術的に取り上げた論文は決して多く無い。反面 玉石混合の内容の出版物が多い。

 研究対象として「偉大な藩祖」を脱して”是々非々”な政宗像を探究する段階。
 (3.11で伝統工法の裏米石垣は崩れなかった、だが、近代工法と称するコンクリート詰め石垣は崩落した。真物志向の時代になった。)

○政宗公の文事
  作品は和歌のみならず連歌・狂歌・漢詩・散文の各分野に及んでいる
  名歌とするのは難しい
  茶道・能・香道に深い関心。相応のレベルに達していた、が、当代一流とは 別

 政宗公はスペシャリストではなく、ジェネリストとして 評価すべき。

○政宗公の武事
 政宗公の戦い
 戦いは 強かったか

 政宗公の勢力拡大は「精強な伊達勢」が勝ち得たものでなく、機動力・情報能力に、内応者を作るなど政治・外交の力に拠るところが大きい。

 政宗公と城
 仙台城は名城か?
 幕府の城郭政策 政宗公を脅威と見なしていなかった。関ヶ原合戦以降 天下を狙える実力は無かった

○政宗公の家臣
  宰相的家臣は存在しない・・・まさの独裁的性格
  参謀的役割  その氏名は有名ではない。

政宗期の藩政と仙台藩政の特色。
 7項目

質問 2問 興味深いもの 
@ 国分盛重は 何故 佐竹家 出羽横手の城代になったのか?

  輝宗公の弟です。先生は詳しく語られました。

  あかとんぼ 以前に興味を持ち  その経歴と子孫と御墓を調べました。
  3・4代迄 横手城代を務め 以後 久保田城下に配置替された。
  幕末までの存続と盛重は横手・正平寺に埋葬されたが その墓石の確認には至りませんでした。
  記憶の揺りお越しで 興味ある質問でした 

A 政宗公以外 特記すべき殿様は 誰か?

  忠宗公・吉村公に 12代斎邦公。
  斎邦公は 行革を推進したが 中途で亡くなられた。達成されれば幕末の伊達家の様子は異なっていたろう。

  仙台市史の読なおしをします。






11 月 13 日 (火)  



政宗公の兜の前立


11日日誌記載
仲間のSIさんから 「先日 小学生から 政宗公の兜 の前立 なぜ半月か」と質問されたが  答えられなかった。アカトンボさん 御存じ
と言われましたが。 ?????

について 読者 TK さま から
1.伊達家史叢談 30頁
2.仙台藩歴史事典改定版189頁
を 参照されたら と御教示頂きました。


伊達家史叢談に 御軍用定  御立物 金ノ三日月  大番組十番 惣御家中ノ立物 金ノ八日月  (図掲載) 

.仙台藩歴史事典に、「兜の正面につける立物は、大将が三日月 旗本は半月とされ 半月は上弦の月とされている。仙台藩歴代藩主および家臣の甲冑も ほぼその制度になっているが デザイン上の配慮からか 下弦の月になっているものもある」

と記載されています。


小学生の真意は 何かは不明ですが
@ 何故 兜に 前立が 着けられるのか?
A 政宗公は いつ から 金ノ三日月 の前立を着けられたのか?
B 金ノ三日月 に託された 意思は 何であったのか?
C 大将が三日月 とありますが 伊達家では 大将とは 政宗公唯独り と見なすべきか?

