2014年8月の日誌
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8 月 31 日 (日)  



快晴 爽やかです。
日曜日です。その割にお客様の出足は?

昨日の遅刻の挽回と8時50分から 待機に入りましたが、9時45分迄 空しく雲の流れを見ていました。

日本国語・大韓民国語・中華民国語 の音声が流れて行きますが 相手にされない、できないまま。


あかとんぼは、日本国語の中の、標準語・仙臺弁・庄内弁・秋田弁・津軽弁は聞き分けられます。

手水舎で 10余人の御婦人がニギニギしく 話しています。
何処からお出でになったか わかりました。 一発 ずばり

「秋田のどこから お出でになりましたか?」
「はい 横手から」

あかとんぼ の質問 「秋田のどこから」とズバリ 当てられたは 気がつかない様です。

ふたバスの時間でガイドをしてくれとの注文。

「ふたバスの時間」の表現に感心しました。ひとバス20分間隔です。

ふたバスの時間一杯ガイドしました。

今日は、津軽・市川に東京・神奈川からのお客様。



8 月 30 日 (土)  



大雨で、定刻より100分の遅刻。
ガイド仲間 多数から 「今日は遅いね」。
無理も無い、大雨の土曜日の午前の割に、参拝者が多い。

東京・神奈川の自称歴女様  他をガイド。ガイドの会副会長と「ホレンソウ」(報告・連絡・相談)後、大和町に移動。


講座
演題  伊達政宗と父輝宗ー親子の絆
講師  佐藤憲一氏 元仙台市博物館館長 (「元」と紹介したが「前」では?)
主催  大和町教育委員会

まほろぼ大学 郷土史講座 で、毎年夏4回開催し、優れた講師陣であり 仙台からの参加者者多数です。
本日は仙臺城本丸ガイドの会の理事長とバッタリ。多忙と聞かされました。

講座の纏め
輝宗公について語られる事は少ない・
政宗公の将来に期待をかけ、政宗公登場の舞台づくりに生涯をかけた。
命をかけて政宗公の前途を守った。
真面目、几帳面の人。繊細な感性の持ち主。
と 語られました。


あかとんぼ ガイドで語る際、日誌を記載する際、 政宗公・輝宗公と 伊達家の殿 すべて「公」を付けております。

研究者は「公」を付けない事は 以前から教えられていました。

ある研究者にお願いに参上した際、 常々の口上で「政宗公」と 話しお願い致しました。

その後、さる方から「 お忘れなったか?」と ご注意を頂きました。

今日の佐藤先生の講座でも、これまでの講座の講師の方々 確かに「公」は付いていません。

唯、ガイドの際 巷の老人です故 「公」を付けます。

以前 「お前 此処でガイドをしていて 敬称を付けないのか」と言われた事もありますので。
研究者の皆様 ご理解ください。


独眼龍政宗 NHKTV 今晩 放送日。

山場です。母親が 涙をのみ トリカブトを 政宗公に一服盛る場面です。
肝心の場面で 長電話が来ました。涙です。悔しい。明日 録画見ます。

ガイドの際 話題にしますが 時間帯が悪いのか 見ていない人が多いです。
仙台藩志会の会員なら 見て欲しいものです。



8 月 28 日 (木)  



歴史講座

演題  伊達氏 戦国大名への道
講師  仙台市博物館市史編さん室長 菅野 正道 氏
主催  郷土を愛する歴史の会

伊達氏の出自
源氏と伊達氏
地頭から戦国大名へ

以上の内容です。

あかとんぼの記録として

1.室町時代の段階(およそ1400年代前期迄)で、本領の伊達郡に加えて、信夫郡、刈田郡、伊具郡、柴田郡、名取郡南部、出羽置賜長井郡を領有したほか、亘理郡、名取郡、宮城郡の領主を傘下に入れ、奥羽最大の大名に成長する。
戦国時代 稙宗の時代 あるいは、政宗期に急激に拡大した説もあるが、誤り。

2.源頼朝と伊達家の血縁

 源為義@ の子供 男が義朝Aで その子供が 頼朝B
 源為義@ の子供 女C の子供が 初代念西D  その娘大進局E

 義朝Aと女Cが兄弟 頼朝Bと初代念西Dが 従兄妹 となる。
 頼朝Bと大進局Eの間で 生まれたのが 貞暁

 (これは 近親結婚では?)

3.1189年文治5年8月8日 の戦は 信夫郡石名坂。
 仙台市の南に、石名坂、泉区に 市名坂 なる地名がある。

 共通する地形は、川があり 渡河した地点から登坂となる。地名の由来は この地形の特徴にあるのでは。


質問の時間で 爆弾質問が。

「伊達家の発祥は、相馬・中村 である」

これまで、伊達家の発祥は常陸國伊佐庄で、下野国中村も関係があり、伊佐又は中村と称していたが定説です。
あかとんぼも その様にガイドしています。

質問者は、相馬・中村と下野国中村と 混同・誤解されたのでは?

