2015年7月の日誌
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7 月 31 日 (金)  



炎暑

今週は 炎暑に付き 夏休みを先行取得しています。
仲間は 暑さにめげず ガイドに努めています。

仲間から 下記要旨のmailを頂きました。

金沢からいらしたお客様に瑞鳳殿をすごく褒めていただいて嬉しかったです。
(前田利家公のお墓はこんなに立派じゃないとおっしゃってました。)


確かに 瑞鳳殿は立派です。

三大外様大名 加賀前田家102万石  薩摩島津家77万石 奥州伊達家62万石 で一番と思います。


加賀前田家102万石の墓所は、金澤城から直線3.5km、郊外の標高175m 43万平方の一画にあります。

2007年11月20日 あかとんぼ は訪れました。日誌を再掲します。

「加賀102万石 前田家墓所を詣って来ました。

 金澤城南西部 野田山山頂(標高175m)に所在する前田家墓所。家祖前田利家夫妻、兄利久を始とする歴代当主夫妻が墓所あり、下った位置が家臣の墓所でした。

 急傾斜の坂道と200段近い階段を登った森の中で、底辺10m四方 高さ5m位の土饅頭・古墳型で、その外周1辺30m四方に、高さ2.5m位の透かし柵を巡らし 柵から5m位の位置に鳥居があり 利家の墓所には石灯籠が 他の方の前に 石標がありました。

 お墓土饅頭には、直径1m位の大木の根痕が幾つも見られました。いつかの時代には、お墓自体が森になっていたのでしょう。植えたものでしょうか。自然木だったでしょうか。

 伊達家の墓所は 豪華絢爛な廟や巨大な墓石です。あかとんぼ が之までお詣りした 奥州の大名 佐竹・上杉・津軽・最上・戸澤・酒井(鶴岡)・松平(会津若松)は、何れも廟か墓石でした。

 漆・蒔絵・金箔等の華やかな工芸が伝統の金澤です。また 大大名のトップですから伊達家以上に 豪華絢爛な廟所であろうと期待してお詣りしましたが、期待は外れました。

 前田家墓所は約8ヘクタールと広大で、昭和年間に改葬を含め80基あり、東京在住の前田家 の協力を得て 国指定史跡を目指しているそうです。
 
 下った位置が家臣の墓所、ここには「無縁墓所である 有縁者は届けられたい」旨の札がほぼ全墓石に架けられていました。豪雨 鬱蒼たる森に白い札の点在は140年の時の流れ 世の無情を痛感させる風景でした。

 豪雨で流水が激しく 落ち葉が積もって 足場が極めて悪く 家祖前田利家夫妻ほか数基のみの参拝に終わりました。」 


薩摩島津家77万石の墓所は 訪れておりません。
HPの検索した結果

鹿児島市にかつて存在した福昌寺(ふくしょうじ)跡に、島津氏第6代から第28代までの当主並びにその夫人、近親者、歴代住職の墓があるとあり 墓石・灯篭の写真が掲載されています。


前田家も薩摩家の墓所は 関係者がお詣りする墓所です。

政宗公は 先見性に優れた政治家であったと あらためて 思います。

ここに この様な豪華な建造物の廟を建てました。没後380年経過した現在、世界各地から参拝に見えます。
運輸・宿泊・飲食に、廟の管理する人と 多くの人々の手助けを得ています。(就労の場 生活の糧を与えています)
あかとんぼ の様な高齢者に 生甲斐の場を提供しています。
これ 全て 政宗公の先見性に基ずく 成果と感謝致しております。



7 月 29 日 (水)  



暑気払

読者の方から暑中お見舞いを頂きました。

6月弔魂碑を筆頭に経ケ峯をご案内しました方です。

何故 戊辰の役弔魂碑からか?
ご先祖は、武田信虎(信玄と兄弟)で、伊達家家格は 召出 家禄1184石 所(桃生郡和淵)預です。

高祖父は、小隊長として出陣し 慶応4辰年7月28日相馬熊川胸壁新田原合戦にて戦死されました。
戊辰の役弔魂碑に祀られていますので。

mailには 本日 命日なので供花された 記されていました。


所(桃生郡和淵)には、足を踏み入れた事はありません。
蓮日の猛暑に ヒタヘタしておりましたが、暑中お見舞で、生気が戻りました。

ガイド支援機構理事長を「ミステリーツアー」と誘いだし 行ってきました。

所(城)下町は 静寂でした。

武田家菩提寺は 豪壮な本堂等があり 裏山全山 墓所です。
一人居た作業員に尋ねました。

「武田家 殿様の墓所は どこでしょうか?」
「この道を 真直ぐ登ってください。それにしても この暑いのに ご苦労さんです」

山頂近くに ありました。
20基以上の墓碑が 整然と整美され 並んでおり  向日葵2輪に桃色・黄色等の生き生きした花が対で飾られておりました。
花を供された ご子孫の心意気を感じました。

外気温 34度以上を 表示しています。長居はできません。そそくさに お暇乞い

本日は予習しないで出かけました故 所・屋敷跡に辿り着けませんでした。
宮城県公文書館に 和淵邑絵図が所蔵されているそうです。
今度 閲覧します。そして 爽やか気候に再訪します。

本日誌を記載する元気がでました。暑気払が出来ました。



7 月 26 日 (日)  



奥州仙臺 梅雨あけました。

今日から 相馬野馬追い が始まりました。
総大将は相馬家?代当主 相馬陽胤(キヨタネ)(39歳)様で 騎馬 450騎が参加 27日迄催されます。
例年 國重要無形民俗文化財のこの相馬野馬追が終われば 本格的 夏です。

いつもペアを組む Aさんの姿 見えません。
信頼すべき筋の情報によれば 家内安全 家族健康を祈願に 相馬野馬追に 行ったらしいです。
明日 全身 赤銅色に 日焼けして現れれば それが証明書です。

朝1番のお客様は 福井県から。

10分の約束で始まりましたが
「福井県に井波町がありましたネ 特産品は 彫刻・木彫りですネ
ここ瑞鳳殿の彫刻・木彫りは 井波町の宮窪繁さんの1976年の作品です」

郷土の特産品・名人の名前 等が語られれば 嬉しくなります。
ガイド時間 40分 当初の4倍になりました。


「一人からと書いてありますが 本当に 一人でよろしいでしょうか?」
津軽からの お嬢さんです。

ある業界で 有名人を輩出している大学を卒業したが 在学中 参拝した事がなかった。
一念発起 参拝に来ました。

との事。津軽為信の御霊屋(弘前市藤代・革秀寺所在)を知って居ました。

墓室発掘調査で発見された 副葬品に 漆塗製品を見て
「津軽塗 も大丈夫です」とさりげなく 特産品の宣伝を。

蟇股 説明の段で 蛙を 理解しません。
「ビッキ です。 蛙が居なくとも ビッキは 居るでしょう。大きいビッキの股です。」
「ハイ ビッキは 居ます。アッ わかりました。」

一呼吸ついてから「ガイドさん どうして ビッキを知っているのですか?」


石匠夫妻? 

