2015年12月の日誌
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12 月 31 日 (木)  



お礼

本年中は、瑞鳳殿で122日 楽しくガイドが出来ましたのは、一重に お客様、公益財団法人 瑞鳳殿様、瑞鳳殿ガイドの会の仲間の皆様のお蔭であります。

2001年2月11日から ガイドを始め、
「HP あかとんぼ瑞鳳殿ガイド日誌」を 2002年1月1日から記載を始めました。

今日まで 継続出来ましたことは 読者、支援くださる行政機関・生涯学習団体・仙台藩志会・支援機構の方々、お客様、公益財団法人 瑞鳳殿様、瑞鳳殿ガイドの会の仲間の皆様の ご指導・ご鞭撻・ご支援を 頂きました故であります。

厚く お礼申し上げます。

年年歳歳 人・環境は変化してまいります。

15年1日のガイドで よろしいものか?
 
人生 峠の頂点の年齢に到達し 森羅万象を含め 色々思案致しております。

とりあえず 明日からも今日と同様で ガイドに参ります。
よろしく ご指導の程 お願い致します。



12 月 30 日 (水)  



門松

伝統の門松
今年も丸森町大内に飾られました。
高さ2m 幅2.5m 瑞鳳殿に飾られた門松と同形で、用材・規格にも拘りがあり、椚(クヌギ)で、鬼打木は炭焼き窯に入る長さ等です。
伊達領内では 此処と一関のある所の2ケ所で、貴重な飾りです。

今年は、28日に飾られました。
河北新報は29日 4段で大きく報じました。毎日新聞も報じたそうです。


25日仙台市博物館で、復元門松の発見者 倉橋真紀先生の講演がありました。
伝統の門松の由来 門松の意味 なぜ門松を飾るか 民俗からの 日々の生活の在り方を 勉強しました。


瑞鳳殿に飾られた門松は、資料館入口で 参拝コースの脇です。
位置の関係で 実際より小さく見えます。見栄えしません。

参拝者に 政宗公ゆかり の門松である のアピールが十分と申されません。
26日 ある有識者にご相談・陳情致しました。
4年目の2016年暮れには あかとんぼ の願いが実現するでしょうか。







12 月 29 日 (火)  



門松




12 月 27 日 (日)  



本日 ガイド納め

印象的 記録に残るガイドしました。

視覚障碍者が居るので理解でき、満足できる ガイドを頼む。

結果として 「満足した」の お声を頂きました。


昔日 視覚障碍者支援団体のご依頼で 瑞鳳殿と瑞厳寺をガイドした経験があります。

全て 具体的・計数化が必携で 指示代名詞 情緒での ガイドは 理解頂けません。

例えば 涅槃門の場合

1.前方に、木造・平屋建 切妻造 四脚門があります。
2.高さは 約6m 軒高 約3m 間口 約3m
3.全体が 黒漆で 真っ黒で 金具は 金箔
4.正面 扉には 金箔押しの 径30cmの菊紋が 光 輝いています。
5.これは 皇室の御紋ではなく、伊達家 八家紋の一つで 豊臣秀吉から頂いたものです。
6.上の方に 彫刻があります。麒麟です。ビールの麒麟 おめでたい世界に住む 霊獣です。

では 右手に移動します。
40cm程の皿の様な 敷石です。

石段上ります。20cmの高さです。ハイ まだ あります。
ハイ ここで 止まってください。左 上に 彫刻があります。
唐獅子牡丹です。任侠の世界の男の背中に彫られた刺青の模様です。
ここでは、お釈迦様とお母様 マーヤ姫で 育児の様子を表現されたと伝えらています。

彫刻は 赤・青・緑・白等 原色の極彩色です。

等 健常者であれば 指を指しただけで 理解できる事柄 全てを語ります。
ラジオの中継を 連想していただければ。



12 月 23 日 (水)  



天皇誕生日

1933年朝 東京ではサイレンが2回鳴りました。皇太子誕生の知らせ。(三省堂版 行事こよみ事典)

瑞鳳殿に。今年も昨年同様 参拝者は少ないです。
ガイド多数で 需要と供給の関係は 不均衡でした。


9時。若い男女10人(女2、男8) 券売前 門で停止し、窓口を見ています。
動きません。

「るーぷるバス券で 100円割引になります」のアカトンボのアナウンスにも 微動だにしません。
「この通路 無料で 抜けられます」 元気に動きだしました。

山茶花の垣根越しに
「学生ですか? 東京大学ですか?」

「ハイ 東京の大学生です」 「早稲田です」「慶応です」「法政です」 (6大学の安売り?)
涅槃門前で ストップ。垣根越しに 瑞鳳殿の概略をガイド。

出身地を聞いたら 熊本出の学生がいました。
伊達家家紋 九曜紋と細川家との関係を語りました。遠い奥州仙臺で 古里の殿様が語られ ウルウルしていました。

1人の学生は、宮崎県で 「我が県には 有名な殿様はいません。天降伝説 高千穂があります」

懐かしかった。その昔 紀元節に (雲に聳える高千穂の・・・)と唄いました。
豊臣秀吉の九州平定・所領分断策により分割統治され、徳川時代に天領と8ケ領となった(宮崎県の歴史 山川出版社1970版)とありました。

