2015年4月の日誌
| 前々月 | 前月 | 翌月 | 翌々月 |




4 月 29 日 (水)  



昭和の日 旗日

黄金週間はじまる?
続々と参拝にお客様がお出でになります。

高齢の男性2人。パンフを広げ 涅槃門を見上げ 何か一言言いたげな 素振り。
「なにか?」
「いや別に」 と申すながら 一言ありたげ。

相当の知識をお持ちの様子ながら聞き役に徹していました。
最後 「ガイドさん勉強して居ますね」  「イヤ お客さん程では程では}
(宮本武蔵と佐々木小次郎 巌流島の戦い かな???)

結果的に 本殿まで 59分のガイドでした。
今日中に宮崎に帰らないいけない。仙台空港12時必着 と駆けてお帰り成りました。

続いて 津軽・東京・神奈川からの60代の若い老人夫婦。何れも 時間無制限でガイドをしてくれとの事。

口の中 渇きました。カワカワです。
次回から 腰に水筒を下げなくては。手水舎の水は あかとんぼは飲みません。


お客さんからの ご質問に

●「昨日 瑞巖寺をお詣りしました。御位牌に「瑞巖寺殿前黄門貞山利公大居士神儀」とありましたが これ全部 所謂 戒名ですか?」

法諡(ホウシ) 死後に贈られた佛教徒としての法名と称号です。
御位牌の下段に 解説板があり、法名・貞山利 号・瑞巖寺殿 と記載されていませんでしたか?
なお、黄門は中納言の唐読です。寛永3年8月19日 権中納言に任じています。


●「下のお寺(瑞鳳寺)の門前に(位牌寺)と 書かれて居たが、御位牌は何個あっても 構わないのですか?」

瑞巖寺と瑞鳳寺と 両寺にあります。お寺様が決める事ですから 構わないでしょう。

位牌 - Wikipedia とは。

位牌(いはい)とは、死者の祭祀のため、死者の戒名などを記した木の板をいう。

中国の後漢時代から儒教の葬礼に用いられる神主(しんしゅ。死者の官位・姓名を書く霊牌。)と同視されたため、「位」牌と呼ばれる。またその起源は、霊の依代(よりしろ)という古来の習俗と仏教の卒塔婆が習合した物ともされる。日本には禅宗と共に鎌倉時代に伝来し、江戸時代に一般化した。

用途から大別して、内位牌(白木位牌)・本位牌・寺位牌がある。


福島美術館

春の展覧会 「 鳥づくし ?鳥から たどる 絵画の見方?」を開催中です。
行きたい。行かなくては と思いつつ 今日になり。

朝 加藤学芸員から 「あかとんぼさん行きましたか? 綱宗公、吉村公の作品 数多く展示されています」と教えて頂きました。

全41画に
吉村公の作品 秋草鶉図、近江八景画帳、大井川鵜飼図
綱宗公の作品 花鳥図
の4作品が目録にあります。

明日にでも 行かなくては。



4 月 27 日 (月)  



仙台藩志会総会

昨日 全国から100余人が出席 開催されました。

冒頭の 総裁 伊達家十八代当主 伊達泰宗様からご祝辞を頂きました。
強烈に残ったお話は、
1636年寛永13年5月23日、正室愛姫と末娘(京極高國正室 当時11歳)からの対面の願を退け、それぞれに形見を遣わした。
(この表現は、小林清治著 伊達政宗 から引用しています)
これを 一つの 男の美学 と捉え 説かれたことです。

祝辞を録音とればよかった と悔やむ内容のご祝辞でした。


議事は、役員の解任・選任を含む5議案が可決されました。
続いての講演は、一力雅彦河北新報社代表取締役社長の「震災復興〜報道の現場から〜 でした。

懇親会では
岩沼の政治家の方 「伊達家家臣の末裔」と申されていました。

岩沼に 在郷 伊達家直臣がいたのか? 疑問が湧きました。
岩沼市史が編纂中と聞きました。この辺が解き明かされるでしょうか?

ある方 
「資料の仙台藩重臣一覧に 我が先祖の名前がない?」
に、 ある方
「お宅のご先祖は 能力があり過ぎて 改易されたのでは?」
「そうかもしれない。でも、
曽祖父の代? 明治初年 角田 石川家の領内で郵便局を経営し、地元名士であったから ・・・続いているかも?」

仙台市史にも小林清治著伊達政宗にも 出て来ない話が聞けました。
例年は 先祖を語る人が 居ませんでした。今年は なぜか 居ました。裁のご祝辞に触発されたのか?


徳川家康400遠年忌に因み 「徳川家臣団 子孫たちの証言」を静岡新聞社が刊行しました。

構成は、
冒頭 ご挨拶が 徳川宋家第18代当主徳川恒徳 氏
第1章 若き家康を支えた家臣たち
     譜代家臣 旗本水野家子孫 ほか8家
第2章 家康のもとで活躍した家臣たち
     旧武田家臣 旗本萩原氏子孫 ほか6氏
徳川家康年表
監修 大和田哲男先生

まだ 目次を読んだばかりです。
が、これまでの歴史書にない 中堅武士の生き方を知れるのではと期待しております。

今一冊 「なぜ家康の家臣団は最強組織になったのか(徳川幕府に学ぶ絶対勝てる組織論」小野雅彦著 竹書房刊 を手元に。
併読 します。
学者の分析と子孫の思い との一致・不一致が どうでるか?



仙台藩志会総会での発言を聞いて 徳川家に倣い 「仙台伊達家家臣団の末裔 先祖を語る」を 1冊の書にすればと思いました。
伊達政宗400遠年忌は2035年です。 20年後です。 それまで待つのは かなり無理では ないでしょうか?
180遠忌が 最高の機会であったのでは?。



4 月 26 日 (日)  



詰め物

瑞鳳殿で政宗の棺桶に 水銀・石灰・塩を詰めたとガイドされていますが、その根拠は?のお尋ねが 過日ありました。

「瑞鳳殿 伊達政宗公の墓とその遺品」 105頁棺桶に次の通り記載されている記事によりガイドしております。

「政宗の遺体は江戸で柩の中に水銀・石灰・塩を以て詰め固めて乗物にいれたとか、牡蠣灰・塩・炭などを詰めて、仙台におくったということは「貞山公冶家記録」や「御名語録」に記されている」
「水銀・塩は再度の分析によっても検出されなかった。」