伊達家の発祥は、相馬・中村であるとする 証拠 古文書が あるのか 始めて聞く説となりました。
先生も 同様 答えていました


10月に この会で 桑折町を中心に伊達氏の足跡を探る(訪れる)会を 会員限定で開催するそうです。
菅野先生が同行・解説されるのかな。
参加したいものだ。



8 月 26 日 (火)  



講演

演題 「瑞鳳殿ガイド活動を通してのボランティアガイドの心構え」
主催 伊具郡丸森町・まるもりグリーンツーリジム協議会
会場 丸森町小斎まちちづくりセンター
講師 あかとんぼ

経緯
1581年天正9年5月 15歳政宗公は輝宗公に従って出陣した。初陣である。
その地が、伊具郡の金山城で、天正12年夏迄連年転戦し、遂に小斎・金山・丸森の城を 相馬家から奪還しました。
政宗公の武将として成功する基点の地です。

歴史を発掘し 地域振興を図ろうした人々が、2013年5月と10月と2回に渡り、丸森・小斎・金山・柴小屋・矢ノ目の各城址を、分厚い詳細な資料を作成し、案内・解説してくれました。意見交換しました。

この縁で、時代考証学会「伊達政宗と時代劇メディア 地域の歴史・文化を描き、伝えること in仙台」(2014年6月28日開催)に、幹部多数が参加してくれました。

「あかとんぼ の話しが身近であった。まるもりグリーンツーリジム協議会の会員に、ガイドの心構えを話してくれ」 のお話を頂きました。

身に余る光栄です。でも 何かお役に立てばと僭越ながら引き受けました。


内容
瑞鳳殿とはなにか?
年間16万人の参拝者を対象に 年間を通して ガイドをしている。

お客様は色々な方がいます。想定外の質問があります。日々勉強の機会を頂いています。

見どころのポイントをさりげなく、かつ、丁寧にガイドをし 「聞いて得をした・楽しかった・また来たい」のお声を頂くのが 
ご褒美と感ずるガイドに努めている。

と語りました。


主な参加者
小斎振興協議会会長、同局長、伊具3城整備・歴史伝承会会長、大内まちづくりセンター局長、丸森ブレンド化交流委員会代表、旗巻古戦場保勝会会長、石羽古碑街道会長、各直売所代表。


主な質疑・意見交換

1.瑞鳳殿に何故 愛姫が葬られなかったか。

2.御霊屋・廟・墓の違い。

3.極楽と天国 仏教の宗派と他教

4.伊達家の火薬の製法は?

5.瑞鳳殿に有料ガイドが居るそうだが、秀れているのか?

6.棺桶・棺箱・ガンオケ

7.弔魂碑に旗巻峠の戦没者氏名記載あるか

8.政宗公殉死者に 丸森町関係者が居るそうだが


参考

1.2012年12月に何回か記載しました「政宗公ご覧になったか?仙臺城門松 150年ぶり再現」の門松が、途絶える事なく 伝承しているのが、この丸森の大内です。

2.伊具3城の金山城址と佐野製糸場跡をめぐる会が、11月8日(土)9:30-15:00 会費2000円(昼食込)で 開催されます。
 予約・問合は、0224-72-6663まで。




8 月 25 日 (月)  



23.24日の補足


館山城

米沢市教育委員会は、23日発掘調査現地説明会を開催しました。
昨年 発見された石垣は、構造・技術の面から上杉景勝時代に造られた可能性が高いとの見方を示しました。

館山城は、伊達家も上杉家も 重要性を認識していた。
2015年度 国史蹟指定を目指して 9月文化庁に申請すろそうです。

以上 河北新報2014年8月24日東北版によりました。

あかとんぼ の感想は、

昨年の現地説明会では、政宗公の時代ではと 強く説明して居ましたが、物証が得られず 後退です。


この記事の写真を見た方、「あかとんぼ さん 忙しく 暑い時 良く行きましたね」
23日は、講座2本で行ってません。

ある方の解説。「年寄りは似たり寄ったり 同じく見えます」でした。至言です。



瑞鳳殿の意味

ある学校の先生をしている仲間から聞かれました。

1.瑞鳳殿とは、その意味は?

 命名の意味を記載した資料が まだ 発見されていません。正しいかどうか と問われますが、
 漢和辞典で 分解し調べました。瑞の意味は、目出度い です。鳳は 目出度い鳥 鳳凰の鳳です。殿は、宮殿の意味です。

 目出度い 大きい雄の鳥の 住む宮殿となります。鳳は 政宗公の輝かしい生涯を念頭にあるでしょう。


2.政宗公の時代も 竹に雀の紋は同じか?