若者は自国・日本 特に 故里の歴史を知らない と申す方 いますが 今日の 東京の大学生は 心配無用です。

この垣根越しガイドを見た Aさん 「前代未聞ですね」
「ハイ 苦学生向け 学割ガイドです」



男性。タブレットで 手水舎の龍を撮影しています。

「龍に 興味・関心あります? 上に 寛永14年作 国宝時代の龍頭があります」
ありがとう と スタスタ と行き すぐ 戻って来ました。

「途中に神社ありました。誰もいませんでした。 何の神社ですか?」
「地元崇敬者が管理しており 春・秋の大祭には 人出があります。穴蔵神社 と申して 政宗公正室 愛姫ゆかりと伝えられています。
安産の神様です」

「そうですか。妻が来春 出産します。お詣りしてよかった」
「母子共に健康で 安産を」


名古屋大学教授?

聞き出しに上手な方です。
「東北大学の友人を訪ねてきた。明日から 数日いろいろ・・・・」

伝統門松に、政宗公副葬品にも 興味を示されます。一般のお客様には 珍しいです。
「仙台の伝統的な門松」(歴ネット企画パンフ)と「瑞鳳殿だより VOL.11」(瑞鳳殿副葬品掲載)を 差し上げました。

明日 東北大学教授と会談し 会話の折に(仙台伝統的門松)・(副葬品金製ブローチ)を話されれば 「地元の儂が知らない事 何故 知っているんだ」 と ならないか 楽しみです。


献灯
参道両脇奉納石灯籠の前に 名札が立てられています。
伊達家の家臣団に 興味・知識がある方は 丁寧にご覧になり 登壇されます。

拝殿脇で 「伊達成實に、留守政景の 灯篭は 無いのか?」と 訊ねられました。

「途中のは 奉行(家老)クラスの方々で、御一門の方々が 奉納されたのは コチラ」と 本殿前下 礎石に案内し説明しました。
「どうして 礎石だけなのか?」

「長年の風雪による老朽化と戦災時の猛火の火傷で 破損致しました」
「復元しないでいるのは、焼失前 国宝時代の姿図・写真の保存が無くて出来ないのか。予算がないのか?その事情は 私には ワカリマセン」

この後 国宝時代の写真の数々を お見せしながら 語りました。
「若い時 仙台を離れ 最近 帰ってきた。故郷を勉強している。又 来ます」と 申して 飛天巡りに。


整美員 Gさん

何組か? に説明しています。
「間違っている箇所あったら 指摘して」  今日 聞いた限りでは 大丈夫でした。 その様に伝えました。

「本殿の竹に雀の家紋 口が 右から左に 阿吽で 無いのがある 何故か?」の お尋ね。
「原則には 例外があります。 日本国憲法ではありません。絶対ではありません。何れも正解です」と 国宝時代の写真を見て頂き、理解して頂きました。

先程 お客様 「本では 伊達家家紋 10とか 13とか 書いているが 今 八家紋と云われたが?」
「はい その様に記載された本あります。が、伊達家が認めたのは 八家紋です」

竹に雀の家紋の変遷を 図解致しました。ご理解頂きました。


年末

資料館入口の屋根に 落ち葉が堆積 山を形成していました。
門松を撮影すると 門松の後方に 写る事もある位置です。気になっていました。

「屋根に上る事は高所作業で 法の定める所により 誰彼 作業が出来ない」と 聞いていました。
本日 ほぼ 全部 落ち葉が堆積が 見当たりませんでした。昨日の風で 飛散したのでしょうか? 神風が吹いた?

善應殿には まだ 神風が吹かない様です。


M嬢は 本日が 御用治め とか。
あかとんぼ は いつを ご用納めにするか? 



12 月 20 日 (日)  



12月20日

年末間近?
お客様の絶対数は 予想を下回りました。でも 途切れる事無くガイドをしました。

新潟のお客様 亘理伊達家・白石片倉家の墓所をお詣りし 仙臺伊達家 瑞鳳殿で 仕上げと 開門と同時に見えました。

米澤からの2組の夫婦。賑やかです。

片倉小十郎生誕の地と云われる所から来ましたと 自己紹介し 上杉の米澤 と申されます。

上杉の前 伊達家です。米沢市で その居城ではと 館山城発掘調査されていますネ。

上杉の米澤で 伊達家に力を入れた結果が 秋の選挙結果です。
ハアー さような見方もあるんですね。

最終的に 竹に雀 の家紋の変遷で 盛り上がりました。


東松島方向からの老齢の御婦人に 娘か 孫か 

色々 語るご婦人です。
1.祖母は 片倉家から お嫁入りしている。
2.家紋は 九曜紋で 真ん中の星 半月です。
3.契約(講)があり、邑外れの墓地に埋葬した。
4.墓碑は 全て倒れたが、お骨は流されなかった。
5.お地蔵さまは・・・・・・

邑の肝煎り 由緒あるお家では?