改まって考えると 奥行きのある質問です。TK さま からは、ここを考えるヒントも頂きました。感謝です。



11 月 11 日 (日)  



日々 秋が深まります。衣類 準冬態勢です。

いなかのおっさん風10人 本殿から降りて来ました。

「なんだボランテイアガイド居たのか 早く来ればよいのに」
「あいつ等 健康管理 暇つぶしに やってんだ」

「あのモン 入れて シャター押せ」
「あのモンとは?」
「大きいモンだ」   大方の方は 菊紋を背景に撮影します。菊紋を撮るのに位置的に不良でしたので確認しらの返事でした。
涅槃門を 背景に撮れの話でした。

話の内容に 誤りはありませんが 話し方に 好感を全く感じません。


小学生 祖母と母親に手水舎の伊達家家紋を語っています。「三引両」「竹に雀」「九曜」の各紋の由来を説明。

「伊達家九代の殿様は何と申しますか」の質問。

九代ですか。九代は周宗(チカムネ)公です。1796年7月4ケ月で殿様に、1812年4月17歳で亡くなられています。

伊達家での数え方 ○世と○代と 2通りの数え方あります。

○世とは 始祖朝宗公から、○代は政宗公から 数えてです。現在のご当主は38世18代となります。

質問は九世 政宗公ではありませんか。伊達家中興の祖とも称され、この方の様に 伊達家発展を期待され 十七世は政宗公と名付けられ、その様に 歴史上の人物となり ○代の祖となりました。

祖母 小学生の手を引き 「はやく 行こう」
小学生は 何を語りたかったのか。


沖縄本島からの老若男女10人。「20-30分あります?」で ガイド始め 20分 佳境に入った途端 「ストップ」と女幹事の叫び。

御客様は神様です と申す言葉がありました。 カミサマの一声です。直ちに ストップ 御終いです。
同行者 不満を漏らさず 降りて行きました。関西の連続殺人事件を一瞬 思い浮びました。


雨です。地球は濡れています。涅槃門前に ベンチがズラリ並んでいます。62石段の登りで疲れた方々が 休息されます。朝 職員が 清掃しています。
濡れた土足で ベンチに上がり 涅槃門を撮影されているオバサンがいました。ベンチに砂・土が残るでしょう。次の御客様 衣服を汚す心配があります。他人に害を及ぼす とは 思わないオバサンに 驚き。


久々 妙雲廟界まで案内しました。職種不詳の 全国から終結した盛年男子です。妙雲廟界までガイドを依頼するお客様は 少ないです。誠に御奇特な方々です。


12時過ぎ 長野からの上品なご婦人からのご依頼。
政宗公について 相当の知識をお持ちです。的確な質問もされます。

政宗公が「双眼の像」を作る様に指示された 事を話し終えたら 「母と不仲であったでしょう」と予想通りの反論がありました。
「最近 研究が進み 伊達家の公式記録の事柄  毒殺未遂・逃亡は 事実と異なるが定説になりつつ あります。前仙台市博物館館長 佐藤憲一さんが 本を出しています。書名(素顔の伊達政宗)を忘れましたが、著者名で 検索できます」と申しましたら メモされました。
空腹を我慢して ガイドした甲斐ありました。


昨日 仲間のSIさんから 「先日 小学生から 政宗公の兜 の前立 なぜ半月か」と質問されたが  答えられなかった。アカトンボさん 御存じ
と言われましたが。 ?????

帰宅 WEB 瑞鳳殿 のインターネット資料館「瑞鳳殿質問箱瑞鳳殿キッズ」を見ましたが 解明出来ません。
「政宗公の兜 の前立 なぜ半月か」 御存じの方 教えて下さい。
小学生からの質問は 手強い です。



11 月 10 日 (土)  



表紙の写真 紅葉は散りました。もみじ が赤くなり始めました。
日々 変化が 早いです。

経営者風の盛年男子 ルコール臭されます でも酩酊されていません。
「大阪から来ました。午後から 河北新報主催の3.11災 南三陸町支援の集いに参加します。政宗公と3.11災について ガイドして」とのご依頼。

遠路 時と金を費やして 震災支援においでの有難い御客様です。瑞鳳殿での被災状況を 普段より加味説明しました。


若い男女 撮影しています。
中華民國の方でした。あかとんぼ言語を理解出来るとの事(若いのに不思議)で、本殿・極楽迄 撮影ポイントを紹介しながら ガイドしました。
二人とも 使いやすい モニター鮮明な政宗公 (1眼ミラーレス)カメラ での撮影です。
シャター押す係で確かめました。いい表情で撮れていました。

