2016年6月の日誌
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6 月 27 日 (月)  



政宗公逝去

寛永13年5月24日 江戸櫻田屋敷で亡くなりました。

遠忌法要は毎年5月24日に催されています。

誰からも疑問の声があがりません。

この5月24日は太陽暦でしょうか?

太陽暦では、1636年6月27日です。本日が御命日です。

命日法要は 後は駄目だが、先は良いと 現在巷では言います。この理屈であれば 何等の疑問が起きません。


年代表記に問題があります。

仙台市史通史は、1636年(寛永13)5月24日
仙台市史年表は、寛永13年(1636)5月24日
と表記しております。

多くの図書は、仙台市史通史の方式 1636年(寛永13)5月24日 と表記しています。
読む人々は、(寛永13)を読み飛ばし1636年5月24日 と記憶し 語ります。

気候と 約1ケ月の誤差を生じます。

政宗公は初ホトトギスを聞くに 仙臺城下の北の山々を巡ったのは、旧暦4月18日です。
ホトトギスの初音は聞けませんでした。5月でなければ聞かれません。

マスコミは 毎年12月14日 浅野の旧臣が吉良家を襲撃した日と騒ぎ、降雪が無い 異常気象と報じます。
この原因は、元号の読み飛ばしによる 旧暦と太陽暦の混合による 誤認識に由来するものです。


前仙台市博物館長 佐藤憲一氏は
寛永13年5月24日・1636年6月27日と表記されています。

あかとんぼは、本HPでの表記は 幾たびかぶれています。
佐藤憲一先生を手本に、最小限 仙台市史年表が 望ましい に至りました。


笠谷和比古 帝塚山大学文学部文化創造学科教授 著
「歴史の虚像を衝く」に (歴史書における年号表記の誤り)と題して この問題が論じらています。
ご一読に値します。



6 月 26 日 (日)  



梅雨の谷間か?晴天。

9時前からお客様。
1日バス券を購入し路線バスで。9時始発のるーぷるバスを待っていては時間の無駄。ここからの移動はるーぷるバスを利用するそうです。

札幌からのお客様で、伊達家家臣の末裔の方?伊達家を精通していました。

白石区・伊達紋別・登別・当別等は 伊達家関係者が開発をした町と知っておりました。
先日 当別を訪れたら 「町のシンボル キャラクターは 半月でした」と教えてくれました。

24日瑞巌寺本堂での 政宗公毎歳忌法要に招かれたのか、その様子を語りました。
仙台藩志会では、副会長専務の2名のみの限定出席です。

資料館と感仙殿地区まで ご案内しました。


10時15分 JTBガイドの待機に就きました。腰痛から椅子に掛けた途端、券売嬢が小さく手招きしています。
何事か?

「JTBのお客様 売店で待機していますヨ」
当番の相方がみえません。元締めに一報を入れ、10人を更に15分 待たされないと判断し ガイドを開始。

10人程の幅の広い年齢層の方々です。
全人 満足した 感じました。


仙台のご夫妻に案内された東京のご夫妻。
東京の人が「ガイド頼む」と。

終わったら「僕は 全て現地のボラガイドに頼むことにしています。見逃しが無くなり、気が付かない所教えてくれます」とガイドの有効性を認めてくださいました。

案内して来た仙台のご夫妻も 「アーアー初めて 納得」の表情でした。

地元仙台の方も ガイドを利用して、事後 お茶の際、「ガイドは〇〇と言っていましたが」と 自己の見識を披露されたほうが よろしい と思います。


本日 お客様の割にガイドが少ないのか? ガイド活用に目覚めた高齢者が多いのか?
ガイドの最中 「自分たちにガイドを」の 割り込み依頼が数件ありました。

切り捨て 乗り換えは出来ません。事情を話 納得頂きました。
頼まれたガイドを 断るは 後味が 悪いです。


12時 瑞鳳殿ガイドの会の臨時役員会。
1.7月2日からの「観光ガイドと歩く 伊達な名所巡り」のスタンプラリーの対応。
2.8月3日開催 政宗歴史塾 「講演「鹽竈神社と伊達家の信仰」の会員に対する広報。
この2件を協議しました。会員に別途 連絡します。


13時 Sさんが お客様に苦情を言われたと控室に駆け込んできました。

数回聞き返したら 興奮が冷めたようです。
「資料館内で お客様がお客様に説明していた。テレビを見ていた人に 騒音となった。資料館内では しゃべるな」が要旨でした。

ガイドの会員には  次のように周知しています。

テレビを視聴している人に 聴力障害になるので ガイドの対象区域外とします。
どうしても依頼された場合で、視聴している人が居たら 障害にならない様に 囁き程度の低声すことに。

観光タクシーの乗務員も 我々と 同様の対応をしております。

今回の場合 視聴しているお客様が 喋るお客様に 直接 注意して頂くのが 最善策と思います。
この解決例を みています。 争いになりません。

もし 公益財団法人瑞鳳殿で張り紙をしても 目に入らないでしょう。



6 月 25 日 (土)  



仙台藩志会・伊達学塾

演題:西南戦争と旧仙台藩士
講師:東北大学東北アジア研究センター 上廣歴史資料学研究部門 友田昌宏 助教

概要:最後にして最大の士族反乱・日本最後の内戦と言われた西南戦争とは?
    宮城県下における臨時巡査招集
     1.政府の意図
     2.招集にともなう諸問題
     3.旧藩主の説諭士
    西南戦争と戊辰の役の雪辱
     1.旺盛な士気
     2.戊辰の役の雪辱の諸相
    凱旋後の臨時巡査
     1.自由民権運動への危惧
     2.士族授産への誘導