津浪で 全部 流されました。

震災4年9ケ月 精神的余裕が出て来たの 連れて来て貰った。
あなた ガイド何年なります。お元気で


最後は10人程の若い集団。
表示板で 伊達男 から 話をしました。

年末のこの時期に 若い集団に 学生さん ですか?
イヤ 社会人です。ヒイー

イヤハヤ ビックリポン。



12 月 18 日 (金)  



仙臺城門松

政宗公が仙臺城に飾らせたと 伝えられる伝統門松が 今年も瑞鳳殿・資料館前に飾られました。

瑞鳳殿加藤学芸員、仙台市博物館Y沢係長・倉橋真紀先生の3人に 猫の手として参加したあかとんぼの4人で 2時間で飾り付けました。
昨年は12月26日の寒気厳しい中、根白石邑肝入・山守を務めた熊谷家の現当主熊谷和夫さんの指導のもと 3時間を要しました。

作業中 資料館見学のお客様 立ち止まり 
何作業をしているのか?に始まり、珍しい形だ、デザインしたのは誰か?仙台特有のものか?等のご質問を頂きました。

あかとんぼの説明で満足されない お客様には仙臺城門松の第一人者の倉橋真紀先生が 丁寧に説明されました。
お客様の中には 若くて美人の先生が 仙臺城門松の第一人者と驚いていました。

今月24日13時から 仙台市博物館で倉橋真紀先生の仙臺城門松についての講演があります。申込み不要です。

仙臺城に飾らせた門松と同様の門松が 連綿と400年余 飾られている所。
家格 御一族。 家禄2000石。 領邑 伊具郡金山・要害預 中嶋播麿。 の領地 伊具郡大内邑。

この埋もれた門松を 世に知らしめた郷土史家U氏は 急用で不参加でした。参加されれば、
「鬼打」について 建設的な発言をされたのでは 推測致しました。

 



12 月 17 日 (木)  



仙台市博物館 展示 「せんだい再発見」

市史普及室長 菅野正道先生に 解説頂き後 自由見学となり ガイド仲間のOさん K1さん K2さんと 見学致しました。
3人の 博識には 驚くばかり で拝聴しました。

展示史料 市史で紹介された真物 続々 展示しています。

仙臺城門松についての講演で語られた 「寛文10(1670)年6月5日 根白石村御門松納申候者共諸役御免願写(原本) 鷲尾家文書」が展示していました。原本を目にするとは 感激でした。

この展示 仙台市民の後期高齢者は入場無料です。


仙台市博物館は 地下鉄 東西線の開通により バス路線全廃で 從前より遠くなりました。
地下鉄駅から 公称 8分です。



12 月 16 日 (水)  



るーぷる仙台

ガイド仲間鈴木秀典氏は 本日の河北新報に「るーぷる仙台逆回り必要」の2段見出しで、所信を表明されました。
その要旨は、

観光バス・るーぷる仙台は人気で常に満杯である。
時計廻りの一方コースである。
途中で帰りたい人、戻り再度見学したい人がいるが不自由している。
仙台を訪れた人の立場に立った利便性を検討して欲しい。


これは 以前から ガイド団体の会議で話題になり、仙台市の観光行政担当は十分に了知しています。しかし 実現しません。

瑞鳳殿だけで 仙台市街・駅に戻りたい方は 居ないわけでは ありません。
幸い 路線バスの停留所が至近にあります。200円程です。苦情は聞いていません。

仙臺城本丸址では、路線バスの停留所が至近になく、タクシー利用となります。
お客様は 時間の無駄をとるか? 無用の出費に迫られるか? 難しい判断が求められます。

これでは 仙台の観光に対する評価は 向上しません。
仙台市長から 如何なる回答が 出るか 楽しみです。


ご満足頂けるガイド

昨日 瑞鳳殿幹部とガイドの会役員とで 意見交換会を持ちました。

お客様の要望を受けた会員の声を 法と予算の壁が あるのを了知の上で 長期の懸案事項である 誰でも楽しく よかったと帰られる環境整備について 率直に 申し上げました。

公益財団法人瑞鳳殿は 行政機関ではなく 独立採算である故 懸案事項は了知しているが 即実施にはならない と申しながら 聞いて頂きました。

瑞鳳殿から 平日も 土・日並のガイドの配置が出来ないか等の要望がありました。

私共も そうありたいと 思案しております。その実施には 優秀なガイド仲間の増員が必要であります。

2013年1の「市政たより」にガイド募集(養成講座)の記事を掲載頂き 現在の主力メンバーの確保につながりました。
2016年度に 再度 実施をお願い致しました。


明治青年大学

本日 午前の開講に参加しました。
講師は、元仙台市史編さん室長 鵜飼幸子氏。
演題は、長町の昔と今

経ケ峯を含む根岸村・平岡村・郡山村が 長町の範囲である。
この範囲について 古代から現代まで80分で 話されました。

経ケ峯に触れる事項はすくなかったです。(当然でしょう)。

郷土史を勉強している方々の御尊顔をお見受け致しましたが、郷土史家T氏のお会い出来ませんでした。
先日来のご指導に お礼申し上げたかったのですが。



12 月 14 日 (月)  