本日のガイド3組5人 ヒヤカシ3人。


昼 仙台市博物館に移動。左車 パンを 右車 お握りを 食べています。大きい、梅干し入り 3個を ペロット ペット茶飲み飲み 大根の漬物に 最期 蜜柑を 食べるのを 横目に見ながら 車内で携行昼食。同志 もっと居たかも。

駐車確保から 高齢者は昼食を持参 早目に来場されます。 


しろ・まち講座10.「特別展 江戸の旅 街道こぼればなし 名所・名物・旅案内」坂田美咲 学芸員の講話を拝聴しました。

勝負は 最期の5分に決まる と申します。

講座終了 5分前 瑞鳳殿に関する アカトンボ 想定外の事柄を語れました。
聞き違いかと 図録の購入に 売店に走りました。167頁に 語れた通り 記載されていました。

些細な事ですが 確認したい事があります。確認次第 ご報告いたします。お待ち下さい。 





11 月 6 日 (火)  



「デイスカバーたいはく 区内探訪会」

主催 仙台市太白区役所(太白まちづくり推進協議会)に 参加しました。

探訪個所は、
@ 伊達家菩提寺 両足山大年寺 の惣門(車窓)
A 黄檗宗松月山桃源寺(車窓)
B 旅立稲荷

C 落合観音堂 
    茅葺入母屋造の堂、蟹絵馬、名取川堤防(望・日辺)、伊達家最期の仇討供養碑
D 多賀神社
    参拝。6代宗村参拝、1083年(後3年役時)源義家祈願等の由来、18基石碑中 歴代八木久兵衛寄進碑・梅澤道冶中将碑を解説
    本神社独自奉納 「箍」{直径7cm程度の竹製箍を10個程度連結} 現物説明。 初見。

E 茂庭館址(車窓)
F 赤石「名取川底赤石、奥州三個森(円錐形の3山)(車窓)
G 地名 人来田・旗立 の由来(車窓)
H 秋保氏・楯山城(車窓)

I 飯冨山向泉寺
    阿弥陀堂 木造平屋一間四方方形造。
    寺寶 秘佛 小松如来阿弥陀如来 (安元元(1175)年宋國より渡来 を特別公開にて参拝。撮影を許可されるも失敗。成功者皆無
J 簡澤山大雲寺
    秋保外記氏盛ほか墓所、資料では 廟  と標記 (豪雨に付き車窓参拝) 

K 小滝(子抱)橋
    秋保石造 アーチ形 1941年架橋 史跡。
L 豊後館(馬場館)
    秋保摂津守定重(馬場氏・天正19(1591)年代)居館跡。豪雨に付き望遠

M 秋保神社
    元 諏訪神社。 本来 平家の守り神。 
    神門 約480年前建立 入母屋八脚門。(豪雨に付き車窓参拝)

N 秋保大滝
    ★大滝不動尊堂 
    方三間寶形造 軒廻り十二子彫刻、格天井に薬草画。昇殿参拝。
    御本尊(不動明王坐像 文政9(1826)年安置)に接すると膝痛解消に効果絶大との事。試施。
    ★開山堂
    秘佛 木食知足上人 木造彩色坐像 を特別公開にて参拝。撮影を許可されるも 失敗。ここでも成功者皆無
    ★木食知足上人墓・供養五輪塔
    墓では無く五輪塔2基の説もあると
    ★秋保大滝 水量豊冨 絶景

O 木食知足上人生家 (車窓)
P 一里塚(車窓)
Q 十三佛(車窓)


@からG迄西多賀は ゴトウ様 HからQ迄秋保 イトウ様  何れも郷土史家と拝察。(主催者から紹介がなかった)