西南の役について 学問として体系的に 語られる先生は希少です。
戊辰の役につて 語る方は多いですが。

139年前です。 祖父・曽祖父の時代の話です。

講演の中で ご先祖様の名前が語られた人も居ました。
語られない関係者が 沢山居たと思いますが。

今回は 他県・他家中は 語られませんでした。
旧仙台藩士で宮城県内に限定語られました。その分 中身が濃いものであったと思います。

企画会議で提案した際、賛意を示された方々の期待に応えて頂いたと思います。
友田先生 ありがとうございました。



北山歴史講座
演題:荘巌寺の墓碑を探る
主催:北山市民センター

参加申し込みをしましたが、10時から12時までの講演です。
移動手段の確保と伊達学塾お準備から 急遽参加を断念しました。

「本日欠席と明日資料購入に伺う」と電話。「不参加者には配布できない」と断られました。
この旨を 話をしたら「僕 息子と参加した。資料は1部でよい」と 主催者価格で譲ってくれました。

政宗公に殉死した 加藤十三郎安次の墓碑の簡潔な記事がありました。
現当主は、聞き取り調査があれば 詳細を語ったのに と申していました。

印刷が極めて不鮮明な頁があります。折角の資料 手抜きは残念です。





6 月 24 日 (金)  



図書

江戸時代の仙台を歩く 仙台地図さんぽ

仙臺城下五リン掛絵図(1691−92年製作推定) 仙台市博物館所蔵
を基本に現代慈図と対象
木村浩二氏 解説

6月18日刊行されました。
本日 城下を徘徊時 購入しました。

一番先に見た頁は 24番 瑞鳳殿界隈

「当りと思った」のは、資料編

経ケ峯が

1664年
1786年
1889年
1912年
1928年
1952年
と更に 6年 6頁 掲載されていました。有難い、欲を言えば

1875年の宮城郡仙臺町地引図 の掲載があれば なお完璧でした。



6 月 21 日 (火)  



政宗公殉死者後裔 石田常夫氏

政宗公が亡くなられた際、家臣15人 陪臣5人が殉死されました。
その方々の供養碑 宝篋印塔が 瑞鳳殿の左右に建てられています。

その中に、石田将監與純 がいます。

石田家は、朝宗公の第4子右衛門尉為與の末裔で、伊達郡石田邑に住し 石田と称すとされています。
(仙臺大人名辞書には 斯様な記事は見当りません)

石田将監與純は、小姓與頭で、旧暦6月21日若林の屋敷にて殉死。48歳。

その子孫 石田常直氏が 瑞鳳殿の廟守に。その曾孫が石田常夫氏です。

瑞鳳殿本殿 左側の前方に、満開上人供養碑があります。
瑞鳳殿再建期成会の歩みに怒った石田氏始め 6人が拠出 建立されました。 

瑞鳳殿をお詣りされた方のそれなりの方々がお詣りされています。

16日生まれた経ケ峯の地で 満94歳で、亡くなりました。

4月20・24日の2日ご自宅に伺い、満開上人修行の黒沼の所在を中心に、1945年以前の経ケ峯の姿を伺いました。
高齢者特有の記憶喪失は無く、矍鑠と語られました。

語られた主な事柄は、

1.黒沼なる地名が存在したは、知っているが 沼そのもは記憶に無い。
2.現在の向山公園を沼の跡地でないかと 問われるが 亜炭鉱関連施設があった。

3.北斜面の沢にダムがあり、公園角のマンションの付近に配水施設があった。
 (ダムとは 現在存在する堰堤を指すのか?)

4.瑞鳳殿が焼失するまで、伊達家御当主が参拝された際、我が屋敷のお成りになり、昼食を召された。
5.当時、玄関、式台は 武家様式で、現在の弔魂碑の方向に向いていた。

6.現在の天龍閣の位置に イチゴ畑があった。
7.祭典の日には、瑞鳳寺山門前広場(車展回場)に 露店がたった。


本日11時からの葬儀に以上(碑の建立、昔話)の御礼に参列しました。

生花が 伊達家18代御当主様、仙台藩志会、殉死者後裔会から供され、仙台藩志会古内名誉会長、殉死者後裔会加藤孝会長、公益財団法人瑞鳳殿富田常務理事が参列されていました。


油絵が趣味であったそうで、70歳時 個展を開いた際の秀作が 数多く展示されていました。
「紅葉の瑞鳳殿」 鮮やかに描かれていました。

秋に発行の仙台藩志会会報「きずな」の巻頭写真に掲載したいと、ご遺族に その旨を伺いましたら 「故人は喜ぶでしょう」と快諾されました。
編集長に伝え、実現したいものです。




6 月 20 日 (月)  



綱村公349遠忌 並びに歴代公遠忌法要

10時 大年寺からマイクロバスで大年寺山に移動。
無尽灯廟、寶華林廟を お詣り。

綱村公墓碑に供花・供物が供えられ 祭壇、テント椅子が用意されていましたが、今年は、僧侶の読経はありませんでした。
塩竈神社・志波彦神社敬神婦人講 55人が お詣りを終わられていました。

無尽灯廟は、土・日・祝日に限り 仙台市の配慮で参拝出来るそうです。、

寶華林廟で、特に 7代重村公墓碑の案内がありました。
「映画 殿、利息でござる」の殿様が7代重村公です。

この映画の基は、安永2年(1773年)著された5巻の「國恩記」です。
仔細は、大和町史下巻211-253頁をご覧ください。

寶華林廟の側室の墓碑の3基のみ花が飾られていました。
何方は 判読出来ませんでした。
大名墓碑研究者A先生は5月27日詳細調査をされており、その報告書が出れば判然とするでしょう。


11時 大年寺仮本堂で 7僧侶に 50人程参列し法要が催されました。

焼香は、
01.東園寺住職 
02.善応寺住職
03孝勝寺住職.
04.護国神社宮司
05.伊達家御当主
06.殉死者後裔会会長
07.仙台藩志会副会長
08.公益財団法人瑞鳳殿事務局長
09.伊達家伯會
10.伊達家欧文会
11.〇〇会(聞き取れず)
12.〇〇町内会長(聞き取れず)
13.伊達家御廟大年寺会会長
の順で行われました。

供花は、
01.伊達家御当主
02.岩村家
03.本間家
04.鹽竈市長
05.鹽竈神社
06.志和彦神社
07.塩竈神社・志波彦神社 敬神婦人講
08.殉死者後裔会
09.仙台藩志会
から 供されました。

供物は、
本堂での黄檗宗 特異の飾り方の供物 目に入りませんでした。
本堂・墓碑共 バナナが目に入りました。


黄檗宗と大年寺の 最高権威者 福島美術館尾暮学芸員との再会を期待しましたが お見えになりませんでした。
Uさん 急用で欠席となり 会費を主催者にお届けしましたが?