瑞鳳殿 灯篭寄進日

昨13日日誌記事

「奉納年月日がなぜ 全員同じなのか?この日は何の日か?のご質問があり
政宗公の1周忌日です。
と回答したが 納得しないお客様いました と 仲間から 伝えられました。」について

読者の方から

1.政宗公霊廟瑞鳳殿完成は寛永14年10月24日になっています。
 それ以前から奉納されている事になります。

2..伊達家史叢談によれば寄進日は、 5月24日、7月24日、9月24日  と記載されているものあり?

と お知らせを頂きました。

ご指摘の通りです。
伊達家史叢談掲載 1918(大正7)年3月廟守石田常直氏調査資料には、

御一門  本殿前
5月24日・・・伊達安芸守藤原宗定、伊達左衛門太輔藤原宗實
7月24日・・・石川民部太輔源宗昭
9月24日・・・伊達武蔵守藤原宗利

宿老等  拝殿前
5月24日・・・10基 全部
左 上から 白石刑部大輔宗貞、中嶋監物意成、片倉小十郎重長、奥山大學常長、佐々岩狭亮元綱元綱、
右 上から 石母田大膳亮宗頼、日理伯耆守宗根、茂庭周防守良綱、津田近江頼康、古内主膳重廣

と記載されています。


何故 日付けに バラツキが出たか、実際 寄進日(現場設置日)は いつか はわかりません。

お客様の目に触れる範囲内で ご質問されますので、その範囲内での回答が 上記のとおりとなりました。


早速 ご指摘くださいました 郷土史家T様 ありがとうございます。



12 月 13 日 (日)  



朝1番

昨日の学芸員ガイドツアーの復習。
涅槃門前石垣から 順次 講義を咀嚼しながら 善應殿地区迄 撮影しました。

本殿前 御一門奉納石灯籠に名札を立て撮影しました。
「強風で飛べば 色々あります故 拝殿脇に仮置きしておきます」の伝言を頂きましたので、撮影後 現状復旧しました。ご厚意に感謝致します。

2011.03.11災で、瑞鳳殿・涅槃門の奉納灯篭 全倒と記憶して居ました。
郷土史家U氏から 右の上部 1基のみ 倒れなかった筈 とのお指摘がありました。本日 記録を持参されました。ご厚意に感謝致します。


あかとんぼ の 被災記録も 当然 同じでした。4年9ケ月 老齢故の記憶の風化が始まったと痛感しました。

倒れなかった石灯籠は、
家格 着座  (瑞鳳殿普請奉行)奥山大學常長が 寄進したものです。原位置は 下から3番目です。何故か 1段 上がっています。


各奉納石灯籠の前に 説明板があり、今回 1918(大正7)年3月廟守石田常直氏調査資料に基ずく 灯篭刻み文字 を再現展示しています。

奉納年月日 寛永十四歳丑丁五月二十四日 と記載あります。

これについて お客様から

1. 奉納年月日がなぜ 全員同じなのか?この日は何の日か?
2.丑丁とはなんだ? その読みは?

のご質問があり
1.について、政宗公の1周忌日です。
2.について、十干十二支で、丁丑 ヒノトウシ テイチュウと読みます。

と回答したが 納得しないお客様いました と 仲間から 伝えられました。

 十干十二支は カレダーに記載が少なくなりました故 不知の人が いるのでしょう。
60年で一巡します。毎年の暦(神社庁刊)を保存すると 61年目には 元に戻りますから 新規購入は不要になります。

あかとんぼの先祖が挑戦しました。長兄が自宅解体・新築の際 発見されました。
暦の基本部分は理屈上 使える筈ですが、油煙等の汚損と付録記載の陳腐化で 使えませんでした。


輝宗公墓所

ガイドをしていた仲間が駆け足で 迫って来ました。
「輝宗の墓は?????」 通常のガイドでは 発せられない質問です。それまで どの様な内容で ガイドしていたのでしょう?