 違います。焼失前 国宝時代の写真で 比較しみてください。上杉家の竹に雀とも 異なります。
 現在の紋 緻密な竹に雀に 何時 変化したかは わかりません。

 NHKTV 独眼龍政宗 の画面での 野戦で軍議を開く際 幔幕を張っています。紫地に現在の竹に雀の家紋です。時代考証からして NHKの手落ちです。


政宗公 遠忌法要

NHKTV独眼龍政宗 23日の再放送の冒頭画面 5月24日政宗公352遠忌法要を瑞鳳殿からの中継生放送スタイルです。

参列者は、34世18代の御当主、知事・市長等政財界のトップに、政宗公役 渡邊謙氏 愛姫役 櫻田淳子氏が上段に、
中段に仙台藩志会の面々が 裃、五色乱星羽織を着用 整列しています。

読経 そして 政宗公の木像に 尊顔が クロースアップされました。
政宗公は、現在と お変わりありません。(アタリマエカモ)

次の方々が インタービューに語っています。

鬼庭左月(勇将 天正13年11月17日73歳 人取橋の合戦で奮戦 戦死)の末裔 茂庭邦元 氏

白石宗実(勇将 慶長4年12月27日伏見にて卒 47歳(55歳説あり)))の末裔  白石宗晴 氏

小原縫殿助(政宗公弟伊達小次郎の守役、小次郎の遺体を改葬後切腹殉死)の末裔 小原長男 氏

葦名(栗原郡石越の「所」預かり 準一家? 先祖不詳)の末裔 葦名盛親 氏

現在も仙台藩志会で活躍されていましのは、白石宗晴氏のみ。時の流れを感じます。



8 月 24 日 (日)  



本日も酷暑でした。

朝早くから参拝に 多数の方、夏休みが今日限りでない地区でしょうか、の3世代もそれなりお見えになりました。
 
朝一番のお客様は、 浪速の歴女 3嬢様でした。
伊達家について相当 学習しています。

無口の嬢様 知っています。
伊達家の家禄は62万石、涅槃門に居るのは麒麟等。

長い石段62段 其の意味は? 何故 麒麟か からは ガイドの余地でした。


姉妹夫婦のお客様。

「遠来のお客様を案内して、蔵王町刈田から来ました。私の町に 原田甲斐 のお墓があります」

原田甲斐は、小説「樅木は残った」で再評価されていますが、まだ、名誉回復はしておりません。
基本的に 伊達家領内に 墓地は無い。
が、東和町米田に字越路83に所在する東陽寺に、お墓に、甲斐の首を入れ密送した梵鐘があると伝えられ 見学をしております。

東和町米田は、原田甲斐が柴田郡船岡に所替え前の旧任地です。
蔵王町刈田は、予想外 原田甲斐との関連が浮かびません。

「原田甲斐のお墓は お寺にありますか お寺の名前は?」と尋ねました。
WEBで 確認しました。

刈田郡蔵王町大字平沢字諏訪舘28−1 所在 曹洞宗 高田山 保昌寺 
由来は、1530年(享禄3年)2月7日、伊達家家臣 高野家の菩提寺として建立されました。
伊達家が米沢にいた時代に創建され、仙台城に移った折り、丸森城主を経て、1602年(慶長7年)平沢城主に移封されるのに従って転院し現在に至ります。                      
開山は、山形県米沢市 萬年山 松林寺2世 牛見永喜大和尚 ご開基は、高野家12世壱岐守知有秀です。

と ありました。
原田甲斐の記述はありません。現地の人のみ知る 秘墓 でしょうか。

高野家は、着座7番 1650石 刈田郡平澤村 要害 預かり。
高野倫兼(トモカネ)は、吉村・宗村・重村3代に仕え 若老に累進して、保昌寺に葬れています。

更に調べまして 何れ報告致します。



8 月 23 日 (土)  



講座 2本

1.午前
演題  仙台藩の仏教政策と北山
講師  仙台市博物館市史編さん室長 菅野正道氏
主催  北山市民センター・北山ガイドの会

2.午後
演題  御一家筆頭鮎貝家を中心に
講師  南三陸歌津歴史研究会代表 三浦正義氏
主催  仙台藩志会 

10指の人、限られた時間で、離れた会場を移動 2本聴講していました。

午前の講座 「我が意を得たり」
要旨のみ

1.伊達五山・北山五山は、京都・鎌倉の五山と異なり制度的に定められたものでない。民間主導である。

2.「伊達家の宗派は臨済宗」の説明される場面があるが、明確な誤り。

3.北山五山とは、2説(満勝寺か輪王寺の何れか?)あるが、伊達家が「五山」の制度を定めていない。
  江戸時代「北山五山」の名称は無かった。

4.奥州街道、輪王寺の横を抜ける道 輪王寺ルートは戦国時代以前に遡る可能性がある。

特に 4番の御宣託は 歓喜・感涙もの。

14・5年前、古老を訪れ、県図書館に現地と調べたました。

輪王寺脇の道は現在2車線に歩道付ですが、当時は1.5車線で 路肩に「貝塚」の痕跡がありました。
「古海道」なる地名とバス停がありました。
現地在住の古老は言いました。「此処が古海道だ」と。