話題は石材についてのみのご夫妻。

この足元の石は 何時の時代のものですか? なんと云う石ですか?と敷石を指しての第一声。

石材の名前はわかりません。1945年戦災で焼失する前 國寶時代からのものです。
それは 写真資料で証明出来ます。

新しい石は こちらです。
10年程前 ある方が 自ら 調達・施行された 雄勝石の敷石です。
雨に濡れると 黒色が冴え 綺麗です。硯石です。スレートになります。東京駅舎の屋根です。
エッ あの屋根が。

ところで 秋保石を 知っているか?

はい 郊外 秋保温泉地区で採れた石です。政宗公の墓室の石材です。

主な用途はなんだ?

建物の基礎、塀、建物の壁材に使われました。コンクリートに敗れました。

大谷石の様な ものか?

そうです。今晩 秋保温泉にお泊りなりませんか?ホテル到着前 採石場跡が ご覧なられます。
今日は帰る。また 機会あったら。

瑞鳳殿 政宗公のお詣りに 登った行きました。石談義は終わりました。

まだまだ 石はあります。石段の石(国見石)、西討戦没之碑(井内石) 妙運廟界の石標(丸森石)・・・
ガイドを求められませんでしたので これにて。

お客様は 産地名のみならず 粘板岩とか花崗岩とか 学名も求めていましたので 突然では 無理でした。


外国語のお客様

日本語以外で、かつ色々の肌色の 20代?の男女の15〜20人の団体が数組に、ペアに、単独に、家族連れの お客様が 立ち代り 参拝に見えました。

何か国際会議が 川内で開催されたのでしょうか?

日本語専門の あかとんぼ は深入りできません。英語堪能な Tさん Aさん Nさんに 外語学校学生の方々 本日不在。
ガイド出来れば 楽しかったと 思いますが 残念でした。

券売口のA嬢は、 流暢な英語で券売していました。 



7 月 25 日 (土)  



寛永13年6月23日

西暦で1636年7月25日。
政宗公の葬儀が行われた日です。
その日の天候は、「暁雨少降、夜明ヨリ晴、段々快晴、炎蒸甚」と治家記録に記されています。

今日の天候は380年前と変わりません。「炎蒸甚」です。

土曜日ですが 「炎蒸甚」に対応する体力維持から 瑞鳳殿ガイドを休みました。

仙台藩志会伊達学塾の準備の為 昼早々 御城下に。
本日の講師は 佐藤憲一 元仙台市博物館館長
演題は 伊達政宗と秀宗 秀宗宇和島入部400年

「炎蒸甚」に関わらず 当会場の冷房は効きません。
講師の熱気か 中座する人はおらず 参加者 最後迄 汗だくで拝聴しました。



7 月 24 日 (金)  



入生田三右衛門元康 続き

昨日の講義で 入生田家在郷屋敷について それなりに理解しました。

入生田家は 幕末には 江戸詰 出入司を務めています。
現在の感覚では 宮城県財政局長か 出納長で 県三役に相当する役職です。

仙臺城での用務繁多と推察されます。
当時 馬での通勤で 城に近いと申しても 在郷屋敷からの通勤は 無理があったと推察致します。

仙臺屋敷が あった筈。では どこか?

思わず 質問してしまいました。
「わかりません」と即答頂きました。 当然です。

思案しました。

片平丁は 御一門です。
中堅家臣は、
山家家 633石 現在の東一番丁
宇津志家(四ツ谷用水作事奉行) 100石  現在の仙台駅構内
にありました。

であれば 東三番丁付近でしょうか?
200石なれど 幕末 要職にありました故 職務相当で お城に近い所に 屋敷替になっているか?
このあと 城下図を広げ 探してみます。





余禄
西討戦没之碑(西南の役旧仙台藩士戦没者弔魂碑)

「21日 三の丸会研修に参加し 質問する予定であったが急用で欠席しました。資料あるそうだが」と N女史から。
本HPの資料館に ありますが パソコン故障とか(長期間)。出力印刷 近日 出会いが予想される会合に 持参を約しました。



7 月 23 日 (木)  



入生田三右衛門元康

政宗公の殉死者 15+5=20人の一人です。
享年60歳 寛政13年6月20日新寺小路愚鈍院にて殉死しています。

彼是10年前の8月 老女を頭領とする15人程の団体が、寶筐印塔前で 会議を開いていました。
「なにか 手伝い事がありますか?」と問うたところ

「孫が東北大学医学部〇年生で その激励と、子・孫・曾孫に 我が先祖は如何なる人物であるか説明し 先祖の霊を供養したく 北海道からきた。どの供養塔が わからなく 難儀している」 との返事。

入生田三右衛門元康の寶筐印塔をご案内致しました。
(その後 北海道〇〇〇市のご自宅から何回か電話を頂きました。三途の川を渡られたか 現在は音信不通です)

この様な事から 入生田三右衛門元康に 親しみを感じ 調べました。
120石から200石になり 幕末には 江戸藩邸詰 出入司等の重要な役を歴任しています。

この北海道の方は 嫡流ではなく 嫡流は太白区冨澤にお住まいになり そこが入生田家の在郷屋敷である事を知りました。


2015年6月12日 東北大学大学院柳原敏昭教授のご案内で 中世の城館 冨澤館の跡が 区画整理で痕跡皆無になる寸前の現状を現地で
教授頂きました。

本2015年7月23日 仙台市博物館学芸普及室倉橋真紀先生の「仙台藩在郷屋敷の基礎知識ー入生田家の在郷屋敷などからー」と題する 講義が 冨澤大学(郷土の歴史を愛する会)例会でありました。

〇在郷屋敷とは、
所持方法
居住者による区分
諸役・年貢などの種類による区別
数と藩の規定

〇入生田家
概要
沿革・規模 
 元康の父 成定の時 一旦 屋代景頼に与えられたが 元康の武功で 旧地が返還された。
 中世の城館 冨澤館(地名・太白区富沢字館)の跡地に営まれた。
 屋敷地は 南北98間 東西126間。 2000石の大身の在郷屋敷は 70×80間の規模であり 本在郷屋敷は要害並の規模。

 古文書読解講座講師の先生は、入生田家文書 をもって 丁寧に説明されました。

先回の現地・今回の座学で 冨澤館 理解の入口に立ちました。
今後
1.仙台市史 城館  富沢館
2..仙台市史 地域誌  西多賀
3.市史せんだい VOL24 研究ノート 仙台藩の在郷屋敷 倉橋真紀著
にて 復習・学習します。

あかとんぼ の所感

仙臺城から10km圏内に 中世から近世の城館が ほぼ完全な姿で 最近まで残っていた。
貴重な文化財であった。
拡大する都市圏にあって 公園化してでも 保存できなかったか?
史跡公園として 観光資源になり、有事の際 空閑地として有効であるでしょう。

施政者と市民の意識の在り方が 問われるのか?