牡蠣灰と石灰は、同一 焼石灰 と考えています。

水銀・塩は、入れたとする記録がありながら 検出されなかった理由は 見当つきません。

塩は 古来より防腐剤として用いられていました。
検出され無かったは、極微量であった為、防腐より お浄め の目的であった と推察致します。

水銀は 死に化粧  白粉では? 昔のお白粉は 鉛を含有していたと聞きます。この鉛が水銀になったのでは?
只 水銀を入れた の表現には 疑問が湧きます。


忠宗公 の場合

「感仙殿 伊達忠宗公の墓とその遺品」193頁に
「上述の胸郭内の水銀は収集できたものだけで800gを超え、石室床の石組の間に落ち込んでしまったものも相当量にのぼる。以上の所見は義山公冶家記録巻之十 万治元(1658)年7月12日の「尊骸ハ御束帯棺ニ入レ、汞蠣灰ヲ以テ詰メ・・・・」と記されている埋葬とよくいっちすり。」
とあり、それはそれでよいです。

然し 忠宗のご遺体に 水銀を注入した意図が理解できない。


綱宗公 の場合
水銀を詰めた記録がない。
ただ、

あかとんぼ、渡部学芸員は、元仙台市文化財課長早坂春一氏の講演で「甕棺開封の際、若年者の将来・子孫を考え 自ら 開封した。
ご遺体(骨)周囲に水銀があった」と 述べられたを 記憶しております。ガイドしております。

今史料と不一致なのは、早坂氏が 木桶と甕と 明確な違いを超越し 感仙殿と善應殿と混同され 講演されたと推測するのみです。



4 月 25 日 (土)  



9時前から 修学旅行 70〜80位の団体が入りました。
昨日 平泉を参拝、秋保温泉に投宿、8時ホテルから直行とか。
涅槃門前で 2組に分かれ 集合写真を撮影 Uさんが ガイドしていました。あかとんぼ は間に合いませんでした。残念。

神奈川県(横浜・川崎・鎌倉でない地区)・東京の人 3組の方々を 時間無制限でガイド致しました。
特記するご質問はありませんでした。


昼 2副会長 2幹事と報連相。
午後 仙台藩志会事務所に。明日の総会準備作業。(明日のガイドは休みます)


23日日誌内容に ご確認がありました。追記致しました。
あかとんぼ に転記誤りありません。でも 確かに 不可解です。





4 月 24 日 (金)  





仙台市博物館に奈良 薬師寺名宝を見る・聴く

 奈良・薬師寺は、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を祈り、680年に建立を発願した由緒ある古寺です。
1300年を経た現在まで数々の名宝が大切に伝えられ、「古都奈良の文化財」として世界文化遺産にも登録されています。

 麻布に描かれた独立画像として現存最古の彩色画<国宝 吉祥天女像(きちじょうてんにょぞう)>(奈良時代)や、
優しい微笑をたたえた<国宝 聖観世音菩薩立像(しょうかんぜおんぼさつりゅうぞう)>(飛鳥〜奈良時代)など、
世の安寧を願った古代仏教文化の粋を展示されていました。
 
 本展示の講演会講師は、薬師寺管主・法相宗管長 山田法胤様。
1940年に生まれ、1955年小僧で入山し現在に至る。寺僧は14人で3人が仙台に出張中と人手・後継者の不足を婉曲に訴えました。

 法話? 説法? 含蓄 豊でした。
 メモした一部
 ○吉祥天女像は モナリザより素晴らしい。(あかとんぼ も拝見し納得しました。聖観世音菩薩立像は七世紀の作品に見えませんでした)
 ○日本の植民地政策は佛法に基ずくものであある。
 ○育とは 鳥が羽根を組み その中で小鳥を育てるに起因している。(涅槃門の唐獅子牡丹の構図です)
 ○自灯明 釈迦は頼らない と云った。 人に頼るな。


200人の募集に600人の応募があったそうで 抽選に漏れた方々に ロビーにてテレビ中継をしておりました。

早目に博物館に、時間的制約があり 有料音声ガイド借用しないで 展示を見学後 講演に参加しました。
展示を見てから講話を聴いたが 説法が理解出来 正解でした。

 



4 月 23 日 (木)  



晴天温暖 新緑が芽吹いています。
蚤の額程に狭いあかとんぼ屋敷内外の清掃に追われ 瑞鳳殿ガイドを休んでいます。


4月9日日誌に
「公園課の図面に、善應殿の南側の位置から 南に道があり 白表示の画地があります。

この図面では 瑞鳳殿から御子様御廟の画地を白表示しております。とすれば 霊廟関連施設が所在した所?

現地は草木が繁茂していますが 平坦な画地でした。 
「明治8年10月 宮城郡仙臺町地引図」には、位置は多少 ずれますが 寺地らしい表示があります。

綱宗公に殉じた 近習頭・熊谷斎直清が出家した際の 思敬庵 の跡ではないかと思案しています」旨 記載しました。

4月19日瑞鳳殿ガイド新人研修の際、渡部学芸員から

「思敬庵 の跡ではないと思います。(感仙殿・忠宗公、善應殿・綱宗公の墓とその遺品)掲載、W藩政時代の感仙殿・善應殿 佐藤巧 著
挿入1 瑞鳳寺諸廟への藩主御参詣図を ご覧なりましたか?」のアドバイスを頂きました。

本図は、1800年頃の作図と推定し、2014年07月16日開催の瑞鳳殿ガイドの会の研修の際 あかとんぼは資料冒頭に提示したものです。
挿入1 瑞鳳寺諸廟への藩主御参詣図を開きました。
右に(雄心院) 左に(山庵 天桂院)と 記載されています。

綱宗公に殉じた近習頭・熊谷斎直清が出家した際の(思敬庵)は、表参道右側に大きく記載されています。

結論として
公園課図面記載、善應殿の南側の位置から南に道があり白表示の画地は、天桂院の跡地でしょう。


仙臺市史7 別編5 瑞鳳寺の項に、次の通り記載されています。

3.天桂院
 旧号慈眼庵 善應殿の南、小径を距て南側西寄の所にあった。延享5年(改号寛延元ー1748)十世大林和尚の時、宗村の第1男天桂院僭山(久米之丞 延享2年7月早世、8)の霊牌を安置して天桂院と改め、大林和尚を中興の開祖とする。
 本尊は観世音菩薩で、藩から16石を寄付せられ、別に天桂院弟妹の供養料金三百両を附された。
 維新後堂宇朽廃。明治22年4月刈田郡大鷹澤村字和尚堂に移転し、白石傑山寺の末寺となる。

2.雄心院
 旧号妙音庵 開基は瑞鳳寺七世桂林和尚で釈迦牟尼佛を本尊とする。
 「明治3年寺院由来調」に寄れば「雄心院、天桂院、泰涼院、定光庵、般若院、龍興院、以上六ケ院は寛永13年6月の建立で、御廟勤番仰付けられ、1ケ寺に付き1貫六百文つつを寄附せらる」とある。 
 八世百川和尚の時、吉村の第1男雄心院俊山(千五郎、村匡、享保7年12月早世、年14)の霊牌を安置して寺号を雄心院と改め、百川和尚を中興の開祖とし6石の地を寄付せらるという。