現在は、開発で地形が様変わりしましたが、当時は自然な地形が残っていました。
輪王寺脇から叢塚と道路神社を経由し元七北田に歩いて実査しました。

以上成果を、ある学習会で 発表したら 「妄言」 と一笑に付された。
巷の老人の調査故 社会的信用は低いは覚悟しているが、悔しかった。

菅野先生が、15〜20年 早く発表して下されば 妄言と一笑に付さ 悔しい思いはしなかったろう。
でも、また、菅野先生のコピーと 一笑に付されたかな。


午後の講師三浦正義氏は、悔しい思いをした後、10人程で故高倉淳先生を師匠に 「奥州街道文化研究会」なる 尊大な名称の勉強会を結成、調査・語り合いました。その時の仲間の一人です。

三浦正義氏は、南三陸は歌津町に御縁があり、気仙街道を調べていました。本日は語りませんでした。若干 期待から外れました。



8 月 21 日 (木)  



8月 暑い 故 豊作。喜ぶべき事ながら切ない。
歴史講座に出席

演題  仙台藩士・玉蟲左大夫の生涯
講師  宮城県公文書館 栗原伸一郎 氏
主催  仙台明治青年大学郷土史を学ぶ会

仙台は向学心に燃える老人が多い。
炎暑ものとせず、冷房の効かない教室に70〜80人が出席し、唯一人居眠りする事無く、100分の講義を静粛に聴講していた。

玉蟲左大夫は、35石の軽輩の家格ながら、その能力を買われ 世界と日本を一周しており 高い見識で活躍した。
しかし、時 利あらず 明治2年4月 切腹を賜り37歳の生涯を終わられた。

で締められました。

幕末の動乱期 幾多の士が 切腹を命じられています。命じた実質責任者は誰なのか?
以前から 疑問に思っていました。

質問はありませんか?
に、問いました。
答えは、「答難い」でした。

戊辰の役の後遺症は、あります。
「答難い」は 予想の範囲内です。



8 月 20 日 (水)  



気温35.3度(0時40分現在) 仙台 初の猛暑日。

瑞鳳殿は、この暑さのめげない方 参拝に 続々と。予想外です。

写真撮影の瑞鳳寺山門前迄 下りました。
タクシー 見かけない運転手氏です。

「アンタ 無料の札 ナンダ」のご質問。瑞鳳殿ガイドのユニホーム 目にはいらない様です。
「瑞鳳殿のガイドです。お客様が頼みやすい様にです。有料ガイドの人が来る場合もあります」
「フーン」

常連の人達 御盆 休みでしょうか?


庄内からの朗(老でなく朗)夫婦2組。誠に 老でなく朗と賑やかです。

涅槃門前ベンチに。「まず座らせて 話続けて」 合理的です。老体は労わるべきです。
「庄内のお殿様 酒井様ですね 殿様が国元にお住まいしているのは、庄内の酒井様と奥州仙臺の伊達様のみと聞いています」

「我らは酒田で、殿様は鶴岡。庄内と言わらても・・・・。所で 伊達様のお住まいは?訪ねて行きたい」
(酒井家の領民であっても 家臣でなかった人が、世が世であれば62万国の太守を訪れて 拝謁が許されるものか。無礼者)

「伊達様のお住まい 住所は、私 わかりません」  チッヨン。

説明が終わらない内 質問が飛んできます。年寄りの割にセッカチです。


岐阜からの老々の母娘様と女子大学生2人 4人一緒にガイドしました。

蚊・蜂 頻繁にと女子大学生2人に付き纏います。

「此処の蚊・蜂は 若い雄なのか 若い女性が好きなの」
「私達 若く無いの? 蚊も相手して呉れないの」

あちらが立てば、こちらが立ちません。参りました。

岐阜のお客様から、「62段・・62万石・・・はわかった。で1石は何キロ?」に「 150〜160`です。」
此処までは 順調に応えて来ました。

「では、1石は何斗ですか? 何俵ですか?」
「はい 昨晩 仙台藩歴史用語辞典で予習しましたが、寄る年波で 抜け落ちました。勘弁してください」とギブアップ・

本殿で、「再建費用は幾らですか?」

「ハイ、1975年から79年迄 5年の歳月で8億円でした。1637年創建時の費用は約30万両です」
「それ時価換算すると 幾らになりますか?」

「換算の方法・計数が色々あると思います。時価と申されても?勘弁してください」とギブアップ。


女子大学生2人、本殿に近くなる都度、精彩が増して来ます。既に 政宗公ともご対面しているとの事。
5月24日の遠忌法要にも仙台七夕にも お詣りに来て御対面をしたとの事。

御当主が法要の際、伊達武家作法で、指を閉じ 手全体を延ばし 不動の態勢で直立されているの知っています。との事。
一般席からは、指の姿 見えない筈ですが?

政宗公の熱烈なフアンで、年5〜6回はお詣りにきており、卒業の暁 瑞鳳殿で働きたい。
学芸員に就職出来ないか? 又 ガイドになるには、どうすれば?