7 月 22 日 (水)  



仙台市広報課フェイスブック

瑞鳳殿でのガイドの様子が紹介されました。
撮影時期は 少々以前です。ご覧ください。感想等 お聞かせください。

:https://www.facebook.com/sendaipr


仙台市史 特別編 民俗

書庫から卓上に。
通史に無い 基礎知識が ごっそり。

冠婚葬祭 365日 日々の生活 生まれて亡くなった迄の一生を 貴重な写真・文章で記載されています。
例えば 竪棺の出棺の写真です。

付録の 音でたずねる仙台の民俗
1902年生まれの方の方言語り・・・・・  貴重な史料です。


昨日まで 炎暑の中 4日連続ガイドをしましたので 週休をとり 学習 楽しみました。



7 月 21 日 (火)  



三の丸会(仙台市博物館ボラガイド)の研修

この方々は 博物館学芸員等から集中講義を受け、相当の知識をお持ちになり、冷暖房完備の屋内でガイドをされています。

この会の研修部長職お二人は ある会で昵懇になり 「館外研修で経ケ峯・瑞鳳殿を訪れたいが 講師引き受けて貰えるか」と打診されました。

瑞鳳殿の墓室からの副装品は 伊達家17代当主が仙台市に寄贈され 仙台市博物館所蔵品になっております。

本殿前で 手持資料でこれらを紹介し
「 次 博物館に行かれるでしょう 真物が仙台市博物館で 展示されています。是非 ごらんください。
沢山の展示品で 見逃す可能性があります。瑞鳳殿ガイドが博物館ガイドに 案内を頼め と行って居ました 云われると 丁寧に案内してくれます」 とガイドをしております。

仙台市博物館は 宇和島の様に 伊達博物館と 表示していませんが 仙臺伊達家については 最大の所蔵品があります。
瑞鳳殿でのガイドとしての知識習得 学習の場です。

この様に 瑞鳳殿と博物館 そして両ガイドは表裏一体の関係にあると認識しております。
願ってない機会と 快諾。


当初 20数名を超えるとの お話から  博物館ガイドの経験がある S幹事と 二人で 経ケ峯(瑞鳳殿・弔魂碑・感仙殿・善應殿・妙雲廟界・公子公女廟・石造文化財)を 10時から12時15分まで ガイドしました。


相当の知識をお持ちになっており 語ることは聞くことであり 通常の生涯学習で見られる (今 説明した途端に質問をする) は無く。
炎暑の中 熱気溢れる 勉強会でした。


最後 
「瑞鳳殿ガイドは 年間 寒暖関係無く 自然界で 時間の拘束なく  自然と人との交わりが楽しめます。一緒にガイドをしましょう」
とお誘いしました。

さて 何人が 仲間に なっていただけるか?

博物館ガイドの皆様 S幹事さん 30度超える炎暑の中 お世話になりました。



7 月 20 日 (月)  



海の記念日

1876年7月20日明治天皇が青森から汽船・明治丸で横浜に帰港されたに由来しています。
その由来を、忘れて・知らずにか 3連休の最後と 9時にバス3台が、以後 昼まで 続々と 全世界からお出で頂きました。

世慣れた方々のガイド依頼が多く ベンチにて休息すろ余地がありませんせんでした。

 昨日付けの日誌を読まれ これは大変だ と Aさん、Bさん、Cさんが駈け付けてくれました。
が、連続 26cm高さの石段昇降で お昼で{カロウ」とダウンされました。

瑞鳳殿ガイドは健康の基と申していながら ダウンされた理由に ガイド待機ベンチが無くなったのも起因の一つ。


手水舎直前のベンチは、お客様の目線 「ガイドいますの標識」「手水舎」のいずれに向いたか 「ウツロ」か 確認する最良の位置にありました。

ここで 待機し お声掛けし また 水筒・タオルの置き場でした。
このベンチが無くなり お客様の目線を確かめつつ 休息出来なくなりました。

その原因は 老齢骨折で 再起不能 三途の川を渡りました と事務所の解説でした。
マイッタな。


手水舎の水 飲めますか? と還暦年代のご婦人に尋ねられました。

「はい 水道水です」とのお答え留めました。
その理由は 御承知のとおりです。


9時頃 降雨があり 雨上がり ムンムンの湿気 蒸し暑いです。
七夕ナイト設営隊は 本日は 拝殿後方 本殿前の 笹竹アーチの基礎杭打ちの作業です。上着の中は 汗が滝の如しと予想されます。

さて 腰に各自 蚊取線香セットを 下げています。
例年 ベンチ脚下に 蚊取線香のセットが置かれていました。今年は未だです。作業終了待ちでしょうか?

昨日 午前 亜細亜系の 若い家族連れ 4人 露出した皮膚一面に お互いに塗りまくっていました。会話しました。
その後 日系のお嬢さん2人 噴霧器で 防蚊対策しました。霧状になり 爺様に流れてきます。

無言の 爺様駆除では?   ・・・・・ 風上に避難しました。当然 ガイドは致しませんでした。


拝殿に 今年も仙台七夕の原形が 7月早々から 展示されています。

興味ありそうな お客様に説明致します。
3回 {ヘー」と 驚かれます。

1.全部 和紙です。他所はしりませんが 仙台は 和紙です。雨が怖いです。
2.全部 事務所の職員は 時間を遣り繰りし作っています。 
 (一時 ヨナベシテ作った の表現しましたが 夜なべ仕事が理解されず やめました)
3.仙台和紙は 高価です。1m四方で 高価(色・デザインに優れた紙)で、1200〜1500円します。

今年 飾る品 大方 出来たそうです。
8月 5・6・7日 是非 見に来てください。


http://www.yokoe.info/
を ご覧ください。

古川から 常人を超越した風袋とカメラを持参した3+1が撮影した 芸術写真が 展示されています。
あかとんぼ と +1 の勇姿も 展示されています。



7 月 19 日 (日)  