暦女・歴老が ガイドをテストする質問です。

輝宗公は 天正13(1585)年 安達郡高田原で非業の最期を遂げ、羽州國置賜郡夏刈邑 慈雲山資福寺に葬られ 墓所があります。
現在 何故か 仙台・北山の覺範寺に 正室 義姫 共に墓碑があり、7月16日法要が行われています。

仲間は駆け足で戻って行きました。どの様に説明し 納得頂いたかの結果は知らされませんでした。


全日本実業団対抗女子駅伝

本日 仙台市街で開催されました。
昨日 盛年期のご夫妻が 参拝に見え、「明日の全日本実業団対抗女子駅伝の応援に来仙、2年前 優勝を祈願したら 戦国武将政宗公のご威光か よい成績であったので 今回も」と申されました。

祈願で一杯の様子。「多くの方がご覧ならない 涅槃門の彫刻を御覧なり」と涅槃門のみガイドしました。
本日 交通規制前に帰宅 TV応援しましたが、優勝しませんでした。残念でした。

事務所で 必勝祈願のお客様 おりましたと報告したら、

「数年前 全国大学女子駅伝の選手・役員一同で必勝祈願されましたら、政宗公のご威光か?優勝しました。ご利益ありました」
「仙台を地元とする職業競技チーム も 瑞鳳殿に優勝祈願すれば???」

の会話になりました。いかがでしょうか?



12 月 12 日 (土)  



政宗公書状

読者肥前様から「政宗公書状2通を取得した。仙台市博物館に鑑定依頼した結果、真物と鑑定された。全データーを公益財団法人瑞鳳殿学芸員に託してあります」と ご案内を頂いておりました。

ウイルス感染無い様に安全に 受け渡しを行うで、本日 漸う データーを頂きました。
途端 ご本肥前様が表れました。


データー内容は、
元和5年6月28日 細川越中守忠興宛て 書簡
慶長18年1月5日 石川玄蕃頭康長宛て 書簡

掛け軸 2軸で、
石川玄蕃頭康長宛て書簡に関わる事項は 貞山公冶家記録巻の23 慶長18年1月6日の項に記載があります。
本軸は、大分市の骨董市で 予想外の価格で購入した。

表装を100年耐える品に変えました。
保存については 社会の期待に応える方法を思案している。
等の 裏話?を 聞かせて呉れました。


仙台市博物館

12時 仙台市博物館に移動。駕籠内で 日本伝統携行食の昼食。
2階売店に。高橋あけみ先生が企画した特別展の図録 
@大名家の婚礼ーお姫さまの婚礼調度
A日・月・星ー天文への祈りと武将の装い 
が 欲しくて 探しましたがありません。店員曰く あるだけです。

宇和島伊達家の名宝もありませんでした。
展示があったのは、江戸の旅 でした。

12時45分市史セミナー受付に。
本日は、

1.仙台平野の考古学的中世・・・・・宮城県考古学会会長 田中則和氏
2.近現代・仙台の歴史像・・・・・・・・東北大学大学院教授 安達宏昭氏
3.仙台市史が語る仙台の歴史像・・宮城学院大学学長  平川新氏


博物館ロビーに 伊達家伝統 門松のプラモデルが 飾られていました。
伊達家伝統門松の第一人者 倉橋真紀先生に 「瑞鳳殿 今年はいつ飾り付けでしょうか?」に、「18日を予定しています」との事。

「猫の手に なるか お邪魔致します」と 予約致しました。


下記の事情で 瑞鳳殿に引き返しました。


瑞鳳殿の「石めぐり」 

加藤学芸員解説のガイドツアーに ガイドの会会員7名の1人として参加。政宗歴女 多数も参加。
瑞鳳殿の前面石垣 左右 事務所横奥から 石垣・石灯籠・礎石と丹念に、此処で予定時間切れ。

感仙殿地区 延長を お願いしました。
15時を過ぎると 急速に気温が低下 寒気を訴える者 続出。善應殿前 田村下総守誠顕寄進石灯籠の前で 終わりました。

勉強になりました。お客様に 求められない個所です。目覚めの一服?
まだまだ 見る・説明する 石垣・石灯籠・碑が あります。来春 草木が芽を出す前に 続きを お願いします。
例えば 11代 斎義公が施工した 経ケ峯東面の護岸積 とか? 



12 月 11 日 (金)  



宇和島・仙台 間

宇和島のコミテイ誌(きずな)仙台特集号 12月7日発行されました。

本日 宇和島市役所から 1部 宅急便で 届きました。作業行程から9日辺りの発送でしょう。
発行元では、7日 10部 郵便で発送したと 連絡を下さいました。しかし 5日経過しても届きません。

この官民格差は なんでしょう。

参勤交代 宇和島・江戸間 約30日を、 江戸・仙臺間 9〜10日  これでは宇和島・仙台間 40日となります。
5日で 届かないと ブツブツ言えば 罰が当たるでしょうか?



12 月 10 日 (木)  



冨澤大學に。

演題は、城下町仙台の上下水道システム
講師は、仙台市文化財課 木村浩二氏

木村先生は 埋蔵文化財発掘が専門であったか 仙臺城下の分析は 地形・高低差・標高・方位に着目されています。

本日は、仙台の上下水道システムと申され 上水道を、
四ツ谷用水を佐藤昭典先生の「仙台・水の文化誌 続もうひとつの廣瀬川」を参考資料され語られました。

講演後 上下水道システムと申されながら 下水道について 語られなかったのは何故か?

上水道と下水道と 一体に考えるのは 近代生活で 上水を 大量に使用する様になってからで、江戸時代 上水の使用量は少ない故 排水・ 下水の量も当然 少ない故 自己の屋敷内で処理が出来たので とりわけ 下水道の整備が 求められなかった のでは?