瑞鳳殿ガイドは、お客様に無料でガイドします。瑞鳳殿の職員ではありません。ボランティアです。
社会奉仕ですから 俗に云う「アゴ・アシ・ケガ」交通費・昼食費・怪我治療費に勉強の図書費等も 一切自己負担です。
現金支出はあっても。収入はありません。
あるのは、お客様が満足した時 「ありがとう」「聞いてよかった」の お言葉です。

若い人には、厳しい条件だと思います。

8月3日にも、若い女性が、「働いていて土・日は時間があるからガイドしたい」 と来ました。
上記を話しましたら以後応答ありません。

20代のお嬢さんが ガイドをして呉れれば、お客さんも喜ぶでしょうから歓迎ですが。



8 月 18 日 (月)  



江戸屋敷

昨日の「文京区白山に 伊達家の屋敷があった」について T様から、宇和島伊達家の屋敷があった と御教示頂きました。

麻生・六本木に上屋敷 恵比寿に下屋敷があったは、知っていましたが、白山は知りませんでした。

T様 御教示ありがとうございます。

現住居表示での地名地番を調べてみます。判明次第 ご報告致します。


瑞鳳殿売店

掲示が「秋モード」になりました。
津軽では、「ねぶた」が終わると ストーブの内覧会が始まり 一気に越冬準備に入ます。

仙臺では、残暑を楽しむ と思っておりましたが 気温が一気に下がりました。
それ故でしょうか、瑞鳳殿売店の掲示が、11月の紅葉 絶景の写真になりました。


9月14日 岩出山で開催される「第51回政宗公まつり」の劇画調のポスターが外されました。
掲示場所の移動です。

破棄されると、早合点した爺様が「頂きたいですが」

「ごめんなさい。上げられないの。オークションに出品して 不当利益を稼ぐ 不逞の輩がいるもんで、全部 通しの管理番号が付いているの。万が一 流れた場合 瑞鳳殿に責が問われるの」

目先の効く輩の為 善良の爺様の楽しみが奪われたようです。



8 月 17 日 (日)  



お盆休みの最終日。小雨の中 今日も参拝のお客様 昨日より少な目ながら続々と。
午前 7名で対応。

人品卑しからぬご夫妻とご令嬢。

「どちらから」に、「東京都文京区白山から・・・」
「詳細に、ありがとうございます。伊達家と御縁のある所からか?それによりガイド内容を替えますので。詳細な個人情報は結大切に」

「イヤ。伊達家とのご縁で、妻子共々 参りました。私の近所に伊達家の中屋敷があった。最近迄 伊達と名乗る方の住まいがあった」

あかとんぼ の記憶では、上屋敷が浜屋敷(港区東新橋1丁目) 中屋敷が愛宕下屋敷(港区新橋5・6丁目付近) 下屋敷は 麻布・大崎・品川の屋敷が浮かびます。列挙しました。

「違う。東京の地理不案内ようなので、白山とは・・・・」と語り 名刺を下さいました。

帰宅、電子地図、江戸切絵図に 仙台市史近世2(特論仙台藩江戸屋敷とその変遷)を見ましたが、確認出来ませんでした。
地元の方が 申すことですから なんらか伊達家と御縁があるのでしょう。

伊達政宗公フアンらしく、小説を乱読されているが、面白く書いているが史実と異なるよネ と洩らされました。


政宗公が小田原に参陣した際の場面、「白衣に髪を紐で結び 進みでる。秀吉が鞭で政宗公の背首を叩く」
ドラマで迫力のある場面です。

これが、ある勉強会で 「史実に無い」と断言された講師がおられる。
治家記録に記録されて居ないかも、しかし、小林清治先生の著書には、ある人の記録にあると記載されている。

「史実に無い」と断言は、如何 理解されますか と ある方から問われました。

人物叢書伊達政宗 小林清治著 と 史伝伊達政宗 大和田哲男著 は信頼おけると言われ 基本図書としています。
故に、小林清治先生の著書を信じます と答えました。


「静岡県から来ました」で、「ここは久能山東照宮と同じ 桃山様式・・・・・」と語り出したら 「ガイドさん やめて。 私達 久能山に行った事無いの、知らないの」

仙臺の人でも 瑞鳳殿をお詣りしたこなく、日光に、久能山に 行きますから。同じです。


小雨で、売店も満室で、四阿でKさんと打ち合わせをしていたら 若い祖母と若夫婦が赤ちゃんを抱いて、四阿にハイスピードで直進してきました。
ガイドのご依頼かと 二人同時に起立しましたら、背を素通りしました。

祖母が「2ケ月です。おむつ交換します」「貴女 さあー」
二人は雨天に飛び出しました。

2ケ月の赤ちゃん 何時間間隔でおむつ交換するかぞんじませんが、雨天の中、政宗公の面前で おむつ交換して貰った この赤ちゃん 大物になるでしょう。



8 月 16 日 (土)  



お盆休みは続いています。

子連様 2世代、3世代が続々。
昨15日 やはり 参拝者多数でした。

Oさん、Kさん、Nさんの重鎮がガイドされました。半日で50人以上ガイドされています。
逆算しましと 参拝者は全体で1000人以上です。


昨日、本殿開扉されました。この情報を知って 参拝された方が居たそうです。
瑞鳳殿公式・あかとんぼ いずれのHPで この情報を流しませんでしたが。


仙台市南部にお住まいの男性。
1945年生まれで、1975年に瑞鳳殿の再建工事開始前 父親と訪れた。
訪れる人は居なく閑散としていた。
木の墓標があり、石組があった。石組の上り遊んだ記憶がある。