8月の炎暑(まだ7月なのに)

静岡のお客様 連続2組
「静岡と云えば久能山東照宮」と 自ら申しながら 続いて 「実は 1回 それも昔」と今度は小声で 囁かれました。

9時30分〜12時まで ガイドは途切れ無。
お客様の嗜好に合うように 話題を転換させながら ガイドします。大方 ご期待に応えているツモリです。

1組不思議なお客様いました。
涅槃門でUターンしました。若い女性2人です。

「どーされました。ガイドします」に
「ここ 興味ない」と切り捨て そそくさ降りて行きました。

炎暑の中 折角登って来て。私も仲間も 失礼 機嫌を損ねるようなことはしておりません。
考えられる事は 「お墓」と 知って 慌てたのでは?
遅かれ 早かれ 貴女も お墓に入るのに。でも こんな豪華なお墓には入れませんが。


8月の仙台七夕 タナバタナイトの準備作業が 連日行われています。
本日は、瑞鳳殿地区から感仙殿地区に至る切通(峠)での 照明装置設置作業です。

左右が石垣です。K学芸員 忙しい最中 手を留め

「あかとんぼさん ご存知ですよネ 昨晩のNHKTVで 片平丁の伊達家重臣の屋敷跡 石垣の組み方 異なる個所は、 伊達家重臣の屋敷門の跡で、国の行政機関の敷地になった際  新たに積まれたものです。

ここの石垣と同じです。この石垣は 1878年12月まで 伊達家祖廟(瑞鳳・大年の両山、孝勝・萬壽の二寺)を改葬した際 作られたものです。
その特徴は 壁面 中央に三角形の山がある事です」

「この石垣が 1878年に組まれたとは知りませんでした。ありはとうございます」とお礼を申し上げました。


「画面にありました 巨大防空壕がある豪邸は どこでしょう?」と 尋ねました。
「わかりません」 と 当然の返事が返って来ました。
google mapu検索で 突き止められるでしょうか?

この豪邸で 樹齢1000年の樹木を 紹介されました。

「仙台市保存樹木 杜の都 名木・古木」(仙台市建設局刊行)に明記されていました。
青葉区廣瀬町1-23 で  伊達兵部宗勝の屋敷跡と 記載されています。
巨大防空壕の記述は ありません。



午後 仙台市史講座第31回(山田・鈎取の近・現代史)に参加。
仙台市史・地域誌に記載無い 此処70年間の地域な開発の様相を 手作資料を活用し 語られました。

今日の発見は 江戸時代の遺跡 鹿除土手 が標柱で明示し 残っていました。
大年寺 付近からここまで 4〜5kmの延長 南端部でしょうか?

移動時間を予測出来ない事と駐車する場所の確保から 経ケ峯を早々に出発しましたら 受付開始30分前に到着。
車内で携行昼食を。同様の車 数台。
待ち時間に散策すれば もっと発見があったかも? ただし 日干しになる危険もあったかも。



7 月 18 日 (土)  



西日本は台風が襲来しています。

朝 お客様の出足が遅かったです。券売嬢と分析しました。結論 台風の影響となりました。

本日から3連休です。義務教育は夏休みに入りました。
この機会に 瑞鳳殿を参拝に見えない筈はありません。続々 お見えになりました。

約30人の団体
引率のバスガイド嬢 年季が入っているだけ 口がお上手。

「あら ボラガイドさん 無料ですよネ。タダよネ ガイドして」
「美人のプロが お出でに 素人の爺様で よろしいい?」
「地元の老人が 一番。 誠実で 話に深み があるから」

「時間は?」
「30分で。建築屋に 工藝家の団体です。彫刻を中心に お願い」

涅槃門の麒麟をガイドした際 反応を確かめました。
建築会社かもしれませんが 建築・工藝の職人さんでは ありませんでした。

でも、涅槃門の彫刻 本殿の建築 時間一杯丁寧に ガイドしました。


三重県からのお嬢さん お元気です。
拝殿 扁額 「色材 珊瑚と真珠です」とガイドをした途端

「私 三重から来ました。三重の特産品は 真珠です。ミキモトパールです」と 同行周囲のお客様に 宣伝を始めました。
元気で よろしい です。 ただ 身に 真珠は見当たりませんでした。

この勢いに 「政宗公の息子 秀宗公は伊予宇和島10万石の始祖です。その特産品が鯛と真珠です」 と言いそびれました。



伊具三城(丸山城・金山城・小斎城)

地元で 長年資料を収集・分析し、城址の草刈・整備に 奔走し 大学生から我々老人まで 現地説明をしてくれる Eさん Tさん Sさん が
「ずっと昔の物語 戦国大名 独眼龍伊達政宗 初陣の地 伊具三城の故郷をたずねて」と題して 厚さ25mmの膨大な 報告書を刊行されました。

大きい鮮明な 図面・写真入りです。之を読み 記憶に残れば そくガイド出来ます程 詳細な報告書です。
町の教育委員会で 町人に郷土史資料として 配布されたら 宜しい と思いますが。

過日 贈呈頂き  伊具三城について 地元町長に 意見具申をしている Uさんの 本日お届けしました。
暫し 絶句していました。



7 月 17 日 (金)  



瑞鳳殿ガイド

Fadebook 仙台市広報課に 近日 瑞鳳殿ガイドの様子(Kさんがガイドしています)が掲載されます。
乞 期待

7月からデスネーションキャンペーンが始まりました。その一端です。
参拝者数 前年同月比 どう出るか 楽しみです。


ご当主さま

本日 地元紙によれば 瑞鳳殿の学区の片平小学校で 「伊達家作法」 香道を ご当主が特別授業をされたと 報じています。

5月24日政宗公回忌法要では 自ら 献香されております。
「仙台藩作法に学ぶ 武家の美学 礼法入門書」を丸善から刊行されています。
学童は ご当主の特別授に 感激したのでは?


片平市民センターでは「今に伝わる伊達の文化」として 5回シリーズで総論・瑞鳳殿・香道・作法等を ご当主自らの講義で 計画していると聞いています。

「瑞鳳殿をめぐる」で 瑞鳳殿ガイドに「どうか?」の意向確認が市民センターからありましたが、「恐れ多い」と 御断り致しました。


政宗歴史塾

永禄10年8月3日(1567年9月5日)政宗公は出羽國置賜郡米澤で生誕されました。
(生誕の地 の標柱が 米沢市内 2ケ所にあります)

公益財団法人瑞鳳殿では 毎年8月3日 政宗歴史塾を開催しております。

今年の講師は 伊達家ご当主さま です。
演題は 「伊達政宗の慶長遣欧使節 ローマ教皇 パウロ五世謁見から400年に思う」
会場は 経ケ峯・天龍閣
申し込は、公益財団法人瑞鳳殿 022-262-6250 まで。



7 月 16 日 (木)  



慈雨

せんだい豊齢学園夏季公開講座に参加

講師・演題は
1.菅野正道氏 (仙台市博物館主幹) 大正後期 幻の鉄道構想
2.大沼正寛氏 (東北工業大学工学部) 仙台を彩った大正時代の鉄道


瑞鳳殿ガイドと関係あるか?