1思敬庵
 本尊は阿弥陀仏で、正徳2年(1713)、伊達綱宗(同年6月4日卒)侍臣.熊谷斎直清なる者僧となって渓叟と号し、綱宗の冥福を祈る為に修道に努め、草庵臨川庵を結んで行持に精進しつつあったのを、吉村襲封の後之を聞き寺内に庵を立てて渓叟老栖の地とし、瑞鳳寺六世煙永和尚を開山として之を思敬庵と号してたという。
 其の子喜太郎直道、藩主に請うて五十石の地を割いて寄進し、同寺の傍院とした。
 維新後維持困難となり、明治36年12月、愛知県中島郡国分村大字矢合に寺号を移転し、廃寺となる。

お断り
上記 2.雄心院の項 寛永13年6月の建立は 誤記ではないか? は寛永13年は1636年政宗の亡くなった年です。」
のご指摘を頂いております。

仙臺市史には 本頁の通りで あかとんぼ の誤記・転写の誤りではありません。

感仙殿を建立する1659年(万治2)に、本地の千体仏堂、虚空蔵堂、大萬寺を愛宕山に、大蔵寺を東南の地に移転させています。
この時、六ケ院が所在したの記録がありません。

般若院は、廃寺の項に
明治37年3月18日廃寺となる。臨済宗瑞鳳寺の末寺で、越路にあり、観世音菩薩を本尊としていた。寛永19年(1642)清岳和尚の開基、又年代不詳七世性林和尚、享保中八世百川和尚の開基とも伝えられている。

寛永13年6月の建立は、疑問です。



4 月 19 日 (日)  



新人研修

20代3人 40代2人 60代3人 日本語以外も堪能な方々が 4月から会に加入されました。
本日 新人研修を9時45分から11時57分まで開催しました。

研修内容は、
1.瑞鳳殿ガイドの基本・心得を資料にて・・・・K副会長
2.ガイドの実際 瑞鳳殿から感仙殿・善應殿まで・・・・公益財団法人瑞鳳殿渡部冶子学芸員
3.質疑応答
4.既研修資料
 (1)瑞鳳殿英語ガイド(英文・和文セット)  高橋由美子 様 (東北外国語観光専門学校)
 (2)伊達家の家紋と政宗の陣羽織      高橋あけみ 様 (仙台市博物館主幹学芸員)
 (3)伊達家墓所発掘にみる三代の個性   長島栄一  様 (仙台市文化財課課長)

 (4)瑞鳳殿ガイド研修資料           氏家 宥   様 (瑞鳳殿ガイドの会副会長)
 (5)仙台藩士の老いと儀礼           菊地慶子  様 (東北学院大学 教授)

 (6)企画展・仙台藩主勢ぞろい          2014.博物館パンフ 

 (1)-(4)は、ガイドの会研修資料  (5)は 仙台藩志会伊達学資料


2.ガイドの実際を 全編聞きたかったがのです、諸事あり 中間から後半を聞きました。

目から鱗は、
拝殿の扁額 (国宝時代)は、佐々文山(1659-1735、江戸中期を代表する{唐様}の書家 武家書の大家)の書でした。
2007年6月から2008年12月迄 調べ 当時の日誌に記載しました。

未解決であったには、
(1) 500両のご褒美を伊達家から頂いたとの事だが、根拠は 史料は?
(2) 瑞鳳殿建立97年後と 半端な年に依頼したのか?

(1)について 200両とも500両とも云われていますが、それを記した伊達家文書・史料は無いそうです。
  「500両のご褒美」の話しは 今後 封印です。

(2)は、100遠忌法要(記念?)との暗示がありました。当時は数え年です。満年齢思考の誤差?


本日 JTBガイドの当番日 
 ご依頼頂きながら待機中で 御断りしました お客様 何組かありました。待機解除後 本殿迄追いかけ ガイド致しました。
満足して頂き 安堵しました。


ガイドいませんか? 何処にいますか? の声を9時30分頃頂きました。

Uさんに お願い致しました。以後 Uさんは 視界から消えました。(消息不明?)

12時に 詰所に Uさんが戻って来て 「熱心で 勉強して居る お客さん 御子様御廟まで ピッチリ2時間余のガイド。疲れた」と 自配機の高価なコーヒーで癒していました。

あかとんぼ 12時30分頃 評定河原橋の袂で7〜8人の男女が討論しているのに遭遇しました。
服装等から Uさんがガイドしたお客様です。

Uさんのガイド後 穴蔵神社を参拝され そして 廣瀬川の蛇行と仙臺城について でも論じていたのでしょうか?
ベテランのUさんが疲れる お客様。 満足頂けるガイド出来たのは Uさんならば です。


瑞鳳殿の櫻は終わりました。妙運廟界が盛りです。



4 月 18 日 (土)  



徳川家康 没後400年

.元和2年(1616)4月17日 75歳で亡くなり 暦換算しないで 昨日が 御命日でした。


静岡新聞NEWS は 下記の通り 伝えています。

家康没後400年 子孫ら集い御例祭
(2015/4/17 12:36)

 徳川家康の400回忌に世界平和を祈願する「久能山東照宮 御鎮座四百年大祭」で最も重要な祭礼となる「御例祭(ごれいさい)」が家康の命日の17日、静岡市駿河区の同東照宮で営まれた。徳川宗家18代当主の徳川恒孝さんらが参列し、遺徳をしのんだ。

 司祭を務める衣冠姿の恒孝さんを中心とした参列者は、地元の木やり保存会「東嘉会」の先導で楼門をくぐり、社殿まで進んだ。落合偉洲宮司による祝詞の読み上げに続き、「三品立神饌(さんぼんだてしんせん)」と呼ばれる山海の珍味や、茶などが神前に供えられた。

 神事の後、恒孝さんをはじめ、徳川御三家の子孫である尾張徳川家22代当主の徳川義崇さん、水戸徳川家15代当主の徳川斉正さんらが、社殿奥の家康の墓所「神廟(しんびょう)」に参拝した。

 参道などには多くの観光客が詰め掛け、厳かな御例祭の様子をカメラに収めた。
 この日に合わせた観光ツアーで訪れた埼玉県の男性(93)は「特別な日に初めての参拝がかなった」と感無量の表情。同じツアーに参加した同県の女性(72)は「日光の近くで生まれ育ったので、家康公には深い思い入れがある。ツアーを知って、いてもたってもいられず申し込んだ」と声を弾ませた。

写真
社殿に向かう徳川宗家18代当主の徳川恒孝さん(前から2人目)ら「御例祭」の参列者=17日午前10時20分ごろ、静岡市駿河区の久能山東照宮 社殿に向かう徳川宗家18代当主の徳川恒孝さん(前から2人目)ら「御例祭」の参列者=17日午前10時20分ごろ、静岡市駿河区の久能山東照宮


今年は 伊達政宗 380遠忌法要の年です。一つの節目の年です。

徳川家は 御三家 尾張徳川家22代当主の徳川義崇さん、水戸徳川家15代当主の徳川斉正さんが参列されています。

伊達家では、御親戚すべてにご案内は無理だとして、宇和島伊達家・吉田伊達家・一関田村家のご当主様は 参列されるのでしょうか?