なお、法要膳席は、〇〇寺住職、〇〇町内会長、あかとんぼ 等が開宴前に退席しました。


ある方から 質問が飛んで来ました。

.護国神社宮司が参列し、焼香したことは、伊達家が神道に改宗した以降のご当主を供養した事になるのか?

伊達家14代宗基公は、明治元年19日伊達家の家名を継ぎ、28万石となり 明治2年3月 版籍奉還しています。
14代宗基公が最後の殿様で 歴代公になりますが、13代慶邦公から 神道で祭られています。

神道での 先祖供養は それなりの祭儀で行われるでしょう。
宮司が 仏式での焼香をされた対象は、本日 施主が供養した方々4代から12代様までに限定されるのでは?

ご質問の(伊達家が神道に改宗した以降のご当主を供養した事になるのか)は、ならないと あかとんぼは思います。

なお、経ケ峯に祭られています、9代周宗公(青龍院殿紹山隆公大居士)、11代斎義公(曹源院殿正山栄因大居士)のお名前・戒名の読み上げは、今年も聞き漏らしました。



6 月 19 日 (日)  



日々変わるのが お天気とお客様の出足。

愛媛からの団体30程 9時早々です。瑞鳳殿を参拝、仙臺城址を見学、昼の飛行機で帰るそうです。
バスガイドが要領よく説明していました。

グリーン観光と緑地に白抜きの旗。愛媛の会社かと思い聞きましたら 築館が本社との事。
伊達家領内の会社です。ガイド嬢 熟知している訳です。


関東一円からの団体。親戚同士の二世代?
阿吽の呼吸が取れていません。バラバラです。

なぜ そう感じたか?
歩行困難者2人いたので、それなりの配慮しながらガイドをしました。健常者のみのグループに比較し 本殿に到達する時間はかかります。

本殿に到達した瞬間、運転手役の若い方、「時間がありません」と ガイド中止命令。
お客様が ガイドを望まないのです。御木像の写真をお見せする事無く終わりました。

熱心に聞いていた高齢者からは ブーイング。でも、運転手役が降りて行きました。残念そうにトボトボ下りて行きました。
阿吽 バラバラは 珍しい です。


欧米系の方々 三々五々 見え始めました。
「日本の方より 英語圏のお客様にガイドする方が 楽しみだ」 とされる Tさんが見えました。安心。


 仙台藩志会の緊急会議案内が入り 早目 11時におわりました。


NHK真田丸

今晩も 政宗公が登場しました。
16日ある会合で 有識者から「政宗公がズンダ餅を搗く」と聞いていました。

宇都宮で 徳川・上杉・真田の諸将の面前で 政宗公がズンダ餅を搗き、秀吉も搗く 場面がありました。
史実に無い、季節も無視した ドラマの面白さ 追及の画面と見ましたが? 如何でしょうか?




6 月 18 日 (土)  



真夏日

昨日 仁佐平(ニサカ)小学校6年生をガイドしたSさん、感想を聞かせてくれました。

心身共に 6年生を超えています。

全員 160cm以上。
質問ありませんか? に
一斉に挙手。
かなり勉強してきた様子。引率の先生も驚く 高度の質問。
最後、時間不足となり るーぷるバスを1便 遅らせた。

学童教育に関心の高いSさんのガイド 故 両者 地元の歴史教育熱心な先生のいる小学生と相性がピタリ。
両者 満足に至ったのでしょう。ヨカッタ


9時30分 有料でガイドをする団体のお客様 250人程 1発で入りました。
ガイド5人は競合になり 先陣争いとなりました。
潮が引いた後は 静寂な雰囲気になりました。


島根県からの団体が入りました。珍しい です。

あかとんぼ のお客様では、
九州は五島列島から。

「ウチにも殿様が居ました」に 「ハー」
帰宅し確認しました。

宇久純玄(ウク スミハル)は天正15(1587)年豊臣秀吉に拝し、本領が安堵されました。
文禄元(1592)年 五島に改称。

慶長8(1603)年 子玄雅(ハルマサ)は徳川家康に拝し、15000石の大名と正式承認されました。
維新後 子爵に。と知りました。


北斗からのお客様

孫夫婦に案内された老婦人2人。

どちらか お越しですか?
北海道

伊達紋別・登別・当別・札幌白石区ですか?
なんだ それ おんめい わしら ほくと から来た。

ほくと???
北海道新幹線 始発は 北斗函館  その北斗。

失礼しました。函館は意識にありましたが 北斗はなじみがなく。

高齢故の慎み深いのか 聞いての反応が皆無に近いです。歩行に障害があり、石段の昇降と それなりに神経を使いました。
疲れました。 本日 これにてウチドメ。



志賀潔

赤痢菌の発見者 志賀潔は 伊達家臣の末裔で 1870年 仙臺で生まれ 1957年に亡くなり、北山・輪王寺に葬られています。
墓所には 志賀潔の墓碑である の説明する標柱・案内板がありません。

志賀潔の終の住処がある 山元町から 参拝団が見え 北山ガイドの会で案内しましたが 説明する標柱・案内板が無い事に 仙台市民として 赤面をしたそうです。

あかとんぼ は 四ツ谷用水説明の標柱を 至る所に立てているが、経費1本幾らか の問い合わせが 北山ガイドの会我妻局長からあり 答えたのが 13日でした。

朝刊に 志賀潔の終の住処である 山元町の「貴洋翠荘」が 13日焼失の記事がありました。

山元町の「貴洋翠荘」は訪れた事あります。太平洋を望む高台にありました。
文化財に指定されていなかったでしょうが 惜しいものが また 一つ消えました。


志賀潔は1897年に赤痢菌の発見をして、文化勲章を受章しております。
戊辰の役 研究の面でも 偉大な功績者です。

仙臺 佐藤信(直之輔)は、戊辰の役直後 関係した人々に会い 聞き取り調査をしました。それを1935年11月 編集し「戊辰記事」と題して・発行したのが志賀潔です。戊辰の役での伊達家中の動向を知る 貴重な資料です。