1945年空爆で焼失した仙臺。
お客様から 瑞鳳殿はお墓なのに 何故 空爆されたか?それ以前の町は どうであったかのご質問を頂きます。
1963年以降は 見聞き実感していますが それ以前は 正確に知っている人の話を聞き 学ばなければ なりません。

菅野先生の自称オッカケ隊員として、ここ暫く御無沙汰していた故です。



講義を聴かない 先生に相談したい 一筋の方いました。
講義中 背嚢から 種類・写真を取り出し 広げ 仕舞う を繰り返す オジサンが 斜め前に坐しています。
写真は 碑が写っています。文字に片栗粉が詰められています。
講義 終わった途端 先生に駆け寄りました。
この方もオッカケ隊員?



7 月 14 日 (火)  



NHK は 夕刻 次の様に報じました。

仙台城跡で転落の女性救出
07月14日 19時39分

14日昼前、仙台市の仙台城跡の近くの崖で女性が倒れているのが見つかり、消防のヘリコプターでつり上げられ救助されました。
女性は、けがをしていますが、意識はあって命に別状はなく警察が詳しい事情を聞くことにしています。

14日午前11時前、仙台市青葉区川内追廻のテニスコートにいる人から「女性の悲鳴が聞こえた」という通報が消防にありました。
消防がヘリコプターを出して付近を捜したところ、テニスコート西側の崖の中腹で女性が倒れているのを確認し、およそ1時間半後にヘリコプターでつり上げて女性を救助しました。

警察によりますと、救助されたのは仙台市青葉区に住む20代の女性で、けがをしているということですが意識はあり、命に別状はないということです。

女性が見つかった場所は仙台城跡の展望スペース近くの崖で、女性は崖の上から転落したとみられています。
警察は、女性の回復をまって話を聞くなどして、当時の状況を調べることにしています。

(NHK東北NEWS WEB)による


あかとんぼ の感想です。

この女性に「政宗公の名馬 五島」の霊が乗移った のでは?

大坂冬の陣(1614年)に出陣の際 ゴトーは老齢である故 留守を命じられ 悲観 本丸から飛び降り自殺をした。
(正確な年月日時刻は不明)
政宗公、之を哀れんで 蠣崎神社側に墓を建てねんごろに葬った。ゴトハカと称す。

神社は1886年に覺性院丁(検察庁隣)に移転した事になっています。
が、本丸の崖下(現場跡?)に 神社・墓碑が現存しています。

今回の事件の動画を見る限り 場所は同じです。
本丸址も柵があります。通常 落下不可能です。

この女性に401年回忌に「五島」の霊が乗移った のでは?



7 月 13 日 (月)  



今日も 猛暑

3日間 朝から晩までの行動は疲れました。
杜の都プレミアム商品券 9時発売と暗示されても 行動に結びつきません。


今回 田村家と牧野家 両ご当主様と 長時間 御前で お話を承りました。


田村家ご当主には、

6月23日 田村家菩提寺 一関・雲寺の墓所をお詣りしましたと 申し上げましたら、

田村家の御廟の形態は 坂上田村麻呂の墓所の流れを汲んでいる。
外観から窺い知れない 秘密

等を お聞かせ頂きました。


牧野家ご当主には、

江戸で亡くなられた方々の東京の墓地(お骨・墓石)を 全て 越後長岡に移された。

他のお家では 寺から3代に渉り 立ち退きを求められているの話も聞いている。

本来 お家の寄進でお寺が創建され 営まれてきたのでありませんか。それを立ち退きを求めるは 本末転倒では ありませんか?
に、

東京は 墓地需要が高いです。殿様の墓地跡は20から30の墓地に売りにだせます。これが現世です。と。

牧野家は 都・区役所の学術調査の上 長岡に移りました。恵まれています。
学術調査も無く 有耶無耶の中 改葬した例も聞いています。(残念と申しませんでしたが 表情には ありありと)
等を お聞かせ頂きました。


御2人の立ち振る舞い 殿様の末裔でありながら 威張らず 親しく お話頂き、良き お人柄を 随所に拝見されました。
ありがとうございました。
 



7 月 12 日 (日)  



忠宗公358遠忌法要

10時 感仙殿で催されました。

読経 正宗山瑞鳳寺 鎌田住職・鎌田副住職

焼香 伊達家34世当主         伊達 泰宗 様
    一関田村家56代当主      田村 護顕(モリアキ)様
    長岡牧野家17代当主      牧野 忠昌 様
    殉死者後裔会会長        加藤 孝 様
    仙台藩志会副会長        佐藤 久一郎 様
    一関藩志会会長          小山 眞(シン)様
    伊達家御廟大年寺会会長    阿部 和子 様
    公益財団法人瑞鳳殿常務理事 富田 律男 様

挨拶 伊達家34世当主         伊達 泰宗 様
    仙台藩志会副会長        佐藤 久一郎 様
    公益財団法人瑞鳳殿常務理事 富田 律男 様

10時30分 閉会

仙台藩志会副会長佐藤 久一郎 様 挨拶要旨
慶長4(1599)年12月8日政宗公ち愛姫様の子として誕生、13歳で元服、将軍秀忠の一字を頂き、忠宗公と称されました。
政宗公の時代 江戸城の石垣普請を 元和6(1620)年22歳時と寛永(1629)年31歳時の2度 総指揮をとり見事完成されました。

寛永13(1636)年 政宗公の逝去により封を継がれ、藩政の基本枠組みを確立されました。
例えば、奉行職の月番制、寄合日の制定、裁許所の設置、仙台参府制度の確立、聡検地による領内石高の確定、租税体系の整備があります。
万治元(1658)年7月12日60歳の生涯を終えられました。
ここにご遺徳を偲び ご挨拶と致します。

記録

1.本日は、仙台藩志会会員のほか、一関藩志会会員30名、一関市長ほか、長岡牧野家関係者、片平市民センター企画係長ほか、田村家縁故者に瑞鳳殿ガイドの会会員10名と 総勢100人と 近来稀なる人数が参列しました。