4 月 17 日 (金)  



経ケ峯 全山 櫻花爛漫

4月3週 新学期2週目です。早々と、福島市・郡山市から中学生が 10人程の団体で 連続 10組近く 参拝に見えました。
クラス替での 新学友の交流・団結を目的に 早い修学旅行でしょうか。

仙台駅の雑踏、バス、石段で 疲れたのか、手水舎前ベンチに ドダンと坐し 「クスリナイー」と叫んでいる女子中学生。
酔ったらしいです。

事務所常備薬に(酔い止め)があるかな?
「事務所に聞いてみましょう」 に 「御爺さん 僕たちでやります」 
「胃薬ある-」 「たすかった」  誠に頼もしい学友です。


「この方は、3.11災に 大阪からボランテイアに来た方です。丁寧にガイドして欲しい」と 後期高齢者ではないご婦人2人から云われました。

「どんなボランテイアですか?」に 「泥さらい です」との返事。
ご婦人宅の津波のヒドロ 泥さらいを手伝って頂き、その礼を 瑞鳳殿ガイドが しなさいの構図のようです。

あかとんぼ は、全世界からの老若善男善女の方々を 貧富・肌色等で区別する事無く 平等に誠心誠意 ガイドを致しております。
今回 「宮城県知事に成り代わり 宮城県の災害復旧にご尽力頂きまして感謝申し上げます」と 挨拶しました。
ガイド内容は常と変りません。


9時から12時まで
1.東京本社のエライ人風 案内 2組 8人
2.亜細亜系外国語のお客様 5組 15-6人
3.欧米系外国語のお客様  3組 6-7人

1と3は 全く 相手にされませんでした。
2に内 1組3人 美女とは ある程度の意思疎通ができました。

19日から 日本語以外が堪能な仲間が5人 増えます。期待して居ます。


朝 15日の研修関連で加藤学芸員 に 3点 補習授業をお願いしました。

1.「桃山文化」の表現について。
 本件は 未だ咀嚼中です。

2.涅槃門透かし彫 会場で 会員の発言が 多々あった。 それは それとして。
 昔 今から10余年前 瑞鳳殿涅槃門の透かし彫は 日本三大透かし彫の一つで、後は京都二条城と高台院(秀吉正室の菩提寺)と云われた。その真偽の程 は如何ですか?

 初めて聞きました。○○三大の最後に 地元が入る例が多々あります。それでは?

  「名数宮城郷土小辞典 菊地勝之助編」 「WEB検索」 何れのも 日本三大透かし彫の項は見当たりません。

3.涅槃門右側石垣修復時の裏込めは?

 崩落し シートで覆うた写真1枚のみで、被災状況・復旧工事内容等の詳細は 記録がありません。わかりませんでした。


ここ数日の宿題

伊達家、伊達家家中は 古い表現。

新しい表現は、伊達藩 仙台藩 が 主流。 で 伊達と仙台が 混在しています。

明治で都市名が 変った 秋田を 佐竹藩、秋田藩、久保田藩 3通りの標記に接します。

殿様の家名で云うのか? 地名 都市名で云うべきなのか?それは 幕末が基準か? 現地名か? で 悩んでいます。


今一つ
氏 と 家 の使い分けです。 伊達氏 と 伊達家 の使い分けです。 


徳川家康は、元和2年(1616)4月17日 75歳で亡くなりました。
暦換算しないで 本日が 御命日 400年遠忌法要の日となります。



4 月 16 日 (木)  



裏込

1978年(昭和53)2月20日宮城県沖地震があった。
この時 寶筐印塔20基が全倒し 即日復旧。拝殿前 灯篭2基が倒れた。

1978年(昭和53)6月12日宮城県沖地震があった。

この時 寶筐印塔20基、燈籠が全倒した。涅槃門右側石垣が崩壊。地盤に亀裂。

この前年 1977年(昭和52)3月に涅槃門の上棟式、
7月に寶筐印塔20基の建立、
12月に管理棟の起工式があり、
瑞鳳殿全体の再建工事完成目前でした。

この地震は電気・水道・瓦斯等のライフラインが1ケ月近く機能しなくなった大地震でした。
あかとんぼ は ある機関におり 通信手段の確保必要性を認識し、交通・物流の復旧に努める現場を目にしました。
昨日の研修で 瑞鳳殿での被害を聴くまで 瑞鳳殿の被害は全く脳裡にありませんでした。


参道石段両脇の石灯籠は 上から下に転落した故、安全確保から
景に異質なコンクリート擁壁の設置、古内主膳重廣(岩沼・着座)寄進灯篭のロープかけ、燈籠下に植栽 をしました。

2011.03.11災は、1978.06.12災と異なり 南北に揺れましたので 石燈籠は擁壁に落下する事なく 大部分は植栽に落下しました。 
唯、亘理伯耆守(佐沼・一家)奉納灯篭の笠が参道石段迄 横跳びしました。


右側資料館下は2011.03.11災で 崩落しましたが、涅槃門右側石垣の崩壊は、見た目 痕跡が分からない為、創建当時のものと理解しておりました。

今回の研修で初めて知りました。
1978.06.12災 復旧工事の際 裏込工事は 伝統工法で施工されか?の疑問が湧きました。

それは、右側資料館下が2011.03.11災で崩落し、復旧工事方法の検討の際、菊池慶子宮城県文化財保護委員が 旧来の工法で復旧すべきと行政に強く勧告をした。

その理由は、
1.伝統工法・技法は 未来に伝えるべき日本文化である。
2.見た目は、分からない・変らないが 堅固である。
 仙臺城石垣を 近代工法で修復した多くは 2011.03.11災で再崩落している。

この結果、伝統工法で修復された と 菊地先生からお聞きしております。
それ故の疑問です。

近々 公益財団法人瑞鳳殿に 確認します。1978.06.12災の復旧工事の工法を。



4 月 15 日 (水)  