今は、立派な廟があり、参拝者は 一番丁の雑踏の如く です。
隔世の感 極まりない と洩らしていました。



8 月 15 日 (金)  



1945年8月15日

朝から灼熱であった。
夜来の空爆で、仮眠した避難先からの帰宅。栄養失調の幼い身には ことのほか暑かった。

仙台は7月10日。焼夷弾の雨で 三霊屋は焼失をした。

8月3日の瑞鳳殿主催「政宗塾」で、御当主は「焼夷弾の不発弾を経ケ峯で、再建工事中 何発か 発見された」と申された。

再建工事が開始されたのは、1975年 被爆焼失して30年後です。それまで、不発弾の調査がされなかったのか?疑問です。

御当主が 不発弾を発見された ではなく 発見された不発弾を御覧なられた をあかとんぼ が聞き違えたと 思い返しました。



8 月 13 日 (水)  



宇和島のお客様

7月27日、例の如く「どちらから?」に、お客様 即 「宇和島」と返って来ました。

全国一 早く櫻が開花する都市は 宇和島です。
その観測に 姉妹都市 (政宗公と秀宗公)の御縁で 2008年3月1ケ月 宇和島市に滞在しました。

その時 市役所のSK様に 大変お世話になりました。
その旨を申し、SK様の御親戚を ご案内する気持ちでガイドしました。

そのお客様 、SK様に この出来事をお話しされたそうで、SK様から メールを頂きました。
嬉しい・懐かしい。


本物台風と共にマゴ台風が襲来、8・9・10日とガイドを休みました。
13・14・15日は、お盆です。佛様は祭祀継承者宅に里帰りするそうです。
政宗公は 18代御当主宅に里帰りされたでしょうから ガイドを休みます。



8 月 8 日 (金)  



七夕3日目 暑さは峠を越えました。
あかとんぼ は、家庭医から「8日8時30分から総合健診を実施する」のご指示があり ガイドを休みました。


ベンチ

七夕ナイトで 瑞鳳殿涅槃門前 全ベンチが感仙殿地区に移動しました。
仲間 ほぼ全員 腰痛持ち です。ガイドが始まり 口が回転すると 腰痛は感じません。

Aさん Bさん 「本日 整形に行きます。11時限度です」と9時早々 宣言されました。
立って 直立しての 待機は 実に厳しいです。
下手すると 10時にガイドが居なくなります。

事務所に駆け込み ベンチ1脚の特配を 陳情しました。


前立

「政宗公の兜の前立 なぜ 半月なのか?」 

殿と部下では、半月の太り方が 厳然と区別されているは知っていますが、伊達家の前立が 半月なのか?基本的な事ながらしりません。

お客様には、勉強不足です と謝りました。

以上2題 昨日の補足です。


仙臺七夕

始めて? 2000年以来 初めて 城下の豪華な七夕を見ました。

ガイドを始めてから 七夕の際 瑞鳳殿でガイドに専念し 実物を見ていません。
お客さんには、テレビと新聞記事で見た様子を 語っていました。

相模の國から 小学生の孫が1人で 来仙しました。駅で迎え 一緒に鑑賞しました。
其々 力作です。

瑞鳳殿の吹き流しと同じ模様は 見当たりませんでした。瑞鳳殿の特注品?



8 月 7 日 (木)  



炎暑・酷暑

今日も暑いです。

母娘 「暑い」「暑い」と連呼しています。
帽子・日傘もタオル・手袋等の防暑対応 一切なし。女性で これ程 無防備は珍しい。あかとんぼ でさえ 帽子をかぶっています。

「仏教大学を卒業して居るから仏教は詳しい。日本史は知らない事はない」と娘様 豪語し ガイドを依頼して来ました。

「1567年永禄13年8月3日出羽國米澤郡で生れた政宗公・・・・・」に、「アッ 知ってる」

「ハイ それでは 前段をカットして・・・・・・」
「ハイ ここは涅槃門で、門を潜れば 涅槃の世界。外妻の彫刻は 唐獅子牡丹で・・・・・」

「オジサン 涅槃って なんですか?、唐獅子牡丹は、何を表しているの?」

涅槃も、佛陀(釈迦)と佛母(摩耶)も知らない仏教大学卒業生がいるから あかとんぼがガイド出来る譯です。あかとんぼの存在価値がある訳で、内心 感謝しつつ本殿までガイドしました。