2.30度を超える炎暑ながら倒れる人がいませんでした。公益財団法人瑞鳳殿でテント2張り用意されました。

3.法要後、一関藩志会のご依頼で 田村家関係墓碑・奉納石塔を 瑞鳳殿ガイドの会会員と共にご案内しました。

 内訳
 @ 伊達斎義(ナリヨシ)公 伊達家11代34世 墓碑
    父は田村家5代村資(ムラスケ) 1798年江戸で生、1819年22歳 伊達家の封を継意だ方。
    妙運廟界 左奥に 正室芝姫(アツヒメ)墓碑と並んでいます。

 A 田村宗顕(ムネアキ) 一関 6代
    伊達家9代周宗(チカムネ)1812年卒に 翌年6月 石灯籠寄進
    妙運廟界 右手前に

 B 田村誠顕(ノブアキ) 一関 2代
     伊達家3代綱宗公に 寄進 石灯籠
     善應殿御霊屋前に。
     2011年3月11日 大震災の際、付近所在 約100本灯篭が倒壊した際、倒壊しなかった只一の灯篭。
     写真を提示。

 C 田村宗良(ムネヨシ) 岩沼 初代
     忠宗公供養に 感仙殿完成1664年に 寄進
     感仙殿参道 左側 2燈






7 月 11 日 (土)  



猛暑

水筒を待機ベンチに置き ガイドをしました。

短足・胴長の犬。鎖で自由を拘束され 62段を上って来ました。
飼い主は、手水舎で龍頭の吐水を手杓に汲み 飲ませました。

その手杓をどうしたか?
そのまま 手杓棚に置き 悠々 歩を進めました。

この犬の飼い主は 犬と同じ食器で食事をしているのでしょう。
違和感なく 行動しています。

違和を感じた あかとんぼ は 如何なる行動をとるべきか?

犬は 短足で ヨタヨタ ハアーハアー と引っ張られて行きました。



午後、明日の忠宗公358遠忌法要に参列される 伯友会(越後長岡藩士会)名誉会長・牧野忠昌ご夫妻様、一関田村家16代当主姉様・佐々木美穂子様の瑞鳳殿・戊辰の役弔魂碑の参拝、田村家奉納灯篭見学の露払いを致しました。


夜、瑞鳳寺で催された 忠宗公と殉死者の供養(御逮夜) に参列が許され末席を汚しました。
日没直前の薄暗黒の本堂での瑞鳳寺3世代の僧侶の読経、参列者一同の読経、異なる僧衣の拝見と 得難い経験を致しました。
貴重な機会を作って頂きました 瑞鳳寺総代長(仙台藩志会常任理事)桑折秀彦様と殉死者後裔会の皆様にに感謝致します。



7 月 10 日 (金)  



猛暑

伊達学塾 米澤探訪会 の行程確認、講師依頼に。

訪れた先、課題
@ 成島八幡神社。

   前日迄 雨天の場合 参拝をするか?
   20m程の石畳坂道 苔舗装で滑り 転倒の可能性が高い。

   別当寺龍寶寺は八幡神社と一諸(仙台 大崎八幡宮と龍寶寺の例)であったが、ここ米澤では龍寶寺は廃寺になった。
   廃寺跡は訪れない の結論。

A 覺範寺址。

   案内板と江戸末期の石佛数体。
   ここは「遠山覺範寺」(トウヤマ カクバンジ) 邑名が 遠山(トウヤマ)。

   覺範寺は、1585(天正13)年10月8日に非業の死を遂げた輝宗の菩提を弔う為 本邑に建立、岩出山・愛宕山から現在の北山と移った。
   現在 遠山覺範寺は「エンザン カクハンジ」と称している。
   この違いは 何に由来するか?

B 館山城址

   米澤市は発掘調査を終え 史跡指定を国に申請中である。
   この一帯の地主で、館山城保存会・国指定史跡公園に推進する会事務局長小野里一榮氏 講師依頼快諾を頂く。

   小野里一榮氏は 自己経費で公園化に努め、「戦国時代の米澤 伊達政宗と館山城」の演題で講演されており、その記録が(米沢御堀端史蹟保存会)の会報懐風第40号に掲載されています。

    その情熱から 限られた時間内で ご説明が終えられるかが心配です。

C 上杉城史苑

   昼食と買物 予算内で 米澤牛と山形芋煮を食べられるか?
   献立は別途協議で 座席を予約。

   昼食と買物の合間に 政宗公生誕の地 表示 2ケ所目 見学できるか?誘導の担当は?

D 林泉寺

   政宗公幼少時 大きい影響を与えたとする 不動明王 を拝観できるか?
   寺総代小野里一榮氏が交渉を確約されました。

E 関邑・支倉常長生誕の地

  資料館と展望台の見学。
  展望台は10分程 山道を登ります。高齢者多数の参加が見込まれます。安全確保が課題です。

  講師に支倉常長生誕の地保存会会長・支倉常長生誕の地歴史資料館館長岡崎利勝氏の快諾を頂きました。

F 館山寺

   館山城と伊達家と寺との関係
   山口卓道住職が 講師を快諾されました。

以上を 前三の丸会長推野健作氏の先導で 柳沼宣洋伊達学塾教頭と 7:30から20:30迄 13時間を要して行程確認、講師依頼をしてきました。老体は坐して 時々発言すれば 良いにしても 些か疲れました。



7 月 8 日 (水)  



瑞鳳殿でのボラガイド

目的(心情)は 表紙に記載した「口上」のとおりです。

本日、東北外語観光専門学校生に「経ケ峯」を120分語り、15分の質疑応答をしました。

20歳前後の学生に語る際 精神的にコチコチに緊張します。
間違った事 絶対に語ってはならない です。
通常のガイドでも ウソ 偽りの無い内容で語っています。

では なぜ 学生なら緊張するか?

あかとんぼ 国民学校2年生時 皇国の歴史で 教諭は教室の片隅のバケツ(対空襲に備え 馬尻に消火用に水を張っていた)に、雑巾を入れ 滴を垂らし 「我が皇国日本列島は 画して 出来た 諸君 ワカッタか」と云われた。(話の基は古事記にあります。但し 雑巾の滴ではありません)

以来 日本列島の成立は 雑巾の滴 と覚えていました。ある時 妻子に この話をしたら膝を抱えて笑われました。当然です。
このトラウマ で 学生には緊張するのです。

メモを取りながら 真剣に聞いてくれ 最期に参加学生全員から質問がありました。主な質問
1.伊達政宗とは どんな人であったか?
2.伊達八家紋の由来を再度教えて?
3.木像 両眼の由来は 巷説の親子関係の話しに矛盾しないか?
4.伊達家現当主の個人情報を教えて?
5.紫陽花と伊達家文化の関係は?