瑞鳳殿ガイドの会 総会

1.研修会 10:00-11:40
 講師  公益財団法人瑞鳳殿学芸員 加藤寛 様
 演題  再建された経ケ峯伊達家墓所の霊屋などについて

 要旨  特製年表で 1637年(寛永14)10月 瑞鳳殿落成から201年(平成22)3月までの、戦災焼失から 再建の発端 そして修復まで、
      国宝時代の写真、 再建の発端となった 小倉強の論文等で詳細に 語りました。

      国宝時代と現在との相違点(ここに記録は不可)等は、ガイドの際に、語る事は無いにしても ガイドの深層知識として 有効なもので、
      ガイド歴15年にしても 「目から鱗」が 数々 ありました。

      最後に

      瑞鳳殿のパンフも 現場説明文にも 「桃山様式の遺風を伝える」 とあるが、これは正しいか?
      時代的に 安土桃山時代ではない、江戸時代初期である。 学問的に 表現を正すべきでないか?
      の発言がありました。

      「瑞鳳殿 伊達政宗の墓とその遺品 伊東信雄編」で、佐藤巧先生は

      瑞鳳殿は忠宗襲封当初のもので、桃山期と江戸初期を結ぶ記念すべき建築である。
      政宗時代の建築は、秀吉を中心とする中央文化、中央技術の導入、中央匠人の参加、指導という形で実現されたが、
      桃山文化の地方移植の面で画期敵な意義をもった。

      雄渾、斬新な発想、奔放な表現、豪奢な装飾等を主な造形上の特色としている。

      と語れています。

      本日 加藤学芸員の このお話を充分に咀嚼できませんでした。明日以降 直に ご教授頂きます。  

2.総会  12:00-12:30

      会長挨拶
      議事
      @ 平成26年度活動報告
      A 平成26年度会計決算報告
      B 平成26年度監査報告
      C 平成27年度活動計画 (案)
      D 平成27年度収支予算 (案)
      E 平成27年度役員の選任

      @からDまで 提案の通り 異議なく承認されました。
      Eについて、会長は傘寿を迎える 気力・体力が低下している。
       老害で会の運営に支障をきたさない様に、新たにどなたか 引き受けて欲しい の発言があったが 留任の声のみ。
       結果として 全役員が留任しました。

3.昼食・懇談 12:30-14:00

      参加者28名 
      各自挨拶は 氏名のみの30秒の自己紹介。
      なぜ時間制限か?ガイドをする方々です。無制限にすると 何分でも喋れます。時間が足りません、夜が明けます。

      前回会合以来 6人が参加され 本日 3人出席されました。この方々には、無制限で自己紹介して頂きました。


本日 役員の皆様 各担当を 確実・正確に遂行されました。感謝致します。



4 月 14 日 (火)  



船岡城址公園

小説 「樅木は残った」の舞台として有名な船岡城址公園は櫻の名所でもあります。
昨日 あかとんぼボランテイア支援機構の総会が ここ船岡城址公園で開催されました。

曇天ながら駐車場入場待ち500mの列、山頂・中腹は近郷近在、関東一円のみならず 中国等外国からの観櫻客で喧騒を極めていました。

人々は 眼下 南北に連なり 広がる  櫻並木に驚嘆しておりますが、樅木も 文学碑も 原田甲斐・柴田外記の供養碑に 歩を運ぶ人は疎らでした。
過去に囚われず 現在を堪能し 未来思考の生き方でしょう。同感です。

ふと気づきました。
城址であれば 城主がいた筈。誰であったか。城の構成はどうであったか? 本丸はどこか?

これらの表示に 何年と訪れていますが お目にかかった記憶がありません。


仙台藩歴史事典を開きました。
名称 舟岡要害
所在 柴田郡舟岡村
年代・城主等
    慶長年間          屋代景頼
    元和元年〜寛文11年  原田宗資-宗輔
    天和元年〜        柴田宗意−宗僚−宗理−朝隆−成義-倫義-意定−親友-意利-意広

柴田家は、 家格・一家  石高5157石 

舟岡要害拝領内容 家中屋敷 107 寺屋敷 1 足軽屋敷 51  
1743年(寛保3)要害所在拝領改牒による とあります。

要害規模等記載資料には 只今現在 至っておりません。 



4 月 13 日 (月)  



古文書講座

11日日誌の
1.書には 顔がある。本物・偽物・祐筆物とある。多くの書に接する事で 癖・個性を知り、読める様になる
2.政宗は 武人から文人になった。筆の動きに勢いがある。「活空」している。

について 字足らず のご指摘がありました。

1.本物・偽物・祐筆物とあるは、現実3種類があり その違いは
@ 本物は 本人が頭脳で推敲ものを 一気加勢に 筆が走るから 勢いがある。
A 偽物は 本物そっくり の出来上がりが求められ 注意力がそこに集中するので 勢いが無い。
B 祐筆物は 本文は祐筆が書き 署名・花押は 本人がする。やはり勢いが無い。 


2.「活空」しているとは、筆の動きに勢いがあり 滑る  空(くう)を飛ぶ如く 解釈しております。



1591年(天正19)葛西大崎一揆鎮圧の際、須田伯耆の持込文書は、祐筆物で 花押の「鶺鴒の目」で釈明したと伝えられています。

果たして、偽物であったのか?
大和田哲男著「伊達政宗」(学研文庫178-179頁)では、文書は本物(祐筆物)とされています。

(秀吉は政宗が一揆に通じていたを承知していての処置と家康は、井伊直正に語る)の項があります。
秀吉は 提出された文書と突合 鑑定しているようですが 増田先生が 現場で鑑定したなら と思いました。
マア 鶺鴒の目 は思い浮かばないでしょうが。



会場で 政宗自筆書状(和久宗是宛、池田三之介宛) 2福を公開され 語られました。

講演で 筆と墨の関係をお聞きして 筆を持ったことの無い あかとんぼには発見がありました。
墨は掠れる 切れる ことです。ボールペン等は 掠れる 切れるはありません。

本物を前にした講演でなければ 理解できないことです。



ある方、は 「細川忠興公宛と石川康長公宛の竪書き2通を所持していて、講演を聞き 真筆である可能性が高った」 と 申しておりました。

仙台市史 伊達政宗文書 に登録されていない文書でしょうか。だとすれば 大発見では?