平成に復刻刊行されましたが 限定部数であった為、古本屋市場でも入手困難な 幻の図書です。
あかとんぼは 亘理郷土史研究会の月田様のご厚意で 読ませて頂きました。

瑞鳳殿で語る機会がありません。記録として 記載しました。



6 月 17 日 (金)  



仁佐平(ニサカ)小学校(岩手県二戸市)

公益財団法人瑞鳳殿を経由 「6年生14人の修学旅行で 瑞鳳殿を参拝するので ガイドをして欲しい」のご依頼がありました。

電話で この(ニサカ)が聞き取れませんでした。
瑞鳳殿ガイドの会として 小学生に無料でガイドをすることは 望むところです。快諾しました。


さて仁佐平(ニサカ)小学校とは、WEBで調べました。

小規模校ながら 伝統校で 地域の歴史教育を確実にされている学校でした。

弘仁2年(811) 征夷将軍 文屋綿麻呂が攻めて来ました。この辺一帯は 爾薩体(ニサツタイ・ニサタイ)と呼ばれ 大首長 伊加古を先頭に防戦に努めましたが 戦い敗れ 伊加古が代表し捕虜になった。(帰って来ない)

阿弓流為(アテルイ)と坂上田村麻呂との 戦いより後の事。

この内容の紙芝居を作成し 公開しています。


本日は 学童教育に関心の高い Sさんが ガイドをします。
どんな 反応があるか 楽しみです。



江戸城 大手門

「江戸城築城のお手伝普請の際、大手門は伊達家 政宗公の担当であった」。
都内観光バスで ガイドがそう説明します。

大手門の枡形 正面石垣に 鏡のように平滑な面をもつ大面石(おおずらいし)が、更に 九個の石が配されている。

この石は、伊豆半島西海岸で、五平なる石工に採石された。石切り場は 当初 自営であったが 資金難で伊達家から4000両借用したら、権利が伊達家に移転をした。

石工・喜三太が江戸に運び、神田明神で浄め 竹に雀紋の幟を立て 賑賑しく 城下を石引した。

大手門の前に、将軍 秀忠と政宗公が烏帽子、直垂、袴の正装に準ずる服装で待機する中、到着。

石工・喜三太が石から飛び降りると

政宗公は将軍に一礼して
「献上つかまつる」

秀忠は
「うむ、大儀」


「家康、江戸を建てる」門井慶喜著 全6話の内 石垣を積む の項 の一節です。

現在 大手門 は開放・公開されているでしょうか?今度 参勤の折 拝見したいものです。



6 月 16 日 (木)  



久々 菅野正道 先生講義

明治青年青年大学史学部 6月講義

演題:会津の戦国大名芦名氏と伊達氏

講演概要は

蘆名の名前の起こりは、相模國蘆名(現・横須賀)による。蘆名・芦名・葦名の表現がある。

芦名氏は鎌倉時代に始まり、天正17年6月の摺上原合戦で伊達政宗に敗れ、佐竹氏に逃れ 絶家した。

芦名氏と伊達氏は 同盟関係にあったが、政宗公の時代に破綻した。
芦名の当主が 血脈が繋がらない佐竹氏からで、家中の統率が取れず、摺上原合戦で伊達政宗に敗れのを契機に、芦名氏は滅亡した。


ここで、「滅亡した芦名氏の当主は、盛重と称し、角館16000石で終わった」と聞いた時、
盛重は 横手でなかったか? です。

横手は、国分盛重 政宗公の叔父です。
角館は、芦名盛重 佐竹義宣の弟でした。

盛重 なる名前は 太成しないようです。


明治青年青年大学史学部の修学旅行は 会津方面で 菅野先生が 芦名氏と伊達氏の関係史跡を案内されます。
学生は 100人 バス定員は45人  どうさばくのでしょうか?



6 月 15 日 (水)  



瑞鳳殿ガイドの会 現地学習会

今年は 「伊達家御一門を知る第4回・田村家御廟と城(陣屋)跡を訪ねる」と題して 10月5日に開催します。
本日 具体的計画策定の為、副会長2人 前研修部長と 現地確認を致しました。

1.祥雲寺
  田村家・一関田村家 廟
  保性院廟
  一切経蔵
  田村家顕彰記念館
  ほか

2.願成寺
  伊達兵部宗勝・母保性院・子宗興の墓碑、側室・子女の供養碑

3.沼田家
  家老職沼田家 復元家屋

4.田村家陣屋跡

5.一関城址
  坂上田村麻呂から伊達兵部宗勝までの城址
  田村神社

6.一関市博物館 

以上を訪れ、それぞれの箇所で、精通者の解説内依頼をして参りました。

計画策定の問題点は、
1.仙台から移動 90分を要する事、朝夕の渋滞時刻に重なる事から、出発時刻、帰仙時の経路をどうするか?

2..祥雲寺石段はやむ得ないとして、一関城址の片道15分の急坂を組み入れるか?