担任の先生から 有意義な教示がありました。

麒麟・唐獅子・龍など 日本(東洋)古来の文化に基ずくものは そのまま キリン・カラジシ・リュウと伝えています。
龍とDragonは同じでない 吐水と吐火と大きい違いがある。酒が sakeと国際的通用している。
これらから 下手な翻訳は 大きな誤解の基となります。

今日の講座をどの様に整理し 発表されるか 楽しみ です。
学校の広報担当が 終始撮影されていました。学校のホームページに掲載されるのでしょうか?



看板の転倒防止に 「転倒防止 土嚢必置」の札を 看板裏に貼り付けました。
仲間から 「新四字述語ですね」 と笑顔のご発言。 注意喚起 完全徹底。


手水舎に表示されていた「飲料水」の表示が外されました。
龍の口から吐れる水は 仙台市の水道水です。
手杓子は 紙コップの様に使い捨てでは ありません。
全世界から訪れた人々が利用します。検討すべき課題があります。その入り口の処置です。



7 月 7 日 (火)  



気力・体力・財力

この三力が充実していれば人生は無敵でしょう。

このすべてが衰えた現在 残るは 機会(チャンス)の活用のみ。
今この機会(チャンス)を逃がせば 生きている内 再び機会(チャンス)が巡ってくる保障はありません。

過日 支倉常長の遠忌法要に 現13代当主支倉常隆氏からお招き頂きました。

伊達家歴代公の遠忌法要には参列させて頂いております。しかし 伊達家家臣の遠忌法要は有名・無名先祖とわず初めてです。
「機会を活かす」 から出席致しました。

豪華な法要でした。
参列者に濱田直嗣氏、慶長遣欧使節画の千葉画伯を筆頭に、寺檀信徒と多数でした。
人数が多いから 豪華 の表現ではありません。

僧侶の数です。
光明寺・東昌寺・資福寺・覺範寺・満勝寺・瑞鳳寺・大蔵寺の住職に、副住職が2人と9人です。

妙心寺派と東福寺派の違いがありますが、何れも臨済宗です。
伊達家ご縁のお寺様です。

施主のご当主曰く 「これが普通」。

大蔵寺は 初聞です。

丸森町大張所在です。仙臺城下から遠隔地です。
なぜ支倉常長の遠忌法要に招かれたか?施主は 「慣例です」 との答え。

丸森郷土史に詳しいUさんにお訊ねしました。

政宗公に殉死した 大槻喜右衛門定安 200石の采地が丸森町大張であった。

大槻喜右衛門定安は 馬上十一騎 鑓鉄砲151人の 将。

「大坂の役、騎士を獲って献ず、公之を賞し、禄を加え200石となす 定安嘗て君恩に感激し、公百歳の後身を以て殉せんと請う、公之を聴く」

「大張(大蔵・川張)耕野など御蔵入り地(藩直轄地)を小斎・佐藤家の采地とする旨発表。
寛永6年(1629)馬上十一騎 鑓鉄砲151人は 晴天霹靂 川張邑前田屋敷の八島下野を先頭に仙臺に。
伊達政宗が川狩りに出るところを大橋袂にて直訴し 取り消しに成功した」

この様な事例 ご縁ではありませんか のお答えでした。

なんとなく納得しました。丸森郷土史家Uさん ありがとうございました。



7 月 6 日 (月)  



案内板

3日日誌記載標記案内板 緊急手術で土・日とも お客様をご案内しました。

本日 早朝からA副会長が部材を購し 電動工具を持参し 本格的修理し 化粧もしました。
見事な出来 修理したとは一見わかりません。
Aさんの技能と迅速な対応に感謝致します。

「恒久策を 知恵のある人は知恵を、金も知恵もある人は両方を 出し 固めましょう」の恒久策が実現するまで 使えるでしょう。


「看板 一瞬の風で 倒れ 足元が複雑骨折しました」と3日日誌記載しました。

複雑骨折の表現故 ガイドが怪我したと読まれた方から お見舞いを頂きました。
高札風 看板の足元が壊れましたのです。ご安心ください。お見舞いに感謝致します。


会議

瑞鳳殿ガイドの会 定例役員会を開催し
@ 6月ガイド実績(日別・人別)数を確認
A 10月現地研修の具体的実施を討議
B 催事・講座の開催情報の披露
等が 報告・協議されました。


余禄
@の表を見ながら 「アレ 〇〇さん 具合わるいのか?」の お声が飛びました。
週に2〜3日ガイドしていたAさん、月2回はガイドすると宣言しているBさん 6月稼働皆無です。
高齢者の集団 故 体調を崩したか の心配が走ります。

と申して 電話・メールをする訳には いかない。「ガイドしなさい」と勘繰られのが 怖いのです。
心当たりのある方 電話・メールを待っています。


体調を崩していたCさん 過日 リハビリを兼ねて ガイドに来ました。
杖を用いていましたが 口は 変らず達者で 4〜5人をガイドしました。

@の表には 稼働実績0となっています。原因は久々で記録簿に登録忘れでした。

「確か4人をガイドした」の声に
「4人はシニンです。ゴニン 5人にして」
「それは 誤認では?」
「何れにせよ ヨニンと読まずにシニンとは お年寄りの団体ですね」
確かに。60代は若手です。






7 月 5 日 (日)  




お客様は 全世界から。

会員で外語学校講師のAさんが見えました。
案内看板「英語ガイドいます」に切り替え 対応されていました。助かります。


福井・新潟・北海道からのお客様 熱心に見て呉れました。ありがたいです。

昨日 大阪からのお客様。
案内は 大阪の単身赴任の方。「自分で案内出来るがボラガイドいるから喋らせてみるか」の気分で頼んだアリアリの様子。

いろいろ二人で質問をされます。お客様の要望に応えるが優先です。お客様が ボラガイドを聴くボランテイアになったのでは 本末転倒です。
質問に応えながら 合間に こちらとしてのストリーでのガイドを致しました。トリコボシもしました。

お客様2人とも 広い意味の建築業とか 「ウン 満足した この次から 客(会社の上司?)えの説明 まかしとき」とのことでした。


三世代のお客様
親夫婦は 東京以南に住まいし 仙台在住の子供・孫を訪れ、仙台第一の観光地として案内されたようです。

爺様は年齢的に歴史の素養があるらしく 婆様と他のお客様と聞いてブツブツ言っております。
涅槃門の説明終わった時点で、「子・孫見えなくなった」と 続いて聞けないのが残念と 登って行きました。
当然 本殿での 話は聞いていません。