上廣財団から古文書講座を 5月から東北大学で今年も開講します とご案内を頂いております。有難いことです。



4 月 12 日 (日)  



櫻花爛漫

経ケ峯・瑞鳳殿は櫻花爛漫。感仙殿地区は五分咲。

城下 西公園の櫻花下はブルーシート全面張り。正に青い海原で 盃を巡らせている感じで楽しんでいる人々。
平和な風景です。

青年が手水舎の柱の「飲料水」の表示にスマホを向けています。
「うまく撮れましたか?」
反応が 思うようでありません。外国人?
「you chine?」 「no canado 」 「えー カナダですか 遠方から ようこそ」
スマホの画面を見せます。 「Vacation」と表示されました。 

「おお 休暇ネ i am no speaking ennglosn]

以後 スマホ画面の下部に 言語を語れば 上部に翻訳されて 表示されます。
本殿前景・家紋・龍・櫻を紹介。了解してくれ、お奨め位置で 撮影 快心作が撮れた。か? 。
颯爽と去って行きました。

中々 便利な機械があるものです。
カナダの青年との会話できたを 喜び 仲間のAさんに 語ったら
「あかとんぼさんの日本語 翻訳出来たのですか?素晴らし機械ですね?」


奈良からの老夫婦。

「奈良からとは お珍しい。東北から奈良に観光に行きますが 奈良とは?」に
「朝 仙台城に登ってきた。これから石巻にいく」と言いつつ セカセカしています。

奈良で 古寺ばかり見ているので 桃山様式の建築美 理解出来ないのか 人生 先が短いのか セカセカ お忙しい方でした。



津軽からの78歳のご夫妻 仙台在住の娘夫婦な案内で見えました。(自身で語りました)

78歳になると ガイドにガイドをしたくなるのでしょうか?語ります。喋ります。

涅槃門扉の 九曜紋は 八幡神社の紋 と教えて呉れました。

本殿扉での 伊達家代表家紋で 九曜紋も伊達家家紋と ご理解頂きました。
あかとんぼは 津軽・弘前の八幡神社の社紋が九曜紋と 初めて知りました。


伊達家の末裔

若い男女。冒頭 「私達は 夫婦でも 婚約者でもありません。単なる同僚です」と 強烈な ご挨拶。
補足で「中国地方の○○大学大学院生で 学会で来仙しました」とのこと。

浅野家と伊達家の絡みを まぜ ガイドをしました。

最後に 「姓は 伊達  家紋は 竹に雀 父は 兵庫 祖父は 四国 です」との事。
竹に雀の家紋で 伊達姓であれば、 仙臺伊達家 それとも 宇和島伊達家 の方?

テニスの伊達公子さんは 関西系伊達と聞いていますが その系列ではない様です。

帰宅後 系図を開き 先祖を確かめ 分かり次第 メールで教えてくれるそうです。楽しみです。

本日は あかとんぼ の常識は 世界の常識でない事も知りました。



4 月 11 日 (土)  



瑞鳳殿の二春

臥龍梅 散り始め。本殿脇と真後の櫻 満開。
この二春 撮影したかったが、雨で 色が出ません。明日 晴天に期待します。

ある先生 午後にどうぞ。順光になります と教えてくれました。


高齢のご婦人 お二人。
生れ育ちも仙台で、各地を転戦 仙台に帰って来た。
「瑞鳳殿は 初めてだが 何でも知っている。ガイドしてみらい! 難しい事は駄目、簡単でなく20分で ガイドしてみらえん!」

誠に難しい注文です。事実 始めたら 一言に 三言返ってきます。
本殿中心 内部写真を披露 説明しました。 ご満足頂きました。
「聞いてよかった」のお言葉に安堵しました。


ガイド希望者

読者の方から 「瑞鳳殿でガイドをしたい」との メールを頂き、本日 瑞鳳殿でお会いし 活動内容をご説明致しました。
ご納得頂き 入会申込書を頂きました。

三の丸会(仙台市博物館ボラガイド)会員で 英語も多少との事 頼もしい仲間です
15日の瑞鳳殿学芸員が講師の研修、19日の新人研修に 参加され、20日以降 初土俵です。

今春 20代が3人に 壮年期が続々と参加し 急速に世代交代が始まりました。結構な事です。


博物館講座(上廣歴史フォーラム)

演題  伊達政宗の手紙 自筆に見る人と書
講師  増田 孝 氏  文学博士 テレビ番組「なんでも鑑定団」鑑定人
会場  仙台市博物館ホール

講演要旨
  「なんでも鑑定団」の鑑定は、真剣勝負です。10日位前 写真に入手経緯記載資料がテレビ局から届く。
  採用決定から 下調べが始まる。
  会場で1時間位前に  出品を目にし 鑑定・値付けをする。

  誤鑑定は 未だない。
  書には 顔がある。本物・偽物・祐筆物とある。
  多くの書に接せる事で 癖・個性を知り、読める様になる。

  (将軍家光の世代)政宗は 武人から文人になった。筆の動きに勢いがある。「活空」している。

  小堀遠州始め 多くの大名等との 茶の交わり があり、3000通以上の自筆の書簡がある。
  これら 手紙から 政宗の人となりが 理解出来る。

先生の著書に、「書は語る 書と語る 武将・文人たちの手紙を読む」が あります。
肥前さんが 持参されました。講演開始前 政宗の項だけ 読みました。
講演が 良く理解出来ました。我が書庫に所蔵されているか? 早速検索しなくては。

本日 300人以上の応募があったそうで、博物館のある方から 「あかとんぼさん 当選おめでとう」と云われました。
当選率6割。ガイドの会の仲間 6人出席です。 外れた人は 悔しい 資料を友人某に依頼した と洩らしていました。

著書持参の肥前さんは 先週も今週も 相模國から 駆付けました。さすが 来週jは 来仙されないそうです。
毎週 通えるなら ガイドしませんか? と誘いたかったのです。




4 月 8 日 (水)  



政宗の墓室の位置

政宗は瑞鳳殿地下の石室 墓室にてお休みです。
この位置は 中央奥 と長年思われていました。

1966年(昭和42)8月  瑞鳳殿跡地一帯の地盤調査
1969年(昭和44)10月25日 瑞鳳殿跡地廃坑埋立起工式
同年から1971年(昭和46)迄 臨時石炭鉱害復旧法により経ケ峯一帯の坑道充填

1974年(昭和49)5月10日 伊達家 墓室発掘調査 了承する。
同年9月25日から10月14日迄 墓室発掘調査

同年10月4日 政宗のご遺骨 瑞鳳寺に仮安置
同年10月26日から28日迄 墓室一般公開。見学者15000人

1975年(昭和50)5月17日から23日 墓室・副葬品 一般公開。見学者25000人
同年同月23日 340年忌法要 参列者300人

同年同月24日 再埋葬 参列者600人
同年6月19日 ご当主伊達貞宗様 発掘ふくそうひん仙台市に寄贈

同年7月30日 本殿・拝殿 上棟式

以上が 発掘調査前後の経過です。(瑞鳳殿再建期成会 刊 瑞鳳殿再建の経過 によります)