配布資料(城下の上水道 四ツ谷用水図)を拝見

五橋・荒町を起源とする 孫兵衛堀は 長町・利府断層線に平行しており、断層の上部の余水受けの排水路で 無かった と申されました。
納得しました。は

大町からの四ツ谷用水は 躑躅岡付近から源兵衛堀と 記載されています。
これは 排水路 下水道 であったのでは?

40〜50年前 悪水下・上の地名が 現在の五輪1丁目付近にありました。堀も記憶にあります。
埋田が 梅田に変わった様に 悪水の地名が消えました。 堀は全く消えたのか? 暗渠化したのか?(現地調査しなくては)



12 月 9 日 (水)  



技術集団の親分

講演会 地方創生「東北の将来像を探る」 に参加しました。

基調講演は、「地方が生き残るための観光戦略」と題して デービッド・アトキンソン氏が 講師です。
氏は、日光東照宮の漆塗等の 維持・補修の技術集団 「小西美術工藝社」の社長です。

 「小西美術工藝社」は、瑞鳳殿・感仙殿・善應殿の漆塗工事を施工しており、2010年の涅槃門工事等において、匠・職人から 直接 話を聞く機会がありました。

氏は、2009年同社に入社、2010年代表取締役に就任しています。
創業400年に近い特殊な技術集団の代表取締役就任に 当時の日経新聞は大きく報じていました。

冒頭、「瑞鳳殿の補修を行っています」 と語るを期待して居ましたが ありませんでした。
仙台有数の観光地 瑞鳳殿の補修をしました 語れば 聴衆の理解と評価が 高まったでしょうに。残念な事をしました。

講演は (日本の将来は 観光立国にある)と 現在の問題点を指摘されました。
納得 しました。

著書(新・観光立国論)に、署名をし 販売しており 購入しました。
サインは 読めないサインですが、本文は 日本文字です。

目次一読。 (ガイドの有料化)を まず読みました。

「日本では ボランテイアガイドは無料です。同じ日本人同士なら問題ないかも、外国人観光客対応なら改めるべきでしょう」 と提言しています。ガイドの素質の向上を求めています。


日本 瑞鳳殿でも 素質の高いガイドを求める方が 当然 います。

JTBから 現在の混在のガイドでなく、プライベイトガイド として 特別に依頼された方 限定のガイドの企画のご相談が ありました。

講演会後 JTB東北本社を訪れ 企画内容をお聞きしました。
観光立国と ガイドの実力向上から 前向きに対応したいものです。



12 月 7 日 (月)  



宇和島では

宇和島市内のコミニュテイ誌「きずな」冬季号が 本日 発刊されました。

「特集 仙台をたずねる」で、その内容は

仙台市博物館で開催された「宇和島伊達家の名寶」展の模様(宇和島伊達家の秘宝の数々)
来仙された宇和島伊達家御当主のご様子。、
仙台における 宇和島縁の地の紹介です。

仙台における宇和島縁の地をめぐる の頁では、トップに瑞鳳殿が、仙台城、和霊神社、瑞巖寺が紹介されています。

瑞鳳殿記事の末部に
「瑞鳳殿再建寄附者御芳名という碑があり、見ると「金2百万円也愛媛県宇和島市殿」の名前を見ることができる。あかとんぼさんの軽快な語り口とあいまって、ぐっと親近感が湧いてくる」と締めていましす。


40年前 南海の鉄道行き止まりの町での財政規模から かなりの負担額で 市議会で 反対意見があったのではと想像しています。
然しながら 寄附をされ 瑞鳳殿再建の一翼を担われ 歴史姉妹都市を締結した 宇和島市民の叡智に敬意を表します。

あかとんぼ は、宇和島からのお客様と知れれば この御芳名碑を紹介し より丁寧に案内を致しております。

宇和島市民の方 瑞鳳殿に お出での節は お声掛けください。

「きずな」冬季号 本日宇和島を出ました。到着次第 追記致します。
本記事は 宇和島市役所 産業創生室長S様のご厚意による 速報を基に記載致しました。


人生 秋を感ずる

本日 瑞鳳殿ガイドの会の定例役員会を開催、活動実績を検証、寒気の季節での活動の在り方等を語り合いました。
寒気の中 仲間4人が ガイドをしていました。

人だかりの中で語っていたのは、10月デビューした 20代の乙女です。
洩れ聴くガイド内容は正確です。ドウドウと語り お客様は真剣に聞いています。なんらの心配ありません。

お客様は 男と女であれば女 老若であれば 若を好みます。
20代の乙女は 春です。ガイドに定年制は無いよ K様に言われましたが 80の爺様に 秋を感じました。


湯目家と津田家

4日記載しました標記につきまして 郷土史家T様始め 多くの方から ご多用の中 お調べ頂き 御教示を頂きました。

ご教示頂きました資料のほか、仙台市史・角田市史・佐沼町史等 紐解きます。
御教示 厚く お礼申し上げます。



瑞鳳殿では、資料館前室 で、「奉納された石燈籠と伊達家家臣たち」展を開催しております。
展示について 加藤学芸員による解説「瑞鳳殿の『石めぐり』」を12月12日(土) 午後2〜3時 に開催されます。