アカトンボは この太白地区は地理・歴史 に疎く 体系的に 智者に 解説・案内して頂き また 配布資料は60頁で 記載内容は詳細であり 大変 勉強になった。

この太白まちづくり推進協議会では 
1.太白区の自然と遺跡
2.太白区の街道と史跡
3.太白の伝説
4.太白の伝説U
5.太白区の郷愁と文化
と題する冊子を刊行していました。@500.
早速 全冊 購入しました。

何故か 豪雨です。山々は 雲の中 紅葉は 見えません。早い機会に もみじかり を兼ね 自車で再訪 復習 します。

蛇足
大年寺会会長・勉強会「よっこより」会員も参加していましたが、バスに相当の余裕がありました。
もっと 参加者 居てもよかったのに。
悪いのは 天気だけ。 企画・内容 素晴らしいものでしたのに。 




11 月 5 日 (月)  



11月01日に続き 某国際航空会社からご依頼の「伊達家史跡めぐり」のガイドをしました。

八十路の方 旅行3日目 些かお疲れの様子。


瑞鳳寺山門前で待機中  山門向いの看板前で パンを齧っている 若い男女。
幼稚園バスが 続々入って来ます。その目の前で 立ってパンを齧っている様子は 食教育・道徳教育から 芳しい状態では ありません。

齧っている若い男女は 衆人の目 気に為らないのでしょうか。立蕎麦感覚でしょうか。
戦国武将 政宗公の熱烈な信奉者で 戦場で食事する気分体験でしょうか?

アカトンボ こらえきれず 遂に 「上に上がると 四阿(アジマヤ)があります。ベンチも売店も自配機も あります。ゆっくり食べられます」
「アツ もう終わりました」 コッペパン1個。明日の日本を背負う若者の朝食 これで よろしいのか?

3時間後、仙臺城本丸址で 携行食で昼食中の アカトンボの面前を 手を繋いで横断したのは、コッペパン1個の若い男女。

他人の事 心配する事ではありませんが その行動を推測すると 謎だらけ です。



11 月 4 日 (日)  



寒気厳しいです。

仲間のOさん 寒さに震え 早々に 退散しました。
防寒対応 無には ガイドは出来ない季節になりました。


「素晴らしい彫刻ばかりですが (左甚五郎)の作では 無いでしょう」 と 申された方。
3歳になった孫の 七五三のお祝いに 来仙し 昨日 大崎八幡宮に参拝された との事。

当然 昇殿 御祓いを受け 孫の無事生育を祈願したと 思いました。

日光東照宮の「ねむり猫」は(左甚五郎)の作と伝えられています。実際の作者は 大崎八幡宮に携わった紀州の匠 刑部國次では と言われていて、その刑部國次 作の 「にらみ猫」 拝殿にあります。ご覧になりましたか。「ねむり猫」に対する 「にらみ猫」を。

「実は昇殿しないで 下でポンポンです」  ガクン。 
遠方から多額の交通費を費やして孫の無事生育の祈願にお出でになり 簡略 祈願とは。
神様は お賽銭 初穂料 の額で差別 しないでしょうが。

ただ 知識が無ければ 「にらみ猫」 見れなかったでしょう。


お爺さん教えて 茨城のバスガイド嬢です。「お客様見学中に 車内での タネ 仕入れなくては」

パンフ広げて頂き 政宗公から妙雲廟界まで 概略を ハイスピードで伝授。
「3.11災の被害は?」 に手持写真を 見せる。 彼女は 講釈師の様に 見た如く 語るのでは。

最期 入場券 持っていましたので 「皆さに渡して 画面の筆字を 御客様に 読んで貰いなさい。
読めない と言われたら  表面をお客様に向け ガイドさん は裏面を 読み 政宗公の直筆で 仙臺の町を作った時の気持ちです と説明すると 学があると ガイドさんの株 あがりますヨ」