本殿は 約6m四方です。

墓室の位置確認調査の際 
1.中央奥を試掘したが 墓室に至らなかった。
2.では、右翼がNO2の位置である? 右翼を試掘したが 墓室に至らなかった。

3.墓室は 存在しない の意見が流れた。
4.正面を見た時 と 本人が見た時 とでは 左右が逆転する。

5.3度目は 左手を試掘した。墓室に至った。
6.天盤 蓋石の一部が折れていた。

7.現御当主は 当時大学生で 自らスコップで掘り方の作業をされた。

以上は、郷土史家 Mさんの お話です。
Mさんは 現役時代 仙台市文化財課に在籍 発掘調査に関与した と察せられます。
現御当主の年齢から 「当時大学生で 自らスコップで掘り方の作業をされた。」は 疑問符が付きます。


本日は陸奥国分寺の縁日で、陸奥国分寺薬師堂ガイドボランテイア会の例会日でもありました。

741年(天平13)2月の聖武天皇の詔で建立された寺で「金光明四天王護国之寺」が正式名称です。
1922年(大正11)に国史跡に指定
1955年(昭和30)から1959年(昭和34)迄発掘調査が行なわれ、以後 仙台市教育委員会で継続発掘調査が行なわれました。
陸奥国分寺薬師堂ガイドボランテイア会は 仙台市教育委員会の全面的支援の基に活動をしております。

礎石のみ散在する史跡で 縁日の買い物が目的で 史跡に興味ない人にガイドをする ガイド技術の勉強に 通っています。

本日は 最高気温5度と伝えられる 極寒で 焚火が欲しい気温でした。
この環境で 発音が覚束ない九十翁の郷土史家Mさんから 傘寿で耳が遠くなりかけた あかとんぼ が聞いた 「瑞鳳殿墓室の位置は」です。
記憶と記録に 誤りないつもりですが?

意外な場所で 意外な秘話が聴けるものです。

おまけ
境内は櫻花爛漫満開です。櫻に見とれると怪我します。礎石に注意。 



4 月 7 日 (火)  



馬鹿の花

5日日誌記載 馬鹿の花の正体は 「紫陽花の枝に 椿の花を 深く 丁寧に刺したもの」と 動植物に精通している A氏が 現地調査をされて
その結果を 教えてくれました。

誰の仕事か 話題になりました。
小学生にしては?

体力と時間から 客待ちのタクシー氏では となりました。真相は不明です。


瑞鳳殿ガイド

今日 このHPを経由 瑞鳳殿ガイド希望のお問い合わせがありました。
資格不要です。全て自己責任で継続的に 行なえるかです?

千里の道も 1歩から。
興味ある方 表紙記載のメールアドレスから 一報ください。お待ち致しております。



4 月 6 日 (月)  



瑞巖寺・臥龍梅

5日満開でしたと 読者の方から写真添付でお知らせ頂きました。
表紙に 掲載を快諾頂きました。ご覧ください。

例年は 黄金週間の頃が盛り 満開と瑞巖寺様から お聞きしておりました。
今年は 各地とも 梅も櫻も早目の開花で 観櫻会の準備が後手になっている報じられています。


ガイドの会役員会

定例役員会、全役員出席し、総会議案を中心に討議しましtた。
また、日本語以外 多国語でガイドが出来る方 4名から入会申請があり 大歓迎で承認されました。



4 月 5 日 (日)  



雨は苦手です。

お客様には、傘を買わない、傘を持たない、傘を差さないの傘三無いのお客様が ママいます。
となると ガイドは気が弱いもので 傘を差せません。ファイルも全身も 濡れます。

濡れますことは 風邪の元。風邪は万病の元。蝋燭の灯がパタと消えることになります。


朝一番は、広島からのバス1台のお客様。
お客様は62段を もそもそと登ってきます。バスガイド嬢 構わず 脇目も振らず涅槃門を登って行きます。
相当 プライドが高いようです。

もそもそ 来たお客様 ガイド頼みたそう。
爺様「(ガイドは)何にも知らなの」と溢していました。

瑞鳳殿の建築美、歴史等 聴けば 見落としがなくなり よかったを実感します。
ガイド嬢の先行。これでは、村の裏山の鎮守様を参拝していた方が、経済的にも時間的にも よかったかも。

地元バス会社専属のガイド嬢以外は 地元ボラガイドの振る例が多々です。
自身が知らない地元なればの細かい話が聞けて勉強になる。自身の休息にもなる。これらのメリットからです。



札幌から新社会人風 男女5人。
「仙台で 札幌・白石区からきましたと申せば エラク 持てます。どうしてでしょう?」と聞かれました・

「政宗公と片倉小十郎景綱との主従関係、片倉小十郎の家臣の末裔が 蝦夷地開発に移住して成功した土地が・・・・」と語りました。
政宗公の人物と桃山様式の建築美に興味を持たれたか 熱心に聞いてくれました。20分の約束が60分近くに。


手水舎の水槽に 今日は 50円玉 100円玉のみです。 1円玉 5円玉 10円玉はありません。なぜでしょう。
龍の吐く水 滔々としています。常より水流が太いです。

Aさん 今日はよい。この位の水流が無くては。水槽の水を汲む人がいますから・・・・・・
Bさん こんなに 滔々と流して いいのかな?
    仙台市の水道料(上・下水道込) 1トン330円ですから 朝から夕方迄 何トン流れるやら・・・心配だ。

事務所は、拝観料収入、水道料の経費、お客様の健康 全てを勘案し 龍の口径を調節していると思います。


中国からと思わらるお客様 2組 10人近く見えました。が 対応できませんでした。
国連防災世界会議(3月19日)の際,フィリピン共和国(Republic of the Philines)からのお客様をガイドされたA様 お出でになり 一緒にガイドをしたいとの 申し出を頂きました。

有難いことです。大歓迎です。

2016年サミットを開催する仙台市(?)では、仙台市・(公財)仙台観光国際協会・公益財団法人瑞鳳殿が 多国語対応策を検討中と思います。
我々も 亀の歩みでも 進まなければならないでしょう。 


JTB特別ガイド 午前の部が 再開2日目です。
当番として待機しましたが お客様 お見えになりませんでした。

特筆すべき ご質問もありませんでした。



4 月 4 日 (土)  



春です。

お客様 続々 参拝に見えました。

臥龍梅 満開です。すぐ後方の山櫻は4分咲、本殿真後の櫻は1分咲。
瑞鳳殿は 二春となりました。
感仙殿地区は、今暫く お待ち下さい。

東京地方からのお嬢さん「仙台ッテ 不思議な所ですネ」
「ハッ」
「梅が今 咲いて そして 櫻も一緒に咲くのネ フシギ」


アルコール飲料 バス出発と同時に飲用されたか 全員 自由闊達です。
「ガイド不要です」と云われましたが 頼まれてもガイドは不可能でしたでしょう。

その集団の爺様ツカツカと
「おみゃうさん 途中に 紫陽花に 赤い花が咲いていた。あれなんだ?へんでないかい?」

境内の紫陽花は 未だ 枝がパラパラの状態で 葉が無いのに かつ 紫陽花に赤い花は見た事ありません。
お客様は 瑞鳳寺山門から此処までの間で 見たらしいです。

心当たりありません。「わかりません」と答えら。
「お前 馬鹿でないかー」

答えられなければ 馬鹿 なのか?