中2と小5の学童つれ親子。
軽挙妄動の振る舞い 全く無く 沈着冷静に聞いています。孫に近い学年齢です。

孫をガイドして居る気分で 言葉(用語)を選びガイドしました。親御様の完璧な家庭教育に 敬意を表します。 


昨日、群馬県から来ましたと称される74歳77歳の兄弟にその配偶者4人。
「兄は耳が遠いので トンチンカンの反応があるかも、大声でガイドしてください」

補聴器装着していましたが、完全ではない様です。
あかとんぼ は不都合時に発病する高齢者難聴です。

この兄様から、「日本最古の東照宮は どこにあるか 御存知ですよネ。私はコ川町に住まいしています」に、本日 調べました。

居所は、群馬県太田市コ川町 ありました。
日本最古の東照宮は、

「世良田東照宮(せらだとうしょうぐう)は、群馬県太田市(旧新田郡尾島町)世良田町にある神社である。「東照大権現」としての徳川家康を祭神とする東照宮の1つである。1617年(元和3年)に駿河国久能山(久能山東照宮)より下野国日光(日光東照宮)へ家康の遺骸を改葬した際に建てられた社殿を[1]、1644年(寛永21年)に上野国世良田へ移築し、創建された。太田市内の他の社寺、館跡とともに「新田荘遺跡」として国の史跡に指定されている」 (Wikipediaによる)とありました。

お客様から 教えて頂きました。


只今17時15分。暗雲・雷鳴です。
昨日 城下北西部は降雨ありませんでした。経ケ峯から南は 降雨があったそうです。
この様子では、 今日も経ケ峯は 降雨かも?



8 月 6 日 (水)  



炎暑

本日から仙臺七夕の始まりです。

本殿が開扉され 政宗公に御対面出来ます。
お客様は、特別に開扉されたとは 夢にも思わず 当然との様子で参拝されている方が多数です。

ここがガイドの出番です。

本殿前でガイド中 大きい 真っ黒い 揚羽蝶が開扉された開口部 御尊像を懐かしむように舞っていました。 
黒は 伊達家のカラーです。揚羽蝶が描かれています。

御尊像を懐かしむように舞っているのは?
これら お客様に 丁寧に説明しました。なんと感じられたでしょうか?


9時 現地最高責任者常務理事先頭に、伊達家御当主の指導のもと 公益財団法人瑞鳳殿全職員 総力を結集 飾り付けが行なわれました。

先ずは、瑞鳳殿を参拝してから 城下の七夕を見学予定のお客様 続々。

早速 回答出来ない質問です。

仙臺七夕は和紙で出来ており、7種類あり 七っの願も わかった。真ん中の吹き流しに 伊達家の家紋(三引・竹雀)あるのも解かった。
ところで、吹き流しに 「花札」の模様が 彦星・織姫の棹 双方にあるが、伊達家と「花札」は どんな関係か?


涅槃門の外妻の彫刻 「唐獅子牡丹」です。
「唐獅子牡丹」を知らないお客様が 大方です。稀に 花札の唐獅子牡丹を即座に 思い出す方もおられます。

ここでは、御釈迦様とお母様 佛の世界を表現しておりますと ご理解頂けます。
さて、「仙臺七夕」「唐獅子牡丹」「伊達家」と三角関係を問われても。

学芸員席に急ぎました。

「吹き流しの中央部以下でしょう。単なる デザインの問題です。期待されるような意味はありません」でした。


「瑞鳳殿の七夕は 彦星・織姫の棹が交差しています。作った職員の情け深い 情の表れです」
聴いていた北関東からのお嬢さん

「あら、私の方では、天気が良いと 天の川に仮設の橋が架かります。用事が済み次第 早々に帰らないと 天候激変すると来年まで 帰られなくなります。知らなかった?」

「知りませんでした」
用済次第 早々別離とは 情が無いこと。可哀想。


本日のお客様「瑞鳳殿参拝したくて仙台に来たので、七夕はオマケ」と称して ゆっくり参拝される方 多数でした。


今晩から 七夕ナイト が始まります。特発バスもあります。



8 月 5 日 (火)  



政宗歴史塾

本日の河北新報が 開催された旨を伝えています。
講演小憩時、取材の藤沢記者と名刺交換し ガイドの会の活動を広報。いずれ 現地取材を約しました。




伊具郡大内邑で、狼の木像や石碑が発見されたと 昨日の河北新報が大々的に報じています。
同邑出身のU氏は、最近 明治期に作られたもの 今なぜ 騒ぐのか?不思議と語っています。

あかとんぼ邑は、開邑までは 「中山御林」で、御狩場でありました。

政宗公に始まり歴代の殿様が軍事訓練を兼ね 此処で狩をされ、1717(享保2)年以降、114年間で 20回行われ、獲物総数は、鹿と猪併せて1242頭。

1734(享保19)年の狩で、1日に鹿134頭、猪51頭、吉村公自ら鹿13頭、猪3頭を仕留めたと「東藩史稿」に記録されている。
(この項、中山地区平成風土記による)

これ程の 鹿・猪が生息していたのであれば、当然 狼も生息していた。
鹿・猪が狩の対象になる事は、田畑を荒らす害獣で、対象にならない 狼は益獣となります。


狼は益獣 人間との交流を示す史蹟と仙台市教育委員会の説明板が、中山街道添にあります。

説明の概要

実沢村西後山の水澤庄之助が喉に骨が刺さり 苦しんでいた狼を助けた。感謝した狼は、庄之助が中山街道を通るたび、護衛にあたった。
庄之助は、お握りを残し、狼に与えた。
庄之助が病床に就いた時、家まで来て啼いていた。
之を哀れみ 戸平山に三峰山の碑が建てられた。これが史蹟「狼石」の由来。

伊達家領内(実沢邑・大内邑)に 共通する オオカミ信仰を 示すものではないでしょうか?