「オジサン 知恵者だね」
お爺さんだ 伊達に 齢を食ったのでは ありませんヨ。


埼玉・神奈川からの御客様は「どちらから?」に 「東京」と答えます。その心理は?
先般 お嬢さん3人に 「どちらから?」に 「北海道 ヤクモ」と 賑やかに即答してきました。

「ヤクモ」 アカトンボPCでは 即座に どの辺にある町か村か 見当つきませんでした。

八雲町 でした。
函館本線沿 人口18.000人。北海道土産の木彫熊 発祥の地。
沿革は、1878年尾張徳川慶勝が旧臣授産の為 家族持15 単身10 計82名を入植させたにありました。
現在は、酪農・漁業・空自基地が 主産業と。

小さい町です。若い女性が 堂々と 「北海道 ヤクモ」と 答える自信は 何処にあるのでしょう。
活気ある町でしょう。



11 月 3 日 (土)  



文化の日(祝日)

文化的に1日を過ごしたいものです。

「伊達家ゆかりの地をめぐる歴史探訪ツアー」(仙台大手バス会社主催)に参加しました。
行先は、伊達家始祖伊達朝宗が1189年に 源頼朝から賜った 伊達郡です。

@ 大森城山公園
  1584年伊達成実が城主に、1586年 片倉景綱宗が城主になり。伊達家の南奥制覇の重要拠点であった地。
  1591年秀吉の奥州仕置で 伊達家は没収された。
  1644年 廃城に。
  大手口と言われる公民館裏から本丸跡(147m)に登り、信達平野の眺望を楽しむ。

A 慈徳寺(昔 壽コ寺)
  1585年 父輝宗公は不慮の死を遂げた。その際 荼毘に附したのが本寺である。
  「輝宗公の首塚」と称される 巨大自然石の「灰塚」を参拝。

  輝宗公の墓所は、羽州置賜郡夏狩邑 慈雲山資福寺にある。 尚 講師は仙臺・資福寺 ほか 数か所 所在すると称すが 確認出来ない。

B 琥珀山 寶積寺
  祖父晴宗公(1577年卒)の墓所を参拝。

C 高子岡城址
   1189年 伊達家始祖伊達朝宗公が城館を構えた地。
   山頂途上に鎮座する八幡宮は,鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請した云われる。
  亀岡八幡宮とも呼ばれ,伊達家の移遷とともに移って,現在は仙台市川内亀岡町に鎮座していると伝えられているが、旧所にも社が健在。

D 梁川八幡神社
   984年創建と伝えられ1582年政宗公が参拝され、続いて 1588年鐙・鎧・具足を奉納している。神社参拝。
   愛姫 1579年に輿入れの際 田村家・伊達家の 輿 受渡跡 見学。

E 梁川城址
   伊達家3世義広(1256年卒)が築城、1591年奥羽仕置で城主伊達宗清(晴宗弟)退城。松前家で幕末を迎える。
   本丸庭園跡を見学、天神社参拝。

以上の通り、現地ボラガイド2名、福島市観光課員2名の案内で 見学・参拝。

アカトンボは 昔 Uさんの案内で1泊2日で 探訪した1部で 予備知識ありの再確認ありで あるから理解出来ました。

現地ボラガイドは 勉強はしていますが、伊達郡を去った後の伊達家の動向の認識は不十分です。
1189年伊達朝宗公が城館を構えた時から 政宗公が亡くなった1636年迄 約500年を 階層で語らないで 圧縮平面で語りました。

例えば「1591年秀吉の奥州仕置で 伊達家は岩出山に移った」と説明 知識の無い方は 大森城から移ったと理解していました。

また、「政宗公は お寺だけで無く 青葉山・廣瀬川の地名も持って行った」の説明に 政宗公が米澤で生れ 夏刈で育ち・修行した事を知らない方は「子供の時代が懐かしかったのね」と洩らしていました。