6 月 13 日 (月)  



当地 梅雨に入りました。

福島県は、伊達家800年 源の地であります。
1189年 中村常陸入道念西が伊達郡を拝領し、1591年会津黒川から岩出山に移るまで 400年。更に 源であります。

400年を縦糸に 歴代公が 県内各地に 歴史を残しております。
史跡を 訪れるとなれば 時代の横糸を 確実に して訪れなくては パラパラなものになるでしょう。

仙台藩志会で 伊達郡を訪れる計画が持ち上がりました。
末裔を始め 関係者多数です。色々な思いをお持ちです。

各自 資料を各種多数 持ち込みました。
案作成の段階で 船頭多く 船山に登る の感があり 難破するのかと 傍から心配しておりました。

今般 素案がまとまったようです。実行案の発表が楽しみです。
持ち込まれた資料の中に伊達市商工観光課 作成の「伊達800年ものがたり 伊達氏歴史めぐりマップ」があります。

政宗公までの400年 以後の400年と 分け 簡潔に 見やすく 出来ています。
欲しい 電話番号をしらせて の連絡がありました。

024-577-3175 です。


なお、
仙台藩志会の伊達郡は 10月22日です。詳細は まだです。

明治青年大学史学部は、10月10日仙台市博物館菅野正道先生が講師で、会津を訪れます。
万難を排し 参加したいと思っています。

瑞鳳殿ガイドの会は 会員限定で 10月5日 一関を訪れます。



6 月 12 日 (日)  



9時 バス4台 入りました。
約200人です。素性不明です。若い男女の集団故 勝手気まま 声高らか 喧噪を極めました。

続いての 集団。
涅槃門前に 立ち尽くし 「ここは なんだ」の怒声が飛び交います。
幹事 添乗員 バスガイドの姿が みえません。

朝一番 仙臺開府の恩人 最後の戦国武将の御霊屋を参詣に訪れて 説明・案内なく 放置されたようです。

「ガイドします。ここは・・・」で 一斉 イラナイ イラナイ。

暫時経過後、伊達家発祥の地から と 会津若松からのお客様に 涅槃門の透かし彫を 語り始めたら 上品なご婦人が寄って来ました。
「先ほどは 失礼しました」 先ほどの集団(イラナイを連呼)の責任者でしょうか?

涅槃門の説明を一緒に聞き、静かに去っていきました。その感想は?


伊達藩殉死者後裔会 加藤会長から、参拝者の少ない時間に 瑞鳳殿で会いたいとお話を頂いておりました。
本日は特異日? 個人のお客様 出足が多いです。

伊達家発祥の地から、東京から老年者から 即 セット完了と同時に 頼まれ 真剣に聞いてくださいます。50分を要しました。
結果 加藤会長を暫時お待たせいたしました。

政宗公・忠宗公の殉死者について どの様にガイドをしているか。
綱宗公の時代は 殉死が禁止されており、また 綱宗公ご自身の事柄もあります。剃髪した14名については どのような説明をしているか。

等のお尋ねがありました。

また、殉死者後裔会の現状と将来についても 語られました。


殉死者後裔会と仙台藩志会の会員に、瑞鳳殿と経ケ峯についての勉強会を企画したら 講師を引き受けてくれるか? のお話。
「仙台藩志会の総裁は 十八代ご当主です。ご当主を差し置いて 軽輩が 講師をしてよいものか 聊か・・・
ガイド仲間に 仙台藩志会会員が3名います。よしければ、喜んで」と お答えしました。


18時NHKドラマ「真田丸」に 待っていました 政宗公 が出てきました。
豊臣方も、北条方も 双方から 伊達政宗は いつ来るか が語られ 有名な白装束 で登場しました。

大阪の陣まで 何回 出るでしょうか。



6 月 11 日 (土)  



四ツ谷の水を街並みに 市民の会

総会が午後あり、普段活動に参加しておらず 謝罪の気持ちで参加しました。

記念講演の演題は、
「米沢城下用水と仙台城下用水の成立。上杉家と伊達家の領国支配の比較をとして」

講師 新関昌利 氏

概要

上杉家は30万石から15万石に減封になったが、家臣の人員整理を行わなかった。
米沢の町は最上川等の扇状地に位置している。
城と殿様に上級家臣の為の給水 源を扇状地の上部 最上川に「御入水堰」を設け、下級家臣を配置、開拓・警備・用水の維持管理にあたらせた。

その後、町人の為の水路を開削した。
山形も扇状地で 米沢と同様に 城下に縦横に 用水路が張めぐされた。


講師から  上杉家と伊達家の領国支配を比較しての まとめ は ありませんでした。

当然と思います。
比較して 優劣がつけられるものでは ありません。



6 月 9 日 (木)  



仮称 富沢大学に  「郷土を愛する歴史の会」 が正しい名称

演題 あなたの知らない「仙台白菜」
講師 仙台市博物館学芸普及室 菅原知子 嘱託

内容 仙台白菜 を食べた事 ある人 と 冒頭 問われました。
    仙台で生産された 白菜で 政宗公の時代から 生産していたのでないか? と聞いていたら 違いました。

    明治27・28年戦争の際、種が大陸から入り、幾多の困難がありながら 
    1932年には貨車5068輌 162萬俵を移出、1950年には市場から消えた仙台白菜の栄枯趨盛衰物語

    日常に食している 白菜は仙台白菜ではありませんでした。


駄弁
1. 菅原知子先生は、「能」が専門ながら 「仙台白菜」を研究し 仙台市史に発表されたそうです。

  「能」が専門は 舞台に立っているのか、声が大きく・明瞭・切れがあります。講義室の間口 一杯移動し 話します。
  ガイドに 求められる 要件に「声が大きく・明瞭・切れ」です。ガイドの話法のご指南をお願いしなくては?

2. 同級生のN嬢 陸奥国のみならず出羽国まで 勉学に赴き 色々な史料をお土産にくださいます。
  本日は、
  山田・鈎取まち物語 発刊記念講話  演題 江戸時代の村と街道  
  講師 仙台市博物館学芸普及室長 菅野正道 氏

  栗原郷土研究会(若柳公民館) 演題 大崎氏と葛西氏
  講師 仙台市博物館 三好俊文 氏

  の講演レジメを 頂きました。ありがとうございました。参考になります。
  



6 月 8 日 (水)  