あかとんぼ の私見です。
この爺様婆様は 子育てに失敗したと思います。

1.再び訪れるかわからない両親が満足する様に配慮すべきです。
2.自身もガイドを聴き その1片鱗でも記憶に留めれば 勤務先での接待で お客様に流石と云わせる 案内できたでしょう。

この様に機会を活かせず 配慮の足りない 子供を育てのは 親の責任です。



大坂の人は 逞しい です。


新聞投稿

瑞鳳殿ガイド仲間の柴修也さんの「地蔵尊飽食の戒めに」
国分寺ガイド仲間の橋本毅さんの「芭蕉新ルートで散策して」
が投稿欄を占拠(?)しています。

直接 瑞鳳殿に関与しませんが 機会ありましたら ご覧ください。



7 月 4 日 (土)  



お客様

北関東圏 埼玉・栃木・群馬のお客様が連続。ガイドしましたが記録すべき応答はありませんでした。

JR東日本鉄道(株)企画「大人の休日」をご利用の団体。
40-50代のご婦人4-6人の集団で 何組か見えました。

JR東日本鉄道(株)管内早回りに 挑戦されているのか、その為 仙台市内を るーぷバスで1週70分に若干 瑞鳳殿を加味した雰囲気の組 いました。

ガイドの存在を辛うじて認めてくれましたが サクサクと通り過ぎていきました。
稲妻観光 です。


仙台藩志会理事会

午後の理事会で 会報「藩報きずな」編集委員長に任じられました。
仙台藩志会の会員は200余名。

会員の最大公約数を割出 会の目的達成に 一丸となり向かう手段の一つが会報です。
出自が「士」と「志」と 大きく違い 会に求めるものも一つではありません。

懇親会の席で 先輩諸氏のお考えを拝聴しました。結論「大変だ」でした。



7 月 3 日 (金)  



案内板

瑞鳳殿入口に 「ガイド無料 お一人様からどうぞ」と 大文字の看板を立て 待機しております。
目に入らないお客様もおりますが、目に入ったお客様ら 「本当に一人でもよろしいですか?」とお声を頂きます。

大事な看板です。

昨晩 帰宅ホット瞬間 Aさんから
「看板 一瞬の風で 倒れ 足元が複雑骨折しました。
K学芸員と応急手術しました。」
と電話を頂きました。

怪我は看板のみで、Aさんは無傷との事で安堵したものの 無看板では お客様にアピールできません。
朝一番で 駆けつけなくては 思いつつ 11時までキャンセル出来ない用事があり、済次第急行しました。

瑞鳳殿S主任と現場確認しました。
1.転倒防止の砂袋 設置を忘れない事を会員に周知する。
2.恒久策を 知恵のある人は知恵を、金も知恵もある人は両方を 出し 固めましょう。
となりました。

ガイドの会の会員(役員)の皆様 上記をよろしく。



7 月 2 日 (木)  



瑞鳳殿ガイドの会 研修

「伊達家御一門を知る第3回 角田石川家・亘理伊達家の御廟所と要害跡を訪れる」

研修は、瑞鳳殿でのガイドの基礎知識として 伊達家を支える伊達家御一門の御廟所と要害を訪れ、宗家との関連性・類似性・相違性等を学習し、ガイド力の向上を図り 瑞鳳殿を訪れた皆様に より満足して頂けるガイドを目指しているものです。

第1回は 涌谷・登米の両伊達家の御廟所と要害跡を
第2階は、宮床・岩出山の両伊達家の御廟所と要害跡を 訪れています。

本日 下記を

1.小斎城物見櫓(政宗公初陣の地)
2.丸森城・金山城
3.角田市郷土資料館
4.角田要害跡
5.石川家廟所
6.長泉寺
7.亘理町郷土資料館
8.亘理郷土資料館
9.大雄寺伊達家御霊屋

総括担当副会長・研修担当副会長に研修担当幹事と訪れ、関係者に特段の配慮と講師依頼をして参りました。
各関係の皆様 非常に好意的で 全てご快諾(内諾)を頂きました。

朝早くから夕刻まで 車を提供され、率先誘導されましたAさん 種々 有効策を提言されましたBさんCさん ありがとうございました。




7 月 1 日 (水)  



講師依頼

瑞鳳殿でのガイドのほか、瑞鳳殿を世界の人々に案内したい故 その勉学の一助に 現地瑞鳳殿での講師依頼があります。

瑞鳳殿を語れる人 勝手な格付けですが
1番 Aクラスは 伊達家御当主 です。
2番 Bクラスは 公益財団法人瑞鳳殿学芸員 です。
3番 Cクラスは 瑞鳳殿ガイドの会の仲間 です。

仙台市内のガイド団体から相談されます。
@ 講師引き受けて貰えるか?
A 拝観料無料にして貰えないか?

Aについては、
1. 直接 公益財団法人瑞鳳殿に相談して頂きたい。
2. 公益性が認められれば 貰えるでしょう。
3. 如何なる団体で、瑞鳳殿での研修目的はなにか?いつ、何人か を 整理し 相談されたら。

@についても、2番Bクラス公益財団法人瑞鳳殿学芸員を  まず お願されたら。

と 回答致しております。

仙台城跡に 複数のガイド団体がありあます。
内A団体から
7月中旬 新人研修の一環で 瑞鳳殿で研修を実施したい。ついては 講師を と相談されました。
瑞鳳殿学芸員が御用繁多で無理で、私共で宜しければ 喜んで させて頂きます とお答え致しました。


東北外語観光専門学校

本校では 外語で 観光ガイドを出来る人を 国家資格取得する人を 教育しています。

その教程に
@ 瑞鳳殿で ボラガイドのガイドを見聞きする。
A @で得たものを整理し 自分のシナリオを作る。
B Aに基つき 瑞鳳殿で 外国人に実際にガイドをする。
C Bについて 教師陣の具体的 指導を受ける
D 国家試験に挑戦する。

以前から 講座主任からの お話で@・Bに参加しております。
本年の@は 本日 予定されていましたが 大雨予報で 来週に延期なりました。

観光専門学校学生は 青春そのもの 世界で瑞鳳殿の素晴らしさを
ガイド団体は、老春そのもの 仙臺にて 瑞鳳殿の素晴らしさを
其々語ってくれるでしょう。

できれば、瑞鳳殿で ともに ガイドしてもらえれば 幸いです。
この様な人々からの講師依頼は いつでも喜んで させて頂きます。





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