小春日和での散策であれば 合格でした。瑞鳳殿で ガイドして居る方は ストレスを感ずるかも。



11 月 2 日 (金)  



強風 小雨

木枯らし一番。
毎年この時期 私立中学校1年生を対象に、政宗公が城下町の給水を目的に設置された 四ツ谷用水を ガイドしています。

今年も頼むと「四ツ谷の水を町並みに!市民の会」から指示があり、指定時刻に 指定個所に 拡声器とマップ30部を持参し 行きました。

が、如何なる手違いか 他の講師を依頼したとの事で マップ30部を寄贈し {高齢者が 低温・強風・小雨の中 3時間余 町中 ガイドさせるのは 可哀想の 天の赦す ところか} と 退散しました。


10月24日日誌に「堤焼と常滑焼」につて記載し 自身の宿題を上げました。
市史編纂室長の菅野先生から 「仙台市史近世3 特論 陶磁器の流通と消費」を一読されたらとご教示頂きました。

「伊達家家臣の近世墓地から甕棺が出土している」との記述がありました。

仙台市文化財課の発掘調査報告書を 読みたく 仙台市文化財課のHPを検索しましたが 尋ねあたらず 不能でした。

急遽 時間が空きました。博物館に相談しましたら 市史編纂室M学芸員が さりげなく市史の読み方を教えてくれ、且つ 調査報告書の関係部を複写してくれました。有難い事です。

堤焼の祖「陶工師上村萬右衛門」の墓所が日浄寺(青葉区堤町)に所在します。11月22日ここ日浄寺で、戊辰の役殉難者坂英力の末裔の方の講話があります。墓参後 宿題を纏めます。



11 月 1 日 (木)  



霜月

某国際航空会社からご依頼の「伊達家史跡めぐり」のガイドをしました。
このツアーは
1日目 瑞巖寺等 松島の史跡
2日目 平泉(中尊寺・毛通寺)
3日目 仙臺(経ケ峯・仙臺城址・大崎八幡宮・仙臺東照宮)。
この3日目を依頼されました。

初日 67年前の米国の空爆での不発弾が仙台空港で発見され、空港が閉鎖さらました。
キヤンセルの連絡が入りませんから お出でになるだろう が 果たしてと不安な気持ちで待機しました。

羽田まで飛び、新幹線で仙台に。計画時刻に遅れ瑞巖寺の参拝に終わった。ツキが悪いな と洩らしていました。

本殿前で 説明をしていたら、伊達家御当主様の御案内で仙台で有数のお嬢様学校の約50人が 登段してまいりました。 
御当主がお出でです。御客様に「伊達家御当主様です。34世18代です。席を空け渡しましょう」 御客様 快く 後退してくれました。

説明後、本殿を開扉されました。お嬢様に続いて 政宗公に拝謁して頂きました。

「お客様 伊達家御当主様 直々の説明を聞かれました。滅多に無い機会でした。千載一遇でした。又、政宗公に直々の拝謁は 原則 年賀拝礼式と遠年忌法要と限られた日時です。

本日は 御当主の謦咳に接し 政宗公御木像を拝見されたは他の方々は体験出来ない事です。
空港閉鎖といい 得難い体験されていますネ。ツキが悪い ではなく ツキが良い ではありませんか。 に ニッコリ。


毛通寺を参拝されています。
「忠臣蔵 ご覧なりますか?」 とお訊ねしましたら 「見ない 興味ない」の返事。 躊躇。

「毛越寺の入口の建物は 一関田村家の屋敷門です。忠臣蔵で 浅野家の殿様が切腹されたのは一関田村家の江戸屋敷です。その時の殿様田村誠顕公か寄進した 灯篭が あれです。3.11災で この地区100余の灯篭で 唯一 転倒しなかったです」

に 「アレー 昨日と今日と 繋がっているのネ。昨日のガイド 何にも言わなかったよ」
浄土庭園の説明があっても 殿様の話が無いのは 当然かも。





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