杜の都

経ケ峰は 半島型から島型に変化した地形です。克 霊地とされてきました故、樹木類が豊かです。

以下 樹木・用材に関わる 昨日の続きです。

1.現るーぷるバス停が 藩政時代は瑞鳳殿等に至る入口です。

 学生に、「虎口」になっていましたと説明しました。これは すんなり理解してくれました。

 「藩政時代は、瑞鳳寺の傍院及び塔頭がありました」と 資料で説明しました。理解してくれました。歴史科の学生です。

 明治からは 鬱蒼たる杉林でしたは、現在の住宅・商店・災害公営住宅の連立の様子からは 学生は想像出来ない様子でした。

 公益財団法人瑞鳳殿刊行「伊達政宗と瑞鳳殿 経ケ峯伊達家墓所について」と題する冊子の1頁に
 (戦前参道入口)と題する写真が掲載されています。

 参道両脇が鬱蒼とした杉林で 下馬石柱と数台の円タクが写っています。円タクの形から昭和初期と見られます。
 この写真を見せれば 学生は理解が出来たかと 反省しました。

 冊子は 瑞鳳殿売店で500円で販売しております。


2.瑞鳳殿山門前を過ぎた所から 右手に杉林が広がります。

 素人の目でも 手入れ 維持・管理不良がわかります。

 仙台市の都市としてのグランドデザイン作成、津波で流された東海岸の松林の復元運動のリダーの菊池先生から
 「ここの管理は?」と 問われました。

 「仙台市の歴史公園に指定されており 仙台市の公園課と森林課で管理していると聞いています。縦割り行政の成果でないでしょうか?」

 ここで あかとんぼ ミスをしました。
 「新聞に投書されたら」

 これは 民意を発表する手段を持たない巷の老人の手段です。
 県・市の委員をされている先生には 失礼な発言でした。


3.涅槃門の用材について学生には語りませんでした。

 涅槃門を説明している 某カルチャースクールの「英語でガイドしましょう」の講師Mさんと交差しました。
 後程 SNさんから 「涅槃門の麒麟・瑞雲の透かし彫 の用材はなんですか?。講師Mさんに聞かれました」

 「柱は 青森ヒバです。彫刻の用材は 当然 異なるでしょう。調べます」と 答え 

 趣味で彫刻された事のあるUさんに 問合しました。
 次のような ご教示ありました。

 「涅槃門の彫刻材料はおそらく青森ヒバでしょう。
 林鳳凰先生は定義山五重塔などは建物の材料とご本尊の材料も青森ヒバでした。

 東北地方では仏像は青森ヒバか桂が多い様です。涅槃門の材料は青森ヒバですから同じ材料を使用したと思います」

 予想外の答えです。講師Mさん、SNさん 驚きですね。
 Uさん 感謝です。



6 月 7 日 (火)  



写真 掲載

雑誌「歴史人」7月号は、特集 「独眼龍政宗の野望」です。

146頁中 約130頁が 政宗公の記事です。
読み終わると 政宗公に生まれ変わりでは?

137頁を ご覧ください。掲載写真6葉 全て あかとんぼ が撮影したものです。
その旨(あかとんぼ撮影)の記述が 無いのは 残念が、写真が全国区になったは 嬉しいことです。
記事は 仙台藩志会 の紹介です。


学生と2時間

東北学院大学文学部歴史科 菊池慶子教授のゼミの学生 15人を 2時間を要し 経ケ峰 瑞鳳殿から感仙殿・善応殿・妙雲廟界・御子様御廟まで案内しました。

3年生ですから 古文書読解もされているでしょう。それなりの素養を持たれている筈です。
一般観光客と異なります。語り切れない がはっきりしております。また、私の復習を兼ねて 8頁の資料と付録の図葉を添えて 望みました。

宝篋印塔(自ら志願した殉死者の供養碑)を説明しました。最年少者は22歳です。数え歳です、満年齢で21歳?月です。

学生は これらの説明で気がついたか?同年齢と気ずいたにせよ、なぜ殉死を志願したかの精神構造は理解できないと思います。


旧雄勝町出身の学生がいましたので、涅槃門前敷石 「雄勝石です」と 説明しましたら 微笑ました。
石段の石は 三滝安山岩 墓室の石材は 秋保石 と 「地産地消です」の説明の反応は イマイチでした。

当然でしょう、石に興味を持つのは 墓石に入るのがソロソロの人と昔から 言われています。この先80年以上ある人には 無理です。

 

先生からの質問で答えられなかった事

1.ここ経ケ峰は 名取郡根岸村黒沼とあるが、いつ 今の仙台市青葉区の区域に編入されたのか?

 満開上人の黒沼伝説から 黒沼の所在を求めて 古絵図を辿っています。
 ある時点で、城下絵図に経ケ峰が記載されています。この時点が 宮城郡 に編入されたと理解しています。
 1875年地租改正時の図面は、宮城郡仙臺町とありました。
 これら含め 再確認します。

2.資料8頁に 「士以外の参拝として、大年寺20文 瑞鳳寺72文 支払い」の記述の 元資料は?

 平成24年9月 仙台市博物館で開催された 特別展 江戸の道 たどる道、えがかれる道 展の図録 167頁 仙台地方の旅事情 です。
 これには、瑞鳳殿で政宗公像を参拝した記述もあります。(メールで追送)


卒論のテーマでしょうか?

歴代公の瑞鳳殿・瑞巌寺参拝は、忠宗公は 10回と6回です。綱宗公は皆無です。綱村公以降は調べていません。
先生は 「誰も調べていません。簡単に調べられます」と 呼びかけていました。


学生からは 質問はありませんでした。

先生から
「涅槃門のご説明は格別に面白かった、ホームページに概要は書かれていても、よくわからなかったのが、お話を聞いてはじめて意味がわかった、というのが共通の感想でした」との 学生の感想を知らせていただきました。

普段 「こんな門より 早く 上に行け」の態度をとる観光の方がいます。理解して貰えるか 思案しながら語りましたが、
菊池ゼミの学生は違います。感心しました。
本日 100パーセント語っていません。メール頂ければ 都合を合わせ 残りを語ります。


先生から 記載内容・誤記・表現について 現地で また メールで詳細なご指導を頂きました。勉強します。有難いことです。
今後も よろしく ご指導下さるよう お願い致します。



6 月 6 日 (月)  