なお、史蹟「狼石」について、
第29回仙台市史講座で、菊池勇夫 宮城学院女子大学教授が スライドを用い説明されました。

史蹟「狼石」は、単なる伝承では無く 仙台市と大学教授 認定の話となります。



8 月 3 日 (日)  



本日も炎暑

永禄10年8月3日(1567年9月5日)、出羽國置賜郡米澤で 男の子が生まれた。
後に、その名を轟かせた 伊達政宗公 です。

生誕の時刻は、不詳です。

この生誕の日 8月3日に因み、公益財団法人瑞鳳殿では、毎年、此の日「政宗歴史塾」を開講しております。
今年は、御当主が講師で 「伊達政宗公の御霊屋 瑞鳳殿 発掘から40年」の演題で開催されました。

会場は、瑞鳳寺向 天龍閣大広間で、ガイドの会仲間15人を含め 御当主の人気で、80人が参加しました。
外気は35度を記録しているの噂です。人々の発する熱気で 冷房が当初 効かず 汗タラタラ。 

御当主は、笑顔で、再建にまつわる 記録に無いエピソードを交え、御当主ならの心情も披露されました。
細かい事は 記載しません。

ガイドの際の心強いお話でした。ガイドで ポツリポツリ ご披露致します。瑞鳳殿に参拝にお出で下さい。


肥前様 炎暑の中 遠路・早朝から駆付けられました。
伊達家関連寺院に精通している仲間NA氏と 伊達家関連寺院について意見交換されていました。

御当主の著書(独眼竜政宗の素顔)にサインを 何時の間にか 御当主から頂いたそうです。
御当主のお名前 泰 は、本来は この泰では 無く IME手書パットにも 無い 泰 です。

真筆のサインを 頂いたは、最高です。


ガイドの希望者が来ました。
「土・日 時間があります。若いけど 出来ますでしょうか?」

「年齢・性別 関係ありません やる気 です。歓迎です」

SMさんに ガイドの概況を説明して貰い、お名前と連絡先を交換しました。

20歳のお嬢さんが、参加されれば 雰囲気が一変 ガイド依頼が激増するでしょう。




8 月 2 日 (土)  



炎暑

お客様は参拝に見えますが、ガイドする仲間はミイラになったか?
午前 Aさんとガイド。

Aさんからの オハナシ

1.7月31日お昼 仙台は暗黒・大落雷・大豪雨・大洪水に見舞われ全国ニュースになりました。
 ガイドが終り 涅槃門から現世に出た途端、ポツリと。四阿に避難した途端、バリバリと落雷、大粒の雨。お客様も避難して来ました。

 雨が横殴り、濡れる状態にとなり、事務所に救援依頼の電話をして お客様を事務所に移動して頂きました。
 70年の人生で、怖さ 最大の雷雨でした。

2.過日、お嬢さんをガイドした際、本殿前で 「政宗公ご尊像」の写真をみせたら
  「アラ 可愛い お人形さん」と 言われた。

  確かに、御木像は、人形ではあります。真面に 正面から 人形と言われては?


あかとんぼ の話
1.猿飛佐助?
  涅槃門の3段石段合計で、25cmの3段で75cm、幅 100cmはあります。後期高齢者には難渋の石段です。
  3段石段を飛び、上から ポンポンと飛び降りてきた少年がいました。

  片平児童館の小3で、名前は「○○ 藤次郎」とか。政宗公の幼名です。エッと驚くと ニッコと笑い 「ソウジロウ」と。
  爺様 手玉に取られました。

2.手水舎は、てあらい?
  手水舎前の「ガイド居ます」の看板が眼に入らず、手水舎に向かうお客様が多数でした。

  「ハーイ ここで 手を洗いましょうーー」と おかあさんの号令。
  「ハーイ さっき トイレで手を洗いました。汚れていません」 子供達 一斉に反論。

  おかあさん 手水舎は 穢れを 流す 清める が目的です。「清めましょうー」の号令が 正解ですよ。


3・会津の人
  職員駐車場の停め、出口から入った人達です。
  戊辰の役弔魂碑が目の前です。会津から来たとの事で 説明しましたが 反応は皆無です。会津の人にしては異例です。

  政宗公は、1589(天正17)年6月黒川城に入城していますが、興味も希薄な感じ。
  「政宗は、会津を攻めています根」と語りかけてきました。

  「ハイ。1585(天正13)年5月、耶麻郡檜原を攻めています」
  「ガイド 麒麟まで 何分かかるかね」「麒麟麦酒ですか?3〜40分でしょう」

  「今10時20分です。11時の予約です。急いでください」
  この方々 若松の方ではなく、耶麻郡檜原村の方で、戊辰の役に興味なく 麦酒のつまみ 時間調整に参拝されたのでしょうか?





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