津田近江頼康 奉納の灯篭についても 解説されます。
興味持たれた方 是非 ご参加ください。事前申込は不要ですが 拝観料が必要です。






12 月 6 日 (日)  



木枯らしの瑞鳳殿

紅葉 1本 残って居ます。
日光が当たると 彩ます。

欧米系のご夫妻始め 色彩感覚・芸術性により優れた方 撮影していました。
黄色・深紅・緑の3色の紅葉の写真を お見せしました。「7〜10日早く お出で頂ければ、来秋 またのお越しを」とお誘い致しました。

東京・大阪・栃木からのお客様 連続しましたが それぞれ 伊達家とのご縁のある土地故か 熱心に聞いて下さいました。


階段途中で 微かに 日本語離れした日本語で 「ガイド 頼むには?」と 若いお嬢さん4人に 声をかけられました。
「ハイ ガイドします。日本語しか話せません。よろしいですか。ところで どちらから?」

「はい 臺灣から。日本語 よろしいです」
冒頭 「1600年 仙臺にお城を築き 仙臺の町を作った 殿様のお墓です」を如何に伝えようか 頭の中は グルグル。

案ずるより産むが安・・・・・

本殿前で
「日本のお嬢さんは ともすると お墓は 石の固定観念で 建物のお墓と理解しません。ところで 臺灣のお墓も石のお墓ですか?」
「石ですが 円形に組まれたものです」と教えた呉れました。

あかとんぼ とペアの写真を撮りたいのご希望で、 あかとんぼの表裏(竹に雀紋) 4×2 モデルになりました。
各自 小さい人形をを持っており 自分と一緒に 撮っています。

黒い人形が 出て来ました。ハッ その人形は?
「オジサン! これ バサラに出演している カラス の(ハイキュー!!)です」と 教えてくれました。

劇画バサラを観ていませんでしたので 初見です。
瑞鳳殿の売店には ありませんでした。

あかとんぼ の日本語が 若い外国のお嬢さんに 理解頂き 感激と同時に 不審に思い聞きました。
「お祖父さん お祖母さんに教えて貰ったのですか?」

「私は学校に行きました。他は独学です。
学校では 織田信長・豊臣秀吉・徳川家康 そして 伊達政宗 習いました。今日は楽しみに来ました。

台南市生まれです。他は 台北です。臺灣に 遊びに来てください

楽しいガイドでした。最後の臺灣に 遊びに来てくださいのセリフには 驚きと感激です。

日本のお嬢さんたち 海外諸国に観光した際 現地の皆様に (日本に観光にお出で) と セールスしているでしょうか?


モニターテレビ

瑞鳳殿境内に 9台のカメラが設置されていまして ガイドの活動状況が 事務所のモニターテレビで 観れる様になっています。
この度 画面が多色となりました。ガイドの識別が容易となりました。

カメラ設置位置・撮影時間・画面の保存期間等は 危機管理から 発表はありませんでした。



12 月 4 日 (金)  



湯目家と津田家 特に 津田景康

11月23・27日の整理です。

23日お客様から、
私は湯目家の出で、
嫡流は仙台市内著名大学の要職にある。 
又、先祖は 歴代伊達家家老職にあった。
と申されました。

読者T氏のご教示を頂き 今日まで整理した事柄は 下記の通りです。

湯目家が本筋で 平穏に推移しました。津田家は分家筋で、激しい盛衰をしており居ります。



津田近江頼康

寛永14年5月24日 瑞鳳殿前に燈籠を寄進しています。
位置は、涅槃門から右2番目です。

頼康は、寛永13(1636)年 忠宗公 初入国時 奉行職に任じています。
経歴・実績等は、仙臺人名大辞書に記載無く、WEBでも検索出来ませんでした。ただ 父親は、津田豊前景康です。

奉行職故に、瑞鳳殿前に燈籠を寄進したと 理解しました。


津田豊前景康
永禄7(1564)年生
寛永15年2月17日(1638年4月1日) 75歳で没。墓所は 登米市・佐沼西舘跡


政宗公は 
永禄10年8月3日 (1567年9月5日)出羽國置賜郡米澤で生誕、
寛永13年5月24日(1636年6月27日)江戸桜田屋敷で 70歳の生涯を終ました。

津田豊前景康は、政宗公と同年配で同世代を同時に生きました。


津田豊前景康の生涯

永禄7(1564)年 長井郡の筑茂城(現在の地名確認出来ず)の城主 湯目重康の子として生誕。
湯目家は 長井郡の在地豪族であるが、南北朝時代に伊達家の家臣となりました。