お客様 一段落した所で 現場確認しました。
瑞鳳寺山門前 タクシー乗り場の杉林の麓 椿に似た花を 枝の先に咲かせた低木がありました。紫陽花と枝が異なります。

あかとんぼ 植物の名前は弱いです。困った時の学芸員頼み。
事務所に飛び込みました。

政宗公と伊達家と桃山様式についてなら 即答できるでしょうが。宿題になりました。


JTB特別ガイド 午前の部が 再開初日です。
当番として待機しましたが お客様 お見えになりませんでした。


ジックリとガイドを聞いてくださるお客様の連続。
意外なお客様。 「肥前さま」が 飄々と現れました。

仙台市博物館の「「DAIMYO-仙台藩と伊達家の名品」を見る為 相模國から駆けつけたそうです。
音声ガイドの無料貸し出しあります 利用されたら と勧めました。

ガイド仲間のSSさん 3月31日 訪れたが 知らずに 老眼しょぼしょぼ 解説を読み 名品を見てきた。
4月1日のあかとんぼ日誌見て知った。又 行かなくては と申していました。

仲間は 博物館の常連ながら 知らなかったのです。



12月から4ケ月 冬休みであったYさんが 櫻の開花宣言と共に ガイドに見えました。
雪解けが早い様に 舌の溶けも早い様で 滑らかに ガイドをしていました。 


この日誌を 読まれた方 「ガイドをしたい どうしたらよいか?」と メール頂きました。
「明日5日 瑞鳳殿でお待ちします」 と返信しました。仲間が多くなることは 三方得 に繋がります。楽しみです。



4 月 2 日 (木)  



400年

1615年(慶長20年3月18日){太陽暦1615年4月15日}
伊達秀宗は、騎馬57騎ほか総勢1200名の軍団で 伊予・板島丸串城に入城しました。

以来400年。
宇和島では、之を記念して3月28日から6ケ月の長期間 宇和島伊達400年祭が開催されています。
3月28日の式典には、奥山仙台市長が駆付け 壇上で宇和島伊達家御当主夫妻、愛媛県知事、宇和島市長と共に祝しました。

現在の宇和島市域は 旧伊達家領域と合致します。
宇和島伊達家旧領域をあげて 半年間の長期間 祝い 祭典を行います。


1615年(元和元年10月14日){太陽暦1615年12月04日}
片倉小十郎景綱は、白石城で59歳の生涯を閉じました。

以来400年。
白石に城と町は 景綱が1602年(慶長7年)に政宗公から与えられる以前からありました。しかし、現在の白石城と城下町を整備したのは景綱です。
片倉小十郎景綱が 歴史上 存在したから 現在の白石の町が存在します。大恩人では?

10月14日菩提寺傑山寺で 盛大な法要が営まれるでしょう。それは 限られた人々のみの参列でしょう。
旧片倉家領内 現白石市内外で 法要の前に 片倉小十郎景綱に感謝の祭典が催さても よろしいものでないかと思います。
計画があるのか まだ あかとんぼ には 聞こえて来ません。残念であります。

宇和島と白石の格差は?
1.10万石の殿様の入部
2.18000石の家臣の没
です。

あかとんぼ は秘か白石を応援する気持ちから 仙台藩志会会報「藩報きずな」の主テーマを 
1.伊達秀宗 入部400年
2.片倉小十郎景綱 没400年
とし、其々 関係者に寄稿をお願い致しました。

原稿をお預かりした結果 3月27日「年月日 西暦が先か? 元号が先か?」の記事になりました。

これについて菅野正道先生からお忙し最中 
仙台市史全体で統一されている訳でありません。
通史編は教科書が「西暦(和暦)+月日」を採用しているのが最大の理由で この方式になりました。
「和暦(西暦)+月日」を推薦します。 
「和暦+月日」で必要に応じ(西暦)を注記すのが妥当と考えます。
等 ご教示頂きました。ありがとうございます。恐縮です。


和暦(旧暦)から 西暦(太陽暦)を 押さえ(換算す)れば 季節感を理解出来ます。
2013年6月12日 あかとんぼ手持資料 政宗公関連旧暦・新暦 対比表になりました。

今後 どの様に あかとんぼ瑞鳳殿ガイド日誌に記載するか ・・・・・です。



4 月 1 日 (水)  



仙台市博物館 ・DAIMYO―仙台藩と伊達家の名品

本日 本格的に見学に行って来ました。

音声ガイド(無料)を借用 洞の口遺跡から発見された常滑焼の大甕に始まり 陸奥国分寺の佛像と、黒漆五枚胴具足(政宗所用)、紫羅背板地五色乱星模様陣羽織・・・・菊田伊洲筆 虎図 迄 丹念に 見 再確認して来ました。

これで 瑞鳳殿ガイドの際の自信 揺り戻しました。
政宗フアンのお客様に 鑑賞を お勧めします。


新年度初日・雨降りの条件故 観覧者は僅少の予想は外れ それなり観覧者で、緩い流れで鑑賞していました。
瑞鳳殿ガイドの会の有力者 ご夫妻にお孫さんと見えていました。


 「三の丸会」会員である友人から、 「高札が展示してあるが あの時代 どれだけの人々が 読め・理解したか」と質問されました。
その様な質問に答えるのが 「三の丸会」会員の 職務・役割ではないでしょうか?

彼の方は 話のタネが欲しかったのでしょう。

あかとんぼ 思うに 江戸時代 識字率は高かったと推定しています。
絵草子 貸本屋が存在した事が 証明しているのでは?


博物館に提案

1.展示品の目録 (紙片で可) 配布されれば より 名品であること 理解されるのでは?
 パソコンで打ち出し 持参しましたが。

2.音声ガイド あります。無料で貸し出しします。と 明記されたら 如何でしょうか。
 一緒になりました会の有力者も 知りませんでした。
 音声ガイドを聞きながらの鑑賞は 楽です。理解容易です。
 掲示を全て 読むのは 大変です。





inserted by FC2 system