伊達兵部宗勝

伊達兵部宗勝は、母は側室多田伊賀吉廣の娘で、その第2子として 元和7年(1621年)仙臺城で生まれました。

万治3年(1660年)8月25日将軍の命により 磐井軍郡一関 3万石を領しました。
寛文11年(1671年)4月3日罪あり 土佐国に配されました。

その際に、
子息 宗興は 豊前小倉小笠原遠江守忠雄に。
子女 側室の子(虎之助、兵蔵、竹)は 岩出山伊達弾正宗敏に。
宗興の妻子(姉小路大納言息女、千之助、千勝、右近)は 伊予吉田・伊達家宗純に。
それぞれ配されました。

政宗公の側室で伊達兵部宗勝の母の名前は 事件前に亡くなりました故 処分された人別に 当然 名は見当たらない。


仙臺人名大辞書によれば、
寛文9年1699年)3月26日没、法名 快厳妙章 法性院と号す。磐井郡一関邑瑞雲山豊谷寺に葬る。 とあります。

豊谷寺は廃寺になり、田村家菩提寺 祥雲寺に収納されたと聞いていました。

300余と言われた大名諸侯の墓石を研究されている東京のA先生から、「願成寺に建立されている政宗公側室で宗勝生母墓の写真」を 過日頂きました。

願成寺は、祥雲寺のご近所です。
本日の瑞鳳殿ガイドの会の月例会で、今月中旬 研修会の調査で一関に行く事になりました。
お詣りしてまいります。



6 月 5 日 (日)  




五月晴れ 

お客様の出足は快調です。
8時40分に、券売嬢 「もう 参拝終わって帰られた方いますよ」

10時30分JTBのお客様までの間に、福岡・愛媛のお客様が連続。
JTB当番は 久々にお客様。「感仙殿地区迄 案内して欲しい」との事。勇躍ガイド 80分。

京都山科で生まれ 現在は 大阪に住まい。政宗公大好きのペア
伊達政宗公に、伊達家について勉強されており、片倉小十郎景綱、重長、忠臣蔵 大石内蔵助の隠れ家まで知って居ました。

「仙臺を訪れるのが 夢であった」と欣喜雀々で ガイドの甲斐を感じました。


JTBのお客様が資料館見学中 拝殿で待機していまら、
やや高齢の方が 配偶者らしき方に、太鼓橋があった位置を指して 「ここに仁王門があった」と語っていました。ご婦人は 頷いていました。

夫唱婦随、夫婦円満に 外野が口を出す必要ありません。
面白い発想と ここに記録します。


11時50分 腰足がガクガク。控室に戻りましたら 「あかとんぼ さん よいものみせるヨ」とUさん デジカメの画像を出力。
鳥です。「これ 鶺鴒(セキレイ) です」

3日 最高裁判所は 「花押は押印とは認められない」とし、遺言書を無効と判断しました。
政宗公の花押は 鶺鴒です。

秀吉の面前で 政宗公署名の文書の真贋が争われた際の 決め手 は 鶺鴒の花押でした。
遺言書で花押は無効と判断されても 政宗公文書が無効となった訳でなく 鶺鴒が 瑞鳳殿(政宗公)に 報告に来たのでしょうか?



綱宗公の姿勢

「日本史有名人の身体測定」 医師・歴史小説家 篠田達明 著に 下記の記載があります。

綱宗の身長は遺体の計測で155cmあった。

頭蓋には下顎がんが認められ、脊柱には第9・第10胸椎を中心にかなり高度の左凸の脊柱側弯症が認められた。
生前はこの変形により身長はいっそう低く見えたであろう。

瑞鳳殿資料館には上半身が大きく右に傾いた綱宗公の肖像画がある。 (現在 資料館には展示されておりません)

また、画像の中の綱宗公は右の立膝をして座り、なおかつ右膝を右上肢全体で支えるような姿勢をとっている。
これは武将の肖像画ではめったにみられぬ珍しい肢位であり、おそらく側弯症によって傾斜した上体を支える姿勢で座るのが常だったのであろう
(綱宗公の脊柱側弯症については岐阜県立多治見病院の室捷之名誉院長が著わした「一整形外科医が綴る脊椎日本史18話」による)


当時の平均身長は 155cmですから 身長は平均値でしょう。

別頁で、

思春期より突発性脊柱側弯症を発症し、脊柱変形が次第に重度となった。そのため姿勢が崩れて弓馬・刀槍などの武術はもとより、藩主として長時間の儀式や会見に臨むのが困難になった。
戦乱の世を生き抜いた武門の家柄の当主が肉体的障害で藩政がおろそかになってはストレスがつのるばかりである。重圧に耐えかねたつなむ綱宗は遊蕩の巷にでかけはじめた。以下略

1710年(宝永7年)冬から歯茎が痛み出し、年が明けると食欲不振に陥り、次第にルイソウ(漢字記載ですがPCでは探し出せません)が目立ってきた。1711年6月4日、歯肉癌で没した。亨年72.

とあります。ご参考までに。



6 月 4 日 (土)  



綱宗公306遠忌法要

綱宗公御霊屋 善応殿 で催されました。

開式 10時 
 
読経 正宗山瑞鳳寺 住職 副住職

焼香 1.仙台伊達家十八代当主      伊達 泰宗 様
    2.殉死者後裔会会長        加藤 孝  様
    3.仙台藩志会副会長        佐藤久一郎様 
    4.伊達家御廟大年寺会副会長  建宮 文雄 様
    5.公益財団法人瑞鳳殿事務局長 富田 律男 様

挨拶 1.仙台伊達家十八代当主      伊達 泰宗 様
    2.仙台藩志会副会長         佐藤久一郎様 
    3.公益財団法人瑞鳳殿事務局長 富田 律男 様

閉式 10時30分

仙台藩志会副会長佐藤久一郎 挨拶 

仙台伊達家三代綱宗公は万治元年(1658)忠宗公の死去に伴い19歳で家督を相続されましたが、故あって21歳で江戸品川屋敷に隠居され半世紀を芸術三昧に過ごされました。