景康は、政宗公が天正5(1577)年 元服するとその側近になり、人取橋・摺上原の戦い、葛西大崎一揆鎮圧に従軍、
天正19(1591)年政宗公 岩出山転封時、1500石で佐沼城主に任じられました。

文禄4(1595)年 秀次事件関与したと 政宗公は秀吉から謹慎を命じられた。
景康は、伏見の津田が原(京都府伏見区 以下の現地名不詳)で直訴をし 処分解除に成功した。
この功により1000石加増となり、且つ、津田が原に因んで「津田」の姓を政宗公から与えられ「津田」に改姓をしました。

慶長5(1600)年 奉行に、慶長15(1610)年 亘理郡坂本城主に、
元和2(1616)年 大阪夏の陣での功により 3800石に加増、
再び 佐沼城主に任じられました。

寛永13(1636)年 評定役に。
寛永15年2月17日(1638年4月1日) 75歳で没。


津田豊前景康は 何故 寛永14年5月24日 瑞鳳殿前に燈籠を寄進しなかったか?
評定役なる 名誉職で 実質 隠居していた?


津田家 その後
1.孫 玄蕃景康、寛文事件に連座し逼塞。
 延宝2(1674)年8月8日仙台から佐沼に帰還。隠居 知行4000石没収。

2.弟 民部春康(清康) 佐沼 4000石。元禄3(1690)年9月11日奉行に。
 元禄15(1702)年 加増あり5000石に。代々 宿老に。

3.7代丹波定康、重村公の不興蒙り宝暦6(1756)年閏11月19日帰国を命じられ、28日所領没収に。

4.次男豊之助景康、安永5(1776)年? 蔵米50石虎の間番士に召出。
 資料は 安永15年とあるも 安永は9(1780)年迄。


湯目家
津田豊前景康は、湯目家の人。

1.湯目家の祖は、上野國片岡湯目城主の湯目資綱で、 永享4(1432)年12月27日73歳で没。
 湯目城は 現在の群馬県高崎市片岡町1〜3丁目?
 
2.湯目重久は、湯目資綱の孫で永禄3(1560)年7月8日晴宗公に仕える。
3.湯目重久の長男 重恭 薩摩守と称す。

4.湯目重久の次男が 豊前景康。津田家の祖となる。

5.吉村公の代 正徳3(1713)年12月23日、功臣津田民部と同姓筋目なるを以て 特に 一番座御召出の家格に召さる
 491石8斗6升 在郷屋敷 名取郡沖野村(仙台藩歴史事典)(現若林区沖野)


以上



12 月 2 日 (水)  



続・亜炭香古学

11月30日・亜炭香古学 現地探訪で理解した事。

1.経ケ峯は 地形として 半島では無く 孤島である。
 東・北・南の3方向は 廣瀬川で、南は、古龍の口澤の渓谷跡が残存している。

2.廣瀬川の侵食は進行しており、いつか 経ケ峯伊達家三霊屋は流失 河川敷になるだろう。
 護岸等の対策をしないで放置した何万年後の姿。

3.伝説の黒沼は、古龍の口澤の下流の一部で、現在の向山一丁目公園が残存地の確証が高い。

 古龍の口澤の谷底が道路となり その開口部に位置している。
 古老曰く 70余年前 湿地であった。

4.古龍の口澤は、向山1丁目・2丁目・4丁目のバス通りの 化石谷である。向山4丁目は 大窪谷地 とその地形を称した。

5.向山1丁目 瑞鳳殿に至る地点の流れは 清水澤で 中・下流は暗渠化し 道路となっている。上流は開口 自然河川である。

6.清水澤は、バス通りの下を流れ 米砥ぎ澤を合流し 廣瀬川に注いでいる。

7.香澄町市道の標高は106m。ここで 牡鹿半島が眺望された。
 講師曰く「牡鹿半島先端に 唐番所が設置され 不審船の航行を監視した。
 発見した場合 烽火 を上げる事になっており、仙台城から 確認出来た筈。
 (視界と視力の問題) 心情的に理解。

8.鹿落旅館跡の洞窟(トンネル)は 瑞鳳殿の方向を向いている。
 亜炭を掘ったのか? 洞窟(トンネル)の先端部に至る 記録は発見されていない。

9.川内から向山1丁目に至る道 (地図上記載されている)は、 八幡町から米ケ袋に通学する学生が 数年前まで使用していた。
 希望するなら 案内しますとの事。

10.向山1丁目14番地先 は 9月の大雨で 廣瀬川の侵食で崩落 通行止である。
  ここから 花壇方向を眺望するに 

  @ 廣瀬川の蛇行と勢いが 新鮮な目で観察できた。
  A 政宗公が 三の丸から花壇屋敷に暫し訪れた際の 地形が新鮮な目で観察できた。

11.埋もれ木細工と亜炭の関係は、
  伊達家の時代は、埋もれ木細工の材料の採掘の際 オマケ 副産物として 亜炭が採掘された。
  1945年頃は、燃料として亜炭が採掘された。

頂きました各資料で 勉強します。





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