和歌・書画・能・茶道などの文芸に励まれ、特に絵画は鹿野探幽に学び、人物、山水画に大作があり、何も優れたものと言われています。蒔絵・彫刻・陶芸にも長じ、國包(クニカネ)に学んで刀剣を作るなど万迎芸に異才を発揮されました。

登米市の登米懐古館に所蔵される長さ44.8cmの脇差には「綱宗造」の銘があり、仙台藩の刀工、三代安倫(ヤストモ)が相槌を打ったとつたえています。

綱宗公が自ら培われた絵画や刀剣等、伊達文化の素晴らしさに私たちは300年の時を超えて触れる事が出来ます。

仙台藩志会は歴代公の遺徳を顕彰し、その歴史、文化、思想を学ぶ事業を展開しております。綱宗公が半世紀にわたり培われた伊達文化を後世に伝え、語りついでにいくことをお誓い申し上げ ご挨拶とします。


蛇足
1.昨日の熊騒動で 仙台市公園課の「熊目撃情報がありま」の警告板が 要所に掲示されました。
2.参列者から 「本当に熊が出たのか、誤認でないか」 の発言が相次ぎました。

3.法要参列の引出物の栞は「綱宗公と歯にまつわる話」。
4.綱宗公は、下顎歯肉癌」で亡くなっています。また、6月4日は「虫歯予防日」でもあることからです。

5.内容は、歯ブラシ、楊枝、遊郭まで至っています。興味津々の話題です。
6.善応寺様 不参加でした。寺務と競合したのでしょうか?友引ですが?




午後 

薬師堂駅界隈の歴史講座に

主催 仙台市教育委員会
共催 陸奥国分寺・薬師堂ガイドボランティア会
表題 伊達政宗と陸奥国分寺薬師堂
講師 文化財課主事 川后のぞみ

概要 先生は文化財課では異色。 広島大学建築関係卒で、その立場から 仙台城大広間から瑞巌寺本堂に至る 政宗公の桃山様式の建築物に ついて 具体的に部材の組方まで解説されました。

これまでの 歴史・美術の講義と異なる視点からの解説で、聴講者が完全取得すれば 瑞鳳殿のガイドでのガイドの迫力は一段と向上するでしょう。
講演後、瑞鳳殿ガイドの会、仙台藩志会伊達学塾での講演を企画したい。その節は よろしく とお願いしました。快諾頂きました。

この講座に 瑞鳳殿ガイドの会会員が6人参加していました。内4人が 綱宗公306遠忌法要に参列者です。行動力に感服。



6 月 3 日 (金)  



経ケ峰に熊

9時15分頃 瑞鳳寺境内 学校法人瑞鳳学園おたまや幼稚園 南側竹林に 体長約1mの熊を発見された。
警察で捜索したが発見出来なかった。

参道脇の飲食店主は「年に1,2回目撃情報がある」と語っている。

以上の内容が 河北新報夕刊に掲載しています。


あかとんぼ は 飲食店主の目撃情報は 初めて聞きました。
これまで お客様に 「熊は出ません。カモシカは 出ます」と伝えていました。





戦国武将らに使われてきた手書きのサイン「花押(かおう)」が遺言書に必要な「印」にあたるかが争われた訴訟の上告審で、最高裁第2小法廷(小貫芳信裁判長)は3日、「花押は押印とは認められない」とし、遺言書を無効と判断した。
2016.06.03. WEB16時配信(読売新聞)





引両全て伊達家の家紋か?

昨日 米澤に行きました。
四ツ谷用水を景観として復元する市民運動を盛り上げる方策として
上杉家が施工した
堰と水路(蛇堤・直江石堤・御入水堤・猿尾堰・切腹堰・帯刀堰・木塲川)を見学・勉学する会でした。

講師は 新関昌利氏 (四ツ谷用水研究では 佐藤昭典氏と双璧)
現地案内は おしょしなガイド (非ボランテイア) 84歳 女性

詳しい資料 ガイドの十分な事前調査から 勉強になりました。


疑問は、

1.上杉家は、浅野家旧臣の吉良家襲撃に対する責を問われ、家禄が半減した。家臣の生活安定のため、公共事業を 家老 直江兼続が推進した。この旨のガイドの説明、説明板が充満していました。殿様の名前が 1度も出てきません。

 治世の責任者である 殿様 上杉景勝を ないがしろに していませんか?
 時系列を無視した説明に聞こえました。


2.オマケとして、籏本山館山(カンザン)寺に、伊達家の墓碑があると案内されました。
 円筒形の僧侶の墓碑群の端に 40cm角の米沢特有の石造りの鞘堂に(縦二引両)が深く刻まれていました。

 ガイドは、この寺の創建は伊達家で、この紋は伊達家の家紋であり 伊達家の墓碑である と説明しました。

これについて即 あかとんぼ のおもい(次項から 納得されません)と伝えました。

1.本寺の創建は伊達家ではない。家臣です。
2.15世晴宗は 天文17年(1548)米澤城に移った。館山城が米澤城であった確証はない。
3.15世晴宗は 天正5年(1577)12月59歳で卒、現福島市 琥珀山寶積寺に葬られた。ここでは無い。
4.16世輝宗は、天正12年(1584)館山城に隠居
 天正13年(1585)安達郡高田原で42歳で卒、 現 高畠町 慈雲山資福寺に葬られた。ここでは無い。
5.側室・子供が葬られたのか?
6.伊達家の家紋は(縦三引両)で 二引両ではありません。
7.本寺には 仙台藩志会用務等で 3度参詣し、住職と懇談していますが、係る事柄は全く語られませんでした。


なお。
現地案内の おしょしなガイド はメンバーは30人程、当番制でとの事。
高齢で 歩行速度は遅いです。我慢できない人達は 先行しました。
(私は お客様に遅れを取らないを基本。遅れを取った時は引退の潮時)


瑞鳳殿ガイドは 非当番制です。各人の裁量です。
昨日午後は 瑞鳳殿では 新人 (業界ではベテラン)の Mさん。自称新人研修に行ったが 他の仲間が不在で 世界の方々を連続ガイドされたと メールがありました。

三宝両得で よかったです。





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